倭・百済・伽耶を結ぶ海域世界と古代国家形成
- 序章 前方後円墳の謎を、なぜ縄文から考えるのか
- 第一部 国家より先にあった海の文化
- 第一章 縄文列島と朝鮮半島南部を結んだ海
- 第二章 「海を渡った弥生文化」――半島南部に列島系文化は存在したのか
- 第二節 「海の向こうの弥生土器」――物が渡ったのか、人が渡ったのか
- 第三節 「土器の中身」――海を渡ったのは器か、食料か
- 第四節 「似た土器」の正体――運ばれたのか、現地で作られたのか
- 第四節 「似た土器」の正体――運ばれたのか、現地で作られたのか
- 第五節 「海の向こうで暮らす」――交易者は滞在者・居住者になったのか
- 第一節 「史実か神話か」だけでは見えない――『記紀』と考古学をどう重ねるか
- 第二節 「なぜ神武は西から大和へ向かったのか」――東征伝承と海域ネットワーク
- 第三節 「神武が来る前、大和には何があったのか」――長髄彦・饒速日伝承が示す先行勢力
- 第四節 「なぜ戦争より婚姻が残ったのか」――欠史八代を王権定着期として読む
- 第五節 「なぜ磯城・師木との婚姻が繰り返されるのか」――王統と在地勢力を結ぶ血縁
- 第六節 「なぜ崇神になると王は外を向くのか」――王権定着から広域化へ
- 第七節 「なぜ疫病が王権の危機になるのか」――崇神伝承に見る祭祀秩序の再編
- 第八節 「人と負担を把握する王」――王権は社会の余剰へどこまで関与したのか
- 第九節 「船は天下の要用なり」――海洋技術はいつ王権の力になったのか
- 第十節 「なぜ二人の『始まり』がいるのか」――神武と崇神を二段階で読む
- 十一節 「考古学側にも二つの『始まり』があるのか」――纒向から巨大前方後円墳へ
- 第十二節 「王がいたか」ではなく「王権はどこまで届いたのか」――神武から崇神までを段階で読む
- 第一節 「大和の王権」から「列島を動かす王権」へ――もう一段階が必要である
- 第二節 「なぜ西と東の双方へ向かうのか」――ヤマトタケル伝承の地理が語るもの
- 第三節 「なぜ熊襲と出雲なのか」――西征伝承が映す強い地域社会
- 第四節 「なぜ敵の名を受けて『倭建』になるのか」――征服ではなく権威の吸収という物語
- 第五節 「なぜ東征の入口に尾張があるのか」――東海は通過点ではなく有力政治圏だった
- 第五節 「なぜ東征の入口に尾張があるのか」――東海は通過点ではなく有力政治圏だった
- 第七節 「東国は征服されるだけの辺境だったのか」――大型古墳が語る地域首長の力
- 第八節 「一人の英雄は、どうやって列島を動けたのか」――遠征を支える余剰力と広域動員
- 第九節 「なぜヤマトタケルは王にならないのか」――王と遠征者を分ける物語
- 第十節 「ヤマトタケルを史実化しなくても何が見えるのか」――列島統合の記憶をどう読むか
- 第一節 「海を渡る人」と「国家が海を越えること」は同じではない――交流と政治の境界
- 第二節 「なぜ鉄は倭人を半島へ向かわせたのか」――交易資源が政治課題へ変わるとき
- 第三節 「土器がある」から「人が暮らした」へ――倭系遺物はどこまで人の移動を語れるのか
- 第四節 「なぜ半島南岸に倭系の人々が集まったのか」――港がつくった海域社会
- 第五節 「なぜ交易路が王権の問題になったのか」――鉄・港・航路を守る政治
- 第六節 「なぜ一本の刀が外交史料になるのか」――七支刀に現れた王権と王権の関係
- 第七節 「なぜ百済の王太子が倭にいたのか」――腆支が示す王権外交の深まり
- 第八節 「倭はいつ外交相手から軍事的な相手へ変わったのか」――広開土王碑が示す四世紀末の転換
- 第一節 「敵は倭をどう見たのか」――高句麗側の碑文から四世紀末を読む
- 第二節 「なぜ新羅は高句麗へ救援を求めたのか」――三九九年に見える倭の軍事的存在感
- 第三節 「五万という数字は何を意味するのか」――四〇〇年戦役を兵力・戦場・兵站から読む
- 第四節 「なぜ高句麗軍は任那加羅方面まで進んだのか」――新羅・加耶・海峡を結ぶ軍事空間
- 第五節 「なぜ敗れた倭が四年後に再び現れるのか」――四〇四年条が示す継戦力
- 第六節 「広開土王碑の『倭』とは誰なのか」――民族名でも大和直属軍でも決めつけない
- 第七節 「倭は何を守るために高句麗と戦ったのか」――領土より先に海域秩序を見る
- 第八節 「広開土王碑から何が言えて、何が言えないのか」――倭の軍事力を過大にも過小にも評価しない
- 第一節 「五人の王は突然現れたのか」――四世紀の軍事活動から五世紀の外交へ
- 第二節 「なぜ倭王讃は宋へ向かったのか」――四二一年から始まる五世紀外交
- 第三節 「なぜ倭王珍は半島諸国の名まで称号に入れたのか」――四三八年に現れた海域政治の主張
- 第四節 「なぜ倭王は家臣の官爵まで宋へ求めたのか」――外交に現れた王権内部の序列
- 第五節 「なぜ宋は済に広域的な軍事称号を認めたのか」――四五一年に変わった倭王の国際的位置
- 第六節 「なぜ百済だけが外されたのか」――倭王の主張と宋の国際秩序
- 第七節 「なぜ宋は倭王の王統まで把握できたのか」――済から興へ、継承される王権
- 第八節 「倭王武は何を語ったのか」――四七八年上表文に現れた列島統合と海北
- 第九節 「なぜ埼玉と熊本に大王名が現れるのか」――金石文から見る五世紀後半の列島王権
- 第十節 「海を渡る力は、どのように王権の力へ変わったのか」――倭の五王から半島前方後円墳へ
- 第一節 「突然現れた墓」ではない――半島前方後円墳を長期史の中に置く
- 第二節 「前方後円墳の前に何があったのか」――五世紀前半の倭系古墳
- 第三節 「なぜ加耶には前方後円墳がほとんど現れないのか」――交流の深さだけでは墓制は説明できない
- 第四節 「なぜ墓は海と川の近くに築かれたのか」――立地から見る前方後円墳の政治基盤
- 第五節 「栄山江流域は空白地帯だったのか」――前方後円墳以前の在地社会を見る
- 第六節 「前方後円墳はそのまま移植されたのか」――墳丘・石室・副葬品に見る複合性
- 第七節 「巨大な墓を支えた力はどこから来たのか」――前方後円墳を造る余剰力と地域社会
- 第八節 「なぜ前方後円墳は一代的・短期的に終わったのか」――墓制の消滅から政治環境を読む
- 第九節 「誰が葬られたのか」――倭系か在地かという二択を越えて
- 第十節 「半島前方後円墳は結局、何を示しているのか」――墓から海域政治を読み直す
- 第一節 「ここから歴史の向きが反転する」――拡大から再編へ
- 第二節 「加耶は一日に滅びたのか」――海域世界の再編はゆっくり進んだ
- 第三節 「五三二年、何が失われたのか」――金官加耶と海上交易の結節点
- 第四節 「五六二年、加耶諸国の時代が終わる」――多極的な海域秩序はどこへ行ったのか
- 第五節 「国家が滅びても社会は残る」――政治体と人・技術を分けて考える
- 第六節 「六六〇年、百済で本当に滅びたものは何か」――王朝崩壊と社会の存続
- 第七節 「なぜ倭は王まで送り返したのか」――豊璋と百済復興戦争
- 第八節 「なぜ倭はこれほどの資源を投入できたのか」――百済復興戦争を支えた列島国家
- 第九節 「白村江で失ったのは艦隊だけだったのか」――旧来の海域政治の終焉
- 第一節 「国家が滅びた翌日、人々はどこへ行ったのか」――国名の消滅と人間の移動
- 第二節 「加耶の鉄と工人は消えたのか」――新羅への吸収と技術継承
- 第三節 「百済王朝がなくなっても百済人は残る」――王族・官人・工人の離散
- 第四節 「なぜ倭へ渡ったのか」――亡命だけでは説明できない人材移動
- 第五節 「移住者は文化をそのまま運んだのか」――技術移転と現地化
- 第六節 「築城技術はどこへ向かったのか」――白村江後の列島防衛
- 第七節 「文字・行政・工人も国家資源だったのか」――専門職層の再配置
- 第八節 「受け入れただけでは技術は残らない」――需要と再生産の仕組み
- 第九節 「文化の本流とは何か」――民族ではなく継承される能力を見る
- 第一節 「前方後円墳はなぜ終わったのか」――巨大古墳の終焉を「衰退」で説明しない
- 第二節 「巨大古墳が消えても、動員力は消えなかったのか」――墓の縮小と国家事業の拡大
- 第三節 「墓から寺院へ」――余剰は死者の権威から生きた社会へ向かう
- 第四節 「墓から宮都へ」――死者の権威から、生きた王権を動かす空間へ
- 第五節 「墓から城へ」――白村江後、余剰は列島防衛へ向かった
- 第六節 「墓から工房へ」――余剰は「造る力」から「作り続ける力」へ変わった
- 第七節 「墓から文書へ」――国家力は「見える権威」から「見えない管理」へ入っていく
- 第八節 「一度集めた力を、どう次の力へ変えたのか」――一回限りの余剰から再生産される余剰へ
- 第九節 「前方後円墳の消滅は、国家形成の一部だったのか」――墓を必要としない政治へ
- 第一節 「墓より先に、海があった」――前方後円墳から縄文へ戻る
- 第二節 「国家より先に蓄積されたものは何だったのか」――弥生の交易と滞在が残したもの
- 第三節 「技術と余剰は、いつ政治力へ変わったのか」――海域社会から首長社会へ
- 第四節 「社会が王を作り、王も社会を作った」――共立王から恒常的王権へ
- 第五節 「王権は、どうやって列島全体から見える存在になったのか」――前方後円墳という政治のかたち
- 第六節 「列島を束ねた王権は、なぜ海の向こうへ向かったのか」――前方後円墳体制から外交・軍事へ
- 第七節 「前方後円墳は、なぜ海の向こうへ渡ったのか」――半島南西部に現れた政治表象
- 第八節 「前方後円墳が示したのは『民族』か、それとも『政治関係』か」――墓から人間関係を読む
- 第九節 「なぜ半島の前方後円墳は、限られた時期にしか現れなかったのか」――墓制の消滅から政治秩序を読む
- 第十節 「前方後円墳とは何だったのか」――海から始まった国家形成の結論
序章 前方後円墳の謎を、なぜ縄文から考えるのか
朝鮮半島西南部には、五世紀後半から六世紀前半にかけて、日本列島の前方後円墳と同じ基本形をもつ古墳が築かれている。
この事実だけを見れば、問いは比較的単純である。
なぜ朝鮮半島に前方後円墳があるのか。
倭人が渡って築いたのか。
在地の首長が倭の墓制を採用したのか。
百済と倭との政治関係を示したものなのか。
実際、栄山江流域の前方後円墳については、倭系人物を被葬者とする見方と、倭・百済双方と関係を持った在地首長層によるものとする見方が存在する。また墳丘の設計には前方後円墳としての共通性が認められる一方、実際の盛土などには在地の古墳築造技術も利用されていた可能性が指摘されている。つまり、単純な「倭人の墓」か「半島人の模倣」かという二者択一では説明できない。
しかし、本稿ではここからさらに一歩遡って考えたい。
そもそも、列島と朝鮮半島南部との関係は、前方後円墳が造られた五世紀に始まったものなのだろうか。
答えは否である。
釜山・金海を含む朝鮮半島東南海岸の新石器時代遺跡からは、日本列島の縄文土器や黒曜石が確認されている。韓国国立金海博物館も、これらを九州地域との交流を示す資料として展示している。逆方向には、朝鮮半島産の貝製品が列島へ渡っている。つまり百済も新羅も加耶も倭国もまだ成立していない時代に、すでに対馬海峡を越える双方向の交流が存在していたのである。
ここは、本稿全体を考えるうえで決定的に重要である。
私たちは古代史を見るとき、つい後世の国家名を地図の上に置いてしまう。
百済がある。
新羅がある。
加耶がある。
海の向こうには倭がある。
そして「百済から倭へ技術が伝わった」「加耶と倭が交易した」と考える。
しかし時間をさらに遡れば、その国家はまだ存在しない。
国家より先に海の道があったのである。
しかも海を越える交流は、海岸に舟を浮かべれば成立するものではない。
舟を造る木工技術が必要である。
海流と潮汐を読む知識が必要である。
風と天候を判断する経験が必要である。
航路上の島や港を知る必要がある。
航海者が生産活動から離れている間、彼らを支える食料が必要である。
そして、危険を冒して海を渡るだけの交換物資と利益が必要である。
つまり継続的な海上交流が存在したということは、列島側にも半島南岸側にも、それを支える技術・生産・余剰・伝承の体系が存在していたことを意味する。
本稿では、この国家成立以前の世界を便宜上「列島―半島南部の海域文化圏」と呼ぶ。ただし、これは後世の民族国家のような領域を意味する言葉ではない。九州・壱岐・対馬・半島南岸をまたいで、人、物、技術、知識が往還していた海域社会を示す分析上の概念である。
重要なのは、この海域文化がその後消えてしまったのではないという点である。
弥生時代になると、大陸から水田農業、金属器など新たな技術が流入する。しかし、それは何も存在しない列島へ突然「文明」が与えられたということではない。列島にはすでに木工、漁撈、航海、土器、漆、地域間交易などの技術的蓄積があった。その基盤へ新しい技術が接続されたのである。
そしてここから、本稿の第二の問いが生じる。
中国大陸から朝鮮半島を経由して列島へ入った技術を、実際に運んだ人々は誰だったのか。
「半島を経由した」という地理的事実と、「半島の特定民族が列島人へ一方向に教えた」という人的関係は同じではない。
海峡を何世代にもわたって往還していた人々がいたならば、半島南部で活動した列島系の海民、交易者、工人、あるいは両地域にまたがる混合集団が、技術の移動に関与した可能性も検討しなければならない。
そして列島へ入った技術も、そのままの形で保存されたわけではない。
水田農業は鉄器と結びつく。
鉄工具は木工能力を高める。
木工は建築と造船を発展させる。
造船は物流を広域化する。
物流は大量生産を可能にする。
窯業・金工・土木は専門工人を生み、増加した生産余剰は巨大建設や軍事動員を可能にする。
すなわち、
農業 × 鉄 × 木工 × 窯業 × 土木 × 造船 × 物流 × 行政
という複数の技術が相互に作用することで、列島社会には一種の「古代的工業化」と呼び得る複合生産体系が形成されていった。
この変化を無視して、「どの技術がどこから伝わったか」だけを論じても、倭国の形成は理解できない。
そして列島側で生産力と余剰力を増した倭は、やがて単なる交易相手ではなく、朝鮮半島南部の政治そのものに関与する存在となる。
五世紀前半の朝鮮半島西・南海岸には、北部九州の墓制を総体的に採用した「倭系古墳」が確認されている。高田貫太は、その被葬者について、百済や栄山江流域との交渉を実際に担った倭系渡来人と評価している。その後、五世紀後半から六世紀前半になると、栄山江流域には前方後円墳が出現する。つまり前方後円墳の前にも、倭系人物と海上交通の痕跡がすでに存在しているのである。
ここに文献史料を重ねれば、さらに大きな問題が浮かび上がる。
広開土王碑には軍事勢力としての倭が現れ、五世紀の倭王は中国南朝の宋に対し、半島南部諸地域に関係する軍事的称号を繰り返し要求する。
したがって本稿では、
縄文期の海上交流
から
弥生期の物資・人・技術の往来、
さらに
倭系人物の居住と墓制、
そして
倭王権の政治・軍事的関与
へと、
関係の性質がどのように変化したのかを時間軸に沿って追う。
そうして初めて、半島の前方後円墳を歴史の中に置くことができる。
前方後円墳は、単なる墓の形ではない。
巨大な墳丘を設計し、土を運び、石室を築き、必要な資材と工具を生産し、多数の労働者へ食料を供給し、それらを統率する政治力がなければ造ることはできない。栄山江流域の前方後円墳についても、墳丘企画、整地、盛土、埋葬施設、外表施設などを組み合わせた明確な築造工程が研究されている。
したがって前方後円墳は、墓制であると同時に、
その社会がどれだけの技術力・組織力・余剰力を持っていたかを示す巨大な物証
でもある。
ならば、さらに問わなければならない。
それほどの社会的余剰を生み出した文化は、どこから来たのか。
百済・新羅・加耶という国家が成立してから突然生まれたものなのか。
それとも、国家成立以前から半島南部と列島との間に蓄積されていた海域文化・生産文化・技術文化を、後の国家が取り込み、再編し、国家能力へ変えたものなのか。
そして、本稿は前方後円墳で終わらない。
加耶が消滅し、百済が滅亡し、663年の白村江敗戦によって倭国が半島から軍事的・政治的に撤収したとき、それまで半島南部を支えてきた人、技術、市場、交易網、そして余剰を生み出す仕組みはどうなったのか。
ここで本稿では、文化の持続性を測るために四つの力を見る。
継戦力――社会・国家活動を長期間維持する力。
継承力――制度や生産基盤を次の時代へ渡す力。
伝承力――技能と知識を次世代へ伝える力。
転換力――受け継いだ文化を新しい技術・産業・社会制度へ組み替える力。
そのすべてを支える基礎が、余剰力である。
本稿が追うのは、民族の優劣ではない。
文化の本流である。
一度高度なものを作ったかではなく、その文化を維持し、次代へ渡し、別の形へ変えながら生き残らせることができたのか。
前方後円墳を造ることのできた半島南部の社会。その背後にあった海域文化と余剰力。そして七世紀の大再編後、その文化の幹はどこへ続いたのか。
その答えを求めるなら、五世紀だけを見ていては足りない。
前方後円墳の謎を解くには、海を渡った縄文人の時代まで遡る必要があるのである。
第一部 国家より先にあった海の文化
第一章 縄文列島と朝鮮半島南部を結んだ海
第一節 対馬海峡は「国境」だったのか
現在の地図を眺めれば、日本列島と朝鮮半島の間には明瞭な国境がある。日本と韓国という二つの国家が存在し、その間を海が隔てている。
しかし、この感覚をそのまま縄文・新石器時代へ持ち込むことはできない。
当時、もちろん「日本」も「韓国」も存在しない。後世の百済・新羅・加耶・倭といった政治勢力も、まだ成立していない。
そこには、九州北部、壱岐、対馬、朝鮮半島南岸という、それぞれ異なる生活圏をもつ地域社会が存在し、その間には海を介した交流が成立していた。
そして考古資料は、この海が人々の移動を完全に遮断する壁ではなかったことを示している。
釜山東三洞など朝鮮半島東南海岸の新石器時代遺跡からは、日本列島の縄文系土器が出土している。金海周辺では黒曜石も確認され、国立金海博物館は、これらを九州地域との交流を示す資料として位置づけている。
一方、朝鮮半島から列島へ渡った貝製腕輪なども確認されている。
つまり、物資の流れは一方向ではなかったのである。
古澤義久の研究では、縄文時代の玄界灘島嶼域と韓半島南部との土器文化交流が検討され、とりわけ対馬が重要な接点であったことが指摘されている。
さらに重要なのは、縄文期の交流と弥生早期の交流が、まったく同じ性格のものではなかったことである。
海を越える交流そのものは古くから存在していた。しかし、その交流の内容や性格、主要な渡航先は、時代の変化とともに変わっていった。
ここは本稿にとって重要である。
本稿は、「縄文時代から同じ民族集団が朝鮮半島南部を支配していた」と主張するものではない。
また、土器や石器などの移動だけから、民族的同一性や政治的支配関係を導き出すこともできない。
本稿がここで確認したいのは、もっと基礎的な事実である。
後世の国家が成立するはるか以前から、列島と朝鮮半島南部との間には、人と物が海を越えて移動する世界が存在していた。
この事実は、後の時代を考えるうえでも重要である。
百済・新羅・加耶・倭といった政治勢力が史料上に姿を現す以前から、人々は海を渡り、物資を運び、異なる地域社会の間を結んでいた。
したがって、その後の列島と朝鮮半島南部との関係を考える際にも、国家が成立した時点だけを歴史の出発点とすることはできないのである。
第二節 縄文土器・黒曜石が示す海上交流
土器や黒曜石が海の向こうから発見されたとき、まず確認できるのは「物が移動した」という事実である。
しかし、物は自分では海を渡らない。
誰かが運んだのである。
だからといって、縄文土器一点の発見から「縄文人が定住していた」と判断することもできない。贈与、交換、交易、漂着、第三者による運搬など、複数の可能性があるからである。
重要なのは、単独の遺物ではなく、その分布、数量、年代、出土状況を重ねることである。
東三洞の縄文系土器、九州由来と考えられる黒曜石、半島から列島へ渡った貝製品、そして対馬を中心とする双方の土器分布を合わせて考えると、少なくとも一回限りの偶発的接触だけでは説明しにくい。
九州北西部と朝鮮半島の新石器文化については、漁撈具の系譜から両地域の「漁撈文化圏」を検討した研究もあり、九州側で成立・改良されたと考えられる石製漁具が半島側へ持ち込まれた可能性も論じられている。
つまり、すでにこの段階から「大陸から列島へ」だけでは説明できない文化移動が存在する。
ここから見えてくるのは、国家以前の海である。
後世の国境を消して地図を眺め直せば、
九州北部
―壱岐
―対馬
―釜山・金海を含む半島南岸
は、海によって隔てられた地域というより、海によって接続された地域として見えてくる。
本稿では、この関係を便宜上「列島―半島南部の海域文化圏」と呼ぶことにする。
ただし「文化圏」とは、一つの政治権力や一つの民族が領有していた領域を意味しない。
人、物資、技術、情報が継続的に往還することによって形成された、海を中心とする接触領域という意味である。
第三節 海を渡る社会には何が必要だったのか
一 造船と木工技術
海上交流を考える際、遺物の移動だけを見ていてはならない。
海を越えるためには、まず舟が必要だからである。
半島側では、新石器時代の飛鳳里遺跡から舟や櫂に関係する資料が知られ、国立金海博物館でも新石器時代の舟が復元展示されている。すなわち、朝鮮半島南岸には早い段階から水上交通を可能にする技術が存在していた。
列島側でも、縄文社会には大型木材を加工する技術があり、丸木舟を用いた漁撈や水上移動が行われていた。
ここで重要なのは、
「丸木舟が存在した」
という一点ではない。
一本の舟を継続的に利用するためには、適した木材を選び、伐採し、加工し、船体を成形し、破損すれば補修しなければならない。
さらに実際に海へ出るためには、
乗員を確保する。
櫂などの道具を作る。
食料と水を積む。
交換する物資を準備する。
という別の作業も必要になる。
したがって造船とは、単独の技術ではない。
木材利用
+木工
+道具製作
+舟艇製作
+補修
+物資準備
+人員確保
が結びついた複合技術である。
縄文期にすでに海を越える物資移動が反復していたのであれば、その背後には、この複合技術を維持できる社会的基盤が存在したと考える必要がある。
二 海流・風・航路の知識
しかし、舟があれば海を渡れるわけでもない。
対馬海峡には海流があり、風向きも変化する。海況は季節や天候によって大きく異なる。
どの時期に出航するのか。
どの島を目標にするのか。
悪天候になった場合、どこへ退避するのか。
どの湾なら安全に上陸できるのか。
どこで水を補給できるのか。
こうした知識は、一度の航海だけで完成するものではない。
航海が長期間にわたり反復されていたのであれば、経験によって得られた知識が次の航海へ利用され、さらに次の世代へ継承されたと考えるのが自然である。
本稿では、この能力を便宜上、
航海知識の伝承力
と呼ぶ。
海を渡る技能が一人の航海者だけに属していたのであれば、その人物が失われた時点で航路も途絶える。
しかし、土器や黒曜石などの移動が複数の時期に確認されるのであれば、少なくとも一部の地域社会では、海を利用するための知識と経験を集団として蓄積する仕組みがあった可能性を考える必要がある。
つまり海とは、単なる障壁ではなかった。
経験を蓄積することによって利用できる交通路であった。
三 航海を支える余剰力と組織力
ここで、もう一つ重要な問題が生じる。
舟を造り、海へ出るには人と時間が必要である。
航海中の人間は、その期間、日常的な食料獲得活動から離れる。
舟を製作・補修している者も同様である。
航海そのものが漁撈を兼ねる場合もあったであろうが、遠隔地との交流を反復するのであれば、舟の準備、物資の確保、乗員の確保など、日常生活とは別の労働を必要とする。
ここに、本稿で重視する**「余剰力」**の原型を見ることができる。
余剰とは、単に食料が余っているという意味ではない。
本稿では、
人・時間・物資を、当面の生存に直接必要な活動以外へ振り向けられる能力
を余剰力と考える。
舟を造る。
海を渡る。
航路を調べる。
交換物資を集める。
それを対岸まで運ぶ。
そして持ち帰った物資を地域社会へ再び分配する。
これらの活動を繰り返すには、航海者個人の技能だけでは足りない。
その活動を支える社会が必要である。
したがって海上交流の物証は、単に「航海技術が存在した」ことだけを示しているのではない。
その背後に、
人と資源を海上活動へ振り向けることのできる社会的余力
が存在した可能性を示している。
四 交流を継続する社会的ネットワーク
海を渡ったとしても、対岸に相手がいなければ交流は成立しない。
どの湾へ行けば人がいるのか。
どの地域で何が得られるのか。
何を持っていけば交換が成立するのか。
再び訪れたとき、誰を頼ればよいのか。
こうした情報は、物資そのものとは異なるが、海域交流を継続するうえで重要な資源であったはずである。
したがって海上交流とは、
舟を操る技術だけではなく、海の向こう側との関係を維持する仕組み
でもあったと考えられる。
ただし、ここで注意しなければならない。
縄文・新石器時代に形成された具体的な交流関係が、そのまま後世の倭・加耶・百済の関係へ連続したと確認できるわけではない。
時代が変われば、交流する地域も、物資も、政治状況も変化する。
本章で確認できるのは、より基本的な事実である。
国家成立以前から、列島と朝鮮半島南部との間には、海を越えて人と物を移動させる技術と経験が蓄積されていた。
そして、その交流を反復するための社会的基盤も存在したと考えられるのである。
五 海を渡った人々は、どこに属していたのか
ここで、これまでの議論から一つの新しい問いが生じる。
海を渡った人々は、いったいどこに属していたのか。
縄文時代の航海者の名前は残っていない。
どの人物が、どの舟に乗り、どの共同体を代表して対岸へ渡ったのかを直接示す史料もない。
したがって、縄文期の航海者を後世の特定氏族や政治勢力へ直ちに結びつけることはできない。
しかし一方で、彼らを社会から完全に切り離された個人として考えることにも問題がある。
舟を造るには木材が必要である。
加工する人間が必要である。
航海には複数の乗員が必要になる場合がある。
食料や水を用意し、交換物資を積み、一定期間地域を離れる。
そして帰還すれば、持ち帰った物資や情報は地域社会へ戻ってくる。
この構造を考えれば、反復的な海上交流は、
個人の偶発的な行動というより、共同体を背景とした組織的活動であった可能性
を検討する必要がある。
その共同体がどのような形であったのかは、時代や地域によって異なったであろう。
親族集団であった可能性もある。
一つの集落であった可能性もある。
複数集落を結ぶ地域社会であった可能性もある。
また、そこに一定の調整力を持つ有力者が存在した可能性も否定できない。
ただし、この段階で後世の「王」や制度化された「首長」をそのまま遡らせることはできない。
重要なのは、
舟を造り、人を送り、物資を動かすには、それを可能にする社会的主体が必要であった
という点である。
そしてこの問題は、弥生時代に入るとさらに重要になる。
水田農業が広がり、農業生産が増大する。
金属器が加わる。
専門的な工人が現れる。
地域間の物資移動が拡大する。
こうした変化によって社会の余剰力が増大すれば、海上交流へ投入できる人員・物資・時間も増える。
すると、
縄文期の海域交流を支えた地域共同体
は、
より大きな地域政治勢力を背景とする海上交流
へ変化していった可能性が生じる。
ここから本稿にとって重要な問いが始まる。
半島南部へ渡った列島系の人々は、単に「倭人」という一つの集団だったのか。
それとも、
北部九州、瀬戸内、吉備、河内、大和など、それぞれ異なる地域社会や政治勢力を背景とする人々
が海を利用していたのか。
現段階では、その一人ひとりの帰属を特定することはできない。
しかし、海上交流を可能にした列島側の主体を問わなければ、後に現れる倭国の形成過程を理解することもできない。
海を渡った人を見るだけでは足りない。
その人を送り出した社会を見なければならないのである。
そして弥生時代以降、考古資料と文献史料の双方から、列島各地の地域首長勢力が次第に姿を現してくる。
本稿第三部では、この問題を改めて取り上げる。
縄文以来の航海技術と海域交流を支えた社会的余力が、どのように地域首長の政治力へ変わり、さらに複数の地域勢力を束ねる王権へ転換していったのか。
その過程こそが、
海域文化から倭国へ
という本稿の次の大きな問題となる。
海を渡った人を見るだけでは足りない。その人を送り出した社会を見なければならない。
第四節 「海を使う列島社会」――技術は外から来る前からあった
一 「受け取る側」だけでは見えない
古代史を大きく眺めると、列島社会はしばしば大陸や朝鮮半島から新しい文化や技術を受け取った側として描かれる。
水田稲作。
金属器。
新しい土器製作技術。
馬。
文字。
制度。
これらの多くが列島外との交流によってもたらされたこと自体は否定できない。
しかし、ここで一つ注意しなければならない。
新しい技術を受け入れたことと、それ以前の列島社会に高度な技術や組織力がなかったことは同じではない。
縄文時代の海上交流を見ると、列島社会はすでに舟を造り、海を利用し、遠隔地から物資を得ていた。
つまり、新しい文化が到来する以前から、列島側にはそれを受け止めるだけの技術的・社会的基盤が存在していたのである。
二 舟は一つの技術ではない
丸木舟一艘だけを見れば、単純な木製品のようにも見える。
しかし実際には違う。
適切な樹木を選ぶ。
伐採する。
大型木材を加工する。
舟形に成形する。
櫂を作る。
必要に応じて補修する。
さらに海へ出るためには、乗員を確保し、食料や水を準備し、航路を知る必要がある。
したがって舟は、
木工技術
+道具製作
+航海知識
+漁撈技術
+物資準備
+人員組織
が結びついて初めて機能する。
舟の存在は、それを支える複数の技術と社会的能力の存在を意味している。
そして、海上移動が長期間にわたって反復していたのであれば、それらの技術もまた一世代限りではなく、継承されていたと考える必要がある。
三 海は「壁」ではなく「道」だった
列島は海に囲まれている。
現代の地図だけを見れば、それは周囲から隔てられた土地のようにも見える。
しかし、縄文社会の実態を見ると、その理解は必ずしも適切ではない。
沿岸部では漁撈が行われる。
島々の間で物資が移動する。
遠隔地産の石材が運ばれる。
対馬海峡を越えて土器や黒曜石などが移動する。
こうした事実を重ねれば、
海は人々を隔てる境界であると同時に、人々を結ぶ交通路でもあった
と考える方が実態に近い。
もちろん、すべての地域社会が同じように海を利用していたわけではない。
また、自由にどこへでも航海できたと断定することもできない。
それでも少なくとも一部の沿岸・島嶼社会では、海を計画的・反復的に利用する経験が蓄積されていた。
ここに、後世の海上交通を理解するための重要な基盤がある。
四 新しい技術は「ゼロの社会」へ入ったのではない
縄文から弥生への変化を、
「何もなかった列島へ、大陸から文明が入ってきた」
と理解してしまうと、列島側にすでに存在していた技術体系が見えなくなる。
実際には、
木工技術がある。
舟艇利用がある。
漁撈技術がある。
海上移動の経験がある。
遠隔地との物資交換がある。
それらを維持する社会的余力がある。
その上へ、水田農業や金属器、新しい生産技術が加わっていったと見るべきである。
つまり弥生社会は、縄文社会を完全に置き換えて突然成立したものではない。
既存の列島社会が持っていた技術・経験・人間関係の上へ、新しい要素が加わり、それらが組み合わされることで成立していった。
この視点に立つと、弥生時代の変化も単純な「外来文化の受容」ではなくなる。
受け入れる側にも、選択し、利用し、変化させる力が存在していたことになる。
五 次に問うべきは「誰が動いたのか」である
ここまでで、縄文期の列島社会が海を利用する技術と社会的基盤を持っていたことは確認できる。
しかし、まだ一つ大きな問題が残っている。
その海を、誰が動いたのか。
朝鮮半島南部から列島へ人や技術が移動した。
同時に、列島側からも人や物資が半島へ渡っている。
では、その人々はどの地域社会に属していたのか。
北部九州なのか。
対馬・壱岐なのか。
瀬戸内なのか。
吉備なのか。
河内なのか。
大和なのか。
縄文期には、その政治的帰属を具体的に知ることはできない。
しかし弥生時代へ進むと、人口、生産力、金属器、集落規模、墳墓などから、地域ごとの政治的まとまりが少しずつ見えるようになる。
すると次の問題が生じる。
海を渡っていた人々の背後に、どのような地域社会と政治勢力が存在していたのか。
第二章からは、この問いを弥生時代の資料によって追っていく。
列島と朝鮮半島南部を結んだ海域交流が、単なる物資移動から、どのように人の移動、技術移転、そして政治関係へ変化していったのか。
その過程を検証することで、やがて見えてくるのは、
「海を使う社会」が「海を使う政治勢力」へ変わっていく過程
である。
第二章 「海を渡った弥生文化」――半島南部に列島系文化は存在したのか
第一節 「一方向では終わらない」――稲作伝来のあと、海峡は双方向に動いた
一 「半島南部から北部九州へ」――まず動かしてはいけない出発点
弥生時代の列島と朝鮮半島南部との関係を考えるとき、最初に確認しておかなければならないことがある。
水田稲作の初期導入については、
朝鮮半島南部から北部九州へ
という流れを基本に考えるべきである。
国立歴史民俗博物館も、朝鮮半島から伝わった水田稲作がまず九州北部で始まり、そこから列島各地へ広がったと整理している。また同館の資料では、その伝播経路について朝鮮半島南部から北部九州へ至ったと推定されている。
本稿は、この流れを逆転させようとするものではない。
重要なのは、
「最初にどちらから伝わったのか」
という問題と、
「その後、海峡を挟んだ交流がどのように変化したのか」
という問題を分けることである。
二 「空白の列島」へ文明が来たのではない
しかし、朝鮮半島から水田稲作や金属器などの新しい文化要素がもたらされたからといって、それ以前の列島社会が何も持っていなかったことにはならない。
第一章で見たように、列島側にはすでに、
木材加工。
舟艇利用。
漁撈。
遠隔地との物資移動。
航海経験。
それらを反復する社会的基盤。
が存在していた。
したがって弥生文化の成立は、
「既存社会が消え、外来文化に置き換えられた」
という単純な出来事として見るべきではない。
国立歴史民俗博物館の年代研究でも、北部九州の弥生早期には、稲作を伴う新しい文化が入った後も、縄文晩期の土器と弥生土器が併用されていた可能性が指摘されている。縄文社会から弥生社会への移行は、少なくとも一部地域では段階的に進んだと考えられている。
つまり北部九州では、
縄文以来の列島側の技術・経験
の上へ、
水田農業・金属器・新しい土器文化などの外来要素
が加わったのである。
ここに弥生文化成立を考える重要な視点がある。
三 「受け取った側」が、やがて海を渡り返す
そして歴史は、ここで止まらない。
北部九州で水田稲作が定着し、新しい生産体系が形成されると、考古資料には列島側から朝鮮半島南部へ向かう移動も次第に明瞭に現れる。
国立歴史民俗博物館の展示でも、水田稲作とともに金属器が現れた後、北部九州の人々が青銅器や鉄器の原料を求めて海を渡り始めたことが示されている。
ここで海峡の意味が変わる。
初期段階では、
朝鮮半島南部 → 北部九州
という文化導入の大きな流れがある。
しかし、その後の海域交流を見れば、
朝鮮半島南部 ⇄ 北部九州
という双方向の関係を考えなければならなくなる。
ただし、これは最初から同じ規模・同じ目的で双方が往来していたという意味ではない。
時期によって、
渡った人。
運ばれた物。
航海の目的。
滞在期間。
交流する地域。
は変化したはずである。
したがって、単純な一本の矢印だけでは弥生時代全体を説明できないのである。
四 「伝来」と「交流」は同じではない
ここで用語を整理しておく必要がある。
水田稲作がどこから導入されたのかを論じることと、弥生時代を通じた列島―半島南部の海上交流を論じることは、同じ問題ではない。
前者は、
技術・文化の起源と導入経路
の問題である。
後者は、
人・物・技術が、その後どのように往復したのか
という問題である。
この二つを混同すると、
「稲作が半島から伝わった」
という事実から、
「弥生時代を通じて文化は一方向に流れ続けた」
という別の結論まで導いてしまう。
しかし、後者は考古資料によって別に検証しなければならない。
そして、その検証材料として重要になるのが、
朝鮮半島南部から出土する弥生系土器や、列島系の漁撈具などである。
物が渡っただけなのか。
人も渡ったのか。
短期間の滞在だったのか。
生活拠点まで存在したのか。
現地で列島系土器を作った人物までいたのか。
ここから第二章の本当の問いが始まる。
朝鮮半島南部に見える「列島系文化」は、何を意味しているのか。
次節では、その最初の物証である弥生系土器から検証する。
第二節 「海の向こうの弥生土器」――物が渡ったのか、人が渡ったのか
一 「土器がある」だけでは、人までは見えない
朝鮮半島南部から弥生系土器が出土する。
これは、列島と半島南部との関係を考えるうえで重要な事実である。
しかし最初に、証拠の強さを整理しておかなければならない。
弥生系土器が一点出土したからといって、
「倭人がそこに住んでいた」
と直ちに判断することはできない。
土器そのものが交換品として運ばれた可能性がある。
何かを入れた容器として運ばれた可能性もある。
列島から来た人物が持参した可能性もある。
あるいは、複数の人の手を経て運ばれた可能性もある。
したがって、弥生系土器からまず確認できるのは、
列島系の物質文化が朝鮮半島南部へ到達していた
ということである。
そこから人の移動まで論じるためには、
数量。
年代。
出土地点。
器種。
製作地。
生活遺構との関係。
他の列島系遺物との組み合わせ。
を重ねて見なければならない。
二 「短期間の居住」――土器研究から人の姿が見え始める
ここで重要なのが、石丸あゆみによる朝鮮半島出土弥生系土器の研究である。
石丸は、半島南部の複数遺跡と壱岐の原ノ辻遺跡を比較し、弥生系土器の様相を二段階に分けて日韓交渉の変化を検討している。
その結果、初期の段階では、弥生時代前期後半に交易中継地として成立した原ノ辻遺跡と、金海地域を中心とする朝鮮半島南部各地との間で、
短期間の居住を伴う小規模な交渉
が行われていたとする。
この点は重要である。
ここでは、単に土器が海を越えたというだけではない。
研究上、
人が海を渡り、一定期間対岸に滞在した可能性
まで具体的に検討されているのである。石丸論文では、後の段階になると西日本各地の集団が交易へ積極的に関与し、原ノ辻と勒島の間により集約された交易ルートが形成されたと論じられている。
現行原稿にも、この「短期間の居住を伴う小規模な交渉」という重要な指摘がすでに入っている。
三 「勒島」――海の途中に現れた交易拠点
石丸の研究でもう一つ重要なのが、勒島である。
勒島は、最初から唯一の交易拠点だったわけではない。
初期段階では半島側に存在した複数の交流拠点の一つであったとされる。
しかし交易が活発になると、その位置づけが変化する。
前漢による楽浪郡などの設置以後、東アジアの交易活動が活発化すると、北部九州沿岸を中心とする西日本各地の集団がより積極的に関与するようになる。
原ノ辻も交易拠点として発展し、勒島では弥生系土器の出土が増加する。
石丸は、この段階に、
原ノ辻―勒島間へ集約された交易ルートが形成された
と考えている。
ここから見えてくるのは、単純な、
列島 → 半島
という一本の移動ではない。
北部九州。
壱岐。
対馬。
金海。
勒島。
さらに西日本各地。
複数の地域を結ぶ海上ネットワークが形成され、その中を人と物が移動していたのである。
国立歴史民俗博物館も、弥生時代後期になると地域を越えた交流が活発になり、外部との交流を担う人物が現れたことを、東アジアの海域関係の中で展示している。
四 「土器の次に漁具を見る」――生活した痕跡なのか
さらに注目すべきなのは、土器だけではないことである。
半島南部からは、列島側との関係を考えさせる漁撈具なども確認されている。
ここで土器とは異なる意味が生まれる。
土器ならば、商品や容器として運ばれただけという可能性を残す。
しかし、漁具が実際に現地で使用されていたことを示す出土状況や組み合わせが確認できるならば、
その道具を使って現地で生業活動を行った人物
を考える必要が出てくる。
ただし、ここでも慎重さが必要である。
列島系漁具が存在するからといって、その使用者を直ちに特定の民族や政治集団へ結びつけることはできない。
列島から来た人物だったのか。
現地の人物が列島系の道具を採用したのか。
両地域を往来する海民だったのか。
それぞれ検討する必要がある。
したがって本稿では、
遺物の様式=人の民族的帰属
とは考えない。
見るべきなのは、その道具がどこで作られ、どこで使われ、どのような生活遺構と共伴しているかである。
五 「交易者」から「滞在者」へ――証拠は一段ずつ強くなる
ここまでの証拠を強さの順に並べてみると分かりやすい。
一点の列島系土器がある。
複数の列島系土器がある。
日常器種がまとまって存在する。
生活遺構から出土する。
列島系漁具など、生業活動に関わる道具も存在する。
現地材料を用いながら列島系技法で作られた製品が確認される。
こうして証拠が重なるほど、
「物だけが渡った」
という説明だけでは足りなくなっていく。
そして石丸が指摘したような短期間の居住を伴う交渉を重ねれば、
少なくとも弥生時代の一部の時期には、
列島側から半島南部へ渡り、一定期間そこに滞在しながら交易や生業活動を行った人々
の存在を検討できる段階に入る。
ただし、この人々をここで、
「倭国の海外居住民」
と呼ぶことはできない。
まだ統一的な倭国国家が、その意思によって海外拠点を設置したことを示す証拠ではないからである。
第一章で確認した問いが、ここでも戻ってくる。
彼らは、誰だったのか。
北部九州の集団なのか。
壱岐・対馬を拠点とする海民なのか。
より広い西日本の地域社会に属する人々なのか。
あるいは複数地域を往来する人々だったのか。
現時点では一つに決めることはできない。
しかし、少なくとも、
海を渡ったのは文化だけではなく、人でもあった可能性が高まってくる。
そして次に問わなければならないのが、
その人々は、海の向こうへ何を運んでいたのか
である。
弥生系の壺や甕は、土器そのものが交易品だったのか。
それとも、その中に別の物資が入っていたのか。
次節では、土器を「物」ではなく容器として見直してみる。
第三節 「土器の中身」――海を渡ったのは器か、食料か
一 「土器が渡った」と「中身が渡った」は同じではない
朝鮮半島南部から弥生系土器が出土する。
その事実からまず分かるのは、列島系の器物が海を越えたということである。
しかし、土器には二つの役割がある。
一つは、土器そのものが交換・贈答の対象となる場合である。
もう一つは、
何かを運ぶための容器
として使用された場合である。
壺や甕は、貯蔵、運搬、調理などに用いられる器種である。
したがって、半島南部で出土する弥生系土器についても、
土器そのものが運ばれたのか。
それとも、
土器の中に別の物資を入れて運んだのか。
という二つの可能性を区別しなければならない。
これは小さな違いではない。
前者ならば「器物の移動」である。
後者ならば、その背後に、
継続的な物資輸送
を考える必要が出てくるからである。
二 「米が入っていた」は、まだ言えない
ここでは特に慎重でなければならない。
壺や甕が出土したからといって、
「中には米が入っていた」
「酒を運んでいた」
「交易用食料を入れていた」
と断定することはできない。
実際の内容物を確定するには、付着物、残留物、炭化物などの分析や、出土状況を含む別の証拠が必要になる。
したがって、
弥生系壺・甕の出土=米の輸出
という式を、そのまま成立させることはできない。
ここは本稿でも線を引いておく。
ただし、
「この土器に何が入っていたか」
という個別問題と、
「当時、海峡を越えて食料が交易されていたか」
という歴史的問題は別である。
後者については、文献史料から検討できる材料が存在する。
三 「南北市糴」――米と鉄を結んだ海峡交易
『三国志』魏書東夷伝には、対馬・壱岐の人々について「南北市糴」と記される。
また弁辰条には、弁辰で鉄を産し、韓・濊・倭がこれを得ていたことが記されている。
東潮は、この二つの記事を関連づけて検討した。
東の解釈では、対馬・壱岐の集団は南方から米を買い入れ、さらに北方との交易を通じて鉄器・鉄素材を入手していたとされる。そして弥生時代後期には、水稲農耕の定着と農業生産力の増大によって生じた「余剰米」が、鉄素材との交換財として利用された可能性を論じている。
東潮の論文は、
東潮「弁辰と加耶の鉄」『国立歴史民俗博物館研究報告』第110集、2004年、31―54頁
である。書誌情報も国立国会図書館で確認できる。
これは本稿にとって重要である。
なぜなら、
半島から鉄が来た
という一方向の説明だけではなく、
列島側・島嶼側からも交換に供される物資が動いていた
可能性が具体的に見えてくるからである。
ただし、ここも区別しなければならない。
「米と鉄の交換」は東潮による史料解釈であり、すべての弥生系土器の内容物が米だったことを意味しない。
本稿では、
土器の内容物の問題
と、
海峡を越えた食料交易の問題
を混同しない。
四 「余剰力」――食料は政治と交易の力になる
もし農業生産によって、自家消費を超えて交換へ回せる物資が生じたのであれば、その意味は大きい。
余った食料は、単なる食料ではなくなる。
舟を維持する。
航海者を養う。
交易相手へ渡す。
鉄など、自地域では十分に得られない物資と交換する。
こうして、
生産余剰を外部資源へ変換すること
が可能になる。
本稿でいう「余剰力」は、まさにここに関係する。
第一章では、
人と時間を日常的な生業以外へ振り向けられる能力
として余剰力を捉えた。
弥生時代になると、そこへさらに、
生産物そのものを交易資源として外部へ投入する能力
が加わってくる。
仮に米などの食料余剰と鉄素材の交換が一定規模で成立していたのであれば、
農業生産力
→ 交換可能な余剰
→ 海上交易
→ 鉄素材の獲得
→ 農具・工具・武器などへの利用
という循環を考えることができる。
ただし、最後の循環全体は本稿の分析モデルであり、『三国志』がその経済構造を直接記述しているわけではない。
ここは、
史料上確認できること
と、
そこから本稿が考察する社会構造
を分けておく必要がある。
五 「受け取るだけの社会」では交易は続かない
この視点に立つと、列島と半島南部の関係も少し違って見えてくる。
列島側が鉄を必要とした。
半島南部には鉄があった。
しかし、継続的な交易である以上、列島側にも相手へ提供できる何かが必要になる。
それが米だけであったとは限らない。
他の食料。
海産物。
原材料。
加工品。
労働。
別地域との中継。
さまざまな交換形態が考えられる。
現段階で、その全体を復元することはできない。
しかし少なくとも、
「半島側が一方的に技術や物資を与え、列島側が受け取った」
という構図だけでは、継続的な海上交易を十分には説明できない。
交易は、相手にも交換する理由があって初めて続く。
したがって本稿では、
半島南部の鉄生産力と、列島・島嶼側の生産物や交易能力が結びついた海域経済
という可能性を検討する。
これは「どちらが優れていたか」という問題ではない。
異なる生産力を持つ地域が、海を介して結びついた
という問題である。
六 「生活土器」――どこから出たかで意味が変わる
そしてもう一つ重要なのが、土器の出土場所である。
墓から一点だけ出る列島系土器。
交易拠点から出る列島系土器。
住居や生活域から複数出る列島系土器。
これらを同じ意味で扱うことはできない。
墓からの一点出土なら、贈答品や威信財、あるいは他地域から運ばれた物品として説明できる場合がある。
しかし、日常生活の場から壺・甕・鉢など複数の生活器種がまとまって出る場合には、
その器を実際に使った生活者
の存在を検討する必要が生じる。
現行原稿でも、勒島など半島南部の海村から日本列島や楽浪など複数地域の遺物が生活域から出土する点を重視している。
ただし、ここでも、
列島系土器を使った人物=列島出身者
とは即断できない。
現地の人が列島系土器を使用した可能性もあるからである。
そこで次に必要になるのが、
その土器はどこで作られたのか
という検証である。
列島で作られて運ばれた搬入品なのか。
半島の粘土を使って現地で作られたのか。
そして現地生産であれば、
誰が、その製作技術を持っていたのか。
次節では、土器の形ではなく、
胎土・製作技法・器種構成
からこの問題を追う。
第四節 「似た土器」の正体――運ばれたのか、現地で作られたのか
一 「形が似ている」だけでは、人の出自は決まらない
朝鮮半島南部から列島系の特徴を持つ土器が出土したとき、まず問わなければならないのは、
その土器は、どこで作られたのか。
ということである。
外見だけが北部九州や西日本の土器に似ているからといって、その土器を直ちに「倭人の土器」と呼ぶことはできない。
土器の形や文様は、人の移動だけでなく、
交易。
模倣。
技術伝播。
地域間交流。
によっても広がり得るからである。
したがって、
土器の様式と、その使用者の出自は分けて考える必要がある。
これは本稿全体でも重要な原則となる。
物の形から、人の民族的・政治的帰属を直接決めてはならない。
そこで必要になるのが、
胎土
製作技法
器種構成
出土状況
を重ねた検証である。
二 「胎土」――海を渡った土器か、海の向こうで作った土器か
最初の手掛かりとなるのが胎土である。
列島側で製作された土器が完成品として朝鮮半島南部へ運ばれたのであれば、それは搬入品である。
一方、半島側で入手できる原材料を使用しながら、列島系の器形や製作上の特徴を持つ土器が作られていたのであれば、その意味は異なる。
完成品ではなく、
土器を作る知識や技術そのものが海を渡った
可能性が生じるからである。
ただし、ここでも慎重さが必要である。
胎土だけで粘土の採取地点を常に一点まで確定できるわけではない。
鉱物組成などの分析結果と、遺跡周辺の地質、器形、製作技法、焼成状態などを総合して、搬入品なのか現地生産品なのかを判断する必要がある。
したがって本稿では、
「列島系の形をしている」
ということと、
「列島から運ばれた」
ということを同じ意味では扱わない。
三 「作り方」は、形より深い
さらに重要なのが製作技法である。
土器の完成形を真似ることと、その製作工程まで共有することは同じではない。
粘土をどのように調整するのか。
どのように成形するのか。
器壁をどう整えるのか。
表面をどう仕上げるのか。
どのような方法で焼成するのか。
こうした工程には、目に見える形だけでは分からない知識が含まれている。
そのため、
現地系の原材料を用いながら、列島側と共通する製作技法が継続的に確認される
のであれば、単なる完成品の移動より一段深い交流を考える必要がある。
ただし、
「列島系技法がある」
から、
「列島出身の工人がそこにいた」
と直ちに断定することもできない。
可能性は少なくとも二つある。
列島側で技術を身につけた人物が半島へ渡って製作した。
あるいは、半島側の工人が列島側の人物から技術を学んだ。
どちらの場合でも重要なのは、
技術が人間関係を介して伝達された可能性
である。
物だけが海を渡った場合とは、証拠の意味が変わってくる。
四 「何を作っていたのか」――器種構成が語る生活
次に見るべきなのが器種構成である。
一種類の土器だけが出土する場合と、複数の用途を持つ土器が組み合わされて出土する場合では、その意味が異なる。
ただし、ここで本稿は証拠を先取りしない。
石丸あゆみが分析した朝鮮半島出土の弥生系土器では、資料の大半を甕形土器と壺形土器が占め、その他の器種は少ない。
したがって、現段階で、
「列島系の日常食器一式が半島へ持ち込まれていた」
と一般化することはできない。
むしろ重要なのは、
なぜ甕と壺が多いのか。
それらは何に使用されたのか。
搬入品なのか現地生産品なのか。
どのような遺構から出ているのか。
という問題である。
甕や壺が生活に密接した器種であることは確かである。
しかし、それだけで列島系集団の居住を証明するわけではない。
ここでも、
器種構成+製作地+出土状況
を組み合わせて評価しなければならない。
五 「どこから出たのか」――土器の意味を変える出土状況
同じ列島系土器でも、
墓から出る場合。
交易拠点から出る場合。
住居や生活域から出る場合。
では意味が異なる。
墓から一点だけ出土したのであれば、贈答、交易、威信財など複数の説明が可能である。
しかし、生活域から反復して出土し、さらに生業に関係する遺物や在地土器と組み合わされるならば、
その土器が実際の日常生活の中で使用されていた可能性
が強くなる。
ただし、在地土器と列島系土器が同じ遺跡から出たというだけでも十分ではない。
同一の住居なのか。
同じ年代なのか。
同じ生活面なのか。
どのような位置関係で出土したのか。
ここまで確認して初めて、共伴の意味が強くなる。
考古学では、
「同じ遺跡にある」ことと「同じ人々が同時に使った」ことは同じではない。
この区別も必要である。
六 「混ざっていた社会」だったのか
列島系土器と在地系土器が同じ生活空間で用いられ、さらに列島系の製作技法や漁撈具などが組み合わされて確認されるならば、海域社会の姿はさらに複雑になる。
列島から来た人々だけが独立した場所に住んでいたのか。
在地の人々とともに生活していたのか。
在地の人々が列島系の道具や技法を取り入れていたのか。
あるいは、双方の地域を往来し、複数の文化を使い分ける人々が存在したのか。
一つの遺物からは決められない。
しかし、後代の加耶地域について高久健二は、倭系遺物の出土状況から、倭から渡った人々が在地集団と一定期間生活していた可能性を論じる一方、数世代にわたる長期定住については慎重な見方を示している。これは時代が後になる資料であり、弥生期へそのまま遡らせることはできないが、遺物の存在を直ちに恒久的な「植民」や「集団移住」と結びつけないという点で参考になる。
ここから重要な視点が生まれる。
海域社会の人々を、
「倭人」か「韓人」か
という二つの固定された箱だけに入れて考えると、実態を見失う可能性がある。
文化的な特徴。
居住地。
政治的所属。
出自。
日常的に使用する道具。
これらは、必ずしもすべて一致するとは限らないからである。
七 「物の移動」から「技術を持つ人」へ
この節で確認したことを整理すると、証拠には段階がある。
列島系の形を持つ土器が出る。
これは物質文化の到達を示す。
列島から搬入された土器が確認される。
これは海を越えた物資移動を示す。
現地材料で列島系土器が作られる。
ここでは技術知識の移動を考える必要が生じる。
列島系製作技法が継続的に確認される。
ここまで来ると、人を介した技術伝承という問題が強くなる。
さらに、
生活遺構・漁撈具・他の列島系資料と結びつく。
そのとき初めて、
実際に海を渡って生活・生業活動を行った人々
という問題へ近づいていく。
つまり、
遺物
→ 技術
→ 生活
→ 人
と、一段ずつ証拠を積み上げなければならないのである。
そして、この方法で見直すと、次の問いが避けられなくなる。
海を渡った人々は、交易を終えれば帰ったのか。
それとも、
一定期間、半島南部で生活していたのか。
第四節 「似た土器」の正体――運ばれたのか、現地で作られたのか
一 「形が似ている」だけでは、人の出自は決まらない
朝鮮半島南部から列島系の特徴を持つ土器が出土したとき、まず問わなければならないのは、
その土器は、どこで作られたのか。
ということである。
外見だけが北部九州や西日本の土器に似ているからといって、その土器を直ちに「倭人の土器」と呼ぶことはできない。
土器の形や文様は、人の移動だけでなく、
交易。
模倣。
技術伝播。
地域間交流。
によっても広がり得るからである。
したがって、
土器の様式と、その使用者の出自は分けて考える必要がある。
これは本稿全体でも重要な原則となる。
物の形から、人の民族的・政治的帰属を直接決めてはならない。
そこで必要になるのが、
胎土
製作技法
器種構成
出土状況
を重ねた検証である。
二 「胎土」――海を渡った土器か、海の向こうで作った土器か
最初の手掛かりとなるのが胎土である。
列島側で製作された土器が完成品として朝鮮半島南部へ運ばれたのであれば、それは搬入品である。
一方、半島側で入手できる原材料を使用しながら、列島系の器形や製作上の特徴を持つ土器が作られていたのであれば、その意味は異なる。
完成品ではなく、
土器を作る知識や技術そのものが海を渡った
可能性が生じるからである。
ただし、ここでも慎重さが必要である。
胎土だけで粘土の採取地点を常に一点まで確定できるわけではない。
鉱物組成などの分析結果と、遺跡周辺の地質、器形、製作技法、焼成状態などを総合して、搬入品なのか現地生産品なのかを判断する必要がある。
したがって本稿では、
「列島系の形をしている」
ということと、
「列島から運ばれた」
ということを同じ意味では扱わない。
三 「作り方」は、形より深い
さらに重要なのが製作技法である。
土器の完成形を真似ることと、その製作工程まで共有することは同じではない。
粘土をどのように調整するのか。
どのように成形するのか。
器壁をどう整えるのか。
表面をどう仕上げるのか。
どのような方法で焼成するのか。
こうした工程には、目に見える形だけでは分からない知識が含まれている。
そのため、
現地系の原材料を用いながら、列島側と共通する製作技法が継続的に確認される
のであれば、単なる完成品の移動より一段深い交流を考える必要がある。
ただし、
「列島系技法がある」
から、
「列島出身の工人がそこにいた」
と直ちに断定することもできない。
可能性は少なくとも二つある。
列島側で技術を身につけた人物が半島へ渡って製作した。
あるいは、半島側の工人が列島側の人物から技術を学んだ。
どちらの場合でも重要なのは、
技術が人間関係を介して伝達された可能性
である。
物だけが海を渡った場合とは、証拠の意味が変わってくる。
四 「何を作っていたのか」――器種構成が語る生活
次に見るべきなのが器種構成である。
一種類の土器だけが出土する場合と、複数の用途を持つ土器が組み合わされて出土する場合では、その意味が異なる。
ただし、ここで本稿は証拠を先取りしない。
石丸あゆみが分析した朝鮮半島出土の弥生系土器では、資料の大半を甕形土器と壺形土器が占め、その他の器種は少ない。
したがって、現段階で、
「列島系の日常食器一式が半島へ持ち込まれていた」
と一般化することはできない。
むしろ重要なのは、
なぜ甕と壺が多いのか。
それらは何に使用されたのか。
搬入品なのか現地生産品なのか。
どのような遺構から出ているのか。
という問題である。
甕や壺が生活に密接した器種であることは確かである。
しかし、それだけで列島系集団の居住を証明するわけではない。
ここでも、
器種構成+製作地+出土状況
を組み合わせて評価しなければならない。
五 「どこから出たのか」――土器の意味を変える出土状況
同じ列島系土器でも、
墓から出る場合。
交易拠点から出る場合。
住居や生活域から出る場合。
では意味が異なる。
墓から一点だけ出土したのであれば、贈答、交易、威信財など複数の説明が可能である。
しかし、生活域から反復して出土し、さらに生業に関係する遺物や在地土器と組み合わされるならば、
その土器が実際の日常生活の中で使用されていた可能性
が強くなる。
ただし、在地土器と列島系土器が同じ遺跡から出たというだけでも十分ではない。
同一の住居なのか。
同じ年代なのか。
同じ生活面なのか。
どのような位置関係で出土したのか。
ここまで確認して初めて、共伴の意味が強くなる。
考古学では、
「同じ遺跡にある」ことと「同じ人々が同時に使った」ことは同じではない。
この区別も必要である。
六 「混ざっていた社会」だったのか
列島系土器と在地系土器が同じ生活空間で用いられ、さらに列島系の製作技法や漁撈具などが組み合わされて確認されるならば、海域社会の姿はさらに複雑になる。
列島から来た人々だけが独立した場所に住んでいたのか。
在地の人々とともに生活していたのか。
在地の人々が列島系の道具や技法を取り入れていたのか。
あるいは、双方の地域を往来し、複数の文化を使い分ける人々が存在したのか。
一つの遺物からは決められない。
しかし、後代の加耶地域について高久健二は、倭系遺物の出土状況から、倭から渡った人々が在地集団と一定期間生活していた可能性を論じる一方、数世代にわたる長期定住については慎重な見方を示している。これは時代が後になる資料であり、弥生期へそのまま遡らせることはできないが、遺物の存在を直ちに恒久的な「植民」や「集団移住」と結びつけないという点で参考になる。
ここから重要な視点が生まれる。
海域社会の人々を、
「倭人」か「韓人」か
という二つの固定された箱だけに入れて考えると、実態を見失う可能性がある。
文化的な特徴。
居住地。
政治的所属。
出自。
日常的に使用する道具。
これらは、必ずしもすべて一致するとは限らないからである。
七 「物の移動」から「技術を持つ人」へ
この節で確認したことを整理すると、証拠には段階がある。
列島系の形を持つ土器が出る。
これは物質文化の到達を示す。
列島から搬入された土器が確認される。
これは海を越えた物資移動を示す。
現地材料で列島系土器が作られる。
ここでは技術知識の移動を考える必要が生じる。
列島系製作技法が継続的に確認される。
ここまで来ると、人を介した技術伝承という問題が強くなる。
さらに、
生活遺構・漁撈具・他の列島系資料と結びつく。
そのとき初めて、
実際に海を渡って生活・生業活動を行った人々
という問題へ近づいていく。
つまり、
遺物
→ 技術
→ 生活
→ 人
と、一段ずつ証拠を積み上げなければならないのである。
そして、この方法で見直すと、次の問いが避けられなくなる。
海を渡った人々は、交易を終えれば帰ったのか。
それとも、
一定期間、半島南部で生活していたのか。
次節では、
第五節 「海の向こうで暮らす」――交易者は滞在者・居住者になったのか
一 「行って帰る」だけだったのか
列島と朝鮮半島南部の交流を、舟による物品交換だけで考えるなら、その姿は比較的単純である。
列島から出航する。
対岸へ到着する。
物資を交換する。
そして帰る。
しかし、前節までに見た資料は、それだけでは説明しにくい交流が存在したことを示している。
弥生系土器が半島南部から繰り返し出土する。
交易拠点が形成される。
列島系の漁撈具が確認される。
そして、土器研究からは短期間の居住を伴う交渉まで想定されている。
ここで問題は、
「物が海を渡ったのか」
から、
「人は海の向こうで、どの程度の時間を過ごしたのか」
へ移る。
二 「短期間の居住」――まず確認できるのはここまでである
石丸あゆみは、朝鮮半島南部の弥生系土器と原ノ辻遺跡の資料を比較し、弥生前期後半の段階について、金海地域を中心とする半島南部各地との間に、
短期間の居住を伴う小規模な交渉
が存在したと論じている。
この表現は重要である。
単なる一日限りの寄港や物品受け渡しではなく、一定期間その場所に留まり、相手地域との関係を維持した人々がいた可能性を研究上検討できるからである。
しかし同時に、
短期間の居住=恒久的な定住
ではない。
ここを区別しなければならない。
交易の季節だけ滞在した可能性。
航海条件が整うまで待機した可能性。
漁撈や交易活動のため一定期間生活した可能性。
こうした行動でも、考古資料上は「居住」に近い痕跡を残し得る。
したがって本稿では、まず、
反復的な渡航と一時的・短期的滞在が存在した可能性
を確認するところから始める。
三 「倭の水人」――漁具は人の活動まで示すのか
さらに踏み込んだ解釈を示しているのが武末純一である。
武末は勒島遺跡から出土する北部九州系のアワビおこしや結合式釣針に注目し、これを北部九州の「倭の水人」の移住を示すものと解釈している。さらに、西日本と朝鮮半島南部の海村が、農村とは異なる広域的な交易世界を形成していた可能性を論じている。
これは非常に興味深い。
土器は容器や交易品として運ばれることがある。
しかし漁撈具は、
現地で海産資源を獲得するための道具
である。
そのため、北部九州系の漁具が半島南部の海村から出ることは、物の交換だけではなく、列島側と関係する人々が現地で生業活動を行った可能性を考える材料となる。
ただし、
「倭の水人が移住した」
という部分は、武末による考古学的解釈であり、遺物そのものに使用者の出身地が記されているわけではない。
したがって本稿では、
移住を示す有力な解釈の一つ
として扱い、確定事実とは分ける。
四 「滞在」と「定住」の間には、大きな距離がある
ここで、証拠の段階を整理しておく必要がある。
交易者が寄港すること。
数日あるいは一定期間滞在すること。
季節的に繰り返し訪れること。
生業活動を行うこと。
現地で道具を製作すること。
長期間居住すること。
世代を越えて定着すること。
これらはすべて同じではない。
とくに、
「人がいた」ことと「集団が定住した」ことの間には大きな証拠の差がある。
長期定住を論じるなら、住居、墓制、食生活、製作技術、長期間にわたる遺物組成など、より多くの証拠を必要とする。
したがって現在の弥生期資料から、
「列島系集団が半島南部へ大規模に移住し、恒久的な集落を形成した」
と一般化することはできない。
また、家族単位での移住まで確認する証拠も、現段階では本稿が引用している資料からは示せない。
ここは明確に留保しておく。
五 「倭国の海外進出」ではない
もう一つ避けなければならないのが、後世の国家像をこの時代へ遡らせることである。
弥生時代の半島南部で列島側と関係する人々の活動が確認されたとしても、
それを直ちに「倭国の海外進出」と呼ぶことはできない。
現行稿でもこの点は正しく押さえられている。
この時代に見えているのは、
統一国家の命令を受けて派遣された「海外駐在員」ではない。
むしろ、
北部九州。
壱岐。
対馬。
山陰。
瀬戸内。
その他の西日本各地域。
こうした地域社会の一部が、それぞれ異なる形で海上交流へ参加していた可能性を考える方が資料に即している。
石丸も、後の段階には北部九州だけでなく西日本各地の集団が交易へ関与するようになったと論じている。
つまり、
「列島から来た人」=「一つの倭国に属する同一集団」
と考える必要はないのである。
六 「彼らは誰に属していたのか」――第一章の問いが戻ってくる
すると、第一章で立てた問いが再び現れる。
海を渡った人々は、どこに属していたのか。
これは単なる民族名称の問題ではない。
どの地域社会が舟を用意したのか。
誰が交換物資を集めたのか。
航海者を誰が支えたのか。
持ち帰った鉄や物資を誰が受け取ったのか。
そこに有力者や地域共同体による調整は存在したのか。
弥生時代になると、農業生産力の増大、金属器、集落の拡大、交易の活発化によって、縄文期よりも大きな社会的組織を考える余地が生まれる。
しかし、この第二章の段階ではまだ、
「誰が支配していたか」
までを先取りしない。
まず確認すべきなのは、
海を渡る個人の背後には、その活動を可能にした列島側の地域社会が存在した
という問題である。
この社会的背景は、後に首長勢力と王権を考える際の重要な伏線となる。
七 「国境の外に住む外国人」では捉えきれない海
この時代を現代的な国境感覚で見れば、
「日本から朝鮮へ移住した人」
「朝鮮から日本へ移住した人」
という分類になりやすい。
しかし、弥生期の海域社会には、まだ後世の日本や百済・新羅・加耶という国家境界は存在していない。
北部九州。
壱岐。
対馬。
朝鮮半島南岸。
それぞれ異なる地域社会を持ちながら、人々は海を越えて交流していた。
その中には、
一度だけ渡る者。
繰り返し往来する者。
一定期間対岸で暮らす者。
漁撈や交易を生業とする者。
技術を伝える者。
など、さまざまな形の移動があったと考えられる。
この人々を、
固定された「倭人」「韓人」という二分法だけで理解することには限界がある。
ただし、それは両地域の社会的・文化的差異がなかったという意味ではない。
異なる地域社会が存在し、その間を人々が移動していた。
本稿が描こうとしているのは、その海の世界である。
第三章 「国家より先に海があった」――百済・新羅・加耶以前の文化蓄積
第一節 「国名より古い社会」――百済・新羅・加耶以前に何があったのか
一 「国名」から歴史を始めると、それ以前が消えてしまう
古代史を読むと、ある時点から「百済」「新羅」「加耶」という国名が現れる。
そのため、私たちは無意識のうちに、
百済が百済文化を作った。
新羅が新羅文化を作った。
加耶が加耶文化を作った。
と考えてしまいやすい。
しかし、歴史の順序は逆である。
国家名が生まれる以前から、その土地には人々が暮らしていた。
農耕を行う。
集落を形成する。
海や河川を利用する。
道具を作る。
死者を葬る。
地域間で物資を交換する。
こうした社会が長く存在した後、その上に政治的統合が進み、後世に知られる国家が形成されていく。
したがって、
国名の誕生と、社会の誕生は同じではない。
ここを分けることが、本章の出発点となる。
二 「加耶以前」――洛東江下流にはすでに社会があった
国立金海博物館は、洛東江下流域について、加耶成立以前から長い文化的蓄積があったことを展示している。
新石器時代には、河川や海岸の近くに住居を構え、漁撈・狩猟・採集を行い、初歩的な農耕も営んでいた。
青銅器時代になると、稲作を含む農耕が本格化し、大規模な集落が形成される。
さらに巨大な支石墓が築かれ、博物館はこれを農耕社会における共同体意識の成長を象徴するものとして説明している。
つまり後の加耶地域には、国家名が現れるよりはるか以前から、
農耕
集落
共同体的な組織
土器製作
木材利用
漁撈
水上交通
墓制
が存在していた。
ここで重要なのは、
加耶がこれらをゼロから生み出したのではない
ということである。
後の加耶社会は、それ以前の地域社会が長期間蓄積してきた人口・技術・生産・交通網の上に成立したと考える必要がある。
三 「空白地帯」ではなかった――三韓七十八国の世界
やがて中国史料になると、半島南部の政治的構造がより具体的に見えてくる。
『後漢書』韓伝は、
馬韓五十四国。
辰韓十二国。
弁辰十二国。
合わせて七十八国が存在したと記す。
そして、
「伯濟是其一國焉」
すなわち、後の百済につながる伯済も、その一国として記されている。
これは重要である。
後の百済・新羅・加耶が成立する以前の半島南部は、
政治的な空白地帯ではなかった。
大小の地域政治体が並存する世界だったのである。
したがって、
「百済が突然現れた」
のでもなければ、
「加耶という国家が突然地域社会を作った」
のでもない。
既存の集落。
地域首長。
農耕社会。
交易路。
海岸・河川交通。
こうした社会的基盤が先にあり、その中から政治勢力が統合・再編されていったと考える方が、時間軸として自然である。
四 「王より先に社会がある」
ここで本稿にとって重要な原則が見えてくる。
国家形成を考えるとき、王や王統だけを見てはいけない。
王が現れたとしても、
農地を耕す人々。
食料を生産する集落。
道具を作る工人。
舟を扱う人々。
交易を仲介する者。
地域社会をまとめる有力者。
が存在しなければ、国家は機能しない。
つまり国家とは、
すでに存在する人・技術・生産・交通・社会関係を、より大きな政治秩序へ編成する仕組み
として見ることができる。
これは後に百済王権を見る際にも重要になる。
新しい王統が現れたとしても、その王統が国家全体の文化を一から作ったことにはならない。
王統の系譜と、地域社会の系譜は別に検証しなければならないのである。
五 「海の道」も国家より古かった
そして第一章・第二章で見てきた資料をここへ重ねると、もう一つ重要なことが分かる。
国家名が成立する以前から、半島南部の海岸社会は列島側と交流していた。
縄文・新石器時代には土器や黒曜石などが海を越える。
弥生期になると列島系土器が半島南部へ渡る。
一定期間の滞在を伴う交渉も研究上想定される。
鉄や食料などをめぐる交易も発達していく。
つまり、
海上交流は百済・新羅・加耶によって始められたものではない。
国家が成立したときには、すでに海を利用する経験と関係が存在していたのである。
後の国家は、
海の道を作ったというより、
すでに存在した海の道を政治的・軍事的・外交的に利用できる形へ取り込んでいった
可能性を考える必要がある。
六 「では対岸には誰がいたのか」――半島側だけでは海域社会は成立しない
ここで、本章に新しい問いを置く。
朝鮮半島南部に、
農耕社会がある。
地域政治体がある。
海を利用する人々がいる。
工人がいる。
交易拠点がある。
そして列島との往来がある。
それならば、海の反対側にも、その交流を受け止める人々が存在した。
これは、
半島側と列島側に同じ政治制度が存在した
という意味ではない。
また、
同一の民族集団が海峡の両岸を支配していた
という意味でもない。
しかし、反復的な海上交流が成立するためには、列島側にも、
舟を準備する社会。
航海者を送り出す社会。
交換物資を集める社会。
持ち帰られた物資を利用する社会。
が存在したはずである。
つまり、半島側の社会だけを詳細に説明しながら、列島側を単なる「受け手」として空白のままにしておくこともできない。
海域交流には、海峡の両側に主体が必要である。
では、その列島側の主体とは何だったのか。
縄文期には、その名を知ることはできない。
しかし弥生時代になると、農業生産、人口、金属器、集落、墳墓、地域間交易の発達によって、列島各地の社会的・政治的まとまりが次第に見えるようになる。
この問いは、やがて本稿第三部で、
海域社会を支えた地域勢力は、どのように首長勢力となり、王権へ統合されていったのか。
という問題へつながっていく。
この改稿で第三章の役割が変わります^^
以前は、
「半島側には国家以前から文化があった」
という章でした。
これからは、
「国家以前から半島側に社会と海域ネットワークがあった。では、そのネットワークの列島側の主体は誰だったのか」
第二節 「鉄は一人では作れない」――農業・工人・港・交易を支えた社会
一 「鉄器がある」と「鉄を作った」は同じではない
朝鮮半島南部社会の変化を考えるうえで、鉄は重要な要素である。
後の加耶地域では、加耶諸国が成立する以前から鉄器が現れ、その利用は次第に広がっていく。
しかし、ここで最初に区別しておかなければならない。
鉄器が出土することと、その地域で鉄を生産していたことは同じではない。
完成した鉄器。
加工前の鉄素材。
鉄を鍛える鍛冶。
鉱石などから鉄素材を得る製鉄。
これらは、それぞれ異なる工程である。
したがって、初期の鉄器が存在するというだけで、
「その地域に大規模な製鉄産業が成立していた」
と考えることはできない。
現地での鉄生産を論じるためには、炉跡、鉄滓、羽口、原料、加工遺構など、製作工程を示す資料を重ねる必要がある。
本稿では、
鉄器の出現。
鉄素材の流通。
鍛冶。
製鉄。
をできる限り区別して考える。
二 「国出鉄」――弁辰には鉄を外へ供給する社会があった
一方、時代が下ると、鉄をめぐる状況は明瞭になる。
『三国志』魏書東夷伝の弁辰条には、
「国、鉄を出す」
と記される。
さらに韓・濊・倭がその鉄を取得し、市での交易にも鉄が用いられ、楽浪・帯方二郡にも供給されたことが記されている。
ここでは、単に鉄器が存在したというだけではない。
鉄が地域外へ供給され、交換にも用いられるほどの経済的価値を持っていたことが文献から確認できる。
これは大きな違いである。
少なくとも『三国志』が描く三世紀の弁辰社会では、
自地域で使用するだけではなく、
外部へ送り出せる鉄。
それを求めて来る交易相手。
鉄を運ぶ交通路。
交換を行う場。
が存在していたことになる。
ただし、この三世紀の状態を、そのまま数百年前の鉄器出現期へ遡らせることはできない。
鉄器の導入から、鉄を重要な交易資源とする社会が形成されるまでには、時間的な変化があったと見る必要がある。
三 「鉄は一人では作れない」――背後にある生産体系
鉄を継続して生産し、さらに地域外へ供給する段階になると、一人の工人だけを見ても社会の全体像は分からない。
鉄素材を得る。
燃料を確保する。
炉や道具を準備する。
加工を行う。
製品や素材を運ぶ。
交易地点へ集める。
海を越えて送り出す。
それぞれに人、時間、物資が必要になる。
そして専門的な作業に従事する人々が存在するなら、その人々を食料生産などによって支える社会も必要になる。
つまり鉄の背後には、
農業や漁撈による食料生産。
原料や燃料の確保。
工人の技術。
陸上・河川・海上の運搬。
物資の集積。
交易相手との関係。
が存在する。
鉄そのものだけを見るのではなく、
鉄を生産し、加工し、動かすことのできた社会
を見なければならないのである。
四 「港」は海岸があれば成立するわけではない
海上交易についても同じことがいえる。
海岸や湾が存在することと、そこが継続的な交易拠点として機能することは同じではない。
舟が停泊する。
荷物を降ろす。
物資を一時的に保管する。
交換相手と接触する。
食料や水を補給する。
次の航海を待つ。
こうした活動が反復されれば、そこには交易を支える人々と仕組みが必要になる。
ただし、ここで直ちに、
「首長が港を支配していた」
「国家が港湾を管理していた」
と考えることはできない。
その段階まで論じるには、政治的支配を示す別の証拠が必要である。
現時点で確認できるのは、
海上交易が反復されるほど、その周囲には荷役、保管、補給、仲介、航海などを支える社会的機能が必要になる
ということである。
その機能を誰が統括していたのかは、次の問題である。
五 「金海湾」――鉄だけではない交易の結節点
後の加耶中心地域となる洛東江下流から金海湾周辺では、中国大陸方面との関係を示す遺物と、日本列島との関係を示す遺物がともに確認される。
これは、この地域が一つの方向だけと結ばれていたのではなく、東アジアの複数地域へ開かれていたことを考える材料となる。
北には大陸・楽浪方面との交通がある。
南には海がある。
海を越えれば対馬・壱岐を経て北部九州へつながる。
そして第二章で見たように、列島系の土器や漁撈具なども半島南部へ渡っている。
したがって、この地域の発展を、
「鉄があったから加耶が栄えた」
という一本の因果関係だけで説明することはできない。
鉄という重要な資源があり、
それを必要とする外部社会があり、
外部との往来を可能にする海上交通があり、
その交易を支える地域社会があった。
これらが組み合わされることによって、後の加耶地域の経済的基盤が形成されていったと考えるべきである。
六 「対岸にも生産社会があった」――交易は一方だけでは成立しない
そして、ここでも列島側を空白にすることはできない。
弁辰の鉄を倭が取得していたのであれば、
倭側には、
鉄を必要とする社会。
鉄を運ぶ人々。
鉄と交換する物資。
海峡を越える舟。
持ち帰った鉄を加工・利用する技術。
が必要になる。
第二章で見たように、列島側から食料などの余剰物資が交換に利用されたとする研究もある。
その解釈が妥当であるなら、
半島南部には鉄などを送り出す生産力があり、
列島側にも対価となる物資を生産し、海へ送り出す能力があったことになる。
ここで重要なのは、
どちらが一方的に「与えた側」であったか
という議論ではない。
異なる資源と生産力を持つ複数の地域社会が、海上交通によって結ばれていた可能性である。
交易を継続するには、双方に交換する理由が必要である。
その意味で、海峡の両側にはそれぞれ異なる形の「余剰力」が存在したと考えることができる。
七 「余剰を動かす力」――経済力の先に政治が見えてくる
ここまで来ると、鉄の問題は単なる技術史ではなくなる。
鉄を生産する。
食料を生産する。
工人を養う。
舟を造る。
物資を集める。
海を越えて運ぶ。
他地域と交換する。
これらを継続できる社会には、人と物を一定の目的へ振り向ける能力が存在する。
本稿では、この能力を「余剰力」という視点から見る。
ただし、
余剰力が存在すること
と、
その余剰を一人の首長や王が支配していたこと
は別問題である。
共同体による調整だったのか。
複数の有力者が関与したのか。
交易を担う集団が独自に活動したのか。
地域首長が交換を統括するようになったのか。
それは時代と地域によって異なった可能性がある。
だからこそ次に問わなければならない。
国家が成立する以前に蓄積された余剰は、
誰によって動かされ、
どのように政治的な力へ変わっていったのか。
次節では、海域社会が生み出した「余剰力」そのものを、さらに詳しく検討する。
第三節 「余剰力」――海域社会は何を蓄積したのか
一 「余った物」だけが余剰ではない
ここで、本稿の中心概念の一つである「余剰力」へ戻りたい。
余剰という言葉からは、まず食料や物資の余りを想像しやすい。
しかし、本稿でいう余剰力は、それだけを意味しない。
食料を必要量以上に生産できる。
人を農耕や漁撈以外の仕事へ振り向けられる。
工人を養える。
舟を造るために木材・道具・労働時間を投入できる。
遠距離航海のために食料や水を準備できる。
交易品を集め、一定期間保管し、海の向こうへ送り出せる。
こうした能力を総合して、本稿では「余剰力」と捉える。
つまり余剰力とは、
社会が、生存に必要な最低限を超えて、人・時間・物資を別の目的へ振り向ける能力
である。
この能力がなければ、専門工人も、長距離交易も、継続的な航海も成立しにくい。
二 「専門家を養う力」――分業は余剰の上に成立する
鉄を扱う工人。
舟を造る木工技術者。
航海経験を持つ者。
交易を仲介する者。
こうした人々が継続的に活動するためには、その全員が常に自分の食料を自ら生産している必要はない社会が成立していなければならない。
もちろん、古代社会の分業を近代的な専業職と同じように考えることはできない。
農耕をしながら季節的に航海へ参加した者もいたであろう。
漁撈を行いながら交易を担った者もいた可能性がある。
それでも、鉄の加工、舟の製作、遠距離航海など、経験の蓄積を必要とする活動が反復されるほど、一定の技術を継承する人々の存在が重要になる。
その人々が活動できるということは、
彼らの時間を支える食料と社会的余力が存在した
ということである。
余剰力は、単に倉の中に積まれた穀物の量ではない。
社会が専門的な能力を維持できる力
でもある。
三 「海の向こうへ出せる物」――余剰は交易資源になる
『三国志』が描く弁辰では、鉄が韓・濊・倭などへ供給され、交易にも用いられていたとされる。
ここで重要なのは、鉄が存在したことだけではない。
地域外へ供給できるほどの鉄が流通していたことである。
自地域の内部だけで消費するのではなく、外へ送り出す。
そのためには、
生産または集積する。
運ぶ。
一時的に保管する。
交換相手へ渡す。
という一連の活動が必要になる。
これは単なる「物がある社会」ではない。
物を社会の外へ動かせる社会
である。
海域交易における余剰とは、まさにここに現れる。
価値ある物資を生産するだけでは足りない。
それを外部との交換関係へ組み込めて初めて、余剰は交易資源となる。
四 「対岸にも余剰が必要だった」――列島側を空白にしない
ここで再び、列島側を見る必要がある。
半島南部から鉄が渡ってきた。
それだけを描けば、列島側は鉄を受け取るだけの社会に見える。
しかし交易が長期間続くのであれば、交換相手にも何らかの価値が必要になる。
第二章で見たように、対馬・壱岐を介する交易について、米などの食料余剰と鉄素材との交換を想定する研究がある。
この解釈を採る場合でも、
「列島は米を出し、半島は鉄を出した」
という単純な固定構造として理解すべきではない。
地域や時期によって交換物資は変化した可能性がある。
重要なのは、
列島側にも、海の向こうへ送り出せる物資を生産・集積する能力が存在した
という問題である。
さらに列島側には、
舟を造る。
航海者を確保する。
交換物資を積む。
対岸へ渡る。
鉄を持ち帰る。
持ち帰った鉄を加工・利用する。
という能力も必要になる。
つまり海峡の両側には、それぞれ異なる形で余剰力が存在したと考えなければ、反復する交易を説明しにくい。
五 「交換が生む循環」――海域経済は一方向ではなかった
ここから一つの循環モデルを考えることができる。
列島側で農業生産やその他の生産活動が拡大する。
交換へ回せる物資が増える。
それを海上交易へ投入する。
鉄など、列島側で十分に得にくい資源を取得する。
持ち帰った鉄が工具・農具などに利用される。
それによって生産活動がさらに変化する。
そして、新たに生じた余剰が再び交易へ回る。
この循環がどの程度、どの地域で、どの時期に成立していたのかは個別に検証しなければならない。
したがって、
列島の生産力と半島南部の鉄生産が完全な相互依存関係にあった
とまで断定することはできない。
しかし、
異なる資源と生産能力を持つ地域社会が、海上交易によって互いに結びつき、それぞれの生産活動へ影響を与えた可能性
は十分に検討する価値がある。
ここで重要なのは「どちらが文明を与えたか」ではない。
異なる社会の余剰が、海を介して交換された
という構造である。
六 「余剰を動かしたのは誰か」――ここから政治の問題が始まる
しかし、余剰が存在するだけでは、海上交易は成立しない。
食料が余った。
鉄が作られた。
舟があった。
それだけでは、それらが自動的に港へ集まり、海を渡るわけではない。
誰かが人を集める。
誰かが物資を集める。
誰かが舟を準備する。
誰かが交易相手との関係を維持する。
そこには、何らかの調整が必要になる。
ただし、ここで直ちに、
「首長がすべての交易を独占していた」
と考えることもできない。
共同体単位の活動だった可能性もある。
血縁集団や海民集団が主体となった可能性もある。
複数の地域有力者が関与した可能性もある。
時代が下るにつれて首長層が交易へ強く関与するようになった可能性も考えられる。
したがって現段階で確認すべきなのは、
余剰を動かすためには社会的調整が必要であった
というところまでである。
その調整力がいつ、どのように政治的権威へ結びついたのか。
ここから先が、国家形成の問題になる。
七 「国家より先に蓄積された力」――王はゼロから国力を作ったのではない
ここまで見てくると、後の国家形成を別の角度から見ることができる。
農業。
漁撈。
鉄。
木工。
舟。
航海。
交易。
工人。
交換関係。
これらは、王が現れた瞬間に突然生まれたものではない。
国家名が現れる以前から、地域社会の中で長い時間をかけて蓄積されてきた。
つまり後の国家が利用した「国力」の一部は、
国家成立以前の社会がすでに持っていた能力
だったのである。
王権が重要なのは、それらすべてを一から作り出したからではない。
むしろ、
各地域に分散していた人口・生産・技術・交通・交易関係を、より大きな政治目的へ組織できるようになったこと
に意味がある。
ここで本章の問いは、次の段階へ進む。
百済・新羅・加耶という国家が成立したとき、
それらの国家は文化をゼロから作ったのか。
それとも、
すでに存在していた地域社会の余剰力を取り込み、国家能力へ変換したのか。
次節では、この問題を検討する。
第四節 「国家より先に海の道があった」――文化の上に国家が成立する
一 「国家が文化を作った」のか
ここまでの資料から、第一部で最も重要な問題が見えてくる。
百済・新羅・加耶という国家が形成されたとき、それらの国家は文化をゼロから作ったのだろうか。
少なくとも朝鮮半島南部では、その答えは単純ではない。
国家名が現れる以前から、そこには人々が暮らしていた。
農耕を営む集落があった。
漁撈を行う人々がいた。
舟を利用する社会があった。
木工や土器製作の技術があった。
大規模な墓を築く共同体があった。
鉄を利用し、やがて加工・生産・交易へ結びつける社会があった。
海を越えて列島側と交流する人々もいた。
つまり、
国家が成立する以前に、その国家を支えることになる社会的・技術的基盤の多くがすでに存在していた。
したがって、国家の成立を文化の始まりと考えることはできない。
むしろ、
先に地域社会の長い蓄積があり、その上に国家が成立した
と見る必要がある。
二 「王統」と「社会」は同じ系譜ではない
この区別は、後に百済を考えるとき特に重要になる。
国家史では、どうしても王の系譜が中心になる。
誰が建国したのか。
王族はどこから来たのか。
どの王が領域を拡大したのか。
もちろん、それは重要な問題である。
しかし、王統の出自が分かったとしても、それだけで国家を構成した社会全体の出自が分かったことにはならない。
王統の系譜。
地域住民の系譜。
農耕社会の系譜。
工人の系譜。
航海者の系譜。
交易者の系譜。
技術の系譜。
航路の系譜。
これらは、必ずしも一致しない。
新しい王統が既存社会の上に成立した場合、その王権は自らが持ち込んだ政治制度や軍事力だけで国家を作るのではない。
既存の人口。
農地。
生産力。
工人。
交通路。
港。
交易関係。
地域有力者。
こうしたものを取り込みながら国家を形成する。
したがって、
王統の交代と、地域社会の断絶を同じものとして扱ってはならない。
三 「百済文化」「新羅文化」「加耶文化」という言葉の注意点
本稿でも今後、「百済文化」「新羅文化」「加耶文化」という言葉を使用する。
しかし、この言葉には注意が必要である。
それらの文化すべてが、国家成立後に突然生み出されたという意味ではない。
例えば、加耶地域で後に発達する鉄器文化や海上交易も、加耶という国家群の成立と同時にゼロから始まったわけではない。
その前段階には、鉄器の流通、地域間交易、農業生産、集落の発達がある。
同じように、百済や新羅についても、国家成立以前の地域社会から受け継いだものと、新しい政治秩序の中で発展したものを分けて考える必要がある。
したがって、
「百済文化」とは百済王族だけが作った文化ではない。
「加耶文化」とは加耶王権だけが作った文化ではない。
その社会を構成した多数の地域住民、工人、農民、交易者、航海者たちの蓄積を含むものである。
四 「国家能力」とは、既存の力を束ねる能力でもある
では国家が成立することによって、何が変わったのか。
ここで重要になるのが、
分散していた社会的能力を、より大きな目的へ動員できるようになること
である。
地域ごとに存在していた農業生産。
工人の技術。
交通路。
交易関係。
人的ネットワーク。
これらが、より大きな政治権力の下で結ばれるようになる。
食料を集める。
軍事力を動かす。
大規模な土木事業を行う。
外交使節を送る。
遠距離交易を維持する。
専門職を養う。
こうした活動には、地域社会の余剰をより広い範囲から集め、目的に応じて配分する能力が必要になる。
つまり国家形成とは、
新しい能力をすべて一から作り出すことではなく、既存社会の能力をより大きな政治力へ変換する過程
でもあったと考えられる。
本稿でいう「余剰力」は、ここで国家能力へ近づき始める。
五 「海の道」も王権より古かった
そして、海上交通についても同じことがいえる。
百済・新羅・加耶が成立したから、突然人々が海を渡り始めたのではない。
第一章で見たように、縄文・新石器時代から列島と朝鮮半島南部の間には物資の移動が存在した。
第二章では、弥生時代になると列島系土器や漁撈具が半島南部へ渡り、一定期間の滞在を伴う交流まで想定できることを見た。
鉄をめぐる交易も発達した。
つまり後の国家が成立した時点で、
海そのものはすでに利用されていた。
航路の経験があった。
交易相手との関係があった。
対岸の存在を知る人々がいた。
海を渡れる舟と技術があった。
したがって、後の国家は海の道を一から作ったのではない。
むしろ、
すでに存在していた海上交通を、外交・交易・軍事という国家活動へ組み込んでいった
と考える方が時間軸に整合する。
六 「半島側だけの歴史」でもなかった
ここで、もう一度列島側を見る。
半島南部に航海者がいる。
鉄を生産・流通させる社会がある。
港湾的な機能を持つ交易拠点がある。
そこへ列島側の人々が渡っている。
しかし、列島側の人々だけが単独で海に浮かんでいたわけではない。
その背後には、彼らを送り出す社会が存在した。
舟を造る人々。
食料を用意する人々。
交換物資を生産する人々。
航海者を支える共同体。
持ち帰った物資を受け取る社会。
こうした仕組みが必要である。
したがって、国家以前の海域世界を、
半島南部の高度な社会と、それを受け入れるだけの列島社会
という一方向の構図で描くことも適切ではない。
一方で、
列島側が半島南部を支配していた
と先に結論することもできない。
現段階で確認できるのは、
海峡の両側にそれぞれ独自の地域社会が存在し、その間を人・物・技術が往来していた
ということである。
この双方の社会が、海上交流によって接続されていたのである。
七 「同じ文化圏」ではなく「接続された複数の社会」
ここは特に重要なので、整理しておきたい。
列島と半島南部の間に長期的な交流があったからといって、
両地域が一つの民族だった。
一つの国家だった。
同じ政治制度を持っていた。
と考えることはできない。
地域ごとに異なる社会が存在した。
異なる土器文化があった。
異なる墓制があった。
異なる政治的発展があった。
しかし同時に、その境界を越えて人々が移動していた。
したがって本稿が考える海域世界とは、
一つの均質な文化圏ではなく、複数の地域社会が海上交通によって接続された世界
である。
その接続が長く続くことで、
物が動く。
技術が動く。
人が動く。
情報が動く。
そして時代が進むと、
政治関係そのものが海を越えて動くようになる。
八 「誰が海を動かしたのか」という問い
しかし、まだ答えていない問題が残っている。
鉄を作ったのは誰か。
舟を造ったのは誰か。
航路を維持したのは誰か。
交易相手との関係を継承したのは誰か。
余剰物資を集めたのは誰か。
そして、その活動を支えた地域社会はどのようなものであったのか。
国家成立以前の段階では、その主体の名前を知ることは難しい。
縄文期の航海者がどの共同体に属していたのかを示す文字史料はない。
弥生期についても、考古資料から地域社会の規模や構造を復元することはできても、個々の人物名まで知ることはできない。
それでも、
海を渡った人物の背後に、彼らを支える社会が存在した
という問題は残る。
そして時代が進むにつれて、その地域社会は次第に、
首長。
政治体。
王権。
という形で史料上に見えるようになっていく。
本稿はここから、
「海を渡った人」から「その人を送り出した社会」へ
視点を移していく。
九 国家より先に海の道があった
第一部で確認したことを一文で表すなら、次のようになる。
国家が成立して海域文化が始まったのではない。
先に人々の生活があった。
生産があった。
技術があった。
舟があった。
交易があった。
余剰力があった。
そして海峡の両側に存在した複数の地域社会が、それぞれの事情と利益によって海を利用していた。
その長い蓄積の上に、後の百済・新羅・加耶、そして倭の政治秩序が成立していく。
したがって次に問うべきなのは、
国家は何を新しく作り、何を既存社会から受け継いだのか。
そして、
それまで地域社会に分散していた人口・技術・交易・余剰力を、どのように国家能力へ変換したのか。
である。
第二部では、まず百済の形成からこの問題を検証していく。
第一部 小括 「国家より先に海の道があった」
第一部では、百済・新羅・加耶、そして倭という後世の国家名から歴史を始めるのではなく、その以前に存在した海域社会を見てきた。
縄文・新石器時代の段階から、列島と朝鮮半島南部の間では、土器や黒曜石などが海を越えて移動していた。そこには、舟を造る技術、海を読む知識、航海を支える食料や人員、そして交流を継続できる地域社会が存在したと考えられる。
弥生時代になると、その交流はさらに複雑になる。水田稲作などが半島南部から北部九州へ伝わる一方、その後は列島側からも土器や漁撈具、人々が半島南部へ渡った。交易だけでなく、一定期間の滞在や、技術が人を介して伝わった可能性まで検討できるようになる。
しかし、列島系の遺物があるからといって、直ちに特定の民族や国家の支配を意味するわけではない。搬入品なのか、現地生産なのか。物だけが移動したのか、人も移動したのか。短期滞在なのか、長期居住なのか。これらを一段ずつ分けて考える必要がある。
また、海上交流を支えたのは物だけではない。農業、漁撈、鉄、木工、造船、航海、交易などを継続するには、人と時間と物資を別の目的へ振り向けられる社会的な余力が必要である。本稿では、この力を「余剰力」と捉えた。
重要なのは、国家が成立したから突然こうした能力が生まれたのではないということである。
先に人々の生活があり、技術があり、交易があり、海の道があり、その長い蓄積の上に後の国家が成立した。
したがって、次に問うべきなのは、百済・新羅・加耶などの国家が何を新しく生み出したのかだけではない。
すでに存在していた地域社会の人口・技術・交易・余剰力を、どのように取り込み、国家の力へ変えていったのか。
第二部では、この問題を百済の形成から検証していく。
第二部 蓄積された文化を国家が取り込む
第四章 北方勢力の南下と百済の形成
第一節 「王統はどこから来たのか」――扶余・高句麗系出自をどう読むか
一 国家の成立を見る前に、王統と社会を分ける
第一部では、百済・新羅・加耶という国家名が現れる以前から、朝鮮半島南部に農業、漁撈、木工、鉄、航海、交易などの長い文化的蓄積が存在していたことを見てきた。
また、その海域社会は半島南部だけで完結したものではなく、対馬・壱岐を経て日本列島とも接続していた。
では、その上に形成された国家とは何だったのか。
ここで最初に取り上げるのが百済である。
ただし、最初から一つ区別しておかなければならない。
百済王統の出自を問うことと、百済を構成した社会全体の出自を問うことは同じではない。
王族がどこに自己の祖先を求めたのか。
王権形成にどのような政治勢力が関与したのか。
その土地に以前から暮らしていた人々は誰だったのか。
農業、工人、航海、交易を担っていた人々は誰だったのか。
これらは、それぞれ別に検証する必要がある。
二 四七二年、百済王自身が語った「扶余」
百済王統の出自を考えるうえで、重要な同時代史料がある。
北魏の『魏書』百済伝に収録された、四七二年の百済・蓋鹵王による上表である。
そこには、
「臣與高句麗源出夫餘」
と記される。
すなわち、
「臣と高句麗とは、源を扶余に出す」
という意味である。
これは後世の研究者が百済王統を扶余系と推測した文章ではない。
少なくとも五世紀後半の百済王権自身が、北魏皇帝へ提出した外交文書の中で、高句麗と共通する扶余起源を主張していたことを示す史料である。『魏書』百済伝の冒頭にも、百済について「其先出自夫餘」と記されている。
ここまでは史料上確認できる。
しかし、この史料から言えることと、言えないことを分けなければならない。
三 「扶余を源とする」は何を証明するのか
四七二年の上表から直接確認できるのは、
五世紀の百済王権が、自らの王統を扶余と結び、高句麗と共通の起源を持つと主張していた
という事実である。
一方、この一文だけから、
百済の全住民が扶余から移住した。
百済の文化すべてが扶余から持ち込まれた。
建国時に大規模な扶余系住民が一斉に南下した。
というところまで証明することはできない。
外交上の系譜表現には、実際の血統認識だけでなく、王権の正統性や対外的な政治意識が含まれる可能性も考えなければならない。
したがって本稿では、
「五世紀の百済王権が扶余系王統を自認していた」
ことと、
「百済国家形成の実態がどのような人口移動・政治統合によって生じたのか」
を分けて扱う。
四 石村洞古墳群――文献とは別のところから見える北方との関係
文献とは別に、考古学からも興味深い資料がある。
漢城期百済の中心域に位置するソウルの石村洞古墳群である。
石村洞三号墳は大型の基壇式積石塚であり、韓国の国家遺産庁は、この墓制を高句麗にみられる積石塚系統と関連するものとして説明している。
同庁はさらに、漢江流域の百済積石塚と鴨緑江流域の高句麗積石塚との類似から、百済支配勢力の文化的系統が高句麗と密接な関係を持っていたことを指摘している。
これは、四七二年上表とはまったく別の種類の証拠である。
一方は王自身の外交文書。
もう一方は墓制という考古資料。
両者がともに、初期百済王権と北方の扶余・高句麗世界との関係を考える材料となっていることは重要である。
五 墓制の類似から「民族」まで決めてはいけない
ただし、ここでも慎重さが必要である。
高句麗系統とされる積石塚が存在するからといって、その墓を築いたすべての人々の民族的出自まで自動的に決まるわけではない。
墓制は、人の移動によって伝わることもある。
婚姻によって伝わることもある。
政治的権威の模倣や採用によって広がることもある。
工人や造墓技術者の移動によって伝わる場合もある。
したがって、
墓制の系統と、人間集団の系譜は同じではない。
それでも、王権中枢に高句麗系墓制との強い関連を持つ大型積石塚が存在することは、百済王権形成を考えるうえで無視できない。
六 「北方勢力が来て百済を作った」だけでは説明が終わらない
ここまでを見ると、
百済王権には扶余・高句麗系の系譜認識がある。
王都周辺の有力墓制にも高句麗との関係が認められる。
したがって、百済王権の形成過程に北方系の政治的・文化的要素が関与した可能性は十分に検討する必要がある。
しかし、本書にとって本当に重要なのは、その先である。
仮に北方系の王権形成勢力が南下したとしても、彼らが到着した土地は無人ではない。
そこにはすでに、
農耕を営む人々がいた。
地域政治体があった。
工人がいた。
海を利用する人々がいた。
交易路があった。
列島との交流も存在していた。
つまり百済国家の形成を、
「北方から来た人々が新しい土地に国家を一から建設した」
という単純な図にすることはできない。
新しい政治勢力が現れたのであれば、その勢力は既存社会と接触し、対立し、婚姻し、従属させ、あるいは協力関係を結びながら、地域社会を政治的に再編していったはずである。
七 王統の起源より重要になる次の問い
ここで第一部の結論が、そのまま第二部の入口になる。
国家より先に社会があった。
国家より先に生産があった。
国家より先に技術があった。
国家より先に交易があった。
そして、
国家より先に海の道があった。
ならば、百済王権の成立について問うべきことは、
「百済王族はどこから来たのか」
だけではない。
むしろ次に重要なのは、
新しい王権が、すでに存在していた馬韓社会の人口・生産力・首長層・工人・航路・交易網をどのように取り込んだのか。
という問題である。
百済王統の系譜と、百済国家を実際に支えた社会の系譜。
この二つを分けて見るところから、百済国家形成の実態を考えていく。
次節では、王権が成立する以前からそこに存在していた馬韓社会へ視点を移す。
第二節 「そこにはすでに社会があった」――既存の馬韓社会はどうなったのか
一 北方から来たとしても、到着した土地は無人ではない
前節では、五世紀の百済王権が自らを扶余につながる王統として認識していたこと、また漢城期百済の王権中枢に高句麗系墓制との関係を考えさせる考古資料が存在することを見た。
しかし、仮に百済王権の形成に北方系の政治勢力が深く関与したとしても、彼らが進出した土地は無人ではなかった。
そこにはすでに農耕社会があった。
集落があった。
地域ごとの有力者がいた。
生産と交換が行われていた。
そして中国史料では、これらの地域政治体の多くが「馬韓」と呼ばれる世界の中に記録されている。
つまり百済国家の形成を考えるとき、
「誰が王になったのか」だけではなく、「その王権がどのような既存社会の上に成立したのか」
を同時に見なければならない。
二 「馬韓」は一つの国ではなかった
『三国志』魏書東夷伝韓伝は、韓を馬韓・辰韓・弁韓に分け、馬韓について五十余国が存在したと記している。
そこには大小さまざまな政治体があり、大きなものは一万余家、小さなものは数千家とされる。
そして、その国名の中に、
「伯濟國」
が見える。
一般に、この伯済国は後の百済につながる政治体として検討されている。
ここで重要なのは、馬韓が単一の中央集権国家として描かれていないことである。
それは複数の地域政治体が並存する世界であった。
したがって、
「馬韓人」という一つの均質な集団があり、その全体がそのまま百済になった
と考えることも適切ではない。
複数の地域社会と政治勢力の中から、伯済国を中心とする勢力が次第に拡大し、周囲を統合していった過程として見る必要がある。
三 「伯済国」から「百済国家」へ――名前が似ているだけでは終わらない
『三国志』に記される伯済国と、後に東アジアの有力国家となる百済との間には、大きな政治的変化が存在する。
一つの地域政治体が、
周辺の集落を統合する。
有力者を組み込む。
領域を拡大する。
軍事力を組織する。
交通路を押さえる。
外交関係を築く。
こうした過程を経なければ、後世の百済国家にはならない。
つまり、
伯済国という名前が史料に現れたことと、完成した百済国家がすでに存在したことは同じではない。
百済国家形成を考えるとは、その間に起きた政治的統合の過程を考えることである。
韓国古代史研究でも、伯済国から百済国家へ至る過程については、馬韓諸勢力との関係や漢城地域の政治的成長をめぐって複数の議論が積み重ねられてきた。
四 「征服」だけで説明できるのか
新しい政治勢力が拡大するとき、統合の方法は一つではない。
軍事的に服属させる場合もある。
婚姻関係を結ぶ場合もある。
既存の有力者を地方支配者として残す場合もある。
貢納や交易関係を通じて上下関係を形成する場合もある。
あるいは長い時間をかけて、複数の地域社会がより大きな政治秩序へ再編される場合もある。
したがって、百済の形成を、
北方系集団が南下し、馬韓社会を単純に置き換えた
と描くのは慎重でなければならない。
新しい王権が成立したとしても、その王権が統治する人口の大部分は、すでにその地域に暮らしていた人々だった可能性が高い。
国家形成とは、人々を消して新しく入れ替えることではなく、
既存社会を新しい政治秩序の中へ再編すること
でもある。
五 「在地勢力」は消えたのではなく、組み込まれた可能性がある
百済が領域を拡大するためには、中央の王だけで地域社会を直接支配することは難しい。
農村を知る者。
土地を知る者。
水路を知る者。
地域住民との関係を持つ者。
物資を集められる者。
こうした在地有力者の存在が重要になる。
後の百済には地方支配制度が発達するが、その成立過程を考える際にも、既存の地域社会や有力者との関係を無視することはできない。
ただし、後世の地方行政制度をそのまま初期百済へ遡らせることもできない。
重要なのは、
国家が成長する過程で、地域社会を中央政治へ接続する仕組みが必要になった
ということである。
百済の拡大は、領土が広がっただけではない。
各地の人口、生産力、有力者、交通網を王権へ結びつけていく過程でもあった。
六 馬韓社会が持っていた「余剰力」はどこへ行ったのか
ここで第一部の「余剰力」という視点が重要になる。
百済成立以前の地域社会にも、
農業生産があった。
漁撈があった。
工人がいた。
交易があった。
地域間交通があった。
これらによって生み出される人・物・技術の余力は、国家成立と同時に消えるわけではない。
むしろ新しい王権にとって重要なのは、
それまで各地域に分散していた余剰力を、より大きな政治目的へ利用できるようにすること
である。
農業余剰を軍事や土木へ回す。
工人を王権の需要へ結びつける。
地域交通を国家交通へ変える。
交易によって得られる物資を王権外交へ利用する。
地方有力者の動員力を軍事力へ変える。
こうした変換が進むことで、一つの地域政治体はより大きな国家へ成長していく。
七 「海の民」も既存社会の一部だったのではないか
さらに本稿では、馬韓社会を内陸農耕社会だけとして考えない。
朝鮮半島西岸・南岸には海がある。
第一部で見たように、国家成立以前から半島南部と日本列島の間には海上交流が存在した。
ならば、後に百済領となる地域にも、
沿岸を知る人々。
舟を扱う人々。
島や港を結ぶ人々。
交易相手を知る人々。
が存在していた可能性を考える必要がある。
ただし、これらを一括して特定の「海洋民族」とすることはできない。
沿岸集落の住民であったかもしれない。
漁撈と交易を兼ねた人々だったかもしれない。
地域首長に従属する航海者だった可能性もある。
列島側と往還する人々も含まれていたかもしれない。
ここで確実に言えるのは、
王権成立以前から海を利用していた社会的経験が存在した
ということである。
八 百済の成立とは「既存社会の国家化」でもあった
ここまでをまとめると、百済形成は二つの動きが重なったものとして考えることができる。
一つは、
王権形成を進めた政治勢力の成長。
もう一つは、
既存の馬韓諸社会が、その王権の下へ次第に統合・再編されていく過程。
である。
この二つを分けて考えることで、
「王族の出自」
と、
「国家を支えた社会の出自」
を混同せずに済む。
百済国家を実際に支えたのは、王族だけではない。
農民。
地域首長。
工人。
兵士。
航海者。
交易者。
そして多様な地域社会である。
したがって百済国家の形成とは、
新しい王権が、すでに存在した人口・生産・技術・交通・交易・地域権力を一つの政治秩序へ再編していく過程
として見る必要がある。
ここから次の問題が生じる。
王統の系譜が北方へつながるとしても、
百済の文明基盤そのものまで、すべて同じ系譜から来たと考えてよいのだろうか。
次節では、王統の出自と、国家を実際に動かした文化・技術の出自を分けて検討する。
第三節 「王統」と「文明基盤」――同じ出自と考えてよいのか
一 王の出自が分かっても、国家全体の出自が分かるわけではない
前節では、百済国家の形成を、王権形成を進めた政治勢力と、既存の馬韓地域社会との統合・再編という視点から見た。
ここで、さらに一つ問題を分ける必要がある。
王統の出自と、その国家を実際に支えた文明基盤の出自は同じなのか。
百済王権が扶余につながる系譜認識を持っていた。
これは王統を考えるうえで重要な事実である。
しかし、それだけでは、
誰が農地を耕したのか。
誰が鉄を加工したのか。
誰が舟を造ったのか。
誰が海を渡ったのか。
誰が交易相手との関係を維持したのか。
という問題には答えられない。
王統の系譜と、国家を動かした人々・技術・生産体系の系譜は、いったん分けて検討する必要がある。
二 「国家」は王族だけでは動かない
国家史では、王の名前が史料に残りやすい。
王が即位する。
王が戦う。
王が使者を送る。
王が外交文書を出す。
そのため、後世から見ると国家を動かしているのは王だけのように見える。
しかし、王が命令しただけで国家能力が生まれるわけではない。
食料を生産する農民がいる。
鉄や武器を加工する工人がいる。
舟を造る人々がいる。
海を渡る航海者がいる。
物資を運ぶ人々がいる。
交易を仲介する人々がいる。
兵士を動員する地域有力者がいる。
そして国家が成長すれば、それらを調整する実務を担う人々も必要になる。
つまり、
王は政治的統合の中心になり得るが、国家能力そのものは多数の社会集団によって支えられる。
王統だけを見て国家全体を説明することには限界がある。
三 「技術」にも王統とは別の歴史がある
技術についても同じである。
王朝が成立したから、その瞬間に造船技術が生まれるわけではない。
鉄を扱う技術も突然生まれない。
農業技術も同様である。
航海には、舟の製作だけではなく、
海流。
潮汐。
風。
沿岸地形。
島の位置。
補給地点。
季節による海況の違い。
といった経験知が必要になる。
こうした知識の多くは、一代の王の命令によって作られるものではない。
人々が実際に海へ出て、経験し、失敗し、次の世代へ伝えることで蓄積される。
したがって、
政治権力の成立年代と、社会が持つ技術の成立年代を同じものとして扱ってはならない。
四 百済以前から海は使われていた
第一部で確認したように、列島と朝鮮半島南部の海上交流は、百済成立よりはるか以前まで遡る。
縄文・新石器時代から物資が海を越えていた。
弥生時代には列島系遺物が半島南部へ渡り、人の短期的な滞在を考えることのできる資料も現れる。
鉄をめぐる交易も、後には文献史料から確認できるようになる。
したがって、
百済王権が成立して初めて、この地域の人々が海を知った
という構図にはならない。
百済国家が後に倭や中国王朝との海上外交を展開する以前から、その周辺には海を利用してきた人々と地域社会が存在したのである。
五 「取り込んだ」のか、「作り直した」のか
ここで一つ注意しておきたい。
既存の航海文化や生産技術が存在したからといって、
百済国家がそれをそのまま受け継いだ
と決めることもできない。
国家化によって技術の規模や目的が変化した可能性があるからである。
地域間交易に使われていた舟が、外交使節や軍事輸送にも利用される。
地域工人の技術が、王権の工房や軍事需要へ組み込まれる。
沿岸交通の経験が、より遠距離の航海へ拡張される。
地域首長が持っていた動員力が、王権の軍事力へ接続される。
つまり国家は、
既存の能力を取り込むだけでなく、その能力を別の規模と目的へ再編する
ことができる。
ここに国家形成の重要な意味がある。
六 「百済王統が扶余系」から「百済文化もすべて扶余系」へは進めない
以上を踏まえると、一つの論理的な線引きができる。
百済王統に扶余系の系譜認識がある。
そこから、
百済の航海技術も扶余系。
百済の鉄技術も扶余系。
百済の農業社会も扶余系。
百済の交易網も扶余系。
と連続して結論することはできない。
それぞれについて、別の考古資料や文献史料が必要である。
逆に、
既存の馬韓社会がすべてを持っており、北方系王権は政治だけを持ち込んだ
と断定することもできない。
北方系勢力が新しい軍事技術、政治制度、人的ネットワーク、あるいは大陸との関係を持ち込んだ可能性も検討しなければならない。
したがって本稿が採るべき構図は、
北方から来た政治的要素と、南部に蓄積されていた地域社会の能力が接触し、その組み合わせの中から百済国家が形成された
という仮説である。
七 この仮説には反証条件もある
この考え方は、最初から結論として固定するものではない。
もし、百済成立以前の地域社会に海上交通や専門技術の蓄積を示す証拠がほとんどなく、それらが百済王権成立後に初めて一斉に出現するのであれば、
「既存社会の能力を王権が取り込んだ」
という本稿の仮説は弱くなる。
逆に、国家成立以前から航海、交易、農業、工人活動などが確認され、それらが国家成立後にも形を変えながら続くのであれば、既存社会から国家への継承・再編を考える根拠は強くなる。
つまり必要なのは、
王統の系譜から文化全体を推測することではなく、個々の文化要素について時間軸を追うこと
である。
八 では、北方と南方は何を持ち寄ったのか
ここまで来ると、次の問いが見えてくる。
百済王権の形成に関わった北方系政治勢力は、どのような環境と交通文化を背景としていたのか。
一方、馬韓を含む半島西南部・南部の社会は、どのような海上交通の経験を蓄積していたのか。
そして、この二つが百済国家の形成によってどのように結びついたのか。
この問題を考えるためには、
北方の山地・河川・陸上交通の世界
と、
南方の沿岸・島嶼・海上交通の世界
を比較する必要がある。
次節では、この地理的な違いから、百済が後に持つ海洋能力の形成を検討する。
第四節 「北方の交通」と「南方の海」――百済の海洋能力はどこから来たのか
一 同じ半島でも、地理条件は同じではない
百済王権の形成を考えるとき、もう一つ見落としてはならないものがある。
地理である。
朝鮮半島は一つの陸地であるが、北部の山地・河川世界と、西南部・南部の沿岸世界では、人々が利用する交通手段も生活環境も異なる。
高句麗の初期国家形成地域は、鴨緑江中上流域を中心とする山地・河川世界であった。
一方、後に百済が発展する漢江流域から西海岸、さらに半島南部へ目を向ければ、河川だけでなく黄海・南海へ開かれた海上交通が重要になる。
したがって、
王統の移動と、交通文化の移動を同じものとして考えることはできない。
政治勢力が南下したとしても、その土地に適応し、既存の交通体系を利用しなければ国家を維持することはできない。
二 「高句麗は海を知らなかった」という話ではない
ここは誤解を避ける必要がある。
高句麗が山地・河川を基盤として形成されたからといって、高句麗に海上活動がなかったという意味ではない。
国家領域が拡大すれば、沿岸地域も支配下へ入る。
交易も行う。
軍事上、河川や海を利用する必要も生じる。
時代が下れば、高句麗が水上・海上軍事力を持っていたことを示す史料も現れる。
したがって、
「高句麗=陸上国家、百済=海洋国家」
という単純な二分法にすることはできない。
重要なのは、国家成立後に獲得・拡大した海上能力と、国家成立以前から地域社会に蓄積されていた海上経験を分けることである。
三 「航路」は地図に線を引けば成立するものではない
海上交通を考えるとき、地図上に航路を描くだけでは不十分である。
船体を造る技術がいる。
潮流を知る必要がある。
季節風を読む必要がある。
沿岸地形を覚える必要がある。
停泊できる場所を知る必要がある。
水や食料を補給する場所も必要になる。
さらに、その先に誰がいるのかを知らなければ交易は成立しない。
どこへ行けば何が手に入るのか。
何を持っていけば交換できるのか。
どの季節に渡るのか。
どの海域が危険なのか。
こうした知識は、一人の王が命令した翌日に出来上がるものではない。
実際に海を利用した人々の経験によって蓄積され、次の世代へ伝えられる。
その意味で、
航路そのものが、社会によって蓄積された文化資産である。
四 「対馬海峡の経験」は百済より古い
第一部で見たように、対馬海峡を挟んだ列島と半島南部の往来は、百済という国家が成立する以前から存在していた。
縄文・新石器時代には物資が海を越えている。
弥生時代になると、列島系土器や漁撈具が半島南部で確認され、人の往来や一定期間の滞在まで検討できるようになる。
つまり、
海を渡るという行為そのものは、後の国家外交よりはるかに古い。
もちろん、縄文・弥生時代の航海と、四~五世紀の国家外交をそのまま連続した一つの制度として扱うことはできない。
担い手も、船も、目的も、政治環境も変化している。
それでも、海峡が国家成立以前から繰り返し利用されていたという時間的蓄積は重要である。
五 百済は二つの海へ開かれていった
百済が国家として発展すると、その海上活動はさらに大きな範囲へ広がる。
西には黄海がある。
その向こうには中国大陸がある。
南へ進めば半島南岸があり、さらに対馬・壱岐を経て日本列島へつながる。
つまり百済は、
中国大陸へ向かう海
と、
列島へ向かう海
の双方へ接続できる地理的位置にあった。
百済が中国王朝との外交を進め、同時に倭との政治・交易関係を深めていくためには、この複数方向の海上交通を維持する能力が必要になる。
しかし、その能力を王族だけで担うことはできない。
外交使節を乗せる船が必要である。
船を造る人々が必要である。
航海を担う人々が必要である。
補給を支える沿岸社会が必要である。
海上交通とは、王宮から命令を出せば完結するものではない。
六 「竹幕洞」が示す海の結節点
百済西海岸の海上活動を考えるうえで興味深いのが、竹幕洞祭祀遺跡である。
現行稿で整理したように、この遺跡からは長期間にわたり、在地系だけでなく複数地域との関係を示す遺物が確認されている。
ここで重要なのは、単に「外国製品が出土した」ということではない。
海上交通の要所に、人々が繰り返し立ち寄り、航海に関わる祭祀を行ったと考えられていることである。
そこには、
百済系。
加耶系。
倭系。
中国大陸方面。
など、異なる地域との接触を考えさせる資料が重なる。
このことは、百済の海上活動を王宮外交だけで見ることの限界を示している。
実際に海を支えていたのは、
沿岸地域と、そこを利用する航海者たち
だったからである。
七 「海民」という一つの民族を想定する必要はない
ただし、ここでも注意が必要である。
沿岸社会や航海者が存在したからといって、それらを一つの「海洋民族」としてまとめる必要はない。
地域によって異なる集団がいたであろう。
農耕と漁撈を兼ねた人々もいた可能性がある。
交易を行う人々もいた。
季節的に航海する者もいた。
王権や地域首長に動員される航海者もいた可能性がある。
列島と半島を往還する人々もいたであろう。
重要なのは民族名を先に決めることではない。
海上活動を支える人々と技術が、国家成立以前から地域社会の中に蓄積されていた可能性
を見ることである。
八 百済の海洋能力は「誰か一つの集団」の作品ではない
ここから、本稿の仮説がより明確になる。
百済王統の形成に扶余・高句麗系の政治勢力が関与したとしても、
百済が後に示す海上外交力。
造船能力。
航海知識。
沿岸交通。
交易ネットワーク。
そのすべてを北方から来た一つの集団が持ち込んだと考える必要はない。
一方で、既存の馬韓社会だけですべてを説明する必要もない。
むしろ、
北方から入った政治的・軍事的要素と、南部・西部に蓄積されていた地域社会の海上経験が、新しい国家の中で結びついた
という可能性を検討する方が、本稿で追ってきた時間軸には整合する。
九 「取り込む力」こそ国家能力だったのではないか
ここで第一部の「余剰力」と第二部のテーマがつながる。
国家の力とは、王が持っている能力だけではない。
既存社会に存在する人口。
農業生産。
工人。
船。
航海者。
交易関係。
地域首長。
情報。
これらを結びつけ、
外交へ使う。
交易へ使う。
軍事へ使う。
国家建設へ使う。
ことのできる政治的調整力である。
百済の海洋国家化をそのように見るならば、
新しい王権が海洋文化を一から作ったのではなく、既存の文化的蓄積を取り込み、より大きな国家能力へ再編した
という仮説が浮かび上がる。
もちろん、これは今後さらに史料と考古資料によって検証しなければならない。
しかし少なくとも、
王朝の起源と、航海文化の起源を同一視することはできない。
次節では、ここまで見てきた北方系王統、馬韓社会、海上交通、大陸との接触、列島との往来を一度まとめ、
異なる文化的蓄積を統合することによって国家が成立したのではないか
という第四章の中心命題を検討する。
第五節 「国家は何を取り込んだのか」――既存文化を統合する力
一 百済は一つの要素だけから成立したのではない
ここまでの議論を整理すると、百済国家の形成には、少なくとも複数の歴史的要素が重なっていたと考える必要がある。
扶余につながる系譜認識を持つ王権。
既存の馬韓諸社会。
漢江流域の地域勢力。
黄海沿岸の交通文化。
半島南部へ続く海上交易網。
中国大陸との接触によって入る制度や技術。
そして、日本列島との長期的な往来である。
これらのすべてを、一つの民族、一つの移住、一つの王朝だけで説明することは難しい。
むしろ百済国家とは、
異なる由来を持つ社会的・技術的蓄積が、一つの政治秩序の中へ次第に組み込まれていった結果
として見る必要がある。
二 「取り込む」とは、そのまま残すことではない
ただし、既存文化を取り込むという言葉にも注意が必要である。
王権が既存社会を取り込んだからといって、それ以前の仕組みがそのまま保存されたとは限らない。
地域の農業生産は、王権への貢納や軍事動員を支える生産力へ変わることがある。
地域工人の技術は、王権の需要へ向けられることがある。
地域首長の人員動員力は、より大きな軍事力へ組み込まれることがある。
沿岸の航海者が持っていた海の知識は、外交・交易・軍事輸送へ利用されるようになることも考えられる。
つまり国家化とは、
既存の能力を保存するだけではなく、その用途と規模を組み替える過程
でもある。
三 「地域の余剰」が「国家の余剰」へ変わる
第一部で、本稿は「余剰力」という概念を用いた。
国家成立以前の地域社会にも、すでに余剰力は存在していた。
食料を余分に生産する力。
工人を支える力。
舟を造る力。
交易物資を集める力。
航海者を送り出す力。
しかし、それらは必ずしも一つの政治中枢へ集められていたわけではない。
国家形成によって重要になるのは、
地域ごとに分散していた余剰力を、より広い範囲から集め、別の目的へ再配分できるようになること
である。
地域の余剰が、
軍事へ回る。
外交へ回る。
土木へ回る。
工人集団の維持へ回る。
船舶建造へ回る。
王権の威信を示す施設や物品へ回る。
こうして初めて、地域社会の能力は国家能力へ変換される。
四 百済の成長を「北方文化の移植」だけで説明しない
百済王統に北方との強い系譜認識が存在することは重要である。
しかし、そのことと、百済国家のあらゆる能力が北方から移植されたことは同じではない。
仮に王権形成勢力が北方系であったとしても、南下後の国家経営には現地社会が不可欠である。
農地を耕していた人々。
地域を支配していた有力者。
海岸や河川を知る人々。
工人。
航海者。
交易者。
既存の交通路。
こうした社会基盤を無視して、新しい国家を維持することはできない。
したがって、
百済国家の形成を理解するには、「誰が王になったのか」と「誰が国家能力を支えたのか」を分けて見る必要がある。
五 それでも王権の役割は小さくない
一方で、既存社会の蓄積を重視するあまり、王権の役割を小さく見ることも適切ではない。
既存社会に農業があっても、それだけで広域国家になるわけではない。
舟があっても、それだけで国家外交は成立しない。
工人がいても、それだけで大規模な軍事力にはならない。
地域首長がいても、それぞれが独立していれば、広域的な政治秩序は生まれにくい。
王権の重要性は、
分散していた力を、より大きな政治目的へ結びつけたこと
にある。
誰と同盟するのか。
どこへ軍を送るのか。
どの地域から物資を集めるのか。
どの航路を国家外交に利用するのか。
どの工人をどの事業へ投入するのか。
こうした選択と調整を継続できる政治中枢が成立したことに、国家形成の大きな意味がある。
六 国家形成とは「文化の始まり」ではなく「再編の始まり」である
ここまでを見ると、本章の中心命題が明確になる。
国家が成立したから文化が始まったのではない。
国家以前から文化は存在していた。
人々は農耕していた。
鉄を扱っていた。
舟を利用していた。
交易していた。
地域社会を形成していた。
そこへ、新しい政治的統合が進む。
そして、
既存の人口・技術・交易・航路・余剰力が、より大きな政治秩序の中へ再編される。
その結果として、百済という国家の能力が形成されていったと考えることができる。
国家形成とは、
文化をゼロから作ることではなく、蓄積された文化を政治的に組織し直す過程
でもあったのである。
七 この視点は百済だけで終わらない
この構図は、百済だけに限定されるものではない。
加耶地域でも、国家・政治体の成立以前から農業、鉄、海上交通、地域間交流が存在していた。
新羅についても、後の国家が成立する以前に地域社会の長い発展過程がある。
したがって、
「百済人が作った」
「加耶人が作った」
「新羅人が作った」
という後世の国家名だけから、文化の起源を遡ることには限界がある。
国家名が付く以前の社会まで戻り、
どの地域で、いつ、どの技術が存在し、誰がそれを担い、国家成立後にどう再編されたのか
を追う必要がある。
八 第四章で見えてきたもの
第四章では、百済国家形成を一つの単純な移住物語としてではなく、複数の要素の統合として見てきた。
百済王権には扶余につながる系譜認識がある。
その一方で、南下した先には既存の馬韓社会が存在した。
さらに、その地域には国家成立以前から農業、工人、交通、海上交流の蓄積があった。
したがって、
王統の成立と、文明基盤の成立は同じ時間軸ではない。
百済国家の成長とは、
北方系の政治的要素。
既存の馬韓社会。
大陸との関係。
黄海沿岸の交通。
半島南部の海域世界。
列島との交流。
これらを新しい政治秩序の中へ組み込み、国家能力へ変換していく過程として検討できる。
九 次に問うべきは「技術を誰が運んだのか」である
ここまで来ると、次の問題が現れる。
列島へ入った鉄。
須恵器。
馬。
金工。
灌漑技術。
新しい窯業技術。
これらの多くが、大陸や朝鮮半島との交流の中で列島へ導入されたこと自体は重要である。
しかし、
「半島から来た」ことと、「誰が運んだのか」は同じ問題ではない。
製品が移動したのか。
工人が移動したのか。
列島側の人々が半島へ渡って技術を学んだのか。
複数地域の人々が共同して技術を形成したのか。
そして、その人々はどの政治勢力に属していたのか。
ここから第二部は、
文化の移動から、人の移動へ
さらに踏み込む。
次章では、
「大陸の技術は誰が倭へ運んだのか」
という問題を検証する。
第五章 「技術を運んだのは誰か」――大陸の技術はどう倭へ届いたのか
第一節 「中国→半島→列島」――地理的経路と人の移動は同じではない
一 「半島を経由した」という事実
日本列島の古代技術を考えるとき、
中国大陸 → 朝鮮半島 → 日本列島
という大きな地理的流れを否定する必要はない。
水田稲作。
金属器。
鉄素材。
新しい窯業技術。
馬と馬具。
金工。
灌漑。
炊事施設。
こうしたさまざまな文化要素について、大陸や朝鮮半島側に先行例があり、その後、列島へ導入されたことは重要である。
特に古墳時代には、朝鮮半島との交流を通じて、列島社会に新たな技術や生産体系が加わっていく。
したがって、
半島を経由して多くの技術が列島へ入った
という大枠そのものを否定する必要はない。
問題は、その先である。
二 「どこから来たか」と「誰が持ってきたか」は違う
ある技術が朝鮮半島から日本列島へ入った。
この一文だけを見ると、単純な話に見える。
しかし実際には、その中に複数の問題が含まれている。
その技術はどこで最初に生まれたのか。
どこで改良されたのか。
どこで製品が作られたのか。
どの航路を通ったのか。
誰が運んだのか。
誰が列島で使用したのか。
誰が技術を教えたのか。
そして、その人物はどの地域社会、どの政治勢力に属していたのか。
これらはすべて別の問題である。
したがって、
「朝鮮半島から伝わった」という地理的説明だけで、技術を運んだ人々の出自まで決めることはできない。
三 製品が渡る場合と、人が渡る場合
技術の移動には、いくつもの形が考えられる。
完成した製品だけが海を渡る場合。
素材が運ばれ、列島側で加工される場合。
工人自身が列島へ移動する場合。
列島側の人間が半島へ渡り、技術を習得して帰る場合。
異なる地域の工人が接触し、新しい製作方法が生まれる場合。
これらは考古資料上、まったく同じ現象ではない。
例えば完成品が出土したからといって、その製品を作った工人まで移住したとは限らない。
一方、列島内で新しい製作工程そのものが確認される場合には、単なる製品流通だけではなく、技術知識の移動まで考える必要が生じる。
つまり、
物の移動と、技術の移動と、人の移動は分けて考えなければならない。
四 鉄を見ると違いが分かりやすい
この違いは、鉄を考えると分かりやすい。
列島で鉄製品が使われていたこと。
鉄素材が半島方面から入っていたこと。
列島内で鍛冶加工が行われていたこと。
列島内で鉄そのものを製錬していたこと。
これらは同じではない。
鉄素材を外部から入手し、列島内で武器・農具・工具へ加工する社会であれば、
鉄を生産する地域
と、
鉄を加工・利用する地域
は別になる。
したがって、列島で高度な鉄器加工が行われていたとしても、それだけで列島内製鉄の成立を意味しない。
逆に、半島産の鉄素材を利用していたとしても、列島側が単なる受け手だったことにはならない。
素材を選び、
運び、
加工し、
用途に応じた製品へ変える技術体系が列島側にも必要だからである。
五 「技術を受け取る力」も技術である
ここで重要になるのが、第一部から見てきた列島側の社会能力である。
新しい技術は、何もない社会へ落ちてくるわけではない。
鉄素材を受け入れるなら、加工できる工人が必要になる。
馬を導入するなら、飼育する土地と人が必要になる。
新しい窯業を導入するなら、燃料、粘土、窯を造る技術、焼成を管理する人々が必要になる。
灌漑技術を導入するなら、水路を掘り、維持する共同体が必要になる。
つまり外来技術が定着するためには、
それを理解し、使い、再生産できる受け入れ側の社会能力
が必要である。
技術伝来とは、一方が教え、他方がそのまま受け取るだけの現象ではない。
六 列島側から海を渡った人々もいた
第一部では、弥生時代から列島系土器や漁撈具が朝鮮半島南部で確認されることを見てきた。
つまり、列島側の人々自身が海を渡っていた可能性を検討しなければならない。
この事実を技術伝来の問題へ重ねると、一つの重要な可能性が生まれる。
列島側の人々が半島へ渡る。
現地の製品を見る。
技術を知る。
工人と接触する。
素材を入手する。
そして列島へ戻る。
このような移動が存在したなら、
「半島から技術が伝わった」ことと、「半島出身者だけが技術を運んだ」ことは同義ではなくなる。
もちろん、個々の技術について誰が運んだのかは別途検証しなければならない。
しかし少なくとも、列島側を常に受動的な位置へ置くことはできない。
七 「渡来人」という言葉だけでは足りない
ここで「渡来人」という言葉にも注意が必要になる。
列島へ渡ってきた人物がいた。
その事実を表す言葉としては便利である。
しかし、それだけでは、
どこで生まれたのか。
どこで育ったのか。
どの言語を使ったのか。
どの技術を身につけていたのか。
どの政治勢力に属していたのか。
何世代前からどこに住んでいたのか。
までは分からない。
半島から列島へ移動した人物だからといって、その人物の祖先・文化・政治的所属まで自動的に一つに決めることはできない。
海峡を何世代にもわたって人々が往還していたのであれば、
出身地と文化的所属と政治的所属が一致しない人物
が存在しても不思議ではない。
八 技術史を「矢印」から「人の動き」へ変える
ここまでを整理すると、
中国大陸 → 朝鮮半島 → 日本列島
という矢印は、技術の大きな地理的移動を理解するうえでは有効である。
しかし、それだけでは人間の動きは見えない。
実際には、
製品が動く。
素材が動く。
工人が動く。
交易者が動く。
航海者が動く。
技術を学ぶ人が動く。
そして、一度海を渡った人が再び戻る場合もあり得る。
したがって本稿では、
「どこから技術が来たのか」だけでなく、「誰が海を渡り、その技術を動かしたのか」
を追う。
次節では、
経由地と技術者の出自は同じなのか
という問題を、さらに具体的に検討する。
第二節 「経由地」と「技術者の出自」――同じものとして扱ってよいのか
一 「半島から来た」という言葉には複数の意味がある
「この技術は朝鮮半島から日本列島へ伝わった」
古代史では、よく使われる表現である。
しかし、この一文には、実際にはいくつもの異なる問題が含まれている。
その技術はどこで発明されたのか。
どこで改良されたのか。
どこで製品が作られたのか。
どの地域を経由したのか。
誰が運んだのか。
誰が列島で技術を再現したのか。
そして、その人物はどこで生まれ、どの社会に属していたのか。
これらは同じではない。
例えば中国大陸で発達した技術が朝鮮半島を経由して列島へ入ったとしても、
「技術の起源=中国」
「経由地=朝鮮半島」
「技術を運んだ人物=半島出身者」
とは限らないのである。
二 「物の産地」と「運んだ人」も別である
同じことは製品についてもいえる。
ある土器や金属製品が半島で作られた。
それが列島で出土した。
ここから分かるのは、基本的には、
その物が半島側から列島へ移動した
ということである。
しかし、それを誰が運んだのかまでは分からない。
半島側の交易者が運んだ可能性がある。
列島側の交易者が半島で入手し、持ち帰った可能性もある。
対馬・壱岐などの中間地域の人々が仲介した可能性もある。
複数の交易者を経て列島へ届いた場合も考えられる。
したがって、
遺物の産地から、運搬者の出自を直接決めることはできない。
三 鉄素材を見ると、その違いはさらに明確になる
鉄は、この問題を考えるうえで分かりやすい。
古墳時代前半から中頃の列島では、鉄素材や鉄製品を半島方面から得ながら、列島内でも鍛冶加工が行われていた。
ここでは少なくとも、
鉄素材を生産する場所。
鉄素材を集める場所。
海を越えて運ぶ人。
列島内へ流通させる人。
鉄を武器・工具・農具へ加工する工人。
完成品を使用する人。
という複数の段階が存在する。
したがって、
「鉄が半島から来た」ことと、「鉄器製作のすべてを半島出身者が担った」ことは別問題である。
素材の供給地と加工地が異なることは、古代の生産体系では十分に起こり得る。
四 工人が渡った場合でも、その人生史までは分からない
では、列島で新しい製作技法が現れ、工人そのものの移動を考える必要が出てきた場合はどうだろうか。
ここでも慎重さが必要になる。
半島から列島へ渡った工人がいたとしても、
その人物が半島で生まれたとは限らない。
列島出身者が半島へ渡り、技術を習得した後に戻った可能性もある。
列島出身者と半島出身者の間に生まれた人物かもしれない。
半島南部で何世代にもわたって暮らしていた列島系集団の子孫という可能性も、理論上は排除できない。
逆に、半島から渡った人物が列島で長期間暮らし、その子孫が列島社会の一員として技術を継承する場合もある。
つまり、
移動した方向と、その人物の出自・文化的所属・政治的所属は、必ずしも一致しない。
五 「渡来した人」と「外国人」は同義ではない
ここで「渡来人」という言葉をもう一度考える必要がある。
渡来とは、基本的には移動を表す言葉である。
海の向こうから列島へ渡ってきた。
これは移動方向の説明である。
しかし後世の国家境界を前提として、
「渡来した人物=外国人」
と単純に置き換えると、古代の海峡社会を見誤る可能性がある。
国家境界が現在ほど固定されていない時代には、人々は交易、婚姻、技術習得、外交、軍事など、さまざまな理由で地域を移動していた。
まして第一部で見たように、列島と半島南部の往来は国家成立以前から存在する。
その世界では、
生まれた場所。
暮らした場所。
技術を学んだ場所。
政治的に属する勢力。
使用する文化。
これらが必ずしも一つに重ならない人物が存在し得る。
六 「半島人が教え、倭人が習った」だけでは足りない
もちろん、半島から列島へ移住した工人が技術を伝えた事例は重要である。
それを否定する必要はない。
しかし、それだけを唯一の技術移動モデルにすると、第一部で確認した双方向の海上交流と整合しなくなる。
列島側の人々自身も海を渡っていた。
半島南部には列島系文化を持つ人々が活動していた可能性がある。
ならば技術習得についても、
半島の工人が列島へ渡る。
列島の人が半島へ学びに行く。
双方の工人が接触する。
製品だけが先に入り、それを模倣する。
技術の一部だけを取り入れる。
列島側の既存技術と組み合わせる。
という複数の経路を考えなければならない。
実際の技術移動は、
「教える側」と「教わる側」が固定された一本の線ではなかった可能性
がある。
七 技術はそのままコピーされるとは限らない
さらに重要なのは、技術が海を渡った後である。
新しい技術を受け取った社会は、それを必ずしもそのまま再現するわけではない。
使える材料が違う。
既存の道具が違う。
社会の需要が違う。
生産規模が違う。
政治権力の求めるものも違う。
そのため、外から入った技術が現地の技術と組み合わされ、別の形へ変化することがある。
この段階まで進むと、
どこまでが外来技術で、どこからが列島側での改良なのか
を単純な起源論だけで分けることは難しくなる。
技術史とは、最初に誰が持っていたかだけを問うものではない。
誰が受け取り、誰が組み替え、どの社会がそれを定着させたのか
まで見る必要がある。
八 「経由地」から「人の履歴」へ
したがって、本稿では今後、
「中国から来た」
「半島から来た」
という地理的表現だけで、人間集団の出自を決めない。
考えるべきなのは、
技術の起源。
素材の産地。
製品の生産地。
移動経路。
運搬者。
技術者。
居住地。
文化的所属。
政治的所属。
これらを可能な限り分けることである。
特に列島と半島南部のように、長期間にわたって人々が往来した地域では、
「どこを通って来たか」より、「その人物がそれまでどのような移動を経験していたのか」
という視点が重要になる。
そして、この問題をさらに具体的にすると、次の問いへ進む。
実際に海峡を往還し、製品や技術を動かした工人・交易者とは、どのような人々だったのか。
次節では、考古資料に現れる人の移動へ焦点を移す。
第三節 「海峡を往還する人々」――工人・交易者は一方向に動いたのか
一 技術の移動を追うと、人の姿が見えてくる
前節では、技術の起源、経由地、製品の生産地、そして技術を運んだ人物の出自は、それぞれ別に考える必要があることを確認した。
では実際に、その技術を動かしたのは誰だったのか。
ここで再び重要になるのが、列島と朝鮮半島南部を結んだ海域社会である。
五~六世紀になると、半島中南部では倭系とされる土器や武器・装身具・祭祀具などが確認され、墓制や居住のあり方を含め、人そのものの移動を検討すべき資料も増えてくる。
ただし、
倭系遺物があることと、そこに倭人が居住していたことは同じではない。
製品が交易によって運ばれた可能性もある。
贈与品であった可能性もある。
現地の人々が倭系文物を採用した可能性もある。
したがって、遺物だけから人の出自を決めることはできない。
重要なのは、複数の資料を重ねたとき、物の移動だけでは説明しにくい現象が現れるかどうかである。
二 「倭系の物」と「倭系の人」を分ける
考古資料から人の移動を考える場合には、段階を分ける必要がある。
一つの倭系製品が出土する。
これはまず、物の移動を示す。
複数の倭系製品が継続的に出土する。
そこでは反復する交流を考えることができる。
さらに、生活土器、居住遺構、製作技術、食生活、墓制などまで倭系要素が重なる。
ここまで来ると、人の滞在や居住という可能性が強くなる。
つまり、
物 → 技術 → 生活 → 人
と、一段ずつ証拠を積み上げる必要がある。
「倭系遺物が出たから倭人が住んでいた」
と直結させるのではなく、
どこまでの人間活動なら資料から説明できるのか
を問うのである。
三 交易者は商品だけを運んだのか
海峡を越えた交易者についても、単なる運搬人と考えるだけでは不十分である。
遠距離交易を行うには、交換物資だけではなく情報が必要になる。
どこで何が手に入るのか。
誰と取引するのか。
どの港へ入るのか。
どの季節に航海するのか。
どの物が相手社会で価値を持つのか。
こうした情報を持つ人物は、単に物を運ぶだけではない。
異なる地域社会をつなぐ仲介者でもある。
交易が反復されれば、相手社会の言葉や慣習、人間関係についての知識も蓄積される。
したがって交易者は、
物資だけでなく、情報と人間関係を運ぶ存在
でもあった可能性がある。
四 工人は技術とともに動く
技術移動では、工人の存在がさらに重要になる。
高度な技術には、文章だけでは伝えにくい知識が多い。
炉の温度を見る。
土の状態を見る。
木材の性質を判断する。
金属を叩く強さを変える。
焼成の状態を見極める。
こうした技術は、実際の作業を通じて伝えられる部分が大きい。
したがって新しい技術が列島へ定着するとき、
工人自身の移動
あるいは、
技術を学ぶ人間の移動
を考える必要がある。
半島側の工人が列島へ渡る場合もある。
列島側の人間が半島へ渡って学ぶ場合もある。
双方の工人が一定期間同じ場所で作業する場合も考えられる。
「技術が伝わった」という現象の背後には、人と人との接触がある。
五 「学びに行く倭人」という可能性
ここで重要なのは、列島側の人間を常に受け身と考えないことである。
第一部で見たように、列島側から半島南部へ人が渡っていた可能性は、弥生時代から検討できる。
五世紀になると政治・軍事・交易関係はさらに複雑になる。
列島側に必要な鉄素材、馬、須恵器生産技術、金工技術などが半島側に存在するのであれば、
必要とする側が自らその場所へ向かう
という行動も十分考えられる。
現地で製品を購入する。
工人と交渉する。
技術を見る。
一定期間滞在する。
技術者を伴って帰る。
あるいは自ら技術を習得して帰る。
こうした経路は、技術伝播を考えるうえで検討すべき選択肢である。
現行稿でも、国立歴史民俗博物館の研究を踏まえ、倭側の人々が百済・新羅・加耶・栄山江流域との交流のなかで技術取得に関与したという視点を置いている。
六 海を渡る方向は一方向ではなかった
ここで、技術移動を一本の矢印として描くことの限界が見えてくる。
従来の単純な図式では、
半島 → 列島
となる。
しかし実際の海域社会では、
半島から製品が来る。
工人が来る。
列島から交易者が渡る。
列島側の製品が半島へ渡る。
人が滞在する。
技術を身につけて戻る。
再び別の人物が海を渡る。
という複数方向の移動が存在し得る。
したがって、より実態に近い基本図は、
半島 ⇄ 列島
である。
これは技術の起源が同じだという意味ではない。
政治的に同じ社会だったという意味でもない。
人・物・情報が双方向に移動した可能性を前提として検証する
ということである。
七 対馬・壱岐は「途中の島」だけではない
この往還を考えるとき、対馬・壱岐の存在も重要になる。
列島と半島の間には、海だけがあるのではない。
島がある。
そこに暮らす人々がいる。
航海者が休む場所になる。
食料や水を補給する場所にもなる。
交易の仲介地点になる可能性もある。
つまり、
北部九州 → 壱岐 → 対馬 → 半島南部
という航路を考える場合、壱岐・対馬の人々を単なる通過点として扱うことはできない。
彼ら自身が交易者、案内者、仲介者、航海者として活動した可能性を考える必要がある。
海峡世界とは、二つの岸だけで成立するものではない。
その間にある島嶼社会を含めたネットワーク
なのである。
八 交易者・工人はどこに「所属」していたのか
そしてここで、第一部から繰り返してきた問いが再び現れる。
海を渡った工人は誰に属していたのか。
交易者は誰に属していたのか。
列島の王権に直接従属していたのか。
地域首長のもとで活動していたのか。
独自の交易集団だったのか。
半島側の政治勢力とも関係を持っていたのか。
現段階では、そのすべてを一つに決めることはできない。
しかし、一つだけ重要なことがある。
人は、地図上の国境線そのものではない。
一人の人物が複数地域を移動し、複数の社会との関係を持つことはあり得る。
まして海峡を継続的に往還する工人や交易者であれば、
生まれた場所。
暮らす場所。
働く場所。
技術を学んだ場所。
政治的に関係する勢力。
が一致しない場合も考えなければならない。
九 「渡来」だけでは見えない移動がある
ここまでを見ると、「渡来」という一方向の言葉だけでは説明しにくい人々が見えてくる。
半島から列島へ渡って、そのまま暮らした人。
列島から半島へ渡り、一定期間活動して戻った人。
何度も両地域を往復した人。
親の世代とは別の地域へ移動した人。
異なる地域の人と婚姻し、その子孫が再び海を渡った場合も考えられる。
このような人々が存在したなら、
ある人物が「どこから来たか」だけでは、その人物の文化的背景を説明できない。
海域社会における人間移動は、
移住
だけではなく、
滞在・往還・帰還
を含めて考える必要がある。
そして、ここから本稿にとって重要な作業仮説が生まれる。
一度列島へ渡った人物やその子孫が、再び半島へ渡る。
あるいは、半島へ渡った列島側の人物が、現地文化や技術を身につけて帰ってくる。
次節では、この**「帰還型・往還型移動」**という可能性を検討する。
第四節 「帰る人、再び渡る人」――帰還型・往還型移動という可能性
一 「渡ってきた」で人の移動は終わるのか
古代の人間移動を考えるとき、しばしば一方向の移住として描かれる。
半島から列島へ渡る。
その土地に定住する。
そこで物語が終わる。
しかし、海峡を挟んだ往来が長期間継続していたのであれば、人間の移動もそれほど単純だったとは限らない。
一度海を渡った人が、再び元の地域へ戻る。
一定期間滞在して帰る。
何度も海峡を往復する。
本人ではなく、その子や孫が祖先のいた地域へ渡る。
こうした移動も考える必要がある。
本稿では、このような現象を便宜上、
「帰還型移動」
あるいは、
「往還型移動」
として検討する。
二 出身地と文化的所属は一致しないことがある
仮に、半島から列島へ移動した人物がいたとする。
その人物が列島で生活する。
婚姻する。
地域社会へ参加する。
列島側の土器、木工、農業、航海、祭祀などの文化の中で暮らす。
その状態が一世代、二世代と続けば、その子孫の文化的背景は祖先と同じとは限らない。
そして、その本人あるいは子孫が再び半島へ渡ったとする。
この人物を、
「半島系」
と呼ぶべきなのか。
「倭系」
と呼ぶべきなのか。
問題は簡単ではない。
祖先の出自を基準にすれば半島側につながる。
しかし、育った社会や身につけた生活文化を基準にすれば列島側につながることもあり得る。
つまり、
血縁上の出自と、文化的な所属は同じではない。
三 逆方向も当然考えなければならない
これは逆の場合にも当てはまる。
列島側の人物が半島南部へ渡る。
交易や漁撈に従事する。
現地の人々と暮らす。
鉄加工や窯業など、新しい技術に接する。
場合によっては現地で長期間活動する。
その後、列島へ戻る。
この場合、列島へ戻ってきた人物は列島出身者でありながら、
半島で習得した技術や生活経験を持つ人物
となる。
その人物が新しい製作技術を列島へ持ち帰った場合、考古学的には「半島系技術の流入」として見えるかもしれない。
しかし、実際にそれを運んだ人物まで半島出身だったとは限らない。
ここに、
技術の起源と、技術を運んだ人物の出自を分ける必要
がある。
四 海峡社会では四つの「所属」がずれる可能性がある
この問題を整理すると、海峡を往還する人物には、少なくとも四つの異なる属性を考える必要がある。
出身地
どこで生まれたのか。
文化的所属
どの社会の生活様式や習俗の中で育ったのか。
技術的所属
どこで技術を学び、どの製作体系を身につけていたのか。
政治的所属
その時点で、どの首長・王権・地域政治体と関係していたのか。
これら四つは一致する場合もある。
しかし、必ず一致するとは限らない。
海を越える移動が何世代にもわたって繰り返されれば、
一人の人物の中に複数地域の履歴が重なる
こともあり得るのである。
五 土器一個から人物の人生史は読めない
もちろん、この仮説には大きな限界がある。
一個の土器を見て、
「この人物は半島から列島へ渡り、その子孫が再び帰った」
などと人物の人生史を復元することはできない。
墓制が似ている。
土器が似ている。
装身具が似ている。
それだけで帰還型移動を証明することもできない。
したがって、この仮説を検証するには複数の資料を重ねる必要がある。
土器の胎土。
製作工程。
使用痕。
食生活。
墓制。
居住遺構。
人骨。
同位体分析。
古代DNA。
さらに可能であれば、地域ごとの年代差まで重ねる。
一つの資料で人の移動を決めるのではなく、
異なる証拠が同じ方向を示すか
を見る必要がある。
六 「倭系文化を持つ人=列島生まれ」とは限らない
この視点を持つと、考古資料の読み方も少し変わる。
半島南部で倭系土器や倭系墓制が確認された場合、
列島から移住した人物。
列島と往還していた人物。
列島系文化を学んだ現地の人物。
列島系の親を持つ人物。
以前列島で暮らしていた人物やその子孫。
複数の可能性が生じる。
したがって、
倭系文化を使用していることと、列島で生まれたことは同じではない。
逆に列島側で半島系文化を使用している人物についても、同じ注意が必要である。
七 「渡来人」という一語では時間の厚みが消える
一方向の移住だけを前提とすると、
半島から列島へ来た人を「渡来人」と呼び、
列島側の社会がその技術を受け入れた、
という構図になりやすい。
しかし実際には、
祖父母の世代で移住した人。
現地で生まれた二世・三世。
交易のため一時滞在する人。
季節的に往還する人。
技術習得のため長期滞在する人。
婚姻によって移動する人。
政治的事情で移住する人。
帰還する人。
という多様な移動が考えられる。
これらをすべて一つの「渡来」という言葉でまとめると、
人間の移動が持つ時間の厚み
が見えなくなる。
八 仮説として重要なのは「帰還した」と決めることではない
本稿が帰還型・往還型移動を提示する目的は、
「半島に見える倭系文化はすべて帰還者が作った」
と主張することではない。
それでは逆方向の単純化になる。
重要なのは、
一方向移住以外の選択肢を最初から排除しないこと
である。
倭系遺物がある。
ならば列島から人が来たのか。
現地で模倣されたのか。
技術だけが伝わったのか。
長期滞在者がいたのか。
何度も往還した人がいたのか。
祖先が移住した後、その子孫が戻ってきたのか。
これらを比較し、最も資料に整合する説明を選ぶ必要がある。
帰還型移動とは結論ではなく、
検証すべき作業仮説の一つ
なのである。
九 海峡を「国境」ではなく「生活圏」として見る
第一部から見てきたように、列島と半島南部を隔てる海は、人々を完全に切り離す壁ではなかった。
その間には対馬と壱岐がある。
航路がある。
交易がある。
婚姻や技術交流があった可能性もある。
国家の境界が後世ほど固定されていない時代であれば、
海を越えて移動することと、現代的な意味で「外国へ移住する」ことをそのまま同一視することもできない。
人々にとって海峡は、
越えられない国境であると同時に存在したのではなく、場合によっては複数地域を結ぶ生活・交易空間でもあった
と考える必要がある。
十 人が往還するなら、技術も循環する
そして、この帰還型・往還型移動という視点は、技術史にも重要な意味を持つ。
人が一方向にしか動かなければ、技術も、
半島 → 列島
という形で理解しやすい。
しかし人が往還するのであれば、
技術を持つ人が列島へ来る。
列島側の人が半島で技術を学ぶ。
列島で技術が改良される。
その技術を持った人や製品が再び半島へ渡る。
という循環も起こり得る。
その場合、技術史は一本の矢印では表せない。
次節では、この問題をさらに広げ、
「技術伝来」という一方向モデルから、「海域技術ネットワーク」という循環モデルへ
視点を移していく。
第五節 「技術伝来」から「海域技術ネットワーク」へ
一 一本の矢印では説明できなくなってきた
ここまで見てくると、「技術伝来」という言葉そのものを少し考え直す必要がある。
従来の単純な図式であれば、
中国大陸 → 朝鮮半島 → 日本列島
という流れになる。
中国大陸で技術が発達する。
朝鮮半島へ伝わる。
そこから列島へ伝わる。
大きな地理的流れとして、この構図そのものを否定する必要はない。
しかし、人の移動まで含めて見ると、それだけでは説明できない。
半島南部の既存社会が大陸系技術を受け入れる。
列島側の人々が半島へ渡る。
現地で製品や技術に触れる。
半島側の工人が列島へ渡る。
列島へ入った技術が既存の技術と組み合わされる。
さらに、列島側で変化した製品や文化要素が再び半島へ渡る。
そこには一本の矢印ではなく、
複数方向の移動
が存在する。
二 「技術」は物ではなく、人間関係の中を移動する
技術は、それ自体が海を渡るわけではない。
製品だけなら、交易によって移動できる。
しかし製作方法まで移動するためには、人が関わる。
教える人。
学ぶ人。
実際に作る人。
材料を供給する人。
道具を準備する人。
それを必要とする人。
こうした人間関係があって、初めて技術は別の社会へ定着する。
したがって、
技術の移動とは、人の移動と社会関係の形成でもある。
新しい技術が入った地域では、単に「外国の技術を受け取った」のではなく、その技術を現地社会の中へ組み込む過程が必要になる。
三 大陸の技術も、半島で一度変化している可能性がある
中国大陸に先行する技術が存在したとしても、それがそのままの形で列島まで届いたとは限らない。
半島側の地域社会がまず受け取る。
そこで利用方法が変わる。
現地の材料に合わせて製作方法が変化する。
既存の技術と組み合わされる。
その後、さらに列島へ渡る。
つまり、
中国大陸 → 半島 → 列島
という経路の途中には、それぞれの地域社会による受容と改変が存在し得る。
列島へ到達した技術を考える場合、
「最初にどこで生まれたか」
だけでなく、
「途中でどのような社会を通過し、そこで何が変わったのか」
を見る必要がある。
四 列島でも再び作り替えられる
そして列島へ入った技術も、そのまま保存されるとは限らない。
列島にはすでに、
木工。
漁撈。
航海。
土器製作。
漆工。
地域物流。
といった技術的蓄積が存在していた。
そこへ新しい鉄工具や窯業技術などが入れば、既存技術と結びつく。
鉄工具が木工能力を高める。
木工技術の向上が建築や造船へ影響する。
造船や交通能力の変化が物流を広げる。
物流の拡大が原料・製品・人の移動を増やす。
一つの技術が別の技術を変化させるのである。
したがって、
外来技術の導入とは、既存文化の置き換えではなく、既存技術との再結合でもある。
五 「どちらが教えたか」だけでは技術史を捉えられない
ここで技術交流を、
「半島側が教えた」
「列島側が学んだ」
という二者関係だけで考えることの限界が見えてくる。
ある技術については、半島側の工人が直接伝えた可能性がある。
別の技術については、列島側の人物が半島へ渡って習得した可能性がある。
製品の模倣から始まった場合もあるだろう。
複数地域の工人が接触する中で技術が形成された場合も考えられる。
さらに、同じ技術でも時期によって伝わり方が変化した可能性がある。
したがって重要なのは、
どちらが文明を与えたか
を決めることではない。
どの技術が、どの時期に、どの人間関係を通じて移動したのか
を一つずつ検証することである。
六 海峡は「技術の通路」でもあった
第一部で見た海域社会の存在をここへ重ねると、対馬海峡の意味も変わって見える。
そこを渡ったのは、完成品だけではなかった。
人が渡る。
人が戻る。
技術者が移動する。
交易者が情報を運ぶ。
素材が移動する。
新しい製品が持ち帰られる。
一度入った技術が別の地域で改変され、その結果が再び海を越えることもあり得る。
つまり海峡は、
物資の交易路であると同時に、技術と情報の交換路
でもあったと考えることができる。
七 「海域技術ネットワーク」という見方
そこで本稿では、このような構造を便宜上、
「海域技術ネットワーク」
として捉える。
これは、一つの統一組織が存在したという意味ではない。
一つの民族が海域全体を支配していたという意味でもない。
複数の地域社会。
複数の政治勢力。
工人。
交易者。
航海者。
中間地域の人々。
こうした異なる主体が海上交通を通じて接触し、物・技術・情報を動かしていたという分析上の概念である。
その基本構造は、
大陸 → 半島 → 列島
という一方向だけではなく、
大陸 ⇄ 半島諸地域 ⇄ 海峡地域 ⇄ 列島諸地域
という複数方向の接続として考える方が実態に近い。
八 ネットワークの存在と、政治的支配は別問題である
ただし、ここでも重要な区別がある。
人や技術が広い範囲を移動しているからといって、その全域を一つの国家が支配していたとは限らない。
交易ネットワークがあること。
文化的な共通性があること。
技術が共有されること。
政治的に同じ国家へ属すること。
これらは別の問題である。
したがって、
海域技術ネットワークの存在を、そのまま倭・百済・加耶などの政治的支配範囲へ置き換えることはできない。
むしろ、本稿で問うべきなのは、
その既存ネットワークを、
後の国家がどこまで利用し、統制し、自らの政治力へ変えていったのか
ということである。
九 技術を持つことと、国力へ変えることは違う
そして第五章の最後に、もう一つ重要な問題が残る。
新しい技術が列島へ入った。
それだけで列島社会が大きく変化するわけではない。
一つの鉄器を持つこと。
一頭の馬を飼うこと。
一人の優れた工人がいること。
それだけでは、大きな社会変化にはならない。
技術を広く利用する。
原料を継続して供給する。
工人を養成する。
生産を拡大する。
製品を運ぶ。
各地へ普及させる。
政治権力が継続的に需要する。
こうした条件が重なったとき、技術は社会全体の生産力へ変わる。
つまり次に問うべきなのは、
「技術がどこから来たのか」ではなく、「入ってきた技術を列島社会が何に変えたのか」
である。
第五章では、技術の移動を一本の伝来経路ではなく、人・物・情報が往還する海域ネットワークとして捉え直した。
次章では、その技術を受け取った列島社会の側へ視点を移す。
外から入った技術は、そのまま模倣されたのか。
それとも縄文以来の既存技術と結びつき、別の生産体系へ変化したのか。
第六章 「技術を受け取った後」――列島で起きた複合技術革新
第一節 「伝わった後」が重要である――技術を持つことと社会を変えることは違う
一 「いつ伝わったか」だけでは終わらない
技術史では、ある技術がいつ列島へ伝わったのかが重視される。
水田稲作はいつ来たのか。
鉄器はいつ来たのか。
須恵器はいつ始まったのか。
馬はいつ導入されたのか。
もちろん、これらの年代を確認することは重要である。
しかし、本稿ではもう一つの問いを重視する。
その技術は、伝わった後にどうなったのか。
技術が一度入ってくることと、その技術が社会全体へ定着することは同じではない。
さらに、その技術によって社会の生産力そのものが変化することも、別の段階である。
二 「一つ持っている」と「使いこなす」は違う
例えば、一つの鉄器を輸入する。
それだけなら、鉄器という製品を持っていることになる。
しかし、鉄素材を継続的に入手し、それを加工する工人が育ち、農具・工具・武器として各地で利用されるようになれば、意味は変わる。
馬も同じである。
一頭の馬が渡来しただけでは、社会構造は大きく変わらない。
飼育する。
繁殖させる。
餌を確保する。
馬具を作る。
騎乗技術を習得する。
運搬や軍事へ利用する。
そこまで進んで初めて、馬という外来要素は社会的な技術体系になる。
須恵器も同様である。
完成品が一個輸入されることと、
窯を築き、
原料を集め、
成形し、
高温で焼成し、
製品を継続的に供給することは、
まったく異なる段階である。
つまり、
「技術が存在すること」と「技術を再生産できること」は違う。
三 技術は一人の工人だけでは定着しない
新しい技術が社会へ定着するためには、技術者だけでは足りない。
原料が必要になる。
燃料が必要になる。
工具が必要になる。
作業場所が必要になる。
製品を運ぶ物流が必要になる。
そして、その製品を継続的に必要とする社会が必要になる。
工人を長期的に活動させるためには、食料を供給する社会も必要である。
つまり技術とは、
工人だけではなく、生産・物流・需要・食料供給を含む一つの社会的システム
として考えなければならない。
この段階になると、技術の問題は単なる「伝来史」ではなくなる。
社会の生産構造そのものの問題になる。
四 五世紀は「技術が来た時代」だけではない
五世紀の列島では、朝鮮半島との交流を通じて、多様な技術や文化要素が導入された。
須恵器。
鉄器生産に関わる技術。
金工。
馬の飼育。
灌漑。
新しい炊事具。
カマドなどの生活施設。
国立歴史民俗博物館は、この時期について、倭社会が朝鮮半島から多様な情報・技術・道具を受け入れ、それらを取捨選択し、変容させ、自らの文化として定着させていったと説明し、五世紀を「技術革新の世紀」と評価している。
ここで重要なのは、
「受け入れた」だけで終わっていない
という点である。
取捨選択する。
変化させる。
社会へ定着させる。
この過程こそ、列島側で起きた変化なのである。
五 「突然高度になった」のではない
ただし、五世紀を技術革新の時代と呼ぶからといって、それ以前の列島社会に技術基盤が存在しなかったという意味ではない。
第一部で見てきたように、列島にはすでに、
木工。
造船。
漁撈。
航海。
土器製作。
漆工。
農業。
地域間物流。
などの長い蓄積が存在した。
そこへ新しい素材や技術が加わったのである。
したがって、この変化を、
古い列島文化が消え、外から新しい文明に置き換えられた
と考える必要はない。
むしろ、
既存の技術体系へ、新しい素材・工具・生産方法が接続された
と見る必要がある。
六 一つの技術が別の技術を変える
そして技術は、それぞれ独立して存在するわけではない。
鉄工具が普及すれば、木材加工の方法が変わる可能性がある。
木工能力が高まれば、建築や農具、舟の製作にも影響する。
農業技術や灌漑が発達すれば、生産量や土地利用が変化する。
生産物や原料を大量に動かすようになれば、物流の重要性が高まる。
窯業や金工が拡大すれば、燃料・原料・工人・流通を支える仕組みが必要になる。
このように、
一つの技術の導入が、既存の別の技術と結びつくことで、社会全体へ波及する
ことがある。
ここに「複合技術革新」という視点が必要になる。
七 「技術の足し算」ではなく「組み合わせ」で考える
列島社会の変化を単純化すると、
農業が来た。
鉄が来た。
馬が来た。
須恵器が来た。
という技術の一覧になってしまう。
しかし実際に重要なのは、それらが結びつくことである。
例えば、
農業 × 木工 × 鉄工具
が組み合わされる。
あるいは、
窯業 × 燃料供給 × 原料物流 × 工人
が結びつく。
さらに、
造船 × 航海 × 海上物流
によって、大量の原料や製品、人間をより広い地域へ動かせるようになる。
もちろん、これらすべてが同じ時期・同じ地域で一斉に成立したわけではない。
地域差も時間差もある。
しかし、
個別技術が互いに接続されるほど、社会が利用できる能力の総量は大きくなる
という視点は重要である。
八 技術革新は「余剰力」を拡大したのか
ここで再び、本稿の「余剰力」という概念につながる。
新しい技術によって生産性が高まる。
物流能力が高まる。
加工できる原料が増える。
専門的な作業へ人を振り向けられる。
そうした変化が積み重なれば、社会が自由に動かせる人・物・時間も増える可能性がある。
その余剰は、
工人の維持。
大型建築。
墳墓造営。
交易。
軍事。
外交。
などへ投入することができる。
ただし、
新技術が入れば自動的に国家が強くなる
という意味ではない。
技術を社会的な力へ変換するには、それを組織する仕組みが必要だからである。
九 技術革新の先に「政治」が見えてくる
ここが重要である。
鉄があるだけでは国家にならない。
舟があるだけでも国家にはならない。
農業余剰があるだけでも国家にはならない。
それらを、
どこから集めるのか。
誰に作らせるのか。
どこへ運ぶのか。
何のために使うのか。
を決める社会的・政治的調整が必要になる。
つまり技術革新が進めば進むほど、
「技術を持っている社会」から「技術を組織できる社会」へ
という問題が重要になる。
この違いが、後に巨大古墳の造営、広域物流、軍事動員、対外外交を考える際の基礎となる。
十 新しい技術は「ゼロの社会」へ来たのではない
第六章でまず確認しておきたいのは、ここである。
列島へ外来技術が入った。
これは重要な事実である。
しかし、その技術が定着し、大きな社会変化を生んだ背景には、
それを受け止める列島側の既存技術・人口・生産力・物流・社会組織が存在した。
新しい技術は空白の土地へ入ったのではない。
すでに長い技術史を持つ社会へ接続されたのである。
では、その接続によって具体的に何が変わったのか。
次節では、
縄文以来の木工・漆工・漁撈・航海・地域物流と、新たに導入された技術がどのように結びついたのか
を見ていく。
第二節 「古い技術は消えなかった」――縄文以来の技術と新技術の接続
一 新しい技術は、既存技術の上に入ってきた
外来技術の導入を考えるとき、注意しなければならないことがある。
新しい技術が入ったからといって、それ以前の技術体系が消滅したわけではない。
列島には縄文時代以来、
木材を加工する。
舟を造る。
漁撈を行う。
土器を作る。
漆を利用する。
海や河川を移動する。
といった技術の蓄積が存在していた。
弥生・古墳時代に大陸や朝鮮半島から新しい技術が入ったとき、それらは何も存在しない社会へ導入されたのではない。
すでに存在していた技術体系へ、新しい素材・工具・方法が接続された
のである。
二 「木工」――鉄工具が加わることで何が変わったのか
第一部で見たように、列島には鉄器導入以前から木工技術が存在した。
木を伐る。
割る。
削る。
組み合わせる。
舟を造る。
建物や生活用具を作る。
こうした作業そのものは、金属器がなければ成立しなかったわけではない。
縄文社会はすでに石器を用いて木材を加工し、丸木舟などを製作していた。
そこへ鉄製工具が加わる。
すると重要なのは、
「木工が始まった」のではなく、「従来から存在した木工に新しい工具が加わった」
ということである。
鉄工具によって、木材加工の速度や精度、扱うことのできる部材の範囲が変化した可能性がある。
ただし、
鉄工具が入ったから直ちに大型建築や大型船が成立した
と単純に結びつけることはできない。
必要なのは、
工具。
木材。
工人。
労働力。
設計。
運搬。
そして、それらを必要とする社会的需要である。
鉄は木工能力を変化させる一つの条件であり、木工技術そのものの歴史は、それ以前から続いていた。
三 「漆と器物」――新旧技術は交替ではなく重なる
漆工も同じである。
列島の漆利用には長い歴史がある。
したがって、後に新しい金属工具や製作技術が入ったとしても、
古い漆文化が消え、新しい文化に置き換えられた
と考える必要はない。
むしろ、
既存の器物製作技術へ、新しい工具や加工方法が加えられた
と見ることができる。
重要なのは、「外来か在来か」という二択ではない。
在来技術と外来技術が同じ社会の中で接触したとき、
どの技術が残ったのか。
どの部分が改良されたのか。
どの製品に応用されたのか。
を見なければならない。
技術革新とは、古い技術をすべて捨てることではない。
既存技術の能力を、新しい道具や素材によって広げること
でもある。
四 「航海」――海を知る経験そのものは外から来たのではない
この問題は、航海について特に重要である。
列島には縄文時代から舟を利用する社会が存在した。
海峡を越えた物資移動も確認できる。
つまり列島社会は、新しい大陸系技術が入る以前から、
海を利用する経験そのもの
を持っていた。
ここへ鉄工具など新しい技術が加われば、舟の製作や修理の方法が変化した可能性がある。
しかし、
「大陸系技術が入ったから列島人が航海できるようになった」
という構図にはならない。
すでに航海する社会が存在していたからである。
したがって見るべきなのは、
既存の航海経験に、新しい工具・加工技術・物流需要が加わったとき、海上交通の規模や性格がどう変化したのか
という問題である。
五 舟が大きくなればよい、という話でもない
海上物流能力を考えるとき、船体だけに注目することもできない。
大きな舟を造るには木材がいる。
工人がいる。
多数の労働力が必要になる。
完成した舟には乗員が必要である。
長距離航海なら水と食料も必要になる。
荷物を積み降ろしする場所も必要である。
そして、運ぶべき大量の物資がなければ大型輸送そのものの必要性が生じない。
つまり造船技術の発達は、
木工技術だけの問題ではなく、生産・物流・需要の問題
でもある。
本稿で「複合技術」と呼ぶ意味はここにある。
一つの技術だけが独立して発達するのではない。
社会の別の能力と結びついて初めて、その利用規模が変化する。
六 「地域物流」――技術を広げるためにも運ぶ力が必要だった
列島の物流は海だけではない。
河川。
湖沼。
沿岸航路。
陸路。
地域によって異なる交通手段が組み合わされていた。
新しい技術を一地域から他地域へ広げるためには、技術者だけを移動させればよいわけではない。
原料を運ぶ。
燃料を集める。
製品を市場へ運ぶ。
食料を工人へ送る。
必要な場所へ工具を届ける。
こうした物流が必要になる。
したがって、
物流能力そのものが、技術の定着と拡大を支える基盤
である。
優れた工人が一人いても、原料が届かなければ生産は続かない。
大量に製品を作っても、それを必要な地域へ運べなければ広域的な社会変化にはつながらない。
七 既存技術があったから、新技術を使えた
ここで視点を逆にしてみる。
列島が大陸系技術を受け入れたから発展した。
この表現だけでは、列島側が受動的に見える。
しかし実際には、
新しい技術を受け入れられるだけの既存能力が列島側にあった
と考える必要がある。
鉄工具を使うには、すでに木工や農業の需要がある。
新しい窯業を定着させるには、器物を生産・流通させる社会がある。
造船技術を改良するには、そもそも舟を使う文化がある。
新しい物流技術を活用するには、すでに地域間を結ぶ交通関係がある。
つまり、
外来技術と在来技術は、送り手と受け手という関係だけではない。
既存技術があったからこそ、新しい技術を選択し、利用し、別の用途へ発展させることができたのである。
八 「融合」は同じ形で全国に起きたわけではない
ただし、ここにも注意が必要である。
列島全体で同じ技術革新が、同じ時期に、一斉に起きたわけではない。
北部九州。
瀬戸内。
吉備。
畿内。
山陰。
東海。
関東。
それぞれ既存の生産基盤や交通条件が異なる。
入ってくる技術の時期も違う。
利用方法も違う。
王権との関係も違う。
したがって、「列島社会」という大きな単位で変化を述べる場合にも、
その内部には地域差と時間差が存在した
ことを忘れてはならない。
後に広域的な政治秩序が形成される過程では、こうした異なる地域能力をどのように結びつけたのかが重要になる。
九 技術の「起源」から「組み合わせ」へ
ここまでを見ると、技術史を考える視点も変わってくる。
どこで発明されたのか。
これは重要である。
どこから伝わったのか。
これも重要である。
しかし、国家形成を考えるためには、それだけでは足りない。
その技術が、すでに存在していたどの技術と結びついたのか。
そして、
その組み合わせによって、社会が何をできるようになったのか。
を見る必要がある。
木工だけを見るのではない。
鉄だけを見るのでもない。
農業だけを見るのでもない。
それらが互いに結びついたとき、初めて社会全体の能力が変化する。
次節では、そこへ新たに加わった水田農業、鉄、窯業、馬・馬具、金工、灌漑などを個別に見ながら、
外来技術が列島の中でどのように「自ら使える技術」へ変わっていったのか
を検討する。
第三節 「新しく加わった技術」――外来要素は列島で何に変わったのか
一 「水田農業」――作物ではなく、生産システムが入る
列島社会を大きく変えた技術の一つが水田稲作である。
水田稲作は、朝鮮半島南部を経て北部九州へ導入され、次第に列島各地へ広がっていった。
しかし、水田稲作を単に、
「米という新しい作物が伝わった」
と考えるだけでは、その意味を捉えきれない。
水田を営むためには、
水を引く。
水路を維持する。
土地を造成する。
田を耕す。
収穫する。
貯蔵する。
という一連の作業が必要になる。
さらに、それらを行うためには木製農具が必要であり、時代が進めば鉄製農具も加わる。
つまり水田農業とは、
農業 × 土木 × 木工 × 共同労働 × 貯蔵
によって成立する複合的な生産体系である。
したがって、水田稲作の導入とは単なる食料の変更ではない。
土地・水・人間を継続的に組織する仕組みが社会へ加わること
でもあった。
二 「鉄」――輸入品から社会を動かす素材へ
鉄については、特に段階を分けて考える必要がある。
鉄製品が列島へ入ること。
鉄素材が列島へ運ばれること。
列島内で鍛冶加工すること。
列島内で原料から鉄を生産すること。
これらは同じではない。
古墳時代前半から中頃の列島では、鉄素材の供給を半島方面に大きく依存しながら、列島内でも鍛冶加工が行われていた。
つまり、
原料の生産地と、鉄器を製作する場所は別であった。
ここで重要なのは、列島社会が鉄を単なる完成品として受け取っただけではないことである。
入手した素材を加工する。
用途に応じて農具や工具、武器へ変える。
修理する。
再利用する。
そのための工人と技術が必要になる。
そして古墳時代後期になると、列島内でも製鉄が本格化していく。
この変化は、
外部から鉄を得る社会から、鉄素材そのものを自ら生産できる社会へ
移行していく過程として見ることができる。
ただし、この移行は一度に全国で起きたわけではない。
地域によって開始時期も規模も異なり、半島方面からの鉄供給が直ちに不要になったわけでもない。
重要なのは、
受容 → 加工 → 生産
という段階が存在したことである。
三 「須恵器」――技術を受け取ることと、生産体系を作ることは違う
窯業も、この変化をよく示している。
須恵器の高温焼成技術は朝鮮半島との交流を通じて列島へ導入された。
しかし、須恵器の意味は、
「半島の焼き物が列島へ伝わった」
というところで終わらない。
列島内に窯を築く。
粘土を確保する。
大量の燃料を用意する。
成形技術を持つ工人を維持する。
焼成を管理する。
完成品を各地へ流通させる。
そこまで進んで初めて、須恵器は列島社会の生産体系の一部となる。
五世紀に成立する陶邑窯跡群は、その後長期間にわたって大規模な須恵器生産を展開したとされる。現行稿でも、ここを「技術を受け取る段階」から「列島内で大きな生産体系を形成する段階」への変化として位置づけている。
つまり須恵器は、
外来技術の存在を示す資料であると同時に、その技術を列島社会が内製化していった資料
でもある。
四 「馬・馬具・金工」――技術は単独では入ってこない
五世紀には、馬の飼育、馬具、金工など、新しい技術・文化要素も列島社会へ定着していく。
ここでも、一つの物だけを見ることはできない。
例えば馬を継続的に利用するためには、
馬そのもの。
飼育する人。
餌。
繁殖。
馬具。
馬具を作る工人。
移動路。
そして馬を必要とする社会的需要。
が必要になる。
馬一頭が渡ってくることと、馬を継続的に飼育・利用する社会になることはまったく違う。
金工も同じである。
原料がいる。
炉がいる。
工具がいる。
工人がいる。
製品を必要とする人々がいる。
さらに原料や燃料を生産地へ運び、完成品を利用地へ運ぶ物流も必要になる。
したがって、
新しい技術の導入とは、一つの物が増えることではなく、その物を支える周辺技術まで社会へ組み込まれること
なのである。
五 「灌漑」――生産量だけでなく、人を組織する力を要求する
灌漑も重要である。
水路や堰を造れば、それで終わるわけではない。
誰かが掘る。
誰かが修理する。
水量を調整する。
複数の田へ水を分ける。
洪水や渇水に対応する。
つまり灌漑設備には、建設後も継続的な管理が必要になる。
このことは、水田農業の発達が単なる生産技術の問題ではなく、
共同労働と社会的調整の問題
でもあったことを示している。
農業生産が高まれば、その一部を工人やその他の活動へ振り向ける余地が増える可能性がある。
ただし、
「灌漑が発達したから自動的に農業余剰が増え、国家が強くなった」
と直線的に考えることはできない。
土地条件。
人口。
気候。
労働力。
収穫物の徴収・分配。
など、複数の条件が関係する。
本稿では、
灌漑は余剰力を拡大し得る重要な条件の一つ
として位置づける。
六 「導入」と「定着」の間には大きな距離がある
ここまでに見た技術には共通点がある。
水田稲作。
鉄。
須恵器。
馬。
馬具。
金工。
灌漑。
どれも、最初に列島へ入った時点では、まだ社会全体の能力になったわけではない。
まず受け入れる。
使う。
技術を学ぶ。
工人を育てる。
原料供給を確立する。
生産施設を作る。
流通させる。
次の世代へ技術を継承する。
こうした過程を経て初めて、
外来技術が列島社会自身の技術になる。
この違いは重要である。
七 「外来技術」と「列島技術」の境界は次第に曖昧になる
技術が何世代にもわたって利用されるようになると、
「これは外来技術である」
という分類だけでは説明しにくくなる。
最初の原型は半島から入った。
しかし列島で工人が育つ。
列島産の材料を使う。
地域の需要に合わせて形が変わる。
大量生産される。
別の技術と組み合わされる。
こうなれば、その技術は単なる輸入文化ではない。
列島社会の中で再生産される技術体系
となる。
つまり、
技術の起源と、その後の技術の所属先は同じとは限らない。
この区別は、本稿全体で重要になる。
八 技術の内製化が「余剰力」を変えていく
外部から完成品を買う社会と、自ら生産できる社会では、使える資源の範囲が違う。
鉄を加工できる。
須恵器を大量に焼ける。
馬を繁殖・飼育できる。
灌漑設備を建設できる。
こうした能力が蓄積されれば、外部へ依存しなければならない部分が一部減少し、地域社会が自ら動かせる生産力は増える。
その結果として、
工人を増やす。
建物を造る。
大量の物資を蓄える。
物流を拡大する。
軍事装備を整える。
といった活動へ人と物を振り向けられる余地も広がる可能性がある。
ここで、
技術の内製化と余剰力の拡大
が結びつき始める。
九 しかし、技術はまだ「国家能力」ではない
それでも、新しい技術がそろっただけでは国家能力にはならない。
鉄を作れる地域がある。
須恵器を作る窯がある。
馬を育てる地域がある。
食料を大量に生産する地域がある。
それらが互いに孤立していれば、広域的な政治力にはなりにくい。
必要なのは、
複数の技術と生産地域を結びつける仕組み
である。
農業。
鉄。
木工。
窯業。
造船。
交通。
物流。
工人。
これらが相互に結びついたとき、初めて一つの技術が別の技術を支える循環が生まれる。
次章では、この関係をさらに整理し、
「技術は単独ではなく連鎖する」
という視点から、列島社会で起きた複合的な技術革新を検討する。
第四節 技術は単独ではなく連鎖する
一 一つの技術だけを見ても、社会の変化は見えない
前節では、水田農業、鉄、須恵器、馬・馬具、金工、灌漑など、新たに列島へ加わった技術を見てきた。
しかし、これらを一つずつ並べるだけでは、列島社会で起きた変化の全体像は見えてこない。
重要なのは、
一つの技術が、別の技術や生産活動と結びつくこと
である。
鉄工具が入る。
木工や農業に利用される。
木材加工の方法が変わる。
建築や舟にも応用される。
生産された物資を運ぶために物流が必要になる。
物流が広がれば、より広い地域から原料を集め、より広い地域へ製品を届けることができる。
つまり技術とは、単独で社会を変えるのではない。
複数の技術が互いに接続されたとき、社会全体の能力が変化する。
二 「農業が増えればすべてが発展する」という単純な話ではない
例えば農業生産が高まったとする。
それによって、食料生産に直接従事しない人々を支える余地が増える可能性がある。
工人。
航海者。
建設に従事する人々。
兵士。
行政的な仕事を担う人々。
しかし、農業生産が増えたからといって、それらが自動的に生まれるわけではない。
余剰を集める仕組みが必要である。
保存する施設が必要である。
必要な場所へ運ぶ物流が必要である。
そして、何に使うのかを決める社会的・政治的調整も必要になる。
したがって、
農業生産の増大は社会発展の条件の一つではあるが、それだけで結果が決まるわけではない。
三 鉄は木工・農業・建築へ接続する
鉄も単独では意味を持たない。
鉄を加工する技術がある。
しかし、その鉄が農具へ利用されれば農業へつながる。
木工具へ利用されれば木工へつながる。
武器へ利用されれば軍事へつながる。
同じ鉄という素材でも、接続する分野によって社会的な意味が変わる。
さらに木工能力が変化すれば、
農具。
建築部材。
容器。
舟。
など、別の生産分野にも影響を与える可能性がある。
つまり、
鉄は「鉄器生産」という一つの産業だけで完結する素材ではない。
他の技術体系へ入り込むことで、その効果が広がっていく。
四 造船の発達には、生産と物流の両方が必要である
造船についても同じである。
大型の舟を造るには、
大きな木材。
加工工具。
木工技術。
多数の労働力。
製作場所。
が必要になる。
しかし、それだけでは大型船を造る必要性は生まれない。
大量の物資を運ぶ必要がある。
多くの人を移動させる必要がある。
遠距離交易や政治的移動が増える。
こうした需要が存在して初めて、大きな輸送能力を持つ船舶の価値が高まる。
つまり造船技術の発達は、
木工能力だけでなく、物流需要そのものと結びついている。
そして船舶輸送が拡大すれば、逆にさらに多くの原料や製品を動かすことが可能になる。
ここに技術と物流の相互作用が生じる。
五 窯業も「焼く技術」だけでは成立しない
須恵器のような高温焼成技術も、窯を造れば終わりではない。
大量に生産するなら、
粘土を確保する。
燃料を集める。
工人を維持する。
製品を乾燥させる。
焼成を管理する。
完成品を保管する。
需要地へ運ぶ。
という複数の作業が必要になる。
したがって窯業が大規模化すると、
生産技術と物流、資源調達、労働力、需要が一つの体系として結ばれる。
これは一人の工人の技能だけでは成立しない。
社会全体の組織力を必要とする。
六 「専門化」が進むほど、社会全体への依存も大きくなる
専門工人が増えるということは、高度な技術者が増えることを意味する。
しかし同時に、その工人が自分の食料生産以外へ多くの時間を使える社会が存在することも意味する。
工人は食料を必要とする。
原料も必要とする。
道具も必要である。
完成品を買う、あるいは受け取る需要者も必要になる。
つまり専門化が進むほど、
工人個人の自立性が高まるのではなく、むしろ社会全体の生産・流通体系への依存が強くなる
場合がある。
ここに、第一部で見た「余剰力」との接続がある。
七 「循環」として見る
以上を分析モデルとして整理すると、次のような循環を考えることができる。
農業・漁撈などの生産
↓
余剰を生み出す可能性
↓
専門的活動へ人を振り向ける
↓
鉄・木工・窯業・土木などの技術が発達する
↓
建築・造船・生産施設が拡大する
↓
物流能力が高まる
↓
より広い地域から原料を集め、製品を供給できる
↓
生産・交易・政治需要がさらに拡大する
ただし、これは実際の歴史が必ずこの順番で進むという意味ではない。
地域によって違う。
途中で止まる場合もある。
技術があっても政治的統合が進まない場合もある。
逆に、政治的需要が先に生じ、それが生産拡大を促す場合もある。
これはあくまで、
複数の技術と社会条件が相互に影響する仕組みを考えるための分析モデル
である。
八 本稿でいう「古代的工業化」とは何か
ここで、本稿では一つの分析概念を置く。
「古代的工業化」
である。
もちろん、これは近代の産業革命を意味しない。
蒸気機関もない。
機械工場もない。
大量の賃金労働者が工場へ集まる社会でもない。
本稿でいう古代的工業化とは、
専門化・規格化・大量生産・資源調達・広域物流・労働力動員が、複数の生産分野で相互に結びつき始める状態
を指す。
したがってこれは、一般的な考古学用語として用いるのではなく、
列島社会の生産能力が複数分野で連動して拡大していく過程を説明するための本稿独自の分析概念
である。
九 重要なのは「発明した国」ではなく「組み合わせる社会」である
この視点に立つと、
どこが鉄を発明したのか。
どこから須恵器が来たのか。
どこから馬が入ったのか。
という問題だけでは、列島社会の変化を説明できない。
もちろん技術の起源は重要である。
しかし、それとは別に、
複数の技術を一つの社会の中でどのように組み合わせたのか
を見る必要がある。
外来技術を受け入れる。
既存技術と結びつける。
内製化する。
規模を拡大する。
地域間で流通させる。
政治的需要へ利用する。
この一連の過程によって、技術は社会の力へ変わっていく。
十 技術の連鎖は、やがて「組織力」の問題になる
ここまで来ると、問題は技術だけではなくなる。
大量に生産する。
大量に保管する。
大量に運ぶ。
多くの工人を維持する。
多くの労働力を投入する。
これを継続するには、社会的な組織が必要になる。
つまり、
技術の連鎖が大きくなるほど、それを支える組織力も重要になる。
次節では、その組織力が実際にどのような形で見えてくるのかを、
専門化・規格化・大量生産
という視点から検討する。
五世紀の大型倉庫群や大規模窯業は、単に高度な技術が存在したことだけでなく、
大量の物資と労働力を継続的に動かす社会
が形成され始めたことを考える重要な材料となる。
第五節 「一人の技」から「生産体系」へ――専門化・規格化・大量生産
一 高度な技術者がいることと、大量生産できることは違う
ここまで、列島へ新しい技術が導入され、それが既存技術と結びついていく過程を見てきた。
しかし、まだ一つ大きな段階が残っている。
優れた工人が一人いる。
高度な製品が一個作られる。
これは、その社会に技術が存在することを示す。
しかし同じ製品を継続的に多数生産し、広い地域へ供給するとなれば、必要な条件はまったく違ってくる。
工人を養成する。
原料を継続的に確保する。
燃料を供給する。
作業場所を維持する。
完成品を保管する。
各地へ運ぶ。
そして大量の製品を必要とする需要者が存在する。
つまり、
高度な技術が存在する段階と、それを社会的な生産体系へ変える段階は別である。
二 「専門化」――技術を継続できる人々を養えるか
大量生産の前提となるのが専門化である。
同じ作業を繰り返すことで、工人は経験を蓄積する。
土の状態を見る。
火の強さを読む。
金属の性質を見極める。
木材を選ぶ。
製品の形をそろえる。
こうした技術は、継続的な作業によって精度を高めていく。
しかし、専門工人が長期間その仕事に従事するには、本人がその時間を食料生産以外へ振り向けられる社会でなければならない。
そこには再び、
余剰力
が必要になる。
食料を供給する人々。
原料を運ぶ人々。
完成品を受け取る人々。
専門化とは工人だけの問題ではなく、
専門工人を維持できる社会の問題
なのである。
三 「規格化」――同じものを繰り返し作る意味
次に重要になるのが規格化である。
同じ大きさ。
同じ構造。
似た製作工程。
同じ用途に対応した製品。
こうしたものが多数現れる場合、一つ一つが偶然作られたとは考えにくくなる。
製作方法が共有されている。
作業手順が蓄積されている。
工人同士で技術が伝達されている。
あるいは、一定の需要に応じて同じ規格のものを繰り返し作っている。
という可能性が生じる。
規格化とは単に「形が似ている」ということではない。
同じ機能を持つものを、反復して生産できる能力
である。
四 法円坂の大型倉庫群――建物より「集める仕組み」を見る
五世紀の列島社会で、この変化を考える材料の一つが大阪の法円坂遺跡である。
ここでは大型の高床倉庫が複数、一定の規模と構造を持って計画的に配置されていた。
重要なのは、倉庫が一棟あったことではない。
複数の大型倉庫を同じ場所に集中させる必要があったことである。
倉庫へ何を入れたのか。
どこから集めたのか。
誰が管理したのか。
いつ出したのか。
どこへ運んだのか。
倉庫群を維持するには、建築技術だけでなく、
物資を集め、保管し、管理し、再び動かす仕組み
が必要になる。
したがって、法円坂のような大規模倉庫群を見るときに重要なのは、建物そのものだけではない。
その倉庫を必要とした集積・物流・管理の体系
である。
五 ただし「大型倉庫=王権直轄」と自動的には決められない
ここでも慎重でなければならない。
大規模な倉庫群がある。
だから直ちに、
「中央王権がすべてを直接管理していた」
と結論することはできない。
地域首長が関与した可能性。
複数勢力による共同利用。
政治中枢と地域勢力を結ぶ集積拠点。
さまざまな形を検討する必要がある。
規格化された大規模施設から確実に読み取るべきなのは、
相当量の資材と労働力を計画的に投入できる組織が存在した
という点である。
その組織がどの程度中央集権的だったのかは、さらに別の資料によって検証しなければならない。
六 須恵器の窯業――一個の器から巨大な生産網へ
須恵器生産も同じ問題を示している。
一人の陶工が一個の器を作るだけなら、大規模な社会組織は必要ない。
しかし大量生産になると話は変わる。
粘土を集める。
大量の薪を確保する。
窯を築く。
工人を維持する。
製品を選別する。
保管する。
運ぶ。
そして、継続的に製品を必要とする需要が存在する。
ここまでそろって初めて、大規模窯業が成立する。
つまり大規模な須恵器生産は、
焼成技術の高さだけではなく、資源調達・専門分業・物流・需要が結びついた生産体系
として見る必要がある。
七 「大量生産」は大量需要がなければ成立しない
ここで意外に重要なのが需要である。
大量に作れる技術があっても、使う人がいなければ大量生産を続けることはできない。
王権。
地域首長。
祭祀。
軍事集団。
集落。
交易。
どのような需要であれ、完成品を継続的に受け取る側が必要になる。
したがって大量生産とは、
生産能力だけでなく、大量需要が成立していること
も意味する。
この需要がさらに生産を促す。
生産が拡大すれば工人が増える。
工人が増えれば技術が蓄積される。
製品が増えれば物流が拡大する。
物流が広がれば、さらに広い需要へ応えることができる。
ここでも、複数の要素が循環し始める。
八 「点の技術」から「面の技術」へ
この変化は、
点から面への変化
として考えることもできる。
一人の優秀な工人がいる。
一か所だけ高度な施設がある。
これは「点」である。
しかし、
複数の工人がいる。
生産施設が継続する。
同じ規格の製品が大量に作られる。
原料供給が続く。
広い地域へ流通する。
となれば、その技術は社会の「面」へ広がり始める。
ここまで進むと、外来技術は単なる珍しい新技術ではない。
社会を日常的に支える生産力の一部
となる。
九 専門化・規格化・大量生産は「国家」の証拠なのか
これも慎重に考える必要がある。
専門化がある。
規格化がある。
大量生産がある。
だから必ず中央集権国家が存在する。
という論理にはならない。
有力な地域首長でも一定規模の生産を組織できる。
複数の地域勢力が共通規格を採用することもあり得る。
工人集団自身が技術を共有する場合も考えられる。
したがって、
専門化・規格化・大量生産は、社会的組織力の存在を示すが、その組織の政治形態まで単独では決定しない。
ここを分けることが重要である。
十 それでも五世紀に大きな変化が見える
一方で、複数の分野で、
専門工人。
大規模生産。
規格化。
物資集積。
広域物流。
が重なって現れるようになることは重要である。
これは、一つの技術だけが発達したという話ではない。
複数の生産体系を同時に維持できる社会
が形成されつつあるということである。
第一部で見た余剰力。
第五章で見た海域技術ネットワーク。
そして本章で見ている技術の内製化。
それらが、ここで生産体系として結びつき始める。
十一 次に問うべきは「誰がこの力を使えたのか」である
大量の食料を集める。
多数の工人を維持する。
原料を遠方から運ぶ。
製品を大量に保管する。
広域へ再配分する。
これほどの力が存在するなら、次に問わなければならない。
その力を誰が利用できたのか。
生産力が存在することと、それを軍事・外交・巨大建設へ動かせることは同じではない。
ここで技術史は、政治史へ接続する。
次節では、
「生産力は、どのように国力へ変換されたのか」
という問題を検討する。
第六節 「生産力」はどう国力になるのか――余剰を動かす政治能力
一 生産力が高いだけでは「国力」にはならない
ここまで、列島社会に新しい技術が加わり、既存技術と結びつき、専門化・規格化・大量生産へ進む可能性を見てきた。
しかし、ここで一つ区別しなければならない。
生産力が存在することと、その生産力を政治的な力として利用できることは同じではない。
食料が大量に生産される。
鉄器を作る工人がいる。
須恵器を大量に焼ける。
舟を造れる。
物資を運べる。
これらは社会の能力である。
しかし、それを、
巨大な建設事業。
広域交易。
外交。
軍事。
地域間の物資再配分。
へ投入するには、別の能力が必要になる。
余剰を集め、それを目的に応じて動かす能力
である。
二 人口だけでは国力を測れない
国家や政治勢力の力を考えるとき、人口は重要である。
人口が多ければ、
農業従事者。
工人。
兵士。
労働力。
航海者。
を多く確保できる可能性がある。
しかし、人口が多いだけでは十分ではない。
一〇〇万人が暮らしていても、そのほとんどが自らの生存のための食料生産に従事しなければならない社会と、
同じ一〇〇万人でも、生産性が高く、多くの人員を専門職や公共事業へ振り向けられる社会では、動かせる力が異なる。
したがって重要なのは、
人口そのものではなく、人口のうちどれだけを別の目的へ振り向けられるか
である。
三 本稿の「国力」を考えるための思考モデル
そこで本稿では、国家能力を考えるための分析上の思考モデルとして、
国力 = 人口 × 生産力 × 余剰率 × 徴発・動員能力 × 物流能力
という関係を置く。
もちろん、これは実際の国力を数値で計算するための厳密な数式ではない。
各要素が互いに影響し、国家が実際に使用できる力が決まることを整理するためのモデルである。
人口が多くても生産力が低ければ、大量の専門工人や兵士を長期間維持することは難しい。
生産力が高くても、余剰がほとんど生まれなければ、大規模な国家事業へ回せる資源は限られる。
余剰があっても、それを集められなければ政治中枢は利用できない。
集めることができても、遠方へ運ぶ能力がなければ広域的には使えない。
したがって、
「どれだけ作れるか」と「どれだけ動かせるか」の両方
を見なければならない。
四 「徴発」とは、単なる強制ではない
ここでいう徴発・動員能力とは、単純に人々から強制的に物を奪う能力という意味ではない。
貢納。
租税。
労役。
首長間の政治的義務。
共同事業。
軍事動員。
物資供給。
その具体的な制度や仕組みは時代によって異なる。
重要なのは、
地域社会が持っている人・食料・原料・技術を、個々の家族や集落を越えた目的へ振り向けられるか
という点である。
巨大な建造物を造る。
多数の倉庫を建てる。
工人を長期間維持する。
遠距離航海へ人員と食料を送り出す。
こうした活動には、一定規模の社会的調整が必要となる。
五 「集める力」と「蓄える力」は別である
余剰が生まれても、それを保存できなければ長期間利用することはできない。
食料なら腐敗する。
原料なら保管場所が必要になる。
大量の物資が集まれば、管理も必要になる。
ここで前節の大型倉庫群が意味を持つ。
重要なのは、倉庫という建築物だけではない。
物資を一定の場所へ集積し、一定期間保管し、必要なときに再び取り出せる仕組み
である。
集める。
蓄える。
管理する。
そして再配分する。
この四つが結びついて初めて、余剰は政治的に利用可能な資源となる。
六 国力を左右する「物流」
そして、本稿が特に重視するのが物流である。
大量の食料があっても、必要な場所へ届かなければ使えない。
鉄素材があっても、工人のいる場所へ運べなければ加工できない。
大量の武器を作っても、戦場へ届けられなければ軍事力にはならない。
大型建築を行うなら、木材・石材・食料・工具を建設地へ集めなければならない。
したがって、
生産力を広域的な政治力へ変換するには、物流能力が不可欠である。
海。
河川。
湖沼。
道路。
港。
船。
倉庫。
こうした交通・保管手段が結びついて初めて、離れた地域の余剰を一つの目的へ集中できる。
七 海運は「余剰力」を遠くまで動かす
列島社会の場合、この問題で海上交通は特に重要である。
列島は細長い。
山地が多い。
地域によっては陸路よりも海や河川を利用した方が、大量物資を動かしやすい。
そのため、第一部から見てきた航海能力は、単なる交易文化だけの問題ではなくなる。
舟で人を運ぶ。
食料を運ぶ。
鉄素材を運ぶ。
工人を移動させる。
外交使節を送る。
軍事物資を輸送する。
海運能力が広がることは、
一つの地域の余剰を、遠隔地の政治目的へ利用できる範囲が広がること
でもある。
ここで海域文化と国家形成がつながってくる。
八 巨大古墳も「余剰を動かした痕跡」として見る
古墳時代を考えるうえで、巨大古墳の存在は避けて通れない。
巨大な墳丘を築くには、
土地を整える。
土を掘る。
運ぶ。
盛る。
石材を準備する。
木材を加工する。
埋葬施設を造る。
副葬品を用意する。
多数の人々へ食料を供給する。
という作業が必要になる。
したがって巨大古墳は、単に王や首長の権威を示す記念物というだけではない。
一定規模の人員・物資・技術を、一つの事業へ集中させる能力が存在したことを示す資料
でもある。
ただし、古墳の大きさから人口や軍事力をそのまま数値化することはできない。
古墳が示すのは、まず動員・調整能力の存在である。
九 「作れる社会」から「動かせる社会」へ
ここまでを整理すると、列島社会の変化には複数の段階が見えてくる。
外部から技術を受け入れる。
列島内で加工する。
内製化する。
専門工人が育つ。
大量生産が始まる。
物資を蓄積する。
広域物流によって運ぶ。
そして、
その生産力を政治目的へ集中させる。
ここまで進んだとき、生産力は単なる地域社会の豊かさではなく、政治勢力が利用できる力へ近づいていく。
本稿では、この変化を、
「余剰力を国家能力へ変換する過程」
として捉える。
十 国家は技術を作ったのではなく、技術を「束ねる」
ここで第二部の中心命題へ戻る。
国家が成立したから、突然農業が始まったわけではない。
国家が舟を発明したわけでもない。
国家が木工を生み出したわけでもない。
農業。
木工。
航海。
交易。
鉄。
窯業。
金工。
物流。
こうした能力の多くには、国家成立以前からの歴史がある。
しかし国家や広域政治勢力が形成されると、それまで地域ごとに存在していた能力を、
より大きな目的のために束ねること
が可能になる。
国家形成の重要な意味の一つは、ここにある。
十一 ただし「王権がすべてを支配した」とは限らない
この点も慎重でなければならない。
広域的な生産や物流が見えるからといって、そのすべてを中央王権が直接管理していたとは限らない。
地域首長。
在地の工人集団。
交易集団。
港湾を担う地域社会。
複数の政治勢力。
そうした主体が一定の自律性を保ちながら、王権と関係していた可能性もある。
したがって、
「広域ネットワークが存在する」ことと「中央王権が末端まで直接統治する」ことは分けて考える必要がある。
むしろ、この関係そのものが次の問題になる。
地域社会の余剰力を、誰がどの程度まとめることができたのか。
その調整力はいつ、どのように拡大したのか。
ここから技術史は、本格的に王権形成の問題へ移っていく。
十二 後世には「国家的総合工房」まで到達する
この変化の長期的な到達点を見る材料の一つとして、七世紀後半の飛鳥池遺跡がある。
ここでは金・銀・銅・鉄・ガラス・漆など、異なる素材を扱う生産活動が集中して確認されている。
さらに貨幣鋳造に関係する資料も知られている。
これは五世紀の状況をそのまま示す証拠ではない。
時代は大きく下る。
しかし長期的に見るならば、
複数の専門技術を政治中枢の需要のもとで集約する方向へ列島社会が進んでいった
ことを考える一つの到達点となる。
したがって、五世紀の技術革新から七世紀の国家的生産体制までを一本の直線として扱うのではなく、
その間にどのような政治的再編があったのか
を検証しなければならない。
十三 次に問うべきは「誰が束ねたのか」である
第二部では、
国家以前から存在した海域社会。
既存の地域社会を取り込んだ百済国家。
海峡を往還した工人・交易者。
列島へ導入された新技術。
既存技術との接続。
専門化・規格化・大量生産。
そして余剰力を広域的に利用する条件。
までを見てきた。
ここまで来ると、次の問いは避けられない。
その力を、誰が束ねたのか。
船を造る人はいる。
鉄を加工する人もいる。
食料を生産する人もいる。
交易者もいる。
地域首長もいる。
では、それらを複数地域にまたがって結びつける政治的中心は、どのように形成されたのか。
ここから本稿は、
技術と経済の歴史から、首長と王権の歴史へ
進む。
そして第三部では、
海域文化がどのように政治力へ変わり、地域首長層の中から広域的な倭王権が形成されていったのか
を検証していく
第二部 小括 「国家は文化をゼロから作ったのではない」
第二部では、国家形成と技術導入を、単純な「外から来た文化」としてではなく、既存社会の蓄積をどう組み替えたのかという視点から見てきた。
百済では、王統の系譜と、その国家を支えた社会全体の起源を分けて考える必要がある。既存の馬韓社会には、農業、工人、交易、沿岸交通などの蓄積があり、国家はそれらを新しい政治秩序の中へ取り込んでいった。
技術の移動についても同じである。
中国大陸から朝鮮半島を経て列島へ技術が入ったとしても、
技術の起源、経由地、運搬者、技術者の出自は同じではない。
人々は海峡を一方向に移動しただけではなく、滞在し、往還し、ときには帰還した可能性もある。
そのため本稿では、技術伝来を、
大陸 ⇄ 半島諸地域 ⇄ 海峡地域 ⇄ 列島諸地域
という海域ネットワークの中で捉える。
さらに列島へ入った技術は、縄文以来の木工、航海、漁撈、漆工、地域物流などと結びつき、次第に内製化・専門化・大量生産へ進んでいった。
ただし、生産力が高まるだけでは政治力にはならない。
人・物・技術を集め、蓄え、運び、必要な場所へ配分する仕組みがあって初めて、社会の余剰力は広域的な政治力へ変わる。
つまり第二部で見えてきたのは、
国家は文化の出発点ではなく、すでに存在した人口・技術・交易・余剰力を束ねる仕組みとして成長した
ということである。
では、その力を誰が束ねたのか。
地域首長はどのように成長し、複数の政治勢力はどのように結びつき、その中から広域的な「倭王」が形成されたのか。
第三部では、
海域社会から首長社会へ、そして王権へ
という過程を検証していく。
第三部 海域文化は王権と政治力へ変わった
第七章 「海を動かしたのは誰か」――海域首長社会から倭国へ
第一節 「海の社会を誰が支えたのか」――交易の背後に政治はあったのか
一 人が海を渡っただけでは、王権の存在は証明できない
第一部では、縄文・新石器時代以来、北部九州、壱岐、対馬、朝鮮半島南岸を結ぶ海域交流を見てきた。
第二部では、その海域社会へ水田農業、鉄、窯業、金属加工などが加わり、生産と物流の規模が拡大していく可能性を検討した。
ここから第三部では、視点を変える。
その人々を、誰がまとめていたのか。
ただし、最初から「海上交易の背後には王がいた」と考えることはできない。
小規模な航海や交易であれば、
家族。
集落。
血縁集団。
交易者同士の関係。
地域の慣習。
といった仕組みでも成立し得る。
したがって、
海上交流が存在することと、中央集権的な政治権力が存在することは別問題である。
二 しかし規模が大きくなると、調整の問題が生まれる
一方で、交易の規模が大きくなれば事情は変わる。
舟を造る。
乗員を集める。
食料と水を準備する。
交換物資を集める。
航路を選ぶ。
遠隔地の相手と関係を維持する。
入手した物資を地域内へ配分する。
これらが反復して行われるなら、一定の調整が必要になる。
特に鉄のような希少資源や、遠方から得られる威信財が関わる場合、
誰が入手し、誰が分配し、誰が利用できたのか
という問題が生じる。
ここから海域交流は、単なる航海技術の問題ではなく、
社会組織の問題
になってくる。
三 「調整者」がそのまま「王」とは限らない
ここで注意しなければならない。
交易を調整する人物がいる。
だからその人物は王である。
ということにはならない。
地域の有力者かもしれない。
複数集落の代表者かもしれない。
交易を専門とする集団かもしれない。
祭祀的な権威を持つ人物かもしれない。
複数の有力者が共同で決定していた可能性もある。
したがって、国家以前の海域社会については、
「誰かが支配していた」と決めるより、「どの程度の調整が必要だったのか」を問う
方が適切である。
四 縄文社会と弥生社会を同じ政治構造として扱わない
この区別も重要である。
縄文時代に海域交流が存在したからといって、そこに後世の首長制をそのまま遡らせることはできない。
縄文期の航海者について、本稿が確認できるのは、
舟を造る技術。
航海経験。
交換関係。
それを支えた地域社会。
までである。
その背後にどのような政治的指導者がいたのかは、慎重に考える必要がある。
一方、弥生時代になると、
農業生産。
金属器。
集落間格差。
大型墳墓。
中国史料に現れる「国」や「王」。
など、政治的階層化を検討できる資料が増えていく。
つまり、
海域社会がそのまま王権になったのではない。
海域交流を続ける社会の中で、どの時点から政治的階層が明確になるのかを追わなければならない。
五 「余剰を持つこと」と「余剰を集めること」は違う
第一部から用いてきた「余剰力」についても、ここで一段階分ける必要がある。
集落に食料の余剰がある。
工人を養える。
交易へ物資を回せる。
これは地域社会の余剰力である。
しかし、
複数の集落から物資を集める。
人員を動員する。
遠方との交易へ投入する。
希少資源を再配分する。
となれば、より広い調整能力が必要になる。
つまり、
余剰力が存在することと、その余剰を特定の政治的中心が掌握することは別である。
ここを区別しなければ、
「余剰があるから首長がいる」
という循環論になってしまう。
六 首長の存在を考えるなら、何を探すべきか
では、政治的中心の形成をどのように確認するのか。
考古学的には、
一般墓を大きく上回る墓。
副葬品の集中。
集落規模の格差。
生産施設の集中。
希少品の偏った分布。
大規模な共同事業。
遠隔地の物資が特定拠点へ集まる状況。
などが重要な手掛かりになる。
ただし、一つの資料だけで政治構造を決めることはできない。
巨大墓があっても、その人物が交易を直接支配していたとは限らない。
希少品が集中していても、贈与・祭祀・婚姻など別の説明があり得る。
したがって、
複数の資料から、資源・労働力・威信が特定の人物や集団へ集中しているか
を見る必要がある。
七 文献上、「王」は卑弥呼より前から現れる
ここで中国史料を見ると、少なくとも一世紀には、倭の一部に「王」と表現される政治主体が存在していたことが記されている。
『後漢書』東夷伝は、建武中元二年、すなわち西暦五七年の記事として「倭奴国」が朝貢し、その王に印綬が与えられたと記す。
志賀島から出土した金印には、
「漢委奴國王」
の五字が刻まれており、一般にこの記録と関連する資料として理解されている。
ただし、この段階で列島全体を統治する王が存在したことを意味するわけではない。
史料が示すのは、
中国側が、倭の一政治主体の支配者を「王」と認識した
ということである。
八 一〇七年には「倭国王帥升等」が記録される
さらに『後漢書』には、永初元年、すなわち一〇七年の記事として、
「倭国王帥升等」
が後漢へ使者を送ったことが記されている。
この表現の細かな解釈には検討の余地があるが、少なくとも中国史料の記述上、一世紀末から二世紀初頭には「倭国王」と呼ばれる政治主体が現れている。
ここで重要なのは、五七年の倭奴国王と一〇七年の倭国王を、同一の政治体や同じ王統と即断しないことである。
むしろ、
一世紀から二世紀にかけて、列島内にはすでに対外外交を行う複数の政治勢力が成長していた可能性
を考える材料となる。
九 問題は「王がいたか」から「王同士をどう束ねたか」へ変わる
ここまで来ると、三世紀の倭を考える問いも変わる。
「倭にいつ王が誕生したのか」
だけでは足りない。
中国史料上、一世紀にはすでに「王」という表現が現れるからである。
むしろ問うべきなのは、
各地に存在した首長・地域王層が、どのように互いに関係し、その上により広域的な政治秩序が形成されたのか
である。
地域の余剰を集める首長。
港や航路と関係する勢力。
農業生産を背景とする勢力。
鉄や交易資源を握る勢力。
それらが競争し、協力し、再編される。
その過程の先に、複数地域を代表する「倭王」が見えてくる可能性がある。
十 卑弥呼は「王の始まり」だったのか
そして、この問題を考えるうえで重要な史料が『三国志』魏書東夷伝倭人条である。
そこには、卑弥呼の登場以前から倭に王がいたことを示す記述が存在する。
つまり次に問うべきなのは、
卑弥呼が最初の王だったのか
ではない。
すでに存在していた複数の政治勢力が、なぜ卑弥呼を「共立」する必要があったのか。
次節では、この「共立」という言葉を手掛かりに、
地域王・首長層から広域的な倭王へ
という政治的再編を検討する。
第二節 「王は卑弥呼から始まったのか」――海を結んだ社会の上に現れた政治秩序
一 卑弥呼以前にも「王」はいた
三世紀の倭を考えるとき、卑弥呼から話を始めると、ひとつ大きなものを見落とす。
『三国志』魏書東夷伝倭人条には、
「其國本亦以男子爲王」
とある。
卑弥呼以前にも、倭には男子の王がいたと記されているのである。
さらに中国史料では、それ以前の一世紀から二世紀初頭にも、倭の政治主体について「王」という語が用いられている。
したがって、問いは、
「倭にいつ最初の王が現れたのか」
だけではない。
むしろ重要なのは、
すでに存在していた地域の王や首長が、どのような関係を結んでいたのか
という問題である。
二 海洋技術の存在は、政治を自動的には生まない
ここで、第一部から積み上げてきた海洋技術へ戻ろう。
海を渡るには舟が必要である。
しかし舟だけでは足りない。
木材を選び、加工する。
舟を造り、修理する。
潮流や風を読む。
航路を記憶する。
乗員を集める。
水と食料を積む。
交換物資を準備する。
寄港地との関係を維持する。
そして無事に戻ってくる。
これは単一の技術ではない。
多くの技術、人員、知識、物資を組み合わせる総合的な社会能力
である。
現代の宇宙開発が、一基のロケットだけでは成立しないのと同じである。
ただし、海洋技術を持っていたから王が生まれた、と考えることもできない。
小さな共同体や交易集団でも、航海は可能である。
問題は、その規模が大きくなったときである。
三 海を越えるほど、地域だけでは完結しなくなる
弥生時代になると、海の向こうから得られるものの重要性が増していく。
鉄素材。
希少品。
新しい技術。
情報。
人的関係。
一方、海の向こうへ送るものも必要になる。
食料。
地域の産物。
交換品。
人。
こうした交易が反復されるほど、一つの集落だけでは完結しにくくなる。
海を使う地域。
農業生産を担う地域。
物資を集める地域。
瀬戸内などの交通路を利用する地域。
内陸へ物資を運ぶ地域。
それぞれが異なる役割を持ち得るからである。
ここに、
「海を渡る技術」から「地域を結ぶ仕組み」へ
という次の問題が生まれる。
四 列島には一つではなく、複数の政治単位があった
『魏志倭人伝』が描く倭も、一人の王が列島全体を直接統治する単純な国家ではない。
対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国など、複数の「国」が記されている。
それぞれに官が記され、伊都国については「世有王」とされる。
また、女王に属さない狗奴国にも男王がいたと記される。
つまり三世紀の倭では、
地域の政治単位が残ったまま、その上により広い政治関係が成立していた
と考える余地がある。
これは後世の中央集権国家とは異なる。
五 「王」という言葉を後世の天皇と同じものにしない
ここで注意する必要がある。
中国史料に「王」と書かれているからといって、それをそのまま後世の天皇・大王と同じ権力と考えることはできない。
中国側が、外交相手となった政治指導者を自らの外交秩序の中で「王」と表現した可能性も考えなければならない。
また、それぞれの王がどれほどの範囲を直接支配したのかも分からない。
一国。
複数集落。
地域圏。
首長連合。
さまざまな規模があり得る。
したがって本稿では、
王という称号そのものより、その背後にどの程度の人・物・地域を動かす能力が存在したのか
を見る。
六 倭国大乱は「王のいない社会」の戦争だったのか
『魏志倭人伝』は、卑弥呼以前の倭について、争乱が続いたのち、一女子を王として「共立」したと記す。
ここが重要である。
卑弥呼は、
王という制度そのものが存在しない世界へ、突然登場した最初の支配者
として描かれているわけではない。
それ以前にも王がいた。
それにもかかわらず争いが起きた。
そして最終的に卑弥呼が立てられた。
ならば問題は、
なぜ従来の政治秩序では、地域間の関係を維持できなくなったのか
である。
七 争っていたのに、なぜ再び一つの秩序を必要としたのか
もし各地域が完全に独立し、互いに関係する必要がなかったなら、争いの後に別々の政治世界へ分かれてしまってもよい。
しかし史料では、その後に卑弥呼が「共立」される。
ここから一つの可能性が浮かぶ。
地域同士は争う一方で、
関係を切ることもできなかったのではないか。
交易路。
鉄の供給。
農業生産。
海上交通。
贈答。
婚姻。
祭祀。
こうした関係が複数地域を結びつけていたのであれば、争いが起きても広域的な関係そのものを完全に解体することには大きな不利益がある。
もちろん、倭国大乱の原因を海上交易だけで説明することはできない。
しかし、
相互依存する地域社会を、誰がどのように調整するのか
という問題は、争乱後の政治再編を考えるうえで重要である。
八 「共立」という言葉が示すもの
『魏志倭人伝』は、卑弥呼について「共立」と記している。
少なくとも文章上、卑弥呼が自ら諸国を武力征服し、その結果王となったとは書かれていない。
複数の政治主体が関係する中で、王として立てられたのである。
ただし、「共立」という二字だけから、近代的な選挙や対等な連邦制度まで想定することはできない。
軍事的圧力。
有力勢力間の妥協。
祭祀的権威。
婚姻関係。
交易上の利害。
さまざまな背景があり得る。
それでも、
王権成立の背後に複数勢力の関係が存在していた
という点は重要である。
九 海を使う社会から、海を束ねる政治へ
ここで第一部からの流れが一つにつながる。
縄文以来、列島の人々は海を利用していた。
弥生時代には、海を通じて人・物・技術がさらに大きく動くようになった。
その交流を背景として地域首長が成長する。
そして地域間の結びつきが複雑になるほど、それを調整する政治秩序が重要になる。
つまり、
海洋技術が王権を生んだのではない。
しかし、
海を広域的に利用できる社会が形成されたことは、複数地域を結ぶ政治秩序が成長するための重要な条件の一つだった
と考えることはできる。
第三部で追うのは、まさにこの変化である。
十 文献に現れる「王」と、考古学の首長はつながるのか
では、中国史料に現れる複数の「王」や「国」に対応するような政治的格差は、考古学からも見えるのだろうか。
二世紀から三世紀にかけて、
北部九州。
吉備。
出雲。
丹後。
近畿。
各地では、それまでの一般的な墓とは規模も内容も異なる突出した墳墓が築かれるようになる。
そこに葬られた人物は、何を背景に力を持ったのか。
農業なのか。
交易なのか。
鉄なのか。
海上交通なのか。
祭祀なのか。
あるいは、それらを複合的に結びつける力だったのか。
次節では、
文献に現れる「王」の時代に、考古学ではどのような首長が見えてくるのか
を検討する。
第三節 「王はどこにいたのか」――墳墓から見える地域首長の成長
一 文献の「王」を、考古学で確かめる
中国史料には、一世紀から三世紀にかけて、倭の「王」や複数の「国」が現れる。
では、その時代の列島に、本当に周囲から突出した政治勢力が存在したのだろうか。
ここで文献から考古学へ視点を移す。
弥生時代後期になると、列島各地に、それまでの一般的な墓とは規模も構造も異なる大型の墳丘墓が現れる。
吉備。
出雲。
丹後。
北部九州。
そして近畿。
興味深いのは、
一つの地域だけに巨大な首長が現れたのではない
ということである。
二 吉備の楯築墳丘墓――巨大な墓を造れる社会
岡山県の楯築墳丘墓は、弥生時代後期を代表する大型墳丘墓の一つである。
重要なのは、単に墓が大きいことではない。
大規模な墳丘を築くためには、
土を運ぶ。
人を集める。
作業を分担する。
食料を供給する。
祭祀を行う。
長期間にわたって工事を維持する。
といった社会的能力が必要になる。
つまり巨大墳墓とは、
死者の権威だけでなく、生きている社会がどれほどの人と物を動かせたのかを示す遺構
でもある。
ただし、巨大な墓があるから、その人物が地域すべてを直接支配していたとまでは言えない。
ここで確認できるのは、
周囲から突出した権威を持つ人物、あるいは集団が存在した可能性
である。
三 出雲の西谷墳墓群――地域ごとに異なる首長文化
島根県の西谷墳墓群では、四隅突出型墳丘墓という特徴的な墓制が発達した。
これは重要である。
当時の列島では、まだ全国で同じ形の王墓が築かれていたわけではない。
吉備には吉備の墓制がある。
出雲には出雲の墓制がある。
北部九州にも独自の王墓的伝統がある。
丹後にも大型墳墓が現れる。
つまり、
強い首長が各地に存在しながら、その政治的表現は地域ごとに異なっていた
のである。
後の前方後円墳体制とは、ここが大きく違う。
四 丹後の赤坂今井墳墓――日本海側にも大きな政治勢力があった
京都府北部の赤坂今井墳墓も、弥生時代後期の大型墳墓として知られている。
この存在が示すのは、初期の政治勢力を畿内や北部九州だけで考えてはいけないということである。
丹後は日本海交通と深く関わる地域である。
日本海沿岸をたどれば、
北部九州。
山陰。
丹後。
北陸。
さらに東方。
へとつながる。
海上交通という視点から見れば、日本海側もまた重要な政治空間だった可能性がある。
ただし、赤坂今井墳墓の存在だけから、その被葬者が日本海交易を直接支配していたと断定することはできない。
それでも、
大型墳墓を築ける社会と、日本海交通の要地が同じ地域に存在する
ことは、今後検討すべき重要な材料である。
五 首長の力は同じものではなかった
ここで「首長」と一括りにしてしまうと、本質を見失う。
地域によって、力の源泉は違ったはずである。
豊かな水田を持つ地域。
鉄を得やすい地域。
海上交通に強い地域。
河川交通を押さえる地域。
工人集団を抱える地域。
祭祀的な権威を持つ地域。
複数の交通路が交わる地域。
首長の強さは、一つの条件だけで決まるものではない。
むしろ、
異なる強みを持つ地域勢力が同時に成長していた
と考えた方がよい。
六 海洋技術を持つ勢力は何を得られたのか
その中で、海を利用できる地域には特別な強みがあった。
海の向こうから、
鉄。
希少品。
新しい技術。
情報。
人。
を得ることができるからである。
これは現代でいえば、海外市場や最先端技術へ直接アクセスできることに近い。
しかし、その利点を生かすためには、
船を造る技術だけでなく、
航海者。
交換物資。
食料。
寄港地。
交易相手。
陸上輸送。
が必要になる。
つまり海洋技術とは、
一人の船乗りの技ではなく、地域社会の複数の能力を結びつける総合技術
である。
その能力を持つ地域首長は、遠隔地との関係を政治的資源へ変えることができた可能性がある。
七 しかし海の首長だけでは列島をまとめられない
ここで逆の問題が生じる。
海上交易に強い首長がいる。
しかし、その首長だけで列島全体を支えることはできない。
農業生産に強い地域がある。
瀬戸内交通を押さえる地域がある。
内陸交通の結節点を持つ地域がある。
工人や生産拠点を持つ地域がある。
つまり広域政治を形成するには、
異なる能力を持つ地域同士を結ばなければならない。
この点から見ると、列島の政治形成は、
一つの地域が他地域を一方的に飲み込む過程だけでは説明しにくい。
少なくとも初期段階では、
複数の有力地域が互いの能力を必要とする関係
が存在した可能性を考える必要がある。
八 墓の違いは、政治の違いでもあったのか
弥生時代後期の列島では、地域ごとに異なる大型墳墓が築かれている。
これは単なるデザインの違いなのだろうか。
それとも、
地域ごとに異なる祭祀。
異なる首長権。
異なる政治的伝統。
が存在していたことを反映しているのだろうか。
この問題は重要である。
なぜなら三世紀以降になると、
列島各地で前方後円墳という共通する墓制が急速に広がっていく
からである。
それ以前には異なる墓を造っていた首長たちが、なぜ似た政治表象を共有するようになったのか。
ここに、倭王権形成を考える大きな鍵がある。
九 「地域王の時代」から「広域秩序の時代」へ
二世紀から三世紀の列島を見れば、
中国史料には複数の「国」と「王」が現れる。
考古学でも各地に大型墳墓が現れる。
そして墓制は地域ごとに異なる。
これらを合わせると、
列島各地に有力な政治勢力が存在しながら、それらを安定して束ねる広域秩序はまだ形成途上だった
という歴史像が浮かぶ。
だからこそ、倭国大乱という政治危機が起こり得た。
そして、その後に卑弥呼が「共立」された意味も見えてくる。
しかし王を一人立てただけで、広大な地域を結びつけられるのだろうか。
政治には、
人が集まる場所。
物が集まる場所。
情報が集まる場所。
祭祀が行われる場所。
各地域の首長が接触できる場所。
が必要になる。
三世紀、そのような場所として急速に存在感を増していくのが、
纒向である。
次節では、
なぜ纒向に、列島各地の人・物・技術が集まり始めたのか
を考える。
第四節 「共立された王」から「続く王権」へ――なぜ政治中枢が必要になったのか
一 卑弥呼を立てただけでは、問題は終わらない
倭国の争乱ののち、卑弥呼が王として立てられた。
それによって広域的な政治秩序が再編されたとしても、一つ大きな問題が残る。
その王が死んだら、どうなるのか。
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の死後に男王が立てられたが、国中が服さず、再び混乱が起こった。
その後、卑弥呼の宗女とされる壹与が立てられると、ようやく秩序が定まったと記される。
この記述をそのまま列島内部の政治制度の全容と考えることはできない。
しかし少なくとも、中国史料が描く倭では、
王を一人決めれば、それだけで政治秩序が自動的に続くわけではなかった
のである。
二 必要なのは「王」ではなく「王権」である
ここに、国家形成を考えるうえで重要な違いがある。
一人の有力者が王になること。
王が死んでも政治秩序が続くこと。
この二つは同じではない。
前者に必要なのは、個人の権威かもしれない。
しかし後者には、
王位の継承。
首長間の調整。
祭祀。
外交。
物資の集積と分配。
使者や情報の伝達。
軍事的な協力。
などを継続させる仕組みが必要になる。
つまり、
「人物としての王」から「仕組みとしての王権」へ
移らなければならない。
三 海域社会ほど、王権を継続させる必要があったのではないか
ここで再び海へ戻ろう。
海上交易は、一度関係が切れれば簡単に再開できるものではない。
航路を知る人がいる。
対岸の交易相手がいる。
寄港できる場所がある。
どこで何が得られるかという情報がある。
贈答や交換の慣行がある。
それらは何世代にもわたって蓄積される。
もし王が替わるたびに国内秩序が崩れ、
航路が止まり、
交易関係が切れ、
物資の流通が滞るなら、
海域社会にとって大きな損失になる。
だからこそ、海を広く利用する社会では、
政治秩序を継続させることそのものが利益になる
可能性がある。
四 海洋技術は「動く力」だった
海洋技術の本質は、船そのものではない。
人を動かす。
物を動かす。
情報を動かす。
技術を動かす。
そして遠隔地との関係を維持する。
その意味では、海洋技術は、
社会の余剰力を遠距離へ運ぶ技術
でもある。
しかし、その力が大きくなるほど、
誰が船を出すのか。
誰が交易品を集めるのか。
誰が海外使節を送るのか。
誰が得られた希少品を分配するのか。
という政治の問題が大きくなる。
ここで第二部までに見てきた「余剰力」と第三部の「政治力」が接続する。
五 王権の強さとは、命令できる範囲だけではない
王権というと、どれだけ広い領土を直接支配したかという話になりやすい。
しかし初期王権では、それだけを尺度にする必要はない。
むしろ重要なのは、
異なる地域の能力を結びつけられるか
である。
海上交通に強い地域。
鉄を得る地域。
農業生産力を持つ地域。
瀬戸内交通を担う地域。
日本海交通に関わる地域。
工人を抱える地域。
祭祀的権威を持つ地域。
これらを一つの目的へ結びつけることができれば、一地域だけでは持てない力を生み出せる。
王権の成長とは、
地方の力を消すことではなく、地方の力を広域秩序の中で利用できるようにする過程
でもあった可能性がある。
六 地方首長にも「参加する理由」が必要だった
ここは重要である。
大和の王が強かったから、地方首長がただ服従した。
それだけでは、広域政治秩序が長期間維持された理由を十分に説明できない。
地方首長側にも利益があった可能性を考える必要がある。
鉄を安定して得る。
希少品を得る。
遠隔地との交易に参加する。
他地域との紛争を調整する。
王権を通じて中国王朝との外交関係に接続する。
新しい技術や工人にアクセスする。
こうした利益が存在すれば、
広域王権へ加わること自体が地域首長にとって政治的資源になる
ことがあり得る。
もちろん、すべてが合意だけで進んだと考える必要はない。
競争もあった。
戦争もあった。
圧力もあっただろう。
それでも、
征服か服従かだけでは説明できない政治関係
を考える必要がある。
七 王権が続くには「場所」が必要になる
そして、もう一つ必要になるものがある。
政治の場所である。
使者が来る。
首長が集まる。
物資が運ばれる。
工人が働く。
祭祀が行われる。
贈答品が蓄えられる。
遠隔地から情報が届く。
こうした活動を継続的に行うのであれば、政治は一人の王の移動だけでは維持しにくい。
人・物・情報が集まる中枢
が必要になる。
ここで、三世紀の大和盆地に極めて興味深い遺跡が現れる。
八 各地の文化が一か所へ集まり始める
その遺跡が、
纒向である。
纒向では、列島各地との関係を考えさせる土器や物資が確認されている。
単純に、
「各地の土器があるから全国を支配していた」
とは言えない。
交易。
人の移動。
祭祀。
政治的会合。
工人の活動。
さまざまな説明があり得る。
しかし逆に言えば、
なぜ三世紀の大和に、これほど広い地域との関係を示す人や物が集まったのか
という問いは避けられない。
九 「海のネットワーク」と「内陸の政治中枢」は矛盾しない
一見すると、ここには不思議なことがある。
本稿はこれまで、海域社会を重視してきた。
ところが政治中枢として注目される纒向は、海岸ではなく大和盆地にある。
では、海洋文化と纒向は別の歴史なのだろうか。
そうとは限らない。
海を渡った物資は、海岸で止まるわけではない。
北部九州から瀬戸内へ。
瀬戸内から河川・陸路へ。
紀伊方面から大和へ。
日本海側から内陸交通を通じて畿内へ。
海上交通と陸上交通が接続して初めて、列島規模の物流になる。
つまり政治中枢に必要なのは、
自ら海岸にあることではなく、複数の交通網を結びつけられることである。
十 海を使う社会は、ついに「中心」を持ったのか
第一部では、海を渡る人々を見た。
第二部では、その往来を支えた技術と余剰を見た。
第三部では、その力を束ねる首長と王を見てきた。
そしてここで初めて、
王権が活動する「場所」
が見えてくる。
それが本当に倭王権の政治中枢だったのか。
どの範囲の人々が集まったのか。
誰がそこを運営したのか。
卑弥呼の女王国とどのような関係にあったのか。
まだ答えは出ていない。
しかし、三世紀の列島で、
人・物・技術・祭祀・政治が交差する場所が形成され始めた
ことは、王権形成を考えるうえで見逃せない。
次章では、
「なぜ纒向だったのか」
という問いから、海域ネットワークがどのように政治中枢へ接続したのかを検証する。
第八章 「なぜ纒向だったのか」――海域ネットワークに現れた政治中枢
第一節 「王だけでは国は動かない」――人・物・情報が集まる場所
一 広域王権には「中心」が必要になる
前章では、二世紀から三世紀の倭を、一つの強大な国家が列島を直接支配する社会としてではなく、複数の地域勢力が結びつく政治世界として見てきた。
北部九州。
吉備。
出雲。
丹後。
畿内。
東海。
北陸。
それぞれに異なる生産力、交通路、墓制、交易関係を持つ地域社会が存在した。
そして中国史料には、それらの上に卑弥呼という王が「共立」されたと記される。
しかし、ここで一つ疑問が生じる。
王を一人立てれば、それだけで広域政治は動くのだろうか。
答えは単純ではない。
王が外交を行うなら、使者を送り出さなければならない。
各地域との関係を維持するなら、人が往来しなければならない。
贈答品を受け取るなら、保管する場所がいる。
それを再び各地へ分配するなら、物流の仕組みが必要になる。
祭祀を共有するなら、人々が集まる場所がいる。
つまり、王という人物とは別に、
政治を継続させる「場所」
が必要になる。
二 海を動くものは、最後にはどこかへ集まる
第一部から見てきた海域ネットワークでは、多くのものが動いていた。
人。
土器。
黒曜石。
鉄。
技術。
情報。
それらは海上を動くだけでは終わらない。
海岸へ着いた鉄は、さらに内陸へ運ばれる。
海を渡ってきた工人は、必要とされる場所へ移動する。
海外から得た情報は、政治判断を行う者へ届けられる。
希少品は、有力者の手を経て再び分配される。
つまり海域ネットワークが発達するほど、
「動く仕組み」と同時に「集まる仕組み」が必要になる。
ここで海洋技術の意味が一段変わる。
それまで海洋技術は、
海を越える力
であった。
しかし政治社会が成長すると、
海の向こうから得たものを、列島内部の政治力へ変える仕組み
が重要になってくる。
三 海洋技術だけでは王権にならない
優れた船を造れる。
遠くまで航海できる。
半島と交易できる。
それだけで王権が成立するわけではない。
海洋技術は、非常に強力な能力である。
しかし、それによって得た鉄や情報、人材を社会全体へ広げるには別の能力が必要になる。
集める。
蓄える。
交換する。
分配する。
調整する。
そして必要な場所へ送り出す。
本稿でいう「転換」の問題である。
海を渡れる能力があっても、それを政治目的へ転換できなければ、広域王権にはならない。
逆に言えば、
海洋技術と地域の余剰力を結びつける政治中枢が成立したとき、海域社会は新しい段階へ入る。
四 なぜ政治中枢は海岸になかったのか
ここで読者は一つ疑問を持つかもしれない。
これほど海を重視するのであれば、政治中枢も北部九州や瀬戸内沿岸のような港湾地域に置かれそうなものである。
ところが三世紀、急速に存在感を強めるのは大和盆地の纒向である。
海岸ではない。
では、これは本稿の海域社会論と矛盾するのだろうか。
むしろ逆である。
政治中枢に必要なのは、
自ら船を出すことではなく、複数の交通圏を結びつけること
だからである。
港には港の役割がある。
海峡には海峡の役割がある。
瀬戸内には瀬戸内の役割がある。
そして、それらから運ばれてきた人・物・情報を最終的に受け取り、再び各地へ動かす場所があってもよい。
政治中枢と港は、同じ場所である必要はない。
五 「首都」と決めてから纒向を見てはいけない
ただし、ここで注意が必要である。
纒向が大規模な遺跡だからといって、
「ここが卑弥呼の都である」
「ここが最初の日本の首都である」
と先に結論を置いてしまうことはできない。
考古学から確認しなければならないのは、
なぜこの場所に、
各地の人や物が集まったのか。
なぜ大規模な建物が造られたのか。
なぜ祭祀的な空間が形成されたのか。
なぜ大規模な土木が行われたのか。
そして、なぜその周辺に巨大墳墓が現れていくのか。
である。
交易拠点だった可能性。
祭祀中心だった可能性。
有力首長の拠点だった可能性。
複数勢力が利用した共同空間だった可能性。
さまざまな説明を残したまま検討する必要がある。
六 それでも纒向の出現は異様である
一方で、単なる大きな集落として済ませることもできない。
三世紀初頭頃、大和盆地東南部に大規模な遺跡が急速に展開する。
そこには、
大型の掘立柱建物。
計画性を持つ建物群。
大規模な溝や水路。
祭祀に関係すると考えられる遺構。
各地との関係を示す土器。
周辺の墳墓群。
などが確認されている。
それぞれ一つだけなら、別の説明が可能である。
しかし、
人の集中、物の集中、建設力、土木力、祭祀、墳墓
が同じ時期・地域に重なってくる。
ここに纒向の重要性がある。
七 各地の土器は「物」だけを見ていてはいけない
纒向から出土する外来系土器も重要である。
東海。
北陸。
山陰。
吉備。
瀬戸内。
北部九州など、広い地域との関係が指摘されている。
しかし、ここでも土器を地図上の矢印だけにしてはいけない。
土器が動いたなら、
誰かが運んだ。
あるいは、他地域の技術や様式を知る人が纒向で作った。
そうであるなら、
纒向に集まったのは物だけではなく、人だった可能性がある。
船乗りかもしれない。
工人かもしれない。
交易者かもしれない。
首長の使者かもしれない。
祭祀に関わる者かもしれない。
誰であったかを土器一片から決めることはできない。
しかし、地域を越えた人の移動を考える材料にはなる。
八 纒向は「さまざまな地域が出会う場所」だったのか
ここで前章の話を思い出してみよう。
弥生時代後期には、各地に大型墳丘墓を築く首長が存在した。
しかも墓制は地域ごとに異なっていた。
つまり、それぞれ独自の政治文化を持つ有力勢力が存在していたのである。
そのような勢力が広域的な政治関係を形成するなら、
どこかで人が会う必要がある。
使者が来る。
贈答品を持ってくる。
情報を交換する。
祭祀を共有する。
政治的な約束を結ぶ。
そして再び各地域へ帰る。
纒向の外来系資料をこの視点から見れば、
単なる交易市場ではなく、複数地域の人々が継続的に接触する政治的結節点
であった可能性も検討できる。
九 「海の力」が内陸で政治力へ変わる
これは一見不思議な構図である。
海洋文化から始まった本稿の物語が、内陸の大和盆地へ入ってくるからである。
しかし、本質的には連続している。
海は、人・物・技術を遠くまで動かす。
港が、それを受け取る。
河川や陸路が、さらに内陸へ運ぶ。
政治中枢が、それを集める。
そして再び各地へ配分する。
したがって、
海洋社会の発達は、必ずしも海岸に王権を生むのではない。
むしろ広い海域ネットワークを利用するようになるほど、
そのネットワークを一段上から結びつける内陸中枢が成立する可能性もある。
十 では、纒向には誰の力が集まったのか
ここまでで、一つの新しい問いに到達する。
纒向が広域的な政治中枢だった可能性を考えるとしても、
それは大和の首長だけが造った場所だったのだろうか。
それとも、
吉備。
東海。
北陸。
山陰。
北部九州。
瀬戸内。
そうした各地域の勢力が関与することで成立した場所だったのだろうか。
もし後者なら、纒向とは、
一地域が他地域を征服した結果ではなく、複数地域の力が集まり始めた場所
として見ることもできる。
その可能性を検証するためには、次に、
纒向へ実際に何が集まっていたのか
を詳しく見なければならない。
次節では、外来系土器を手がかりとして、
「纒向に集まったのは物だったのか、それとも人だったのか」
第二節 「土器が集まった」のか「人が集まった」のか――外来系土器が語る纒向
一 纒向の不思議は「大きさ」だけではない
纒向遺跡を特徴づけるものとして、大型建物や大溝がよく挙げられる。
しかし、それと同じくらい重要なのが、
列島各地の系統を持つ土器が、一つの場所に集まっていること
である。
東海。
北陸。
山陰。
吉備。
瀬戸内。
北部九州。
纒向では、大和だけでは説明できないさまざまな系統の土器が確認されている。
桜井市の整理では、調査地点によっては外来系土器が出土土器の一五~三〇%を占める例もあるとされる。
数字だけを見ても、無視できる量ではない。
では、なぜこれほど多様な地域の土器が大和盆地へ集まったのだろうか。
二 土器が動いたのか、人が動いたのか
最初に考えられるのは、土器そのものが運ばれてきた可能性である。
土器の中に物資を入れて運んだ。
贈答品として持ち込んだ。
交易によって移動した。
こうした説明は当然あり得る。
しかし、問題はそれだけではない。
外来系土器の中には、
他地域の様式や技法を持ちながら、纒向周辺で作られたと考えられるもの
も指摘されている。
ここで話が変わる。
完成した土器だけが移動したのであれば、「物の移動」で説明できる。
しかし現地で作られているのであれば、
技法を知る人間も移動していた可能性
を考えなければならない。
三 土器は人間の生活に近い
鉄や鏡のような希少品と、日常的な土器では性格が違う。
希少品であれば、遠くから運ばれた物だけが残ることもある。
しかし土器は、飲む。
煮る。
盛る。
保存する。
といった生活に密着した道具である。
そのため、外来系土器がある程度まとまって存在し、さらに現地製作まで認められるのであれば、
そこにいたのは一日だけ立ち寄った旅人ではなく、
一定期間その土地で生活した人々だった可能性
も考えられる。
もちろん、それだけで出身地や身分まで特定することはできない。
しかし、
「物が来た」
から、
「人が来ていたのではないか」
へ問いを進めることはできる。
四 では、誰が纒向へ来たのか
ここからが面白い。
東海系の土器を使う人。
吉備系の土器を使う人。
北陸系の土器を使う人。
山陰や北部九州と関係する人。
彼らは何をしに纒向へ来たのだろうか。
交易者。
工人。
船乗り。
首長の使者。
祭祀に関わる者。
政治交渉を担う者。
婚姻によって移動した人々。
物資輸送を担った人々。
さまざまな可能性がある。
一片の土器から、
「この人物は吉備の使者である」
などと決めることはできない。
しかし逆に、
これほど多地域の文化的要素が一か所へ集まっている理由
を考えないわけにもいかない。
五 纒向は「市場」だったのか
物が多く集まる場所というと、まず市場を想像したくなる。
たしかに交換や交易は行われていただろう。
しかし、それだけですべてを説明できるだろうか。
大型建物がある。
大規模な土木がある。
祭祀に関わる遺物がある。
周辺には大型墳墓が形成される。
そして各地との関係を示す土器が集まる。
これらを合わせると、
纒向を単なる商品の交換所としてだけ見るより、
交易・祭祀・政治・人的交流が重なった複合的な拠点
として考える余地が出てくる。
六 地方首長が王権へつながるなら、人も動く
前章では、倭王権を複数地域の首長関係の中から考えた。
もしそのモデルが成り立つのであれば、政治は地図上の線だけでは成立しない。
人が実際に動かなければならない。
地方首長が自分で来る場合もある。
使者を送る場合もある。
贈答品を運ばせる場合もある。
工人を派遣する場合もある。
婚姻によって人が移動する場合もある。
祭祀へ参加する場合もある。
つまり、
地域同士が政治的につながるとは、人間が往来することでもある。
そう考えれば、纒向の外来系土器は、広域政治関係の一端を物質として残している可能性がある。
七 海を渡った人々が、今度は列島内部を動く
ここで第一部からの話がもう一度つながる。
人は海を渡った。
半島と列島の間を往来した。
鉄や技術が移動した。
しかし海域ネットワークは、海岸で完結するものではない。
北部九州へ着いた人や物は、瀬戸内へ進む。
瀬戸内から畿内へ進む。
日本海側から山陰・北陸を経由する流れもある。
東海から大和へ入る流れもある。
つまり、
海洋交通と列島内部交通は一つにつながっていた。
纒向に各地域の人々が集まる現象は、そのネットワークが列島内部の政治中枢へ接続した姿として見ることもできる。
八 「大和が地方を集めた」と決めるのもまだ早い
ただし、ここでも一方向に考えてはいけない。
大和の王が命令し、
地方の人々が呼びつけられた。
それだけで説明する必要はない。
地方首長側にも、
纒向へ人を送る理由があったかもしれない。
海外から入る情報を得る。
希少品を得る。
他地域と関係を結ぶ。
祭祀へ参加する。
王との関係を確認する。
工人や技術を交換する。
つまり纒向は、
大和が地方を吸収した場所
だっただけではなく、
地方勢力にとっても参加する意味のある場所
だった可能性がある。
九 王権形成は「大和だけの事業」だったのか
ここまで考えると、さらに大きな問いが生まれる。
纒向を造ったのは誰なのか。
大和の人々だけだったのだろうか。
大型建物を造る。
溝を掘る。
物資を運ぶ。
祭祀を行う。
土器を作る。
遠隔地との交通を維持する。
そこへ複数地域の人々が実際に関与していたのであれば、
初期王権そのものも、
大和一地域だけで完成したのではなく、複数地域の力を取り込むことで形成された
可能性を考えることができる。
これは第二部で百済形成を考えたときと同じ視点である。
国家は文化をゼロから作るのではない。
すでに存在する地域社会の能力を取り込み、組み替える。
倭王権についても同じ問いを向けなければならない。
十 「人が集まる」だけでは政治中枢にならない
しかし、人が集まっただけでもまだ足りない。
大規模な市や祭祀地にも、多くの人は集まる。
纒向を政治中枢として考えるためには、
そこに人々を組織する仕組みがあったか
を見なければならない。
誰が土地を区画したのか。
誰が大型建物を計画したのか。
誰が木材を集めたのか。
誰が労働力を動かしたのか。
誰が大規模な溝を掘らせたのか。
つまり次に見るべきなのは、
物ではない。
人でもない。
人と物を一つの計画へ従わせた力
である。
次節では、纒向の大型建物群と土木遺構から、
「集まった人々を、誰が組織したのか」
を検討する。
第三節 「集まった人々を誰が組織したのか」――大型建物と大溝が示す政治力
一 人が集まることと、人を動かすことは違う
前節では、纒向に列島各地の人や物が集まっていた可能性を見た。
しかし、人が集まるだけなら市場でも起こり得る。
祭祀の場でも起こる。
交通の結節点でも起こる。
政治中枢かどうかを考えるには、もう一段先を見なければならない。
それは、
集まった人と物を、一つの目的のために組織できたのか
という問題である。
そこで注目されるのが、纒向で確認されている大型建物群と大規模な土木遺構である。
二 大きな建物より「揃えて建てた」ことが重要である
纒向では、複数の掘立柱建物が確認されている。
その中には、軸線や方位をそろえて配置された建物群がある。
大型建物の一つは、南北約一九・二メートル、東西約一二・四メートルほどに復元されている。
もちろん、
大きな建物=王宮
ではない。
有力首長の居館。
祭祀施設。
集会施設。
複数の用途を考える余地がある。
しかし、本稿が注目するのは用途を一つに決めることではない。
複数の建物を、
同じ方向に合わせる。
位置関係を考える。
必要な土地を確保する。
そして計画に従って建てる。
その行為自体である。
三 建物を一棟造るだけでも、多くの社会能力が必要になる
大型建物を造るには、
木材を探す。
伐採する。
運ぶ。
加工する。
柱穴を掘る。
柱を立てる。
屋根材を用意する。
工人を集める。
作業者へ食料を与える。
工程を調整する。
という作業が必要になる。
さらに複数棟を計画的に建てるのであれば、それらを別々の個人が勝手に造っただけでは説明しにくい。
そこには、
共通の計画を共有し、それに従って人と資材を動かす仕組み
が必要になる。
四 ここで「転換力」が見えてくる
第二部まで本稿が見てきたのは、社会の余剰力であった。
食料を生産する。
専門工人を養う。
船を造る。
交易へ物資を回す。
しかし余剰が存在するだけでは、大型建物は建たない。
木材が森にある。
人が集落にいる。
食料が倉にある。
それぞれが別々に存在していても、一つの建設事業にはならない。
必要なのは、
分散している人・物・技術を、特定の目的へ振り向ける能力
である。
本稿では、この能力を「転換力」と考える。
纒向の大型建物群は、そのような転換力が三世紀の大和で働いていた可能性を考える重要な材料になる。
五 大溝はさらに大きな問題を投げかける
纒向では、建物だけではなく大規模な溝や水路も確認されている。
溝を掘るという作業は、建物とは性格が違う。
大量の土を動かす。
排水を考える。
水の流れを変える。
土地を区画する。
場合によっては杭や矢板を使う。
長い距離を一定の計画に従って施工する。
これは一つの家族だけで行う作業ではない。
多数の人間を、一定期間同じ作業へ投入しなければならない。
六 労働力を動かすには、その人々を食べさせなければならない
ここで見落としてはいけないのが食料である。
人を百人集めたとしても、その百人が普段行っている仕事を止めれば、別の問題が生じる。
農作業をする人。
木を伐る人。
魚を捕る人。
物を運ぶ人。
彼らを土木工事へ回すのであれば、その期間の生活を支えなければならない。
つまり大規模土木には、
労働力だけでなく、
労働力を本来の生産活動から一時的に切り離せる余剰
が必要になる。
ここで、余剰力と政治力が直接つながってくる。
七 巨大事業は「命令」だけでは動かない
王が、
「溝を掘れ」
と命令したから完成した。
それだけでは説明にならない。
工具がいる。
食料がいる。
木材がいる。
監督者がいる。
技術者がいる。
作業の順序を決める者がいる。
遠方から資材を運ぶ仕組みがいる。
つまり政治力とは、
単に人に命令できる力ではない。
必要なものを必要な時に集め、別々の人間の仕事を一つの計画へ結びつける能力
でもある。
これは現代の巨大プロジェクトにも通じる。
技術を一つ持っているだけでは、宇宙開発はできない。
古代でも同じである。
船大工だけでは海域社会は作れない。
石工だけでは巨大墳墓は作れない。
農民だけでは政治中枢は維持できない。
異なる能力を統合する仕組み
が必要なのである。
八 纒向に集まった人々は「消費者」だけだったのか
この視点から、前節の外来系土器をもう一度見てみよう。
東海系の人。
吉備と関係する人。
北陸と関係する人。
山陰や九州とつながる人。
彼らが纒向にいたとしても、単に物を買いに来ただけとは限らない。
建物を造る。
木材を加工する。
土器を作る。
祭祀に参加する。
物資を運ぶ。
政治交渉を行う。
さまざまな役割を担っていた可能性がある。
もしそうなら纒向は、
人が集まった場所から、人の能力が組み合わされる場所へ
変わって見えてくる。
九 ただし「王権の直営工事」とまでは言えない
ここは慎重に考えなければならない。
大型建物や大溝があるからといって、
大和王権が全国から直接労働者を徴発し、国家事業として工事を行った
とまで証明できるわけではない。
地域首長が人員を出した可能性。
複数集団が共同で事業を行った可能性。
祭祀的な共同作業だった可能性。
有力首長の家政組織が中心だった可能性。
さまざまな形が考えられる。
むしろ三世紀という段階では、
王権が地方社会を直接統治するというより、地域首長を介して人や物を集めた
可能性を考える方が自然である。
この違いは重要である。
十 「王の力」とは地方の力を消すことではない
ここまで考えると、初期王権の姿が少しずつ見えてくる。
王自身が、
木を切るわけではない。
米を作るわけでもない。
船を漕ぐわけでもない。
土器を焼くわけでもない。
それらの能力は各地域社会に存在する。
王権の役割は、
分散している能力を結びつけること
だった可能性がある。
北部九州の海上交通。
吉備の生産力。
東海の地域社会。
北陸や山陰との交通。
大和の政治・祭祀拠点。
それぞれを消して一つにするのではない。
それぞれの力を残したまま、
より大きな目的へ接続する。
そこに広域王権の成長を見ることができる。
十一 そして次に、王権は「目に見える形」を必要とした
しかし、纒向に人を集め、大型建物を造り、大溝を掘っただけでは、一つ問題が残る。
纒向に来なければ、その政治秩序は見えない。
北部九州の首長。
吉備の首長。
東海の首長。
北陸の首長。
彼らが自らの地域へ帰ったとき、
自分がどの政治秩序に参加しているのか
を、地域社会へどう示したのだろうか。
ここで墓が重要になる。
それまで列島各地では、地域ごとに異なる首長墓が造られていた。
ところが三世紀になると、その状況に大きな変化が起こる。
各地域の有力者が、
似た基本構造を持つ巨大墳墓
を造り始めるのである。
前方後円墳である。
次章では、
「なぜ各地の首長は、同じ形の墓を造り始めたのか」
という問いから、前方後円墳が広域政治秩序の中で果たした役を検討する。
第九章 「墓は何を統合したのか」――前方後円墳体制の成立
第一節 「同じ形の墓」――首長たちはなぜ共通の政治表象を選んだのか
一 王権が「場所」を持った、その次に何が必要だったのか
前章では、三世紀の纒向を、人・物・技術・祭祀が集まり、それらを一つの計画へ組み合わせる力が働いた可能性のある場所として見てきた。
しかし、政治中枢が一か所に成立しただけでは、広域的な王権は完成しない。
纒向から遠く離れた地域にも、有力な首長がいる。
北部九州。
吉備。
山陰。
北陸。
東海。
さらに東国。
それぞれの首長は、自らの土地を持ち、地域社会を背景に持ち、独自の祭祀や墓制を持っていた。
彼らは日常的に纒向で生活しているわけではない。
では、
「自分はこの広域政治秩序の中で、どの位置にいるのか」
という関係を、離れた地域でどのように示したのだろうか。
ここで、墓の意味が大きく変わってくる。
二 前方後円墳以前、首長の墓は地域ごとに違っていた
弥生時代後期から終末期、列島各地では有力首長の存在を示す大型墳墓が発達した。
しかし、その形は統一されていない。
吉備には、楯築墳丘墓に代表される大型墳丘墓がある。
山陰では、四隅突出型墳丘墓が発達する。
北部九州には、甕棺墓や鏡・武器などを伴う有力者墓の伝統がある。
丹後にも大型の墳丘墓が現れる。
東海にも独自の墓制が展開する。
つまりこの時代には、
各地に強い首長は存在したが、その権威を表現する方法は地域ごとに異なっていた。
ここにはまだ、
「列島の有力首長なら、この形の墓を造る」
という共通した表現は見えない。
三 ところが三世紀、墓の世界に異変が起きる
その状況が三世紀頃から変わり始める。
前方後円形の墳墓が現れ、やがて列島各地へ広がっていく。
ここで重要なのは、
単に新しい墓のデザインが流行した
ということではない。
墓とは、服や道具のように気軽に取り替えるものではない。
そこには、
死者の権威。
祖先祭祀。
地域社会の記憶。
首長家の伝統。
政治的地位。
が込められている。
それまで独自の墓制を持っていた地域の有力者たちが、なぜ新しい共通形式を受け入れていったのか。
ここが問題である。
四 「同じ墓を造る」ということは何を意味するのか
前方後円墳を造るには、大量の労働力が必要になる。
しかし、労働力だけでは足りない。
どのような平面形にするのか。
どの程度の規模にするのか。
どのように墳丘を築くのか。
どのような葬送儀礼を行うのか。
どのような副葬品を納めるのか。
そこには、墓を造るための知識と情報が必要になる。
つまり前方後円墳が広がるとは、
形だけがコピーされたのではなく、
墓制に関する情報、技術、祭祀観念、そして首長間の関係まで広がった可能性
を考える必要がある。
五 前方後円墳は「命令」で広がったのか
ここでも、すぐに一方向支配へ結びつけてはいけない。
大和の王が、
「今日からこの墓を造れ」
と命令し、全国の首長が従った。
そのような単純な構図が証明されているわけではない。
地域首長が自ら新しい墓制を採用した可能性もある。
有力首長同士の関係の中で共有された可能性もある。
婚姻。
贈答。
祭祀。
政治的同盟。
技術者の移動。
さまざまな経路を考えることができる。
したがって前方後円墳の分布だけから、
大和による直接支配の地図
を描くことはできない。
六 では、地方首長はなぜ新しい墓を選んだのか
逆に考えてみよう。
地方首長にとって、前方後円墳を造ることに何の意味があったのだろうか。
もし、それが広域政治秩序の中で認められた首長の墓であったなら、
その形を採用すること自体が、
「私はこの政治的世界に参加している」
という意思表示になり得る。
地域社会の人々にも、
周辺の首長にも、
訪れてくる使者にも、
その首長の位置を視覚的に示すことができる。
墓は動かない。
だからこそ強い。
王から贈られた品は失われることがある。
使者は帰る。
言葉は忘れられる。
しかし巨大な墳丘は、何世代にもわたって景観の中に残る。
七 墓は「政治関係」を固定する
ここに巨大墳墓のもう一つの性格がある。
古墳は死者のための施設である。
しかし同時に、
生きている人々の関係を目に見える形で残す施設
でもある。
誰の墓が大きいのか。
誰の墓が小さいのか。
どの形を使えるのか。
どのような副葬品を持つのか。
誰の墓と似ているのか。
それらは周囲の人々に、
首長間の序列や関係を意識させる可能性がある。
そう考えると、前方後円墳とは単なる埋葬施設ではなく、
政治秩序を景観の中へ固定する装置
として機能した可能性が見えてくる。
八 「同じ形」でも「同じ大きさ」ではない
ここも重要である。
前方後円墳は、すべて同じ規模ではない。
巨大なものがある。
中規模のものがある。
小規模なものもある。
つまり、基本的な墓制を共有しながらも、
規模には差がある。
これは興味深い。
もし前方後円墳が単なる葬送上の流行であれば、形を真似るだけでもよい。
しかし、墳丘規模に大きな差が継続して存在するのであれば、
そこに被葬者の政治的位置や動員能力の差が反映された可能性も考えなければならない。
同じ形式を使う。
しかし大きさは違う。
ここには、
共通性と序列性が同時に存在する
のである。
九 共通規格とは「全員が同じになること」ではない
前方後円墳体制を考えるとき、
統一という言葉には注意が必要である。
地域文化が消滅したわけではない。
地方首長がいなくなったわけでもない。
すべての墓が同じになったわけでもない。
むしろ、
地域社会は残る。
地方首長も残る。
地域独自の副葬品や祭祀も残る。
その上に、
共通する政治的表現が重なる。
この形の方が、初期王権を理解しやすい。
地方を消して中央を作ったのではない。
地方を残したまま、その上に共通秩序を重ねた。
前章まで見てきた王権形成の構造とよく似ている。
十 海域ネットワークと前方後円墳は別の話ではない
ここで再び海へ戻ろう。
前方後円墳が広がるためにも、人と情報が動かなければならない。
墓を造る技術。
祭祀の知識。
政治関係。
副葬品。
工人。
こうしたものが地域を越えて移動する。
その移動を可能にしたのは、
それ以前から発達していた海上交通や内陸交通のネットワークである。
つまり、
海域ネットワークが人・物・技術を運び、その上を政治的表象まで動き始めた
と考えることができる。
第一部では土器が海を渡った。
第二部では技術が移動した。
第三部では、
政治の形そのものが地域を越えて共有され始める。
ここに大きな変化がある。
十一 そして纒向周辺では、墓そのものが変わり始める
この変化を考えるうえで重要なのが、纒向周辺の初期古墳群である。
纒向石塚古墳。
纒向矢塚古墳。
纒向勝山古墳。
東田大塚古墳。
ホケノ山古墳。
これらには、後の巨大前方後円墳へつながる要素が見られる一方で、まだ完成された一つの形式へ統一されていない特徴も残る。
つまり、
突然、完成形の前方後円墳が出現したわけではない。
試行。
組み合わせ。
選択。
規格化。
そうした過程を経ながら、新しい首長墓が形成されていった可能性がある。
十二 そして、箸墓が現れる
その流れの先に、巨大な箸墓古墳が現れる。
ここで墓の規模は一段変わる。
なぜ、それほど巨大な墓が必要になったのか。
誰が造らせたのか。
どれほどの人が動いたのか。
なぜ、その形だったのか。
そして何より、
なぜその後、同じ基本形式の墓が列島各地へ広がったのか。
次節では、
「なぜ箸墓はこれほど大きかったのか」
という問いから、巨大古墳が示す王権の動員力と、前方後円墳が持った政治的意味をさらに掘り下げる。
第二節 「なぜ箸墓はこれほど巨大なのか」――墓に変換された社会の余剰力
一 巨大化そのものが問いになる
纒向周辺では、箸墓古墳以前にも複数の初期古墳が築かれている。
纒向石塚古墳。
纒向矢塚古墳。
纒向勝山古墳。
東田大塚古墳。
ホケノ山古墳。
そこでは、後の前方後円墳へつながる墳形がすでに試みられていた。
そして三世紀中頃から後半頃、その流れの中に突出した巨大墳墓が現れる。
箸墓古墳である。
文化庁の整理では、墳丘長は約二九〇メートルとされる。
それ以前の纒向周辺の墳墓と比べても、その規模は一段大きい。
ここで問うべきなのは、
「誰の墓なのか」だけではない。
なぜ、この時代にこれほど巨大な墓を造ることが可能になったのか。
そして、
なぜそれほど巨大な墓を造る必要があったのか。
この二つである。
二 巨大な墓は、一人の財産だけでは造れない
二九〇メートル級の墳丘を造るには、大量の土を動かさなければならない。
土地を測る。
設計する。
土を掘る。
運ぶ。
積み上げる。
墳丘を整える。
石材や木材を集める。
埋葬施設を造る。
葬送儀礼を準備する。
そして、その作業に従事する人々を支える。
つまり必要なのは、
土地だけではない。
人。
食料。
工具。
木材。
石材。
技術。
物流。
工程管理。
である。
巨大古墳は、
被葬者が豊かだったことだけを示すのではない。
その人物を中心として、社会がどれだけの人と物を動かすことができたのかを示す。
三 ここでも海洋技術と同じ構造が見える
これは、これまで見てきた海洋技術とよく似ている。
船一隻だけを見れば、木の構造物にすぎない。
しかし実際に海を越えるには、
造船。
航海。
食料。
乗員。
寄港地。
物流。
交易相手。
情報。
が必要になる。
巨大古墳も同じである。
墳丘そのものだけを見ていては、その社会の力は分からない。
背後には、
複数の技術と多数の人間を同時に動かす社会システム
がある。
海を越える力と巨大古墳を造る力は同じものではない。
しかし、
人・食料・資材・技術を集め、目的に応じて編成する
という点では共通する基盤を持つ。
四 余剰が初めて「巨大な政治表現」になる
第一部では、社会の余剰は交易を支えた。
第二部では、工人や専門生産を支えた。
そして第三部に入ると、その余剰の使い方が変わってくる。
大型建物を造る。
大溝を掘る。
祭祀を行う。
政治中枢を維持する。
さらに巨大墳墓を築く。
つまり、
生きるために必要なものを超えて生み出された社会の力が、政治的な事業へ投入される。
ここに大きな転換がある。
箸墓とは、その転換を巨大な形で残した遺構として見ることができる。
五 墓は「余剰の浪費」だったのか
これほど大きな墓を見れば、
「なぜ生産に使えないものへ、これほどの労働力を使ったのか」
という疑問も生じる。
しかし古代社会の側から見れば、必ずしも単純な浪費とは限らない。
巨大古墳の築造では、
多数の集団が共同作業を行う。
食料を集める。
資材を運ぶ。
土木技術を共有する。
工程を調整する。
祭祀を共有する。
首長間の関係を確認する。
こうした行為そのものが、
広域的な人間関係を再確認する場
になり得る。
墓を造ることが、政治を造ることでもあった可能性があるのである。
六 巨大古墳は「王がどれだけ偉かったか」だけを示すのではない
ここで、巨大古墳を単純な権力のメーターとして扱うことにも注意したい。
墳丘が二倍だから、政治力も二倍。
そのような換算はできない。
地形。
築造技術。
祭祀。
地域社会の人口。
築造期間。
政治関係。
さまざまな条件が関わる。
しかし、それでも二九〇メートル級の墳丘を築くには、
相当規模の社会的動員が必要だった
ことは変わらない。
したがって箸墓が示すのは、
絶対的な王が全国を直接支配していたという証明ではなく、
それまでより大規模な人・物・技術を一つの事業へ結びつけられる政治的中心が存在した可能性
である。
七 その労働力はどこから来たのか
ここで新しい問いが生まれる。
箸墓を造った人々は、すべて大和盆地の住民だったのだろうか。
現段階では、それを直接示すことはできない。
大和内部の集落から動員された可能性もある。
周辺地域から人員が加わった可能性もある。
有力首長が一定の労働力や物資を提供した可能性もある。
重要なのは、
巨大古墳が広域的な首長関係の中で築かれた可能性を検討する必要がある
ということである。
前章で見た纒向には、各地との関係を示す人や物が集まっていた。
その直近に巨大墳墓が現れる。
この二つを完全に無関係な現象として扱うより、
政治中枢への人・物の集中と、巨大墳墓を造る動員能力との関係を検討する方が自然である。
八 王の墓は、王が死んだ後も政治を続ける
王は死ぬ。
しかし墓は残る。
ここが重要である。
巨大な墳丘は、何十年、何百年と景観の中に残る。
次の王も見る。
地方首長も見る。
その地域に暮らす人々も見る。
つまり王個人の権威が、
消えない土地構造物へ変換される。
生きている王だけが政治秩序を支えるのではない。
過去の王も巨大墳墓を通じて、その後の政治社会の中に存在し続ける。
ここから、
王個人の権威から、王統の権威へ
という変化を考えることができる。
九 ただし「箸墓=卑弥呼の墓」とはしない
箸墓の年代と卑弥呼の時代が近接することから、両者を結びつける議論は存在する。
しかし本稿では、
箸墓の被葬者を卑弥呼と確定する必要はない。
重要なのは人物比定ではなく、社会構造である。
三世紀の大和に、
広域的な人と物が集まる纒向が存在する。
大型建物と大規模土木が行われる。
そして、その近くに突出して巨大な墳墓が築かれる。
これだけでも、
政治中枢と巨大首長墓が結びつく新しい時代が始まった
という問題を考えることができる。
十 そして本当に重要なのは「次の墓」である
もし箸墓だけが巨大で、その後誰も似た墓を造らなかったのであれば、
特殊な一人の首長だけの現象として説明することもできる。
しかし実際にはそうならなかった。
前方後円墳という基本形は、その後も築かれる。
しかも大和だけではない。
列島各地の有力首長が同じ基本構造を持つ墓を築いていく。
ここで問題は、
「なぜ箸墓が巨大だったのか」
から、
「なぜ地方首長まで同じ形の墓を選んだのか」
へ変わる。
巨大化が王権の動員力を示すのだとすれば、
墳形の共有は何を示すのか。
次節では、
「形が同じ」という事実を、単なる流行ではなく首長間の政治関係から読み解く。
第三節 「同じ形」は何を意味したのか――前方後円墳は政治関係の地図だったのか
一 巨大であること以上に、「形が共有された」ことが重要である
前節では、箸墓古墳の巨大さを、社会が人・物・技術を一つの事業へ振り向ける能力という視点から見た。
しかし前方後円墳を考えるうえで、規模と同じくらい重要な問題がある。
それは、
なぜ同じ基本形が、離れた地域へ広がったのか
ということである。
円形の後円部。
そこから伸びる前方部。
この特徴的な形は、自然に生まれるものではない。
誰かが設計を知る。
その情報が伝わる。
築造する人々が理解する。
そして地域社会が大量の資源を投入して実際に造る。
つまり前方後円墳の拡大とは、
形についての知識だけでなく、その形を選ぶ社会的理由まで共有された現象
だった可能性がある。
二 一個の土器を真似るのとは意味が違う
文化は模倣される。
他地域の土器を見て、似た器を作ることはできる。
装身具の意匠を真似ることもできる。
しかし百メートルを超える墳墓は事情が違う。
大量の土を動かす。
長期間人を動員する。
食料を投入する。
土地を占有する。
葬送儀礼まで行う。
つまり地域社会全体が、その墓のために大きな負担を負う。
それでも前方後円墳が採用されたのであれば、
「流行していたから」だけでは説明しきれない。
その形を選択すること自体に、何らかの政治的・祭祀的な意味があった可能性を考える必要がある。
三 同じ形だからといって、直接支配とは限らない
ただし、ここでも慎重さが必要である。
前方後円墳がある地域を塗りつぶして、
「ここまで大和王権の領土だった」
とすることはできない。
同じ墓を造ったからといって、
中央から役人が派遣されていた。
税が直接徴収されていた。
地方行政が一律に行われていた。
とまでは分からないからである。
つまり、
墳形の共有と領土の直接支配は別の問題
である。
四 では、何が共有されていたのか
直接統治ではないとすれば、何が広がったのだろうか。
まず考えられるのは、
首長どうしの政治関係。
葬送祭祀。
権威の表現方法。
首長としての資格。
広域秩序への参加意識。
である。
地方首長が前方後円墳を造ることで、
「自分は、この広域的な首長社会の一員である」
ことを示していた可能性がある。
そう考えると、前方後円墳の分布は、
単純な領土地図ではなく、
首長と首長を結ぶ関係の地図
として見ることができる。
五 「同じ形」でも、すべて同じではない
さらに興味深いのは、前方後円墳が同じ基本形を持ちながら、まったく同一ではないことである。
大きさが違う。
埋葬施設が違う。
副葬品が違う。
使用する石材が違う。
築造技術にも地域差がある。
祭祀の細部も一様ではない。
つまり、
共通する部分と、地域ごとに異なる部分が同時に存在する。
ここに初期王権の特徴を見ることができる。
六 統合とは、地域文化を消すことではなかった
王権形成というと、
大和の文化が地方文化を塗り替えていく
という姿を想像しやすい。
しかし前方後円墳の実態は、それほど単純ではない。
地方首長は残る。
地方の生産基盤も残る。
地域ごとの技術も残る。
独自の祭祀や副葬品も残る。
その上に、
前方後円墳という共通の上位表現が重なる。
つまり、
地域社会を壊して一つにしたのではなく、
地域社会を残したまま、より大きな政治秩序へ接続した
と考えることができる。
七 地方首長にも、前方後円墳を造る理由があったのか
では、なぜ地方首長はこの仕組みに参加したのだろうか。
軍事的圧力。
政治的服属。
そうした要素が存在した可能性は否定できない。
しかし、それだけで全国的な広がりを説明する必要もない。
地方首長側にも利益があった可能性がある。
広域交易へ参加できる。
鉄や希少品へアクセスできる。
工人や新技術を得られる。
他地域の首長との婚姻関係を築ける。
軍事的な協力関係へ入れる。
王権から地位を認められる。
祭祀秩序へ参加できる。
もしそうであれば、
前方後円墳を造ることは、負担であると同時に政治的投資
でもあったことになる。
八 「参加する価値」がある政治秩序
ここは王権形成を考えるうえで重要である。
強制だけで維持される政治秩序は、常に大きな統治コストを必要とする。
しかし参加することで利益が得られるなら、地方首長自身がその秩序を維持する側へ回る。
王権が地方首長を押さえる。
だけではない。
地方首長も王権を利用する。
王権も地方首長の生産力・軍事力・物流力を利用する。
つまり、
王権と地方首長が相互に利益を得る政治関係
が成立し得る。
ここに、単純な征服国家とは違う初期王権の姿が見えてくる。
九 前方後円墳体制という考え方
古墳研究では、このような広域的な墓制秩序を「前方後円墳体制」と捉える議論がある。
ただし、この言葉を使うときにも注意が必要である。
墳丘の形や規模が、首長の政治的位置をある程度反映していた可能性は考えられる。
しかし、
百メートルなら何位。
二百メートルなら何位。
といった厳格な官位表が存在したことが分かっているわけではない。
地域条件も違う。
時期も違う。
地形も違う。
したがって本稿では、
前方後円墳体制を、固定された官僚制度ではなく、首長間の序列や関係を墓制によって表現した広域的政治秩序
として考える。
十 墓の大きさは「資格」と「実力」の両方を映したのか
もし前方後円墳の形が広域秩序への参加を示すのであれば、その大きさの違いも重要になる。
同じ形を使う。
しかし規模は異なる。
その差には、
被葬者個人の権威。
地域社会の人口。
生産力。
動員可能な労働力。
他首長との関係。
王権との距離。
複数の要因が反映された可能性がある。
したがって、
墳丘規模をそのまま官位へ変換することはできない。
しかし、巨大古墳が特定地域や有力者へ集中するのであれば、
首長間に大きな政治的格差が存在した可能性は無視できない。
十一 前方後円墳は「中央と地方」を結ぶ装置だったのか
ここまでの流れをまとめると、前方後円墳は不思議な特徴を持っている。
大和にもある。
地方にもある。
形は共通する。
規模は違う。
地域文化も残る。
つまり、
統一されているのに、地方性が消えていない。
これは、前章まで見てきた初期王権の姿とよく似ている。
王権が地方社会を直接すべて管理するのではない。
地方首長が地域社会をまとめる。
その地方首長が、より上位の政治秩序へ結びつく。
そして、その関係が墓によって可視化される。
前方後円墳とは、
王権と地方首長を結びつける政治的・祭祀的な接点
だった可能性がある。
十二 では、誰が最も大きな墓を造ったのか
ここまで来ると、次の問いは明確である。
同じ基本形の墓が広がったとしても、
すべての首長が対等だったわけではない。
では、
その広域秩序の中心はどこにあったのか。
地方にも巨大古墳はある。
しかし、それをさらに上回る巨大墳墓はどこに集中するのか。
その分布を見れば、
前方後円墳体制が単なる水平な首長同盟だったのか、
それとも、
明確な中心性を持った政治秩序だったのか
を考えることができる。
次節では、
「巨大古墳はどこに集中したのか」
という問いから、大和・河内を中心とする王権の優位がいつ、どのように現れてくるのかを検討する。
第四節 「巨大古墳はどこに集中したのか」――前方後円墳体制の中心性
一 広がったからといって、すべてが対等だったわけではない
前方後円墳は列島各地へ広がった。
しかし、その事実だけを見て、
各地域の首長がすべて対等な立場で結びついていた
と考えることはできない。
なぜなら、墳丘の規模には大きな差があるからである。
地方にも有力な前方後円墳は築かれる。
しかし、とりわけ巨大な古墳は畿内へ集中していく。
ここに、
共通墓制を共有しながらも、政治的中心性は均等ではなかった
可能性が見えてくる。
二 前方後円墳体制は「水平な同盟」ではなかったのか
もし前方後円墳体制が、完全に対等な首長同士のゆるやかな同盟にすぎなかったのであれば、
特定地域に突出して巨大な墳墓が集中する理由を説明する必要がある。
もちろん、
人口。
地形。
農業生産力。
築造技術。
地域ごとの社会構造。
そうした条件の違いも考えなければならない。
しかし、それらを考慮しても、
大和・河内を中心とする畿内に大規模古墳が集中する傾向
は無視できない。
つまり、広域政治秩序には中心と周縁があった可能性が高い。
三 「共通する形」と「突出する規模」が同時に存在する
ここが前方後円墳体制の面白いところである。
地方首長も前方後円墳を造る。
つまり共通秩序へ参加する。
しかし、王権中枢と考えられる地域では、それをさらに上回る巨大墳墓が造られる。
つまり、
形式は共有するが、規模は同じではない。
この構造は、
単なる文化流行よりも、
序列を伴う政治ネットワーク
として理解した方が説明しやすい。
四 大きさは「王の命令」で決まったのか
ただし、ここでも慎重さが必要である。
大和の王が地方首長に、
「あなたは百メートル」
「あなたは七十メートル」
と墳丘規模を直接指定していたことが分かっているわけではない。
墳丘の大きさには、
地域人口。
地域首長自身の動員能力。
地形。
築造時期。
政治的競争。
など複数の要因が関係する。
したがって、
墳丘規模をそのまま官位表として読むことはできない。
しかし一方で、巨大墳墓の集中から政治的中心性をまったく読み取らないのも不自然である。
必要なのは、その中間である。
五 中心王権は、地方首長より「多くの力」を束ねられたのか
地方首長は自分の地域社会を動かせる。
では王権中枢は何が違ったのか。
本稿の視点から考えると、
一地域の余剰だけでなく、複数地域との関係を利用できた可能性
が重要になる。
自地域の農業生産力。
周辺地域から集まる物資。
遠隔地との交易。
工人。
祭祀関係。
首長間の協力。
こうした複数の力を同時に束ねることができれば、
地方首長には難しい規模の事業が可能になる。
つまり巨大王墓は、
王が個人的に富裕だったことだけでなく、
広い政治ネットワークへアクセスできたこと
を示す可能性がある。
六 ここでも「転換力」が決定的になる
王権が強いとは、
単に人口が多いことではない。
土地が広いことでもない。
重要なのは、
どれだけ多くの地域の力を、特定の目的へ動かせるか
である。
同じ人口を持つ二つの地域があっても、
一方は自地域の内部だけで完結する。
もう一方は遠隔地の首長と結びつき、技術や物資を呼び込み、共同事業を行える。
この二つでは、政治力が違う。
巨大古墳は、
そのような広域的転換力がどこに強く集中していたのかを見る材料になる。
七 地方首長は弱くなったのではない
では、王権中枢が強くなるにつれて、地方首長は衰退したのだろうか。
必ずしもそうではない。
古墳時代を通じて、地方にも大型古墳は築かれる。
地域開発を行う首長もいる。
水利を管理する。
農業生産を拡大する。
交通路を押さえる。
軍事力を持つ。
地方祭祀を行う。
つまり、
王権が成長したから地方首長が消えたわけではない。
むしろ地方首長自身も成長していく。
八 王権の成長と地方首長の成長は両立する
これは重要である。
広域ネットワークへ参加すれば、
地方首長は新しい技術へアクセスできる。
鉄を得られる。
工人を得られる。
馬を得ることもある。
希少品を得る。
他地域の情報を得る。
新しい交通網へ接続する。
その結果、地方首長自身の力が増すこともある。
つまり、
地方首長が強くなることと、王権が強くなることは矛盾しない。
むしろ、強い地方首長を束ねることができるからこそ、
王権も強くなる。
九 王権とは「地方を弱くする力」ではなかったのか
ここから、初期王権の姿を少し違って見ることができる。
王権とは、
地方の力を奪って中央へ集めるだけの仕組みではない。
地方の力を成長させながら、
その力を広域秩序へ接続する仕組みでもあった可能性がある。
地方首長は地域社会の中で力を持つ。
その地方首長が王権へつながる。
王権は、その首長を介して地域社会と結びつく。
つまり、
王権は地域を直接支配する前に、首長を束ねることで広がった
と考えることができる。
十 前方後円墳は「領土」より「人的関係」を映していたのか
この視点から前方後円墳の分布を見ると、意味が変わる。
そこに前方後円墳があるから、
その土地が王権の直接領土だった。
とは限らない。
むしろ、
その地域の有力首長が、王権を中心とする政治ネットワークに参加していた
可能性を考える。
つまり前方後円墳の分布は、
行政区画の地図ではなく、
首長間の人的・政治的結合の広がり
を映していた可能性がある。
十一 海洋ネットワークが政治ネットワークへ変わる
ここで第一部からの流れがさらに明確になる。
最初にあったのは、
人と物を動かす海のネットワークだった。
その中で首長が成長した。
首長同士がつながった。
広域王が必要になった。
纒向のような政治中枢が形成された。
そして今、
前方後円墳という共通表象によって、
離れた首長同士の政治的位置まで可視化され始める。
海のネットワークが、
政治ネットワークへ変わっていくのである。
十二 そして王権の力は、海の向こうへ向かい始める
ここまでの段階では、主に列島内部の統合を見てきた。
しかし、首長を束ね、
大量の人を動かし、
物資を集め、
大型事業を継続できる社会が成立すれば、
その能力は墓づくりだけに使われるとは限らない。
船を造る。
兵を集める。
武器をそろえる。
食料を積む。
遠征する。
つまり、
巨大古墳を造れる社会能力と、対外軍事を行える社会能力には、共有する基盤がある。
もちろん、墓を造れたから海外遠征ができたと単純に結論づけることはできない。
しかし、
大規模な人員・物資を組織できる社会が形成されていた
という点では重要な連続性がある。
次節では、
「巨大古墳を造る力は、どこまで軍事力へ転換できたのか」
という問題から、前方後円墳体制が後の倭の対外行動を支える社会基盤になり得
第五節 「墓を造る力は軍を動かす力だったのか」――動員能力から見る王権
一 巨大古墳と軍隊を、そのまま同じものにはできない
巨大古墳を築くには、多数の人間を動かす必要がある。
それなら、
巨大古墳を造れる社会は、そのまま大軍を動かせたのではないか。
そう考えたくなる。
しかし、ここは一度立ち止まる必要がある。
土木工事と戦争は同じではない。
古墳を築く労働者が、そのまま兵士になるわけでもない。
墓を造る技術と戦闘技術も異なる。
したがって、
巨大古墳=軍事力
と単純に置き換えることはできない。
それでも両者には、無視できない共通点がある。
二 戦争にも「戦う人」以外が必要である
軍事というと、武器を持った兵士だけを想像しやすい。
しかし遠征を行うには、それだけでは足りない。
兵を集める。
武器を用意する。
食料を集める。
運搬する。
船を準備する。
船員を集める。
目的地まで移動させる。
現地で食べさせる。
負傷者を支える。
情報を伝える。
そして帰還させる。
つまり軍事行動もまた、
人・物・技術・情報を一つの目的へ統合する総合事業
なのである。
ここには、巨大古墳築造と共通する社会的基盤がある。
三 共通するのは「大量の人を食べさせる力」である
巨大古墳を造る場合、人々は一定期間、本来の生産活動から離れる。
軍事遠征でも同じである。
農民を兵として動員すれば、その間は農作業ができない。
船乗りを遠征へ出せば、通常の漁撈や交易から離れる。
武器を作る工人も、別の生産に従事できなくなる。
したがって必要になるのは、
戦う人数以上の社会的余剰
である。
前線へ行く者だけではない。
その人々を送り出す社会全体が、遠征を支えなければならない。
四 軍事力の正体は「兵士の数」だけではない
ここで、軍事力という言葉の意味も変わってくる。
人口が多いだけでは大軍は動かない。
武器が多いだけでも動かない。
必要なのは、
食料。
武器。
船。
輸送。
工人。
指揮。
情報。
補給。
そして、それらを一定期間維持する仕組みである。
つまり古代の軍事力を見るときにも、
何人戦えるか
だけではなく、
何人を、どれだけ遠くへ、どれだけ長く動かせるか
を見なければならない。
五 ここでも海洋技術が決定的になる
列島内部の戦争であれば、陸路や河川による移動も可能である。
しかし朝鮮半島へ兵を送るとなれば、事情はまったく違う。
海を越えなければならない。
そこで必要になるのが、本稿が第一部から追ってきた海洋技術である。
船を造る。
海況を読む。
航路を知る。
乗員を編成する。
水と食料を積む。
多数の船を行動させる。
対岸の寄港地を確保する。
補給を続ける。
つまり、
列島の王権が半島政治へ軍事的に関与するためには、そのはるか以前から海を継続的に利用してきた社会的能力が前提になる。
王権が生まれたから、突然海を渡れるようになったのではない。
すでに存在した海洋能力を、王権が大規模に利用できるようになったと考える方が自然である。
六 変わったのは「船」ではなく「動員の規模」だったのか
縄文時代にも人は海を渡っていた。
弥生時代にも列島と半島の間を人や物が動いた。
では、後の王権による対外行動と何が違うのか。
最大の違いの一つは、
動員の規模と目的
である。
交易者が数人で渡る。
工人が移動する。
小集団が往来する。
これと、
政治目的のために多数の人員・船舶・食料・武器を同時に動かす
ことは同じではない。
海洋技術そのものには長い蓄積がある。
しかし王権形成によって、
その技術を広域的な政治目的へ集中させることが可能になった
と考えることができる。
七 前方後円墳体制は「人を集める経路」でもあったのか
では王権は、どのように広い地域から人や物を集めたのだろうか。
ここで前方後円墳体制が再び意味を持つ。
地方には地方首長がいる。
その首長が地域の生産力を背景に持つ。
その首長が、さらに上位の王権と政治的に結ばれる。
もしこの関係が成立していたなら、
王権がすべての集落へ直接命令する必要はない。
王権から有力首長へ。
有力首長から地域首長へ。
地域首長から地域社会へ。
という形で、人員や物資を集めることが可能になる。
ただし、その具体的な命令系統や負担制度が三世紀段階で明らかになっているわけではない。
ここで確認できるのは、
広域動員を可能にし得る首長間ネットワークが形成されつつあった
ということである。
八 墓のために集まれた社会は、別の目的にも集まれたのか
巨大古墳の築造では、
土地を測る。
人を集める。
食料を集める。
工具を用意する。
遠方から資材を運ぶ。
作業を分担する。
長期間工程を維持する。
こうした能力が必要になる。
この能力は、墓だけにしか使えないものではない。
灌漑。
大規模土木。
船舶の建造。
集団移動。
そして軍事。
別の目的へ転用できる部分がある。
したがって巨大古墳は、
軍事力そのものの証拠ではないが、
大規模な共同事業を可能にする社会組織が存在したことを示す材料
にはなる。
九 ここで「転換力」がもう一度意味を持つ
同じ人口。
同じ農地。
同じ技術。
同じ海洋能力。
それらを持っていても、政治的結果は同じとは限らない。
分散したままであれば、それぞれの地域で使われる。
しかし、それらを一つの目的へ集めることができれば、
巨大古墳を造る。
大規模な祭祀を行う。
政治中枢を維持する。
遠征軍を送り出す。
といったことが可能になる。
したがって王権の成長を見るうえで重要なのは、
資源の量だけではなく、それを目的に応じて組み替える転換力
なのである。
十 それでも対外軍事は、一段高いハードルである
ただし、巨大古墳を造れるからといって、直ちに半島へ大軍を送れるとは限らない。
対外軍事にはさらに、
船舶数。
航海要員。
海上指揮。
補給拠点。
外国勢力との情報交換。
現地での政治関係。
などが必要になる。
ここで初めて、
第一部の海洋技術。
第二部の生産力と余剰。
第三部の首長統合。
が一つになる。
海を渡れる。
大量に生産できる。
人を集められる。
複数地域を政治的に結べる。
この条件が重なったとき、
倭の政治勢力は、海を単なる交易路としてではなく、
外交と軍事の空間として利用できる段階
へ進み得る。
十一 しかし、その変化は四世紀以降に検証しなければならない
ここまでで分かるのは、対外軍事を可能にする社会的条件が形成されつつあったということである。
実際に、
いつ。
誰が。
どの程度の兵力を。
どの政治目的で。
半島へ送り出したのか。
これは別に史料で検証しなければならない。
後の広開土王碑。
百済との外交関係。
中国史料に現れる倭王。
そうした史料を見て初めて、王権の対外行動を具体的に論じることができる。
つまり今はまだ、
「海外へ軍を送った」ことを証明している段階ではない。
その前に、
「それを可能にする社会は、どのように形成されたのか」
を明らかにしているのである。
十二 墓から軍事へではなく、「同じ社会能力」が別の形で現れる
ここまでを整理すると、重要なのは、
巨大古墳を造った。
だから軍隊を送れた。
という単純な因果ではない。
そうではなく、
巨大古墳築造と遠距離軍事行動の双方に、大量の人・食料・物資・技術を組織する社会能力が必要だった
ということである。
そして、その能力を支えたものの一つが、
長い時間をかけて蓄積された海洋技術であり、
地域社会の余剰力であり、
首長間の政治ネットワークだった。
海を使う社会は、
やがて海を政治的に動かす社会へ近づいていく。
では、その王権はどのように世代を越えて継承されたのか。
そして『古事記』『日本書紀』に残された神武、欠史八代、崇神という王統伝承は、その過程とどこまで重なるのか。
次章では、
考古学によって組み立てた王権形成の流れに、初めて『記紀』の伝承を重ねる。
第十章 神武から崇神へ――初期王権の記憶をどう読むか
第一節 「史実か神話か」だけでは見えない――『記紀』と考古学をどう重ねるか
一 ここから初めて『記紀』を重ねる
ここまで本稿では、できるだけ『古事記』『日本書紀』の王統記事に頼らず、列島の国家形成を追ってきた。
海を渡る技術があった。
列島と朝鮮半島南部を結ぶ交流が続いた。
水田農業や鉄などによって社会の余剰力が増した。
地域ごとに有力首長が成長した。
中国史料には「王」や複数の「国」が現れた。
三世紀には纒向のような広域的拠点が形成された。
そして前方後円墳という共通する政治的・祭祀的表現が列島各地へ広がっていった。
ここまでで、
初期王権が成立するための社会的条件そのものは、記紀を使わなくても考えることができる。
だからこそ、ここから『記紀』を重ねる。
二 最初から神武を実在人物と決めない
神武天皇。
欠史八代。
崇神天皇。
これらの人物を先に実在したと決め、
「この遺跡が神武である」
「この古墳が何代天皇である」
と考古資料を当てはめていけば、結論が先に決まってしまう。
年代が合わなくても解釈で合わせる。
都合のよい遺物だけを選ぶ。
伝承と考古学の違いを無視する。
それでは検証にならない。
本稿ではその方法を採らない。
三 しかし「八世紀の書物だから全部創作」とも決めない
逆も同じである。
『古事記』『日本書紀』が成立したのは、そこで描かれる初期王権の時代よりはるかに後である。
そのため、
後世の政治思想。
王統の正統化。
氏族系譜。
祭祀制度。
編纂当時の知識。
などが物語へ入り込んでいる可能性は当然考えなければならない。
しかし、
成立が後世だから、その内容に古い記憶が一切残っていない
とすることもまた、資料を読む前に結論を決めることになる。
後世に編集された伝承の中に、
地名。
移動経路。
婚姻関係。
地域勢力との対立。
祭祀。
王統形成。
など、より古い政治社会の記憶が組み込まれている可能性は残る。
四 人物ではなく、まず「構造」を比較する
そこで本稿では、別の読み方をする。
神武本人が実在したか。
欠史八代の八人が全員実在したか。
崇神の記事がそのまま同時代記録なのか。
これらを最初の問いにはしない。
先に見るのは、
物語がどのような王権形成の構造を描いているのか
である。
神武伝承では、
西方から大和へ移動する。
すでに存在する勢力と衝突する。
大和へ政治中心を置く。
在地の権威と結びつく。
王統が始まる。
その後の初期王統では、
婚姻と系譜が繰り返される。
そして崇神になると、
祭祀。
地方への派遣。
人や負担の把握。
船舶。
といった、より広域的な統治を連想させる記事が急に増える。
この変化そのものを考えるのである。
五 考古学側にも、一度に国家が完成した姿は見えない
一方、考古学でも国家は突然現れない。
弥生終末期には、各地に有力首長が存在する。
やがて大和に大規模な政治的結節点が現れる。
初期の前方後円形墳墓が造られる。
その後、巨大で定型化した前方後円墳が現れる。
共通墓制が広がる。
地方首長を含む広域的な政治関係が形成されていく。
つまり考古学側でも、
一人の征服者が現れた瞬間に国家が完成する
という姿は見えてこない。
政治中枢の形成。
首長間関係の再編。
祭祀の共有。
王統の安定。
広域動員。
こうした複数の変化が重なっていく。
六 ならば『記紀』にも「形成の時間」が残っているのか
ここで一つ興味深い問いが生まれる。
『記紀』もまた、
神武の次にすぐ巨大な統一国家を置いてはいない。
神武。
その後に複数世代。
そして崇神。
という構造を持っている。
もちろん、
だから欠史八代が考古学的に証明された
という話ではない。
重要なのは、
始祖王の登場と、広域王権の成立との間に時間を置く物語構造
である。
国家形成に複数世代を要したと考えるなら、この構造そのものは検討に値する。
七 一致だけではなく「不一致」も見る
この章では、伝承と考古学の一致点だけを拾うことはしない。
年代が合わない。
移動方向が合わない。
伝承にはあるが考古学では確認できない。
考古学には大きな変化があるのに伝承では語られない。
そうした不一致も同じように見る。
むしろ重要なのは、
どこまでなら重ねられ、どこから先は重ねられないのか
を明確にすることである。
一致すれば史実。
一致しなければ神話。
という単純な判定ではない。
伝承が何を保存し、何を再構成したのかを考える。
八 海洋技術という視点を失わない
そして、この章でも第一部からの軸は変わらない。
神武伝承を読むときも、
単なる王位継承物語としては見ない。
西から東へ移動するには、交通能力が必要である。
瀬戸内を進むなら、海上交通を利用できる社会が背景に必要になる。
吉備などで滞在するのであれば、現地勢力との関係も問題になる。
大和へ入った後も、もともとの在地社会を無視することはできない。
つまり神武伝承を検討するときにも、
海を利用できる政治勢力が、どのように大和の既存勢力と接触し、新しい政治秩序を形成したのか
という視点を保つ。
九 神武・饒速日・長髄彦を「人物当て」にしない
この先、神武だけでなく、饒速日や長髄彦も登場する。
ここでも、
どの遺跡が饒速日か。
どの古墳が長髄彦か。
という人物当てはしない。
注目するのは、
神武が大和へ到達する以前から、大和には別の政治勢力が存在した
という物語構造である。
これは重要である。
『記紀』自身が、
大和は無人だった。
神武が来て初めて文明が始まった。
とは描いていない。
すでに政治的な相手がいる。
ここから王権形成は、
「何もない場所へ王が来た話」
ではなく、
複数の政治勢力が接触し、対立し、再編される物語
として見えてくる。
十 この章で問うこと
ここから検証するのは、
神武は本当に東征したのか。
という一問だけではない。
なぜ始祖王は最初から大和にいないのか。
なぜ瀬戸内を東へ進む物語なのか。
なぜ大和には先行勢力がいるのか。
なぜ戦いだけでなく婚姻が重視されるのか。
なぜその後の王たちは政治事績が少なく、系譜を多く残すのか。
そして、
なぜ崇神になると突然、祭祀・地方・人・物・船へ王権の視線が広がるのか。
これらを、
海域社会から広域王権へ変化した考古学的過程
と比較する。
次節ではまず、
「なぜ神武は西から大和へ向かったのか」
という問いから、神武東征伝承の移動経路と、本稿が追ってきた海域ネットワークを重ねてみる。
第二節 「なぜ神武は西から大和へ向かったのか」――東征伝承と海域ネットワーク
一 始祖王は、最初から大和にいない
神武伝承を読むと、最初に気づく大きな特徴がある。
神武は、最初から大和の王として登場するのではない。
西方から移動してくる。
そして最終的に大和へ入る。
これは王権始祖の物語として考えると、意外に重要である。
もし単純に、
「大和には昔から天皇がいた」
という正統性だけを示したいのであれば、初代王を最初から大和に置く物語を作ることもできたはずである。
ところが『記紀』は、そうしていない。
王権の始祖を「移動する王」として描いている。
ここから何を読み取れるのか。
二 その移動は、列島西部の海上交通軸に沿っている
『古事記』系統の伝承では、神武は高千穂から出発し、
筑紫。
安芸。
吉備。
などを経ながら東へ進む。
そして河内側から大和へ入ろうとする。
もちろん、この経路をそのまま一度の軍事遠征の正確な航海日誌と考えることはできない。
しかし地理的に見ると、その移動軸は興味深い。
北部九州方面。
瀬戸内。
吉備。
河内。
大和。
これは本稿が第一部から追ってきた、
西日本を結ぶ海上・沿岸交通の大動脈
と大きく重なる。
三 神武東征は「陸軍の大行進」として読む必要はない
「東征」という言葉から、大軍が陸路を一直線に進む姿を想像しやすい。
しかし列島西部の地理を考えると、海上交通を無視することはできない。
大量の人や物を長距離移動させる場合、
山地を越え続けるより、
瀬戸内海を利用した方が有利になる場面が多い。
食料。
武器。
人員。
情報。
それらを運ぶには船を利用できる。
つまり神武伝承の背景を考える際にも、
海洋技術を持つ社会でなければ、この移動そのものが成立しにくい
という視点が必要になる。
四 ここで海洋技術が、初期王権形成へ直接つながる
第一部で見た海洋技術とは、単に舟を造る技術ではなかった。
造船。
航海。
潮流や風の理解。
乗員編成。
食料と水の確保。
寄港地。
補修。
交換相手との関係。
それらを含む総合的な社会能力である。
その能力を持つ勢力であれば、
交易だけではなく、
人員移動。
政治使節。
婚姻。
軍事。
拠点形成。
にも海を利用できる。
つまり、
海洋技術は交易社会だけでなく、政治勢力が活動範囲を広げるための基盤にもなる。
神武東征伝承を本稿の流れに置く意味はここにある。
五 なぜ途中で吉備にとどまるのか
伝承では、神武一行は西から大和へ一直線に駆け抜けるわけではない。
吉備などに滞在する。
この点も興味深い。
もし物語を単なる英雄の進軍として読むなら、途中の滞在は冗長にも見える。
しかし実際に政治勢力が長距離を移動すると考えれば、話は違う。
船を整える。
食料を得る。
人員を休ませる。
現地勢力と関係を結ぶ。
情報を集める。
次の航路を準備する。
こうした時間が必要になる。
もちろん、
伝承上の滞在記事が実際の兵站記録である
と断定することはできない。
しかし、
「移動には拠点が必要だった」
という海域社会の現実とは矛盾しない。
六 海のネットワークは、すでに存在していた
ここで重要なのは、
神武が海上交通網そのものを作った
と考えないことである。
本稿がすでに見てきたように、
列島西部には神武伝承よりはるか以前から海を利用する社会が存在していた。
縄文以来の沿岸航海。
弥生期の瀬戸内交通。
北部九州と半島を結ぶ航路。
吉備などの地域社会。
つまり、仮に神武伝承の背後に何らかの政治的移動の記憶があるとしても、
その勢力は、
すでに存在していた海上交通網を利用した
と考える方が自然である。
王権が海を作ったのではない。
海を使える社会の上に、王権が乗った。
七 では、神武勢力は「海洋勢力」だったのか
ここは慎重に言わなければならない。
『記紀』に航海を伴う東征が描かれているからといって、
神武を特定の海民集団の首長と断定することはできない。
また、
北部九州のある考古学文化を、そのまま神武勢力と同定することもできない。
しかし少なくとも伝承上、
西方から瀬戸内を経て大和へ進むためには、
海上交通を利用できる政治集団
として描かれている。
この点は、本稿の海域社会論と比較できる。
八 大和は「目的地」だった
さらに重要なのは、
神武一行が海上交通の要地そのものを最終目的にしていないことである。
北部九州にとどまらない。
吉備にもとどまらない。
河内だけでも終わらない。
最終的に大和へ入ろうとする。
これはなぜか。
海上交易を行うだけなら、港に近い場所の方が便利である。
それでも物語は、大和を政治中心として選ぶ。
ここには、
交易拠点と政治中枢は同じ場所でなくてもよい
という、前章で見た構造と重なる部分がある。
九 そして河内側からの進入は失敗する
神武伝承では、河内側から大和へ入ろうとしたとき、長髄彦の抵抗を受ける。
つまり、
大和は空白地ではない。
すでにそこを守る勢力がいる。
しかも、簡単には突破できない。
ここで物語は、
「西方から来た王が無人の大和へ入った」
という単純な開拓神話ではなくなる。
既存の政治勢力が存在する土地へ、新しい政治勢力が進出した物語
になる。
十 これは「外来文明が大和を作った」という話ではない
ここも明確にしておきたい。
神武が西から来るからといって、
大和には何もなかった。
西から文明が持ち込まれた。
という意味にはならない。
伝承そのものが、大和に先行勢力を置いている。
考古学的にも、大和盆地には神武伝承以前から長い居住と地域社会の歴史がある。
したがって問題は、
文明の有無ではなく、
すでに存在する大和の政治社会へ、新たな政治勢力がどのように関わったのか
である。
十一 「征服」だけではなく「統合」の物語として読めるのか
神武は戦う。
しかし王権形成は、戦って勝てば終わるものではない。
土地を知る人々がいる。
農業を行う社会がある。
水利を管理する人々がいる。
祭祀を行う集団がいる。
既存の交通網がある。
それらをすべて破壊してしまえば、新しい王権もその土地で生きていけない。
必要なのは、
敵対する一部勢力を排除する一方で、
既存社会の大部分を新しい政治秩序へ取り込むこと
である。
この視点から見ると、神武東征伝承は単なる軍事征服物語ではなく、
複数の地域政治勢力が再編される王権形成物語
として読み直すことができる。
十二 では、大和には誰がいたのか
ここで次の問いが生まれる。
神武が来る以前の大和には、誰がいたのか。
伝承上、その中心に現れるのが、
長髄彦。
そして、
饒速日である。
この二者の存在は重要である。
なぜなら『記紀』自身が、
神武より前に、大和には別の政治的・祭祀的権威が存在した
という構造を残しているからである。
もしこの伝承構造に古い政治記憶が含まれているなら、
初期王権成立を理解する鍵は、
神武だけを見ることではない。
神武と、すでに大和にいた勢力との関係を見ること
にある。
次節では、
「神武が来る前、大和には何があったのか」
という問いから、長髄彦・饒速日伝承を、征服された敗者の物語ではなく、初期王権形成を支えた既存勢力の記憶として検討する。
第三節 「神武が来る前、大和には何があったのか」――長髄彦・饒速日伝承が示す先行勢力
一 神武伝承そのものが「先にいた勢力」を認めている
神武東征を、
初代王が何もない土地へ入り、新しい国を造った物語
として読むことはできない。
なぜなら『記紀』自身が、大和に先行する勢力を登場させているからである。
その中心にいるのが、
長髄彦。
そして、
饒速日命
である。
神武が大和へ入ろうとした時点で、そこにはすでに抵抗できる勢力が存在する。
ここは非常に重要である。
物語の構造そのものが、
大和王権の成立以前にも、大和には独自の政治社会が存在した
ことを前提としている。
二 長髄彦は「山中の反乱者」ではない
長髄彦を、後世の王権に逆らった地方反乱者のように見てしまうと、物語の順序を逆にしてしまう。
神武がまだ大和の王ではない段階で、長髄彦はすでにそこにいる。
河内側から大和へ進入しようとする神武勢力を迎え撃ち、神武側は一度その進路を変更することになる。
つまり伝承上の長髄彦は、
成立した大和王権へ反乱した人物ではない。
むしろ、
新たに大和へ入ろうとする勢力に抵抗した、既存側の有力者
として描かれている。
この違いは大きい。
三 神武は最初の進入に失敗している
ここも見逃せない。
神武は西から来た。
大和へ入ろうとした。
しかし、簡単には入れなかった。
長髄彦側の抵抗によって進入を阻まれる。
もし始祖王を絶対的な英雄としてだけ描くのであれば、最初から圧倒的勝利を収める物語にすることもできる。
ところが伝承は、一度の失敗を残している。
これをそのまま史実と認定する必要はない。
しかし少なくとも物語は、
大和の先行勢力が無視できない強さを持っていた
という構図を保存している。
四 さらに饒速日という、もう一つの権威が現れる
長髄彦だけなら、在地首長同士の戦いとして読むこともできる。
ところが、物語には饒速日命が現れる。
『古事記』では邇芸速日命、『日本書紀』では饒速日命と記される人物である。
両書では人物関係や物語の細部が同じではない。
この違いは無視してはいけない。
しかし共通して重要なのは、
神武とは別に、天上世界との正統性を持つ人物が大和側に置かれている
ことである。
つまり物語は、
神武だけが神聖な出自を持ち、
大和側は何の正統性も持たない
という単純な構図にはなっていない。
五 『日本書紀』では、長髄彦は饒速日を奉じている
『日本書紀』では、この構造がさらに明瞭である。
長髄彦は、饒速日命を君主として奉じる側として描かれる。
また、饒速日命と長髄彦の一族との婚姻関係も語られる。
ここから直ちに、
「饒速日王朝が実在した」
と結論づけることはできない。
しかし伝承上は少なくとも、
長髄彦個人だけではなく、婚姻と主従関係を伴う政治集団
が大和に存在する構図になっている。
これは、単なる一人の戦士の抵抗とは性格が違う。
六 饒速日を「渡来人」と決める必要はない
ここで注意しなければならない。
饒速日が神武とは別系統の人物として描かれるからといって、
朝鮮半島から来た。
大陸から来た。
という話にはならない。
伝承上、神武も饒速日も列島内部の王権形成物語の中に置かれている。
したがって本稿では、
神武勢力と饒速日・長髄彦勢力を、同時期に列島内部で並存した可能性のある異なる政治勢力を考えるための伝承上のモデル
として扱う。
出自を現代的な民族や国籍へ直結させることはしない。
七 そして饒速日もまた「移動した者」として描かれる
興味深いのは、饒速日もまた、もともと大和の土地から自然発生した人物としてだけ描かれているわけではないことである。
伝承上、饒速日には天降りの物語がある。
これを実際の飛来や特定の移住事件として読む必要はない。
しかし神話的表現を外して構造だけを見れば、
大和には、神武勢力とは別系統の移動・進出伝承を持つ勢力が先に存在する
ことになる。
ここで神武対長髄彦という単純な二者対立から、
もう少し複雑な政治世界が見えてくる。
八 大和には複数勢力が重なっていたのではないか
実際の王権形成も、一つの集団だけで説明できるとは限らない。
在地の農業社会。
祭祀を担う集団。
河川交通を利用する勢力。
西方との交通を持つ勢力。
山地や盆地周辺を掌握する首長。
別地域から移動してきた集団。
そうした複数の勢力が接触していた可能性がある。
したがって伝承上の、
神武。
長髄彦。
饒速日。
という三者を、
そのまま三つの考古学集団へ対応させることはできないが、
初期大和が複数の政治勢力の接触する場所だったという構造
を考える材料にはなる。
九 ここでも海洋技術が背後にある
さらに本稿の中心軸から見ると、もう一つ重要な点がある。
神武勢力が西から大和へ移動できた。
饒速日にも移動伝承がある。
つまり、どちらの勢力を考える場合でも、
政治集団が長距離を移動できる社会的能力
を無視できない。
列島内部の地域勢力は、山に囲まれた閉鎖社会だけではなかった。
海。
河川。
沿岸。
陸路。
これらを組み合わせて人が動いていた。
その交通能力を背景に、異なる政治勢力が大和で接触した可能性を考える。
ここでも、
海を使う社会が先にあり、その上で政治勢力が動いている
のである。
十 長髄彦の敗北と饒速日の帰順は、同じ意味ではない
伝承の結末にも注目したい。
長髄彦は、新しい政治秩序と対立する側として処理される。
一方、饒速日については、神武側の正統性を認め、その秩序へ接続する物語が置かれる。
細部は『古事記』『日本書紀』で異なるため、同じ筋書きとして一括することはできない。
しかし大きく見れば、
抵抗する勢力は排除される一方、利用可能な権威や系譜は新しい王権へ取り込まれる
という構造が見える。
これは前章まで見てきた王権形成とよく似ている。
地方勢力をすべて消すのではない。
関係を組み替えるのである。
十一 「勝者が全部入れ替えた」のでは王権は続かない
もし神武勢力が大和へ入り、
既存の農民。
首長。
工人。
祭祀者。
物流担当者。
交通路を知る人々。
をすべて排除したなら、王権はその瞬間から生活基盤を失う。
必要なのは、
土地を奪うことだけではない。
土地を動かしていた社会を継承すること
である。
新しい王権が長く続くためには、
既存勢力の一部を排除しながらも、
別の一部とは協力し、
婚姻し、
系譜化し、
政治秩序へ組み込む必要がある。
長髄彦・饒速日伝承は、そのような王権形成の二つの側面を象徴しているとも読める。
十二 神武東征の本当の終点は「勝利」ではない
ここまで考えると、神武東征伝承の終点も変わって見える。
敵に勝った。
大和へ入った。
それで終わりではない。
本当に難しいのは、その後である。
既存の社会とどう結びつくのか。
誰を味方にするのか。
誰と婚姻するのか。
どの祭祀を引き継ぐのか。
次の王をどう生み出すのか。
つまり、
征服の成功と王権の定着は別の問題
なのである。
そして『記紀』では、神武のあとに、政治事件の少ない複数世代の王統が続く。
そこに残されているのは、大戦争の連続ではない。
婚姻。
系譜。
在地勢力との関係。
である。
次節では、
「なぜ神武の次から、戦争より婚姻が目立つのか」
という問いから、いわゆる欠史八代を「空白の王たち」としてではなく、王権を大和へ定着させていく時期として検討する
第四節 「なぜ戦争より婚姻が残ったのか」――欠史八代を王権定着期として読む
一 神武の後、物語の性格が変わる
神武天皇の後には、
綏靖。
安寧。
懿徳。
孝昭。
孝安。
孝霊。
孝元。
開化。
という、いわゆる「欠史八代」が続く。
この八代について、『記紀』には系譜、后妃、宮、陵などの記事が残されている。
しかし、神武東征のような大規模な軍事物語はほとんどない。
崇神以後のように、全国規模の政治事績が連続して語られるわけでもない。
そのため古くから、
後世に王統を延長するために作られた系譜ではないか
という疑問が向けられてきた。
この問題は軽視できない。
二 「記事が少ない」ことと「何もなかった」ことは同じではない
ただし、本稿では別の角度からも考える。
国家形成期に必要な仕事は、戦争だけではない。
むしろ、王権が一度大和へ入った後に必要になるのは、
在地首長との関係調整。
婚姻。
後継者の確保。
祭祀の接続。
土地や水利をめぐる調整。
交通路の確保。
王統内部の安定。
などである。
これらは英雄物語になりにくい。
しかし、
王権を定着させるためには極めて重要な仕事
である。
三 征服の後には「定着」が必要になる
神武伝承を、仮に政治中心獲得の物語として読むとする。
その場合、神武が大和へ入った瞬間に広域国家が完成したとは考えにくい。
既存勢力がいる。
地域祭祀がある。
農業社会がある。
交通網がある。
首長間関係がある。
それらを新しい王権秩序へ組み替えるには時間がかかる。
一世代で終わらない可能性も高い。
つまり、
政治中心を獲得することと、その政治中心を社会へ定着させることは別の段階
なのである。
四 欠史八代に残るのは「系譜」である
ここで興味深いのが、欠史八代の記事内容である。
大きな政治事件は少ない。
ところが、
誰を后としたのか。
誰から誰が生まれたのか。
その子孫がどの氏族へつながるのか。
という系譜情報は残されている。
ここに一つの意味を考えることができる。
中央集権的な行政制度が整う以前の社会では、
婚姻そのものが政治関係を作る手段
になり得るからである。
五 婚姻は「家族の話」だけではない
有力首長の娘を王が娶る。
王との間に子が生まれる。
その子が次代の王となる。
すると、婚姻した首長側は王統と血縁関係を持つ。
王権側から見れば、
その地域との政治的結びつきが強くなる。
地方首長側から見れば、
自らの一族が王統へ接続する。
つまり婚姻には、
軍事征服とは異なる形で政治圏を広げる機能
がある。
戦わずして関係を強めることができるのである。
六 王権形成期には「誰と戦ったか」より「誰と結んだか」が重要になる
神武伝承では、敵との戦いが物語の中心だった。
しかし、王権が大和に定着する段階へ入ると、重要になるのは別の問題である。
誰と婚姻するのか。
誰を王統へ取り込むのか。
誰と祭祀を共有するのか。
誰が次の王を支えるのか。
つまり政治の中心が、
征服から関係形成へ移る。
もし欠史八代の記事がそのような時期の記憶を何らかの形で保持しているなら、
政治事績が少なく婚姻記事が多いことにも意味が出てくる。
七 もちろん、婚姻系譜そのものを史実とはできない
ここは慎重でなければならない。
系譜は後世に編集されやすい。
有力氏族が自らを王統へ結びつけるため、祖先関係を作ることもある。
複数の伝承を一本の直系系譜へ整理することもできる。
さらに『古事記』『日本書紀』が完成したのは八世紀であり、想定される初期王権形成期とは大きな時間差がある。
したがって、
欠史八代の婚姻記事=当時の婚姻記録
とすることはできない。
八 人物の実在性と、伝承の構造を分ける
ここで本稿が区別するのは、
八代の王が一人一人実在したのか。
という問題と、
なぜ初期王統伝承が婚姻と系譜を重視する形で構成されているのか
という問題である。
前者は慎重な史料批判が必要になる。
しかし後者は、王権形成の考察材料として扱うことができる。
つまり、
「八人が実在した」ことを証明しなくても、「王権を複数世代かけて定着させる物語」が置かれていること自体は検討できる。
九 王権を固定するには「次の王」が必要である
共立された王は、その人物が死ねば政治秩序が揺らぐ危険がある。
実際、『魏志倭人伝』でも卑弥呼の死後、男王を立てると混乱が起こり、再び女王を立てて秩序が収まったと記される。
ここから見ても、
王を一人立てることと、安定した王統を作ることは別問題
である。
王権を恒常化するためには、
王位継承の原理。
婚姻関係。
王族内部の序列。
地方首長との血縁関係。
が必要になる。
欠史八代に系譜記事が集中することは、この問題と重ねて考えることができる。
十 王統とは「血筋」だけではなく政治ネットワークでもある
王統というと、単純に父から子へ続く血筋を想像しやすい。
しかし初期王権では、それだけではない。
王がどの地域の女性を娶るのか。
その女性の父は誰なのか。
その一族はどの土地を基盤とするのか。
その子が次の王になるのか。
これらによって、
王統そのものが地域首長との政治ネットワークになる。
つまり王家の系譜は、政治地図でもあり得る。
十一 ここで大和東南部の勢力が気になってくる
そして実際に欠史八代の系譜を見ると、
特定の地域勢力との婚姻関係が繰り返し現れる。
とくに注目されるのが、
磯城・師木地域の勢力
である。
これは偶然なのだろうか。
それとも、
大和へ入った王統が、
その土地の有力勢力と何世代にもわたって関係を結ぶ必要があった
という古い政治構造の記憶なのだろうか。
ここは慎重に検証する価値がある。
十二 欠史八代は「空白」ではなく、問いを残す
本稿は、
欠史八代が全員実在した
とはしない。
反対に、
記事が少ないから政治的意味もなかった
とも考えない。
注目するのは、
始祖王の後に、婚姻と系譜を中心とした複数世代が置かれていること
である。
もし神武伝承が政治中心獲得の記憶を含み、
崇神伝承が広域王権化の画期を含むとするなら、
その間には当然、
王権を在地社会へ定着させる時間
が必要になる。
欠史八代とは、その過程を考えるための史料上の空白であると同時に、
王権形成そのものを考える重要な問いでもある。
次節では、
「なぜ初期王統は磯城・師木の勢力と繰り返し婚姻するのか」
という具体的な系譜へ進み、王権が大和の在地勢力とどのように結びついたと伝承されているのかを検討する。
第五節 「なぜ磯城・師木との婚姻が繰り返されるのか」――王統と在地勢力を結ぶ血縁
一 婚姻相手の「地域」を見る
欠史八代の系譜を読むとき、王の名前だけを追っていては見えにくいものがある。
それは、
后妃がどこから来たのか
という問題である。
『古事記』『日本書紀』では細部の系譜に相違があり、后妃の出自もすべて一致するわけではない。
したがって、両書の記事を一つの正確な婚姻記録として合成することはできない。
しかし全体を見ると、初期王統の婚姻相手として、
磯城・師木と呼ばれる大和の勢力
が繰り返し現れる。
ここには注目する必要がある。
二 磯城は王権形成の舞台から遠い地域ではない
磯城は、大和盆地東南部に位置する。
後に纒向や三輪を中心として政治的・祭祀的に重要になる地域とも近い。
つまり初期王統の婚姻伝承に登場する磯城・師木は、
王権形成の中心から離れた周辺勢力ではない。
むしろ、
大和王権が成立していく地域そのものに存在した在地勢力
として考えることができる。
ここが重要である。
三 神武伝承にも「磯城」は登場している
さらに興味深いことに、磯城という地域は婚姻だけで突然現れるわけではない。
神武東征伝承の中にも、大和内部の勢力として磯城に関わる人物や地域が登場する。
つまり物語の中では、
神武勢力が大和へ入る。
既存勢力と衝突する。
その後の王統が、同じ大和地域の勢力と婚姻関係を結ぶ。
という流れを見ることができる。
もしここに政治的意味があるなら、
戦争によって終わった関係が、次世代から婚姻によって組み直されていく
という構造が浮かぶ。
四 征服した土地なら、なぜ何度も婚姻する必要があるのか
ここで一つ疑問が生じる。
もし神武が大和を完全に征服し、
既存勢力をすべて従属させたのであれば、
なぜ後の王たちは大和の在地勢力と繰り返し婚姻する必要があったのだろうか。
もちろん、婚姻には多くの理由がある。
しかし政治的に考えれば、
王権だけではその土地を完全には掌握できていなかった
可能性も考えられる。
土地。
農業。
水利。
祭祀。
人間関係。
これらは在地勢力が長い時間をかけて築いてきたものである。
新しく成立した王権が、それを一世代で置き換えることは難しい。
五 在地勢力を排除するより、王統へ組み込む
そこで婚姻が意味を持つ。
王が在地首長の女性を后とする。
その女性から王子が生まれる。
その王子が次代の王になる。
すると次代王は、
王統の血を引くと同時に、
在地有力勢力の血も引く王
になる。
ここでは、支配する側と支配される側という境界が少しずつ薄くなる。
政治的対立を、
親族関係へ変換するのである。
六 これは「勝った側が負けた側を吸収した」だけなのか
ただし、この関係も一方向に考えるべきではない。
王権側は在地首長の力を取り込む。
しかし在地首長側も、
自らの娘を王統へ送り込むことで、
王家との関係を強めることができる。
孫が王となれば、その氏族は王統と血縁関係を持つ。
つまり婚姻は、
王権が地方を利用するだけでなく、地方首長が王権を利用する仕組み
でもある。
ここにも相互関係がある。
七 婚姻は「統合コスト」を下げる
軍事征服には大きな負担がかかる。
兵を動かす。
食料を用意する。
戦死者が出る。
反乱を警戒する。
占領後も監視が必要になる。
一方、婚姻によって政治関係を作ることができれば、
地域の既存統治機構を残したまま関係を強められる。
首長を排除しない。
地域社会を壊さない。
その上で王統と結びつける。
初期王権にとって、
極めて効率のよい統合方法
だった可能性がある。
八 王権の「血統」は、政治関係の積み重ねでもある
ここで王統の意味をもう一度考えたい。
王統とは、
一つの純粋な血筋が一直線に続くもの
と考えてしまいがちである。
しかし実際の婚姻を考えれば、世代を重ねるごとに多くの地域勢力の血縁が入ってくる。
つまり王統は、
異なる政治勢力との関係を血縁として蓄積していく仕組み
でもある。
一代目で一つの勢力と結ぶ。
次代で別の勢力と結ぶ。
その次の世代で、さらに別の首長家と結ぶ。
こうして王家そのものが、広域的な政治ネットワークの中心になっていく。
九 「王家の系図」は政治地図になり得る
この視点を持つと、欠史八代の系譜記事の見え方が変わる。
誰の娘を娶ったか。
どの地域の氏族につながるか。
その間に誰が生まれたか。
これらは単なる家族情報ではない。
もしその一部に古い政治関係の記憶が残っているなら、
王家の系譜は、王権がどの地域勢力と結びついていったのかを示す政治地図
でもあり得る。
もちろん、その地図がそのまま当時の実態を記録しているとは限らない。
後世の改編も考えなければならない。
しかし、系譜そのものを無意味として捨ててしまえば、この政治的機能も見えなくなる。
十 後世の系譜操作という反対説明も残る
一方で、別の説明も成立する。
後世の磯城・師木系氏族が、
「われわれの祖先は初期天皇の后妃を出した」
という系譜を持つことで、自らの地位を高めようとした可能性である。
あるいは八世紀の編纂時に、
王統と有力氏族の関係を説明するため、古い伝承が整理された可能性もある。
これは十分に考えなければならない。
したがって、
婚姻記事があるから、そこに記された婚姻がそのまま史実だった
とは言えない。
十一 それでも「大和の在地勢力との婚姻」が選ばれた意味は残る
しかし、仮に後世の系譜操作が含まれていたとしても、問題は残る。
なぜ王権の始祖に続く時代を描く際、
大和在地の有力勢力との婚姻
という形が繰り返し選ばれたのか。
これは少なくとも、
初期王権の正統性を説明するうえで、
大和の在地勢力との結びつきが重要だと認識されていたことを示す。
王権は、
「外から来た者が勝ったから成立した」
だけでは正当化されなかった。
その土地の社会と結びついた王統であること
が必要だったのである。
十二 饒速日・長髄彦の問題ともつながってくる
ここで前節の議論が再びつながる。
神武が来る以前から大和には勢力がいた。
長髄彦がいる。
饒速日がいる。
磯城の勢力がいる。
そして神武以後の王統には、大和在地勢力との婚姻が繰り返し現れる。
これらを一つ一つ同じ政治集団とすることはできない。
しかし全体構造としては、
王権成立とは、先行する大和社会を消した過程ではなく、複数の在地勢力を長い時間をかけて王統へ結びつけた過程
として読むことができる。
十三 では、なぜその時代の「政治事件」がほとんど残らないのか
ここまで考えると、欠史八代の不思議さが少し変わる。
戦争が少ない。
大遠征がない。
劇的な改革もない。
しかし婚姻と系譜は続く。
もしこの時期が、
王権が大和へ根を張り、
在地勢力と結び、
王位継承を安定させ、
首長間の関係を組み直す時期だったなら、
それはむしろ自然なのかもしれない。
国家形成の歴史は、戦争だけでは進まない。
何世代もかけて「関係を固定する時間」が必要になる。
そして、その静かな段階の後に、『記紀』では記事の性格が大きく変わる。
崇神天皇である。
次節では、
「なぜ崇神になると突然、王が地方・祭祀・人・船を動かし始めるのか」
という問いから、王権の定着段階と広域化段階の違いを検討する。
第六節 「なぜ崇神になると王は外を向くのか」――王権定着から広域化へ
一 崇神になると、記事の性格そのものが変わる
欠史八代までの王統記事では、婚姻と系譜が大きな位置を占めていた。
ところが、第十代崇神天皇へ入ると様子が変わる。
疫病。
祭祀の再編。
地方への派遣。
反抗勢力との戦い。
人々への負担。
船舶の整備。
王が関わる対象が、急に広くなる。
ここで重要なのは、
記事が増えたという量の問題だけではない。
王が何をしているのか。
その内容そのものが変わっているのである。
二 欠史八代までは「王統をつなぐ」物語だった
前節まで見てきたように、欠史八代の記事では、
誰を娶ったのか。
誰が生まれたのか。
どの氏族へつながるのか。
といった王統内部の関係が中心となる。
これを本稿では、
始祖王が獲得した政治基盤を、
複数世代をかけて大和社会へ定着させていく段階
として検討してきた。
もちろん、八代すべてをそのまま歴史上の王と確定するものではない。
見ているのは、伝承の構造である。
三 崇神になると「王の視線」が変わる
崇神伝承で特徴的なのは、
王権の視線が大和内部だけにとどまらなくなることである。
『日本書紀』には、いわゆる四道将軍の伝承が置かれている。
北陸。
東方。
西方。
丹波。
王の命を受けた人物が複数方向へ派遣される。
これを記された年代どおりの全国軍事遠征と断定することはできない。
しかし物語構造としては明瞭である。
王権の関心範囲が、大和から列島各地域へ広がっている。
四 なぜ王は地方へ人を送れるようになったのか
ここで、本稿がこれまで積み上げてきた問題がつながる。
一人の王が、
「北へ行け」
「東へ行け」
と命じただけで、遠征は成立しない。
その人物の後ろには、
兵。
食料。
武器。
交通。
情報。
現地で接触する相手。
が必要になる。
つまり四方への派遣伝承が象徴するものは、
単に王の意思ではない。
王の意思を遠隔地で実行できる社会的能力
である。
五 ここで前方後円墳体制が意味を持つ
前章では、前方後円墳を、
列島各地の有力首長を結ぶ広域的な政治関係の表現として検討した。
もし地方首長が王権と一定の関係を持っていたなら、
王権が遠方へ働きかける際にも、
すべてを大和から直接送り込む必要はない。
各地の有力者と交渉する。
既存の交通網を使う。
協力する首長を通じて人や物を集める。
場合によっては対立する勢力と戦う。
つまり広域化とは、
大和から地方を一方的に塗りつぶすことではなく、すでに存在する地域政治勢力との関係を拡大すること
だった可能性がある。
六 「地方平定」という言葉をそのまま征服地図にしない
『記紀』には「平定」という形で地方への王権拡大が描かれる。
しかし、その一語の中にどのような歴史過程があったのかは別問題である。
軍事衝突。
服属。
同盟。
婚姻。
威信財の授受。
祭祀関係。
交通路の共有。
首長位の承認。
さまざまな方法があり得る。
したがって、
「平定された」=「住民が排除され、大和から別の人々が移住して直接支配した」
と考える必要はない。
政治関係が組み替えられた可能性を含めて見る必要がある。
七 王権が広がるほど、地方首長の存在が重要になる
これは一見すると逆説的である。
王権が強くなるほど、地方首長は不要になるように思える。
しかし初期段階では、むしろ逆である。
遠方の土地を知っているのは誰か。
そこに暮らす人々をまとめているのは誰か。
農業生産を管理しているのは誰か。
交通路を知っているのは誰か。
地域祭祀を担っているのは誰か。
地方首長である。
つまり王権が広域化するためには、
強い地方首長と関係を結ぶ必要がある。
王権と地方首長は、必ずしも一方が強くなれば一方が消える関係ではない。
八 王権の成長とは「直接支配の拡大」だけではない
ここで王権の強さを、
支配面積だけで考えないことが重要である。
まだ中央官僚が全国へ配置されていない。
戸籍が整備されていない。
一律の税制があるわけでもない。
その段階でも、
各地域の有力者が王権と結びつき、
必要なときに協力する仕組みがあれば、
広域的な政治行動は可能になる。
つまり、
王権の初期的な広域化とは、土地を直接管理することより、離れた地域の首長を政治的に動かせる関係を増やすこと
だったと考えることができる。
九 ここで「王統」と「王権」が分かれて見えてくる
欠史八代までに重視されたのが、
誰が次の王になるのか。
誰と婚姻するのか。
という王統の安定だったとする。
崇神伝承になると、そこに別の要素が加わる。
王が地方へ働きかける。
祭祀秩序を調整する。
人や負担へ関与する。
船を整える。
つまり、
王家が続くこと
から、
王権が社会を動かすこと
へ重点が移る。
この違いは大きい。
十 「王がいる社会」から「王権が働く社会」へ
一世紀の中国史料にも「王」は現れる。
三世紀には卑弥呼という倭王も現れる。
したがって、崇神以前に王という存在がなかったと考える必要はない。
問題は、
その王がどれほど広い社会へ継続的に働きかけられたのか
である。
地域王。
複数首長の代表王。
共立された上位王。
世襲化した王。
そして、
人・物・祭祀・交通へ関与する広域王権。
ここには段階差があり得る。
崇神伝承は、
「王が存在する」ことより、「王権が広域社会へ作用する」ことを強く描く
のである。
十一 だから崇神を「国家が突然誕生した王」とはしない
ただし、
神武までは神話。
欠史八代も架空。
崇神から突然史実の国家が始まった。
と単純に区切る必要もない。
本稿が見てきた考古学的変化は、もっと連続的である。
地域首長社会。
広域交流。
政治中枢の形成。
前方後円墳体制。
首長間序列。
巨大古墳。
こうしたものが積み重なった上で、より強い王権が成立する。
したがって崇神は、
ゼロから国家を作った人物としてではなく、長い王権形成過程の中に大きな画期を置く伝承上の王
として検討する方がよい。
十二 次に現れるのは「神々をどうまとめるか」という問題である
王権が地域を越えて広がれば、
人だけをまとめればよいわけではない。
地域ごとに、
神がいる。
祭祀がある。
聖地がある。
祭祀を担う氏族がいる。
政治関係を広げながら、それらを無視することはできない。
そして崇神伝承には、
まさにこの問題が大きく描かれている。
疫病が起こる。
祭祀秩序が揺らぐ。
王が神意を問い、
祭祀を組み直していく。
ここで初めて、
政治的統合と祭祀的統合が一つの問題として現れる。
次節では、
「なぜ崇神の物語は疫病から始まるのか」
という問いから、王権が人だけでなく神々の秩序まで調整する存在へ変化していく過程を検討する。
第七節 「なぜ疫病が王権の危機になるのか」――崇神伝承に見る祭祀秩序の再編
一 崇神の物語は、勝利ではなく危機から始まる
崇神天皇の物語で目を引くのは、王権の発展が最初から順調に描かれているわけではないことである。
むしろ大きく語られるのは、
疫病と社会の混乱
である。
多くの人々が死ぬ。
社会が不安定になる。
王は、その原因を単なる個人の病としてではなく、神々との関係に関わる問題として受け止める。
ここから祭祀の再編が始まる。
つまり崇神は、
強い王として登場するだけではない。
危機に直面し、それを処理することによって王権の形を変えていく王
として描かれている。
二 疫病は、古代社会では政治問題でもある
現代であれば、疫病は医学や公衆衛生の問題として扱われる。
しかし古代社会では、そう単純には分けられない。
疫病が広がる。
農作業が滞る。
人が死ぬ。
集落が不安定になる。
物流も止まる。
祭祀も行えなくなる。
首長の権威も揺らぐ。
つまり大規模な疫病は、
人口・生産・祭祀・政治を同時に揺さぶる危機
になり得る。
王権にとっても、これは重大である。
三 なぜ王が神々の問題に介入するのか
崇神伝承では、王自身が神意を問い、祭祀のあり方を変えていく。
ここに前節との違いがある。
王が人を動かすだけではない。
神をどのように祀るかまで政治問題になる。
これは、広域王権が成立していく過程を考えるうえで重要である。
地域ごとに異なる祭祀がある。
氏族ごとに祀る神がいる。
土地ごとに聖地がある。
それらを束ねる王権が成長すれば、
政治関係だけでなく、
祭祀関係の調整
も必要になる。
四 「神をまとめる」とは、神を一つにすることではない
ここは誤解してはいけない。
広域王権が成立したからといって、
地方の神々を消し、
一つの神だけを全国へ強制した
という意味ではない。
むしろ崇神伝承に見えるのは、
神ごとに祀り方を整える。
祭祀を担う人物を定める。
祀る場所を分ける。
という方向である。
つまり、
統合とは均一化ではない。
異なる神々や祭祀を残しながら、
それぞれを新しい政治秩序の中へ位置づける。
この構造は、前方後円墳体制にも似ている。
五 王がすべてを自分で祀るのではない
さらに重要なのは、
王一人がすべての祭祀を独占する形ではないことである。
『記紀』の崇神伝承では、神意を受けて特定の人物が祭祀を担うという構図が現れる。
代表的なのが大物主神の祭祀である。
伝承では、その祭祀を担う人物が求められ、適切な祭祀者を立てることで危機が鎮まる方向へ物語が進む。
ここから見えるのは、
王が祭祀を直接独占するのではなく、祭祀を担う氏族・人物を配置する王権
という姿である。
六 祭祀の専門化は政治の専門化でもある
これは政治制度として考えると興味深い。
王がすべてを行う社会では、
王個人の能力に依存する。
しかし、
軍事を担う者。
地域をまとめる者。
祭祀を担う者。
物流を担う者。
工人を率いる者。
と役割が分かれていけば、
王権はより大きな社会を動かせる。
つまり崇神伝承における祭祀担当の分化は、
そのまま制度史実だと断定することはできないが、
王権が複数の専門的役割を束ねる方向へ変化したという物語構造
として読むことができる。
七 三輪の大物主神が重要になる理由
大物主神の祭祀が崇神伝承の中心に置かれていることも興味深い。
三輪山は、大和盆地東南部に位置する。
そしてその周辺には、
纒向。
初期古墳群。
箸墓。
など、本稿でここまで扱ってきた初期王権形成の重要地域が集中する。
だからといって、
考古資料と大物主神祭祀を直接同一化することはできない。
しかし、
初期王権形成の中心地域と、後世の伝承で重要な祭祀地域が重なる
という事実は、慎重に検討する価値がある。
八 神武の婚姻と崇神の祭祀は、同じ問題の別の形なのか
ここで神武伝承へ戻る。
神武は、大和へ入り、
在地の権威につながる女性との婚姻を持つ。
崇神になると、
大和の神々との祭祀関係が大きく語られる。
つまり王権形成は、
人間関係だけを作れば終わるのではない。
その土地の神聖な秩序にも接続しなければならない。
婚姻によって人を結ぶ。
祭祀によって土地と神を結ぶ。
この二つは、初期王権が大和へ定着するための異なる側面だった可能性がある。
九 疫病伝承を、そのまま医学史にはしない
ただし、
崇神の時代に史書どおりの規模の疫病が実際に発生した
と直ちに断定することはできない。
伝承には後世の祭祀観念が加わっている可能性がある。
王権が危機を克服する物語として構成された可能性もある。
したがって本稿では、
疫病の発生年代や死者数をそのまま史実化しない。
見るのは、
王権の危機が「祭祀秩序の再編」によって解決される物語構造
である。
十 なぜ祭祀の再編が王権強化につながるのか
祭祀を整えることは、信仰だけの問題ではない。
誰が祭祀を行うのか。
どの氏族が担当するのか。
どこで行うのか。
何を供えるのか。
誰が参加するのか。
そこには、人と物が動く。
つまり祭祀は、
政治。
経済。
物流。
氏族関係。
と切り離すことができない。
大規模な祭祀を調整できるということは、
複数の集団を一つの秩序の中で協働させる能力
でもある。
十一 前方後円墳の祭祀とも、構造的にはつながる
前方後円墳もまた墓であると同時に、祭祀の場であった。
巨大な墳丘を築く。
葬送を行う。
地域首長が参加する。
死者を共同で記憶する。
こうした行為によって政治関係が確認された可能性がある。
崇神伝承に見える祭祀再編も、
広域的な政治秩序を祭祀によって維持する
という点では、前方後円墳体制と比較できる。
ただし、両者を同じ制度と断定することはしない。
ここで見るのは、あくまで構造的な共通性である。
十二 王は「神を支配する者」ではなく「関係を調整する者」へ
ここまでを見ると、初期王権の姿は少し変わる。
王がすべてを所有する。
王がすべてを命令する。
という国家ではない。
地方首長がいる。
祭祀氏族がいる。
地域の神がいる。
工人がいる。
海を動く人々がいる。
それらを一つずつ王権との関係へ結びつける。
つまり初期の王とは、
すべてを直接支配する者というより、異なる社会的力を調整する中心
だった可能性がある。
十三 しかし祭祀だけでは国家は動かない
人々を精神的に結びつけることができても、
それだけでは広域王権は維持できない。
人を動かす。
食料を集める。
労働力を出す。
道路や水路を維持する。
船を造る。
そうした現実の負担が必要になる。
そして崇神伝承には、
まさにその次の段階を思わせる記事が置かれている。
人々を把握し、負担を課す王
である。
次節では、
「なぜ崇神伝承に『人と負担』の記事が現れるのか」
という問いから、首長を束ねる王権が、社会の余剰へより深く関与する段階へ進んだ可能性を検討する。
第八節 「人と負担を把握する王」――王権は社会の余剰へどこまで関与したのか
一 祭祀の次に現れるのは「人」の問題である
前節では、崇神伝承において王が祭祀秩序の調整者として描かれることを見た。
しかし広域王権は、神々との関係を整えるだけでは維持できない。
政治を動かすには、
人が必要である。
食料が必要である。
労働力が必要である。
物資を運ぶ力が必要である。
つまり王権が大きくなるほど、
社会が持つ余剰へ、どのように関わるのか
という問題が避けられなくなる。
二 崇神伝承には「人民」と「調役」が現れる
『日本書紀』の崇神紀には、人々を把握し、男女に「調役」を課したとする記事が置かれている。
これは非常に興味深い。
なぜなら、それ以前の初期王統では、
王が誰と婚姻したのか。
誰が次の王になったのか。
という系譜記事が大きな割合を占めていたからである。
ところが崇神になると、
王と社会全体との関係
が語られ始める。
三 ただし、これをそのまま律令的な税制とはできない
ここは特に注意が必要である。
『日本書紀』が完成した八世紀には、すでに律令的な租税・労役制度が存在していた。
したがって、
崇神の時代に全国規模の戸籍があり、
後世と同じ制度で税が徴収され、
統一された行政機構が存在した
と考えることはできない。
後世の国家制度が、古い王の物語へ投影された可能性を当然考えなければならない。
したがって本稿では、
崇神紀の記事を三世紀・四世紀の税制資料としては扱わない。
四 それでも「王が負担に関わる」という物語は重要である
制度そのものを史実化できなくても、
なぜ崇神という王に、
人を把握する。
負担を求める。
生産と社会秩序を整える。
という役割が与えられているのか。
これは検討できる。
王権が地域首長を束ねるだけの段階なら、
各地域の生産は基本的にそれぞれの首長が管理すればよい。
しかし王権自身が大規模な事業を行おうとすれば、
地方社会の余剰を広域的な目的へ振り向ける仕組み
が必要になる。
五 余剰とは、米だけではない
ここで本稿がいう余剰力を、もう一度確認しておきたい。
余剰とは、
倉に積まれた米だけではない。
社会が生存に必要な最低限を超えて、
人。
時間。
食料。
木材。
鉄。
道具。
船。
技術。
労働。
を別の目的へ振り向けられる力である。
巨大古墳を造るときにも必要だった。
政治中枢を維持するときにも必要だった。
遠距離交易にも必要だった。
そして軍事にも必要になる。
王権が成長するとは、
この余剰をより広い範囲から動かせるようになること
でもある。
六 王が全国の農民を直接把握していたとは限らない
では王自身が、一人一人の人間や一枚一枚の田を把握していたのだろうか。
初期段階では、そのように考える必要はない。
地方には首長がいる。
その下に地域社会がある。
王権が直接すべてを管理できなくても、
有力首長との関係を通じて、
人員。
食料。
物資。
労働力。
を集めることは可能である。
つまり、
王権による余剰への関与は、地方首長を介した間接的な形から始まった可能性
を考えることができる。
七 前方後円墳体制が、ここでも意味を持つ
前方後円墳体制では、
地方首長は消えていない。
むしろ地域社会をまとめる有力者として存在し続ける。
その首長が王権と政治的関係を結ぶ。
すると王権は、
地方社会へ直接入り込まなくても、
首長を通じて広域的な動員を行える可能性が生まれる。
巨大古墳の築造。
大規模祭祀。
政治使節。
軍事行動。
そうした事業の背景には、
複数地域から人や物を集められる首長間ネットワーク
が必要になる。
八 「負担を課す」とは、国家の力だけを意味しない
一方で、社会に負担を求めることには限界もある。
農作業の時期に人を大量に動かせば、生産が落ちる。
食料を集めすぎれば、地域社会が疲弊する。
長期間の労働を求めれば、不満も生まれる。
つまり王権に必要なのは、
単に多く取る能力ではない。
社会を壊さない範囲で余剰を引き出し、目的へ振り向ける能力
である。
ここでも重要なのは、本稿でいう「転換力」である。
九 王権の強さは「徴収量」ではなく「調整力」にも表れる
古代国家の力を、
どれだけ税を取れたか
だけで測ることはできない。
農業を維持する。
祭祀を行う。
交通を保つ。
古墳を造る。
武器を作る。
船を造る。
必要なら兵を動かす。
これらを同時に成立させなければならない。
一つの事業に資源を使いすぎれば、別の部分が止まる。
したがって王権とは、
社会の複数の活動へ、人と物を配分する調整機構
としても見る必要がある。
十 「余剰を持つ社会」から「余剰を動かす王権」へ
第一部から見てきた社会には、すでにさまざまな余剰が存在した。
海を越える。
交易を行う。
工人を養う。
大型墳墓を造る。
これらは王権以前の地域社会でも可能だった。
しかし広域王権形成によって変わるのは、
余剰そのものが初めて生まれることではない。
地域ごとに存在していた余剰を、より大きな政治目的へ結びつける力が強くなること
である。
国家は余剰をゼロから作るのではない。
すでにある社会的能力を取り込み、組み替える。
十一 ここで王権は「人・神・物」を束ね始める
崇神伝承をここまで並べると、一つの特徴が見えてくる。
祭祀を整える。
地方へ人を派遣する。
人々の負担に関わる。
つまり王は、
神だけでもない。
軍事だけでもない。
系譜だけでもない。
人・神・物を同時に調整する存在
として描かれ始める。
これは、王個人が強くなったというだけでは説明しにくい。
王を支える社会構造そのものが変化したことを示す物語として読むことができる。
十二 そして次に「船」が出てくる
ここまで来ると、本稿の第一部から続いてきたもう一つの軸が戻ってくる。
海である。
『日本書紀』の崇神紀には、さらに船舶に関する記事が置かれている。
そこでは、
「船は天下の要用なり」
という趣旨が語られ、船を整える物語が現れる。
もし王権が、
人を集め、
物資を動かし、
地方との関係を広げようとするなら、
船は単なる漁撈道具ではなくなる。
物流。
交通。
軍事。
外交。
それらを支える政治資源になる。
次節では、
「なぜ崇神伝承に、わざわざ船が登場するのか」
という問いから、縄文以来蓄積されてきた海洋技術が、王権の力へ転換されていく過程を検討する。
第九節 「船は天下の要用なり」――海洋技術はいつ王権の力になったのか
一 ここで再び「船」が現れる
崇神伝承には、これまで見てきた祭祀や地方統治、人々の負担だけでなく、船舶に関わる記事も置かれている。
『日本書紀』崇神紀には、
「船は天下の要用なり」
という趣旨の言葉が記され、諸国に船を造らせたとする記事がある。
この記述をそのまま、
崇神天皇の時代に全国一律の造船政策が実施された
という史実として受け取ることはできない。
しかし、なぜ広域王権化の画期として描かれる王に、
船
が結びつけられているのか。
これは本稿にとって非常に重要な問題である。
二 船は、王権が生まれてから突然現れたものではない
ここで第一部まで戻る必要がある。
列島では、王権成立以前から人々は海を利用していた。
縄文時代にも沿岸航海があった。
海峡を越える交流もあった。
弥生時代には、半島との交易がさらに活発になる。
鉄。
土器。
装身具。
人。
技術。
情報。
これらが海を越えて動いていた。
つまり、
船と海洋技術は、国家が発明したものではない。
王権より先に存在していた社会的能力である。
三 変化したのは「船の存在」ではなく「船を動かす主体」である
初期の海上活動では、
交易者。
漁撈民。
地域首長。
沿岸集団。
などが、それぞれの目的で船を利用していたと考えられる。
しかし王権が成長すると、船の意味が変わる。
個々の地域社会が使う船から、
広域政治のために動かされる船
へと変化し得る。
ここに重要な転換がある。
四 王権にとって船は「交通手段」以上のものになる
広域王権が船を利用する目的は一つではない。
人を運ぶ。
食料を運ぶ。
鉄を運ぶ。
木材を運ぶ。
工人を運ぶ。
使者を運ぶ。
首長を移動させる。
軍勢を運ぶ。
海を渡って外交を行う。
つまり船は、
王権が遠距離へ作用するための基盤
になる。
陸上だけでは時間も労力もかかる大量輸送を、海上交通は大きく変える。
五 「船を持つこと」と「船団を動かすこと」は違う
一艘の船を持つことと、
多数の船を同時に動かすことはまったく違う。
船を造る木材が必要になる。
船大工が必要になる。
乗員が必要になる。
航路を知る者が必要になる。
食料と水が必要になる。
寄港地も必要になる。
さらに複数の船を動かすなら、
出発時期。
目的地。
積荷。
人員。
連絡。
を調整しなければならない。
つまり大規模な船団運用には、
造船技術だけでなく、社会的組織力
が必要になる。
六 ここでも「転換力」が働く
これまで本稿で見てきた社会資源を考えてみよう。
木材がある。
鉄器がある。
工人がいる。
食料がある。
航海者がいる。
港がある。
しかし、それぞれが別々に存在しているだけでは、大規模な船団は生まれない。
必要なのは、
それらを一つの目的へ組み合わせること
である。
つまり王権の海洋力とは、
単に船の数ではない。
造船・航海・食料・人員・港湾・政治命令を一つにまとめる転換力
なのである。
七 海洋技術は、王権の「外側」にあった能力だった
ここで一つ重要な点がある。
王権自身が、最初から海洋技術を独占していたわけではない。
長い海上交流を担ってきた人々が先にいる。
航路を知る集団がいる。
船を造る技術者がいる。
潮流を読む者がいる。
つまり王権が海へ出るためには、
既存の海洋集団の能力を取り込む必要がある。
これは農業や祭祀と同じである。
国家がゼロから技術を作るのではない。
すでに存在する社会的能力を結び直す。
八 海民は「国家に吸収されて消えた」のではない
ここでも統合は、必ずしも消滅を意味しない。
海上交通を担ってきた集団が、
そのまま王権のためだけに働くようになった
と考える必要はない。
地域交易を続ける。
漁撈も行う。
独自の航路も持つ。
その上で、王権と関係を結ぶ。
必要に応じて人や船を提供する。
こうした関係の方が現実的である。
つまり、
王権の海洋力は、既存の海域社会を壊した結果ではなく、それと接続した結果として成立した可能性
を考えることができる。
九 なぜ内陸の大和王権が海を必要としたのか
大和は海岸にあるわけではない。
だからこそ、
海上交通をどう利用するか
が重要になる。
河内へ出る。
瀬戸内へつながる。
紀伊方面へ出る。
東海方面へ進む。
そして西へ進めば北部九州を経て海峡へ至る。
大和王権が広域化するほど、
海への接続路を確保すること
が政治的に重要になる。
つまり内陸に政治中枢があることと、海洋国家的な能力を持つことは矛盾しない。
十 王権が海を使うと、政治範囲が一気に広がる
陸上交通だけに依存する政治圏では、距離が大きな制約になる。
しかし船を利用できれば、
瀬戸内。
北部九州。
東海。
紀伊。
さらに朝鮮半島南部。
までが、同じ政治的視野に入ってくる。
これは単なる交通時間の問題ではない。
人。
物。
外交。
軍事。
情報。
が広域的に循環できるようになる。
つまり海洋技術は、
王権の空間そのものを拡張する技術
でもある。
十一 ここから「海外」が初めて政治の延長になる
海域社会の段階では、
海の向こうは交易相手である。
工人が来る。
品物が来る。
情報が来る。
しかし王権が海洋力を取り込むと、
海の向こうはそれだけではなくなる。
外交相手になる。
同盟相手になる。
軍事的競争相手にもなる。
つまり、
海上交易の世界が、海上政治の世界へ変化する。
ここが後の倭と朝鮮半島との関係を考えるうえで大きな転換点となる。
十二 ただし、崇神の船から半島遠征へ直結させてはいけない
ここも慎重でなければならない。
崇神紀に船の記事がある。
だから崇神の時代に半島遠征が行われた。
という話にはならない。
また、
この造船記事がそのまま実際の国家政策を記録したものとも断定できない。
ここで言えるのは、
後世の王統伝承が、広域王権を成立させた王の重要な仕事の一つとして船舶を位置づけている
ということである。
そしてこの物語構造は、本稿が第一部から追ってきた海洋社会の発展と比較する価値を持つ。
十三 「海を使う社会」から「海を動かす王権」へ
ここまでの流れを整理すると、
縄文以来、人々は海を使っていた。
弥生時代には交易網が拡大した。
地域首長が海上交通を利用した。
王権が成立する。
首長間ネットワークが広がる。
そして、
海を利用してきた社会的能力を、王権が政治目的へ集中させられるようになる。
この変化こそ重要である。
海洋技術が新しく生まれたのではない。
既存の海洋技術が、王権の政治力へ転換された。
十四 ここで神武と崇神の違いが見えてくる
神武伝承でも海は使われる。
西から瀬戸内を経て大和へ向かう。
しかしそこでは、
王自身が海上交通を利用する
という性格が強い。
一方、崇神伝承になると、
船を社会的に整備する王
という姿が現れる。
つまり、
神武では海を使って王権を獲得する。
崇神では王権が海を組織する。
この違いは興味深い。
海を利用する政治勢力から、海を政治資源として扱う王権へ。
そこに一つの段階差を考えることができる。
十五 そして、もう一つの「始まり」が現れる
ここまで崇神伝承を見ると、
祭祀。
地方への派遣。
人と負担。
船舶。
と、王権が関わる範囲が急速に広がっている。
だからこそ、次に大きな問題が現れる。
神武が初代王として描かれているにもかかわらず、
崇神にもまた、
「国を始める」ことを連想させる特別な称辞
が与えられていることである。
これは単なる重複なのだろうか。
それとも、
王権の成立には二つの「始まり」があった
という記憶なのだろうか。
次節では、
「なぜ神武と崇神の双方に『始まり』が語られるのか」
という問いから、王統の成立と広域国家化を二つの段階として考える。
第十節 「なぜ二人の『始まり』がいるのか」――神武と崇神を二段階で読む
一 初代は神武なのに、なぜ崇神にも「始まり」があるのか
ここで、初期王権を考えるうえで非常に興味深い問題が現れる。
『記紀』では、神武天皇が王統の始祖として置かれている。
ところが崇神天皇にもまた、
「国を始める」ことを連想させる強い始祖性
が与えられている。
『日本書紀』では崇神を「御肇國天皇」と記す。
『古事記』にも、崇神について「所知初國之御眞木天皇」に相当する表現が見える。
一方、神武紀には「始馭天下之天皇」という、天下を初めて治めたことを示す称辞がある。
なぜ王統の始祖とは別に、崇神にもこれほど強い「始まり」が与えられたのだろうか。
二 ただし、神武と崇神の称辞は同じではない
ここは慎重に扱う必要がある。
神武と崇神が、ともに後世「ハツクニシラス」と結びつけて語られることがあるからといって、
両者にまったく同じ称号が与えられているわけではない。
原文の語構成は異なる。
したがって、
「初代天皇が二人いた」
という単純な話にしてしまうことはできない。
むしろ問うべきなのは、
なぜ異なる表現を用いながら、両者にそれぞれ強い始祖性が与えられているのか
である。
三 神武の「始まり」は、政治中心を得る物語である
ここまで見てきた神武伝承の特徴を整理すると、
西方から移動する。
瀬戸内を経る。
大和へ入ろうとする。
既存勢力と衝突する。
長髄彦・饒速日という先行する政治勢力が存在する。
最終的に大和へ政治基盤を置く。
そして在地社会と婚姻・系譜を通じて結びつく。
つまり神武伝承が強く語るのは、
新しい王統が大和に政治的な足場を得る過程
である。
四 崇神の「始まり」は性格がまったく違う
一方、崇神伝承では、
西から大和へ入るという物語はない。
すでに王は大和にいる。
問題になるのは、
疫病。
祭祀。
地方。
人々の負担。
船舶。
である。
つまり崇神は、
王になるために大和を獲得する人物ではなく、すでにある王権を広域社会へ働かせる人物
として描かれている。
ここに神武との明確な違いがある。
五 「王統の成立」と「国家化」は同じ瞬間ではない
この違いを整理すると、
神武伝承は、
王統成立の始まり。
崇神伝承は、
広域王権化の画期。
として読むことができる。
これは、
どちらが本当の初代なのか
という二者択一とは異なる。
そもそも国家は、一日で完成しないからである。
六 始祖王がいても、すぐに国家になるとは限らない
仮に一人の有力王が大和に政治中心を置いたとしても、
それだけでは広域国家にはならない。
在地勢力との関係を整える。
王位継承を安定させる。
婚姻関係を広げる。
祭祀を調整する。
地方首長との関係を作る。
人と物を動かす仕組みを整える。
こうした過程が必要になる。
つまり、
王がいることと、王権が社会全体へ働くことは別の段階
なのである。
七 その間に置かれるのが欠史八代である
ここで、神武と崇神の間に置かれる欠史八代が再び意味を持つ。
本稿は、
八人すべてが史実上の王として確認できる
とは考えない。
しかし物語の構造として、
神武。
複数世代の王統。
崇神。
という順序が置かれていることは重要である。
もし王権形成に時間が必要だったなら、
始祖王から広域王権へ至る間に、複数世代の定着期間を置く構造
は国家形成の過程と矛盾しない。
八 「何も起きなかった八代」ではなく「内部を固める時間」だったのか
欠史八代には大事件が少ない。
しかし前節まで見てきたように、
婚姻。
系譜。
在地勢力との関係。
という記事は残る。
これを、
物語がないから何もなかった
と見る必要はない。
むしろ王権形成の現実を考えれば、
最も時間がかかるのは、
勝つことより、勝った後に秩序を定着させること
である。
新しい王統が複数世代を経て社会へ根を張る。
その後に王権の活動範囲が広がる。
そのようなモデルを考えることができる。
九 考古学側にも「一度では終わらない形成過程」がある
考古学から見ても、王権形成は一段階ではない。
弥生終末期には各地域に有力首長がいる。
三世紀には纒向のような大規模拠点が現れる。
初期の前方後円形墳墓が形成される。
そして巨大で定型化した前方後円墳へと展開していく。
ここで重要なのは、
政治中心が現れた瞬間と、広域的な首長秩序が確立していく段階を同じにしないこと
である。
考古学側にも、複数の変化が連続している。
十 ただし、神武=第一段階、崇神=第二段階とそのまま同定はしない
ここでも線を引かなければならない。
考古学に段階がある。
記紀にも神武と崇神という二つの始祖的表現がある。
だから、
第一段階が神武。
第二段階が崇神。
と直接対応させることはできない。
年代も検討しなければならない。
伝承の成立過程も考えなければならない。
後世の編集もある。
したがって本稿が扱うのは、
人物の直接同定ではなく、王権形成が複数段階で進むという構造の比較
である。
十一 「本当の初代」を一人選ぶ必要はない
神武か。
崇神か。
どちらが本当の初代なのか。
という議論は魅力的ではある。
しかし国家形成という視点から見ると、問いそのものを変えた方がよい。
誰が最初だったのか。
ではなく、
何が最初に始まり、その後何が変わったのか。
神武伝承では、
政治中心の獲得。
王統の成立。
が語られる。
崇神伝承では、
広域祭祀。
地方への働きかけ。
人と物への関与。
船舶。
が語られる。
これは、異なる種類の「始まり」である可能性がある。
十二 王権は「生まれる」のではなく「成長する」
ここまでの議論から見えてくるのは、
王権をある年に突然誕生した完成品として見ることの危うさである。
地域首長がいる。
その上に王が現れる。
王統が続く。
首長間関係が広がる。
政治中枢が形成される。
祭祀が調整される。
人と物が動く。
船が政治資源になる。
こうして王権は少しずつ性格を変える。
つまり、
問題は「王がいたか、いなかったか」ではなく、「王権がどの段階にあったのか」である。
そしてこの視点に立つと、神武から崇神までの伝承は、
空白を挟んだ不可解な王名列ではなく、
政治勢力が王統となり、その王統が広域王権へ成長していく過程を考えるための史料
として読み直すことができる。
十三 では、考古学側にも本当にその段階差は見えるのか
ここまでの議論は、まだ伝承構造の側から見たものである。
次に問わなければならない。
考古学側にも、
政治中心が成立する段階。
王権が広域化する段階。
という違いは確認できるのか。
纒向。
初期の墳丘墓。
箸墓。
前方後円墳の定型化。
その広域的な展開。
これらは、一つの瞬間に同時発生したわけではない。
次節では、
「考古学側にも二つの『始まり』があるのか」
という問いから、初期政治中枢の形成と巨大前方後円墳体制の成立を、同じ出来事ではなく連続する段階として検討する。
十一節 「考古学側にも二つの『始まり』があるのか」――纒向から巨大前方後円墳へ
一 政治中枢が現れることと、広域王権が完成することは同じではない
前節では、神武伝承と崇神伝承に見える二つの「始まり」を、
政治中心と王統の成立。
そして、
広域王権化の画期。
という異なる段階として考えた。
では、考古学側にも同じような段階差は見えるのだろうか。
ここで重要になるのが、
纒向。
初期の墳丘墓。
そして巨大前方後円墳である。
これらをすべて一つの瞬間に起きた出来事として扱うのではなく、
政治中枢が形成されていく過程と、その政治関係が広域的な墓制として可視化されていく過程
を分けて考える必要がある。
二 纒向が現れたからといって、その瞬間に完成した国家があったとは限らない
纒向には、
大規模な建物群。
溝や水路。
外来系土器。
祭祀に関わると解釈される資料。
周辺の初期古墳。
など、広域的な人と物の集中を考えさせる資料がある。
しかし、それらが存在するからといって、
その時点ですでに後世の大王権と同じ制度を持つ国家が完成していた
とは言えない。
むしろ、
複数地域の人・物・技術・首長関係が集まり始めた政治的結節点
として考える方が慎重である。
三 最初に必要だったのは「人が集まる場所」だった
広域王権が成立するためには、
最初から全国を直接支配する必要はない。
まず、
首長が集まる。
物が集まる。
情報が集まる。
祭祀が行われる。
交渉が行われる。
そうした場所が必要になる。
纒向が重要なのは、
単に巨大な集落だったからではない。
異なる地域を結ぶ関係が、一つの場所へ集約され得る条件を持っていた
ことである。
四 しかし「中心ができる」だけでは、王権は安定しない
政治中心が形成されても、
そこに集まる首長たちが毎回対等な交渉を繰り返しているだけなら、
王権は安定しない。
誰が上位なのか。
誰が後継者なのか。
どの首長がどの位置にいるのか。
どの祭祀を共有するのか。
そうした関係が継続されなければならない。
つまり、
政治中心の形成の次には、政治関係を世代を越えて固定する仕組み
が必要になる。
五 そこで墓の意味が変わってくる
墳墓は、本来は死者を葬る場所である。
しかし首長墓が巨大化し、
特徴的な墳形が共有され、
各地域へ広がるようになると、
墓は死者個人だけの問題ではなくなる。
誰がこの形の墓を造れるのか。
どれほどの規模を造れるのか。
どの地域の首長が同じ墓制へ参加するのか。
そうした違いが、
首長間の政治関係を目に見える形で表現する
可能性を持つようになる。
六 初期の墳丘墓から巨大前方後円墳へ――ただし直線的進化とはしない
纒向周辺には、箸墓以前にも前方後円形を含む墳丘墓や初期古墳が存在する。
その後、箸墓に代表される非常に大きな前方後円墳が現れる。
ここから、
小さな墓。
試作品。
完成形としての箸墓。
という単純な直線進化を描くことはできない。
個々の墳墓の年代や分類には議論があり、
同時期の各地域にも独自の墓制が存在するからである。
しかし少なくとも、
首長墓のあり方が大きく変化し、より巨大で広域的に共有される墓制が成立していく
という変化そのものは重要である。
七 巨大化したのは墓だけではなく、政治関係だったのか
箸墓のような巨大墳墓を築くためには、
それ以前より大きな社会的動員が必要になる。
人。
食料。
土木技術。
道具。
資材。
時間。
それらを長期間にわたり一つの事業へ集中させなければならない。
したがって巨大墳墓の出現は、
単に被葬者の好みが変わったことでは説明しにくい。
そこには、
より広い人的・物的関係を動員できる首長層が成立した可能性
を見ることができる。
八 ここで「王の存在」と「王権の強さ」を分ける
これは中国史料ともつながる。
一世紀の倭にも「王」は現れる。
三世紀には卑弥呼という倭王がいる。
つまり王そのものは、巨大前方後円墳が成立する以前から史料に登場する。
したがって、
巨大古墳が現れたから初めて王が誕生した
とは考えにくい。
むしろ見るべきなのは、
以前から存在した王という政治的位置が、どれほど大きな社会動員力を持つようになったのか
である。
九 纒向は「王が生まれた場所」ではなく「王権が集約される場所」だった可能性
この視点に立つと、纒向の意味も変わる。
そこに最初の王が突然現れた
と考える必要はない。
すでに各地には首長がいた。
中国史料には王もいた。
交易網もあった。
海域ネットワークもあった。
その上で、
既存の政治関係が大和へ集約され、新しい形の王権へ再編されていく場
として纒向を見ることができる。
これは、本稿が第二部で見た、
国家が文化や技術をゼロから作るのではなく、
すでに存在する社会的能力を取り込む
という構造とも一致する。
十 そして前方後円墳は、その関係を大和の外へ見せる
政治中枢が大和に形成されても、
その力が大和の内部だけで終わるなら広域王権にはならない。
ところが前方後円墳は、畿内だけにとどまらない。
各地域の首長が共通する墓制を採用していく。
ここで初めて、
大和に集中した政治関係が、列島各地へ可視化される。
纒向が「集める場所」だとすれば、
前方後円墳は、
その政治関係を外側へ広げる表象
だった可能性がある。
十一 これを神武・崇神へ直接当てはめてはいけない
ここまでを見ると、
政治中心形成。
王統の安定。
巨大前方後円墳。
広域首長秩序。
という複数段階が見えてくる。
そして記紀にも、
神武。
初期王統。
崇神。
という複数段階の物語がある。
両者を比較したくなる。
しかし、
纒向の成立=神武。
箸墓の築造=崇神。
といった直接対応はできない。
考古学的年代と記紀の年代体系は単純には一致しない。
また伝承が複数時期の出来事を一人の王へ集約している可能性もある。
したがって本稿が比較するのは、
人物ではなく、国家形成が段階的に進んだという構造
である。
十二 欠史八代は、この「段階の間」に置かれている
ここで欠史八代が再び問題になる。
神武。
その後の複数世代。
崇神。
という伝承構造は、
考古学から見える、
地域首長社会。
政治中枢の形成。
首長間関係の再編。
墓制の共有。
巨大古墳の成立。
という長い変化と、少なくとも「時間を必要とする」という点で矛盾しない。
重要なのは、
欠史八代の八人を考古学上の八人へ変換することではない。
そうではなく、
王権が生まれてから広域的な政治力を獲得するまでには、複数世代に及ぶ形成期間が必要だったのではないか
という問いである。
十三 国家は「ある日突然できた」のではない
ここまでの考察から見えてくるのは、
国家形成を一つの事件として考えることの難しさである。
王が現れる。
政治中心が形成される。
王統が続く。
首長間関係が広がる。
巨大墳墓が造られる。
共通墓制が各地へ広がる。
人と物が大規模に動く。
こうした変化が重なって、
初めて広域王権が姿を現す。
つまり、
王権とは突然誕生した制度ではなく、既存社会の力を何世代もかけて結び直した結果として形成された政治構造
だったと考える方がよい。
十四 次に問うべきは「王がいたか」ではない
ここまで来ると、初期王権をめぐる問いも変わる。
神武は実在したのか。
欠史八代は実在したのか。
崇神は最初の実在天皇なのか。
そうした人物論だけでは足りない。
もっと根本的な問いは、
各時期の王は、どの程度の政治力を持っていたのか。
一地域の王なのか。
複数首長の代表なのか。
共立された上位王なのか。
世代を越えて続く王統なのか。
それとも、
人・物・祭祀・交通を広域的に動かせる王権なのか。
次節では、
「王がいたか、いなかったか」ではなく、「王権はどこまで成長していたのか」
という視点から、中国史料・考古学・記紀伝承をもう一度重ね、初期王権の段階差を整理する。
第十二節 「王がいたか」ではなく「王権はどこまで届いたのか」――神武から崇神までを段階で読む
一 「実在したか、しなかったか」だけでは国家形成は見えない
神武。
欠史八代。
崇神。
この時代を考えるとき、議論はしばしば、
実在した。
実在しなかった。
という二択になりやすい。
もちろん人物の実在性は重要な問題である。
しかし、それだけを問うと、もう一つ大きな問題を見失う。
それは、
その時代の政治秩序が、どの程度の範囲を動かすことができたのか
という問題である。
二 中国史料には、すでに「王」が現れている
列島に王が存在したこと自体は、三世紀になって突然確認されるわけではない。
中国史料には、一世紀から倭に関わる「王」の記述が現れる。
三世紀の『魏志倭人伝』では、卑弥呼が倭国の女王として記され、
その成立以前にも男子の王がいたという伝承が載せられている。
したがって、
王という政治的位置そのものは、古墳時代の巨大王権より以前から存在した
と考えることができる。
問題は、その王の力の内容である。
三 中国史料の「王」を後世の天皇と同じにしてはいけない
ただし、中国史料に「王」とあるからといって、
後世の天皇制と同じ制度が一世紀から完成していた
という意味ではない。
中国側は、列島の政治的代表者を自らの外交用語によって「王」と表現している。
その王が、
どれほどの人口を支配したのか。
どこまでの地域を統合したのか。
どの程度の徴発力を持ったのか。
世襲だったのか。
他の首長との関係はどうだったのか。
こうしたことは別に検討しなければならない。
つまり、
「王」という一文字だけでは、王権の規模までは分からない。
四 王には段階があったと考えた方がよい
そこで本稿では、王を一種類の完成した制度として扱わない。
地域社会をまとめる王。
複数の首長の上に立つ王。
政治危機の際に共立される王。
王位を継承する王統。
広い地域の首長を結ぶ王。
そして、
人・物・祭祀・交通を広域的に動かす王権。
これらは同じではない。
実際の歴史では、さらに多様な形態が存在しただろう。
重要なのは、
王権にも成長段階がある
という視点である。
五 卑弥呼の「共立」も、その途中に置くことができる
『魏志倭人伝』では、倭国の争乱の後、卑弥呼が「共立」されたと記される。
この「共立」が誰によって、どのような制度で行われたのかは分からない。
しかし少なくとも、
一人の王がすべてを武力で征服して成立した
という描き方ではない。
複数の政治勢力が存在し、
その関係を調整するため上位の王を必要とした可能性が考えられる。
つまり卑弥呼の王権も、
地域首長社会から広域王権へ移る過程を考える重要な材料
なのである。
六 しかし「共立された王」だけでは王統は安定しない
卑弥呼の死後の記事は、この問題をよく示している。
後継者をめぐって秩序が再び揺らぐ。
これは、
強い王が一人存在することと、
王権そのものが継続することは違う
ということを示している。
個人の権威。
後継者の選定。
首長間の合意。
血縁。
婚姻。
祭祀。
これらが組み合わされて初めて、王権は一代限りのものではなくなる。
七 神武伝承は「政治中心を取る王」を描く
ここで『記紀』へ戻る。
神武は、
西方から移動し、
大和へ入り、
先行勢力と衝突し、
最終的に大和に政治的基盤を置く。
したがって神武伝承を構造として見れば、
政治中心を獲得し、新しい王統を開始する王
が描かれている。
ただし、そこから直ちに列島全域を支配する国家が成立するわけではない。
八 欠史八代は「王統を続ける」という問題を残している
その後に置かれる欠史八代では、
大規模な遠征より、
婚姻。
后妃。
系譜。
子孫。
が多く語られる。
これを史実の年代記とそのまま認定することはできない。
しかし伝承構造としては、
政治中心を獲得した後、王統を在地社会へ定着させる時間
が置かれている。
戦争だけでは王朝は続かない。
誰と結ぶのか。
誰が次代を継ぐのか。
そこが次の課題になる。
九 崇神になると、王権の作用範囲が大きく変わる
そして崇神伝承になると、
祭祀。
地方への派遣。
人々の負担。
船舶。
という記事が現れる。
ここでは王が、
自分の宮や家族だけを統率する存在として描かれていない。
離れた地域、人々、祭祀、物流へ働きかける存在
として描かれている。
この違いを本稿では重要視する。
十 だから「崇神から国家が始まった」とも単純化しない
しかし、
崇神以前には国家がなかった。
崇神になって突然国家が完成した。
とするのも単純すぎる。
王権形成は、
海域社会。
地域首長。
首長間交流。
広域交易。
政治中枢。
王統。
墳墓秩序。
祭祀。
動員力。
という複数の要素が重なって進んでいる。
崇神伝承が大きな画期を示唆するとしても、
その基盤はそれ以前の社会によってすでに準備されていた
と考えるべきである。
十一 王権の成長を「支配面積」だけで測らない
広域王権が成立するとは、
地図上の領土を一色に塗ることではない。
地方には地方首長がいる。
独自の祭祀がある。
地域文化がある。
生産基盤も異なる。
それでも、
必要なときに首長が集まる。
共通の祭祀へ参加する。
人や物を提供する。
外交や軍事へ協力する。
そうした関係が広がれば、
王権は実質的に広域政治を行うことができる。
したがって本稿でいう王権の成長とは、
直接支配する土地が増えることより、遠隔地の社会的能力を政治目的へ結びつけられる範囲が広がること
なのである。
十二 ここで「転換力」が国家形成の中心に戻る
これまで本稿で使ってきた「転換力」という考え方は、ここで一つにまとまる。
人口が多いだけでは国力にならない。
米が多いだけでも足りない。
鉄があっても、それだけでは軍事力にならない。
船があっても、単独では広域政治を生まない。
必要なのは、
人口を労働力へ。
農業生産を食料備蓄へ。
鉄を武器や工具へ。
木材を船へ。
海洋技術を物流へ。
首長関係を動員網へ。
変換する能力である。
そして、
それら異なる能力を同じ政治目的へ結びつける中心が王権
なのである。
十三 神武から崇神へ――一本の直線ではなく、複数の段階として見る
ここまでの考察をまとめると、
神武伝承は、
政治中心と王統成立の始点。
欠史八代は、
王統と在地社会との関係を考える伝承上の中間層。
崇神伝承は、
祭祀・地方・人・物流へ王権の作用が広がる画期。
として比較することができる。
ただしこれは、
記紀の各人物を特定の考古学年代へ直接配置するものではない。
人物の実在性を証明するものでもない。
あくまで、
史料・考古学・社会構造を別々に検討した上で、その間にどのような王権形成モデルが成立するのか
を考える試みである。
十四 しかし、まだ一つ大きな問題が残る
大和を中心に王権が形成された。
首長間関係が広がった。
人と物を動かせるようになった。
船も政治資源になる。
それでも、まだ説明しなければならないことがある。
その王権は、どのように大和の外へ実際の政治関係を広げていったのか。
西日本。
出雲。
東海。
東国。
広域王権になるためには、これら強い地域社会との関係を構築しなければならない。
そして『記紀』には、その過程を一人の英雄へ凝縮したかのような人物が現れる。
ヤマトタケルである。
次章では、
「なぜヤマトタケルは西と東の双方へ向かうのか」
という問いから、英雄伝承をそのまま征服記録として読むのではなく、複数世代にわたった列島統合の記憶という可能性を検討する
第十一章 「西と東へ向かう英雄」――ヤマトタケルは列島統合の記憶なのか
第一節 「大和の王権」から「列島を動かす王権」へ――もう一段階が必要である
一 崇神までで、国家形成は終わらない
前章では、神武から崇神までの伝承を、
一人一人の人物を考古学上の時代へ直接当てはめるのではなく、
王権形成の段階を考える材料として見てきた。
政治中心を獲得する。
王統を定着させる。
在地勢力と婚姻関係を結ぶ。
祭祀を調整する。
地方へ働きかける。
人と余剰へ関与する。
船を政治資源として扱う。
ここまで来れば、かなり強い王権が見えてくる。
しかし、それでもまだ足りない。
その先には、
列島各地の有力地域を実際の政治関係へ組み込む
という、もう一つ大きな課題が残っている。
二 四世紀末になると「倭」は海の向こうにも現れる
後の時代へ進むと、列島内部の史料だけではなく、国外の史料にも「倭」がより明瞭に現れてくる。
四世紀末から五世紀初頭の広開土王碑には、朝鮮半島をめぐる軍事的な局面の中で倭が記される。
五世紀には、中国南朝の史書に倭王の遣使が繰り返し現れる。
そこでは倭王が、
単なる一地域の首長ではなく、
列島内外の政治秩序に関与しようとする存在として姿を見せる。
つまり遅くともこの段階になると、
倭王権は海を越えて外交・軍事を行える政治主体として外部史料にも現れる
のである。
三 では、その力はどこから来たのか
ここで問題になる。
海を越えて軍勢を動かすには、
王が「行け」と命じるだけでは足りない。
兵が必要である。
武器が必要である。
食料が必要である。
船が必要である。
船を操る人々が必要である。
港が必要である。
途中の補給も必要になる。
さらに、その兵や物資を一地域だけではなく、複数地域から集めるのであれば、
列島内部にかなり広い政治関係が成立していなければならない。
四 対外軍事力は、国内統合の結果でもある
国外へ一万人規模の人間を送る政治体があるとする。
その背後では、それ以上の人数が動いている。
兵を送り出す農村。
武器を作る工人。
船を造る人々。
食料を集める者。
港まで物資を運ぶ者。
残された地域社会を維持する者。
つまり軍事力とは、
戦場にいる兵士だけではない。
社会全体からどれほどの人・物・技術を軍事目的へ転換できるか
によって決まる。
だからこそ、海外へ向かう倭を理解するためには、その前段階として列島内部の統合を見なければならない。
五 前方後円墳の広がりだけでも説明は終わらない
前方後円墳が各地へ広がることは、広域的な首長間関係を考える重要な材料である。
しかし、
同じ形の墓を造った。
だからすぐ同じ軍隊として動けた。
とはならない。
墓制を共有することと、
実際に人員や物資を提供することとの間には距離がある。
政治関係が存在する。
その関係が継続する。
必要なときに首長が協力する。
さらにその下の地域社会から、人や物を動かす。
ここまで進んで初めて、
広域政治秩序が実際の動員力へ変わる。
六 その過程を考える手掛かりが、ヤマトタケル伝承である
『記紀』には、崇神の後の王統の中で、非常に特徴的な英雄が登場する。
ヤマトタケルである。
彼は一つの地域だけで活動しない。
西へ向かう。
大和へ戻る。
今度は東へ向かう。
そして各地の勢力と接触し、戦い、服属させ、あるいは地域の有力者と結びつく。
その行動範囲は、
大和を中心として列島の西と東へ放射状に広がっている。
七 ヤマトタケルを「一人の征服者」と決めない
もちろん本稿は、
『古事記』『日本書紀』に描かれた一人のヤマトタケルが、
記載された経路をそのまま移動し、
九州・出雲・東国を一代で征服した
と最初から認定するものではない。
伝承には文学的構成がある。
『古事記』と『日本書紀』でも内容は異なる。
異なる地域伝承が、一人の英雄へ集約された可能性も考えられる。
だからこそ見るべきなのは、
人物の行程をそのまま史実化することではない。
八 なぜ一人の英雄に「西」と「東」が集中したのか
むしろ重要なのは、
なぜ王権側の物語が、
西方の有力地域。
出雲。
東海。
東国。
を、一人の英雄の活動範囲へ集めたのか
ということである。
もしまったく無関係な土地であれば、物語の舞台として繰り返し選ばれる必然性は弱い。
ただし、そこから直ちに「史実の遠征」を導くこともできない。
考えるべきなのは、
後の王権にとって、これらの地域との関係形成が重要な歴史として記憶・再構成された可能性
である。
九 ヤマトタケルの物語には「戦争」だけではなく「接続」がある
ヤマトタケル伝承を戦闘場面だけで読むと、
中央が地方を次々に征服する物語に見える。
しかし物語全体には、
地方有力者との接触。
婚姻。
神剣。
祭祀。
地域名の由来。
帰還。
など、戦争だけでは説明できない要素が多く含まれる。
つまり、
地方を滅ぼす物語というより、地方を王権の物語へ接続していく構造
として読む余地がある。
十 実際の政治統合も「征服」だけでは成立しにくい
列島各地には、それぞれ独自の地域社会があった。
九州には九州の首長がいる。
出雲には出雲の伝統がある。
尾張には尾張の政治勢力がいる。
東国にも有力首長がいる。
それらをすべて排除し、大和から人員を送り込んで直接統治するには莫大な負担がかかる。
むしろ初期王権にとって現実的なのは、
戦う場合もある。
服属を求める場合もある。
婚姻する場合もある。
贈答を行う場合もある。
祭祀関係を結ぶ場合もある。
複数の方法によって地域首長を広域秩序へ接続すること
だったと考えられる。
十一 「平定」という言葉の中に、複数の歴史過程が畳み込まれた可能性
後世の王権史は、複雑な地域統合を簡潔に語る必要がある。
何世代にもわたる交渉。
複数回の戦争。
婚姻。
地域首長の交代。
同盟。
祭祀関係。
こうした過程を一つ一つ残すのではなく、
「平定した」
という一語へまとめることもできる。
さらにそれを、
一人の英雄の遠征
として物語化することも可能である。
したがってヤマトタケル伝承には、
複数世代にわたる王権拡張の記憶が、一人の人物へ集約されているのではないか
という問いを立てることができる。
十二 ここで前方後円墳と伝承を比較できる
考古学側では、古墳時代に入ると共通する墳墓形式が各地へ広がる。
しかし地方文化が消えるわけではない。
地域ごとの墳墓形式や副葬品、首長社会は残る。
これは、
地方が完全に大和へ置き換えられた
という姿ではない。
むしろ、
地域社会を維持したまま、広域的な政治関係へ参加していく
という構造を考えさせる。
ヤマトタケル伝承の「平定」も、このような政治関係の再編と比較する価値がある。
十三 そして王権の統合力は、やがて海を越える
西と東の地域首長を結ぶ。
人口を動かす。
食料を集める。
船を用意する。
港を利用する。
この力が広がれば、
次に可能になるのは、
列島内部で蓄積した動員能力を海の向こうへ投射すること
である。
ここで初めて、
前方後円墳体制。
列島統合。
海洋技術。
そして後の対外活動が一本につながる。
十四 最初に見るべきは「なぜ西と東なのか」である
ヤマトタケル伝承を検討する第一歩は、
人物が実在したかどうかではない。
まず地図を見る。
なぜ西へ行くのか。
なぜ出雲が出てくるのか。
なぜ次に東国へ向かうのか。
なぜ途中で尾張が重要になるのか。
その地域には、どのような政治勢力が存在していたのか。
そして考古学上、王権との関係はどのように変化していったのか。
次節では、
「なぜヤマトタケル伝承は西と東の双方へ向かうのか」
という地理的構造から、英雄物語の背後にある列島統合の問題を検討する。
第二節 「なぜ西と東の双方へ向かうのか」――ヤマトタケル伝承の地理が語るもの
一 ヤマトタケルは、一つの地域だけを征服する英雄ではない
『古事記』では、ヤマトタケルは景行天皇の皇子・小碓命として登場する。
そして、その活動範囲は非常に広い。
まず西方へ向かう。
熊曾建を討つ。
帰途では出雲建との物語が置かれる。
大和へ戻ると、今度は東方へ向かう。
つまりヤマトタケル伝承は、
西方への移動と東方への移動を、一人の人物に集中させた物語
なのである。
これは単なる英雄譚として読むだけでは見えにくい特徴である。
二 なぜ「西だけ」でも「東だけ」でもないのか
もし目的が、
勇敢な皇子が敵を倒した
という物語だけなら、一つの大遠征でも成立する。
ところがヤマトタケルは、
西へ向かい、
戻り、
さらに東へ向かう。
この地理的構造には意味がある。
王権の中心を大和に置けば、
西には瀬戸内・山陰・九州の地域社会がある。
東には東海を経て東国がある。
つまり物語は、
大和を中心として、その外側へ政治的視線を広げる形
になっている。
三 「列島統合の地図」として見てみる
ここで、ヤマトタケルの行程を一人の人物の旅行記として読むことをいったんやめる。
代わりに、
「王権がどの方向へ関係を広げなければならなかったのか」
という地図として見る。
すると、
西南方面。
山陰方面。
東海。
東国。
という、大和から見て重要な広域地域が浮かび上がる。
これらは、いずれも独自の地域社会と有力首長を持つ場所である。
したがって、
大和の王権が広域王権になるためには、避けて通れない地域
でもあった。
四 西方には、すでに強い政治社会があった
西へ向かえば、そこには「何もない地方」があるわけではない。
北部九州には、弥生時代以来の大陸・半島との交流拠点がある。
瀬戸内沿岸には、長距離交通を支える地域社会がある。
吉備には強い首長社会が形成される。
山陰側には、出雲をはじめ独自の墓制や祭祀文化を持つ地域がある。
つまり王権が西へ広がるということは、
未開地を征服することではなく、すでに成立していた複数の地域政治圏と関係を結ぶこと
である。
五 東方にも、当然ながら別の政治社会がある
同じことは東にも言える。
東海には独自の首長社会がある。
尾張には大規模な墳墓を築く有力者が現れる。
さらに東へ進めば、関東各地にも古墳文化を担う地域首長が存在する。
したがって、
「大和から東国へ王権が広がった」
という表現も、
大和人が無人の土地へ進んだ
という意味ではない。
既存の地域勢力と、新たな広域政治秩序が接触した
と考える必要がある。
六 前方後円墳の広がりと比較すると、別の景色が見える
考古学側では、前方後円墳という共通する墳墓形式が列島各地へ展開していく。
ただし、その広がり方は一様ではない。
地域によって時期も異なる。
規模も異なる。
在来の墓制も残る。
地域独自の副葬品や祭祀も続く。
つまり前方後円墳の広がりは、
地方文化が消滅したことを意味しない。
むしろ、
地域社会を残しながら、広域的な首長関係へ接続していく過程
として検討することができる。
七 ヤマトタケル伝承も「地方消滅」の物語ではない
ヤマトタケルは各地の敵と戦う。
しかし、それによってその地域そのものが物語から消えるわけではない。
九州も残る。
出雲も残る。
尾張も残る。
東国も残る。
後の時代にも、それぞれの地域勢力は政治的に重要な存在であり続ける。
したがって伝承上の「平定」を、
地方社会そのものの消滅
と読む必要はない。
むしろ、
王権との関係が組み替えられたことを、戦闘物語として表現した可能性
も考えられる。
八 なぜ複雑な政治関係が「英雄の戦い」になるのか
実際の政治統合は複雑である。
交渉する。
婚姻する。
贈答する。
協力する。
戦う。
降伏する。
再び争う。
次世代で関係を結び直す。
こうした出来事が何十年、場合によっては何世代も続く。
しかし物語として残す場合、それをすべて記録する必要はない。
一人の英雄が敵を倒す。
という形に整理すれば、非常に分かりやすくなる。
つまり、
長い政治統合の過程が、一人の英雄の行動へ圧縮された
可能性を考えることができる。
九 ただし「地理が似ている」だけでは史実の証明にならない
ここは慎重でなければならない。
ヤマトタケルが西と東へ向かう。
考古学でも大和と各地域との関係が広がる。
だから、
ヤマトタケル遠征はそのまま史実である
とは言えない。
後世の編纂者が、自分たちの知る列島地理を過去へ投影した可能性もある。
各地域に存在した別々の英雄伝承を、一人へ統合した可能性もある。
王権の正統性を示すために、重要地域を物語の中へ組み込んだ可能性もある。
したがって、
地理的対応は検討材料にはなるが、人物の実在証明にはならない。
十 それでも「なぜその地域なのか」は残る
しかし反対説明を置いたとしても、
なぜ熊襲なのか。
なぜ出雲なのか。
なぜ尾張なのか。
なぜ東国なのか。
という問いは残る。
どの地域でもよかったわけではない。
後の王権史にとって重要だった地域が、物語の中で繰り返し登場する。
そこには、
王権が列島各地との関係を説明するための政治的地理
が組み込まれていると見ることができる。
十一 西と東を結ぶことで、大和は「中心」になる
ここで重要なのは、大和そのものの意味である。
西へ向かう。
東へ向かう。
そして再び大和へ戻る。
この構造によって、大和は単なる一地域ではなく、
西と東をつなぐ政治的中心
として描かれる。
これは前章まで見てきた纒向の問題とも重なる。
政治中心とは、すべての資源を自分の土地だけで生産する場所ではない。
異なる地域を結び、
人。
物。
情報。
祭祀。
政治関係。
を集約する場所である。
十二 海路と陸路を組み合わせる政治世界
ヤマトタケル伝承の移動を考える際にも、
陸路だけを見るべきではない。
西日本では瀬戸内海交通がある。
東へ向かえば伊勢湾・東海沿岸の交通がある。
さらに物語には海を渡る場面も現れる。
つまり列島統合とは、
陸上軍が道路を歩いて版図を広げるだけの話ではない。
海路・河川・沿岸路・陸路を組み合わせた交通世界の統合
として考えた方がよい。
十三 王権が必要としたのは「土地」だけではなく「回廊」である
ここで視点を変える。
王権が広がるとき、
すべての土地を均一に支配する必要はない。
まず重要なのは、
海峡。
港。
河口。
河川。
峠。
平野。
沿岸航路。
といった、人と物が動く結節点を押さえることである。
つまり初期王権の拡大を考えるときには、
面積よりも、
地域と地域を結ぶ交通回廊をどこまで政治関係へ組み込めたのか
を見る必要がある。
十四 だからヤマトタケル伝承では「移動」そのものが重要になる
ヤマトタケルは、宮殿に座って地方へ命令するだけの人物ではない。
自ら移動する英雄として描かれる。
これは物語上の演出でもある。
しかし同時に、
広域王権がまだ形成途上にある社会では、
中央から遠隔地を直接統治するより、
人が実際に移動し、地域首長との関係を結ぶこと
の方が重要だった可能性がある。
王権の範囲とは、
地図に引いた線ではなく、
人が往来し、関係を維持できる範囲だったのである。
十五 では、西方で王権が向き合ったのはどのような社会だったのか
ヤマトタケル伝承を列島統合の地理として読むなら、
次に一つずつ地域を見る必要がある。
まず西である。
熊襲。
そして出雲。
どちらも後世の中央王権から見れば「平定される側」として語られる。
しかし考古学的には、独自の社会と政治力を持つ地域である。
次節では、
「なぜ西征伝承に熊襲と出雲が選ばれたのか」
という問いから、王権による地方統合を「強い中央が弱い地方を征服した」という単純な図式から外して検討する。
第三節 「なぜ熊襲と出雲なのか」――西征伝承が映す強い地域社会
一 西征伝承を「弱い地方の征服」と読むと見誤る
ヤマトタケル伝承の西側には、特徴的な地域が置かれている。
『古事記』では、
熊曾建。
そして帰途の出雲建。
が登場する。
この二つを、
中央から遠く離れた未開の地方を英雄が征服した
というだけの物語として読むと、当時の列島社会を単純化しすぎる。
むしろ注目すべきなのは、
どちらも独自の地域社会が発達していた方向に置かれている
ことである。
二 ただし『古事記』と『日本書紀』を一つの遠征記録にはしない
ここでは最初に史料上の注意が必要である。
ヤマトタケルの西征について、『古事記』と『日本書紀』では物語の構成や人物関係が一致しない。
したがって、
両書の記事を継ぎ合わせて一つの正確な軍事行程を復元することはできない。
また、
熊襲。
熊曾建。
出雲建。
という名称を、それぞれ特定の考古学文化や民族集団へ直接対応させることもできない。
本稿が見るのは、
後世の王権伝承が、西方のどの地域を「向き合うべき相手」として配置したのか
という構造である。
三 九州は列島の「端」ではなかった
大和から見れば九州は西方にある。
しかし古代の海域世界から見れば、その意味はまったく異なる。
北部九州は、
朝鮮半島。
対馬。
壱岐。
瀬戸内。
を結ぶ海上交通の要地であった。
弥生時代以来、
鉄。
青銅器。
土器。
人。
情報。
が動く玄関口の一つである。
つまり九州は、
列島の端ではなく、外部世界へ開く重要な入口
でもあった。
四 だから「九州と関係を持つ」ことは海域政治に直結する
もし大和を中心とする王権が、
西日本の広域政治へ関与しようとすれば、
九州方面との関係は避けて通れない。
そこには、
半島航路へ接続する人々がいる。
海峡を知る航海者がいる。
大陸系物資を扱う交易網がある。
独自の首長社会もある。
したがって九州との関係は、
単なる領土拡張ではない。
列島外との交流路へ接続すること
にもつながる。
五 しかし「熊襲=南九州の一民族」と固定してはいけない
『記紀』に現れる「熊襲」を、
そのまま一つの民族。
一つの国家。
一つの考古学文化。
として扱うことは難しい。
名称がどの範囲の人々を指したのか。
複数の地域勢力をまとめた呼称だったのか。
王権側の政治的分類だったのか。
これらには検討の余地がある。
したがって本稿では、
熊襲という名称と、南九州の特定遺跡・人骨・文化集団を直接同一視しない。
ここでも文献上の呼称と考古学的集団は分ける。
六 重要なのは、南九州にも独自の地域社会があったことである
南九州もまた、
大和から文明を待つだけの地域ではない。
地域ごとに異なる集落。
墓制。
生産。
交通。
祭祀。
が存在した。
したがって、仮に王権と南九州の勢力との間に軍事的衝突があったとしても、
それは、
完成した中央国家が無力な地方を征服した
というより、
異なる政治社会同士が関係を組み替えていく過程
として考えなければならない。
七 そして出雲は、さらに分かりやすい
出雲の場合、弥生時代後期から終末期にかけて、独自性の強い首長墓文化が確認される。
代表的なのが、
四隅突出型墳丘墓である。
これは山陰を中心に展開した特徴的な墳墓形式であり、
大和の前方後円墳とは異なる地域的伝統を持つ。
つまり出雲には、
古墳時代以前から独自の首長社会を可視化する墓制
が存在していた。
八 墓が違うということは、政治文化も同じではなかった可能性を示す
墓制だけから政治制度すべてを復元することはできない。
しかし、
大規模な首長墓を造る。
特有の形を共有する。
複数地域へその形式が広がる。
という現象は、
地域首長間に独自の関係が存在した可能性を考えさせる。
つまり出雲は、
大和王権が現れる前から、
自前の首長ネットワークを持っていた可能性のある地域
として見る必要がある。
九 その地域が、後に広域古墳文化へ接続していく
古墳時代へ入ると、山陰でも墓制は変化していく。
地域独自の墳墓伝統を残しながら、
前方後方墳。
方墳。
そして前方後円墳。
など、さまざまな墳形が現れる。
この変化を、
出雲文化が消滅し、大和文化に置き換わった
と単純化することはできない。
むしろ、
地域首長社会が存続しながら、広域的な政治・葬送ネットワークとの関係を深めていった
可能性を考える方がよい。
十 すると「出雲建を倒す」という物語の見え方も変わる
『古事記』では、ヤマトタケルと出雲建の物語が置かれている。
これを、
ある年に一人の大和皇子が出雲の王を倒した
という記録として読む必要はない。
そもそも出雲建という人物を、出雲全体の実在王と確認することはできない。
しかし物語上、
出雲がヤマトタケルの活動範囲へ組み込まれている
こと自体は重要である。
後世の王権伝承にとって、出雲が無視できない地域だったことは読み取れる。
十一 「強い地域だからこそ物語に残った」という可能性
ここで発想を逆にしてみる。
征服されたから重要なのではなく、
重要な地域だったからこそ、王権の征服・平定物語に組み込まれた
のではないか。
九州。
出雲。
東海。
東国。
いずれも独自の地域社会を持つ。
そのような地域を、
王権の始祖伝承や英雄伝承の中へ入れることには、
後の広域王権から見ても意味がある。
「この地域も王権の秩序へつながっている」
という由来を物語として示せるからである。
十二 戦争だけでなく「権威を取り込む」という構造にも注目する
地方統合では、敵を倒すだけでは十分ではない。
その地域が持つ、
人。
生産力。
交通路。
祭祀。
首長権威。
を新しい政治関係へ組み込む必要がある。
そして『古事記』の熊曾建との物語には、非常に象徴的な場面がある。
小碓命は、熊曾建との対決を経て、
「建」という名を受ける。
その後、
「倭建命」
と呼ばれるようになる。
これは実際の称号継承を証明するものではない。
しかし物語として見ると、
単に敵を消すのではなく、
敵の強さや権威を、自らの名へ取り込む
という構造が現れている。
十三 列島統合とは「地域の力を消すこと」ではなかったのかもしれない
これまで本稿で見てきた王権形成も同じである。
海民を消したのではない。
在地首長を消したのでもない。
地方祭祀をすべて消したわけでもない。
地域社会が持っていた能力を、
より大きな政治秩序へ接続していく。
そう考えるなら、
ヤマトタケル西征伝承も、
「強い中央が弱い地方を破壊した物語」
ではなく、
地方勢力の力や権威を王権の側へ再配置していく物語
として読む余地がある。
十四 そして名前そのものが、次の問いになる
なぜ小碓命は、
敵を倒した後に「倭建」という名を得るのか。
なぜ英雄の名の成立に、
地方の強者が関わるのか。
そこには、
勝者と敗者を単純に切り離すのではなく、
地方の力を取り込みながら「倭」の英雄が形成される
という象徴的な構造がある。
次節では、
「なぜ敵の名を受けて『倭建』になるのか」
という問いから、王権による地域統合を「征服」ではなく「吸収と再編」という側面から検討する。
第四節 「なぜ敵の名を受けて『倭建』になるのか」――征服ではなく権威の吸収という物語
一 ヤマトタケルは、最初から「倭建」ではない
『古事記』の物語では、景行天皇の皇子は当初、小碓命として登場する。
そして熊曾建との対決を経た後、
「倭建命」
という名を得る。
ここで興味深いのは、
英雄の名が、王権内部だけで完結していない
ことである。
父王から与えられたわけではない。
大和の祭祀者が命名したわけでもない。
敵として描かれる側との対決の中で、新しい名が生まれる。
これは物語として非常に特徴的である。
二 単純な「敵の名前を奪った」という話なのか
熊曾建を倒した。
その「建」を得た。
そして倭建となった。
表面的には、このように読むことができる。
しかしここで、
「建」が実際の首長称号であり、それを歴史上継承した
とまで断定することはできない。
名称の成立には、物語上の語源説明や英雄表現が含まれている可能性もある。
したがって本稿では、
名前の由来をそのまま政治制度の記録とはしない。
見るべきなのは、なぜ物語がこの形を選んだのかである。
三 勝者だけで英雄が完成していない
もしヤマトタケルが、
大和王権の圧倒的な力だけを示す英雄
として作られたのであれば、
地方の敵は単に倒されればよい。
ところが物語では、
敵側の「建」が、
主人公の新しい名前へ組み込まれる。
つまり、
地方の強者との対決を経ることで、中央側の英雄が完成する。
ここには、勝者と敗者を完全に切断しない構造がある。
四 地方の「強さ」を否定していない
熊曾建が無力な相手であれば、
その名を受ける意味は小さい。
物語上、その人物は、
倒すに値する強者。
名を与えるに値する相手。
として設定されている。
つまり王権側の物語でありながら、
地方勢力にも独自の武威や権威があったことを認める構造
になっている。
これは重要である。
五 王権形成でも、地方の能力は消すべきものではない
実際の国家形成でも同じ問題がある。
地方首長が持つ、
兵力。
農業生産。
交通網。
海上技術。
祭祀権威。
地域社会の支持。
これらをすべて破壊してしまえば、王権自身もその地域の力を利用できなくなる。
むしろ必要なのは、
既存の能力を、新しい政治関係の中で使える形へ組み替えること
である。
ここに「征服」と「統合」の違いがある。
六 敗者の権威を勝者が取り込むという政治論理
前近代の政治社会では、
敵対する有力者を倒した後、
その土地。
家臣。
祭祀。
称号。
婚姻関係。
象徴。
などの一部を、新しい支配秩序へ引き継ぐことがある。
もちろん、『古事記』の命名説話がその具体的な制度を記録しているとは言えない。
しかし物語構造として、
敗者の強さが勝者の権威へ転換される
という読み方は可能である。
七 「倭建」という名が象徴するもの
ここで「倭建」という名前そのものを見る。
物語上、
地方の「建」と対決した小碓命が、
「倭」の「建」になる。
この構造を政治的に読むなら、
地域ごとに存在した強者の力を、
より広い「倭」という枠組みへ再配置する
という象徴にも見える。
ただし、
これはあくまで物語構造から導く解釈である。
実際に「倭建」という公的称号が地方首長統合制度として存在したことを示すものではない。
八 「吸収」といっても、地方文化の消滅ではない
ここでいう吸収は、
地方社会が大和文化へ完全に置き換えられた
という意味ではない。
前方後円墳が広がった後も、
地域差は残る。
墓制にも違いがある。
祭祀にも違いがある。
政治勢力も存続する。
したがって王権形成における吸収とは、
地域の独自性を残しながら、上位の政治関係へ接続すること
として考える必要がある。
九 神武伝承にも似た構造があった
ここで神武伝承を思い出すことができる。
神武は大和へ進入する。
長髄彦とは対立する。
しかし饒速日に結びつく系統すべてが物語から消えるわけではない。
さらに後続王統では、在地勢力との婚姻が繰り返される。
つまり初期王権伝承には、
敵対する勢力を排除する一方で、
利用可能な在地の権威や人間関係を新しい秩序へ取り込む
という構造が繰り返し現れる。
十 ヤマトタケルは「敵を倒す人」から「地方を倭へ結ぶ人」へ変わる
この視点で見ると、ヤマトタケルの役割も変わって見える。
敵を倒した数が重要なのではない。
熊襲。
出雲。
そしてこの後の東海・東国。
それぞれの地域が、
英雄の物語を通じて「倭」の政治世界へ組み込まれていく。
つまりヤマトタケルは、
地方を消滅させる英雄ではなく、地方との関係を「倭」の物語へ回収する英雄
として読むことができる。
十一 ただし、これは後世の王権が作った「統合の説明」かもしれない
ここでは反対の可能性も残しておかなければならない。
実際の古墳時代にこのような出来事があったから物語が生まれたとは限らない。
後世の王権が、
すでに自らの政治圏となっていた地域について、
「なぜこの土地が王権に属するのか」
を説明するために、
英雄の平定伝承を作った可能性もある。
その場合、ヤマトタケルは、
歴史的統合をそのまま記録した人物ではなく、
後世の政治秩序を過去へ遡って説明するための象徴的人物
ということになる。
十二 だから考古学との照合が必要になる
では、ヤマトタケル伝承に現れる地域は、
実際に王権形成期にどのような位置にあったのか。
ここを考古学で確認しなければならない。
もし、
強い地域首長がいる。
独自文化を持っている。
その後、広域的な前方後円墳秩序との関係が深まる。
という変化が確認できるなら、
少なくとも、
地域統合という伝承構造を考える歴史的背景
は存在することになる。
人物の実在を証明するのではない。
物語が成立し得る社会背景を検証するのである。
十三 そして次に向かうのは「東」である
西征伝承では、
強い地方勢力との対決。
その権威の吸収。
という構造を見ることができた。
しかしヤマトタケルは西方だけの英雄ではない。
大和へ戻ると、
今度はさらに大きな役割を与えられる。
東方への遠征である。
ここでは、
尾張。
東海。
相模。
海峡。
そして東国。
と、これまで以上に広い政治空間が登場する。
次節では、
「なぜ東征の入口に尾張が置かれるのか」
という問いから、東海が単なる通過地域ではなく、王権形成そのものに関わる有力政治圏だった可能性を検討する。
第五節 「なぜ東征の入口に尾張があるのか」――東海は通過点ではなく有力政治圏だった
一 東征は、大和からいきなり東国へ飛ぶのではない
ヤマトタケルの東征を地図上で見ると、一つ重要な地域が浮かび上がる。
尾張である。
物語は、
大和から東国へ一直線に進むわけではない。
東海へ入り、
尾張との関係を持ち、
さらに東へ進む。
そして東征を終えた後も、再び尾張へ戻る。
つまり尾張は、
東征の途中で偶然通過した場所ではない。
物語の中で、東方進出を支える重要な結節点として置かれている。
二 尾張には「戦争」ではなく「婚姻」が置かれている
ここで西征との違いに気づく。
熊襲。
出雲。
では、戦闘が物語の中心になっていた。
ところが尾張では、
婚姻が前面に出る。
『古事記』では美夜受比売。
『日本書紀』では宮簀媛。
表記や物語の細部には違いがあるが、
ヤマトタケルと尾張の有力な女性との関係が語られている。
これは興味深い。
東方への政治的接続点として、戦争ではなく婚姻が配置されている
からである。
三 もちろん、この婚姻をそのまま四世紀の史実とはしない
ここでも史料の扱いには注意が必要である。
ヤマトタケルという人物の年代そのものが確定しているわけではない。
美夜受比売・宮簀媛との婚姻を、
何年に行われた具体的な政略結婚
として証明することもできない。
また後世の尾張氏が、
自らの系譜と王権との結びつきを説明するために伝承を整えた可能性も考えなければならない。
したがって本稿が問うのは、
婚姻そのものの事実認定ではなく、なぜ王権の東進物語に尾張との婚姻が必要とされたのか
ということである。
四 尾張は「東国への入口」に位置する
大和から東へ進む場合、
伊勢。
尾張。
三河。
遠江。
駿河。
相模。
と続く交通軸を考えることができる。
その中でも尾張は、
伊勢湾。
濃尾平野。
河川交通。
東海道方面。
を結ぶ位置にある。
つまり尾張との関係は、
一つの地域首長との関係だけでは終わらない。
さらに東へ進むための交通回廊へ接続する意味
を持ち得る。
五 海から見ても、尾張は重要である
本稿では繰り返し、
政治圏を陸上だけで考えない
という視点を取ってきた。
伊勢湾は、
伊勢。
尾張。
三河。
さらに太平洋沿岸。
を結ぶ海上交通空間である。
大和から伊勢方面へ出れば、
そこから海上交通を利用することができる。
つまり尾張は、
陸路と海路が交わる東方交通の結節点
として考えることができる。
六 しかも尾張には、有力な首長社会が存在した
考古学的に見ても、古墳時代前期の尾張を、
大和に従うだけの弱い地方
として描くことはできない。
尾張地域には、前期から大型の首長墓が築かれている。
前方後円墳を含む墳墓の展開からも、
相当な人口。
生産力。
労働動員力。
地域社会をまとめる首長層。
が存在したことを考えることができる。
つまり王権が東へ広がるためには、
尾張の力を無視するのではなく、尾張の有力者と関係を結ぶ必要があった
と考える方が自然である。
七 「大きな古墳がある」ことと「大和の直轄地」は同じではない
ただし、尾張に前方後円墳があるからといって、
その瞬間に大和の直接支配下へ入った
とは言えない。
前方後円墳の採用は、
広域的な首長関係への参加を考える材料にはなる。
しかし、
誰が命令したのか。
どの程度の服属関係だったのか。
地方首長にどれほどの自立性があったのか。
までは墳形だけでは分からない。
むしろ大型墳を造れること自体、
尾張側にも強い地域基盤があった
ことを示している。
八 王権は「強い地方」を必要としていた
ここで重要なのは、
中央王権が強くなるためには地方を弱くする必要がある
とは限らないことである。
尾張に強い首長がいる。
その首長が地域社会をまとめる。
交通を管理する。
必要なときに人や物を動かす。
王権がその首長と政治関係を結べば、
その能力を広域政治へ利用できる。
つまり初期王権にとって、
強い地域首長は脅威であると同時に、広域化を可能にする協力者でもあった。
九 婚姻は、その関係を固定する方法になり得る
ここで前章の議論が再びつながる。
神武以後の初期王統でも、
在地勢力との婚姻が重要な位置を占めていた。
婚姻には、
戦争とは違う政治的機能がある。
相手の首長家を残す。
その地域社会を壊さない。
血縁関係を作る。
次世代まで関係を継続させる。
もしヤマトタケルと尾張の女性との物語に政治的記憶が含まれているなら、
ここでも、
征服より「接続」による統合
という構造を見ることができる。
十 東海では、地域首長と広域古墳文化が併存する
尾張だけではない。
遠江。
駿河。
など東海各地でも、古墳時代前期から有力首長墓が形成されていく。
重要なのは、
前方後円墳が現れたから地域社会が消えた
のではないことである。
各地域には引き続き独自の首長層が存在する。
墳墓の形や規模にも地域差がある。
つまり考古学側に見えるのも、
中央から一律に塗り替えられた世界ではなく、地域勢力が広域的な政治文化へ接続していく世界
なのである。
十一 これはヤマトタケル伝承の「平定」を考えるうえで重要である
もし東海各地の首長が、
自らの地域基盤を保ちながら広域王権との関係を深めたのであれば、
後世の伝承にいう「平定」も、
一度の軍事征服だけで説明する必要はない。
戦争。
協力。
婚姻。
首長間の盟約。
祭祀。
交通路の共有。
複数の方法があった可能性がある。
そして何世代にもわたる複雑な過程が、
後に一人の英雄の遠征として整理された可能性も残る。
十二 草薙剣が尾張へ残される物語も興味深い
ヤマトタケル伝承では、東征の帰途に尾張へ戻り、草薙剣に関わる物語が置かれる。
後世、その剣は熱田の祭祀伝承と強く結びついていく。
もちろん、
この伝承から古墳時代の具体的な政治制度を復元することはできない。
しかし物語上、
王権の英雄。
尾張の有力者。
神剣。
祭祀。
が一つの地域で結びつけられていることは注目できる。
ここでも、
政治関係と祭祀関係が重なって語られている
のである。
十三 尾張は「征服された地方」より「東方へつなぐ協力地域」として見る余地がある
このように見ると、
ヤマトタケル伝承における尾張は、
敵として滅ぼされる地域とは性格が違う。
婚姻する。
戻ってくる。
神剣をめぐる伝承が残る。
そして地理的には、さらに東へ進むための重要な位置にある。
したがって尾張は、
王権の東進を支える地域的な接続点として物語化された可能性
を考えることができる。
これをそのまま史実とはできない。
しかし「地方統合には戦争以外の方法もあった」という本稿のモデルとは、十分に比較できる。
十四 そして東征は、ついに海を渡る
尾張からさらに東へ進むと、
物語の舞台は遠江・駿河・相模方面へ広がっていく。
そしてヤマトタケルは、
東国へ向かう途中で海を渡る。
走水である。
ここは本稿にとって極めて重要である。
西方だけではない。
東方への政治的移動にも、海が使われている。
次節では、
「なぜ東国遠征で海を渡るのか」
という問いから、走水・東京湾を手掛かりに、列島統合と海上交通が最後まで切り離せなかったことを検討する。
第五節 「なぜ東征の入口に尾張があるのか」――東海は通過点ではなく有力政治圏だった
一 東征は、大和からいきなり東国へ飛ぶのではない
ヤマトタケルの東征を地図上で見ると、一つ重要な地域が浮かび上がる。
尾張である。
物語は、
大和から東国へ一直線に進むわけではない。
東海へ入り、
尾張との関係を持ち、
さらに東へ進む。
そして東征を終えた後も、再び尾張へ戻る。
つまり尾張は、
東征の途中で偶然通過した場所ではない。
物語の中で、東方進出を支える重要な結節点として置かれている。
二 尾張には「戦争」ではなく「婚姻」が置かれている
ここで西征との違いに気づく。
熊襲。
出雲。
では、戦闘が物語の中心になっていた。
ところが尾張では、
婚姻が前面に出る。
『古事記』では美夜受比売。
『日本書紀』では宮簀媛。
表記や物語の細部には違いがあるが、
ヤマトタケルと尾張の有力な女性との関係が語られている。
これは興味深い。
東方への政治的接続点として、戦争ではなく婚姻が配置されている
からである。
三 もちろん、この婚姻をそのまま四世紀の史実とはしない
ここでも史料の扱いには注意が必要である。
ヤマトタケルという人物の年代そのものが確定しているわけではない。
美夜受比売・宮簀媛との婚姻を、
何年に行われた具体的な政略結婚
として証明することもできない。
また後世の尾張氏が、
自らの系譜と王権との結びつきを説明するために伝承を整えた可能性も考えなければならない。
したがって本稿が問うのは、
婚姻そのものの事実認定ではなく、なぜ王権の東進物語に尾張との婚姻が必要とされたのか
ということである。
四 尾張は「東国への入口」に位置する
大和から東へ進む場合、
伊勢。
尾張。
三河。
遠江。
駿河。
相模。
と続く交通軸を考えることができる。
その中でも尾張は、
伊勢湾。
濃尾平野。
河川交通。
東海道方面。
を結ぶ位置にある。
つまり尾張との関係は、
一つの地域首長との関係だけでは終わらない。
さらに東へ進むための交通回廊へ接続する意味
を持ち得る。
五 海から見ても、尾張は重要である
本稿では繰り返し、
政治圏を陸上だけで考えない
という視点を取ってきた。
伊勢湾は、
伊勢。
尾張。
三河。
さらに太平洋沿岸。
を結ぶ海上交通空間である。
大和から伊勢方面へ出れば、
そこから海上交通を利用することができる。
つまり尾張は、
陸路と海路が交わる東方交通の結節点
として考えることができる。
六 しかも尾張には、有力な首長社会が存在した
考古学的に見ても、古墳時代前期の尾張を、
大和に従うだけの弱い地方
として描くことはできない。
尾張地域には、前期から大型の首長墓が築かれている。
前方後円墳を含む墳墓の展開からも、
相当な人口。
生産力。
労働動員力。
地域社会をまとめる首長層。
が存在したことを考えることができる。
つまり王権が東へ広がるためには、
尾張の力を無視するのではなく、尾張の有力者と関係を結ぶ必要があった
と考える方が自然である。
七 「大きな古墳がある」ことと「大和の直轄地」は同じではない
ただし、尾張に前方後円墳があるからといって、
その瞬間に大和の直接支配下へ入った
とは言えない。
前方後円墳の採用は、
広域的な首長関係への参加を考える材料にはなる。
しかし、
誰が命令したのか。
どの程度の服属関係だったのか。
地方首長にどれほどの自立性があったのか。
までは墳形だけでは分からない。
むしろ大型墳を造れること自体、
尾張側にも強い地域基盤があった
ことを示している。
八 王権は「強い地方」を必要としていた
ここで重要なのは、
中央王権が強くなるためには地方を弱くする必要がある
とは限らないことである。
尾張に強い首長がいる。
その首長が地域社会をまとめる。
交通を管理する。
必要なときに人や物を動かす。
王権がその首長と政治関係を結べば、
その能力を広域政治へ利用できる。
つまり初期王権にとって、
強い地域首長は脅威であると同時に、広域化を可能にする協力者でもあった。
九 婚姻は、その関係を固定する方法になり得る
ここで前章の議論が再びつながる。
神武以後の初期王統でも、
在地勢力との婚姻が重要な位置を占めていた。
婚姻には、
戦争とは違う政治的機能がある。
相手の首長家を残す。
その地域社会を壊さない。
血縁関係を作る。
次世代まで関係を継続させる。
もしヤマトタケルと尾張の女性との物語に政治的記憶が含まれているなら、
ここでも、
征服より「接続」による統合
という構造を見ることができる。
十 東海では、地域首長と広域古墳文化が併存する
尾張だけではない。
遠江。
駿河。
など東海各地でも、古墳時代前期から有力首長墓が形成されていく。
重要なのは、
前方後円墳が現れたから地域社会が消えた
のではないことである。
各地域には引き続き独自の首長層が存在する。
墳墓の形や規模にも地域差がある。
つまり考古学側に見えるのも、
中央から一律に塗り替えられた世界ではなく、地域勢力が広域的な政治文化へ接続していく世界
なのである。
十一 これはヤマトタケル伝承の「平定」を考えるうえで重要である
もし東海各地の首長が、
自らの地域基盤を保ちながら広域王権との関係を深めたのであれば、
後世の伝承にいう「平定」も、
一度の軍事征服だけで説明する必要はない。
戦争。
協力。
婚姻。
首長間の盟約。
祭祀。
交通路の共有。
複数の方法があった可能性がある。
そして何世代にもわたる複雑な過程が、
後に一人の英雄の遠征として整理された可能性も残る。
十二 草薙剣が尾張へ残される物語も興味深い
ヤマトタケル伝承では、東征の帰途に尾張へ戻り、草薙剣に関わる物語が置かれる。
後世、その剣は熱田の祭祀伝承と強く結びついていく。
もちろん、
この伝承から古墳時代の具体的な政治制度を復元することはできない。
しかし物語上、
王権の英雄。
尾張の有力者。
神剣。
祭祀。
が一つの地域で結びつけられていることは注目できる。
ここでも、
政治関係と祭祀関係が重なって語られている
のである。
十三 尾張は「征服された地方」より「東方へつなぐ協力地域」として見る余地がある
このように見ると、
ヤマトタケル伝承における尾張は、
敵として滅ぼされる地域とは性格が違う。
婚姻する。
戻ってくる。
神剣をめぐる伝承が残る。
そして地理的には、さらに東へ進むための重要な位置にある。
したがって尾張は、
王権の東進を支える地域的な接続点として物語化された可能性
を考えることができる。
これをそのまま史実とはできない。
しかし「地方統合には戦争以外の方法もあった」という本稿のモデルとは、十分に比較できる。
十四 そして東征は、ついに海を渡る
尾張からさらに東へ進むと、
物語の舞台は遠江・駿河・相模方面へ広がっていく。
そしてヤマトタケルは、
東国へ向かう途中で海を渡る。
走水である。
ここは本稿にとって極めて重要である。
西方だけではない。
東方への政治的移動にも、海が使われている。
次節では、
「なぜ東国遠征で海を渡るのか」
という問いから、走水・東京湾を手掛かりに、列島統合と海上交通が最後まで切り離せなかったことを検討する。
第七節 「東国は征服されるだけの辺境だったのか」――大型古墳が語る地域首長の力
一 海を渡った先は「空白地帯」ではない
前節では、走水の物語から、東国への移動にも海上交通が組み込まれていることを見た。
では、その海を渡った先には何があったのだろうか。
何もない土地へ大和の勢力が進出したわけではない。
房総をはじめとする東国にも、
集落がある。
農業生産がある。
交通網がある。
そして地域社会をまとめる有力首長がいる。
つまり東征を考えるときにも、
王権が進出した先には、すでに別の政治社会が存在していた
というところから始めなければならない。
二 東国にも大型の首長墓が現れる
古墳時代に入ると、東国各地にも大型古墳が築かれる。
房総には前期に位置づけられる大型前方後円墳が存在し、
さらに時代が進むと、関東各地に巨大な首長墓が展開する。
上毛野地域では、後に列島でも最大級に属する前方後円墳が築かれるようになる。
ここから分かるのは、
東国が単に中央から命令を受けるだけの地域ではなかったことである。
巨大墳墓を造るだけの人口・生産力・動員力を持つ首長社会
が存在していた。
三 巨大古墳は「地方が弱かった」ことを示さない
大きな古墳を造るには、
労働力。
食料。
道具。
木材。
土木技術。
施工を調整する人々。
が必要になる。
したがって地方に大型古墳があるということは、
その地域に相当な社会的能力があったことを意味する。
もちろん古墳の大きさを、そのまま軍事力や人口へ換算することはできない。
しかし少なくとも、
地域首長が独自に社会を組織できる基盤を持っていた
ことを考える材料にはなる。
四 すると「中央が地方を一方的に征服した」という図式が揺らぐ
もし東国に強い首長社会が存在したのであれば、
大和の王権が軍勢を送れば直ちに支配できる
というほど単純ではない。
抵抗する地域もあっただろう。
協力する地域もあっただろう。
早くから王権との関係を結ぶ首長もいれば、
距離を置く首長もいた可能性がある。
つまり東国統合は、
一回の征服戦争ではなく、地域ごとに異なる関係形成の積み重ね
として考える必要がある。
五 東国すべてが同時に王権へ入ったわけでもない
ここも重要である。
「東国」と一括りにすると、
関東から東北方面までが同じ時期に同じ政治関係へ入ったように見えてしまう。
しかし考古学的な変化には地域差がある。
古墳の成立時期。
墳形。
規模。
副葬品。
他地域との交流。
はいずれも一様ではない。
したがって、
ヤマトタケルが一度東征した結果、東日本全体が同時に服属した
という読み方はできない。
六 前方後円墳への参加時期にも差がある
前方後円墳という共通形式も、列島全域へ一斉に広がったわけではない。
東海で比較的早く大型前方後円墳が現れる地域がある一方、
関東内部でも展開の仕方は異なる。
また前方後円墳だけでなく、
地域的な墳形や葬送伝統も残る。
この事実は、
王権の広域化が、
中心から同心円状に一律に広がったものではなかった
ことを示している。
七 むしろ東国首長は、王権形成そのものに参加した可能性がある
ここで視点を逆にしてみる。
大和王権が完成する。
その後で東国を征服する。
という順序だけを考える必要はない。
大和側の王権自身が、
吉備。
東海。
北陸。
東国。
など、各地域の有力首長と関係を作りながら成長した可能性がある。
つまり、
地方首長が王権へ参加する過程と、王権そのものが広域化する過程は同時に進んだ
と考えることもできる。
八 これは「大和がすべてを与えた」というモデルではない
東国の首長が広域政治秩序へ参加することは、
大和から一方的に文化を与えられることではない。
東国側にも、
人口。
農業生産。
木材。
地域交通。
軍事力。
後には馬の生産を含む新たな能力。
がある。
つまり政治関係が成立すれば、
大和側だけが利益を得るわけではない。
双方が持つ異なる資源とネットワークを接続する
ことになる。
九 地方首長にとっても「参加する理由」がある
では、東国の首長はなぜ広域王権との関係を求めるのか。
可能性はいくつもある。
遠距離交易へ接続できる。
希少な物資を得られる。
新しい技術へ接続できる。
他地域の首長と関係を結べる。
婚姻関係を広げられる。
必要な場合には軍事的支援を受けられる。
もちろん、すべての地域が同じ理由で参加したとは限らない。
しかし、
王権への参加には地方側にも利益があり得た
という視点は必要である。
十 だから「服属」と「参加」の両方を見る
地方と王権の関係を、
すべて「服属」
と表現すると、一方向的になりすぎる。
戦争に敗れて従う場合もある。
しかし、
同盟。
婚姻。
贈答。
祭祀。
交易。
政治的な相互承認。
などによって関係が作られる場合も考えられる。
したがって初期王権の広がりを見るときには、
服属させられた地域
という側面と、
広域政治秩序へ参加した地域
という側面を併せて考える必要がある。
十一 ヤマトタケルの「平定」も、この複雑さを圧縮した可能性がある
『記紀』では、東国への王権拡大が英雄的な遠征として語られる。
しかし実際の政治関係が何世代にもわたって形成されたのだとすれば、
後世の物語はそれを、
ヤマトタケルが行った。
敵を平定した。
という簡潔な形へまとめることができる。
その場合、
英雄伝承は個々の出来事を正確に記録した年代記ではなく、
長期にわたる地域統合を、一人の人物へ圧縮した政治的記憶
ということになる。
十二 重要なのは「誰が勝ったか」だけではない
ここで本稿の問いは、
ヤマトタケルが本当にどこまで行ったのか。
何人の敵を倒したのか。
という問題から離れていく。
もっと重要なのは、
東国のどのような社会的能力が、
広域王権との関係によって新しい政治力へ変わったのか
である。
地域首長の動員力。
農業余剰。
交通網。
海上輸送。
人員。
これらが王権側のネットワークへ接続されれば、
王権の能力そのものが拡大する。
十三 東国統合とは「領土が増えること」以上の意味を持つ
一つの地域が王権と結ばれるたびに、
地図上の領域が広がるだけではない。
動かせる人口が増える。
利用できる交通路が増える。
食料生産基盤が増える。
協力できる首長が増える。
そして地域間を結ぶ情報網も広がる。
つまり東国統合とは、
列島に散在していた社会的能力を、より大きな政治ネットワークへ接続する過程
だった可能性がある。
十四 ここまで来ると、軍事力の見え方も変わる
もし広域王権が、
大和。
河内。
吉備。
九州。
尾張。
東海。
東国。
などの地域首長と、程度の差はあっても政治関係を結べるようになったとする。
すると王権は、
自らの中枢地域だけでは用意できない規模の人員・食料・船舶・物資を集められる可能性を持つ。
ここで、
前方後円墳によって見えていた首長ネットワークが、
別の意味を持ち始める。
政治ネットワークは、条件が整えば動員ネットワークにもなり得る。
十五 次に問うべきは「遠征を支えたのは誰か」である
ヤマトタケル伝承は、一人の英雄の物語として描かれている。
しかし実際に広域遠征を行うなら、
英雄一人では何もできない。
兵。
食料。
武器。
船。
道案内。
宿営地。
現地協力者。
それらすべてが必要になる。
では、その巨大な負担を誰が支えたのか。
次節では、
「一人の英雄は、どうやって列島を動けたのか」
という問いから、ヤマトタケル伝承を軍事英雄譚ではなく、王権の余剰力と広域動員能力の問題として読み直す。
第八節 「一人の英雄は、どうやって列島を動けたのか」――遠征を支える余剰力と広域動員
一 英雄だけを見ていると、遠征の実像を見失う
ヤマトタケル伝承では、一人の英雄の行動が物語の中心になる。
しかし現実の政治や軍事を考えるなら、
一人の強者がどれほど勇敢であっても、
それだけで遠距離遠征は成立しない。
戦う人間がいる。
食べさせる必要がある。
武器を用意する必要がある。
遠くまで移動させる必要がある。
そして生きて帰還させなければならない。
つまり遠征とは、
英雄個人の武勇ではなく、背後の社会が持つ組織力の問題
なのである。
二 遠征には「戦場にいない人々」が必要になる
仮に数百人、数千人規模の人員を遠方へ動かすとする。
必要になるのは兵だけではない。
食料を生産する人。
それを集める人。
運ぶ人。
武器や工具を作る工人。
船を使うなら造船者と水夫。
道を知る者。
宿営地を用意する者。
現地で交渉する者。
傷病者を支える者。
つまり遠征軍の背後には、
戦場へ行かない多数の人々の労働
が存在する。
三 だから軍事力は人口そのものではない
人口が多い。
だから強い。
とは単純には言えない。
農作業をしている人間を大量に兵へ回せば、
翌年の生産が落ちる可能性がある。
食料を軍へ集めすぎれば、
地域社会が維持できなくなる。
船を軍事へ使えば、
通常の漁撈や交易にも影響する。
したがって軍事力とは、
人口そのものではなく、
社会を維持しながら、どれだけの余力を軍事目的へ振り向けられるか
によって決まる。
四 ここで「余剰力」が再び中心になる
本稿で繰り返してきた余剰力とは、
余った米だけではない。
人。
時間。
食料。
木材。
金属。
技術。
船。
輸送力。
これらを、
日常生活を維持する最低限を超えて、
別の目的へ振り向けられる能力である。
遠距離遠征は、
この余剰力を最も厳しく試す事業の一つである。
だからこそ、
軍事遠征は社会の余剰力と物流力の総合試験
と見ることができる。
五 しかも遠くへ行くほど負担は増える
近隣地域との戦闘なら、
短期間で帰還できる場合もある。
しかし遠征距離が伸びれば、
必要な食料が増える。
輸送する人員が増える。
途中の補給地点が必要になる。
病気や負傷への対応も必要になる。
帰路も考えなければならない。
つまり、
距離が伸びるほど、戦闘力より補給力の重要性が高くなる。
六 大和だけで全部を準備する必要はない
ここで広域王権の意味が現れる。
仮に遠征に必要なすべてを大和周辺だけで準備するとすれば、
中枢地域への負担は極めて大きくなる。
しかし途中の地域首長と政治関係があれば事情は変わる。
ある地域から食料を得る。
別の地域で船を利用する。
途中の港を使う。
現地の首長から道案内を得る。
必要な人員を地域ごとに分担する。
このように、
複数地域の能力を組み合わせれば、王権中枢だけでは不可能な規模の活動が可能になる。
七 これが首長ネットワークの実際的な意味である
前方後円墳を通じて見えてきた広域的な首長関係を、
墓の形だけの問題にしてはいけない。
もしその関係が政治的にも機能していたなら、
首長同士のネットワークは、
人。
食料。
物資。
交通。
情報。
を動かす経路にもなり得る。
ただし、
同じ墓制を共有したから直ちに軍事動員が可能だった
と断定することはできない。
墳墓から直接確認できるのは、首長間に何らかの広域的な関係が存在した可能性である。
その関係が軍事へ利用されたかどうかは、別の史料と照合しなければならない。
八 王が全員へ直接命令する必要もない
広域王権と聞くと、
王が列島中の人々一人一人へ直接命令する姿を想像しやすい。
しかし初期王権では、そのような行政機構を前提にする必要はない。
王権と有力首長が結ばれる。
有力首長が地域首長と結ばれる。
地域首長が地域社会をまとめる。
このような重層的な関係があれば、
王権はすべての人間を直接把握しなくても、
広い範囲の社会的能力を間接的に動かすことができる。
九 だから地方首長の存続は、王権の弱さとは限らない
地方に強い首長が残っている。
これは一見すると、中央王権が弱いようにも見える。
しかし見方を変えれば、
地域社会を効率よくまとめられる首長が存在することは、
王権にとって利用可能な組織単位が存在することでもある。
地方首長を消してすべてを中央から管理するより、
既存の首長を政治関係へ組み込み、
必要なときに協力を得る方が、
初期段階では現実的である。
十 「統合」とは、人を均一化することではない
ここで本稿の王権像がさらに明確になる。
九州の首長は九州にいる。
出雲の首長は出雲にいる。
尾張の首長は尾張にいる。
東国の首長は東国にいる。
文化も同じではない。
墓制も完全には同じではない。
それでも、
必要なときに政治的に協力できる。
それが広がれば、
文化的に均質でなくても、広域王権は成立し得る。
十一 ヤマトタケル伝承の「遠征」を、この視点から読み直す
すると、
景行天皇が皇子を遠方へ派遣する。
ヤマトタケルが各地を移動する。
地域勢力と戦う。
あるいは関係を結ぶ。
という物語も、
一人の英雄だけの能力では説明できなくなる。
背後には、
王権が遠隔地へ人を送り、その活動を支えられる社会的基盤
が想定されている。
伝承がその基盤を具体的に説明しているわけではない。
しかし遠征という物語そのものが成立するためには、そのような支援構造が必要になる。
十二 王権の強さは「直接支配面積」だけでは測れない
ここで重要なのは、
どこまでを直轄地として持っていたか
だけではない。
どこまでの首長と関係を持っていたか。
どの港を利用できたか。
どの地域から物資を得られたか。
どこまで安全に使者を送れたか。
どこで人員を補充できたか。
つまり、
王権の実力は、政治関係を通じて利用できる社会資源の範囲
にも表れる。
十三 列島統合が進めば、軍事力の規模も変えられる
一地域だけの王権なら、
利用できる人口も食料も限られる。
しかし複数の地域首長が政治ネットワークへ参加すれば、
王権が利用できる資源の総量は大きくなる。
しかもすべてを一地域から出す必要がない。
負担を分散できる。
この仕組みが成立すれば、
それまで困難だった長距離遠征や大規模事業も現実性を増してくる。
つまり列島統合とは、
領土を増やすだけではなく、王権の動員可能量そのものを増やす過程
でもある。
十四 そして、この能力はやがて海の向こうへ向けられる
ここまで見れば、
ヤマトタケル伝承を第三部に置く意味が分かる。
海域社会から王権が生まれた。
王権が地域首長と結びついた。
その関係が西と東へ広がった。
各地域の余剰力を、より大きな政治目的へ振り向けられる可能性が生まれた。
すると次に、
その力を列島内部だけで使う必要はなくなる。
船を使えば、
海峡を越えることができる。
しかしその前に、もう一つ興味深い問題が残っている。
これほど広い範囲を動き、
大きな軍事的役割を担うヤマトタケルは、
なぜ王にはならないのか。
次節では、
「なぜ英雄と王が分かれているのか」
という問いから、王自身が戦う政治から、王権が別の軍事指揮者を派遣する政治への変化を検討する。
第九節 「なぜヤマトタケルは王にならないのか」――王と遠征者を分ける物語
一 これほどの英雄が、王位には就かない
ヤマトタケル伝承には、もう一つ不思議な特徴がある。
西方へ向かう。
東国へ向かう。
各地の勢力と戦う。
長距離を移動する。
王権の活動範囲を大きく広げる人物として描かれる。
それほど大きな役割を与えられながら、
ヤマトタケル自身は王にはならない。
遠征を重ねた末に、大和へ帰り着くことなく死を迎える。
なぜこれほど重要な英雄が、王統の頂点には置かれないのだろうか。
二 王と「王のために動く者」が分かれている
物語上、命令を出すのは景行天皇である。
ヤマトタケルは、
命じられて西へ向かう。
帰還すると、さらに東へ向かう。
つまり物語の構造としては、
王が政治中枢にあり、その命令を受けた王族が遠隔地へ動く
という形になっている。
これは神武伝承とはかなり異なる。
三 神武は自ら移動し、自ら政治中心を獲得する
神武伝承では、
始祖王自身が移動する。
戦う。
大和へ入る。
そして政治中心を得る。
王となる人物と、
遠征する人物が、
同じなのである。
しかしヤマトタケル伝承では違う。
すでに王がいる。
政治中心も存在する。
その王が、
別の人物を遠方へ向かわせる。
四 ここに王権組織の変化を考える余地がある
もしこの違いに何らかの古い政治的記憶が含まれているなら、
興味深い変化が見えてくる。
初期には、
首長自身が軍事行動を率いる。
王権が成長すると、
中枢にいる王と、遠征を担う人物を分けることができる。
もちろん、
これをそのまま三世紀・四世紀の軍制として復元することはできない。
しかし少なくとも物語上、
政治中枢と遠征活動が分離して描かれていることは確認できる。
五 これは「王が弱くなった」という意味ではない
王自身が戦場へ行かないことを、
王の軍事力が弱くなった
と見る必要はない。
むしろ組織が大きくなれば、
王自身がすべての仕事を行うことは難しくなる。
地方との交渉。
祭祀。
王統。
首長間関係。
物資の調整。
王には中枢で維持しなければならない役割が増える。
そこで、
遠隔地の活動を他者へ委ねられること自体が、組織能力の一つ
となる。
六 ただし「王権直属軍」が成立したとはまだ言えない
ここでも慎重でなければならない。
ヤマトタケルが王の命令で遠征する。
だから全国的な常備軍が存在した。
という話にはならない。
実際の初期王権では、
地方首長が兵力を提供した可能性。
王族や有力者が自らの従属集団を率いた可能性。
途中の地域勢力から協力を得た可能性。
など、さまざまな形を考える必要がある。
つまり、
王と遠征者の分化を、完成した中央軍制へ直結させてはならない。
七 重要なのは「王個人の軍」から「王権の軍事活動」への変化である
ここで見るべきなのは制度名ではない。
戦争の主体が、
一人の首長個人だけなのか。
それとも、
複数の首長や王族を動かす政治組織なのか。
という違いである。
王権が広域化すれば、
遠征する人物が変わっても、
政治中枢が継続できる。
これは、
軍事活動が特定の英雄個人から、より大きな王権組織へ帰属していく
可能性を考える上で重要である。
八 ヤマトタケルの功績は、最終的に王権の物語になる
ヤマトタケルは各地で戦う。
しかしその成果によって、
独立した別王国を作るわけではない。
物語上、その遠征は景行天皇の王権の活動として位置づけられる。
つまり、
英雄個人の成功が、
中央の王権が列島へ広がった物語
へ回収されている。
この構造そのものに意味がある。
九 一人の英雄へ複数の遠征記憶が集められた可能性もある
さらに別の可能性も考えられる。
ヤマトタケル伝承の活動範囲は非常に広い。
九州。
出雲。
東海。
相模。
東国。
信濃。
尾張。
伊勢。
これほど広い地域の物語が、
本当に一人の人物の一生だけに由来するとは限らない。
各地域に存在した別々の伝承。
複数時期の軍事活動。
王族や有力者の遠征。
地域首長との交渉。
それらが後に、
一人の英雄像へ集約された可能性
も考える必要がある。
十 むしろ複数の記憶が集約された方が、本稿の問いには重要である
本稿が探しているのは、
ヤマトタケル本人の正確な旅程
だけではない。
問題にしているのは、
王権が何世代にもわたって列島各地との政治関係を広げた過程
である。
もし複数時期・複数人物の経験がヤマトタケルへ集約されているのであれば、
この伝承は一人の軍歴ではなく、
王権拡張の長期的記憶を考える資料になり得る。
十一 英雄が死んでも、王権は残る
ここでも神武伝承との違いが際立つ。
始祖王が死ねば、
王統の継承そのものが問題になる。
しかしヤマトタケルは遠征途中で死ぬ。
それでも王権は終わらない。
これは物語上、
ヤマトタケル個人と王権そのものが別であることを示している。
英雄は死ぬ。
しかし政治中枢は存続する。
つまり、
個人の武勇を超えて存続する政治組織が前提とされた物語
なのである。
十二 これは「王権の持続性」という問題につながる
一人の強い首長だけで成立する政治体なら、
その人物が死ねば大きく揺らぐ。
しかし、
王統。
地方首長との関係。
祭祀。
物流。
婚姻。
政治中枢。
が制度的・慣習的に結びついていれば、
一人の遠征者が死んでも政治秩序は続く。
広域王権に必要なのは、
英雄が強いことではなく、英雄がいなくなっても動き続ける仕組み
である。
十三 ヤマトタケルは、形成途中の王権を映す人物なのか
ここまで見てくると、
ヤマトタケルを単なる征服英雄として置くより、
別の位置づけが見えてくる。
神武では、
王になる人物自身が政治中心を獲得する。
崇神では、
王が祭祀・地方・人・船へ働きかける。
ヤマトタケルでは、
その王権から別の人物が遠方へ送り出される。
この順序をそのまま年代史とはできない。
しかし伝承構造としては、
個人の首長権から、複数の人物を動かす広域王権へ
という変化と比較することができる。
十四 では、ヤマトタケル伝承全体から何が残るのか
ヤマトタケル本人が実在したとしても、
複数の人物の記憶が重なっていたとしても、
あるいは後世に大きく物語化された英雄であったとしても、
本章で確認してきた問題は残る。
なぜ西と東なのか。
なぜ尾張との婚姻があるのか。
なぜ海を渡るのか。
なぜ強い地域社会が舞台になるのか。
なぜ王ではなく、王から送り出される英雄なのか。
これらをまとめると、
伝承の背後には、
列島各地の首長社会を結びながら、王権の活動範囲が拡大していくという一貫した問題
が浮かび上がる。
次節では本章をまとめ、
「ヤマトタケルを史実化しなくても、列島統合史はどこまで描けるのか」
という問いから、神武・崇神・ヤマトタケルを一本の王権形成史として直接同定するのではなく、それぞれの伝承が示す政治構造の違いを整理する。
第十節 「ヤマトタケルを史実化しなくても何が見えるのか」――列島統合の記憶をどう読むか
一 この章の目的は、ヤマトタケルの実在証明ではない
ここまで見てきた内容から、最初に確認しておきたい。
本章の結論は、
「ヤマトタケルという一人の人物が、『記紀』に記されたとおり西日本から東国までを征服した」
というものではない。
現在の文献史料と考古資料だけから、そこまで断定することはできない。
『古事記』と『日本書紀』にも相違がある。
伝承成立までには長い時間がある。
複数の地域伝承が統合された可能性もある。
したがって人物の実在性と、物語が含む歴史的情報とは分けて考える必要がある。
二 しかし「物語だから何も分からない」と捨てる必要もない
反対に、
神話や英雄伝承だから歴史研究には使えない
としてしまうのも早い。
重要なのは、
物語の一つ一つを史実認定することではない。
なぜその地域が選ばれたのか。
なぜその順序なのか。
なぜ戦争だけでなく婚姻や祭祀が含まれるのか。
なぜ王ではなく皇子が遠征するのか。
そうした、
物語の構造
を考古学や他の史料と比較することである。
三 考古学から見ても、列島の政治関係は実際に広がっていく
古墳時代に入ると、
大和周辺だけではなく、
吉備。
山陰。
東海。
北陸。
東国。
九州。
など各地域に有力首長が存在する。
そして地域差を残しながら、前方後円墳をはじめとする広域的な墓制・威信財・技術・人的交流が展開していく。
これは、
一つの中央が完成した後に地方を一斉に征服した
という単純な姿ではない。
むしろ、
複数の地域首長社会が関係を結びながら、広域的な政治秩序が形成されていく
過程として見ることができる。
四 ヤマトタケル伝承の地理は、その問題と比較できる
ヤマトタケルの物語も、
西。
出雲。
尾張。
東海。
相模。
東国。
と、大和の外側にある有力地域を次々に舞台とする。
だからといって、
考古学上の政治変化とヤマトタケルの行程が完全に一致する
という意味ではない。
地域ごとに統合の時期は異なる。
墓制の変化も一様ではない。
しかし、
王権の政治的視野が列島の東西へ広がる
という点では、比較すべき構造が存在する。
五 重要なのは「征服」より「関係の形成」である
本章で見えてきたのは、
地方統合には一つの方法しかなかったわけではない
ということである。
戦争。
服属。
婚姻。
贈答。
祭祀。
交易。
交通路の共有。
地域首長との協力。
さまざまな方法があり得る。
したがって『記紀』にいう「平定」を、
すべて住民を排除し、土地を直接支配した出来事
と読む必要はない。
むしろ、
地方首長と王権との政治関係が再編された過程
が、後世の物語では「平定」としてまとめられた可能性を考えることができる。
六 列島統合は地方の力を消すことではなかった
ここは本稿全体にとって重要である。
九州が弱くなったから王権が強くなったのではない。
尾張が弱くなったからでもない。
東国が無力になったからでもない。
むしろ、
各地域が持つ、
人口。
農業生産。
海上交通。
工人。
軍事力。
木材。
港。
交易網。
といった能力を、
広域的な政治関係へ接続できるようになることで王権は強くなる。
つまり、
地方の力を消すのではなく、地方の力を王権の力へ転換する。
ここに初期王権の成長を見ることができる。
七 前方後円墳体制も、この視点から見直すことができる
前方後円墳は墓である。
それだけで軍事同盟を証明するものではない。
しかし各地域の有力首長が、
共通する葬送形式。
威信財。
技術。
人的交流。
を共有するようになることは、
地域を越えた首長間関係を考える重要な材料である。
その政治関係がさらに強まれば、
人や物を動かす経路として機能する可能性が生まれる。
つまり、
葬送のネットワークと政治・物流・軍事のネットワークが、部分的に重なっていく可能性
を検討できる。
八 ここで神武・崇神・ヤマトタケルの違いが見える
第三部で見てきた三つの伝承は、同じ話ではない。
神武伝承では、
大和という政治中心を獲得する過程が語られる。
崇神伝承では、
祭祀。
地方への働きかけ。
人々の負担。
船舶。
など、王権の作用範囲が広がる。
そしてヤマトタケル伝承では、
その王権の活動が列島の西と東へ展開する。
これは人物をそのまま歴史年代へ並べたものではない。
しかし伝承ごとに、
描かれている政治課題が異なることは重要である。
九 一本の「王朝史」に無理に変換する必要はない
ここで、
神武の次に欠史八代があり、
崇神がいて、
その後ヤマトタケルが実際に全国を統一した
という一直線の歴史を作ってしまえば、再び伝承をそのまま史実化することになる。
本稿が行うのは逆である。
考古学。
中国史料。
『記紀』。
それぞれを独立して確認したうえで、
どのような政治変化なら複数の資料群を矛盾少なく説明できるのか
を考える。
十 見えてくるのは「複数段階の王権形成」である
その結果として浮かび上がるのは、
地域首長社会。
海域ネットワーク。
首長間交流。
倭王。
政治中枢。
王統。
前方後円墳を共有する広域関係。
地方首長との政治的接続。
広域的な人・物の動員。
という、複数の段階である。
つまり、
列島規模の王権は、一人の征服者によって突然作られたのではない。
何世代にもわたる社会関係の再編によって形成されたと考える方がよい。
十一 その結果、王権が利用できる「余剰」の範囲が変わる
大和だけなら、
大和の人口と生産力しか使えない。
しかし吉備と結ばれる。
尾張と結ばれる。
九州と結ばれる。
東海・東国と結ばれる。
そうすれば、
王権が政治目的へ振り向けられる社会的能力の範囲そのものが広がる。
王権の成長とは、
領土面積だけの問題ではない。
動かせる人・食料・物資・技術・船・情報の範囲が拡大すること
なのである。
十二 そして列島統合は、海の向こうへの活動条件になる
ここで第一部からの流れが一つにつながる。
海を渡る技術があった。
交易路があった。
地域社会が成長した。
首長が現れた。
王が現れた。
王権が地域首長を結んだ。
その関係が列島規模へ広がる。
すると、
以前から存在した海洋技術を、
より大きな政治目的へ使用できるようになる。
交易者が海を渡るだけではない。
王権が、人・物・外交使節・軍事力を海の向こうへ送り出す条件
が整ってくる。
十三 ここで「海を渡る人」と「海を越えて政治する倭」が分かれる
縄文以来、人は海を渡っている。
弥生時代にも半島との交流がある。
半島南部には列島系遺物も存在する。
しかし、
人が渡ること。
交易者がいること。
工人が移動すること。
と、
王権が半島政治へ関与すること
は同じではない。
この境界を曖昧にすると、
古くから交流していたという事実が、
そのまま古くから国家支配していたという話へ変わってしまう。
十四 次に問うべきは「いつ交流が政治になったのか」である
列島内部の王権形成を追ってきたことで、
ようやく次の問いを立てる準備ができた。
倭人は古くから海を渡っていた。
しかし、
いつから倭は、
交易相手ではなく、
外交主体となったのか。
いつから、
半島の政治関係に関与する主体として現れるのか。
そして、
いつから軍事力を海の向こうへ動かせるようになるのか。
次章では、
「倭はいつ半島政治の主体になったのか」
という問いから、
海域交流。
鉄。
外交。
軍事。
を段階ごとに分け、
海を渡る社会が、海を越えて政治する王権へ変わる境界
を検討していく。
第十二章 「いつ交流は政治になったのか」――倭はいつ半島政治の主体になったのか
第一節 「海を渡る人」と「国家が海を越えること」は同じではない――交流と政治の境界
一 ここで、もう一度海の向こうを見る
前章まで、本稿は列島側の変化を追ってきた。
縄文以来の海上交流。
弥生時代の農業と鉄。
人口と余剰力の増大。
地域首長の成長。
複数地域を結ぶ政治関係。
纒向の形成。
前方後円墳の広がり。
そして列島の西と東へ伸びていく王権。
ここまで進んだところで、視線を再び朝鮮半島へ戻さなければならない。
なぜなら、その先には、
交易者として海を渡る人々とは性格の異なる「倭」
が現れてくるからである。
二 人は、国家よりはるか以前から海を渡っていた
列島と朝鮮半島南部の往来そのものは、四世紀になって突然始まったわけではない。
縄文・新石器時代から、
土器。
黒曜石。
貝製品。
などを通じた交流が確認される。
弥生時代になると、
海峡を越えた人と物の移動はさらに具体的になる。
つまり、
海を渡る能力そのものは、王権成立以前から存在していた。
三 しかし「人が渡った」ことと「倭が進出した」ことは違う
ここは古代史を考えるうえで重要な境界である。
半島南部から列島系土器が出土する。
列島由来の物資が見つかる。
列島と関係する技術が確認される。
それだけで、
「倭国がそこを支配していた」
とは言えない。
土器を持って行った交易者かもしれない。
船乗りかもしれない。
短期間滞在した人かもしれない。
現地で列島系の技術を学んだ人々かもしれない。
したがって、
考古資料から人の移動を考えることと、国家の政治的関与を論じることは分けなければならない。
四 「倭人」と「倭王権」も同じではない
中国史料に「倭人」が現れる場合にも注意が必要である。
「倭人」がいる。
だからその背後に常に大和を中心とする統一王権がある。
とは限らない。
列島には複数の政治集団が存在した時期が長い。
海峡地域の人々が独自に活動することもできる。
北部九州の首長が交易することもできる。
地域の交易集団が半島へ渡ることもできる。
つまり、
「倭人の活動」と「倭王の政策」は別の段階
なのである。
五 最初にあったのは、国家関係ではなく航路である
第一部で確認したように、
列島と半島南部を結んでいたのは、
最初から国家の外交路ではない。
海路がある。
島がある。
寄港地がある。
交易拠点がある。
船を扱う人々がいる。
交換相手がいる。
そこに長期間の往来が積み重なる。
つまり、
国家が海域交流を生み出したのではない。
国家より先に航路があり、
国家より先にその航路を利用する社会が存在した。
六 王権は、その既存ネットワークへ後から入ってくる
では王権形成によって何が変わるのか。
航路そのものをゼロから作る必要はない。
すでに、
海を知る人々がいる。
港がある。
対岸との人間関係がある。
交易の経験がある。
物資の流れがある。
王権が行うのは、
すでに存在していた海域ネットワークを政治目的へ利用できる形へ組み替えること
である。
ここでも、第二部以来見てきた「取り込み」の構造が現れる。
七 交易船と外交船は、同じ船でも意味が違う
たとえば船そのものを考えてみよう。
鉄を買い付けるために渡る船。
土器や商品を運ぶ船。
漁撈のために海へ出る船。
王の使者を乗せる船。
軍勢を運ぶ船。
船という技術は同じでも、
その目的は大きく異なる。
交易船が存在したからといって、
その時点ですでに国家外交が存在した
とは言えない。
重要なのは、
誰の意思で、何の目的で、人と物が海を越えたのか
である。
八 政治化の最初の兆候は「王の使者」である
海域交流が政治へ変わったかどうかを見るためには、
単なる遺物だけではなく、
王。
使者。
外交。
贈答。
軍事。
といった政治主体を確認する必要がある。
中国史料に倭王の遣使が現れることは、その意味で重要である。
ここでは、
個人商人が海を渡ったのではない。
王を名乗る政治主体が、自らを代表する使者を国外へ送り出している。
海上交通が政治行為へ利用されていることが明確になる。
九 それでも「外交」と「軍事」はまだ同じではない
しかし、
使者を送れる。
だから軍隊も送れる。
とは限らない。
外交使節なら、数十人あるいはそれ以下の集団でも成立し得る。
必要な船も物資も限られる。
一方、軍事活動になると、
兵。
武器。
大量の食料。
複数の船。
補給。
現地での協力関係。
が必要になる。
したがって、
交易 → 外交 → 軍事
の間には、それぞれ大きな社会的能力の差がある。
十 ここで列島内部の統合が意味を持つ
なぜ前章まで、これほど長く列島側の王権形成を追ってきたのか。
理由はここにある。
半島へ軍事的に関与する倭を理解するためには、
その倭が、
どこから兵を出したのか。
どこから船を出したのか。
誰が食料を負担したのか。
どの首長が協力したのか。
を考えなければならない。
つまり対外軍事力とは、
列島内部で形成された広域動員力の外向きの表現
でもある。
十一 「昔から交流していた」から「昔から支配していた」にはならない
ここは本章全体の重要な原則である。
列島と半島の交流が非常に古い。
これは事実である。
しかし、
交流が古い。
だから倭国の政治支配も古い。
という論理は成立しない。
交流。
滞在。
交易。
技術移動。
婚姻。
外交。
軍事。
政治的支配。
これらは、
それぞれ別の強度を持つ関係
として区別しなければならない。
十二 反対に「国家がなければ何も起こらなかった」わけでもない
同時に逆方向の誤りにも注意したい。
国家的支配の証拠がない。
だから列島人は半島南部へほとんど行っていなかった。
とも言えない。
国家より先に、
交易者。
航海者。
工人。
一時滞在者。
などが海を渡ることは十分可能である。
つまり古代の海域世界には、
国家に回収されない人の移動
が存在した。
この層を無視してはならない。
十三 問うべきは「いつ、誰が海を政治化したのか」である
ここで本章の問いが明確になる。
海を渡った最初の人は誰か。
ではない。
列島系土器が一番早くどこに現れたか。
だけでもない。
本当に知りたいのは、
いつから海上ネットワークが、王権の外交・軍事・政治目的へ利用されるようになったのか。
そして、
その転換を可能にした列島内部の社会構造は何だったのか。
である。
十四 その鍵の一つが「鉄」である
海域交流が政治化していく過程を追ううえで、
まず見なければならない資源がある。
鉄である。
『三国志』魏書東夷伝には、
半島南部の弁辰で鉄が産出し、
韓・濊・倭などがこれを得ていたことが記される。
ここにはすでに、
倭が半島南部の重要資源流通へ参加していた姿がある。
しかし、この段階の倭を、
後の半島軍事活動を行う倭王権とそのまま同一視することはできない。
次節では、
「なぜ鉄は倭人を半島へ向かわせたのか」
という問いから、交易資源としての鉄が、列島の生産力と王権形成をどのように支えたのかを検討する。
第二節 「なぜ鉄は倭人を半島へ向かわせたのか」――交易資源が政治課題へ変わるとき
一 海を越えるには、それだけの理由が必要である
海上交易には大きな負担がかかる。
船を造る。
乗員を集める。
食料と水を準備する。
風と潮を読む。
寄港地を確保する。
そして事故や遭難の危険を引き受ける。
それでも繰り返し海を渡るのであれば、
対岸には、その負担に見合う価値がなければならない。
弥生時代の列島社会にとって、その重要な資源の一つが、
鉄
であった。
二 中国史料にも「倭が鉄を求めた」ことが記される
『三国志』魏書東夷伝の弁辰に関する記事には、当地で鉄が産出し、
韓。
濊。
倭。
などがこれを得ていたことが記されている。
さらに鉄は交易にも用いられ、楽浪・帯方二郡へも供給されたとされる。
ここで重要なのは、
倭が単に半島文化の影響を受けていた
ということではない。
中国史料の認識では、
倭もまた半島南部の鉄流通に関わる主体の一つとして存在していた
のである。
三 ただし「倭が鉄を取った」を国家貿易とは読まない
ここでも証拠の段階を守らなければならない。
史料に「倭」とあるからといって、
大和の王が国家政策として鉄の輸入を管理していた
とは限らない。
北部九州の政治勢力かもしれない。
海峡地域の交易集団かもしれない。
複数の倭系集団がそれぞれ鉄を求めていた可能性もある。
また、
どの程度の量が、
どのような交換方法で、
誰によって運ばれたのか
まで、この記述だけから復元することはできない。
したがってここで確認できるのは、
列島側の人々が半島南部の鉄流通圏へ継続的に関与していた
という段階までである。
四 鉄は、普通の商品とは性格が違う
では、なぜ鉄がこれほど重要なのか。
鉄は装飾品だけではない。
農具になる。
木工具になる。
武器になる。
土木作業にも使える。
船そのものを鉄で造るわけではないが、
木を伐る。
削る。
穴をあける。
部材を加工する。
といった造船・補修の作業にも鉄製工具は関わる。
つまり鉄は、
一つの用途に消費される商品ではなく、社会のさまざまな生産活動を支える基礎的な資源
なのである。
五 鉄を得ることは、さらに多くのものを生み出す
鉄製工具が広がれば、
木工の効率が変わる。
農耕作業にも影響する。
建築にも使える。
土木作業にも使える。
船づくりにも関係する。
もちろん、
鉄を輸入したから直ちに農業生産が何倍にもなった
という単純な因果関係を置くことはできない。
鉄の加工技術。
分配。
用途。
社会ごとの受容。
も考えなければならない。
それでも、
鉄を安定して得られる社会と、得られない社会では、生産技術を発展させる条件に違いが生じる
ことは理解できる。
六 ここに「鉄と余剰」の循環が生まれる
鉄を得る。
工具として利用する。
農業。
木工。
建築。
土木。
船舶。
などの生産活動へ投入する。
社会の生産能力が高まれば、
交易に振り向けられる物資や人員も増やしやすくなる。
そして、その余力を使って再び海を渡る。
つまり一つの可能性として、
半島の鉄
→ 列島での生産活動
→ 社会的余力の増大
→ さらなる遠距離交易
という循環を考えることができる。
ここで第一部の海域交流と、第二部で見てきた余剰力がつながる。
七 問題は「鉄があるか」から「誰が鉄へアクセスできるか」へ変わる
交易量が小さい段階なら、
個々の交易者や地域首長が鉄を得るだけでもよい。
しかし鉄への依存度が高まれば、状況は変わる。
どの航路を使えるのか。
誰と交換できるのか。
どの港へ入れるのか。
誰が入手した鉄を分配するのか。
こうしたことが重要になる。
つまり鉄の価値が高まるほど、
鉄そのものだけでなく、鉄へ至る経路の価値も高くなる。
八 交易路を維持するには、人間関係を維持しなければならない
船を一度送るだけなら、偶発的な交易でも成立するかもしれない。
しかし毎年のように往来する。
同じ港を使う。
一定量の鉄を確保する。
となれば、
対岸の人々との継続的な関係が必要になる。
交易相手を知る。
言葉を仲介する人がいる。
贈答を行う。
約束を守る。
争いを処理する。
つまり、
安定した交易は、経済だけでは成立しない。
そこには社会的・政治的な関係が必要になる。
九 ここから「交易の政治化」が始まる
鉄の需要が大きくなる。
航路を維持する必要がある。
港を確保する必要がある。
半島側の有力者と関係を持つ必要がある。
交易を妨げる紛争にも対応しなければならない。
すると、
交易路の安定そのものが、
首長にとって重要な課題になる。
ただし、
交易が拡大すれば必然的に国家が生まれる
という意味ではない。
そうではなく、
継続的な交易を維持するほど、首長層による交渉・保護・分配の重要性が高まる
ということである。
十 鉄を分配できる首長には、新しい力が生まれる
鉄を得た首長が、
すべて自分で使用するとは考えにくい。
工人へ渡す。
農具へ加工する。
武器へ加工する。
他の首長へ贈る。
交易品として再分配する。
もし特定の首長が鉄の入手経路へ強く関与できれば、
その首長は、
希少資源を分配する位置
を得ることになる。
そのことがどの程度まで政治的権威につながったのかは地域ごとに検討が必要である。
しかし、
資源の入手と分配が首長間関係へ影響し得ることは重要である。
十一 海の向こうの首長も、同じように主体である
ここで列島側だけを見てはいけない。
半島南部にも首長がいる。
鉄を生産・流通させる地域社会がある。
港を管理する勢力がある。
倭側が一方的に鉄を取りに行けば成立する関係ではない。
半島側にも、
倭との交易を行う理由がある。
交換によって得る物資がある。
海上ネットワークへ接続する利益がある。
つまり鉄交易とは、
列島側の一方的な資源獲得ではなく、複数の地域社会が利益を持って参加する海域関係
として考える必要がある。
十二 ここで海域社会は、少しずつ首長外交へ近づく
最初は、
交易者同士が会う。
物を交換する。
一定期間滞在する。
しかし交易規模が大きくなり、
重要資源を扱うようになれば、
地域の有力者が無関係ではいられなくなる。
誰に交易を認めるのか。
誰が物資を受け取るのか。
誰が安全を保証するのか。
誰が交換相手になるのか。
こうして、
人と物の交流の上に、首長同士の関係が重なっていく可能性
が生まれる。
十三 だが、まだ「倭王権の半島支配」ではない
ここまで来ても、線を越えてはいけない。
鉄交易がある。
首長が関与する。
倭人が半島南部へ渡る。
だから、
倭王権が半島南部を支配していた
とはならない。
交易相手と政治的支配者は違う。
港を利用することと領土を持つことも違う。
首長同士が関係を持つことと、一方が他方へ主権を及ぼすことも違う。
本稿では、
交易の政治化と、政治的支配を明確に分ける。
十四 次に見るべきは「鉄を求めた人々が、そこで生活していたのか」である
ここまで確認できたのは、
倭が半島南部の鉄流通へ関与していたこと。
そして、その交易が首長層の政治関係へ発展し得る条件を持っていたことである。
しかしさらに一段強い証拠がある。
交易品だけではない。
半島南部から、
列島系の生活文化を示す資料
が出てくる。
これは、
船が来た
というだけではなく、
人がそこで一定期間生活した可能性を考えさせる。
次節では、
「土器があることと、人が住んだことはどこまで違うのか」
という問いから、半島南部の倭系土器を証拠の強さごとに整理し、交易者・滞在者・政治勢力を一足飛びに結びつけないための基準を確認する。
第三節 「土器がある」から「人が暮らした」へ――倭系遺物はどこまで人の移動を語れるのか
一 土器一個から「倭人の集落」を作ってはいけない
朝鮮半島南部から、列島の弥生土器・土師器と共通する特徴を持つ土器が出土する。
これは重要な資料である。
しかし、
列島系土器が一個出た。
だから倭人がそこに住んでいた。
まして、
倭王権の拠点があった。
と進めることはできない。
最初に確認できるのは、
列島と関係する物が、その場所まで移動した
という事実である。
二 「物が移動した」のか「人が移動した」のかを分ける
土器は人が持って移動する。
しかし、持ってきた人物がその土器を作った人とは限らない。
交易品を入れた容器だったかもしれない。
贈答品として運ばれた可能性もある。
別の場所を経由して入った可能性もある。
つまり、
土器の移動と人間集団の移住は同じ証拠ではない。
この区別が、半島南部の倭系遺物を考える出発点になる。
三 一個より複数、特殊品より生活用品の方が意味は大きくなる
証拠の強さは、出土状況によって変わる。
単独の土器。
複数の土器。
同じ時期にまとまって出る生活用土器。
住居や生活空間と結びつく土器。
この順に資料が重なれば、
単なる物資移動だけでは説明しにくくなる。
特に、
煮炊き。
貯蔵。
食事。
など日常生活に使う器がまとまって存在するなら、
列島系の生活習慣を持つ人物が一定期間そこに滞在した可能性
を検討できるようになる。
四 さらに重要なのが「どこで作られた土器なのか」である
列島から完成品として持ち込まれた土器と、
半島側の材料を使って列島系の技法・形態で作られた土器では、
意味が違う。
前者なら、
物が海を渡った
という説明がまず成立する。
しかし後者なら、
その技術を知る人物が現地にいた。
あるいは、
現地の製作者が列島系の製作技術を学んだ。
という可能性が出てくる。
ここでは、
物の移動から、技術あるいは人の移動へ証拠の性格が一段変わる。
五 それでも製作者の「民族」は土器だけでは分からない
ここにも重要な注意点がある。
列島系の方法で土器を作った。
だから製作者は必ず列島生まれの「倭人」である。
とは限らない。
現地の工人が技法を学んだ可能性もある。
両地域を行き来する人物かもしれない。
複数文化の中で生活していた人かもしれない。
そもそも古代の人間を、現代国家の民族区分へそのまま当てはめること自体が危険である。
したがって本稿では、
「倭系土器」という考古学的分類と、その使用者・製作者の出自を分けて考える。
六 三世紀後半になると、証拠の組み合わせが変わってくる
半島南部では、三世紀後半から四世紀にかけて、
列島系の生活用土器を含む資料が確認される。
高久健二らの研究では、
こうした倭系遺物の出土状況から、
列島と関係する人々が半島南部で一定期間生活した可能性が論じられている。
ここで重要なのは、
「倭の物があった」
から、
「列島系の生活文化を持つ人物が現地で活動した可能性」
へ議論を進められる資料が現れることである。
七 しかし「滞在」と「移住」は分けなければならない
一定期間そこで生活した人物がいたとしても、
永久移住とは限らない。
交易のため数週間滞在する。
季節をまたいで数か月滞在する。
船の出航時期を待つ。
鉄の取引が終わるまで滞在する。
工人として一定期間働く。
何度も往復する。
こうした行動でも、生活用土器は残り得る。
したがって、
短期滞在・季節滞在・反復的滞在・長期居住・世代を越えた定住
を一つにまとめて「移民」と呼ぶべきではない。
八 むしろ「行って帰る人々」がいた可能性が重要である
現代の国境感覚では、
住む。
帰る。
の二択で考えやすい。
しかし古代の海域社会では、
列島にも生活基盤がある。
半島側にも活動拠点がある。
必要に応じて往復する。
という人々がいても不思議ではない。
交易者。
船員。
工人。
通訳。
仲介者。
こうした人々にとって、
海の両側に生活圏を持つこと
自体が活動の一部だった可能性がある。
九 なぜ海岸部の資料が重要なのか
倭系遺物の分布を見ると、
半島南部の海岸部や海上交通と関係する地域が重要になる。
これは地理的にも理解しやすい。
船が着く。
荷を下ろす。
交易相手と交渉する。
鉄を受け取る。
船を修理する。
天候を待つ。
帰りの食料と水を準備する。
こうした活動には、
港に近い滞在拠点
が必要になる。
十 港には「外国人街」があった、とまで言えるのか
ここでも言葉を先走らせてはいけない。
列島系土器がまとまっている。
だから倭人街があった。
倭の植民都市があった。
とは言えない。
必要なのは、
住居構造。
食生活。
土器組成。
生産痕跡。
埋葬。
長期間の層位。
地域内での分布。
など、複数種類の証拠である。
現段階でより慎重に表現するなら、
海岸部に、列島と深く関係する人物が一定期間活動する場所が存在した可能性
である。
十一 ここで「交易者」と「政治使節」を混同しない
さらに、
列島から来た人が現地に住んでいた。
だから王の使者だった。
とも言えない。
民間的な交易者かもしれない。
地域首長に属する人物かもしれない。
工人かもしれない。
海運を担う集団かもしれない。
王権と関係する人物だった可能性も排除できないが、
土器だけでは決められない。
つまり、
人の存在が確認できても、その政治的所属は別問題
なのである。
十二 では、何が出れば「政治性」は強くなるのか
ここで証拠を一段ずつ並べてみる。
列島系の物がある。
列島系の生活用品がまとまる。
現地製作の列島系土器がある。
人の一定期間の滞在が考えられる。
ここまでは主として生活・交易の証拠である。
そこへ、
上位首長墓に入る特別な遺物。
首長間の贈答と考えられる威信財。
王名や政治主体を示す銘文。
外交記事。
軍事記事。
が加わって初めて、
交流が政治レベルへ上がったことを論じやすくなる。
本稿は、この順序を崩さない。
十三 人の滞在は、それでも大きな転換である
政治支配を証明しないからといって、
半島南部に列島系の生活文化を持つ人々が滞在していた可能性を軽く見るべきではない。
これは、
船が着いて物だけを交換して帰る
という関係より深い。
現地の人と接触する。
情報を得る。
言葉を覚える。
交易相手との信頼関係を築く。
技術を交換する。
場合によっては婚姻や長期的な人的関係も生まれ得る。
つまり、
継続的な人の滞在は、後の外交関係を成立させる社会的基盤になり得る。
十四 国家外交の前に「現地を知る人」がいた
王が突然、
未知の半島へ使節を送った
と考える必要はない。
その以前から、
航路を知る人がいる。
港を知る人がいる。
現地の首長を知る人がいる。
言葉や慣習を知る仲介者がいる。
鉄をどこで得られるか知る人がいる。
王権が半島外交へ乗り出すとき、
利用できるのは、
何世代にもわたる海域交流の中で蓄積された人的ネットワーク
だったと考えることができる。
十五 次に見るべきは「なぜ南岸に人が集まったのか」である
ここまでで、
物が海を渡る段階。
人が渡る段階。
一定期間滞在する段階。
を分けることができた。
次の問題は、その人々がどこに集まったのかである。
半島南部の海岸。
港。
河口。
そして鉄と海上交易を結ぶ地域。
そこには、
単なる寄港地を超えた海域社会が形成されていく。
次節では、
「なぜ半島南岸に倭系の人々が集まったのか」
という問いから、港湾社会を、近代的な国境では説明できない多地域交流の場として検討する。
第四節 「なぜ半島南岸に倭系の人々が集まったのか」――港がつくった海域社会
一 人の移動を見るなら、まず「どこに集まったか」を見る
前節では、
物が移動した段階。
人が一定期間滞在した可能性が見える段階。
を分けて考えた。
では、その人々は半島南部のどこで活動していたのだろうか。
重要になるのが、
南岸部の港湾・沿岸地域
である。
倭系遺物は半島全体へ均等に広がるわけではない。
海上交通と結びつきやすい南岸部で目立つ。
この偏りそのものが、交流の性格を考える手掛かりになる。
二 海を渡ってきた人は、まず港へ着く
これは単純だが重要である。
列島から船が来る。
荷を降ろす。
交換相手と交渉する。
食料と水を補給する。
船を修理する。
帰路の風や潮を待つ。
場合によっては、鉄や交易品が集まるまで滞在する。
すると港周辺には、
短期滞在では済まない人々の生活空間
が必要になる。
三 港は「船着場」だけでは機能しない
継続的な海上交易を支えるには、
船を着ける場所だけでは足りない。
荷を一時的に保管する場所。
人が休む場所。
食料を調達する場所。
修理を行う場所。
取引を仲介する人。
言葉や慣習を知る人。
現地首長との交渉窓口。
こうした機能が必要になる。
つまり港とは、
海と陸の物流、人間関係、情報が交わる結節点
なのである。
四 そこで暮らす人々は、一種類ではない
港湾社会を、
「倭人の町」
のように単純化してはいけない。
そこには、
列島から来た交易者。
航海者。
工人。
現地住民。
鉄や物資を運ぶ内陸側の人々。
地域首長に属する仲介者。
さらに別地域から来た交易者。
などが集まる可能性がある。
つまり、
港湾社会は一つの出自だけで構成されるとは限らない。
五 近代の国境線で古代の港を考えると見えにくくなる
現代であれば、
日本から韓国へ行く。
外国人が滞在する。
という国家単位の見方をしやすい。
しかし三~四世紀の海域世界に、現在と同じ国境制度があったわけではない。
列島側にも複数の政治勢力がある。
半島南部にも複数の国・首長社会がある。
海峡地域そのものにも独自の人的ネットワークがある。
したがって当時の港は、
国家と国家の境界というより、複数地域をつなぐ接触地帯
として見る必要がある。
六 「海域社会が国家より古い」という意味がここで再び現れる
第一部で見たように、
海路は百済や新羅や倭王権が完成してから作られたものではない。
そのはるか以前から、人は海を利用していた。
だから国家が形成された後も、
既存の港。
既存の航海者。
既存の交易関係。
既存の仲介者。
を利用することになる。
つまり、
国家間外交は、すでに存在していた海域社会の上に築かれる。
七 なぜ内陸ではなく南岸なのか
列島との交流を目的とするなら、
まず海へ近い方が有利である。
列島側から到達しやすい。
船を置ける。
帰航しやすい。
物資を一時集積できる。
さらに河川交通と結びつけば、
内陸側の資源を港まで運ぶこともできる。
したがって南岸の港湾地域は、
列島と半島内部を結ぶ中継点
として重要になる。
八 その中でも金海が重要になる
四世紀の半島南部を考えると、
金海地域は特に重要である。
洛東江河口に近く、
海上交通と内陸交通を結ぶ位置にある。
さらに後の金官加耶につながる有力地域でもあり、
鉄と交易の双方を考える上で重要な場所である。
倭側から見れば、
金海方面との関係は、
鉄・港・内陸交通を一度に結ぶ可能性を持つ
ことになる。
九 金海は「倭のための港」ではない
ただし、ここも列島側だけから見てはいけない。
金海の政治勢力は、
倭のために存在したのではない。
半島内部との関係。
中国系物資への接続。
周辺諸国との競争。
鉄の生産・流通。
海上交易。
など、金海側にも独自の政治的・経済的利害がある。
したがって、
倭が金海を利用したというより、双方が利益を持って関係を形成した
と考える方がよい。
十 ここで生活用品とは違う種類の資料が現れる
金海の大成洞古墳群などを見ると、
日常生活に関わる倭系土器だけではなく、
上位首長の墓に列島との関係を示す遺物が入る例が確認される。
これは証拠の性格が変わる。
生活用土器なら、
交易者や滞在者の存在を考えやすい。
しかし首長墓に入る特別な遺物となれば、
地域上層者同士の関係
を考える材料になる。
十一 ここで交流の「階層」が一つ上がる
人が港で暮らしている。
これは人的交流である。
しかし、
現地の上位首長が列島との関係を示す物を受け取る。
あるいは交換する。
となれば、
交易者だけではなく首長層が関与していた可能性が高くなる。
つまり、
人と物の交流
から
首長間関係へ
交流の階層が変わり始める。
十二 ただし「首長間関係=国家外交」でもない
ここでも一段飛ばしてはいけない。
金海の有力首長が列島の首長と関係を持つ。
それは重要である。
しかし、
その相手が必ず大和の最高王だった
とは限らない。
北部九州の首長。
瀬戸内の首長。
あるいは複数の列島勢力。
が関わっていた可能性もある。
したがって、
首長間外交と倭王権外交も、なお区別しなければならない。
十三 それでも三~四世紀には、交流の質が変わっている
ここまでを並べると、
古い段階では、
人が海を渡る。
物を交換する。
という関係が中心だった。
それが次第に、
一定期間滞在する。
港湾社会へ参加する。
鉄流通へ継続的に関わる。
地域首長同士が接触する。
という関係へ深まっていく。
つまり、
海域交流が社会関係から政治関係へ近づいていく過程
が見えてくる。
十四 そして列島側でも、同じ時期に大きな変化が起きている
ここで第三部前半と時間を重ねてみる。
三世紀後半から四世紀にかけて、
半島南部では、
列島系の人々の滞在。
鉄交易。
首長間交流。
が深まる。
一方、列島側では、
纒向。
巨大前方後円墳。
広域的な首長関係。
王権形成。
が進んでいく。
この二つを直接因果関係として決めつけることはできない。
しかし、
列島内部の王権組織化と、半島交流の政治化が同時期に進行する
ことは重要である。
十五 国内王権形成と海外交流は、互いに強め合った可能性がある
列島の政治統合が進めば、
より大きな船団を動かせる。
多くの交易品を集められる。
外交使節を送りやすくなる。
一方で半島から、
鉄。
技術。
威信財。
情報。
を得れば、
王権の政治的・経済的基盤も強くなる。
つまり、
国内王権形成
と
半島交流の政治化
は、別々に進んだだけではなく、
互いを強め合う関係にあった可能性を検討できる。
十六 次に問うべきは「なぜ王権まで関与するようになったのか」である
交易者だけで済むなら、
王が出てくる必要はない。
それでもやがて、
首長が関与する。
さらに王権同士が外交する。
なぜそこまで政治化したのか。
その理由を、
単純な「領土拡張欲」だけに求めると、
それ以前の長い交易史が見えなくなる。
次節では、
「なぜ交易路が王権の問題になったのか」
という問いから、
鉄・港・技術・航路を守ることが、どのように外交と軍事へつながっていったのかを検討する。
第五節 「なぜ交易路が王権の問題になったのか」――鉄・港・航路を守る政治
一 交易が続くだけなら、王は必要ない
小規模な交易であれば、
交易者同士が物を交換する。
航海者が港を往復する。
地域首長がそれぞれ対応する。
それだけでも成立し得る。
しかし、交易する物が重要になるほど事情は変わる。
鉄。
技術。
工人。
希少な威信財。
政治情報。
これらへの依存が大きくなれば、
交易路が途絶えること自体が政治問題
になってくる。
二 王権にとって重要なのは「商品」だけではない
鉄が欲しい。
それだけなら、一度買えばよい。
しかし王権が必要とするのは、
来年も入る。
その次の年も入る。
必要なときに入手できる。
という継続性である。
そのためには、
航路が使える。
港へ入れる。
取引相手が存在する。
途中の政治情勢が安定している。
という条件が必要になる。
つまり重要なのは、
商品そのものだけでなく、商品が届く仕組みを維持すること
なのである。
三 港を誰が握るかによって交易条件は変わる
古代の海上交易には、必ず陸側の政治勢力が関わる。
港がある。
しかし、その港を利用できるかどうかは、
地域首長との関係によって左右される可能性がある。
友好的な首長なら交易できる。
敵対すれば入港できなくなるかもしれない。
別の勢力が港を掌握すれば、取引条件が変わる可能性もある。
したがって、
港を支配する勢力の政治的変化は、海の向こうの出来事では済まない。
四 交易の安定には「友好的な相手」が必要になる
ここから経済と政治が重なり始める。
継続的な交易を行うためには、
現地首長との関係を維持する。
贈答する。
使者を送る。
相手の政変を把握する。
必要なら関係を結び直す。
といった行動が必要になる。
つまり、
交易相手との関係そのものを維持することが外交になる。
この段階では、まだ相手国を支配する必要はない。
五 倭王権が必要としたのは、まず「領土」だったのか
後世の国家観から見ると、
海外へ政治的に関与する。
軍事力を送る。
となれば、
領土を奪うためだった
と考えやすい。
しかし四世紀の海域世界では、最初からその説明を置く必要はない。
倭側にとって重要だった可能性があるのは、
鉄へのアクセス。
港湾利用。
航路の維持。
交易相手との関係。
技術・工人との接続。
東アジアの政治情報。
である。
つまり、
土地そのものを所有することより、海域ネットワークへ継続的に接続できること
の方が重要だった可能性がある。
六 ここで「海域秩序」という考え方が必要になる
本稿では、この状態を、
海域秩序
という分析上の言葉で考える。
港と港がつながる。
交易者が移動する。
地域首長同士が関係する。
さらに王権同士が外交関係を結ぶ。
その関係が維持されることで、
人。
物。
情報。
技術。
が流れ続ける。
これは、近代国家のように国境線内部を全面的に直接支配する秩序とは異なる。
七 すべての土地を支配しなくても、海域秩序は維持できる
海上交易を守るために、
半島南部すべてを倭王権の直轄地へする必要はない。
友好的な港湾勢力が存在する。
交易路を利用できる。
相手の王や首長と関係を維持できる。
これだけでも、海域ネットワークは機能する。
むしろ遠隔地を直接統治するには、
官人。
兵。
食料。
通信。
常駐拠点。
など大きな負担が必要になる。
初期王権にとっては、
現地勢力との協力関係を維持する方が、はるかに小さな負担で海上利益を確保できた可能性
がある。
八 ただし「友好的だった」と先に決めてもいけない
ここにも注意が必要である。
加耶諸国は倭のために存在したわけではない。
百済も同じである。
それぞれ自らの利益がある。
半島側の政治勢力も、
鉄を売る。
列島系物資を得る。
海上交通へ接続する。
軍事協力を得る。
他勢力との競争で有利になる。
など、それぞれの理由で倭と関係を結んだ可能性がある。
したがって、
倭が一方的に相手を利用した関係ではなく、利害が重なるときに成立する政治関係
として考えなければならない。
九 問題は、半島情勢が不安定になったときである
交易相手同士が安定している間は、
経済関係だけで済むこともある。
しかし、
港をめぐって争いが起こる。
王位継承が揺れる。
隣国から軍事圧力を受ける。
交易相手が敵対勢力に吸収される。
となれば、倭側の利益にも影響する。
このとき初めて、
「交易を守るために政治へ関与する」
という選択肢が現実性を持つ。
十 経済関係は、条件次第で外交関係へ変わる
鉄を得る。
航路を使う。
港を利用する。
その関係を安定させる。
ここまでは交易である。
しかし相手の政治的安定が交易の条件になると、
王権は、
使者を送る。
贈答する。
同盟的な関係を結ぶ。
特定の政治勢力を支援する。
という方向へ進み得る。
つまり、
交易力
から
外交力へ
関係の性格が変わる。
十一 さらに外交関係が危機にさらされれば、軍事が選択肢に入る
友好的な首長や王が危機に陥る。
航路が脅かされる。
重要な港が敵対勢力の影響下へ入る。
そのとき王権が利益を守ろうとすれば、
外交だけでは足りない場合がある。
そこで軍事支援が選択肢になる。
ただし、
交易があれば必ず軍事介入へ進む
という意味ではない。
軍事行動には大きな費用がかかる。
政治的利益と負担を比較して、それでも介入する理由がある場合にのみ成立する。
十二 その軍事力は、列島内部の余剰力から生まれる
ここで前章の議論が戻ってくる。
兵を送る。
船を出す。
武器を用意する。
食料を積む。
これらには列島内部の社会的余力が必要である。
つまり、
半島側の政治情勢だけを見ても、
倭の軍事活動は説明できない。
列島内部で、
首長間ネットワーク。
物流。
人口。
生産力。
海上交通。
がどこまで政治的に結ばれていたのか。
この条件が揃わなければ、
海外への軍事介入は継続できない。
十三 国内統合と海外政治は、互いに強め合う可能性がある
国内王権が強くなる。
より大きな交易を組織できる。
外交関係を持てる。
海外から鉄や技術を得る。
それによって国内の生産力や首長間関係がさらに強化される。
そして、より大きな対外活動が可能になる。
つまり一つの可能性として、
国内王権形成
→ 海外交易の組織化
→ 鉄・技術・情報の獲得
→ 王権のさらなる成長
という循環を考えることができる。
ただし、これは単一原因による必然的発展ではない。
複数の条件が相互に作用するモデルである。
十四 そして四世紀になると、相手も「王権」へ変わる
ここまでは、
交易者。
港湾社会。
地域首長。
を中心に見てきた。
しかし四世紀になると、半島側の政治構造そのものが変化していく。
百済。
新羅。
加耶諸国。
そして北方の高句麗。
より大きな政治勢力が競合するようになる。
倭が対峙する相手も、
単なる交易港の首長だけではなくなる。
王権と王権が関係を結ぶ時代
へ入っていくのである。
十五 次に現れるのは「物」ではなく「王と王」の関係である
交流の証拠は、
土器。
鉄。
生活用品。
首長墓の遺物。
と少しずつ政治性を強めてきた。
その先に現れるのが、
王権レベルの外交を考えさせる資料である。
その重要な一例が、
石上神宮に伝わる七支刀である。
次節では、
「なぜ一本の刀が、交易とは違う証拠になるのか」
という問いから、四世紀後半に百済と倭の関係が王権外交として姿を現し始める過程を検討する。
第六節 「なぜ一本の刀が外交史料になるのか」――七支刀に現れた王権と王権の関係
一 ここで証拠の性格が大きく変わる
これまで見てきた半島交流の資料は、
土器。
鉄。
生活用品。
港湾遺跡。
首長墓の副葬品。
などであった。
そこから、
物が動いた。
人が動いた。
一定期間滞在した。
首長層が交流した。
という段階を考えてきた。
しかし四世紀後半になると、それまでとは性格の異なる資料が現れる。
石上神宮に伝わる、
七支刀
である。
二 七支刀には「文字」がある
七支刀が重要なのは、珍しい形の刀だからだけではない。
刀身には金象嵌による銘文が刻まれている。
つまり、
誰かが作った物が偶然海を渡った
というだけではなく、
政治的な意味を込めて作られた物であったことを考えることができる。
考古資料だけでは分かりにくかった、
王。
贈与。
相手。
という政治関係が、文字によって姿を現し始める。
三 紀年は四世紀後半を指す可能性が高い
銘文には「泰和四年」と読まれてきた紀年がある。
これを東晋の太和四年に当てれば、西暦三六九年となる。
この三六九年説は有力な理解の一つである。
ただし銘文には判読の難しい箇所があり、
紀年や文章全体の復元には議論がある。
したがって本稿では、
七支刀を四世紀後半の百済・倭関係を考える重要資料としつつ、三六九年を絶対確定年代として扱わない。
四 もっと重要なのは、銘文に「倭王」が現れることである
七支刀の政治史上の重要性は、
年代だけではない。
銘文には倭王に関係する文言があり、
百済王・世子との関係を読み取ることができる。
ここまで来ると、
港にいた交易者。
鉄を買い付けた人。
半島へ滞在した工人。
というレベルだけではない。
「王」を単位とする関係が、物そのものに刻み込まれている。
五 交易品と外交的威信財は何が違うのか
普通の交易品なら、
売る。
買う。
交換する。
ことで移動する。
しかし七支刀のような特別な形状と銘文を持つ品は、
大量流通商品とは考えにくい。
誰にでも渡す物ではない。
特定の相手を意識して作られた可能性が高い。
したがって七支刀は、
経済的交換だけではなく、政治関係を表現する威信財
として検討する必要がある。
六 ここで初めて「首長外交」より一段上の関係が見えてくる
金海などの首長墓に列島系遺物が入ることから、
地域首長同士の交流を考えることはできる。
しかし七支刀の場合、
銘文自体に王権レベルの主体が現れる。
つまり証拠の段階は、
交易者同士。
地域首長同士。
から、
王権と王権の関係
へ一段上がる。
これが本章で七支刀を重視する理由である。
七 では、百済と倭のどちらが上だったのか
七支刀をめぐって長く議論されてきた問題がある。
百済王が倭王へ刀を「献上」したのか。
対等な外交贈答だったのか。
百済側が優位な立場から与えたのか。
銘文中の語をどのように読むのかによって、
両者の関係像は変わる。
しかし本稿では、
一本の刀から百済と倭の固定的な上下関係まで決定しない。
八 「贈った」という事実と「服属した」という解釈は別である
古代外交では、
特別な品物を贈ること自体が、
直ちに服属を意味するわけではない。
同盟。
友好。
軍事協力。
婚姻関係。
外交上の承認。
威信の交換。
さまざまな目的があり得る。
したがって、
百済から倭へ特別な刀が渡った。
だから百済は倭の属国だった。
あるいは逆に、
百済が刀を与えた。
だから倭は百済より下位だった。
というどちらの単純化も避けなければならない。
九 確実性が高いのは「互いを無視できない王権になっていた」ことである
七支刀から慎重に引き出せる重要点は、
四世紀後半には、
百済側が倭王を意識する。
倭側も百済王権と関係を持つ。
そして、その関係を特別な物によって表現する。
という段階に達していたことである。
つまり、
倭はすでに、半島側の王権が直接関係を結ぶ価値を持つ政治主体になっていた。
十 なぜこの時期に百済と倭が接近するのか
ここでは刀だけを見るのではなく、
四世紀の東アジア情勢を見る必要がある。
百済は高句麗との対立を深めていく。
半島南部には加耶諸国が存在する。
倭は鉄をはじめとする南部海域交易と長く関係してきた。
つまり百済側にとって倭との関係には、
海上交通。
加耶方面との関係。
物資。
外交。
場合によっては軍事協力。
など複数の意味を持ち得る。
十一 倭側にも百済と結ぶ理由がある
倭側から見ても、
百済との関係には意味がある。
半島政治の情報を得る。
技術や工人へ接続する。
加耶を含む南部海域との関係を安定させる。
さらに中国大陸との外交世界を知る。
つまり百済との外交は、
単に「文化を教えてもらう」関係ではない。
倭王権自身の政治的・経済的利益とも結びつく外交関係
として考える必要がある。
十二 ここで交易路が外交路へ変わる
第一部から続いてきた航路を思い出してみる。
最初は、
人が海を渡った。
次に、
物を交換した。
鉄を求めた。
一定期間滞在した。
首長同士が関係を持った。
そして四世紀後半には、
その同じ海路を、
王権同士の贈答と外交が往来する。
航路そのものは古い。
しかし、その航路を利用する政治主体の規模が変わったのである。
十三 『日本書紀』の記事とは、いったん分けて考える
『日本書紀』神功皇后紀にも、七枝刀の献上を思わせる記事がある。
しかし『日本書紀』は七支刀そのものより後に編纂された史料であり、
神功紀の年代体系にも大きな問題がある。
したがって、
刀の銘文と『日本書紀』の記事をそのまま一対一で重ね、
史書の記事すべてを四世紀の事実として採用することはできない。
まず優先すべきなのは、
七支刀そのものに残された同時代性の高い情報
である。
十四 むしろ七支刀があるからこそ、『日本書紀』を選別できる
ここは重要である。
『日本書紀』に百済との関係記事がある。
だからすべて信じる。
のではない。
逆に、
後世の史書だからすべて捨てる。
でもない。
七支刀のような独立した資料が存在することで、
四世紀後半に百済と倭の王権間関係が存在したことには、別系統の根拠を置くことができる。
その上で、
『日本書紀』の個々の記事について、
どこまで古い情報を残すのか。
どこから後世の編集が加わったのか。
を検討すればよい。
十五 しかし七支刀だけでは「軍事同盟」までは証明できない
七支刀が示すのは、
王権レベルの関係が存在した可能性を強くすることである。
そこから直ちに、
正式な軍事同盟があった。
倭軍が百済のために戦った。
加耶を倭が支配した。
とまでは言えない。
外交関係と軍事協力の間には、まだ一段階ある。
その一線を越えたことを確認するためには、
別の史料が必要になる。
十六 そして四世紀末、その証拠が一気に増える
七支刀によって、
四世紀後半には百済と倭の王権間外交を考えることができる。
その少し後には、
百済王家の後継者が倭に滞在したことを伝える史料が現れる。
さらに、
倭と実際に戦った高句麗側の金石文にも「倭」が現れる。
ここで初めて、
交易。
滞在。
首長間交流。
王権外交。
の先に、
軍事主体としての倭
が見えてくる。
次節では、
「なぜ百済の王太子が倭にいたのか」
という問いから、三九七年の腆支を手掛かりに、百済と倭の関係が単なる外交贈答を越えてどこまで深まっていたのかを検討する。
第七節 「なぜ百済の王太子が倭にいたのか」――腆支が示す王権外交の深まり
一 一本の刀の次に、「人」が動く
七支刀では、
百済と倭の間に王権レベルの関係が存在した可能性を見た。
しかし刀は、あくまで物である。
その関係がどれほど深かったのかを考えるには、
さらに別の証拠が必要になる。
四世紀末になると、
今度は物ではなく、
百済王家の人物そのものが倭へ渡った
ことを伝える史料が現れる。
その人物が、
腆支である。
二 三九七年、『三国史記』は百済と倭の「結好」を記す
『三国史記』百済本紀によれば、
阿莘王六年、すなわち三九七年、
百済王は倭国と友好関係を結び、
太子腆支を倭へ送った。
記事には、
「王與倭國結好、以太子腆支爲質」
とある。
すなわち、
王が倭国と好を結び、太子腆支を「質」とした
と記されている。
三 ただし『三国史記』は同時代史料ではない
ここも史料の性格を確認しておかなければならない。
『三国史記』は十二世紀に編纂された史書である。
したがって、
三九七年の記事が当時の記録そのものとして残っているわけではない。
編纂までの伝承過程。
使用された旧記。
年代整理。
文章表現。
を考慮する必要がある。
七支刀のような同時代性の高い金石文とは、証拠の性格が異なる。
だから本稿では、
『三国史記』の記事だけを単独で絶対視しない。
四 それでも、この記事は七支刀とは孤立していない
重要なのは、
三九七年の記事を一つだけ抜き出さないことである。
四世紀後半には、
七支刀がある。
百済と倭の王権関係を考えさせる。
さらに四世紀末には、
高句麗・百済・新羅をめぐる軍事緊張が強まる。
その中で、
『三国史記』には百済太子の倭滞在が記される。
つまり、
複数の異なる資料が、四世紀後半から末に百済と倭の政治関係が深まった方向を示している。
五 では「質」とは何なのか
現代語で「人質」と聞くと、
敵に捕らえられた人物を想像しやすい。
しかし古代外交における「質」は、
それだけではない。
同盟や友好関係の保証。
政治的な信頼の担保。
王族の長期滞在。
将来の外交関係の確保。
など、複数の意味を持ち得る。
したがって、
腆支が倭へ送られた。
だから百済が倭へ完全服属した。
と直ちに読むことはできない。
六 反対に「ただの留学生」のように扱うこともできない
しかし逆に、
単なる文化交流のための滞在者
と見るのも難しい。
腆支は王族であり、
のちに百済王となる人物である。
王家の後継候補を国外へ送るという行為は、
普通の交易者や工人の移動とは明らかに性格が違う。
そこには、
王権と王権の間で成立した政治的な信頼関係
が前提にあったと考える必要がある。
七 なぜ百済は王太子を倭へ送ったのか
ここで百済側の事情を見る必要がある。
四世紀後半の百済は、
北方の高句麗と激しく競合していた。
半島南部には加耶諸国があり、
東には新羅がある。
つまり百済は、
複数の政治勢力が競い合う環境の中にいた。
その中で海の向こうの倭と関係を強化することには、
外交上の意味があった可能性が高い。
八 倭は「遠い外国」ではなく、利用可能な外交相手になっていた
百済側から見れば、
倭は海の向こうにある。
しかし、
それ以前から長い交易関係がある。
半島南岸には列島系の人々の活動が見える。
加耶地域を介した交流もある。
さらに王権外交へ発展している。
したがって四世紀末には、
倭は未知の辺境ではなく、
王族を送り、政治関係を維持できる外交相手
になっていたと考えることができる。
九 ここで倭側にも受け入れる能力が必要になる
王太子を受け入れるということは、
単に船着場で迎えることではない。
滞在場所がいる。
食料がいる。
警護がいる。
従者への対応がいる。
外交交渉を行う人物がいる。
長期滞在であれば、
継続的な扶養も必要になる。
つまり腆支の記事が示すのは、
外交関係だけではない。
外国王族を受け入れられる倭王権の組織能力
でもある。
十 ここで「余剰力」が外交へ変わる
第一部から繰り返してきた余剰力が、
ここで別の形になる。
余剰力とは、
余った食料だけではない。
人。
住居。
警護。
船。
贈答品。
通訳。
外交使節。
これらを政治目的へ振り向ける能力である。
王太子を長期間受け入れることも、
社会的余力を外交へ転換する行為
なのである。
十一 そして四〇五年、腆支の滞在はさらに重要な意味を持つ
阿莘王が死去すると、
百済王位をめぐる緊張が生じる。
『三国史記』によれば、
倭に滞在していた腆支は父王の死を知り、
帰国しようとする。
ここで注目すべき記事が現れる。
倭王が腆支に兵士を付けて送った
と記されているのである。
十二 「兵士百人」という数字より、誰が兵を出したかが重要である
『三国史記』の記事では、
倭王が腆支の護衛として兵士百人を付けたとされる。
百人という数字を大軍と呼ぶ必要はない。
また後世史料である以上、
数字そのものも慎重に扱う必要がある。
しかし史料が描いている政治構造は重要である。
交易者が自発的に護衛したのではない。
「倭王」が百済王族の帰国に軍事的保護を与えた
という形になっている。
十三 これは「倭王が百済王を任命した」という話ではない
ここでも線を越えてはいけない。
腆支が帰国した。
その後、百済国内の政治過程を経て王位についた。
だから、
倭王が百済王を任命した。
倭が百済王位を決定した。
とまで言うことはできない。
最終的な王位継承は、
百済国内の政治勢力との関係の中で成立している。
しかし、
王位継承候補者が倭に滞在し、その帰国に倭王が関与した
こと自体の政治的意味は小さくない。
十四 ここで倭は半島政治の「外部観察者」ではなくなる
交易だけなら、
半島内部で政変が起きても、
商品を別の相手から買うという選択肢がある。
しかし王位継承者を受け入れ、
その帰国を支援するとなれば、
倭王権は半島政治と無関係ではいられない。
百済王位の安定。
その後の対倭関係。
半島南部の政治環境。
それらが倭側の利益とも結びつく。
つまり、
倭王権は半島政治の結果によって自らの利益が左右される位置へ入り始めていた
と考えることができる。
十五 交易路を守る政治が、王統をめぐる外交へ進んだ
ここまでの流れを振り返ると、
変化が見えてくる。
鉄を求める。
港へ滞在する。
現地首長と関係を結ぶ。
百済王権と外交する。
百済王族を受け入れる。
その帰国を支援する。
海域ネットワークの政治化は、
ここまで深まっている。
もはや問題は、
物をどう運ぶか
だけではない。
誰が半島側の王になるのかという政治環境まで、倭との関係に接続し始めている。
十六 しかし、ここでもまだ一つの問いが残る
王太子を受け入れる。
帰国を支援する。
これは明らかに王権外交である。
しかし、
倭が本格的な軍事勢力として半島で行動していたことまで、
この一件だけで証明できるわけではない。
そのためには、
倭と実際に戦った側の資料を見る必要がある。
そして四世紀末、
その資料が現れる。
高句麗の広開土王碑である。
次節では、
「倭はいつ、外交相手から軍事的な相手へ変わったのか」
という問いから、高句麗側の記録に現れる倭を検討
第八節 「倭はいつ外交相手から軍事的な相手へ変わったのか」――広開土王碑が示す四世紀末の転換
一 ここで史料を見る方向を変える
これまでは、
列島側の考古資料。
半島南部の倭系遺物。
百済との外交関係。
そして『三国史記』に記された腆支の倭滞在。
を見てきた。
しかし、
倭が本当に半島政治の軍事的な参加者になっていたのか
を考えるには、
もう一つ重要な視点が必要である。
倭と対立した側は、倭をどのように見ていたのか。
その資料が、
広開土王碑である。
二 広開土王碑は、倭自身が残した史料ではない
広開土王碑は、
高句麗の広開土王の死後、
その功績を顕彰するために建立された碑である。
したがって、
倭が自らの活動を誇った記録ではない。
百済が倭との友好を示すために作った記録でもない。
倭と軍事的に対立した高句麗側の王権史料
なのである。
ここに大きな意味がある。
三 ただし「敵側の史料だから客観的」とも言えない
広開土王碑も、
中立的な戦争報告書ではない。
広開土王の功績を顕彰する記念碑である。
王の勝利を強調する。
敵を大きく描く。
王権の正当性を示す。
そのような政治的性格を持つ。
したがって、
碑文に書かれていることを、
そのまますべて事実とすることもできない。
必要なのは、
高句麗王権の自己顕彰という性格を踏まえたうえで、それでも動かしにくい事実を拾うこと
である。
四 有名な辛卯年条だけに頼る必要はない
広開土王碑について最も知られているのは、
三九一年に当たる辛卯年をめぐる記事である。
倭。
百済。
新羅。
をめぐる文言があり、
古くから多くの解釈が行われてきた。
しかしこの部分には、
欠損。
文字の判読。
文章の主語。
動詞の係り方。
などをめぐる議論がある。
したがって、
辛卯年条だけを使って「倭が百済・新羅を征服した」と断定する必要はない。
五 むしろ重要なのは、その後の記事である
幸いなことに、
倭の軍事的活動を考えるために、
辛卯年条だけへ依存する必要はない。
碑文には、
三九九年。
四〇〇年。
四〇四年。
にも倭が現れる。
これらの記事を追うと、
四世紀末から五世紀初頭に、
高句麗側が「倭」と呼ぶ軍事勢力を現実の対戦相手として認識していた
ことが見えてくる。
六 三九九年、「百済」と「倭」が結びついて記される
三九九年の記事では、
高句麗側から見て、
百済が倭と関係を結んだことが記される。
ここは前節までの流れと重なる。
七支刀によって、
四世紀後半には百済と倭の王権外交を考えられる。
『三国史記』には、
三九七年に百済太子腆支が倭へ送られたと記される。
そして高句麗側の碑文にも、
百済と倭との政治的関係を示す記述が現れる。
つまり、
百済と倭の接近は、一つの史料だけに現れる孤立した出来事ではない。
七 さらに新羅が登場する
三九九年の記事では、
新羅側が高句麗へ救援を求めたとされる。
その理由として、
倭の軍事的活動が記される。
ここで倭は、
交易品を持ってくる相手ではない。
港へ滞在する人々でもない。
外交使節でもない。
新羅の政治秩序に影響を与える軍事勢力
として描かれている。
八 ここで「倭人がいた」という意味が変わる
半島南部に倭系土器がある。
そこから、
列島系の人々が一定期間滞在した可能性を考えることができる。
しかし広開土王碑の倭は、それとは違う。
城郭。
軍事行動。
救援要請。
高句麗軍。
という文脈の中に現れる。
つまり、
生活者としての倭系人物
と、
政治・軍事上の「倭」
を分けて考えなければならない。
九 四〇〇年には、さらに戦争の規模が大きくなる
翌四〇〇年、
高句麗は新羅方面へ軍を派遣したと碑文に記す。
碑文が掲げる兵力は、
歩兵・騎兵合わせて五万である。
この数字は高句麗側が自らの軍功を顕彰する碑文に記したものであり、
その規模をそのまま統計値として扱うには慎重さが必要である。
しかし一つ重要な点がある。
五万と記されるのは高句麗軍であって、倭軍ではない。
十 倭軍の人数は分からない
ここを混同してはいけない。
広開土王碑には、
倭軍が何人いたのか
という数字は記されていない。
したがって、
高句麗が五万を出した。
だから倭軍も数万だった。
という計算はできない。
分かるのは、
高句麗王権が新羅方面への戦役を、自らの王の大きな軍事功績として記録した
ということである。
十一 それでも「小さな交易者集団」では説明できなくなる
倭軍の正確な人数は分からない。
しかし、
新羅から救援要請がある。
高句麗軍が南下する。
戦闘が起こる。
倭と呼ばれる勢力がその戦争の中に現れる。
ここまで来れば、
数人の商人や工人がいた
という説明だけでは足りない。
少なくとも高句麗側は、
「倭」と識別する軍事的存在
を認識していた。
十二 では、この「倭」は誰だったのか
ここで新しい問題が生まれる。
碑文に「倭」と書いてある。
だから、
全員が列島から来た兵士だった。
全員が同じ民族だった。
大和の王が一人一人を直接指揮していた。
とは限らない。
海域戦争では、
列島から来た兵。
半島に滞在していた倭系集団。
現地の協力勢力。
百済や加耶と関係する部隊。
などが複合していた可能性も検討する必要がある。
十三 「倭=大和王権直属軍」ともまだ断定できない
広開土王碑には、
「大和王が命令した」
とは書かれていない。
「倭王の軍」
という表現が明記されるわけでもない。
したがって、
四〇〇年前後のすべての倭軍を、
列島中央王権が直接編成・指揮した単一軍隊
とすることはできない。
北部九州。
瀬戸内。
海峡地域。
半島南部との関係が深い海域勢力。
そうした複数の政治・軍事集団が関与した可能性も残る。
十四 しかし「王権と無関係な海賊集団」だけでも説明しにくい
反対に、
倭とは単なる海賊や傭兵集団で、
列島王権とは無関係だった
と決めることも難しい。
その直前には、
百済と倭の王権外交がある。
百済太子の倭滞在が伝えられる。
倭王がその帰国に関与した記事もある。
列島内部では広域的な王権形成が進んでいる。
そこへ、
高句麗側が百済と倭の政治関係を記し、
軍事勢力としての倭を記録する。
これらを完全に切り離すことも不自然である。
十五 本稿では、ここで初めて「軍事的な倭」が明瞭になる
ここまでの証拠段階を並べると、
違いがはっきりする。
海を渡る。
物を交換する。
鉄を得る。
一定期間滞在する。
首長同士が交流する。
王権同士が外交する。
王族を受け入れる。
そして、
王国間の戦争に「倭」が軍事的存在として現れる。
本稿では、
四世紀末を、
海域交流の参加者だった倭が、半島政治における明瞭な軍事的参加者として史料上に現れる段階
として位置づける。
十六 ここから問いは「倭がいたか」ではなく「どうやって戦えたか」へ変わる
ここまで来れば、
倭人が半島へ行っていたのか
という問いだけでは不十分になる。
次に問わなければならないのは、
誰が兵を集めたのか。
船はどこから出たのか。
食料はどう運んだのか。
どの港を使ったのか。
現地勢力とはどのような関係だったのか。
そして何より、
この軍事活動を支えた列島側の政治力は、どの程度まで組織化されていたのか。
ここから先は、
交易史ではなく、
軍事・外交・兵站を含む海域政治史になる。
次章では、
「高句麗は、なぜ倭を軍事的な相手として記録したのか」
という問いから、広開土王碑の三九九年・四〇〇年・四〇四年の記事を一つずつ検討し、海域王権が軍事力へ転換していく姿を追っていく。
第十三章 「海を越えた軍事力」――広開土王碑に現れる倭
第一節 「敵は倭をどう見たのか」――高句麗側の碑文から四世紀末を読む
一 ここからは「倭から見た半島」ではなくなる
前章では、
海を渡る人。
鉄を求める交易者。
半島南岸に滞在する人々。
地域首長。
倭王。
百済王。
そして百済王太子。
と、海域交流が次第に政治化していく過程を追った。
しかし、そこにはまだ一つ欠けている視点がある。
倭と実際に対立した政治勢力は、倭をどのような存在として認識していたのか。
その問いに答える重要な資料が、
広開土王碑である。
二 広開土王碑は高句麗王権が残した資料である
広開土王碑は、
高句麗の広開土王の死後、その功績を顕彰するために建立された巨大な石碑である。
碑文には、
王統の由来。
広開土王の軍事活動。
征服・服属の記事。
守墓に関する記述。
などが刻まれている。
そしてその軍事記事の中に、
「倭」
が繰り返し現れる。
三 この史料の価値は「第三者性」にある
もちろん高句麗は完全な第三者ではない。
むしろ倭と戦った当事者である。
しかし、それが重要である。
倭が、
自分たちは半島で活躍した
と書いた資料ではない。
百済が、
倭は重要な同盟相手だった
と宣伝するための資料でもない。
倭と軍事的に対立した高句麗側が、敵として「倭」を記録している。
ここに、それまでの資料とは異なる重みがある。
四 ただし「敵側の記録だから客観的」ではない
同時に、
広開土王碑を中立的な戦争記録として読むこともできない。
この碑の目的は、
広開土王の軍事的功績と王権の威信を示すことにある。
したがって、
王の勝利を大きく描く。
敵を強く描く。
服属関係を強調する。
という政治的表現が含まれる可能性を常に考えなければならない。
つまり、
同時代性が高いことと、中立的であることは別問題
なのである。
五 必要なのは「何を信じるか」ではなく「何が動きにくいか」である
碑文研究で重要なのは、
全部信じる。
全部疑う。
という二択ではない。
どの部分に損傷があるのか。
どこまで文字が読めるのか。
文章構造は確定しているのか。
高句麗王権の政治的修辞はどこにあるのか。
そのうえで、
異なる解釈を取ってもなお残る事実は何か
を探すことである。
本章も、この方法で広開土王碑を読む。
六 その意味で、辛卯年条から始める必要はない
広開土王碑をめぐる議論では、
いわゆる辛卯年条が有名である。
三九一年に相当する年次をめぐり、
倭。
百済。
新羅。
の関係をどのように読むかについて、長い研究論争がある。
しかし当該箇所には損傷や判読上の問題がある。
文章の主語や構造についても議論がある。
したがって、
本稿は辛卯年条一つに倭の半島活動全体を依存させない。
七 なぜなら、もっと明瞭な記事が後に続くからである
重要なのは、
三九九年。
四〇〇年。
四〇四年。
である。
これらの記事には、
倭と百済。
倭と新羅。
倭と高句麗。
をめぐる軍事・政治関係が記される。
つまり、
論争の大きい辛卯年条をどう読むかにかかわらず、
四世紀末から五世紀初頭の碑文に、軍事的文脈の「倭」が繰り返し登場する。
ここをまず押さえるべきである。
八 これは前章までの資料とつながっている
突然、四〇〇年前後になって倭が半島へ現れたわけではない。
その前には、
弥生時代以来の鉄交易がある。
半島南岸への列島系人物の滞在が考えられる。
加耶地域の首長層との交流がある。
四世紀後半には百済との王権外交を示唆する七支刀がある。
さらに『三国史記』には、
三九七年の腆支の倭滞在が記される。
つまり広開土王碑の倭は、
何世紀にもわたる海域交流の延長線上に現れる政治・軍事主体
として見る必要がある。
九 ただし「昔から交流していたから軍事進出は当然だった」わけではない
ここにも因果の飛躍を置いてはならない。
交易があった。
だから必然的に戦争になった。
というものではない。
数百年間交易だけが続く可能性もあった。
軍事化には、
王権の形成。
兵の動員。
船舶運用。
兵站。
外交関係。
そして半島側の政治情勢。
が必要になる。
したがって軍事化は、
古い海域ネットワークに、新しい政治条件が重なった結果
として考える必要がある。
十 広開土王碑の倭は、生活者ではなく軍事主体として現れる
前章で見た倭系土器の場合、
問いは、
誰が使ったのか。
どのくらい滞在したのか。
どこで作られたのか。
であった。
しかし広開土王碑では、
問いそのものが変わる。
誰と戦ったのか。
どこまで進出したのか。
誰と政治的に結びついていたのか。
なぜ高句麗が軍を動かしたのか。
つまり碑文の倭は、
海域社会の生活者ではなく、国際政治上の軍事的存在
として記録される。
十一 それでも「倭=大和王権軍」と最初から決めない
一方で、
碑文に「倭」とある。
だから大和の王が編成した中央軍である。
という結論もまだ早い。
碑文は、
倭軍の内部構成を説明していない。
列島各地域の勢力。
海峡地域の集団。
半島南部との関係が深い海域勢力。
現地の協力勢力。
などが、どのように関係していたかは別に検討する必要がある。
したがって最初の段階では、
高句麗側が政治・軍事上「倭」と識別した勢力が存在した
というところから始める。
十二 「一つの民族軍」という発想も置かない
同じ理由から、
碑文の倭を現代的な単一民族軍として考える必要もない。
古代の軍事活動では、
政治的所属。
地域的所属。
出自。
言語。
が必ずしも一つに一致するとは限らない。
重要なのは、
個々の兵士の民族を推定することではない。
高句麗王権が、
百済・新羅・加耶などと区別しながら「倭」と呼ぶ政治・軍事主体を認識していた
という点である。
十三 ここで本書の問いが「海を渡れたか」から変わる
第一部では、
どうやって海を渡ったのか
を考えた。
第二部では、
海を通じて運ばれた技術や文化を、
形成されつつある国家がどう取り込んだのか
を考えた。
第三部前半では、
その社会的能力が、
首長。
王。
広域王権。
へ変化していく過程を追った。
そして今、
問いは、
「その王権は、海の向こうでどこまで政治力と軍事力を行使できたのか」
へ進む。
十四 三九九・四〇〇・四〇四年を一つの流れとして見る
本章で最も重要なのは、
一つの戦争記事だけを切り取らないことである。
三九九年。
百済・倭・新羅・高句麗をめぐる政治関係が現れる。
四〇〇年。
高句麗軍と倭との軍事衝突が記される。
四〇四年。
倭が再び高句麗側と戦ったことが記される。
この三つを並べると、
一回の偶発的な衝突という説明だけでは捉えにくくなる。
少なくとも数年間にわたり、「倭」が半島の軍事政治へ繰り返し登場している。
十五 次に見るべきは「なぜ三九九年に新羅が高句麗を頼ったのか」である
広開土王碑の軍事記事を理解するためには、
まず四〇〇年の戦闘から始めてはいけない。
その前年、
三九九年に何が起きていたのかを見る必要がある。
碑文には、
百済と倭の関係。
そして新羅から高句麗への訴えが記される。
ここには、
倭。
百済。
新羅。
高句麗。
という四つの政治勢力が交差する。
次節では、
「なぜ新羅は高句麗へ救援を求めたのか」
という問いから、三九九年の記事を読み解き、倭がどのような軍事的存在として認識されていたのかを検討する。
第二節 「なぜ新羅は高句麗へ救援を求めたのか」――三九九年に見える倭の軍事的存在感
一 三九九年の記事は、四〇〇年戦役の前提である
広開土王碑を読むとき、
四〇〇年の大規模戦闘だけを取り出すと、
なぜ高句麗軍が新羅方面へ動いたのかが見えにくい。
その理由を考えるためには、
前年の三九九年条を見る必要がある。
そこには、
百済。
倭。
新羅。
高句麗。
という四つの政治勢力が一つの文脈の中に現れる。
つまり三九九年は、
翌年の戦争がなぜ起きたのかを考えるための政治状況を示している。
二 その直前、百済は高句麗の強い軍事圧力を受けていた
四世紀末、
高句麗と百済は激しく対立していた。
広開土王碑では、
三九六年に広開土王が百済方面へ大規模な軍事行動を行い、
多数の城を攻略したことが誇示される。
もちろんこれは高句麗側の勝利碑である。
百済の服属をどこまで額面通りに受け取るかは慎重でなければならない。
しかし少なくとも、
百済が高句麗から強い軍事圧力を受けていた
という政治状況は重要である。
三 その中で、百済と倭の関係が意味を持つ
前章で見たように、
四世紀後半には百済と倭との王権レベルの関係を示す資料が現れる。
七支刀。
そして後世の編纂史料ではあるが、
三九七年の腆支の倭滞在。
こうした資料を背景に置くと、
三九九年の碑文に百済と倭の関係が現れることは、
まったく孤立した出来事ではない。
百済が高句麗への対応を考える中で、倭との関係を深めていた可能性
を検討できる。
四 高句麗側から見れば、百済と倭の接近は無視できない
高句麗にとって、
百済だけなら半島内の競争相手である。
しかしその百済が、
海を越えた倭と政治的に結びつく。
もし倭が兵力や船舶を動かせるのであれば、
高句麗から見た戦略環境は変わる。
南から百済。
東南方面には新羅。
そのさらに南方・海上には倭と加耶諸勢力がある。
つまり、
百済と倭の接近は、半島南部全体の軍事バランスに関わる問題
になり得る。
五 三九九年、新羅から高句麗へ使者が来る
碑文では、
広開土王が平壌へ赴いた際、
新羅から使者が来たことが記される。
その訴えには、
倭の活動によって新羅が危機に置かれていることを示す内容が含まれる。
ここで重要なのは、
新羅が単独で処理するのではなく、
高句麗王へ救援を求めた
と描かれていることである。
六 この救援要請は何を意味するのか
もちろん碑文は高句麗王の功績を示すための史料である。
新羅が危機に陥り、
高句麗王へ助けを求める。
そして広開土王が救済する。
この構図自体が、
高句麗王の優越性を表現する政治的叙述でもある。
したがって、
新羅側の危機の程度を碑文の表現だけから数量化することはできない。
それでも、
高句麗が新羅方面へ軍事介入したことを正当化する相手として「倭」が記されている
ことには意味がある。
七 倭は「港にいる人々」ではなくなっている
前章で見た倭系人物は、
交易者。
工人。
船員。
滞在者。
として説明できる場合があった。
しかし三九九年の記事では違う。
城。
国境。
救援。
軍事。
という文脈の中に倭が出てくる。
つまり、
高句麗側の認識では、倭は新羅の政治秩序へ影響を与える軍事的存在になっている。
八 ただし碑文の強い表現を、そのまま兵数には変換できない
碑文には、
倭人が新羅の領域に広く存在するかのような強い表現が見られる。
しかし、
これは人口統計ではない。
何千人いたのか。
何万人いたのか。
どこに何部隊いたのか。
そのようなことまで碑文から分かるわけではない。
王碑特有の誇張表現も考慮しなければならない。
したがって重要なのは、
人数ではなく、高句麗側が倭の軍事的存在を大きな政治問題として描いていること
である。
九 「倭が新羅全土を支配していた」と読む必要もない
倭の軍事的活動が記される。
だから新羅が倭の属国だった。
とも言えない。
軍隊が侵入すること。
一部地域で戦闘すること。
城を攻撃すること。
と、
その国全体を行政的に支配すること
は別である。
領土支配を論じるなら、
より継続的な統治資料が必要になる。
ここで確認できるのは、
倭が新羅の政治・軍事情勢へ実際に影響する位置まで入っていた
という段階である。
十 では、なぜ倭は新羅方面へ軍事的に関与したのか
碑文だけでは、
倭側の作戦目的は説明されない。
ここを想像で埋めてはいけない。
ただし、それまでの海域関係から成立条件を考えることはできる。
百済との政治関係。
加耶地域との長い交易。
鉄へのアクセス。
南岸航路。
半島側の友好勢力。
こうした関係が存在したなら、
新羅や高句麗の勢力拡大が、
倭側の海域利益に影響する可能性はある。
したがって、
領土獲得だけではなく、既存の政治・交易関係を維持するための軍事関与
という仮説も検討対象になる。
十一 新羅側にも独自の政治判断がある
この戦争を、
倭対高句麗
だけで見ても不十分である。
新羅も受け身の存在ではない。
どの勢力と関係を結ぶか。
誰へ援軍を求めるか。
どの脅威を優先するか。
新羅王権自身が判断している。
三九九年の記事は、
新羅が高句麗との関係を利用して倭への対応を図った
という政治行動として読むこともできる。
つまり、
各国がそれぞれの利益を持って動く多極的な政治空間
なのである。
十二 「日本対朝鮮」という構図では説明できない
ここでは、
現代の日本と朝鮮半島
という二者対立を持ち込むと、歴史構造を見失う。
当時存在するのは、
高句麗。
百済。
新羅。
加耶諸国。
倭。
さらに各地域首長。
である。
その間で、
協力。
対立。
交易。
外交。
軍事。
が組み替わる。
だから倭が半島で戦っているからといって、
列島社会と半島社会全体が対立していた
ということにはならない。
十三 三九九年は「海域政治」が戦争へ接続した年として見える
それまでの流れを考えると、
三九九年の意味がはっきりする。
古くから海路がある。
鉄交易がある。
人が滞在する。
首長が関係する。
百済と倭の王権外交が成立する。
そして三九九年、
その政治関係が、
高句麗と新羅を巻き込む軍事問題として碑文に現れる。
つまり、
海域交流の政治化が、王国間戦争へ接続した局面
として見ることができる。
十四 そして翌年、高句麗は大軍を南へ送る
三九九年の救援要請だけなら、
高句麗がどこまで本格的に対応したのかはまだ分からない。
しかし翌四〇〇年、
碑文は広開土王が新羅救援のために大規模な軍を送ったと記す。
そしてそこで、
高句麗軍と倭との直接的な軍事衝突が描かれる。
ここから、
倭がどの程度の兵力だったのか
という問い以上に重要な問題が生まれる。
なぜ高句麗は、新羅方面へこれほどの軍事力を投入したのか。
次節では、
「五万という数字は何を意味するのか」
という問いから、四〇〇年戦役を兵力・戦場・兵站の三つに分けて検討する。
第三節 「五万という数字は何を意味するのか」――四〇〇年戦役を兵力・戦場・兵站から読む
一 四〇〇年、高句麗軍が南下する
三九九年、
新羅から高句麗へ救援要請があったと碑文は記す。
そして翌四〇〇年、
広開土王は新羅方面へ軍を送った。
碑文に記される兵力は、
歩兵・騎兵合わせて五万
である。
この数字は、四〇〇年戦役を考える上で非常に目を引く。
しかし最初に確認しなければならない。
五万とは倭軍の兵数ではない。
高句麗側が派遣した軍の数字である。
二 倭軍の人数は、碑文には書かれていない
ここは重要である。
高句麗軍が五万だった。
だから倭軍も数万だった。
とは言えない。
倭側の人数について、
広開土王碑は具体的な数字を示していない。
したがって、
倭軍二万。
三万。
五万。
といった数字を、この碑文から推定することはできない。
本稿では、
確認できる兵数と、推測する兵数を混同しない。
三 「五万」そのものも、そのまま統計値とは限らない
さらに高句麗軍五万という数字についても、
王の軍功を顕彰する碑文である以上、
表現上の誇張可能性を考慮する必要がある。
古代史料の大兵力数字は、
現代の軍籍記録と同じ精度で扱うことはできない。
したがって重要なのは、
五万人という数字を一人単位で確定することではない。
高句麗王権自身が、この戦役を大規模な国家的軍事行動として記録している
という点である。
四 なぜ高句麗は、それほど大きな軍を南へ送ったのか
ここから問いを変える。
本当に重要なのは、
五万人だったかどうか
ではない。
なぜ高句麗王権が、
新羅方面への軍事介入を、
これほど大きな戦役として碑に刻んだのか。
ということである。
そこには、
単なる国境紛争では説明しきれない、
南方政治秩序をめぐる高句麗側の戦略的重要性
があったと考える必要がある。
五 新羅は高句麗にとって単なる遠方の小国ではない
新羅への介入は、
高句麗が南方へ政治的影響力を伸ばすことにもつながる。
新羅を支援する。
倭勢力を退ける。
百済の影響を抑える。
半島南部の政治関係へ高句麗が入り込む。
つまり四〇〇年戦役は、
倭軍を撃退するだけでなく、南方の政治秩序そのものへ高句麗が介入する戦争
でもあった。
六 高句麗軍と倭勢力は新羅方面で直接ぶつかる
碑文では、
高句麗軍が新羅方面へ進み、
そこで倭と軍事的に接触したことが記される。
ここで倭は、
百済との外交関係に名前が出るだけではない。
高句麗軍が実際に対処する軍事勢力となっている。
つまり、
外交上の「倭」から、戦場に存在する「倭」へ
史料の性格が一段変わる。
七 倭側が敗退したことは確認できても、それ以上を広げてはいけない
碑文は高句麗側の勝利を記す。
したがって、
四〇〇年戦役において倭側が後退・敗退したことを考えることはできる。
しかしそこから、
倭は弱小勢力だった。
列島社会は軍事的に未発達だった。
とまで広げることはできない。
一回の戦役の勝敗と、
社会全体の軍事力は同じではないからである。
八 むしろ問うべきは「なぜ倭軍がそこにいたのか」である
国家形成史として見るなら、
勝敗より重要な問いがある。
なぜ列島と関係する軍事勢力が、
海を越え、
新羅方面まで展開していたのか。
そのためには、
船がいる。
航海者がいる。
兵がいる。
武器がいる。
食料がいる。
現地までの航路を知る人がいる。
つまり、
戦場へ到達したこと自体が、相当な組織能力を必要とする。
九 海外遠征は「兵士の数」だけでは成立しない
仮に千人の兵を送るとしても、
必要なのは千人の兵士だけではない。
船を動かす水夫。
兵糧。
飲料水。
武器。
修理用具。
予備物資。
港での補給。
現地の情報。
帰還手段。
が必要になる。
さらに長期間活動するなら、
現地で食料を得る仕組みや協力勢力も重要になる。
つまり海外戦争とは、
兵力より前に兵站の問題
なのである。
十 すべてを列島から積んで運んだとは考えにくい
遠距離軍事活動になるほど、
必要物資をすべて出発地から持って行くことは難しくなる。
そのため、
途中の港。
半島南岸の拠点。
現地首長との関係。
百済や加耶方面との協力。
などが重要になった可能性がある。
ここで前章まで見てきた海域ネットワークが意味を持つ。
倭は、
まったく未知の海岸へ突然軍を送り込んだのではなく、
すでに人・物・情報が往来していた海域の上で軍事行動を行った可能性
を検討できる。
十一 交易路は、条件が整えば軍事路にもなる
鉄を運んだ航路。
工人が渡った航路。
王族が往来した航路。
交易者が使った港。
これらには、
海況。
寄港地。
補給地点。
現地勢力。
に関する知識が蓄積される。
王権がその知識と人的ネットワークを利用できれば、
同じ海路は、
交易路から外交路へ、さらに軍事輸送路へ
転換し得る。
ただし、
交易路と軍事路が自動的に同一になるわけではない。
軍事利用には、さらに大きな動員力が必要である。
十二 ここで前方後円墳を造る社会と海外戦争がつながる
巨大古墳の築造と軍事遠征は、
もちろん同じ事業ではない。
墓を造れる。
だから軍隊を送れる。
という直接的な証明にはならない。
しかし両者には、
共通する成立条件がある。
人を集める。
食料を確保する。
物資を運ぶ。
工人を編成する。
地域首長間を調整する。
こうした能力である。
したがって、
前方後円墳を成立させた広域的な動員・調整能力が、対外軍事活動にも利用された可能性
は検討に値する。
十三 それでも「前方後円墳体制=軍事同盟」とはしない
ここにも境界線がある。
同じ前方後円墳を築いている。
だから各地の首長が倭王の命令一つで兵を出した。
とは証明できない。
墳墓の共有は、
政治関係の存在を考える材料にはなる。
しかし、
具体的な兵役義務。
動員制度。
指揮系統。
まで明らかにするものではない。
本稿がここで置くのは、
広域首長関係が海外軍事活動を可能にする社会的基盤になり得た
という仮説までである。
十四 「大和だけで戦った」と考える必要もない
四〇〇年前後の軍事活動を考えるとき、
すべての兵。
すべての船。
すべての食料。
を大和盆地だけから出したと仮定する必要はない。
北部九州。
瀬戸内。
吉備。
河内。
その他の海上交通に関わる地域。
それぞれが何らかの形で関与していた可能性がある。
ただし、
どの地域が何人を出したか
という具体的数字は分からない。
重要なのは、
広域王権とは複数地域の能力を政治目的へ接続できる構造だった可能性がある
という点である。
十五 四〇〇年戦役の本当の重さは「敗れたこと」ではない
高句麗碑を読めば、
高句麗が勝った。
倭側が退いた。
という物語になる。
しかし本稿の問いは、
勝者を決めることではない。
重要なのは、
四世紀末の倭が、
海を越えて軍事活動を行い、
新羅方面で高句麗国家軍と衝突する地点まで政治的活動範囲を広げていたことである。
数世紀前には、
土器。
黒曜石。
貝製品。
を運んでいた海を、
今度は兵が渡っている。
海域社会の能力が、王権の軍事力へ転換される段階
がここに現れる。
十六 しかも戦場は新羅だけで終わらない
四〇〇年戦役でさらに重要なのは、
倭側の後退と高句麗軍の追撃が、
新羅周辺だけで完結していないことである。
碑文には、
戦闘がさらに南方へ展開したことを示す記述がある。
そこに現れるのが、
「任那加羅」
である。
次節では、
「なぜ高句麗軍は任那加羅方面まで進んだのか」
という問いから、四〇〇年戦役の地理をたどり、新羅・加耶・海峡航路が一つの軍事空間として結ばれていた可能性を検討する。
第四節 「なぜ高句麗軍は任那加羅方面まで進んだのか」――新羅・加耶・海峡を結ぶ軍事空間
一 四〇〇年戦役は新羅の中だけで終わらない
四〇〇年の高句麗軍南下を、
新羅を救援して倭軍を追い払った戦争
とだけ理解すると、戦役の重要な部分を見落とす。
碑文では、
高句麗軍と倭との戦闘は新羅方面だけで完結せず、
その後さらに南方へ展開する。
そこで現れる地名が、
「任那加羅」
である。
二 ここで「任那加羅」という語を後世の制度へ直結させない
「任那」という言葉を見ると、
後世の『日本書紀』に現れる任那関係記事を思い浮かべやすい。
しかし広開土王碑は五世紀初頭の金石文である。
その語を、
後世の史書が描く制度や領域概念とそのまま同一視することはできない。
まず確認すべきなのは、
四〇〇年戦役の地理的文脈の中に「任那加羅」と呼ばれる地域・政治勢力が現れる
ということである。
三 戦場が南へ動いたこと自体が重要である
碑文の記述に従えば、
高句麗軍は新羅方面で倭勢力と接触した後、
さらに南方へ軍事行動を続ける。
つまり、
倭軍が新羅へ単独で侵入し、
敗れるとそのまま船で列島へ戻った
という単純な構図ではない。
新羅。
加耶方面。
南岸。
海峡。
これらが、
一続きの軍事空間として機能していた可能性
を考える必要がある。
四 なぜ退却方向が重要なのか
軍隊の退却路は、
その軍がどこに基盤を持っていたかを考える手掛かりになる。
もちろん、
碑文だけから倭軍の具体的な補給基地を特定することはできない。
しかし、
南方へ戦闘が続くのであれば、
少なくともその方向に、
退却可能な経路。
協力勢力。
港。
補給地点。
などが存在した可能性を考える余地が生まれる。
ここで、
前章まで見てきた加耶地域との長い交流史が意味を持つ。
五 加耶は「倭軍の基地」と決めつけることはできない
ただし、
加耶方面へ戦闘が続いた。
だから加耶諸国すべてが倭の軍事基地だった。
とは言えない。
加耶は一つの統一国家ではない。
複数の政治勢力が存在した。
それぞれの首長が、
百済。
新羅。
高句麗。
倭。
との関係を同じように選んだとは限らない。
したがって、
加耶全体を一枚岩の「親倭勢力」として扱ってはならない。
六 むしろ加耶諸国の内部差を見る必要がある
海に近い勢力。
洛東江流域と結びつく勢力。
鉄の生産・流通に関わる勢力。
新羅との境界に位置する勢力。
それぞれ置かれた条件が違う。
ある勢力にとって倭との交易が重要でも、
別の勢力にとっては新羅との関係の方が重要だった可能性がある。
つまり、
四〇〇年戦役を理解するためには、
「倭対加耶」あるいは「倭と加耶の同盟」という二分法では足りない。
七 碑文の「安羅人戍兵」なども慎重に扱う必要がある
四〇〇年条には、
安羅や守備兵に関係すると読まれてきた箇所も存在する。
しかしこの部分には欠損があり、
文脈や所属について複数の解釈がある。
倭側の兵と見るのか。
高句麗側あるいは別勢力との関係で読むのか。
百済との関係を考えるのか。
研究上の議論は一つに定まっていない。
したがって本稿では、
不確かな一節から軍事同盟の全体像を決定しない。
八 確実性の高い地理だけを積み上げる
細部の解釈が分かれていても、
大きな流れは残る。
三九九年には新羅が高句麗へ救援を求める。
四〇〇年には高句麗軍が新羅方面へ南下する。
倭と戦闘する。
さらに戦役は南方の任那加羅と関係する地域へ続く。
つまり、
高句麗・新羅・加耶方面・倭を結ぶ広い範囲が、一つの戦争に巻き込まれていた
という構図である。
九 これは倭の軍事活動に「奥行き」があったことを考えさせる
もし倭の活動が、
海岸へ一度上陸して略奪するだけのものだったなら、
戦争の地理は比較的単純である。
しかし碑文が描く戦役は、
新羅。
高句麗。
加耶方面。
をつなぐ。
これは、
倭と呼ばれる軍事勢力が、
半島南部の複数地域にまたがる政治関係の中で活動していた可能性
を示す。
十 そこで必要になるのが「現地ネットワーク」である
列島から兵を送り込むだけでは、
半島内部で長距離を動くことは難しい。
どの道を使うのか。
どこで食料を得るのか。
どこに味方がいるのか。
どの川を渡れるのか。
どの港へ戻れるのか。
こうした情報は、
現地との長期的な接触がなければ得にくい。
その意味で、
交易者。
滞在者。
工人。
首長間交流。
王権外交。
という前章までの積み重ねが、
軍事活動を可能にする人的・地理的知識の基盤
になった可能性がある。
十一 「航路の記憶」が軍事に転換される
海を渡る技術だけではない。
どの季節に渡るか。
どの島を経由するか。
どこに着岸するか。
どこで水を得るか。
誰に話を通すか。
こうした知識は、
長い交易の中で蓄積される。
国家や王権は、
その知識を最初から作ったのではない。
既存の海域社会から取り込んだ。
つまり、
交易によって蓄積された「航路の記憶」が、軍事移動へ利用される
という転換が起こり得る。
十二 海上航路と陸上戦場は別々ではない
古代の半島戦争を陸上戦だけで考えると、
倭の活動は理解しにくい。
列島から来る以上、
海上輸送が必要である。
しかし上陸した後は、
陸路。
河川。
港。
地域首長の支配地域。
を利用しなければならない。
したがって倭の軍事活動とは、
海上交通と陸上交通を接続した複合的な遠征
として考える必要がある。
十三 ここでも「領土支配」と「軍事利用」を区別する
港を使う。
退却路として加耶方面を利用する。
現地勢力と協力する。
これらは、
その土地が倭の領土だった
ことを意味しない。
軍事同盟や通行権。
一時的な協力。
交易関係。
政治的利害の一致。
でも説明できる。
したがって、
軍事的に利用できる空間と、行政的に支配する領域は別である。
十四 逆に、領土を持たなくても大きな軍事的影響力は持てる
これは古代の海域政治を考える上で重要である。
港を直接統治しなくても、
その港を使える。
現地首長と協力できる。
兵を通せる。
補給できる。
外交的支援を受けられる。
それだけでも、
遠隔地で軍事行動を行うことは可能になる。
つまり倭の対外政治力を測るとき、
どこまで領土を所有したかだけでは不十分であり、どこまで人的・政治的ネットワークを利用できたか
を見る必要がある。
十五 四〇〇年戦役は「多極的な戦争」である
ここまで来ると、
この戦争を単純な二国間戦争として描けないことが分かる。
高句麗がいる。
新羅がいる。
百済との関係が背景にある。
加耶諸勢力がいる。
倭がいる。
さらに地域ごとの首長や軍事集団が存在する。
その利害は必ずしも一致しない。
つまり四〇〇年戦役とは、
複数の王権・首長勢力・海域勢力が交差した多極的な政治戦争
として見る方が実態に近い。
十六 そして四〇〇年で倭の活動は終わらない
高句麗碑の記述では、
四〇〇年戦役で倭側は後退する。
もしこれで倭の半島活動が終わったのであれば、
一度の大規模遠征に失敗した
という説明も可能である。
しかし、
四年後、
倭は再び碑文に現れる。
しかも今度は、
新羅南部や加耶方面だけではない。
高句麗側が「帯方界」と記す地域である。
次節では、
「なぜ敗れた倭が四年後に再び現れるのか」
という問いから、四〇四年の記事を検討し、倭王権あるいは倭系軍事勢力の継戦能力と半島関与の持続性を考える。
第五節 「なぜ敗れた倭が四年後に再び現れるのか」――四〇四年条が示す継戦力
一 四〇〇年の敗北で終わったのではない
四〇〇年、
広開土王碑は高句麗軍が新羅方面へ進み、
倭と戦ったことを記す。
倭側は後退し、
戦闘は任那加羅方面へまで及んだとされる。
ここだけを見れば、
倭の半島軍事活動は高句麗の反撃によって終わった
と考えることもできる。
しかし碑文は、そこで終わらない。
四年後の四〇四年、
「倭」が再び軍事的文脈の中に現れる。
二 四〇四年、戦場は「帯方界」と記される
永楽十四年、すなわち四〇四年の記事では、
倭が高句麗側のいう「帯方界」へ侵入し、
高句麗軍と戦ったことが記される。
この「帯方界」が具体的にどの範囲を指すのかについては、
慎重な検討が必要である。
しかし少なくとも、
四〇〇年に戦場となった新羅・加耶方面だけを見ていればよい記事ではない。
倭の軍事活動が、より北方の政治空間にまで関係していたことを示す記事
として重要である。
三 「帯方」という言葉を、昔の帯方郡そのものと直結させない
ここでも時代差を考えなければならない。
中国王朝が設置した帯方郡は、
四〇四年当時にはすでにかつての姿のまま存続していたわけではない。
したがって碑文の「帯方界」を、
過去の行政区画をそのまま復元するように読むことはできない。
重要なのは、
高句麗側がその地域を、
旧帯方地域と関係する地理的名称によって認識していた
ことである。
四 四〇四年条の細部には損傷がある
四〇四年の記事も、
すべての文字が完全に残っているわけではない。
欠損箇所があり、
文章全体の復元には議論がある。
したがって、
具体的な航路。
上陸地点。
部隊編成。
戦闘順序。
を細部まで再現することはできない。
本稿では、
読めない部分を想像で補って戦争の全貌を作らない。
五 それでも「倭と高句麗が再び戦った」という骨格は重い
細部に不明点があっても、
四〇四年条に倭が現れ、
高句麗との軍事衝突が記されていることの意味は大きい。
なぜなら、
四〇〇年にも戦っているからである。
四〇〇年。
高句麗軍と倭が衝突する。
四〇四年。
再び倭と高句麗が軍事的に衝突する。
つまり、
一度の敗戦で倭の対半島軍事活動が消滅したわけではない。
六 ここで「継戦力」という問題が現れる
戦争に一度参加することと、
数年後に再び軍事行動を起こすことは違う。
一度なら、
一時的に大量の人員を集めることもできる。
食料を蓄えることもできる。
船を動員することもできる。
しかし再び行動するには、
失われた兵を補う。
船を整える。
食料を集め直す。
武器を準備する。
外交関係を維持する。
という作業が必要になる。
これを本稿では、
継戦力
という視点から考える。
七 継戦力とは「何度でも戦える」という意味ではない
もちろん、
四〇〇年と四〇四年の記事だけから、
倭が恒常的な常備軍を持っていた
とは言えない。
毎年軍事遠征をしていた証拠でもない。
ここでいう継戦力とは、
一度の軍事行動によって社会的余力を使い切らず、一定期間をおいて再び対外軍事行動を可能にする能力
という意味である。
八 そのためには余剰を再生産しなければならない
兵は戦場へ行っている間、
農作業や生産活動から離れる。
船も軍事輸送に使えば、
通常の交易や漁撈に使えない。
食料も消費される。
武器も失われる。
人命も失われる。
したがって海外戦争を繰り返すには、
単に一度大きな余剰を持っているだけでは足りない。
使った余剰を社会が再び生み出せること
が必要になる。
九 ここで「余剰力」と「継戦力」がつながる
本稿でいう余剰力は、
生存に必要な最低限を超えて、
人。
食料。
技術。
労働。
物資。
を別の目的へ振り向けられる能力である。
しかし戦争を継続するなら、
さらに一段階必要になる。
余剰を使う。
再び生産する。
再び集める。
再び政治目的へ振り向ける。
つまり、
余剰力を繰り返し再構成できる能力が継戦力
なのである。
十 敗北そのものから倭の「弱さ」は測れない
四〇〇年戦役で高句麗側が勝利した。
これは碑文の叙述から確認できる。
しかし、
負けたから倭は弱かった
と単純に評価することはできない。
戦争の勝敗には、
兵数。
地形。
騎兵運用。
補給。
指揮。
同盟関係。
作戦目的。
など複数の要因がある。
一度の戦闘結果を、
国家や社会全体の能力へそのまま変換することはできない。
十一 むしろ四〇四年の再登場が、別の能力を示す
国家形成という視点で重要なのは、
四〇〇年に勝ったか負けたか
だけではない。
四年後に、
再び倭と呼ばれる軍事勢力が高句麗と衝突している。
つまり、
少なくとも高句麗側の記録上、
倭は一度の敗戦で消える一過性の軍事集団ではなかった。
この持続性の方が、
王権や政治組織の能力を考える上では重要である。
十二 ただし同じ軍・同じ指揮者だったとは限らない
ここにも注意が必要である。
四〇〇年の倭軍と、
四〇四年の倭軍が、
まったく同じ兵士。
同じ地域集団。
同じ指揮者。
だったとは分からない。
むしろ広域的な政治ネットワークが存在したなら、
異なる地域・異なる首長が、
別の時期に軍事活動へ参加した可能性もある。
したがって継戦力とは、
同じ兵士を何年間も戦わせ続ける能力ではなく、政治秩序として新たな人員・物資を再編できる能力
として考える方がよい。
十三 これは広域首長ネットワークと相性がよい
もし倭王権が、
大和だけではなく、
瀬戸内。
北部九州。
吉備。
河内。
その他の地域首長。
との政治関係を利用できたなら、
一地域だけへ負担を集中させずに済む。
ある地域が船を提供する。
別の地域が食料を負担する。
また別の地域が兵を出す。
という具体的な分担が実際にあったかどうかは史料から確認できない。
しかし、
複数地域の余力を組み合わせられる政治構造は、継戦力を高める条件になり得る。
十四 四〇四年条には海上活動を考えさせる文字もある
四〇四年条は損傷が大きいが、
校訂によっては船に関係すると読まれてきた部分がある。
ただし、
その断片だけから、
大船団の規模や作戦内容を復元することはできない。
より確実に言えるのは、
列島側から半島へ軍事勢力が移動する以上、
何らかの船舶輸送能力が不可欠だった
ということである。
ここでも、
海洋技術が軍事行動の成立条件
になる。
十五 海を越えるだけではなく、何度も越える社会になった
第一部で見た海洋社会は、
海を渡る能力を持っていた。
弥生時代には、
交易のため繰り返し渡った。
四世紀後半には、
外交使節や王族が往来する。
そして四世紀末から五世紀初頭には、
軍事活動が繰り返される。
ここで海洋技術の意味は大きく変わる。
「渡れる」という技術が、「政治目的のため繰り返し軍事輸送できる」という国家的能力へ転換していく。
十六 だから四〇四年は、四〇〇年より別の意味で重要である
四〇〇年戦役は、
倭が高句麗の大規模な軍事行動と衝突したことを示す。
しかし四〇四年条が加わることで、
その意味が変わる。
一回の遠征ではない。
一度の敗北でも終わらない。
数年にわたって、
倭と呼ばれる勢力が半島軍事政治に関与し続ける。
ここに、
対外活動の「規模」だけではなく「持続性」
が見えてくる。
十七 次に問うべきは「この倭軍はいったい誰だったのか」である
ここまで来ると、
避けて通れない問題がある。
広開土王碑は、
繰り返し「倭」と書く。
しかし、
その倭軍を誰が編成したのか。
列島のどの地域から来たのか。
大和王権が直接指揮したのか。
百済や加耶の兵が混ざっていたのか。
海域首長が独自に参加したのか。
までは明確に説明してくれない。
次節では、
「広開土王碑の『倭』とは誰なのか」
という問いから、倭を単一民族軍とも、大和王権直属軍とも最初から決めず、その政治・軍事的実態を検討する。
第六節 「広開土王碑の『倭』とは誰なのか」――民族名でも大和直属軍でも決めつけない
一 「倭」と書いてあるから、すべて分かったわけではない
広開土王碑には、
「倭」
という文字が現れる。
一見すると単純である。
倭が新羅方面で活動した。
倭が高句麗と戦った。
ならば、その倭軍とは、
列島から大和王権が送り出した軍隊だった。
そう考えたくなる。
しかし、碑文そのものは、
その軍隊を誰が編成し、誰が指揮し、どの地域から兵を集めたのか
までは説明していない。
二 まず「倭」と「倭人」を現代民族名のように扱わない
古代史料に現れる「倭」は、
現代の「日本人」という国籍概念とそのまま同じではない。
列島内部には、
複数の地域社会。
複数の首長。
海峡を活動圏とする集団。
半島南部と深い関係を持つ人々。
が存在した。
したがって、
碑文の倭軍に参加した人物全員について、
同じ出自。
同じ文化。
同じ政治的所属。
を想定することはできない。
重要なのは、
高句麗側が彼らを政治・軍事上「倭」と認識していた
という事実である。
三 「倭」と呼ばれたこと自体には意味がある
だからといって、
倭という名称には実体がなかった
とするのも行き過ぎである。
高句麗側は、
百済。
新羅。
そして倭。
を区別して記述している。
少なくとも高句麗王権から見れば、
倭とは、
他の政治勢力と区別できる名称だった。
つまり、
四世紀末には「倭」と呼ばれる政治・軍事的まとまりが、対外的にも認識されていた
ことになる。
四 しかし「倭=大和王権直属軍」とはまだ言えない
ここで最も注意したい。
広開土王碑には、
「大和王が軍を派遣した」
とは書かれていない。
「倭王が指揮した」
とも書かれていない。
まして、
中央政府が全国から兵を徴発し、
統一された指揮系統のもとで派遣した
という制度まで読み取ることはできない。
したがって、
碑文の倭軍を、そのまま後世的な意味での中央政府軍とすることはできない。
五 では、地方勢力だけだったのか
反対に、
北部九州などの海域勢力が独自に動いただけで、
列島の王権とはまったく無関係だった
と決めることも難しい。
四世紀後半には、
百済と倭の王権外交を考えさせる七支刀がある。
『三国史記』には、
百済太子腆支の倭滞在と、
倭王による帰国支援の記事がある。
そして同じ時期、
列島内部では前方後円墳を共有する広域的な首長関係が展開している。
これらを考えると、
王権と完全に無関係な海上武装集団だけで、三九九年から四〇四年までの倭の活動を説明することにも問題が残る。
六 もっとも現実的なのは「複数の層」を考えることである
そこで一つの可能性として、
倭軍を一枚岩の組織ではなく、
複数の層からなる軍事勢力として考えることができる。
列島王権と関係する有力者。
北部九州や瀬戸内などの海域首長。
半島南部との往来経験を持つ人々。
航海を担う集団。
現地で活動していた倭系人物。
さらに状況によっては、半島側の協力勢力。
こうした人々が、
同じ政治目的のもとで軍事行動に参加した可能性
である。
七 ただし「混成軍だった」と断定することもできない
ここでも仮説と事実を分ける必要がある。
碑文は、
倭軍の民族構成や地域構成を記録していない。
したがって、
百済兵が何人いた。
加耶兵が何人いた。
九州勢が中心だった。
といった具体的な構成を復元することはできない。
本稿で言えるのは、
古代の軍事勢力を現代的な単一民族軍と想定する必要はなく、複数勢力による構成も成立し得る
というところまでである。
八 「倭王権」と「海域首長」は対立概念ではない
ここが重要である。
大和王権か。
九州などの海域勢力か。
という二者択一にする必要はない。
王権が広域化する過程では、
地域首長そのものが王権の構成要素になり得る。
海を知る首長。
船を持つ首長。
半島との人脈を持つ首長。
そうした勢力を王権が政治的に結び、
必要なときに協力を得る。
つまり、
王権の軍事力とは、地方勢力を排除した中央軍ではなく、地方勢力を組織できる能力として成立した可能性
がある。
九 これは前方後円墳体制の議論ともつながる
前方後円墳を築く首長たちは、
各地域に存在する。
彼らが大和に移住して一つの集団になったわけではない。
地方に拠点を持ちながら、
広域的な政治関係へ参加する。
もしこの関係が軍事にも利用されたなら、
倭王権は、
自らすべての兵を直接保有しなくても、
地域首長を介して人・船・物資を動かすことができる。
ただし、
前方後円墳の共有だけから軍役制度を証明することはできない。
ここでは成立条件として考える。
十 海を渡る軍では、海域勢力の比重が大きくなる
国内の陸上戦と違い、
半島への遠征には船が不可欠である。
船を造る。
操船する。
海峡を渡る。
寄港地を知る。
天候を読む。
上陸地点を知る。
これらは専門的な経験を必要とする。
したがって倭王権が軍事活動を主導していたとしても、
実際の遠征では、
海峡地域や西日本の海上交通に熟達した勢力が重要な役割を担った可能性
を考えなければならない。
十一 王権の強さとは「自分ですべてできること」ではない
ここまで来ると、
王権というものの見方も変わる。
強い王権とは、
王の周囲だけに巨大な兵力を置くこと
とは限らない。
必要なときに、
船を持つ者を動かす。
兵を持つ首長を動かす。
食料を出せる地域を動かす。
半島との交渉経験を持つ者を使う。
つまり、
社会に分散している能力を、共通の政治目的へ転換できること
が重要になる。
本稿でいう「転換力」である。
十二 では碑文の「倭」をどう表現するのが最も安全なのか
ここまでの史料を踏まえるなら、
四〇〇年前後の倭軍を、
「大和王権直属の統一軍」
と断定するのは強すぎる。
一方で、
「王権とは無関係な海賊や傭兵」
と限定する根拠もない。
したがって現段階では、
列島の倭王権、あるいはそれと政治的に結びつく海域勢力を含む、組織された倭系軍事勢力
と捉えるのが慎重である。
十三 重要なのは、誰一人だったかではなく「組織された」ことである
本章の中心問題にとって、
一人一人の兵士の出身地を決めることが最重要ではない。
三九九年。
四〇〇年。
四〇四年。
と、倭と呼ばれる勢力が繰り返し軍事活動を行っている。
海を越える。
半島内部へ進む。
高句麗と戦う。
敗北しても再び行動する。
ここから見えるのは、
偶然そこにいた人々ではなく、一定の政治目的のもとで人と物を動かす組織力
である。
十四 だから「倭王権の関与」と「倭王の直接指揮」は分ける
この二つは同じではない。
王権が外交関係を結ぶ。
地域首長が軍事行動を担う。
王族や有力者が指揮する。
海域勢力が実働を担う。
という形でも、
王権の対外政策は成立し得る。
したがって、
倭王自身が戦場で指揮した証拠がないことと、倭王権が関与していなかったことは同義ではない。
十五 四世紀末の倭は「ネットワーク型の軍事力」だった可能性がある
ここまでの本稿の流れから見ると、
興味深い像が浮かぶ。
国家以前から存在した海域社会。
地域首長。
交易ネットワーク。
前方後円墳を共有する広域関係。
王権。
それらが完全に消えて中央集権国家へ置き換わったのではなく、
既存の関係を王権が利用する。
すると対外軍事力も、
一つの中央組織だけで完結するのではなく、
複数地域の能力を接続して成立する軍事ネットワーク
として形成された可能性がある。
十六 次に問うべきは「倭は何のために戦ったのか」である
誰が戦ったのか。
ここまでで、
少なくとも単純な答えでは済まないことが分かった。
すると次の問題は、
さらに重要になる。
なぜ、
そこまでして兵を海へ送ったのか。
なぜ四〇〇年に敗れても、
四〇四年に再び軍事活動を行ったのか。
領土が欲しかったのか。
百済を助けるためだったのか。
鉄と交易路を守るためだったのか。
高句麗の南下を抑えるためだったのか。
次節では、
「倭は何を守るために高句麗と戦ったのか」
という問いから、領土拡張だけでは説明できない、鉄・航路・港・友好勢力という海域政治の利害を検討する。
第七節 「倭は何を守るために高句麗と戦ったのか」――領土より先に海域秩序を見る
一 広開土王碑は、倭側の戦争目的を語ってくれない
三九九年。
四〇〇年。
四〇四年。
広開土王碑には、倭が繰り返し軍事的文脈で現れる。
しかし碑文は高句麗側の記録である。
高句麗が何をしたのかは詳しく書く。
一方で、
倭がなぜ戦ったのか。
何を獲得しようとしたのか。
何を守ろうとしたのか。
については、倭側の説明を残していない。
したがって、
倭の戦争目的は、碑文に直接書かれた事実ではなく、周辺史料とそれ以前の関係史から検討する問題
である。
二 まず「領土を欲しがった」と決める必要はない
外国へ兵を送る。
城を攻める。
他国の戦争へ介入する。
そこから、
半島南部を領土化しようとしていた
と考えることは可能である。
しかし、それだけが戦争の理由とは限らない。
古代の対外軍事行動には、
同盟国の支援。
交易路の確保。
敵対勢力の進出阻止。
政治的威信。
外交的発言力。
など、複数の目的があり得る。
したがって、
軍事介入と領土征服を最初から同一視しない
ことが必要である。
三 倭にとって半島南部は、突然現れた戦場ではない
ここで本稿を縄文時代から始めた意味が出てくる。
半島南部と列島の間には、
長い海上交流がある。
弥生時代には鉄を求める往来がある。
列島系の人々が一定期間滞在した可能性がある。
加耶地域との交易がある。
首長層の交流がある。
四世紀後半には百済との王権外交が現れる。
つまり四世紀末の半島南部は、
倭王権にとって、
突然兵を送り込んだ未知の外国ではなかった。
四 第一の利害は「鉄」である
弥生以来、
半島南部は鉄資源への重要な接続先であった。
鉄は、
農具。
木工具。
武器。
建築。
造船。
土木。
など、多くの活動に関係する。
したがって、
鉄そのものだけではなく、
鉄へアクセスできる交易路を維持すること
が列島側にとって重要だった可能性がある。
五 ただし「鉄のために戦争した」と一本化してはいけない
ここでも注意が必要である。
広開土王碑には、
倭は鉄を守るため高句麗と戦った
とは書かれていない。
鉄交易が重要だったことと、
四〇〇年前後の戦争目的を直接同一視することはできない。
鉄は、
倭が半島南部へ長期的関心を持つ理由の一つとして位置づけるべきである。
つまり、
戦争の直接原因ではなく、半島南部を重要視する構造的背景の一つ
なのである。
六 第二の利害は「航路」である
鉄があっても、
運べなければ意味がない。
港。
海峡。
島。
寄港地。
船。
水夫。
現地の仲介者。
これらが一体となって初めて海上交易は成立する。
したがって、
倭にとって重要だったのは、
特定の産地だけではなく、
列島と半島南部を結ぶ交通網そのもの
だったと考えられる。
七 第三の利害は「港を利用できる政治関係」である
港そのものが存在していても、
いつでも自由に使えるとは限らない。
その港を支配する首長や政治勢力との関係が必要になる。
友好的な勢力が港を持つ。
交易者を受け入れる。
船を補修できる。
食料を確保できる。
現地情報を得られる。
こうした関係が崩れれば、
海上交通そのものが不安定になる。
つまり倭にとって、
港を支配する現地勢力の政治状況も、自らの利益と無関係ではなくなる。
八 第四の利害は「百済との関係」である
四世紀後半には、
百済と倭との間に王権外交が成立していたことを考えさせる資料が現れる。
七支刀。
腆支の倭滞在を伝える記事。
そして高句麗碑に現れる百済と倭との政治関係。
これらを重ねると、
百済は倭にとって単なる交易相手ではない。
王権レベルで関係を持つ重要な政治勢力
になっていた可能性が高い。
九 百済が高句麗に圧迫されれば、倭にも影響する
百済と倭の関係が深ければ、
高句麗による百済への軍事圧力は、
倭にとって完全な他人事ではなくなる。
百済の政治力が低下する。
外交関係が変わる。
半島南部の勢力配置が変化する。
加耶方面への影響も変わる。
結果として、
航路。
交易。
鉄。
人の移動。
にも影響し得る。
したがって倭が高句麗の南下を警戒したとしても、
単なる義理による同盟支援だけでは説明する必要がない。
十 「友好勢力を守ること」が自国の利益になる
古代外交では、
自国の領土だけを守ればよい
とは限らない。
交易路の先に、
自国と関係の深い勢力がある。
その勢力が存続することで、
自国の交易や安全が維持される。
その場合、
友好勢力を軍事的に支援することは、
結果として自国の利益を守ることになる。
つまり、
領土防衛と同盟支援の間に、海域秩序を維持するという中間領域
が存在する。
十一 ここで高句麗の南下が大きな意味を持つ
高句麗が南方へ影響力を伸ばす。
百済を圧迫する。
新羅との関係を強める。
半島南部の政治構造が変化する。
それは倭にとって、
単に北方の強国が勢力を拡大した
という出来事ではない。
これまで倭が利用してきた海域ネットワークの条件そのものが変化する可能性を持つ。
したがって、
高句麗の南下と倭の軍事活動を、半島南部をめぐる広域的な政治秩序の再編として見る
ことができる。
十二 ただし「倭は高句麗を侵略者と見ていた」とも断定しない
ここでも倭側の文章がないという制約がある。
高句麗をどのように認識していたのか。
高句麗の南下をどの程度の脅威と考えたのか。
それは分からない。
したがって本稿では、
倭が高句麗を敵視していた
という心理を推定するのではなく、
高句麗の南下が、倭の既存の外交・交易関係へ影響を及ぼし得る地政学的条件
を指摘するにとどめる。
十三 軍事介入には、それだけの利益が必要になる
海を越えて軍を送ることは高価である。
兵を集める。
船を出す。
食料を準備する。
武器を用意する。
航海者を動員する。
現地で補給する。
そして死傷者が出る。
これほど大きな負担を負ってまで、
四〇〇年前後に繰り返し軍事活動が行われたとすれば、
倭側にも、
その費用に見合う政治的・経済的な利害が存在した可能性
を考えなければならない。
十四 「傭兵だから戦った」だけでも説明は終わらない
倭系の兵が、
百済や半島側勢力の傭兵として活動した可能性は排除できない。
しかしそれだけでは、
なぜ高句麗碑に「倭」という政治・軍事カテゴリーが繰り返し現れるのか。
なぜ百済と倭の王権外交が同時期に存在するのか。
なぜ四〇〇年の敗北後も四〇四年に軍事活動が続くのか。
という問題が残る。
したがって、
傭兵の存在可能性と、倭側の政治的関与は両立し得る問題
として考えるべきである。
十五 「領土」より先に「海域秩序」を置くと流れがつながる
ここまでの長期史を並べてみる。
海を渡る。
交易する。
鉄を得る。
人が滞在する。
港を利用する。
首長と関係を持つ。
百済と外交する。
高句麗の南下によって半島南部の政治環境が変わる。
そして軍事介入する。
この流れを見ると、
倭王権の行動を、
いきなり海外領土獲得へ飛ばす必要はない。
まず、
それまで築かれてきた海域関係を維持し、その秩序へ発言できる立場を確保する
という政治目的を考えることができる。
十六 その上で領土的野心の可能性を排除する必要もない
一方で、
海域秩序を守ることと、
政治的支配を拡大しようとすることは、
必ずしも矛盾しない。
軍事介入が繰り返されれば、
友好勢力への影響力を強めたい。
港への発言力を持ちたい。
軍事上の優位を認めさせたい。
という要求が生まれることもあり得る。
重要なのは、
領土支配を最初から前提にせず、交易・外交・軍事・政治的権限がどの段階で重なっていったのか
を追うことである。
十七 五世紀になると、その「発言権」が文字になる
四世紀末の広開土王碑から分かるのは、
倭が実際に半島政治へ軍事的に関与していたことである。
しかし、
倭王自身が自らをどのような政治主体と考えていたのか
までは分からない。
ところが五世紀になると、
中国王朝へ送られた外交の中で、
倭王自身が半島南部の諸国を含む軍事的地位を主張するようになる。
つまり、
四世紀末には行動として現れていたものが、
五世紀には、
倭王自身の政治的主張として文字に現れる。
その前に、もう一つ確認しておかなければならない。
三九九年・四〇〇年・四〇四年を並べたとき、
倭の軍事活動をどこまで強く評価できるのか。
次節では、
「広開土王碑から、何が言えて何が言えないのか」
という問いから、本章の証拠を整理し、半島支配論にも倭弱小論にも寄らない到達点を示す。
第八節 「広開土王碑から何が言えて、何が言えないのか」――倭の軍事力を過大にも過小にも評価しない
一 ここで一度、証拠を整理する
広開土王碑には、
倭。
百済。
新羅。
高句麗。
そして半島南部の諸勢力が、
政治・軍事の文脈で現れる。
しかし碑文は高句麗王権の記念碑であり、
倭側の記録ではない。
したがって本章の結論は、
碑文から確認できる事実と、
そこから考えられる仮説を分けて示す必要がある。
二 三九九年から言えるのは「倭が政治問題になっていた」ことである
三九九年条では、
百済と倭との関係が記され、
新羅から高句麗への訴えの中にも倭が現れる。
細部の表現には碑文特有の政治的修辞を考慮する必要がある。
しかし少なくとも、
倭が単なる交易者としてではなく、
新羅・百済・高句麗の政治関係に影響する存在として高句麗側に認識されていた
ことは重要である。
三 四〇〇年から言えるのは「実際に軍事衝突があった」ことである
翌四〇〇年、
高句麗は新羅方面へ軍を派遣したと碑文は記す。
その軍事行動の中で、
倭と高句麗との戦闘が描かれる。
したがってここでは、
倭の存在が外交上の認識にとどまらない。
軍事的な対戦相手として現れている。
四 ただし「倭軍五万」ではない
碑文が記す五万は、
高句麗側の歩兵・騎兵の数字である。
倭軍の人数は記されていない。
したがって、
倭も数万の兵力を持っていた。
高句麗と同規模の軍を出した。
という推定はできない。
ここで確認できるのは、
倭が高句麗軍と衝突する規模の半島軍事活動へ参加していた
というところまでである。
五 四〇四年が加わると「一度きり」ではなくなる
四〇〇年に倭側が敗退したとすれば、
それだけなら一度の軍事遠征だった可能性も残る。
しかし四〇四年、
倭は再び高句麗側との軍事衝突の記事に現れる。
これによって、
三九九年。
四〇〇年。
四〇四年。
という複数年の活動が見えてくる。
つまり、
四世紀末から五世紀初頭にかけて、倭と呼ばれる勢力が半島軍事政治へ継続的に関与していた
可能性は高くなる。
六 だからといって「半島南部は倭の領土だった」とはならない
ここは明確に線を引かなければならない。
軍隊が活動する。
城を攻める。
現地勢力と協力する。
数年間軍事介入する。
これらと、
その土地を行政的に支配することは別である。
領土支配を立証するなら、
継続的な行政。
徴収。
地方官。
恒常的駐屯。
土地支配。
など、さらに強い証拠が必要になる。
広開土王碑だけから、
半島南部全体を倭の領土とすることはできない。
七 逆に「少数の傭兵だけだった」と決めることもできない
反対方向への単純化も避けなければならない。
倭系の傭兵が存在した可能性はある。
現地勢力と混成して戦った可能性もある。
しかし、
三九九年。
四〇〇年。
四〇四年。
と高句麗側の記録に繰り返し「倭」が登場する。
さらに同時期には、
百済と倭の王権外交を示す資料も存在する。
したがって、
王権と無関係な少数の傭兵活動だけで全体を説明することにも無理がある。
八 「倭=大和直属軍」もまだ証明できない
では、
その反対に、
すべて大和王権が直接編成した軍隊だった
と言えるのか。
これも証明できない。
碑文には、
倭王の命令。
具体的な司令官。
列島側の出兵地域。
軍の編成方法。
は記されていない。
したがって、
倭王権の関与可能性と、倭王による直接指揮を分ける
必要がある。
九 最も重要なのは「組織された海越えの軍事行動」が存在したことである
指揮系統が完全には分からない。
兵数も分からない。
個々の兵士の出自も分からない。
それでも残るものがある。
海を渡る。
兵を送り出す。
半島内部で活動する。
現地の政治勢力と関係する。
高句麗軍と戦う。
敗れた後にも再び行動する。
これは、
偶発的な個人活動だけでは成立しにくい継続的な組織力
を必要とする。
十 ここで列島内部の王権形成との時間的重なりが重要になる
三~四世紀の列島では、
前方後円墳が広域に展開する。
大型古墳が築かれる。
地域首長間の関係が形成される。
政治中枢が発達する。
そして四世紀後半には、
百済との王権外交が見える。
その直後、
四世紀末から五世紀初頭に、
高句麗側の碑文へ軍事主体としての倭が現れる。
これらを直接的な因果関係として証明することはできない。
しかし、
列島内部の広域的政治組織化と対外軍事活動が同じ歴史過程の中で進行している
ことは無視できない。
十一 古墳を造る力と軍を送る力は、同じではないが共通条件を持つ
巨大古墳を築くには、
人を集める。
食料を供給する。
資材を運ぶ。
工人を編成する。
長期間事業を維持する。
といった能力が必要になる。
海外軍事活動にも、
人を集める。
食料を準備する。
船を動かす。
武器を用意する。
補給を維持する。
という能力が必要になる。
したがって、
古墳築造と海外遠征は別の活動でありながら、その背後には社会的余剰を組織する共通能力が存在する。
十二 ここに「転換力」が現れる
本稿でいう転換力とは、
社会に分散している、
人口。
食料。
技術。
船舶。
労働力。
情報。
を、
特定の政治目的へ振り向ける能力である。
四世紀末の倭を考える上で重要なのは、
列島に船や兵が存在したことだけではない。
それらを、
海を越えた政治・軍事活動へ転換できる仕組みが形成されていた可能性
である。
十三 さらに四〇四年は「継戦力」を考えさせる
一度だけなら、
一時的な動員でも説明できる。
しかし四〇〇年の戦闘後、
四〇四年にも倭が軍事的に現れる。
ここでは、
使った余剰を再び作る。
新しい兵を集める。
船を再び用意する。
外交関係を維持する。
という能力が必要になる。
つまり倭の対外活動を見るとき、
単純な兵力だけではなく、
余剰を再生産し、再び政治目的へ投入する継戦力
という視点が必要になる。
十四 広開土王碑から最も強く言えるところはここまでである
広開土王碑だけから、
倭が半島を全面支配していた。
大和王が全軍を直接指揮していた。
倭軍は何万人だった。
といったことまでは言えない。
しかし一方で、
倭は弱小な交易者集団にすぎなかった。
半島政治とはほとんど無関係だった。
とも言えない。
碑文から比較的強く確認できるのは、
四世紀末から五世紀初頭に、「倭」と呼ばれる組織された軍事勢力が、半島の王国間政治へ継続的に関与していた
ということである。
十五 そして次の史料では、倭王自身が語り始める
広開土王碑は、
高句麗から見た倭である。
そこには、
倭王が何を望んでいたのか。
半島南部をどのような政治空間と考えていたのか。
自らの王権をどう位置づけていたのか。
は直接書かれていない。
しかし五世紀に入ると、
今度は中国南朝の史書に、
倭王自身が送った外交活動が記録される。
讃。
珍。
済。
興。
武。
いわゆる、
倭の五王
である。
とりわけ彼らが求めた称号には、
倭だけでなく、
新羅。
任那。
加羅。
秦韓。
慕韓。
そして倭王側の要求では百済までもが現れる。
四世紀末には、
軍事行動として見えていた倭の半島関与。
五世紀になると、それが今度は、
倭王自身の政治的主張として文字に現れる。
次章では、
「倭王は、なぜ海の向こうの軍事権まで求めたのか」
という問いから、倭の五王の外交を読み解き、海域社会から成長した倭王権が五世紀に何へ変わったのかを検討する。
第十四章 「倭王は何を求めたのか」――倭の五王と海域秩序
第一節 「五人の王は突然現れたのか」――四世紀の軍事活動から五世紀の外交へ
一 高句麗側から見えた「倭」の次に、倭王自身の外交が現れる
前章では、
広開土王碑に現れる倭を見た。
三九九年。
四〇〇年。
四〇四年。
そこでは倭が、
交易者でも、
単なる滞在者でもなく、
半島の王国間政治へ関与する軍事勢力として記録されていた。
しかし広開土王碑は、
あくまで高句麗側の史料である。
倭王自身が、
何を望んでいたのか。
自らをどのような王と考えていたのか。
半島南部をどのような政治空間として見ていたのか。
までは語ってくれない。
五世紀になると、
その問題を考えることのできる史料が現れる。
倭の五王である。
二 中国史料に現れる五人の倭王
南朝宋の史料には、
讃。
珍。
済。
興。
武。
という倭王が記録される。
いわゆる、
倭の五王
である。
『宋書』では、
五世紀を通じて倭王から宋への遣使と、
宋側から与えられた官爵が記録される。
ここで重要なのは、
五人の個人名だけではない。
倭王権が数十年にわたり中国王朝との外交を継続している
ことである。
三 これは一度きりの朝貢ではない
一人の王が、
一度だけ中国へ使者を送った
という話ではない。
王が代わる。
次の王も使節を送る。
さらにその次の王も外交を継続する。
つまり、
個人同士の偶発的な関係ではなく、
王権そのものが外交関係を継承している。
ここに三世紀とは少し違う姿が見えてくる。
四 三世紀にも「倭王」は存在した
もちろん、
倭王という存在そのものが五世紀に突然生まれたわけではない。
三世紀の中国史料には、
卑弥呼がいる。
さらにそれ以前にも、
中国側史料には倭国王とされる存在が現れる。
したがって、
五世紀になって初めて列島に王が出現した
ということではない。
問うべきなのは、
「王がいたか」ではなく、「王権の性格がどう変わったか」
である。
五 卑弥呼と五王を同じ「倭王」でまとめてはいけない
三世紀の卑弥呼は、
複数の政治勢力が存在する中で「共立」された女王として記される。
一方、
五世紀の倭王たちは、
王位を継承しながら、
宋へ継続的に使節を送る。
中国式の官爵を求める。
自らの配下にも官爵を求める。
さらに半島南部に関わる軍事的称号まで要求する。
同じ「倭王」という表現であっても、
その王が動かしている政治組織の規模と性格まで同じだったとは限らない。
六 四世紀を飛ばすと、五王の姿が突然に見えてしまう
五王だけを見ると、
五世紀になって急に、
強い倭王が現れた
ように見える。
しかし本稿では、
その間にある四世紀を見てきた。
纒向を中心とする政治的集中。
前方後円墳の広域的展開。
地域首長間の政治関係。
百済との王権外交。
そして四世紀末の半島軍事活動。
これらを同じ時間軸に置けば、
五王は、
何もないところから突然出現した王たちではなく、列島内外で進んだ政治的組織化の先に現れた王たち
として検討することができる。
七 ただし「前方後円墳体制が五王を生んだ」と単純化しない
ここでも因果関係には注意が必要である。
前方後円墳が広がった。
だから自動的に五王が成立した。
というわけではない。
墳墓形式。
首長間関係。
王位継承。
軍事。
外交。
中国王朝との関係。
それぞれは異なる資料から考えなければならない。
しかし、
広域的な首長関係を持つ社会が形成され、その後に対外的な王権外交が継続して現れる
という時間的な連続は重要である。
八 五王の最大の特徴は「王の外側に政治組織が見える」ことである
三世紀の史料でも、
卑弥呼には使節や官人がいる。
したがって、
卑弥呼が一人ですべてを動かしていたわけではない。
しかし五世紀になると、
その組織性がより具体的に見えるようになる。
外交使節。
軍事的称号。
王の配下にいる複数の有力者。
王位継承者。
漢文外交を担う人物。
つまり、
倭王一人だけではなく、その周囲に政治実務を担う人々が存在することが史料上より明瞭になる。
九 海を渡る能力も「個人技」ではなくなっている
宋へ使節を送るには、
船を用意する。
航路を確保する。
食料を準備する。
中国側の外交儀礼を理解する。
文書を作成する。
贈答品を準備する。
使節を長期間国外へ送り出す。
という複数の能力が必要になる。
これは、
一人の優れた船乗りが海を渡れる
という問題ではない。
王権が外交活動を組織として維持できるか
という問題である。
十 ここでも海洋技術は「政治技術」の一部になる
第一部では、
海洋技術を、
舟を造る。
海を読む。
航路を知る。
人と物を運ぶ。
という能力として見た。
しかし五世紀になると、
そこへさらに、
外交使節を送る。
外国王朝と関係を維持する。
政治文書を運ぶ。
外国から得た官爵や情報を国内政治へ利用する。
という機能が加わる。
つまり海洋技術は、
物を運ぶ技術から、国家外交を支える基盤へ変化している。
十一 倭王はなぜ宋へ向かったのか
ここで一つの問いが生まれる。
倭王はすでに、
列島の中で王だった。
百済とも外交関係を持っていた。
半島の軍事政治にも関与していた。
それなら、
なぜさらに遠い中国南朝へ使節を送る必要があったのか。
単に、
中国皇帝に認めてもらいたかった
だけなのだろうか。
問題はもっと複雑である。
十二 中国の官爵は、対外的な「政治言語」でもあった
東アジアの外交世界では、
中国王朝の官爵や将軍号は、
国際的な政治関係を表現する一つの言語だった。
誰を何将軍とするか。
どの地域の軍事を都督すると認めるか。
どの王号を与えるか。
そこには、
中国王朝が認識する政治秩序が表現される。
したがって倭王にとって、
宋から官爵を得ることは、
単なる名誉ではない。
自らの政治的位置を、中国王朝の外交秩序の中で表現する手段
でもあった。
十三 そしてその称号は、列島内部にも意味を持ち得る
外国皇帝から得た称号は、
対外外交だけに使われるとは限らない。
倭王が、
自らは宋皇帝から一定の地位を認められた王である
と示すことは、
列島内部の有力首長との関係にも意味を持ち得る。
さらに後には、
倭王が自分の配下についてまで宋へ任官を求める記事が現れる。
ここから、
中国外交を利用して倭国内の政治秩序を表現しようとした可能性
も検討できる。
十四 つまり五王外交には「外向き」と「内向き」の二面がある
宋へ向けては、
倭王の国際的地位を示す。
半島南部についての政治的主張を行う。
一方、
列島側へ向けては、
王の権威を高める。
配下の有力者を序列化する。
王権を中心とする政治秩序を強化する。
その両方が、
同じ外交制度を通じて行われ得る。
つまり、
外交は国内政治と切り離されたものではない。
十五 最初に現れるのは倭王讃である
五世紀の五王外交を具体的に追うと、
まず倭王讃が現れる。
四二一年、
宋の史料は倭王讃の朝貢を記す。
さらにその後にも、
倭側からの使節が続く。
ここから、
四世紀末に軍事的な倭として現れた勢力が、
五世紀には、
中国南朝との継続的な外交主体
として姿を現す。
十六 四世紀の「行動」が、五世紀には「政治的主張」へ変わる
前章で見た倭は、
戦場にいた。
しかし何のために戦ったのかは、
倭自身の言葉では分からなかった。
五世紀の倭王外交では、
少しずつ状況が変わる。
倭王は、
自分がどのような地位を求めているのか。
どの地域の軍事的権限に関与しようとしているのか。
を中国王朝へ示すようになる。
つまり、
四世紀末に軍事行動として外から観測された倭の対外関与が、五世紀には倭王自身の政治的主張として史料に現れる。
十七 次に見るのは「讃はなぜ宋へ使者を送ったのか」である
倭の五王を、
名前の暗記として追っても意味はない。
重要なのは、
それぞれの王の外交によって、
倭王権の何が変わったのかを見ることである。
まず四二一年、
倭王讃が宋へ使節を送る。
そこから、
五世紀倭王権が中国外交をどのように利用し始めたのかが見えてくる。
次節では、
「なぜ倭王讃は宋へ向かったのか」
という問いから、四世紀末の軍事活動と五世紀の中国外交がどのようにつながるのかを検討する。
第二節 「なぜ倭王讃は宋へ向かったのか」――四二一年から始まる五世紀外交
一 四二一年、倭王讃が宋の史料に現れる
五世紀の倭王外交を具体的に追うと、
最初に現れるのが、
倭王讃である。
『宋書』倭国伝は、
四二一年、
倭王讃が朝貢したことを記す。
宋の建国は四二〇年である。
つまり倭王讃の遣使は、
新しい南朝王朝が成立した直後
に行われている。
二 しかし、なぜ讃が宋へ使者を送ったのかは書かれていない
ここで最初から注意しておかなければならない。
『宋書』は、
讃がなぜ宋へ向かったのか
という倭側の動機を詳しく説明していない。
したがって、
中国文化を学ぶためだった。
宋へ服属するためだった。
半島支配を認めてもらうためだった。
と一つに決めることはできない。
まず確認できるのは、
五世紀初頭の倭王が、新たに成立した南朝宋との正式な外交関係を求めた
ということである。
三 宋側は倭王の来朝を評価した
『宋書』には、
讃が遠方から朝貢してきたことを評価し、
官爵を与えるべきであるという趣旨の詔が記される。
ここで重要なのは、
単に貢物を運んだことではない。
宋側が、
倭王を、
外交関係を結ぶべき国外の王として認識している
ことである。
三世紀の魏と卑弥呼の関係に続き、
列島王権は再び中国王朝の外交秩序へ入っていく。
四 しかし三世紀と同じ外交ではない
卑弥呼が魏へ使者を送った時代と、
倭王讃の時代との間には、
およそ二世紀近い時間がある。
その間に列島では、
前方後円墳が広域化する。
巨大古墳が築かれる。
地域首長間の政治関係が発達する。
百済との王権外交が成立する。
四世紀末には半島での軍事活動も外部史料に現れる。
したがって五世紀の遣宋使は、
三世紀の外交をそのまま再開したものではなく、より広域化した王権が行う外交
として検討しなければならない。
五 讃の外交は一度で終わらない
讃の名が現れるのは、
四二一年だけではない。
四二五年には、
倭王讃が使者を送ったことが記録される。
その使者として現れるのが、
司馬曹達
である。
さらに宋側の紀年記事には、
四三〇年にも倭国からの遣使が記されている。
四三〇年の使節まで讃の外交としてどこまで確定できるかには注意が必要であるが、
少なくとも五世紀前半、
倭と宋との外交が一度だけの接触ではなく継続していた
ことは重要である。
六 「司馬曹達」という人物は何を示すのか
四二五年の記事には、
司馬曹達という人物名が現れる。
ここで「司馬」を、
ただちに倭王権内部の正式な中国式軍事官職だった
と断定することには慎重でなければならない。
名称の理解には検討の余地がある。
しかし少なくとも、
倭王本人が中国へ行ったのではない。
王に代わって、
外交を担当する人物が海を越えている。
つまり、
王と使節の役割が分かれている。
七 これは当たり前のようで、国家形成史では重要である
王が外交のたびに自ら船へ乗る社会と、
王は国内に残り、
代理人を国外へ派遣できる社会とでは、
政治組織のあり方が違う。
使節には、
王の意思を伝える権限が必要である。
外交文書を運ぶ。
贈答品を管理する。
外国の宮廷で儀礼を行う。
返答を持ち帰る。
つまり遣使とは、
王権が自らの政治意思を遠隔地へ代理させる制度
なのである。
八 中国までの外交は、半島渡航よりさらに長い
倭から百済や加耶方面へ渡ることと、
宋の領域へ外交使節を送ることは、
同じ海上移動ではない。
航海距離が長くなる。
複数の寄港地を利用する可能性がある。
長期間の食料が必要になる。
外国語や漢文の知識もいる。
中国王朝の外交儀礼も理解しなければならない。
したがって遣宋使は、
海洋技術だけではなく、外交・文書・補給を組み合わせた総合的な国家事業
として考える必要がある。
九 ここでも半島との関係が無関係ではない
倭と中国南朝との外交を、
列島から中国へ一本の線だけで考えると、
それまでの歴史が切れてしまう。
倭と百済との間には、
すでに王権外交がある。
半島南部には、
長い人的交流がある。
漢字文化や大陸の政治制度に接する経路としても、
半島諸国との関係は重要だった。
したがって、
倭の対宋外交も、それまで形成されていた東アジア海域ネットワークの上に成立した
と考える方が自然である。
十 では、倭王は宋から何を得ようとしたのか
ここからが重要である。
倭王が宋へ使者を送る以上、
航海。
人員。
貢物。
時間。
という大きな負担が生じる。
それでも外交を続ける。
そこには、
それに見合う政治的利益があったと考えなければならない。
一つは、
中国皇帝から官爵を受けることによって、
倭王の国際的地位を表現できること
である。
十一 中国王朝の称号は、単なる飾りではない
中国王朝から与えられる、
王号。
将軍号。
都督号。
などは、
現代の勲章のようなものだけではない。
それらは、
中国王朝がその人物を、
どのような政治的位置に置くか
を示す外交上の表現である。
したがって倭王にとっては、
宋からどの称号を得るかが、
東アジア政治の中で自らをどう位置づけるか
という問題につながる。
十二 しかし宋の称号が、倭王の実際の支配範囲を決めるわけではない
ここも重要である。
宋皇帝が倭王に称号を与えた。
だからその瞬間から倭王が列島で王になった
というわけではない。
倭王は宋との外交以前から、
列島側の政治基盤を持っている。
逆に、
宋から広い軍事称号を得たからといって、
その称号に記された地域すべてを実際に直接統治していた
とも限らない。
つまり、
冊封上の地位と、現実の政治支配を分けて考える
必要がある。
十三 それでも称号には利用価値がある
現実の支配と完全に一致しなくても、
中国皇帝から得た称号には政治的価値がある。
国外に対しては、
自らの外交的立場を示せる。
国内に対しては、
王の権威を高める材料になり得る。
さらに後の倭王たちは、
自分自身の称号だけでなく、
配下の有力者の官爵まで宋へ求めるようになる。
つまり中国外交は、
次第に、
倭王を頂点とする政治秩序そのものを表現する道具
として利用されていく。
十四 讃の段階では、まだ半島諸国への軍事権要求は前面に出ない
ここも五王外交を段階的に見るために重要である。
四二一年の讃の記事から、
後の倭王武のような大規模な政治主張をそのまま読み込んではならない。
讃の段階で確認できるのは、
宋との外交関係を築き、
官爵を得ていく姿である。
その後、
珍。
済。
武。
へ進むにつれて、
半島南部を含む軍事的称号の要求がより具体的になる。
つまり、
五王外交そのものにも変化がある。
十五 五世紀外交は「積み上げ」で見る必要がある
讃が宋との関係を結ぶ。
次の王がその外交を引き継ぐ。
要求する称号が変化する。
配下の人物についても官爵を求める。
半島南部への政治的立場を主張する。
そして倭王武の上表文へ至る。
この流れを見ると、
五王外交とは、
五人の王がそれぞれ勝手に中国へ行った出来事ではない。
王権が外交経験を継承しながら、自らの主張を発展させていく過程
として見ることができる。
十六 そして四三八年、要求の内容が大きく変わる
讃の後、
倭王珍が宋へ使者を送る。
四三八年である。
ここで史料に、
これまでとは明らかに異なる政治的要求が現れる。
倭だけではない。
百済。
新羅。
任那。
秦韓。
慕韓。
という半島側の名称まで含んだ軍事的称号を、
倭王が求めるのである。
前章で見た四世紀末の半島軍事活動と、
五世紀の外交主張が、
ここで初めて明瞭につながってくる。
次節では、
「なぜ倭王珍は半島諸国の名まで称号に入れたのか」
という問いから、四三八年の要求を読み解き、倭王が海の向こうの政治秩序をどこまで自らの問題と考えていたのかを検討する。
第三節 「なぜ倭王珍は半島諸国の名まで称号に入れたのか」――四三八年に現れた海域政治の主張
一 四三八年、倭王の要求が大きく変わる
倭王讃の後、
中国史料には倭王珍が現れる。
四三八年、
珍は宋へ使者を送り、
自らを、
使持節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王
と称し、
その地位を正式に認めるよう求めた。
ここで、
五王外交の内容が一段変わる。
問題はもはや、
「倭国王として認めてほしい」
だけではない。
二 称号の中に、海の向こうの国々が入っている
珍が称号に入れたのは、
倭だけではない。
百済。
新羅。
任那。
秦韓。
慕韓。
という半島側の名称が並ぶ。
つまり倭王は、
中国皇帝に対して、
自分は倭だけではなく、半島南部を含む広い政治・軍事空間に関与する王である
という主張を行っている。
三 これは四世紀末の軍事活動と切り離して読めない
もし倭が、
それ以前ほとんど半島政治に関与していなかったのであれば、
四三八年になって突然、
半島諸国を含む軍事称号を要求することになる。
しかし前章で見たように、
三九九年。
四〇〇年。
四〇四年。
には、
高句麗側の碑文に軍事主体としての倭が現れる。
さらにその前には、
百済との王権外交もある。
つまり珍の要求は、
五世紀になって突然生まれた空想的な主張だけではなく、それ以前の対半島関係を背景として考える必要がある。
四 ただし「称号に入れた=支配していた」ではない
ここで最も重要な線引きがある。
百済。
新羅。
任那。
秦韓。
慕韓。
を称号に入れた。
だから、
それらの地域を倭王が直接統治していた。
とは言えない。
珍が示したのは、
まず、
倭王自身がどのような政治的地位を求めていたのか
という主張である。
外交上の要求と、
現実の行政支配は分けなければならない。
五 「都督諸軍事」とは何を求める称号なのか
「都督諸軍事」は、
中国王朝の官爵秩序の中で、
一定地域の軍事に関わる地位を表現する称号である。
したがって珍は、
土地の所有権そのものを宋へ申請した
と単純に理解するより、
半島南部を含む軍事秩序において、自らの指導的地位を中国皇帝に認めさせようとした
と見る方が慎重である。
六 なぜ倭王は、そのような地位を必要としたのか
ここで再び海域史へ戻る。
鉄。
港。
航路。
人の移動。
加耶諸勢力との交流。
百済との外交。
高句麗との軍事的衝突。
倭王権にとって、
半島南部の政治状況は、
もはや遠い外国の出来事ではなかった。
半島側の勢力関係が変化すれば、
列島側の交易・外交・安全保障にも影響する
ところまで関係が深まっていた可能性がある。
七 「領土」より先に「発言権」という視点を置く
ここで珍の要求を、
半島を全部領土にしたかった
という一言で説明すると、
古代外交の複雑さが消えてしまう。
交易路を維持したい。
友好勢力を支えたい。
港への接続を確保したい。
敵対勢力の拡大を抑えたい。
軍事行動を行う正統性を得たい。
こうした複数の目的が、
一つの称号要求に重なっていた可能性がある。
つまり倭王が求めたものを、
海の向こうの政治秩序に対する発言権
として考えることができる。
八 中国皇帝の承認には外交上の意味がある
倭王が、
自分は半島南部の軍事に関与する王である
と勝手に名乗ることと、
宋皇帝から正式にその称号を認められることは違う。
中国王朝から承認を受ければ、
その地位を、
東アジア外交の共通言語の中で示すことができる。
したがって珍にとって、
宋の承認とは、
自らの既存の活動を国際的な称号へ変換する試み
でもあった。
九 ところが宋は、珍の要求をそのまま認めなかった
ここが重要である。
珍は、
半島諸国を含む広い軍事称号を自称し、
その正式な承認を求めた。
しかし宋が認めた称号は、
珍が求めたものと同じではなかった。
つまり、
倭王が主張する政治秩序と、宋皇帝が認める政治秩序との間には差があった。
十 ここに「倭王が何を望んだか」と「国際社会が何を認めたか」の違いが見える
この違いは、
古代史を考える上で非常に重要である。
倭王の要求。
宋の承認。
現実の支配。
この三つを、
同じものとして扱ってはいけない。
倭王は広い地位を要求する。
宋はその一部だけを認める。
現地の百済・新羅・加耶諸勢力には、
それぞれ独自の政治意思がある。
つまり、
一つの称号をめぐって複数の政治主体の思惑が交差している。
十一 ここでも半島側は受け身ではない
倭王が称号を要求したからといって、
百済や新羅が、
倭王の軍事指揮下に入ることを認めた
ということにはならない。
百済には百済王がいる。
新羅には新羅王権がある。
加耶諸勢力にもそれぞれ首長がいる。
彼らは、
倭王のためだけに存在しているのではない。
したがって、
倭王の主張は、半島側諸勢力の独自性と並べて読まなければならない。
十二 それでも倭王がそこまで要求した事実は消えない
一方で、
実際には支配していなかったかもしれない。
だからこの称号要求には意味がない。
とするのも違う。
外交交渉で、
実際の政治基盤と完全に無関係な主張をしても、
説得力を持ちにくい。
少なくとも珍は、
半島南部の軍事秩序へ自らが関与する資格を持つ
と宋へ主張できるだけの背景があると考えていた。
十三 広開土王碑と並べると、その主張の重さが変わる
四〇〇年前後、
高句麗側の碑文には、
倭が半島で軍事活動を行ったことが記される。
その数十年後、
倭王珍は、
半島南部の軍事に関わる称号を中国皇帝へ求める。
両者を同一の政策がそのまま続いた
と断定することはできない。
しかし、
軍事行動の実績を示す外部史料と、広域軍事権を求める倭王自身の外交主張が、時間的に連続して現れる
ことは重要である。
十四 ここで海域社会は「国際政治の制度」へ入る
縄文以来の海域社会では、
人が渡った。
弥生時代には、
鉄が動いた。
古墳時代には、
王族や使節が動いた。
四世紀末には、
軍隊が動いた。
そして五世紀には、
その海域をめぐる政治的地位そのものが、
中国王朝の官爵制度を使って表現されるようになる。
つまり、
海を利用する社会が、海域秩序を制度的に主張する王権へ変化している。
十五 さらに珍は、自分一人の称号だけを求めていない
四三八年の記事には、
もう一つ重要な内容がある。
珍は、
自分自身の官爵だけではなく、
配下の複数の人物についても、
宋から将軍号を与えるよう求めている。
ここから見えてくるのは、
倭王一人の外交ではない。
王の下に、
複数の有力者が存在する政治構造である。
つまり次の問いは、
「倭王の下には、どのような政治階層が形成されていたのか」
になる。
十六 前方後円墳で見た「首長の序列」が、外交文書にも現れるのか
第三部前半では、
前方後円墳の規模や分布から、
王を頂点とする広域的な首長関係の可能性を考えた。
それから一世紀ほど進むと、
中国史料の中に、
倭王と、
その王が官爵を求める複数の人物
という構図が現れる。
両者を一対一で対応させることはできない。
しかし、
列島内部に複数階層の有力者を束ねる政治構造が成長していた可能性
を考える上で、非常に興味深い資料である。
十七 次に見るのは「なぜ王は家臣の官爵まで宋へ求めたのか」である
ここまで五王外交は、
倭王と中国皇帝の関係として見てきた。
しかし珍の外交を見ると、
もう一つの側面が現れる。
倭王が、
自分の下にいる有力者の地位まで、
中国皇帝の官爵体系を使って表現しようとしている。
つまり宋との外交が、
倭国外部への外交だけでなく、
倭国内部の政治秩序を組み立てるためにも利用された可能性
が出てくる。
次節では、
「なぜ倭王珍は配下の官爵まで求めたのか」
という問いから、前方後円墳で表現された首長秩序と、五世紀の外交官爵がどこまでつながるのかを検討する。
第四節 「なぜ倭王は家臣の官爵まで宋へ求めたのか」――外交に現れた王権内部の序列
一 珍が求めたのは、自分の地位だけではなかった
四三八年の倭王珍の記事には、
半島諸国を含む軍事称号とは別に、
もう一つ重要な記述がある。
珍は、
自らの官爵だけではなく、
倭隋ら十三人
についても、
宋から将軍号を与えるよう求めた。
ここで初めて、
倭王の背後にいる複数の有力者が、
中国外交の記録の中へ具体的に姿を現す。
二 ただし「十三人=中央官僚」とは言えない
この十三人が、
後世の律令国家の官僚のような存在だった
と考えるのは早い。
王族だったのか。
地方首長だったのか。
軍事指揮者だったのか。
外交実務者だったのか。
一人一人の性格は分からない。
したがって、
十三人の任官記事だけから中央官僚制の完成を論じることはできない。
三 それでも「王一人ではない」という点は動かない
しかし、
分からないから意味がない
ということでもない。
倭王珍は、
自分一人の称号だけを問題にしていない。
王の周囲にいる複数の人物について、
外国皇帝から政治的地位を認めてもらおうとしている。
つまり倭王権には、
少なくとも、
王と、その下に位置づけられる複数の有力者
という構造が存在したことを考えさせる。
四 なぜ国内の人物の地位を、外国皇帝に認めてもらうのか
ここが興味深い。
倭国内の序列であれば、
倭王自身が決めればよい
とも考えられる。
それにもかかわらず、
宋皇帝の官爵を利用する。
これは、
中国王朝の権威を借りることによって、
配下の人物の地位を、
より大きな外交秩序の中へ位置づける意味があった可能性を示す。
つまり、
宋との外交を、倭王権内部の序列化にも利用した可能性
がある。
五 これは単なる「中国への服属」では説明しにくい
もし五王外交を、
倭王が中国皇帝へ服属し、
爵位をもらっただけ
と理解すると、
なぜ倭王が自分の配下の人物までまとめて任官させようとしたのか
という問題が残る。
ここではむしろ、
中国王朝の官爵制度を、
倭王が自らの政治秩序へ取り込んでいる。
つまり、
外来の政治制度を受け身で受け取るだけではなく、自らの王権形成に利用している
と考える方が、史料の動きを説明しやすい。
六 王権は「外国の権威」を国内政治へ持ち帰ることができる
宋から得られた称号は、
中国でだけ意味を持つものとは限らない。
使節が帰国する。
詔書や官爵が伝えられる。
王がその成果を示す。
配下の人物にも将軍号が与えられる。
そうすれば、
外国皇帝から認められた秩序を、
倭国内部でも権威として利用することができる。
これは、
外交成果を国内政治へ転換する力
と見ることができる。
七 ここで前方後円墳の「序列」と再びつながる
三~四世紀、
列島各地には大小さまざまな前方後円墳が築かれた。
巨大古墳。
有力地域首長墓。
中小規模の古墳。
その規模差や築造状況からは、
首長間に何らかの政治的序列や関係が存在した可能性を考えることができる。
そして五世紀になると、
今度は外交文書の中に、
倭王と複数の有力者
という構造が現れる。
八 ただし「古墳の大きさ=中国官爵」と対応させてはいけない
もちろん、
巨大古墳の人物が安東将軍。
中型古墳の人物が冠軍将軍。
というような対応を示す資料はない。
前方後円墳の規模と、
中国式官爵を一対一で結びつけることはできない。
ここで注目するのは個人対応ではなく、
王を頂点として複数階層の有力者が存在する政治構造
という共通点である。
九 墓で表された秩序が、文字でも表され始めた可能性
三~四世紀の政治関係は、
考古学的には、
古墳。
副葬品。
墳丘規模。
分布。
などから考えなければならない。
しかし五世紀になると、
中国史料の中に、
王。
将軍号を求める有力者。
外交使節。
王位継承者。
が現れる。
つまり政治秩序を考える材料が、
物質資料だけでなく、文字資料の側からも増え始める。
十 これは王権が「人を位置づける力」を持ち始めたことを考えさせる
国家形成とは、
人を大量に動かせることだけではない。
誰が上位なのか。
誰が王に近いのか。
誰が軍事を担うのか。
誰が外交を担うのか。
そうした役割と序列を、
一定の政治秩序の中へ位置づけることも必要になる。
珍による十三人の任官要求は、
倭王が複数の有力者を自らの政治秩序の中で対外的に提示できる段階にあった
ことを示唆する。
十一 そこには「王権の翻訳」が起きている
倭国内には、
もともと倭独自の首長関係や称号があったはずである。
それをそのまま中国皇帝へ伝えても、
宋側には理解しにくい。
そこで、
中国式の将軍号。
官爵。
外交儀礼。
を使って、
倭国内の政治関係を表現する。
つまり倭王権は、
自らの政治秩序を、中国外交で通用する言葉へ翻訳していた
とも考えられる。
十二 そのためには、中国制度を理解する人間が必要になる
これは簡単なことではない。
どの将軍号がどの程度の地位なのか。
どの称号を要求できるのか。
どのような表文を書くのか。
どのような外交儀礼を行うのか。
こうした知識が必要になる。
したがって五王外交の背後には、
船員や兵士だけではなく、
漢文・外交制度・官爵体系を理解する知識人や実務者
が必要だったと考えられる。
十三 国家形成には「書く人」も必要になる
これまで本稿では、
農民。
工人。
船乗り。
兵士。
首長。
王。
を見てきた。
しかし五世紀になると、
もう一つ重要な専門層が必要になる。
文字を書く人々である。
外交文書を作る。
外国からの文書を読む。
官爵を理解する。
使節の交渉を支える。
つまり、
国家は兵と船だけでは作れない。文字と情報を扱う専門家も国家を支える。
十四 ここでも「余剰力」が必要になる
文字を扱う専門家は、
一日中農作業をしているだけでは育たない。
教育する。
養う。
外交に従事させる。
長期間海外へ派遣する。
こうした専門職を維持するには、
社会に余力が必要である。
したがって五王外交そのものが、
王権が、
生産余剰を政治・外交の専門機能へ振り向けられる社会になっていた
ことを考えさせる。
十五 そしてこの仕組みは次の王にも継承される
珍一代だけで終われば、
個人的な外交戦略だった可能性もある。
しかしその後、
倭王済の時代にも宋との外交は続く。
しかも済の時代には、
半島諸国を含む軍事称号が、
珍の時代とは異なる形で宋側から認められていく。
さらに配下の人物に関する任官記事も続く。
つまり、
中国官爵を利用する外交が王代を越えて継承されている。
十六 ここから「制度の継承」が見え始める
王が変わっても、
遣使する。
官爵を求める。
外交文書を作る。
配下の有力者を位置づける。
という行動が続く。
これは、
一人の王の思いつきでは説明しにくい。
外交知識。
航路。
人材。
文書作成能力。
中国側との交渉経験。
それらが次代へ受け継がれている。
つまり五世紀には、
王個人を越えて政治技術を継承する王権
が見え始める。
十七 次に見るのは「なぜ済の時代に宋の対応が変わったのか」である
珍は、
半島諸国を含む広い軍事称号を求めた。
しかし、その要求はそのまま認められなかった。
ところが倭王済の時代になると、
宋が認める称号の内容に変化が現れる。
倭王側の主張だけでなく、
今度は宋側が倭王をどのような政治主体として扱ったのか
を比較できる。
次節では、
「なぜ宋は済に広域的な軍事称号を認めたのか」
という問いから、四五一年の任官を検討し、倭王の主張と中国王朝の承認がどこまで接近したのかを見ていく。
第五節 「なぜ宋は済に広域的な軍事称号を認めたのか」――四五一年に変わった倭王の国際的位置
一 珍の要求と、済への承認は同じではない
四三八年、
倭王珍は、
倭だけではなく、
百済。
新羅。
任那。
秦韓。
慕韓。
を含む広い軍事的称号を宋へ求めた。
しかし宋は、
その要求をそのまま認めなかった。
ところが倭王済の時代になると、
状況が変化する。
四五一年、
宋は済に、
倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国の諸軍事に関わる称号
を加えたと『宋書』は記す。
二 ここで重要なのは「倭王が名乗った」のではないことである
珍の段階では、
倭王側が広い称号を自称し、
その承認を求めていた。
しかし済の場合、
宋王朝自身が、
倭王に一定の広域軍事称号を与えている。
つまり、
倭側の自己主張だけではない。
中国王朝側の認識として、倭王に半島南部を含む一定の軍事的地位が与えられた
という段階へ進んでいる。
三 ただし、これも実際の領土支配証明ではない
ここでも同じ線引きが必要である。
宋が称号を与えた。
だから済が、
新羅。
任那。
加羅。
秦韓。
慕韓。
を行政的に統治していた。
とは言えない。
中国王朝の外交称号と、
現地での実際の支配関係は別である。
したがって、
宋による任官を、そのまま倭の領土図へ変換してはならない。
四 それでも四三八年より一段進んでいる
領土支配を意味しないとしても、
意味が小さいわけではない。
四三八年には、
珍が求めても十分に認められなかった。
四五一年には、
済に対して宋側が広域的な軍事称号を与える。
十数年の間に、
倭王と宋との外交関係は続いている。
そして倭王の政治的主張に対する、
宋側の扱いも変化している。
つまり、
倭王外交が蓄積される中で、宋側の倭王認識にも変化が生じた可能性
を考えることができる。
五 なぜ宋は倭王の地位を認めたのか
ここで理由を一つに決めることはできない。
宋側の外交政策。
高句麗。
百済。
新羅。
半島南部諸勢力。
そして倭。
それぞれとの関係が影響している。
中国南朝にとっても、
東方の諸王をどのような官爵体系へ位置づけるかは、
自らの国際秩序を表現する外交政策である。
したがって済への称号は、
倭側の要求と、宋側の外交戦略が交わった結果
として見る必要がある。
六 宋にとって倭は、すでに未知の遠国ではない
讃の時代から、
倭は繰り返し使節を送っている。
珍も外交を継続する。
そして済も遣使する。
宋側から見れば、
倭は一度だけ朝貢して消えた遠国ではない。
王が代わっても接触を続ける。
つまり、
継続的な外交関係を持つ王権
として認識できる条件が整っていく。
七 四世紀末以来の半島活動も背景として無視できない
中国側が、
倭の半島における具体的な軍事活動を、
どこまで把握していたのかは慎重に考えなければならない。
しかし倭が、
四世紀末から半島政治へ軍事的に関与していたことは、
広開土王碑から確認できる。
そして五世紀には、
倭王自身が半島南部に関わる称号を繰り返し求める。
したがって、
済への称号を考える際にも、
倭王の対半島関与が外交上の主張だけで突然生まれたわけではない
という長期的背景は重要である。
八 しかし、宋は倭王の要求を無制限には認めていない
ここに宋外交の特徴が見える。
倭王が求めるから、
すべて認める。
という関係ではない。
宋には宋の国際秩序がある。
どの王をどの地位へ置くのか。
どの国との関係を優先するのか。
どこまで倭王の主張を認めるのか。
を宋側が判断する。
つまり、
冊封は一方的な服属でも、一方的な承認でもなく、互いの政治的要求が交差する外交交渉
として見る必要がある。
九 そして四五一年の称号には、百済が入っていない
ここで非常に重要な特徴が現れる。
済に与えられた広域軍事称号には、
倭。
新羅。
任那。
加羅。
秦韓。
慕韓。
が含まれる。
しかし、
百済がない。
この不在は、
五王外交を理解する上で重要である。
十 なぜ百済だけが外れるのか
百済は、
それ以前から宋へ独自に使節を送り、
中国王朝から王号や将軍号を受ける外交主体であった。
つまり宋から見れば、
百済は、
倭王の配下に一括して位置づけるだけの存在ではない。
自ら宋と外交する王権である。
そのため宋が、
百済に対する軍事的統轄まで倭王へ認めることには、
別の外交上の問題が生じる。
十一 ここで倭王の主張と宋の認識が分かれる
倭王側は、
百済まで含む広い軍事的地位を求める。
しかし宋側は、
百済を除外する。
この違いが非常に重要である。
倭王が、
百済との関係をどのように認識していたのか。
宋が、
百済をどのような王権として扱っていたのか。
その二つは一致していない。
つまり、
東アジア国際秩序には、単一の「正しい序列」が存在したわけではない。
十二 それぞれの国が、自分を中心に世界を見ている
倭王には倭王の政治的主張がある。
百済王には百済王の外交がある。
宋皇帝には宋皇帝の国際秩序がある。
高句麗にも自らの王権観がある。
新羅や加耶諸勢力にも、それぞれの利害がある。
だから古代史料を読むとき、
一国の史料だけを使って、
その世界観を現実そのものとして描いてはいけない。
複数の政治主体が、それぞれ異なる秩序像を持って競合していた
と見る必要がある。
十三 済への称号は「倭の支配証明」より「倭の政治的重要性」を示す
では四五一年の任官から、
何を最も強く言えるのか。
倭が半島南部を領土化していた
ということではない。
むしろ、
宋王朝が、
倭王を、
半島南部の軍事政治と無関係な王とは扱っていなかった
ということである。
ここに大きな意味がある。
十四 四世紀末の「軍事参加」が、五世紀には外交上の地位になる
流れを並べると、
変化が見える。
四世紀後半。
百済との王権外交。
四世紀末から五世紀初頭。
広開土王碑に現れる倭の軍事活動。
四三八年。
珍が半島諸国を含む軍事称号を要求する。
四五一年。
済に一定の広域軍事称号が宋から与えられる。
つまり、
実際の海域政治への関与が、次第に国際外交上の地位として表現されるようになる。
十五 しかも済は、自分一人の任官だけを求めていない
済の時代には、
さらに王権内部を見ることのできる記事が現れる。
『宋書』には、
済が配下の複数の人物についても、
宋から任官を求めたことが記される。
珍の時代にも同様の動きがあった。
つまり中国官爵を利用した政治秩序化は、
一代限りではない。
十六 これは「王権が人を束ねる」段階から「人を位置づける」段階への進展を考えさせる
王が有力者を集める。
だけではない。
その有力者を、
どのような政治的位置へ置くのか。
国内だけではなく、
中国王朝の官爵体系を利用して表現する。
ここには、
王権の新しい能力が見える。
人を動員する力から、人を序列化し、その序列を外交上も表現する力へ。
国家形成は、
このような政治技術の蓄積でもある。
十七 そして次の問いは「なぜ百済だけが外されたのか」である
四五一年の称号で、
百済が除外されたことは、
単なる国名の抜けではない。
倭王と百済王の関係。
宋と百済の関係。
宋と倭の関係。
この三者を分けて考えるための重要な材料になる。
そしてここを整理すると、
倭王が百済との関係を、
単なる外国同士の関係以上に重視していた可能性も見えてくる。
次節では、
「なぜ宋は百済だけを倭王の軍事称号から外したのか」
という問いから、倭・百済・宋の三者外交を読み解き、倭王が求めた海域秩序と、宋が認めた国際秩序の違いを検討する。
第六節 「なぜ百済だけが外されたのか」――倭王の主張と宋の国際秩序
一 四五一年の称号を見ると、一国だけが消えている
倭王済に与えられた称号には、
倭。
新羅。
任那。
加羅。
秦韓。
慕韓。
が含まれる。
しかし、
そこに百済はない。
これは重要である。
なぜなら、
それ以前の倭王珍は、
百済を含む軍事的地位
を求めていたからである。
二 倭王側は、百済を自らの政治的主張から外していない
ここでまず確認したい。
百済を外したのは、
倭王側ではない。
珍の要求では、
百済が含まれている。
つまり倭王は、
百済を含む半島南部の軍事秩序に、
自らが関与する地位を求めていた。
ところが、
宋側が実際に認める称号では、
百済が外れる。
ここに、
倭王の秩序観と宋皇帝の秩序観の違い
が現れている。
三 なぜ宋は百済を別扱いしたのか
その理由を考えるためには、
百済自身の外交を見る必要がある。
百済は、
倭との関係だけで国際政治を行っていたわけではない。
百済王自身が、
中国王朝へ使節を送り、
王号や将軍号を得る外交主体として存在していた。
つまり宋から見れば、
百済は、
倭王を介してのみ認識される政治勢力ではなかった。
四 百済には百済自身の「王」がいる
これは当たり前のようで、
非常に重要である。
倭王が、
百済を含む軍事的地位を要求する。
しかし一方で、
百済王も宋と直接外交する。
すると宋にとっては、
百済王を独立した外交主体として扱いながら、
同時にその百済まで倭王の軍事的統轄下に置く称号を与えることになる。
そこには矛盾が生じる。
したがって、
宋が百済を倭王の称号から外したことには、宋自身の外交秩序上の理由があった
と考えることができる。
五 ここで「倭が百済を支配していたか」という問いだけでは足りない
この問題を、
百済は倭の属国だったのか。
違ったのか。
という二択にすると、
外交の実態が見えなくなる。
四世紀以来、
百済と倭には深い政治関係がある。
王族の往来も伝えられる。
軍事上の利害も重なる。
しかしそれと、
百済王権が独自の外交主体として存在することは、
両立し得る。
つまり、
政治的結びつきの強さと、国家としての独自性は別の軸
なのである。
六 「同盟」と「上下関係」も分けて考える必要がある
百済と倭の関係が深いからといって、
必ず一方が一方へ完全服属していた
とは限らない。
同盟。
軍事協力。
王族交流。
技術交流。
外交支援。
これらは、
必ずしも一方向の支配関係を意味しない。
古代の国際関係を考えるとき、
親密な関係ほど上下関係だった
と考える必要はない。
七 しかし、倭王が百済を称号へ入れようとした事実は残る
一方で、
百済は独立国だった。
だから倭王の百済に関する要求には意味がない。
ということにもならない。
重要なのは、
倭王が、
百済を含む軍事的秩序の中で、自らの地位を宋に認めさせようとしていた
ことである。
これは倭王自身の政治的自己認識を示す資料として重い。
八 なぜ倭王は百済をそこまで重要視したのか
ここで四世紀へ戻る。
百済との王権外交。
七支刀。
腆支の倭滞在を伝える記事。
高句麗との軍事対立。
半島南部の海上交通。
こうした長い関係が積み重なっている。
倭にとって百済は、
単なる数ある外国の一つではなかった可能性が高い。
海域政治を維持する上で極めて重要な協力相手
として位置づけられていたと考えることができる。
九 百済は、倭にとって半島政治への重要な接点でもあった
倭から見れば、
半島内部の政治状況を理解する。
高句麗の動向を知る。
大陸の技術や人材に接する。
外交関係を築く。
その際、
百済との関係は大きな意味を持った可能性がある。
したがって百済の政治的地位が変わることは、
倭の半島政策そのものへ影響する問題
でもあった。
十 しかし宋には、宋自身の論理がある
倭王にとって百済が重要だからといって、
宋がその関係をそのまま認める必要はない。
宋皇帝から見れば、
倭王。
百済王。
新羅。
その他の政治勢力。
を、
自らの外交秩序の中で位置づける。
したがって、
倭王が望む秩序と、
宋が承認する秩序が一致しないのは当然でもある。
ここに、
古代国際政治が一方通行ではないこと
がよく現れている。
十一 「冊封」という言葉だけでは、この交渉は見えない
冊封と聞くと、
中国皇帝が一方的に地位を与え、
周辺国がそれに従う
という構図を想像しやすい。
しかし五王外交を見ると、
倭王は、
自分が欲しい称号を提示する。
宋は、
そのすべてを認めるわけではない。
認める部分。
認めない部分。
がある。
つまり、
官爵をめぐって双方の政治的意図が交渉されている。
十二 珍・済・武を比べると、百済問題は繰り返し現れる
ここは後の史料と並べるとさらに興味深い。
珍は、
百済を含む称号を求める。
しかし認められない。
済の時代には、
百済を除いた形で広域軍事称号が与えられる。
さらに後の倭王武も、
再び百済を含む広い軍事的地位を求める。
つまり、
百済をどう位置づけるかという問題は、一代限りの要求ではない。
十三 ここに倭王権の継続した対半島認識が見える
王が変わる。
それでも、
半島南部への政治的関与という問題は残る。
百済を含む地位を求める。
宋側はそれを制限する。
また次の王が外交を続ける。
この繰り返しは、
倭王権が、
半島南部との関係を一時的な政策ではなく、
王代を越えて継承される外交課題として扱っていた可能性
を考えさせる。
十四 外交政策そのものが「継承」されている
これは国家形成を考える上でも重要である。
王が死ねば、
政策も消える。
外交関係も一からやり直す。
という社会ではない。
前王の外交関係。
宋との交渉経験。
官爵制度についての知識。
半島諸国への主張。
それらが、
次の王へ引き継がれていく。
つまり五世紀の倭王権には、
政治的経験を世代間で継承する能力
が見え始める。
十五 そして王統そのものも、中国史料の中で見え始める
その変化が、
次の倭王の時代にさらに明瞭になる。
済の後、
中国史料には興が現れる。
しかも、
単に新しい倭王が現れた
と書かれるだけではない。
済と興との血縁関係まで記される。
ここで、
これまで追ってきた、
共立される王。
地域首長を束ねる王。
広域王権。
という流れに、
もう一つ重要な要素が加わる。
王統である。
十六 王権は「強い人物」から「継承される家」へ変わったのか
三世紀の卑弥呼の時代には、
王位継承が安定していたとは言い難い。
卑弥呼の死後、
男性王が立つが受け入れられず、
再び混乱したと中国史料は伝える。
一方、
五世紀になると、
中国側が、
前王と次王の血縁関係を把握するようになる。
もちろん、
それだけで王位継承が常に平穏だった
とは言えない。
しかし、
王位が特定の王族内部で継承されることが対外的にも認識される段階
へ進んでいる可能性がある。
十七 次に見るのは「なぜ王位継承まで宋に知られていたのか」である
五王外交を追うと、
外交相手。
軍事称号。
配下の有力者。
そして王位継承。
と、
倭王権の内部構造が少しずつ見えてくる。
次節では、
「なぜ宋は倭王の王統まで把握できたのか」
という問いから、済から興への継承を検討し、三世紀の「共立される王」から五世紀の「継承される王権」への変化を考える。
第七節 「なぜ宋は倭王の王統まで把握できたのか」――済から興へ、継承される王権
一 五王外交を追うと、王の「名前」だけでなく「関係」まで見えてくる
倭王讃。
珍。
済。
と続いてきた宋との外交は、
済の死後も終わらない。
次に現れるのが、
倭王興
である。
ここで『宋書』の記述は、
単に、
新しい倭王がやって来た
とはしない。
済と興の間にある、
王統上の関係
まで記している。
二 興は済の「世子」として記される
『宋書』では、
興は済の世子として現れる。
そして四六二年、
宋は興を、
安東将軍・倭国王
に任じたと記録する。
ここで重要なのは、
興という王名そのものではない。
中国側が、
「前王済の後継者として興が立った」
という関係を把握していることである。
三 三世紀の卑弥呼の継承とは、かなり様子が違う
三世紀の『魏志』では、
卑弥呼の死後、
男性の王が立つ。
しかし人々が従わず、
争いが起こる。
その後、
再び女性の王が立てられる。
という展開が記される。
ここには、
王位が特定の家系によって安定的に継承されていた
と単純に言える姿は見えない。
四 もちろん三世紀にも王族は存在した可能性がある
だからといって、
卑弥呼の時代に王統が存在しなかった
と断定することもできない。
中国史料が伝えていないだけかもしれない。
しかし少なくとも、
三世紀の史料では、
王位継承の仕組みは明瞭ではない。
それに対して五世紀になると、
前王と次王との血縁的・王統的関係が、中国側史料にまで現れる。
五 ここで王権は「選ばれる王」から「継承される王」へ近づく
卑弥呼は、
複数の政治勢力によって「共立」された王として記される。
それに対して五世紀には、
王位が、
特定の王族の内部で継承される姿が見え始める。
もちろん、
完全な長子相続制度。
固定された皇位継承法。
が成立していたとまでは言えない。
しかし、
王そのものだけではなく、王を生み出す家・王統が政治の中心になっている
可能性は高くなる。
六 王権が続くためには「王が死んだ後」が重要である
強い王が一人いる。
それだけでは、
安定した王権とは言えない。
王が死ぬ。
その瞬間に政治秩序が崩壊するなら、
国家的な継続性は弱い。
逆に、
王が死んでも、
次の王が立つ。
外交関係を引き継ぐ。
配下の首長関係を維持する。
外国からも後継者として認識される。
こうした仕組みがあれば、
王個人を超えて王権そのものが存続する。
七 ここに「継承力」というもう一つの国家能力が現れる
これまで本稿では、
余剰力。
転換力。
継戦力。
を見てきた。
しかし王権が長く続くには、
さらに、
継承力
が必要になる。
人。
制度。
外交関係。
権威。
知識。
首長との関係。
それらを、
一代で終わらせず次代へ渡す能力である。
八 外交関係そのものも継承されている
済が宋と外交した。
そして興も、
宋から倭国王として認められる。
つまり、
王が交代するたびに、
中国との関係をゼロから作り直しているわけではない。
前王が築いた外交関係。
倭王という地位。
中国側との交渉経路。
そうしたものを、
次の王が引き継いでいる。
ここには、
外交が王個人の人脈から王権の制度へ近づいていく姿
を見ることができる。
九 宋側も「倭国」という継続した政治主体として扱っている
この点は中国側から見ても重要である。
讃が来る。
珍が来る。
済が来る。
興が来る。
王は代わる。
しかし、
外交相手としての「倭国」は続く。
つまり宋側は、
倭を、
毎回別の首長集団としてではなく、
王位を継承する継続的な政治主体
として認識していたと考えられる。
十 なぜ宋は王位継承を把握できたのか
その理由を一つに決めることはできない。
倭から使節が知らせた。
前王の死と新王即位を報告した。
宋との外交文書に王統関係が記された。
そうした可能性が考えられる。
重要なのは、
倭王権が、
自らの王位継承を外国王朝へ説明できる外交体制
を持っていたことである。
十一 ここでも「書く技術」が必要になる
誰が死んだのか。
誰が後継者なのか。
どのような地位を求めるのか。
これを遠く離れた中国王朝へ正確に伝えるには、
使節だけでは足りない。
外交文書。
通訳。
漢文知識。
中国側の官爵制度についての理解。
が必要になる。
つまり王統の継承と、
外交技術の継承は、
別々ではない。
王を継ぐ社会は、王権を支える知識も継がなければならない。
十二 これは列島内部の首長関係にも影響したはずである
王が交代するたびに、
地方首長との政治関係がすべて消えるのであれば、
広域王権は維持しにくい。
したがって、
王統の安定化とは、
単なる王家の家族問題ではない。
王の交代後も、
地方有力者が同じ王権秩序の中に残る。
外交関係が続く。
軍事関係が続く。
こうした継続性と結びついている可能性がある。
十三 前方後円墳体制も「一代限り」でなかったことと響き合う
前方後円墳は、
一人の王の時代だけ築かれたものではない。
複数世代にわたって、
列島各地の首長が同じ基本形式を共有する。
そこには、
地域首長と広域的な政治秩序との関係が、
世代を越えて継続した可能性を見ることができる。
そして五世紀の文字史料では、
今度は、
王統そのものが世代を越えて継承される姿
が見えてくる。
十四 ただし王位継承が平穏だったとは限らない
ここは慎重でなければならない。
特定王族による継承が見えることと、
継承争いがなかったことは同じではない。
誰が次の王になるのか。
兄弟なのか。
子なのか。
どの有力者が支持するのか。
そうした争いが存在した可能性は十分ある。
したがって本稿でいう「継承される王権」とは、
争いのない王権ではなく、争いがあっても王統そのものは存続する政治構造
という意味である。
十五 五世紀になると「王」と「王統」を分けて考えられる
これは国家形成における大きな変化である。
王とは一人の人物である。
しかし王統は、
その人物が死んでも続く。
王権とは、
王統。
有力者。
外交。
軍事。
祭祀。
物流。
専門家。
を含む、より大きな仕組みである。
五王外交から見えてくるのは、
倭が「強い王のいる社会」から「王が交代しても動き続ける政治組織」へ進んでいる姿
なのである。
十六 そして次の王・武の時代に、倭王権の自己認識が一気に見えてくる
興の後、
倭の五王最後の王として現れるのが、
武
である。
四七八年、
武は宋へ長文の上表文を送る。
そこには、
単なる朝貢の挨拶ではなく、
祖先の活動。
列島東西の統合。
海の向こうへの活動。
高句麗との対立。
そして自らが求める国際的地位。
が語られる。
ここで初めて、
これまで外部史料から断片的に見てきた倭王権が、
自分たちはどのような王権なのかを、自らの言葉で説明しようとする。
次節では、
「倭王武は、自分の王権をどのような歴史として語ったのか」
という問いから、四七八年の上表文を読み解き、列島統合と海外活動が倭王自身の中でどのように結びついていたのかを検討する。
第八節 「倭王武は何を語ったのか」――四七八年上表文に現れた列島統合と海北
一 四七八年、倭王自身の「王権史」が現れる
倭の五王を追ってきた最後に、
極めて重要な史料が現れる。
四七八年、
倭王武は宋へ使者を送り、
長文の上表を提出した。
『宋書』に収められたこの文章には、
武が求める官爵だけではなく、
祖先の活動。
列島内部の統合。
海を越えた活動。
高句麗との対立。
父や兄の死。
そして今後の軍事的意志。
までが記されている。
ここで初めて、
倭王権が自らの歴史をどのように説明しようとしたのか
をまとまった形で知ることができる。
二 ただし「武が自筆した文章」と考える必要はない
上表文は、
倭王武の名で宋皇帝へ提出された外交文書である。
しかし、
武自身が漢文を一字ずつ書いた
と考える必要はない。
そこには、
漢文を作成できる人物。
中国外交を理解する実務者。
宋の政治用語を使える知識人。
が関与した可能性を考えなければならない。
したがってこれは、
武個人の肉声というより、
倭王権が宋へ公式に提示した自己像
として読むべき史料である。
三 武は自分一代の功績から話を始めない
上表文で特徴的なのは、
武が、
「自分がこれだけ征服した」
とは語らないことである。
武は、
祖先以来、
王統の人々が甲冑を身につけ、
山川を越え、
安んじている暇もなく活動してきた
という趣旨を述べる。
つまり、
現在の倭王権は、
一人の英雄によって突然作られたものではなく、祖先代々の活動によって形成された
と説明している。
四 ここに「王」と「王統」の違いがはっきり現れる
前節で見たように、
五世紀には、
王が交代しても外交関係が継承される。
武の上表文では、
その継承意識がさらに明確になる。
祖先。
父。
兄。
そして自分。
武は、
自らを孤立した王としてではなく、
何代にもわたって政治活動を続けてきた王統の継承者
として宋皇帝へ提示している。
五 その祖先たちは「東」と「西」へ向かったとされる
有名なのが、
東方の「毛人五十五国」。
西方の「衆夷六十六国」。
という記述である。
これを、
実際に五十五国と六十六国が存在し、
そのすべてを正確に数えて征服した
とそのまま読む必要はない。
外交上表文である以上、
数字には政治的修辞や誇張の可能性がある。
しかし重要なのは数字ではない。
武が、
自らの王統を「列島の東西へ勢力を伸ばしてきた王権」として説明している
ことである。
六 これは後世の東西平定伝承と同一ではない
ここで、
ヤマトタケルの東征・西征伝承。
神武東征。
その他の『記紀』伝承。
を武の上表文へそのまま重ねることはできない。
年代も、
史料の成立事情も違う。
特定の人物を、
武がいう祖先の誰かに比定することもできない。
しかし、
王権形成を東西への政治的拡大として語る構造
が五世紀の外交文書にも現れること自体は重要である。
七 そして武の王統史は、列島の中だけで終わらない
さらに上表文は、
海を渡り、
「海北」の諸勢力を平らげた
という趣旨を述べる。
そこには、
「九十五国」
という数字が記される。
これも、
九十五の国家を実際に直接統治した
という統計記録として読むことはできない。
しかし、
一つ大きなことが分かる。
倭王武は、自らの王統の活動範囲を海の向こうまで含めて説明している。
八 「海北九十五国」を倭の領土図にしてはいけない
ここは特に慎重でなければならない。
武が「海北」を平定したと主張した。
だから、
朝鮮半島南部全体が倭の直轄領だった。
とはならない。
上表文は、
宋皇帝からより高い政治的地位を得ようとする外交文書である。
自らの功績を大きく示す動機がある。
したがって、
倭王の自己主張と、現地の実効支配は分けて考える
必要がある。
九 しかし「全部誇張だった」と捨てるのも違う
反対に、
外交文書だから全部作り話だった
とすることもできない。
四世紀末の広開土王碑には、
実際に半島で軍事活動する倭が現れる。
百済との王権外交も存在する。
五世紀には倭王が、
半島南部を含む軍事的称号を宋へ繰り返し要求する。
つまり、
海北への関与という武の主張には、
それ以前から続く具体的な対半島関係という歴史的背景
が存在している。
十 ここで「東・西・海北」という三方向が現れる
武の上表文を大きく見ると、
興味深い構図が見えてくる。
東。
西。
そして海北。
である。
つまり武は、
自らの王統の歴史を、
列島内部の統合だけでは説明していない。
列島東西の政治的拡大と、海を越えた活動を一つの王統史の中へ入れている。
これは五世紀倭王権の自己認識を考える上で重要である。
十一 高句麗は、その物語の中心的な障害として現れる
上表文後半では、
高句麗が大きな問題として登場する。
武側の文章では、
高句麗によって百済を経由する交通が妨げられ、
宋への道が安定しない
という趣旨が述べられる。
つまり高句麗問題は、
単なる遠方の戦争ではない。
倭王の対宋外交そのものにも関わる、
海上・半島交通の問題
として語られている。
十二 ここに「百済を通る道」が見える
この記述は非常に興味深い。
倭から宋へ向かう外交を考えるとき、
列島から中国へ一本の直線を引くのではない。
百済との関係。
半島側の政治情勢。
船舶の準備。
高句麗との対立。
これらが、
中国への外交路と結びついている。
つまり五世紀の東アジア外交は、
複数の海路・港・政治勢力をつないだネットワークの上に成立していた。
十三 高句麗との対立は、四世紀末から切れていない
ここで前章の広開土王碑が生きてくる。
三九九年。
四〇〇年。
四〇四年。
高句麗側の碑文には、
倭が軍事的な相手として現れた。
そして四七八年、
今度は倭王側の外交文書に、
高句麗が重要な対立相手として現れる。
七十年以上の間に情勢は変化しているため、
同じ戦争がそのまま続いていたとは言えない。
しかし、
高句麗の南下と倭の半島政策が、五世紀を通じた大きな政治課題の一つだった
ことは見えてくる。
十四 武は父・兄の世代にも軍事計画があったと主張する
上表文では、
武の父にあたる済が、
高句麗との対立を問題とし、
軍事行動を企図したものの、
父や兄の死によって十分に遂行できなかった
という趣旨も語られる。
この部分も、
そのまま具体的な作戦記録として扱うことはできない。
しかし少なくとも武は、
高句麗問題を自分一代の政策ではなく、前代から引き継いだ王権の課題
として宋へ説明している。
十五 ここにも「政策の継承」がある
前節では、
王位が継承されることを見た。
しかし武の上表文から見えるのは、
継承されるのが王位だけではないことである。
外交関係。
半島政策。
高句麗への対応。
中国王朝へ求める官爵。
配下の有力者との関係。
そうした政治課題も、
次の王へ受け継がれる。
つまり倭王権は、
王を継承するだけでなく、政策を継承する政治組織
へ成長している。
十六 そして武は宋の権威を利用しようとする
武は上表文で、
自らの王統の功績を語るだけではない。
その上で、
宋皇帝からより高い政治的地位を認めてもらおうとする。
ここでも五王外交の特徴が現れる。
戦う兵を宋からもらうのではない。
船も、
兵糧も、
兵士も、
倭側で準備しなければならない。
宋から求めているのは、
自らの軍事的・政治的立場を国際秩序の中で認める権威
なのである。
十七 しかし宋は、武の要求もそのまま認めない
武は、
百済を含む広い軍事的地位を自称する。
しかし宋が実際に与えた称号では、
ここでも百済は外される。
つまり、
武の上表文ほど雄大な王権像が語られていても、
宋は倭王の主張を全面的には承認していない。
ここでも、
倭王の自己認識、宋の承認、現地の実際の政治関係
を三つに分けて考えなければならない。
十八 それでも、この上表文は五世紀王権の到達点を示している
数字をそのまま信じる必要はない。
海北九十五国を領土図にする必要もない。
高句麗についての記述も、
倭側の外交的立場を反映している。
それらを差し引いても、
武が自らを、
祖先から続く王統の継承者。
列島東西を束ねる王。
海を越えて政治・軍事に関与する王。
中国皇帝と交渉する王。
として表現していることは残る。
つまり五世紀後半には、
倭王権自身が、列島内部と海の向こうを一つの政治世界として考える段階に達していた。
十九 そして、この「武」は列島の中でも姿を現すのか
ここで、
非常に大きな問いが残る。
『宋書』に記された倭王武は、
中国側の史料に現れる王である。
では、
同じ五世紀後半の列島内に、
それに対応する大王の存在を示す資料はあるのか。
実は、
東国の埼玉。
そして九州の熊本。
という遠く離れた二つの地域から、
「ワカタケル大王」につながる銘文
が出土している。
次節では、
「なぜ埼玉と熊本に同じ大王名が現れるのか」
という問いから、稲荷山古墳出土鉄剣と江田船山古墳出土大刀を検討し、中国史料に現れる倭王と列島内部の王権を接続していく。
第九節 「なぜ埼玉と熊本に大王名が現れるのか」――金石文から見る五世紀後半の列島王権
一 ここで中国史料から、列島内部の同時代史料へ戻る
これまで見てきた倭の五王は、
主として中国史料に現れる王たちである。
宋から見た倭王。
宋へ使節を送る倭王。
宋の官爵を求める倭王。
そこから、
五世紀の倭王権がどのような対外的自己像を持っていたのかを考えてきた。
しかし、
その王権が列島内部でどのような姿をしていたのか
という問題は残る。
そこで重要になるのが、
列島から出土した同時代の金石文
である。
二 埼玉の稲荷山古墳から、百文字を超える銘文が現れた
埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には、
長文の銘文が刻まれている。
そこには、
乎獲居臣とされる人物の系譜とともに、
「獲加多支鹵大王」
と読まれる王名が記されている。
一般に、
ワカタケル大王
と読む理解が有力である。
ここで重要なのは、
後世の『古事記』『日本書紀』ではない。
五世紀の列島社会そのものから、大王名を記した文字資料が出土している
ことである。
三 しかも場所は大和ではなく、東国の埼玉である
稲荷山古墳は、
現在の埼玉県にある。
つまり、
大王名を記した鉄剣が、
大和から遠く離れた東国の有力古墳に副葬されていた。
これは、
五世紀後半の王権を考える上で非常に重要である。
大王の存在が、
畿内だけで完結する政治的記憶ではない。
少なくとも東国の有力者が、
大王との関係を自らの権威や系譜の中で表現していた
ことを考えさせる。
四 鉄剣銘には、一代だけではない奉仕関係が語られる
銘文では、
乎獲居臣の祖先にさかのぼる系譜が記され、
一族が大王に仕えてきたことが語られる。
そして乎獲居臣自身も、
大王に奉仕した人物として自らを位置づける。
ここで見えてくるのは、
大王と地方有力者の関係が、
その場限りの偶然な接触ではなく、
複数世代にわたる政治的関係として語られている
ことである。
五 ただし「世代を越えた奉仕=中央の直接統治」とは限らない
ここでも慎重でなければならない。
東国の有力者が大王に奉仕した。
だから、
五世紀の大王が埼玉の村落一つ一つを直接行政支配していた
ということにはならない。
地方首長には、
地方首長自身の政治基盤があった。
むしろ重要なのは、
強い地域首長が、自らの地位を大王との関係によって表現している
ことである。
六 これは前方後円墳体制で見てきた関係と重なる
前方後円墳体制では、
地方首長が消滅したわけではない。
各地に大型古墳を築く有力者がいる。
その一方で、
共通する墳墓形式や政治的象徴が広域に共有される。
つまり、
地域の自立性と、
広域王権との関係が共存していた可能性がある。
稲荷山鉄剣は、
その関係を、
文字によって見ることのできる五世紀後半の資料
として重要なのである。
七 そして西では、熊本の江田船山古墳から銘文大刀が出土している
もう一つ重要なのが、
熊本県の江田船山古墳である。
ここから出土した銀象嵌銘大刀にも、
大王を示す銘文がある。
王名部分は完全には残っておらず、
稲荷山鉄剣ほど明瞭ではない。
そのため、
細部の復元には慎重でなければならない。
しかし研究上、
ワカタケル大王に関係する可能性が高い資料
として長く検討されてきた。
八 ここでは「埼玉と熊本に同じ文字が完全に残った」と言わない
江田船山大刀の王名は、
欠損を含む。
したがって、
埼玉と熊本で全く同じ王名が完全な形で確認された
と書くのは強すぎる。
より正確には、
稲荷山鉄剣ではワカタケル大王名が明瞭に読まれ、
江田船山大刀も、
同じ大王に結びつく可能性の高い銘文資料
と位置づけるべきである。
九 それでも東国と九州という距離は重い
埼玉。
熊本。
両者は、
列島の中でも大きく離れている。
その二つの地域で、
五世紀後半の大王との関係を考えさせる銘文が確認される。
ここから、
五世紀後半の大王権が、
畿内周辺だけの小さな政治圏ではなかったことを考えることができる。
少なくとも、
列島東西の有力者が、一つの大王権を意識できる政治関係
が存在していた可能性は非常に高い。
十 ただし「全国統一国家」と呼ぶにはまだ早い
ここでも、
現代国家のような全国一律行政を想定してはいけない。
地方首長は存在する。
地域ごとの政治基盤もある。
王権との距離や関係の強さも、
一様ではなかった可能性が高い。
したがって五世紀王権は、
地方社会を消して直接支配する中央集権国家というより、
各地の有力者を政治的に結びつけた広域王権
として考える方が妥当である。
十一 稲荷山鉄剣には「大王」という表現がある
ここで呼称にも注目したい。
中国史料では、
倭国王。
安東将軍。
都督諸軍事。
といった中国外交の言葉で倭王が表現される。
しかし列島内部の銘文では、
大王
という表現が現れる。
つまり同じ王権でも、
中国外交では中国側の政治語彙。
列島内部では列島側の王権語彙。
という異なる表現が使われていた可能性がある。
十二 一人の王が、二つの政治言語の中に生きていた
これは非常に興味深い。
列島内では大王。
中国外交では倭国王。
同じ王権が、
相手によって異なる言葉で自らを表現する。
ここでも、
第四節で見た「王権の翻訳」が起きている。
倭王権は、
中国制度へそのまま吸収されたのではない。
自らの政治秩序を持ちながら、対外外交では中国の政治言語を使っていた
のである。
十三 ではワカタケル大王と倭王武は同一人物なのか
ここで避けて通れない問題がある。
稲荷山鉄剣の、
ワカタケル大王。
『記紀』に現れる、
雄略天皇。
『宋書』に現れる、
倭王武。
これらを同一人物とみる説は、
年代や名称、王統関係などから有力である。
しかし、
中国史書の「武」という一字と、
列島銘文の「ワカタケル」を直接結びつける同時代文書が存在するわけではない。
したがって、
倭王武=ワカタケル大王=雄略天皇という比定は有力であるが、史料上の比定である
という線は残しておく必要がある。
十四 それでも、この比定が有力であることには大きな意味がある
もし倭王武とワカタケル大王が同一人物であるなら、
中国史料に現れる王と、
列島内部の金石文に現れる大王が、
初めて非常に具体的に接続する。
中国では、
宋皇帝へ上表する倭王。
列島内部では、
地方有力者との関係を持つ大王。
後世の記紀では、
雄略天皇。
という複数系統の資料が、
五世紀後半の一つの王権像へ接近する
ことになる。
十五 ここで武の「東西統合」主張をもう一度見る
武は上表文で、
祖先が東西の諸勢力を平定してきた
と主張した。
もちろん、
「五十五国」「六十六国」という数字をそのまま事実とすることはできない。
しかし同じ五世紀後半、
東国の埼玉には大王との奉仕関係を記した鉄剣がある。
西方の熊本にも、
大王との関係を考えさせる銘文大刀がある。
すると、
武が自らを、
列島東西へ及ぶ王権の継承者として表現したことそのもの
には、無視できない列島内の政治的背景が存在する。
十六 これは「征服した国数」より重要である
歴史を考えるとき、
五十五国はどこか。
六十六国はどこか。
という数字の比定だけに集中すると、
本質を見失う。
より重要なのは、
五世紀後半の大王が、
自らを東西に及ぶ王として語り、
実際に遠隔地の有力者も、
その大王との関係を銘文に残していることである。
つまり、
王権の自己主張と、地方社会側の資料が、完全ではないにせよ同じ方向を向き始める。
十七 そして国内の広がりと、海外活動は別々ではなかった
ここまで第三部で追ってきたものを並べる。
地域首長。
前方後円墳。
広域的首長関係。
王統。
大王。
外交使節。
海外軍事。
宋への官爵要求。
それぞれ別の現象に見える。
しかし五世紀後半には、
その多くが一つの王権へ集まってくる。
列島の東西に関係を持つ王権だからこそ、
各地の人材や物資を利用できる。
それを海運へ振り向ければ、
使節を中国へ送ることができる。
軍事へ振り向ければ、
半島政治へ関与することができる。
つまり、
列島内部の政治的広がりが、対外活動を可能にする基盤の一つになった
と考えることができる。
十八 海の王権は、陸の統合を必要としていた
本稿では、
海洋技術を王権形成の重要な条件として見てきた。
しかしここまで来ると、
逆の関係も見えてくる。
海を越えて活動するには、
列島内部から、
食料。
鉄。
木材。
船。
兵。
水夫。
外交実務者。
を集めなければならない。
つまり、
海へ出る王権が強くなるほど、その背後には広い陸上社会との政治関係が必要になる。
海と陸は、
別々の歴史ではないのである。
十九 そして最後に残る問いは「この王権は何になったのか」である
縄文の海上移動から始めた本稿は、
ここで五世紀後半の大王へ到達した。
海を渡れる社会。
交易する社会。
地域首長が育つ社会。
広域王権が形成される社会。
海外へ軍事・外交を展開する社会。
そして、
列島東西の有力者と関係を持つ大王。
次節では本章をまとめながら、
「海を渡る力は、どのように王権の力へ変わったのか」
を整理する。
そしてその先で、
さらに奇妙な現象を見ることになる。
列島で王権の象徴となった前方後円墳が、
なぜ今度は、
海の向こうの朝鮮半島南西部に現れるのか。
第十節 「海を渡る力は、どのように王権の力へ変わったのか」――倭の五王から半島前方後円墳へ
一 倭の五王を「中国へ朝貢した王」だけで終わらせてはいけない
倭の五王は、
中国へ使節を送った五人の王
として説明されることが多い。
しかし、
ここまでの長い流れの中に置くと、
その意味は大きく変わる。
讃。
珍。
済。
興。
武。
彼らは、
突然中国外交を始めた孤立した王たちではない。
その背後には、
何世紀にもわたる海域交流と、
列島内部で進んだ政治的統合が存在していた。
二 海を渡る能力は、五世紀に始まったものではない
縄文時代から、
列島と半島南部の間には人と物の移動があった。
弥生時代になると、
鉄を含む交易が活発になる。
列島系土器。
海上交通。
一時的な滞在。
地域間交流。
こうした現象が積み重なっていく。
したがって、
五世紀王権が海を利用できた理由を、
五世紀だけに求めることはできない。
王権より先に、海を使う社会が存在していた。
三 王権が作ったのは、海そのものではない
ここは本書全体の重要な点である。
倭王が、
突然航路を発見したわけではない。
突然船を造り始めたわけでもない。
王が現れる以前から、
船を造る人。
海を知る人。
港を維持する地域社会。
交易に携わる人。
半島側と関係を持つ集団。
が存在していた。
王権が成長する過程で起きたのは、
すでに存在していた能力を、より大きな政治目的へ組み込むこと
だったと考えるべきである。
四 ここで「余剰力」と「転換力」がつながる
社会に食料がある。
人口がある。
鉄がある。
船を造れる。
航海できる。
それだけでは、
国家的な外交や軍事にはならない。
それらを、
使節へ。
軍事へ。
巨大古墳へ。
王権祭祀へ。
外交文書作成へ。
振り向ける仕組みが必要になる。
つまり王権の成長とは、
存在する資源を政治目的へ変える転換力の成長
でもあった。
五 前方後円墳は、その政治力を考える一つの窓になる
巨大な墳墓を築く。
各地で共通する形式を採用する。
遠隔地の首長が、
同じ政治的表象を共有する。
そこには、
人。
食料。
技術。
情報。
首長間関係。
を長期間維持する社会的能力が必要になる。
もちろん、
前方後円墳を造ったから軍隊が生まれた
ということではない。
しかし、
大規模な墳墓造営と広域的な外交・軍事活動には、社会資源を組織するという共通条件がある。
六 列島内部の統合と海外活動は、一方向ではなかった
列島が完全に統合されてから、
初めて海外へ出た
と単純化することもできない。
海上交流は、
王権成立以前から続いている。
一方で、
広域王権が成長すると、
より大きな規模で海外活動を行えるようになる。
そして海外から得られる、
鉄。
技術。
人材。
外交関係。
威信財。
情報。
が、
再び列島内部の王権形成へ利用され得る。
つまり、
列島統合と海域関係は、互いに影響し合いながら成長した
と見る必要がある。
七 四世紀末になると、その力は軍事へ向けられる
広開土王碑では、
倭が半島の軍事政治へ現れる。
倭軍の規模。
編成。
指揮系統。
列島内の出身地域。
は分からない。
しかし、
海を越えて軍事活動を行い、
数年後にも再び軍事的に現れる。
ここでは、
古くから存在した航海能力が、
政治・軍事目的に使用される段階
へ入っている。
八 五世紀になると、それが外交上の主張へ変わる
珍は、
半島諸地域を含む軍事的称号を求める。
済には、
百済を除く広域的な軍事称号が宋から与えられる。
武は、
自らの王統が列島東西と海北へ活動してきた
と主張する。
つまり、
四世紀末に戦場で観察された倭の対外活動が、
五世紀には、
倭王自身が語る政治秩序の中へ組み込まれていく。
九 ただし、それを「海外領土国家」と読み替えてはいけない
倭王が半島諸国の名を称号へ入れる。
武が「海北」の活動を語る。
だから、
半島南部すべてを倭王が直接行政支配していた
とはならない。
百済には百済王権がある。
新羅にも王権がある。
加耶には複数の政治勢力がある。
高句麗も南下する。
つまり半島では、
複数の王権と地域勢力が、
互いに競合しながら政治関係を作っていた。
十 古代の海域政治は「国境線」だけでは見えない
現代の地図では、
国境線によって政治空間を分ける。
しかし五世紀の海域政治を、
同じ感覚だけで理解することは難しい。
重要なのは、
港を使えるか。
航路を確保できるか。
誰と同盟できるか。
どの首長と関係を持つか。
軍事介入できるか。
交易を維持できるか。
という、
人・港・航路・首長関係の重なり
である。
十一 だから倭王が求めたものを「領土」だけで説明しなくてよい
倭王が求めたものの中には、
直接支配の拡大が含まれていた可能性もある。
しかし、
それだけとは限らない。
友好的な港。
安全な航路。
百済との関係。
加耶諸勢力との接点。
高句麗への対抗。
交易への発言力。
こうした利害を含む、
海域政治における優位な立場
を求めていた可能性を考えることができる。
十二 五世紀後半には、その王権が列島東西でも見える
倭王武の時代に近い五世紀後半、
稲荷山鉄剣には、
ワカタケル大王の名と、
地方有力者の奉仕関係が刻まれる。
江田船山古墳の大刀銘も、
同じ大王との関係を考える上で重要である。
ここでは、
中国史料に現れる倭王とは別に、
列島内部から、
遠隔地の有力者と結びつく大王権
が姿を現す。
十三 ここまで来て「海洋王権」という姿が見えてくる
海に浮かぶ王国
という意味ではない。
海だけを支配する王権
という意味でもない。
列島内部の、
農業。
人口。
鉄生産。
工人。
地方首長。
港湾社会。
海民。
文字を扱う人々。
を政治的に束ね、
その一部を海の向こうへ振り向ける。
そのような王権である。
言い換えれば、
海を使える地域社会を、国家的な外交・軍事能力へ転換する王権
である。
十四 そして「海の民」が消えたわけではない
国家が形成されたからといって、
海上交通を担ってきた人々が消えたわけではない。
むしろ、
彼らの技術や知識は、
それまで以上に重要になる。
王が中国へ使節を送りたくても、
海を知らなければ行けない。
兵を半島へ送ろうとしても、
船を操る人間が必要である。
つまり国家形成とは、
海域社会を破壊して置き換えることではなく、
既存の海域能力を王権の仕組みへ取り込んでいく過程
としても見ることができる。
十五 ここで第一部からの流れが一本につながる
海を渡る。
交易する。
滞在する。
技術を運ぶ。
余剰を生む。
地域首長が成長する。
首長同士が結ばれる。
王が現れる。
王権が広域化する。
古墳によって政治秩序が表現される。
外交が始まる。
軍事が海を越える。
中国王朝へ広域的地位を要求する。
この流れは、
一直線の必然的進化ではない。
途中には、
戦争。
対立。
再編。
地域差。
失敗。
があった。
それでも長期的に見れば、
海を利用する社会的能力が、王権によってより大規模な政治力へ転換されていく過程
を追うことができる。
十六 すると次の現象が、まったく違って見えてくる
五世紀後半から六世紀前半。
朝鮮半島南西部に、
前方後円墳と呼ばれる墳墓が現れる。
列島で三世紀以来、
広域的な首長秩序と深く関係してきた墓制である。
その形式が、
海の向こうに現れる。
もしここだけを見るなら、
倭人が移住したのか。
現地人が真似したのか。
倭が支配したのか。
という単純な二択・三択になりやすい。
十七 しかし、ここまで読んできた読者には別の問いが見える
その墓を造った人物は、
どの政治世界に生きていたのか。
百済王権との関係は。
倭王権との関係は。
加耶諸勢力との関係は。
どの港を使ったのか。
どの航路につながっていたのか。
どのような副葬品を持っていたのか。
墳丘形式以外の葬送文化は何を示すのか。
つまり問題は、
「その人は倭人か、韓人か」だけではない。
問うべきなのは、
なぜ半島南西部の有力者が、前方後円墳という政治的表象を選ぶことが可能だったのか
である。
十八 墓の形だけでは、答えは出ない
前方後円墳がある。
だから倭人である。
とは言えない。
現地系の副葬品がある。
だから倭とは無関係である。
とも言えない。
人の出自。
政治的所属。
文化的選択。
外交関係。
墓制。
これらは、
必ずしも一つに一致しない。
だからこそ、
半島前方後円墳を理解するには、
墓の形だけではなく、その墓が成立した海域政治全体を見る必要がある。
十九 次章では、最も難しい問いへ入る
列島で王権の政治秩序を表してきた前方後円墳。
それが、
なぜ五世紀後葉以降、
朝鮮半島南西部に現れたのか。
倭から来た人物の墓なのか。
現地首長の墓なのか。
倭王権との関係を示すのか。
百済王権との関係を示すのか。
あるいは、
そのどれか一つだけでは説明できないのか。
次章では、
墓制。
副葬品。
立地。
年代。
地域政治。
海上交通。
を一つずつ重ねながら、
「なぜ海の向こうに前方後円墳が現れたのか」
という、本書の中心問題へ踏み込んでいく。
第十五章 「なぜ海の向こうに前方後円墳が現れたのか」――半島南西部の墓制を読み解く
第一節 「突然現れた墓」ではない――半島前方後円墳を長期史の中に置く
一 ここまで来て、ようやく半島の前方後円墳を論じることができる
朝鮮半島南西部には、
五世紀後葉から六世紀前半を中心とする限られた時期に、
日本列島の前方後円墳と基本的な墳丘形態を共有する墓が現れる。
朝鮮半島の研究では、
前方後円形墳
と呼ばれることも多い。
その存在だけを切り取れば、
確かに奇妙である。
列島で発達した墓の形が、
なぜ海の向こうに存在するのか。
二 この墓だけを見ると、すぐに「誰の墓か」という問題になる
倭から来た人物なのか。
現地の首長なのか。
百済王権と関係する人物なのか。
倭王権と結びついた人物なのか。
あるいは、
複数の政治世界にまたがって活動した人物なのか。
これまで、
さまざまな説明が提示されてきた。
しかし、
最初から一つに決めることはできない。
三 「倭人の墓」か「現地人の模倣」かという二択では足りない
墓の形が列島系である。
だから倭人。
副葬品に半島系要素がある。
だから現地人。
このような判断では、
古代の海域社会を十分に説明できない。
人は移動する。
技術も移動する。
物も移動する。
婚姻関係もある。
政治的所属も変わり得る。
そして一人の人物が、
複数の文化圏や政治勢力と関係することもある。
つまり、
墓制・出自・政治的所属を、最初から一つのものとして扱ってはいけない。
四 さらに「前方後円墳がある=倭の領土」でもない
前方後円墳が築かれている。
だからその土地は倭王権の領土だった。
という推論も成立しない。
墳墓形式は、
政治的関係を考える重要な資料ではある。
しかし、
墓だけから、
行政支配。
徴収。
地方官。
恒常的駐屯。
まで証明することはできない。
したがって、
墓の形から領土支配へ一足飛びに進まない
ことが重要である。
五 反対に「ただ真似しただけ」と片づけることも難しい
前方後円墳は、
携帯できる一個の土器ではない。
土地を選ぶ。
墳丘を設計する。
大量の土を動かす。
埋葬施設を造る。
多くの人を動員する。
一定期間にわたって工事を続ける。
つまり、
前方後円墳を築くという行為には、
被葬者だけではなく、地域社会そのものの参加
が必要になる。
その意味で、
一個の倭系遺物が出土することとは、
証拠の性格が違う。
六 だから本章では、墓から逆算しない
前方後円墳がある。
では誰が来たのか。
という順番だけでは考えない。
本稿はここまで、
もっと長い時間を追ってきた。
縄文・新石器時代の海上交流。
弥生時代の鉄交易。
人の往来。
一定期間の滞在。
現地での倭系文化要素。
首長間交流。
百済との王権外交。
半島での軍事活動。
倭の五王による対外外交。
その先に、
前方後円墳が現れる。
七 つまり前方後円墳の前に、すでに「海を越える関係」がある
ここが重要である。
五世紀後葉になって初めて、
列島と半島南部が接触したのではない。
その時点までに、
人。
物。
技術。
情報。
外交。
軍事。
が、
何世代にもわたって海を越えている。
したがって、
半島前方後円墳は、
交流の始まりではなく、長く続いた関係のかなり後の段階に現れる。
八 すると問いそのものが変わる
最初の問いは、
「なぜ朝鮮半島に前方後円墳が突然現れたのか」
であった。
しかしここまでの歴史を踏まえると、
より重要な問いは別になる。
これほど長く人と物が往来していたにもかかわらず、なぜ前方後円墳という大規模な墓制は、五世紀後葉になって初めて現れたのか。
この問いの方が、
時系列を説明できる。
九 縄文時代には前方後円墳は必要なかった
縄文時代にも、
海を越える人々はいた。
しかし、
前方後円墳はない。
当然である。
前方後円墳とは、
単なる航海文化の表現ではない。
そこには、
首長。
地域社会。
余剰。
政治関係。
葬送儀礼。
という、
より複雑な社会条件が必要になる。
つまり、
海を渡れることと、前方後円墳を造ることの間には大きな段階差がある。
十 弥生時代にも交流はあるが、まだ前方後円墳は現れない
弥生時代になると、
半島南部との交流はさらに明瞭になる。
鉄。
土器。
人の移動。
漁労・航海技術。
交易。
それでも、
半島南部に前方後円墳が現れるわけではない。
ここから分かるのは、
交易関係があることと、
特定の政治的墓制を採用することは、
別の現象だということである。
十一 墓制が動くには「政治的意味」が必要になる
前方後円墳が列島で広がった時、
それは単なる造形上の流行ではなかった可能性が高い。
地域首長が、
自らの地位。
他の首長との関係。
広域王権との関係。
を表現する一つの政治的形式として機能したと考えられる。
もしその基本形が半島南西部へ現れるなら、
問うべきなのは、
誰が形を知っていたかだけではなく、誰がその形を選ぶ政治的理由を持っていたのか
である。
十二 ここで「人の移動」と「政治形式の移動」を分ける
倭系人物が半島へ渡った。
それだけなら、
人物の移動である。
倭系土器が現れた。
それなら、
物や技術の移動かもしれない。
しかし、
地域社会を動員して前方後円形の巨大墳墓を築くとなれば、
問題はさらに大きくなる。
そこでは、
人の移動が、地域社会の政治的選択へどのようにつながったのか
を考えなければならない。
十三 そして時期は、倭王権の対外活動が成熟した後である
前章までで見たように、
四世紀後半には百済との王権外交がある。
四世紀末から五世紀初頭には、
広開土王碑に倭の軍事活動が現れる。
五世紀には、
倭の五王が宋と継続的に外交する。
そして五世紀後半には、
倭王武が海北への政治的関与を自らの王統史の中で語る。
その後の時期に重なるように、
半島南西部の前方後円形墳が現れる。
十四 ただし「年代が重なる=五王が造らせた」ではない
ここは重要である。
倭の五王の時代と、
半島前方後円墳の成立時期が接近している。
だから、
倭王が命令して造らせた。
とは言えない。
そのことを直接示す史料はない。
年代の近さが示すのは、
まず、
両者を同じ東アジア政治環境の中で検討する必要がある
ということまでである。
十五 むしろ注目すべきなのは「なぜその時だけなのか」である
もし前方後円墳が、
単に倭人が住んでいたから造られたのであれば、
もっと早い時期から現れていてもよい。
倭系の人々や物の移動は、
それ以前から確認されるからである。
しかし、
前方後円形墳の出現は限られた時期に集中する。
そして永遠に続くわけでもない。
つまり、
その墓を必要とした特定の政治状況が存在した可能性
を考えなければならない。
十六 「なぜ始まったか」と同じくらい「なぜ終わったか」が重要になる
歴史現象を理解するには、
出現だけを見てはいけない。
いつ始まったか。
どこに現れたか。
誰が造った可能性があるか。
だけではなく、
なぜ短期間で終わったのか。
も重要である。
もし半島前方後円墳が、
ある特定の政治関係を表す墓制だったなら、
その関係が変化すれば、
墓制も必要なくなる可能性がある。
つまり、
出現と消滅を同じ政治過程の中で考える
必要がある。
十七 そのために、まず前方後円墳より一段前を見る
いきなり栄山江流域の巨大墳墓へ進む前に、
確認しておかなければならないことがある。
前方後円形墳が現れる以前の朝鮮半島に、
列島系の葬送文化を示す墓は存在しなかったのか。
実は、
五世紀前半の西・南海岸には、
北部九州の中小古墳との関係を強く示す墓が確認されている。
つまり、
前方後円墳の前に、すでに墓制そのものを通じた人の移動が見え始めている。
次節では、
「前方後円墳の前に、誰が半島で倭系の墓を造っていたのか」
という問いから、五世紀前半の西・南海岸に現れる倭系古墳を検討する。
第二節 「前方後円墳の前に何があったのか」――五世紀前半の倭系古墳
一 半島の前方後円墳から、さらに一世代前へ戻ってみる
半島南西部の前方後円墳を考えるとき、
いきなり五世紀後葉から始めてはいけない。
その少し前、
五世紀前半の朝鮮半島西・南海岸には、
北部九州を中心とする列島側の古墳文化との強い関係を示す墓が存在する。
研究では、
こうした墓を、
「倭系古墳」
として整理することがある。
二 ただし「倭系古墳=倭人の墓」と最初から決めない
ここでも用語には注意が必要である。
「倭系古墳」とは、
墓の構造。
埋葬施設。
副葬品。
葬送方法。
などに、
列島側、とりわけ北部九州の古墳文化との強い関係が認められる墓を指す研究上の分類である。
したがって、
墓制が倭系であることと、
被葬者の出自が生物学的・民族的に「倭人」であったことは同義ではない。
三 それでも土器一個より、はるかに強い証拠になる
一個の土器なら、
交易で運ばれた可能性がある。
贈答品かもしれない。
容器だけが移動したのかもしれない。
しかし墓となれば、
事情が違う。
死者をどのように葬るか。
どのような施設を造るか。
どのような物を副葬するか。
そこには、
被葬者や造墓集団の社会的記憶が強く反映される。
したがって、
倭系の葬送体系がまとまって現れることは、人の移動を考える上で土器一個より一段強い材料となる。
四 ここで本稿の「証拠の階段」がもう一段上がる
これまで見てきた証拠を並べてみる。
倭系土器が一個ある。
複数の生活用品がある。
現地で倭系土器が製作される。
列島系の技術が確認される。
そして、
列島側との関係が強い墓が造られる。
証拠は、
物だけの移動から、
人の滞在、そして人の生涯そのものへ
少しずつ近づいていく。
五 五世紀前半という年代が重要である
これらの倭系古墳が注目されるのは、
その年代である。
半島南西部に前方後円形墳が本格的に現れるのは、
おおむね五世紀後葉以降である。
それに対して、
西・南海岸の倭系古墳は、
その前段階となる五世紀前半に確認される。
つまり時系列は、
五世紀前半の倭系墓制
から、
五世紀後葉以降の前方後円形墳
へと続いている。
六 前方後円墳は、墓制交流の最初ではない
この順序は重要である。
半島に前方後円墳が現れた。
そこで初めて倭系の葬送文化が持ち込まれた。
というわけではない。
それ以前から、
列島側の墓制に深く関係する墳墓が存在している。
つまり、
墓を造るという行為そのものが、前方後円墳以前から海を越えていた。
七 では、その墓を造った人々は誰だったのか
ここから先は慎重に考える必要がある。
列島から移住してきた人物。
交易や外交のため長期間滞在した人物。
現地社会に定着した倭系の家系。
列島との関係を持った現地首長。
あるいは、
複数地域にまたがる人的集団。
いくつかの可能性がある。
墓制だけから、
一つに決めることはできない。
八 それでも「短期旅行者」だけでは説明しにくくなる
数日。
数週間。
交易のために立ち寄っただけの人物が、
死後、
現地で自らの文化に近い墓を築かれるとは限らない。
墓を造るには、
土地が必要になる。
葬送に参加する人々がいる。
墓を造る技術が必要になる。
副葬品を準備する。
つまり、
その人物が現地社会と一定の継続的関係を持っていた可能性
を考えやすくなる。
九 海岸部に多いことにも意味がある
五世紀前半の倭系古墳については、
朝鮮半島の西・南海岸との関係が注目されている。
これは偶然とは限らない。
港へ出やすい。
船を利用できる。
列島との連絡を維持しやすい。
交易路へ接続できる。
つまり、
墓の立地そのものが、
被葬者と海上交通との関係を考えさせる。
十 ここで「海を使う人」と「政治をする人」が近づいてくる
縄文時代の海上移動では、
誰が航海者だったのか分からない。
弥生時代には、
交易者や滞在者の存在を考えられるようになる。
そして古墳時代になると、
墓の規模や副葬品から、
一定の社会的地位を持った人物まで見えてくる。
つまり、
海を渡る人々の中に、
地域社会や政治勢力と結びついた人物
がより明瞭に現れ始める。
十一 これは四世紀末から五世紀の政治史とも重なる
五世紀前半は、
孤立した時期ではない。
その直前には、
広開土王碑に倭の軍事活動が現れる。
同じ時期には、
百済と倭との王権外交も続いている。
四二一年以降には、
倭王が宋へ使者を送る。
つまり五世紀前半は、
列島と半島の関係が、交易だけでなく王権外交・軍事へ広がっている時期
でもある。
十二 だから墓の被葬者も、単なる商人とは限らない
もちろん、
具体的な被葬者の身分は墓ごとに検討しなければならない。
しかし時代背景を考えれば、
交易者。
航海者。
外交仲介者。
軍事活動に関係する人物。
地域首長。
王権間交渉を担う人物。
など、
複数の役割を持つ人間が海を越えていた可能性がある。
古代海域社会では、
商人・外交使節・軍事関係者・首長という役割が、現代ほど明確に分離していなかった可能性
も考える必要がある。
十三 「列島から来た人」でも、現地社会から孤立していたとは限らない
仮に被葬者が列島出身だったとしても、
それだけで、
外国人居留地に住む孤立した人物
ということにはならない。
現地で婚姻する。
現地首長と関係を持つ。
交易を管理する。
港を利用する。
政治的役割を担う。
そのような人物であれば、
出自は列島側でも、
生活基盤は半島側にある
ということがあり得る。
十四 逆に、現地出身者が倭系墓制を選ぶこともあり得る
墓制は、
血統だけによって決まるものではない。
政治関係。
威信。
婚姻。
外交。
同盟。
自己表現。
によって選択されることもある。
したがって、
半島出身の有力者が、
倭との政治的関係を示すために倭系の葬送要素を採用した可能性も、
最初から排除すべきではない。
ここでも、
墓制と出生地を一対一で結びつけない
ことが重要である。
十五 それでも五世紀前半に「墓まで倭系になる」ことは大きな変化である
弥生時代以来、
物は動いていた。
人も動いていた可能性がある。
しかし五世紀前半になると、
死者の埋葬という、
社会的にも象徴的にも重い領域にまで、
列島側との関係が現れる。
これは、
海域交流が、
単なる商品の交換を越え、
人の生活・社会的地位・葬送文化にまで深く入り込んでいた
ことを考えさせる。
十六 そして次の段階で、墓そのものが巨大化する
五世紀前半の倭系古墳は、
半島の前方後円形墳を考える重要な前段階である。
しかし、
まだ同じではない。
その後、
五世紀後葉になると、
数十メートル規模の墳丘を持つ前方後円形墳が現れる。
そこでは、
一人の被葬者の文化的背景だけでは説明できない。
土地。
労働力。
築造技術。
地域社会。
政治的権威。
までが必要になる。
つまり問いは、
「倭系人物がいたのか」から、「なぜ地域社会が前方後円という巨大な墓を造るところまで進んだのか」へ変わる。
十七 その前に、もう一つ奇妙な分布を見なければならない
倭との交流が古く、
鉄交易でも重要で、
列島系の人々との接触も深かった地域がある。
加耶である。
ところが、
半島南西部に前方後円形墳が現れる時期になっても、
加耶地域には同じような前方後円墳群が基本的には展開しない。
これは非常に重要な反証材料になる。
もし、
「倭との交流が深い場所ほど前方後円墳が造られる」
のであれば、
加耶こそ最も多く存在してもよさそうだからである。
次節では、
「なぜ倭との関係が深かった加耶には前方後円墳がほとんど現れないのか」
という問いから、半島前方後円墳を生み出した条件をさらに絞り込んでいく。
第三節 「なぜ加耶には前方後円墳がほとんど現れないのか」――交流の深さだけでは墓制は説明できない
一 ここで分布を見ると、大きな違和感が現れる
半島の前方後円形墳を、
倭との交流の結果
とだけ説明するなら、
最も有力な候補地の一つは加耶地域になるはずである。
加耶諸地域と列島の間には、
古くから深い交流がある。
鉄。
土器。
人の移動。
海上交通。
技術。
こうした関係は、
栄山江流域に前方後円形墳が現れるよりはるか以前から続いている。
ところが、
加耶地域には、栄山江流域で見られるような前方後円形墳のまとまった展開が基本的に見られない。
二 これは「倭との交流が深いほど前方後円墳が増える」という説明への反証になる
もし、
倭との交流が深い。
その結果として前方後円墳が造られる。
という単純な関係なら、
交流の歴史が長い加耶にこそ、
前方後円墳が多く現れてもよい。
しかし実際の分布は、
そうなっていない。
つまり、
倭との接触そのものは、前方後円墳成立の十分条件ではない。
三 倭系人物がいることも、十分条件ではない
前節で見たように、
五世紀前半には、
半島西・南海岸に列島側との強い関係を持つ墓が現れている。
加耶地域にも、
倭系遺物。
倭との交易。
人の往来。
を示す資料が存在する。
それでも、
前方後円という墳丘形式は広がらない。
したがって、
倭系人物が存在したから前方後円墳が造られた
という説明だけでも足りない。
四 では前方後円墳には、もう一つ別の条件が必要だったことになる
ここから逆算できる。
海を渡る人がいる。
倭との交易がある。
列島文化を知っている。
それでも前方後円墳は造られない。
ならば、
前方後円墳が成立するためには、
これらに加えて、
その墓制を選択する政治的理由
が必要だった可能性が高い。
五 加耶には、加耶自身の首長墓制があった
加耶諸地域は、
文化的な空白地帯ではない。
それぞれの地域社会には、
独自の有力者。
墓制。
副葬体系。
政治的伝統。
が存在していた。
つまり加耶の首長たちは、
自らの権威を表現する既存の方法を持っていた。
倭と交流しているからといって、
自らの墓を前方後円形へ変える必要はなかった
とも考えられる。
六 ここで「文化を知っている」と「文化を採用する」を分ける
これは重要である。
加耶の人々が、
列島の前方後円墳を知らなかった
とは考えにくい。
長期間にわたる交流があれば、
列島側の有力者がどのような墓を築いていたのかという情報が伝わった可能性は十分にある。
しかし、
知っていることと、
自分の墓として選ぶことは違う。
墓制の採用には、
その形式を使うことで得られる政治的意味
が必要になる。
七 つまり前方後円墳は「倭文化の強さ」を測る単純な温度計ではない
倭文化の影響が強い地域には大きな前方後円墳がある。
弱い地域にはない。
という図式では説明できない。
むしろ、
列島との関係が深い加耶にはほとんど展開せず、
別の地域である半島南西部に集中する。
この分布そのものが、
前方後円墳を、
文化伝播だけではなく政治関係の中で読む必要
を示している。
八 では、なぜ半島南西部だったのか
ここで問題は、
倭から何が伝わったか
から、
なぜその地域の首長が、それを必要としたのか
へ移る。
栄山江流域を中心とする地域には、
独自の在地社会が存在していた。
百済との関係がある。
加耶との関係がある。
海を介して倭ともつながる。
その複数の政治圏の間に位置することが、
前方後円形という墓制の選択に関係した可能性を考える必要がある。
九 「どこか一国に完全に属する首長」ではなかった可能性もある
これはまだ仮説の段階である。
しかし、
複数の大きな政治勢力の境界に近い地域では、
首長が一つの王権だけとの関係によって地位を保っていたとは限らない。
百済とも関係する。
倭とも関係する。
加耶とも交易する。
地域社会にも独自の基盤を持つ。
そうした首長にとって、
外部との関係を示す墓制は、
自らの政治的位置を表現する一つの手段
になり得る。
十 だから前方後円墳を「国籍表示」と考えると問題が起きる
現代なら、
国籍によって所属を分類する。
しかし五~六世紀の海域首長を、
同じ感覚だけで整理することは難しい。
倭系の出自を持つ。
百済王権と関係する。
栄山江流域に政治基盤を持つ。
倭と交易する。
これらが、
一人の人物の中で同時に成立する可能性がある。
したがって前方後円墳を、
被葬者の「国籍証明書」のように読むことはできない。
十一 加耶にないという事実は「倭王権の領土地図」説にも重い
もし前方後円墳が、
倭王権による直接的な領土支配をそのまま示すのであれば、
長期にわたり倭との関係が深かった加耶に、
同じ形式が広く存在しない理由を説明しなければならない。
もちろん、
墓制だけで支配関係を否定することもできない。
しかし少なくとも、
前方後円墳の分布をそのまま倭王権の支配領域図とする説明には、大きな問題が残る。
十二 反対に「現地首長が流行を真似ただけ」でも説明できない
では、
栄山江流域の首長が、
珍しい日本式の墓を気に入って模倣しただけ
なのだろうか。
それも簡単ではない。
前方後円墳は、
巨大な墳丘を必要とする。
労働力を動員する。
土地を占有する。
葬送儀礼を行う。
地域社会の景観に長期間残る。
そのような墓制を採用するなら、
そこには、
首長自身と地域社会がその形式を選択するだけの政治的意味
が存在したと考える方が自然である。
十三 すると「加耶にない」こと自体が重要な情報になる
存在する墓だけを見るのではなく、
存在しない地域を見る。
すると、
前方後円墳成立の条件を絞ることができる。
倭との交流。
それだけでは足りない。
倭系人物の存在。
それだけでも足りない。
列島文化への知識。
それだけでも足りない。
そこへ、
ある特定の地域政治状況
が加わった時に、
前方後円形という選択が起きた可能性がある。
十四 そこで五世紀の交通関係の変化が浮かび上がる
先行研究では、
五世紀前半頃を境として、
倭と半島を結ぶ交渉の重点に変化が生じた可能性が指摘されている。
それ以前、
北部九州。
対馬・壱岐。
加耶南岸。
を結ぶ海上交通は極めて重要であった。
しかし五世紀になると、
百済との王権外交が深まり、
半島西南部との関係も重要性を増していく。
十五 もし交通の重点が変わったなら、首長の役割も変わる
新しい航路が重要になる。
新しい港が利用される。
新しい地域が、
列島と百済を結ぶ中継地となる。
そうなれば、
そこを掌握する首長の政治的価値も高まる。
つまり前方後円墳の出現を、
単に墓制が西へ伝播した現象ではなく、
海域交通の再編によって台頭した首長層の自己表現
として検討することができる。
十六 ここで「加耶から栄山江へ」という単純な交代にも注意が必要である
ただし、
五世紀になった瞬間に、
加耶航路が消え、
すべて栄山江方面へ移った
という意味ではない。
加耶との関係は続く。
複数の航路が併存する。
その中で、
百済・半島西南部方面の政治的重要性が増した可能性がある。
したがって見るべきなのは、
一本道の交代ではなく、
海域ネットワークの重心が変化した可能性
である。
十七 次に見るべきは「墓がどこに造られたのか」である
ここまでで、
前方後円墳の成立には、
倭との交流だけでは説明できない条件が必要だったことが見えてきた。
では、
実際の墓は、
どのような場所に築かれているのか。
海から遠い内陸なのか。
河川沿いなのか。
港へ通じる場所なのか。
広域交通を押さえられる地点なのか。
墓の位置を地図の上に置くと、
被葬者たちがどのような力を持っていたのかを考える手掛かりが出てくる。
次節では、
「なぜ半島前方後円墳は海・河川・交通路と結びつくのか」
という問いから、墓の立
第四節 「なぜ墓は海と川の近くに築かれたのか」――立地から見る前方後円墳の政治基盤
一 墓の形だけでなく、「どこにあるか」を見る
前方後円墳を考えるとき、
どうしても墳丘の形に目が向く。
前が方形。
後ろが円形。
列島の前方後円墳と似ている。
しかし、
墓の意味を考えるには、
もう一つ重要な情報がある。
その墓が、どこに築かれたのか
である。
二 半島南西部の前方後円形墳は、地理的に無作為に分布しているわけではない
これらの墳墓は、
半島南西部のどこにでも均等に存在するわけではない。
海岸部。
河川流域。
河口へつながる地域。
広域交通に接続しやすい場所。
との関係が注目されてきた。
つまり、
前方後円形墳の分布には、
人と物が動く場所との関係
を考える必要がある。
三 これは五世紀前半の倭系古墳ともつながる
前節で見た、
前方後円墳以前の倭系古墳にも、
海岸部との強い関係を示す例がある。
この点は重要である。
五世紀前半には、
列島と半島の交渉に関係した可能性のある人物の墓が、
海上交通へ接続しやすい地域に現れる。
そしてその後、
より大規模な前方後円形墳も、
海や河川交通と結びつく地域に現れる。
四 すると墓の背後に「交通を扱う首長」が見えてくる
河川や海岸に近い地域を支配する首長は、
農地だけを持つ首長とは限らない。
船が来る。
人が来る。
物資が集まる。
情報が入る。
外国からの使者が通る。
交易品が運ばれる。
つまり、
交通を押さえること自体が政治力になる。
五 海と川は、別々の交通路ではない
海から船が来る。
河口へ入る。
河川をさかのぼる。
内陸の集落へ物資が運ばれる。
反対に、
内陸で生産されたものが、
川を下って海へ出る。
したがって、
海岸と河川を結ぶ場所は、
単なる通過点ではない。
海上交通と内陸社会を接続する結節点
になる。
六 栄山江という存在そのものが重要になる
栄山江流域を考えるとき、
川は地図上の背景ではない。
人。
農産物。
物資。
情報。
を運ぶ交通路である。
海から入ったものを内陸へ送る。
内陸の生産物を外へ出す。
そのような場所では、
河川交通を掌握する地域首長が、
広い交流圏と接触しやすくなる。
七 前方後円墳の被葬者が、単なる「土地の首長」だったとは限らない
大きな墓を造るには、
土地と農業生産だけでも相当な力が必要である。
しかし海や河川交通との関係が加われば、
その首長の力の性格も変わる。
交易を仲介する。
船を支援する。
外来者を受け入れる。
物資を集める。
他地域の首長と交渉する。
場合によっては、
王権間外交の中継を担う。
つまり、
地域支配と広域交流の双方を扱う首長
だった可能性が出てくる。
八 ここで第一部の「海域首長」が再び現れる
本稿では、
海上交通を利用する地域社会の中から、
交通。
交易。
情報。
外部関係。
を調整できる首長が成長した可能性を考えてきた。
半島南西部の前方後円墳も、
同じ視点から見ることができる。
ただし、
縄文時代の海域社会とは違う。
五~六世紀には、
その周囲に、
百済王権。
倭王権。
加耶諸勢力。
という、
より大きな政治主体が存在している。
九 だから海域首長の立場は、むしろ複雑になる
地域社会だけを見ていればよいわけではない。
百済と関係する。
倭と関係する。
加耶とも交流する。
海上交通を維持する。
地域内部の支持も必要である。
このような首長は、
一つの王権だけに完全に吸収されるより、
複数の政治圏をつなぐこと自体から力を得た
可能性もある。
十 墓は、その政治的位置を見せる場所でもある
古墳は、
死者を埋葬する施設である。
しかし、
それだけではない。
巨大な墳丘は、
地域社会の人々が見る。
川を通る人も見る。
外から訪れる人も見る。
長期間、
景観の中に残る。
つまり首長墓には、
「この地域を誰が動かしているのか」を可視化する働き
もあり得る。
十一 もし交通結節点に前方後円墳を築くなら、その形は外部へ向けた表現にもなる
前方後円という形を知っている人にとって、
それは列島側の有力者墓と強く結びつく形式である。
その墓が、
外部の人々も通る交通路付近に築かれるなら、
被葬者の社会的地位を、
地域内部だけではなく、
海を越えた政治関係の中でも表現する効果
を持ち得る。
十二 ただし「交通路にある=交易首長」と即断しない
ここでも、
立地だけで被葬者の職能を決めることはできない。
河川近くにある。
だから商人だった。
海岸近くにある。
だから港湾長官だった。
とは言えない。
立地から分かるのは、
まず、
その地域が広域交通へ接続しやすい条件を持っていた
ということである。
十三 重要なのは、墓・交通・地域社会を一緒に見ることである
前方後円形墳を、
墳丘だけで見る。
副葬品だけで見る。
倭との関係だけで見る。
それでは全体像が見えない。
墓の立地。
周辺集落。
在地墓制。
河川。
海岸。
他地域との交通。
これらを重ねた時、
被葬者が、
どのような地域資源を背景に政治力を持っていたのか
を考えられるようになる。
十四 ここで「余剰力」も再び重要になる
海上交通に接続していても、
大きな墓は造れないことがある。
前方後円墳を造るには、
地域社会から、
労働力。
食料。
土木技術。
石材。
木材。
を集めなければならない。
つまり被葬者は、
海域関係を持つだけでなく、
現地社会の余剰を動員できる立場
にもあった可能性が高い。
十五 これは「外国人が来て墓を造った」だけでは説明しにくい
仮に被葬者が列島出身であったとしても、
大規模な前方後円墳を築くには、
現地社会の協力なしには成立しにくい。
土地を確保する。
労働者を集める。
食料を供給する。
築造技術を動員する。
つまり、
被葬者の出生地がどこであれ、
その人物は現地社会の政治構造の中へ深く入り込んでいた
と考える必要がある。
十六 逆に在地首長であったとしても、外部関係が重要になる
現地生まれの首長だったとしても、
その人物が、
倭と深い関係を持っていた。
海上交通を担っていた。
列島側の有力者と交流していた。
そうであれば、
自らの政治的位置を示すために、
前方後円という墳形を選択する理由が生まれ得る。
つまり、
「在地首長」と「倭との強い関係」は矛盾しない。
十七 だから次に見るべきは、その地域社会そのものである
ここまで見ると、
前方後円墳の謎を解くためには、
倭側ばかりを見ていてはいけないことが分かる。
その墓が造られた土地には、
それ以前からどのような社会があったのか。
どのような墓制があったのか。
どのような首長層がいたのか。
前方後円墳が現れた時、
在地の墓制は消えたのか。
それとも並存したのか。
次節では、
「栄山江流域は、前方後円墳が持ち込まれるだけの空白地帯だったのか」
という問いから、在地社会と独自の墓制を検討する。
第五節 「栄山江流域は空白地帯だったのか」――前方後円墳以前の在地社会を見る
一 前方後円墳が現れる前から、そこには社会があった
半島南西部に前方後円形墳が現れた。
そのため、
外から来た新しい勢力が、
それまで何もなかった土地に墓制を持ち込んだ
という印象を持ちやすい。
しかし、
栄山江流域は空白地帯ではない。
前方後円形墳が築かれる以前から、
独自の集落。
農業生産。
首長層。
墓制。
を持つ地域社会が存在していた。
二 だから「倭人が来て地域社会を作った」という説明にはならない
これは最初に明確にしておく必要がある。
前方後円墳が存在する。
そこに列島系の要素がある。
だから、
倭から来た人々が地域社会そのものを作った
とは言えない。
むしろ問題は逆である。
すでに存在していた地域社会が、なぜある時期に前方後円という新しい墓制を受け入れたのか。
そこを考えなければならない。
三 栄山江流域には独自の葬送文化があった
この地域では、
前方後円形墳が現れる以前から、
大型の甕棺墓をはじめ、
地域独自の墓制が発達していた。
墳丘を持つ墓も形成され、
有力者を特別な形で葬る文化が存在する。
つまり、
大型墓を築く能力そのものが、
前方後円墳によって初めて持ち込まれたわけではない。
四 これは非常に重要である
もし在地社会に、
大規模な墓を造る伝統も、
首長層も、
労働動員力もなかったのであれば、
前方後円墳の築造を外来集団だけで説明する余地は大きくなる。
しかし実際には、
それ以前から有力者墓が存在する。
したがって、
前方後円墳を築くための社会的基盤の少なくとも一部は、現地にすでに存在していた
と考えなければならない。
五 前方後円墳の出現期には、複数の墓制が並存する
五世紀後半から六世紀前半の半島南西部では、
一種類の墓制だけが使われていたわけではない。
前方後円形墳。
円墳。
方墳。
在地系の高塚。
甕棺。
各種の石室墓。
など、
異なる系譜を持つ墓制が並存する。
つまり、
前方後円墳が現れたから、
在地墓制が一斉に消滅したわけではない。
六 これは「文化の全面交代」が起きたわけではないことを示す
もし、
倭から大規模な集団が移住し、
地域社会そのものを置き換えたのであれば、
墓制全体にも、
より大きな断絶が現れることが予想される。
しかし実際には、
在地系の墓制も続く。
異なる形式が併存する。
そこから見えるのは、
一つの文化がもう一つの文化を丸ごと置き換えた社会ではない。
七 むしろ「選択」が起きている
同じ地域。
近い時期。
それでも、
ある首長は在地系の墓を造る。
別の首長は前方後円形墳を選ぶ。
さらに別の形式を採る者もいる。
ここで重要になるのは、
誰がどの文化に属していたか
だけではない。
なぜその首長が、その墓制を選んだのか
という問題である。
八 墓制は、地域社会の政治的選択だった可能性がある
首長墓は、
個人の趣味だけで造られるものではない。
多くの労働力を使う。
地域の人々が築造に参加する。
葬送儀礼を共有する。
長期間景観に残る。
したがって墓制の選択は、
首長個人だけでなく、
その首長を支える地域社会にとっても意味を持つ。
つまり、
前方後円という形を採用すること自体が、地域政治上の選択だった
可能性がある。
九 そして地域社会は、複数の外部世界と接していた
栄山江流域は、
孤立していたわけではない。
百済。
加耶。
倭。
その他の半島地域。
それぞれとの交流がある。
人が来る。
物が入る。
技術が伝わる。
政治情報も入る。
したがってこの地域では、
一つの文化だけを受け取るのではなく、
複数地域の要素を選択して組み合わせる条件
が存在していた。
十 だから墓の「外形」と「内部」を分けて見る必要がある
前方後円形という墳丘を持つ。
それだけを見ると、
非常に列島的に見える。
しかし、
埋葬施設。
石室。
副葬品。
築造方法。
葬送習俗。
まで細かく見ると、
必ずしも列島の前方後円墳を完全に複製したものとは限らない。
そこには、
在地的要素。
百済系要素。
加耶系要素。
北部九州との関係。
などが組み合わされる例がある。
十一 つまり「形が倭系だから、中身もすべて倭系」ではない
ここは被葬者を考える上で重要である。
墳丘の形。
石室の技術。
副葬品。
築造方法。
それぞれの系譜が、
必ずしも一致しない。
これはむしろ、
異なる文化要素を選択的に組み合わせる地域社会
だったことを考えさせる。
十二 築造技術にも在地社会の存在が現れる
前方後円という設計理念が列島側と関係していたとしても、
実際に墓を造る作業は現地で行われる。
地面を整える。
土を盛る。
斜面を仕上げる。
石材を運ぶ。
埋葬施設を造る。
こうした築造技術には、
その地域で蓄積されてきた土木技術が使われた可能性が高い。
つまり、
外から伝わった墳形と、在地の築造技術が組み合わされた
可能性を考える必要がある。
十三 「設計情報」と「築造社会」を分けると理解しやすい
前方後円という墳形を、
誰かが知っていた。
その情報が海を越えた。
これは一つの問題である。
しかし、
その情報をもとに、
実際に数十メートル規模の墳丘を造る。
これは別の問題である。
後者には、
現地の土地。
労働力。
食料。
土木経験。
政治的権威。
が必要になる。
したがって、
墓制の情報は外から来ても、墓そのものは現地社会によって成立する。
十四 ここで「倭系人物説」と「在地首長説」は、必ずしも対立しなくなる
被葬者が列島出身だったとしても、
現地社会を動員できる地位に就いていれば、
在地首長として機能することがある。
逆に、
現地出身の首長であっても、
倭王権や列島側有力者と深い関係を持ち、
前方後円という墳形を選ぶことはあり得る。
つまり、
「倭系人物」と「在地社会の首長」は、同一人物の中で両立する可能性がある。
十五 前方後円墳は、外来文化のコピーではなく「地域社会の再編集」だった可能性がある
この視点に立つと、
半島南西部の前方後円墳は、
列島の古墳をそのままコピーしたもの
というより、
前方後円という強い政治的表象を取り入れながら、
在地墓制。
在地技術。
百済系要素。
加耶系要素。
列島系要素。
を組み合わせて作られた、
地域社会独自の再編集
として見ることができる。
十六 そのことは、被葬者が「どの国の人か」だけでは答えが出ないことを意味する
出生地。
父系。
母系。
使用言語。
政治的所属。
仕えた王。
婚姻関係。
葬送文化。
これらが、
すべて同じ方向を向くとは限らない。
長期間にわたって人が海を往来する社会では、
なおさらである。
したがって、
「倭人か、百済人か、在地人か」という一つの分類だけでは、前方後円墳被葬者の実像を捉えきれない可能性がある。
十七 次に見るべきは「誰が墓を造ったのか」ではなく「墓がどう造られたのか」である
前方後円形という外形だけでは、
まだ被葬者の政治的位置は決まらない。
そこで次は、
墳丘。
石室。
副葬品。
築造技術。
在地墓制との関係。
をさらに重ねる必要がある。
そこから、
列島の前方後円墳が丸ごと移植されたのか。
それとも、
現地社会が必要な要素を選択して作り替えたのか。
という問題を検討できる。
次節では、
「前方後円墳は、本当に列島の墓をそのまま移植したものなのか」
という問いから、その内部構造と築造技術に現れる複合性を見ていく。
第六節 「前方後円墳はそのまま移植されたのか」――墳丘・石室・副葬品に見る複合性
一 外から見ると、確かに前方後円墳である
半島南西部の墳墓には、
円形の後円部。
そこへ接続する前方部。
という、
列島の前方後円墳と共通する基本形がある。
だからこそ、
これらは前方後円形墳として研究されてきた。
しかし、
墳丘の輪郭だけを見て、
列島の前方後円墳が完成形のまま海を渡った
と考えるのは早い。
二 墓は「外形」だけでできているわけではない
古墳には、
墳丘の形。
埋葬施設。
石室。
石材加工。
盛土。
外表施設。
副葬品。
葬送儀礼。
という複数の要素がある。
したがって、
前方後円墳かどうかを考えるだけではなく、
その墓を構成する一つ一つの技術が、どこにつながるのか
を見る必要がある。
三 すると、すべてが同じ地域へつながるわけではない
半島南西部の前方後円形墳では、
北部九州との強い関係を示す要素。
百済系と考えられる要素。
加耶との関係を考えさせる要素。
在地墓制から続く要素。
などが、
一つの墓の中で組み合わされる場合がある。
つまり、
外形は前方後円でも、墓全体が一つの地域文化だけで構成されているとは限らない。
四 これは「倭人が全部造った」という説明を難しくする
もし列島から来た造墓集団が、
設計。
土木。
石室。
副葬。
葬送儀礼。
のすべてを持ち込み、
現地社会とはほとんど関係なく墓を造ったのであれば、
列島側の墓制がより一体的に再現されることも予想できる。
しかし実際には、
在地系の技術や、
半島側の複数地域につながる要素が見える。
ここから、
墓造りに現地社会が深く関与していた可能性
を考えなければならない。
五 反対に「形だけ真似した」とするのも弱い
では、
在地の首長が、
前方後円という形だけを面白がって模倣したのか。
これも十分ではない。
前方後円という形は、
当時の列島では首長墓の重要な形式として長期間用いられていた。
しかも半島南西部には、
それ以前から倭系墓制や列島との人的交流がある。
したがって、
前方後円という形が、
何の政治的意味も知られないまま選ばれた
とは考えにくい。
六 必要なのは「コピー」ではなく「選択」という視点である
ここで見方を変える。
列島の墓をそのままコピーした。
のでもない。
形だけ偶然真似した。
のでもない。
むしろ、
列島側の前方後円という墳形を知った上で、
そこから必要な要素を取り入れ、
現地で利用できる技術や葬送文化と組み合わせた。
つまり、
外来要素を地域社会が選択的に再構成した墓
として見ることができる。
七 築造技術を見ると、その「現地化」がさらに見えてくる
前方後円という平面形を決めたとしても、
墓を実際に造るには、
整地する。
土を運ぶ。
盛る。
締め固める。
斜面を造る。
石材を運ぶ。
埋葬施設を組み立てる。
という作業が必要になる。
築造技術の研究では、
半島南西部の前方後円形墳が、
一律の外来技術だけで造られているのではなく、
周辺の在地古墳との関係を示すことが指摘されている。
八 つまり「設計思想」と「施工技術」は別である
前方後円という形を造ろう。
という発想。
あるいは設計情報が、
海を越えて伝わる。
しかし、
その設計を現地で実現するのは、
現地の土地を知る人々である。
土の性質を知る。
石材の産地を知る。
労働者を集める。
工事を管理する。
したがって、
墳形の系譜と、実際の築造技術の系譜が一致しないことは十分あり得る。
九 これは被葬者の出自とも直結しない
墳形が列島系。
築造技術が在地系。
副葬品には半島系の要素。
そのような組み合わせがあるとすれば、
墓から被葬者の出生地を一つに決めることはさらに難しくなる。
むしろ墓は、
その人物が、
複数の地域文化・政治関係の交点にいた
ことを示している可能性がある。
十 石室も重要な手掛かりになる
半島南西部の前方後円形墳では、
埋葬施設にも、
列島側との関係を考えさせるものと、
半島側の技術的伝統との関係を考えるべきものがある。
したがって、
前方後円形という外形だけで、
埋葬施設まで一括して「日本式」と呼ぶのは適切ではない。
見るべきなのは、
どの部分にどの地域との技術的つながりが現れているのか
である。
十一 副葬品も同じである
一つの墓から、
列島系の品物が出る。
別の品物は百済系。
さらに別のものは加耶との関係を示す。
そのような組み合わせがある場合、
被葬者を一国だけの文化へ閉じ込めることは難しい。
むしろ、
複数地域との関係を持てること自体が、その人物の社会的地位だった
可能性を考えることができる。
十二 墓の中に海域ネットワークが縮小されている
こう考えると、
一基の古墳が、
単なる死者の住まいではなく見えてくる。
列島系の墳形。
半島側の築造技術。
異なる地域につながる副葬品。
現地の労働力。
それらが一つの墓の中で結びつく。
言い換えれば、
墓そのものが、被葬者の持っていた海域関係を物質化している
可能性がある。
十三 だから「混ざっている」ことを不純と考えてはいけない
列島の前方後円墳と完全に同じでない。
だから偽物。
半島系要素が入っている。
だから倭とは無関係。
という判断は適切ではない。
むしろ、
異なる要素が混在していること自体が、
この地域の政治状況を示している可能性がある。
百済。
加耶。
倭。
在地社会。
それらの接点にいた首長なら、
墓もまた複合的になる方が自然である。
十四 前方後円という形だけは、それでも強く残る
ただし、
すべてが混ざり合っているから、
前方後円という形に意味はない
ということにもならない。
数ある墳形の中から、
あえて前方後円を選ぶ。
そこには、
列島側の首長墓との関係を意識した可能性が残る。
つまり、
政治的な表象としては前方後円を選び、実際の造墓では地域社会の技術を使う
という組み合わせが考えられる。
十五 これは「政治的な翻訳」と見ることもできる
列島で用いられていた前方後円という政治的表象を、
半島南西部の社会が、
そのままではなく、
自らの墓制。
自らの技術。
自らの政治関係。
に合わせて作り替える。
前章で、
倭王が中国の官爵を使って自らの政治秩序を表現したことを見た。
ここでは逆に、
地域首長が、
列島側の墓制を自らの政治環境へ翻訳している
とも考えられる。
十六 そのため「前方後円墳体制が半島へ移植された」とは言えない
列島では、
前方後円墳が数世紀にわたり広範囲へ展開する。
規模にも階層がある。
世代を越えて築造が続く地域も多い。
一方、
半島南西部では、
出現時期が限定される。
基数も限られる。
在地墓制と併存する。
技術要素も複合的である。
したがって、
列島の前方後円墳体制そのものが、半島へ丸ごと移植されたと考えることはできない。
十七 むしろ「限定的に利用された政治形式」と考える方がよい
ここまでの資料に最も合うのは、
列島で成立した前方後円という政治的墓制が、
半島南西部の特定の地域。
特定の首長。
特定の時期。
に、
選択的に利用された
という理解である。
では、
その墓を築くための大量の労働力と食料は、
誰が用意したのか。
次節では、
「前方後円墳を造った余剰力はどこから来たのか」
という問いから、被葬者と現地社会の関係をさらに掘り下げていく。
第七節 「巨大な墓を支えた力はどこから来たのか」――前方後円墳を造る余剰力と地域社会
一 前方後円墳は、海の向こうから運んでくることができない
土器なら船で運べる。
鉄器も運べる。
装身具も運べる。
しかし、
前方後円墳そのものを船に積んで運ぶことはできない。
土地を確保し、
土を掘り、
盛り、
石材や木材を運び、
埋葬施設を造らなければならない。
つまり、
墓の形に外来要素があっても、墓を成立させる力の大部分は現地で用意されなければならない。
二 ここで「余剰力」が再び重要になる
人々が毎日の生存だけで精いっぱいなら、
巨大な墳墓は造れない。
築造に人を出す。
その人々を養う。
道具を準備する。
石材を運ぶ。
工事を管理する。
その間も、
地域社会の日常生活を維持する。
そのためには、
生存に必要な最低限を超えて、人・時間・食料・技術を別の目的へ振り向ける余剰力
が必要になる。
三 墓の大きさは、被葬者一人の財産だけでは説明できない
巨大古墳を見ると、
富豪が自分の財産で造った
という感覚を持ちやすい。
しかし古代社会では、
貨幣を大量に支払って建設業者へ発注するわけではない。
必要なのは、
食料。
労働。
木材。
石。
工具。
輸送手段。
そして人を動かす政治関係である。
したがって、
巨大墓の背後にあるのは、
個人財産というより、地域社会の資源を動員できる関係
である。
四 では、その余剰はどこから生まれたのか
一つの原因に決めることはできない。
まず考えられるのは、
地域社会の農業生産である。
栄山江流域には、
河川流域の生産基盤が存在する。
農業によって生み出される食料は、
人口を支え、
首長層を支え、
大規模な共同作業を可能にする基礎になる。
前方後円墳も、
その社会的生産基盤なしには成立しない。
五 しかし農業だけを見る必要もない
この地域の特徴は、
内陸生産だけではない。
川がある。
海へつながる。
船が利用できる。
外部地域との交流がある。
つまり、
地域内部で生み出された余剰に、
広域交流によって得られる物資・情報・人材
が加わる可能性がある。
六 交易は、首長の力を増幅する可能性がある
交易があれば、
外部から、
鉄製品。
武器。
装身具。
技術。
希少品。
情報。
が入ってくる。
逆に地域側からも、
食料。
原材料。
地域産品。
その他の物資が動く。
こうした交換関係を首長が調整できれば、
その人物は、
単なる農業地域の首長よりも広い政治資源へアクセスできる。
七 ただし「交易利益」という現代的な商業収益だけで考えない
古代社会に、
近代的な会社利益や港湾使用料をそのまま想定することはできない。
首長が得たものは、
貨幣収入とは限らない。
贈与。
交換品。
人間関係。
軍事的協力。
工人。
婚姻。
情報。
外交上の地位。
こうしたものも、
政治的資源になる。
したがって海域交流が生む「富」とは、
物だけではなく、人と関係を動かせる能力
まで含めて考える必要がある。
八 ここで海域首長の強さが見えてくる
農業余剰を持つ。
河川交通を利用できる。
海へ出られる。
外部勢力と交渉できる。
工人を呼べる。
希少品を入手できる。
こうした条件を複数持つ首長は、
地域内部でも特別な位置に立つことができる。
つまり、
海域交通は余剰を生むだけでなく、既存の余剰を政治力へ転換する回路
にもなり得る。
九 前方後円墳は、その余剰の使い道の一つである
余剰が生まれたからといって、
必ず墓になるわけではない。
船を造ることもできる。
武器を整えることもできる。
宴を開くこともできる。
有力者へ贈物を送ることもできる。
兵を養うこともできる。
その中で、
大量の資源を墳墓へ投入する。
これは、
余剰を政治的な威信表現へ転換する選択
である。
十 しかも前方後円という形を選んでいる
大きな墓を造りたいだけなら、
必ずしも前方後円である必要はない。
円墳でもよい。
方墳でもよい。
在地の伝統的な墓制を大型化することもできる。
それでも前方後円という形を選ぶ。
ここに、
単なる富の誇示以上の意味がある。
余剰を「どの墓に使うか」という選択そのものが政治的なのである。
十一 その選択には、倭との関係が関与した可能性がある
前方後円という墳形は、
当時の東アジア全域に共通する一般的な墓制ではない。
列島の首長層と強く結びついて発達した墓制である。
したがって、
半島南西部でこの形を選択した人物が、
列島側の政治世界を全く意識していなかった
とは考えにくい。
ただし、
その意味が、
倭王権への服属だったのか。
同盟だったのか。
外交関係だったのか。
出自表示だったのか。
そこまでは墓の形だけでは決められない。
十二 重要なのは「倭から資金が送られた」と考える必要がないことである
前方後円墳が倭系の政治表象だからといって、
築造資源まで列島から供給された
と考える必要はない。
食料。
労働力。
土。
石材。
多くの築造技術。
これらは、
基本的に現地で調達される。
つまり、
倭との政治的関係を表す墓であっても、それを実際に成立させたのは現地社会の生産力であった可能性が高い。
十三 これは被葬者が地域社会に深く根を持っていたことを意味する
仮に被葬者が、
列島から来た人物だったとする。
それでも、
数十メートル規模の墳墓を造らせるには、
現地で、
土地を確保し、
労働力を集め、
食料を供給し、
工事を指揮できなければならない。
したがって、
単なる一時的な来訪者では説明しにくい。
少なくとも、
現地社会の資源を動員できる政治的位置
にいた人物だったと考える必要がある。
十四 逆に在地首長だったなら、その外部関係が力の一部だった可能性がある
現地出身の首長であった場合も同じである。
その人物が、
海上交通。
倭との関係。
百済との関係。
加耶との交流。
を利用していたのであれば、
外部との接続そのものが、
首長権力の一部となる。
つまり、
地域社会の内部基盤と、
海域ネットワークによる外部基盤が、
一人の首長の中で重なっていた
可能性がある。
十五 だから墓を見る時、「誰の文化か」だけでは足りない
どの文化の墓か。
どの民族の人物か。
という問いだけでは、
巨大墳墓を成立させた社会構造が見えない。
より重要なのは、
その人物が、
何を集められたのか。
誰を動かせたのか。
どこにつながっていたのか。
である。
食料を動かせる。
労働者を動かせる。
船を動かせる。
工人を呼べる。
外交関係を持てる。
こうした能力が重なって初めて、
巨大墓を造れる首長像が見えてくる。
十六 前方後円墳は「余剰力の量」だけでなく「転換力」を示す
地域に食料が多いだけでは、
巨大古墳はできない。
人が多いだけでもできない。
必要なのは、
分散して存在する社会資源を、
一つの事業へ集中させる能力である。
本稿でいう、
転換力
である。
つまり半島南西部の前方後円墳から見えるのは、
単なる豊かな地域ではなく、
地域社会の余剰を巨大な政治表象へ転換できる首長層
の存在である。
十七 そして墓の形式は、その首長が向いていた「政治方向」を示す可能性がある
同じだけの余剰を持っていても、
すべての首長が前方後円墳を選ぶわけではない。
在地系の墓を選ぶ首長もいる。
別の形式を選ぶ首長もいる。
その中で、
前方後円という形式を採用する。
そこには、
その首長が形成していた政治関係。
外部との結びつき。
自己表現。
が反映されている可能性がある。
つまり前方後円墳とは、
余剰力そのものではなく、余剰力をどの政治世界へ向けて表現したかを示す墓
と見ることもできる。
十八 しかし、その墓はなぜ長く続かなかったのか
ここで新たな問題が生まれる。
これほど大きな余剰を動かせる首長が存在し、
地域社会も築造を支え、
前方後円という政治的表象まで選択した。
それなら、
次の世代も同じ墓を造ってよさそうである。
ところが、
半島南西部の前方後円形墳は、
列島のように何世代にもわたって広く定着する墓制にはならない。
短い期間に現れ、
やがて姿を消していく。
次節では、
「なぜ半島の前方後円墳は一代的・短期的な現象に終わったのか」
という問いから、その墓制を必要とした政治環境そのものを考えていく。
第八節 「なぜ前方後円墳は一代的・短期的に終わったのか」――墓制の消滅から政治環境を読む
一 前方後円墳の最大の特徴は、「存在すること」だけではない
半島南西部の前方後円形墳を考えるとき、
その特異な形ばかりが注目されやすい。
しかし、
もう一つ非常に重要な特徴がある。
それは、
長期間続かない
ことである。
列島では、
前方後円墳が数世紀にわたって造られる。
しかし半島南西部では、
五世紀後葉から六世紀前半を中心とする、
かなり限られた時期に集中する。
二 しかも同じ地域で何世代も続く例は多くない
もし前方後円形という墓制が、
地域の首長家に完全に定着したのであれば、
父。
子。
孫。
と、
何世代にもわたり同じ形式が継承されてもよい。
ところが、
半島南西部では、
そのような長期的系列を明確に追える例は限られる。
多くの場合、
前方後円形墳は、
特定の時期に点在的に現れる。
三 これは「伝統的墓制」ではなかった可能性を示す
地域社会に深く定着した墓制なら、
首長が代替わりしても、
一定期間継続することが期待できる。
しかし前方後円形墳は、
そうならない。
ここから、
半島南西部の前方後円墳は、
地域社会の恒久的な葬送伝統というより、
ある特定の政治状況の中で選択された墓制
だった可能性が高くなる。
四 すると「なぜ造られたのか」と「なぜ造られなくなったのか」は同じ問題になる
もし前方後円墳が、
単なる文化的流行だったなら、
流行が終わった
という説明もできる。
しかし、
ここまで見てきたように、
前方後円墳は、
大量の余剰。
地域社会の動員。
外部との政治関係。
を必要とする。
そうであれば、
その消滅もまた、
政治環境の変化
として考える必要がある。
五 墓制が消えたからといって、人が消えたわけではない
前方後円墳を造った首長層。
その墓を造った工人。
農民。
船乗り。
交易者。
彼らが、
前方後円墳とともに突然消滅したわけではない。
墓制だけが変化する。
これは、
社会そのものが消滅したのではなく、その社会が使う政治表象が変わった
可能性を示している。
六 ここで百済の地方統合が重要になる
五世紀後半から六世紀にかけて、
半島南西部では、
百済との政治的関係がさらに深まっていく。
ただし、
いつどの地域まで、
どのような方法で百済の支配が制度化されたのかについては、
慎重に考える必要がある。
それでも、
墓制や地域政治の変化から、
この地域が次第に百済王権の秩序へ組み込まれていった
可能性は検討できる。
七 もし首長の政治的立場が変われば、墓の意味も変わる
それまで、
在地社会。
倭。
百済。
加耶。
など、
複数の政治世界との関係を利用していた首長がいたとする。
その人物にとって、
前方後円という墓制は、
倭との関係を示す有効な政治表象だったかもしれない。
しかし百済による地方統合が進み、
首長の地位が百済王権の制度の中で規定されるようになれば、
独自に前方後円という表象を使う必要性は低下する。
八 つまり墓制の消滅は、首長の「選択肢」が狭まった可能性を示す
前方後円墳が造られていた時期には、
地域首長が、
複数の外部勢力との関係を利用できる余地があった。
百済と関係する。
倭とも関係する。
加耶とも交流する。
その中で、
自らの政治的位置を墓制によって表現する。
しかし政治秩序が集中していけば、
そのような独自性は縮小する。
つまり、
前方後円墳の消滅は、海域首長の自律性の縮小と関係していた可能性
を考えることができる。
九 ここで「百済が征服したから消えた」と単純化してはいけない
ただし、
ある年に百済軍が進入した。
その翌日から前方後円墳が消えた。
というような単純な構図ではない。
政治統合には、
外交。
婚姻。
官位。
地方支配。
軍事。
墓制。
など、
複数の段階があり得る。
したがって、
前方後円墳の消滅=百済による一度の軍事征服
と直接対応させることはできない。
十 重要なのは「地域政治のルールが変わった」ということである
前方後円墳が必要だった時代には、
首長が複数の政治関係の間で動く余地があった。
しかし六世紀へ進むにつれ、
百済。
新羅。
そして加耶諸勢力。
の関係が変化する。
大きな王権が地方をより強く組み込む。
すると、
地域首長が独自の外交関係を持ち、
それを墓制で表現する余地も変わっていく。
つまり、
墓が消えたのではなく、墓を必要とした政治環境が変わった
と考えることができる。
十一 加耶の変化も無関係ではない
六世紀になると、
加耶諸国を取り巻く政治環境も大きく変化する。
五三二年には、
金官加耶が新羅の勢力下へ入る。
さらに六世紀後半には、
大加耶も新羅に併合される。
つまり、
それまで倭と半島南部を結んできた、
多極的な政治空間そのものが変化していく。
十二 新羅の成長も海域政治を変える
新羅が半島南部へ勢力を拡大すれば、
航路。
港。
交易相手。
軍事関係。
の意味も変わる。
同じ海。
同じ川。
同じ港が存在していても、
それを誰が管理するかによって、
政治的価値は変わる。
これは、
前方後円墳が成立した海域環境そのものが、
六世紀に再編されていった可能性を示す。
十三 つまり「墓制の寿命」と「政治関係の寿命」が重なる可能性がある
半島南西部の前方後円墳が、
一つの恒久的な民族墓制だったのであれば、
政治状況が変化しても、
ある程度は残り続ける可能性がある。
しかし、
ある特定の政治関係を表現するために選ばれた墓制だったなら、
その関係が変われば、
墓制も消える。
この点で、
前方後円墳が短期間で終わること自体が、その政治的性格を考える材料になる。
十四 これは「倭の植民地墓」説にも問題を投げかける
もし半島南西部に、
恒常的な倭王権の地方支配機構が存在し、
前方後円墳がその支配層の墓であったなら、
より継続的な墓制系列が現れてもよい。
同じ地域で、
複数世代の前方後円墳。
倭王権に直属する行政施設。
恒常的な官僚制。
などが期待される。
しかし現在確認できる資料からは、
そこまで一貫した支配構造を直接示すことは難しい。
十五 反対に「ただの模倣」説にも問題を投げかける
一方、
単なる文化流行であったとすれば、
なぜその流行が、
これほど限定された時期。
限定された地域。
限定された首長層。
に集中したのか。
を説明しなければならない。
しかも、
倭王権の半島関与が活発だった時期と重なる。
したがって、
政治的背景を抜きにして墓制の出現と消滅を説明することも難しい。
十六 最も重要なのは「一代限り」が失敗を意味しないことである
前方後円墳が一代しか続かなかった。
だから、
その首長の政治戦略は失敗した。
とも限らない。
次の世代では、
百済王権との関係を深めた方が有利になったのかもしれない。
別の墓制が、
新しい政治秩序にふさわしくなったのかもしれない。
つまり、
墓制の変更は、
政治的失敗ではなく、
次の政治秩序への適応
だった可能性もある。
十七 すると前方後円墳は「過渡期の墓」として見えてくる
在地社会が存在する。
百済が地方統合を進める。
倭との関係も続く。
加耶もまだ存在する。
複数の政治勢力が重なり合う。
その短い時期に、
前方後円墳が現れる。
そして、
より大きな王権による地方統合が進むと消えていく。
この流れを見ると、
半島前方後円墳は、
古い地域首長秩序と、新しい王権的地方秩序の間に現れた過渡期の政治表象
だった可能性が浮かび上がる。
十八 では、その墓へ葬られた人物を一つの民族名で括ることができるのか
ここまで来ると、
最後に残るのは被葬者そのものの問題である。
倭系人物だったのか。
在地首長だったのか。
百済王権に仕えた人物だったのか。
複数の政治世界をつないだ海域首長だったのか。
実は、
これらは必ずしも排他的ではない。
次節では、
「前方後円墳の被葬者は、本当に一種類の人々だったのか」
という問いから、民族・出生地・政治所属・墓制を分けて考えていく。
第九節 「誰が葬られたのか」――倭系か在地かという二択を越えて
一 最後に残るのは、やはり被葬者の問題である
半島南西部の前方後円墳を見れば、
誰がここに葬られたのか
という疑問は避けられない。
列島から来た人物なのか。
この土地に生まれた首長なのか。
百済王権に関係する人物なのか。
倭王権と関係する人物なのか。
これまでの研究でも、
さまざまな被葬者像が提示されてきた。
二 しかし「倭人か、在地人か」という問いだけでは狭すぎる
墓の形が前方後円である。
だから倭人。
築造技術に在地性がある。
だから在地人。
という二択では、
ここまで見てきた資料を十分に説明できない。
なぜなら、
出生地。
家系。
生活した場所。
政治的所属。
葬送文化。
仕えた王。
これらが、
必ずしも一致するとは限らないからである。
三 そもそも海域社会では、人は一つの土地だけに属して生きるとは限らない
列島で生まれる。
半島へ渡る。
そこで長期間暮らす。
婚姻する。
子が生まれる。
地域社会の有力者になる。
百済王権と関係する。
倭との交流も維持する。
このような人生は、
長期間にわたる海上交通が存在する社会では、
十分に想定できる。
その人物を、
死後に一語だけで分類することは難しい。
四 「倭系出自」と「在地首長」は両立する
これは重要である。
列島に出自を持つ人物が、
半島南西部へ移住し、
現地社会に定着し、
土地と人を掌握し、
地域首長として活動する。
その人物が死ねば、
被葬者は、
倭系人物であると同時に、
在地社会の首長でもある。
つまり、
「倭系か在地か」は、必ずしも対立する分類ではない。
五 反対に、現地出身者が倭との関係を強く持つこともできる
出生地は半島南西部。
家系も地域社会に根を持つ。
しかし、
倭と交易する。
列島側の有力者と交流する。
倭王権との外交に関与する。
そのような首長であれば、
自らの政治的位置を示すために、
前方後円という墓制を採用する可能性もある。
この場合、
被葬者は在地出身でも、
墓制の選択には倭との政治関係が反映される。
六 さらに「百済に属する倭系人物」という可能性もある
倭系出自の人物が、
百済王権の政治秩序へ入ることも考えられる。
地域統治を担う。
外交を担う。
列島との交渉役になる。
軍事・海運に関係する。
このような人物なら、
倭系でありながら、百済側の政治組織にも属する
ことになる。
ここでも、
「倭か百済か」という二択は成立しない。
七 むしろ二つの政治世界に通じること自体が価値になる
倭の言葉や習慣を知る。
百済の政治秩序も知る。
航路を知る。
双方の有力者と話ができる。
人や物資を移動させられる。
そのような人物は、
二つの世界の「どちらでもない」のではない。
むしろ、
二つ以上の政治世界をつなげられるからこそ価値を持つ。
八 海域社会では「境界にいる者」が弱いとは限らない
国家境界が固定された時代には、
境界的な存在は不安定に見える。
しかし、
複数の王権と地域社会が海を介して接続する時代では、
境界にいる人物が、
交易。
外交。
情報。
軍事協力。
技術移転。
を仲介することができる。
つまり、
境界を越えられる能力そのものが政治力になる。
九 ここで第一部の「海域首長」が再び戻ってくる
港を使える。
船を動かせる。
航路を知る。
内陸社会から食料を集められる。
外国の有力者と交渉できる。
工人や物資を移動させられる。
そうした人物を、
本稿では海域首長という視点から考えてきた。
半島前方後円墳の被葬者の一部も、
この海域首長の延長上に置いて検討することができる。
十 重要なのは「何者だったか」だけでなく「何を動かせたか」である
被葬者を見る時、
民族的分類だけに注目すると、
その人物の政治力が見えなくなる。
何を動かせたのか。
人。
食料。
船。
鉄。
工人。
武器。
交易品。
情報。
外交使節。
巨大な前方後円墳を築ける人物なら、
少なくとも、
これらのうち複数を動員できる政治的位置
にいた可能性が高い。
十一 墓制の共通性が、そのまま出自の共通性を意味するとは限らない
複数の前方後円形墳がある。
だから、
そこへ葬られた人々は全員、
同じ地域から移住した同じ集団である。
とは限らない。
ある墓の被葬者は倭系出自。
別の墓は在地首長。
別の墓は複合的な家系。
ということもあり得る。
共通していたのは、
血統より、
倭との政治的・文化的関係を墓制として表現する必要性
だった可能性がある。
十二 だから一基ずつ条件を見なければならない
被葬者像を考えるには、
すべての前方後円墳を一括してはいけない。
立地。
築造年代。
墳丘形態。
石室。
副葬品。
周辺墓制。
在地首長墓との連続性。
海上交通との位置関係。
それらを一基ずつ比較する必要がある。
そうすれば、
同じ前方後円形でも、成立事情が異なる可能性
が見えてくる。
十三 「一つの答えがない」ことは、説明を放棄することではない
被葬者を一種類に決められない。
これは、
何も分からないという意味ではない。
むしろ、
どの条件なら倭系人物説が強くなるのか。
どの条件なら在地首長説が強くなるのか。
どの条件なら百済との政治関係を重視すべきなのか。
を分けて検討できる。
つまり必要なのは、
一つの万能説ではなく、墓ごとの成立条件を比較すること
である。
十四 ただし、どの類型にも共通する条件がある
被葬者が誰であったとしても、
共通して説明しなければならないことがある。
なぜ前方後円という形を知っていたのか。
なぜそれを選んだのか。
なぜ現地社会が築造を支えたのか。
なぜ五世紀後葉から六世紀前半に集中したのか。
なぜ加耶では同じ現象が広がらないのか。
なぜ短期間で終わったのか。
この六つの問いである。
十五 この条件を満たすには、倭との政治関係を無視できない
前方後円という墳形は、
当時の東アジア全域で一般的だった墓ではない。
列島の首長秩序と深く結びついた形式である。
しかも半島南西部では、
長い海上交流。
五世紀前半の倭系古墳。
百済と倭の王権外交。
倭の半島軍事活動。
倭の五王による半島政治への関与。
という背景の後に現れる。
したがって、
倭との政治的関係を完全に切り離して説明することも難しい。
十六 しかし倭との関係があることと、倭の直接支配とは別である
ここが本章で最も大切な線引きになる。
倭との関係が深い。
前方後円墳を築く。
だから倭王権の地方官。
だから倭の領土。
とはならない。
政治的関係には、
服属。
同盟。
仲介。
婚姻。
外交。
軍事協力。
出自関係。
など、
さまざまな形がある。
問題は、
倭との関係があったかどうかではなく、それがどのような関係だったのか
なのである。
十七 墓が示すのは「私は誰か」だけではない
古墳は、
被葬者の出自を示すだけの標識ではない。
それは、
自分がどのような地位にあり、
誰と結ばれ、
どの政治世界へ接続していたのかを表すこともある。
つまり墓には、
「私は誰である」
だけではなく、
「私は誰と結ばれている」
という意味が込められる可能性がある。
十八 半島前方後円墳の核心は、そこにある
倭人墓なのか。
在地首長墓なのか。
という問いは必要である。
しかし、
それだけでは足りない。
より大きな問いは、
なぜその人物が、死後に前方後円という形で自らの政治関係を表現できたのか。
である。
そこまで考えた時、
半島前方後円墳は、
一つの民族集団の移動を示すだけの墓ではなく、
数世紀にわたって形成された海域社会が、
王権・外交・地域首長を結びつけた結果として見えてくる。
次節では第十五章をまとめながら、
「半島前方後円墳は結局、何を示しているのか」
を整理し、
海域文化が王権の墓として海を越えた意味を検討する。
第十節 「半島前方後円墳は結局、何を示しているのか」――墓から海域政治を読み直す
一 ここまでの検討で、最初の問いへ戻る
朝鮮半島南西部に、
なぜ前方後円墳が存在するのか。
倭人が造ったからなのか。
現地首長が模倣したからなのか。
倭王権が支配していたからなのか。
本章で資料を一つずつ重ねると、
これらのどれか一つだけで、
すべてを説明することは難しいことが見えてきた。
二 まず確かなのは、前方後円という形が列島側と強く結びついていることである
前方後円という墳形は、
当時の東アジア全域に普遍的に存在した墓制ではない。
三世紀以降の列島で発達し、
各地の首長墓として長期間用いられた特徴的な形式である。
したがって、
半島南西部の前方後円形墳を、
列島側の墓制とは無関係に偶然成立したもの
と考えることは難しい。
三 しかし「墳形が倭系」であることと、「倭人の墓」であることは同じではない
ここは最後まで分けておかなければならない。
墓の形。
被葬者の出生地。
家系。
政治的所属。
生活した地域。
これらは、
一致する場合もあれば、
一致しない場合もある。
したがって、
前方後円形という一点だけから、
被葬者の出自を決定することはできない。
四 さらに「倭人の墓」であったとしても、「倭の領土」を意味しない
仮にある前方後円墳の被葬者が、
列島出身者だったとする。
それでも、
その土地が倭王権の直接統治領だったとは限らない。
移住した人物。
外交を担った人物。
現地社会に定着した人物。
百済王権に仕えた人物。
地域首長となった人物。
さまざまな可能性がある。
人の出自と国家の領土支配は、別の問題なのである。
五 反対に「在地首長の墓」であったとしても、倭との関係が消えるわけではない
現地に生まれ、
現地社会を基盤とする首長が、
倭と深い関係を持つこともできる。
列島側の有力者と交流する。
海上交通を利用する。
倭系集団と婚姻する。
倭王権との外交関係を持つ。
そのような人物が、
政治的表象として前方後円という形式を選ぶ可能性もある。
したがって、
在地首長説と倭との政治関係は、互いに排他的ではない。
六 前方後円墳以前から、すでに人と墓制は海を越えていた
五世紀前半には、
半島西・南海岸に、
北部九州をはじめとする列島側の墓制との強い関係を示す倭系古墳が存在する。
つまり、
五世紀後葉の前方後円形墳は、
人も墓制もまったく渡ったことのない地域へ、
突然現れたのではない。
その前に、
海上交通と人的往来の蓄積
が存在していた。
七 そして、そのさらに前には数世紀の交流史がある
縄文・新石器時代には、
列島と半島南部の間を物と人が動いた。
弥生時代には、
鉄を含む交易が発達した。
人の滞在を考えさせる資料も増える。
古墳時代になると、
王権外交。
軍事活動。
人材移動。
技術移転。
が重なっていく。
つまり、
前方後円墳だけを切り取るのではなく、
数世紀の海域交流の最後に現れた現象
として見る必要がある。
八 それでも「交流が長かったから墓ができた」だけでは説明できない
ここで加耶が重要になる。
加耶地域は、
倭との交流が古く、
鉄交易でも重要だった。
列島との人的接触も深い。
それにもかかわらず、
栄山江流域のような前方後円形墳群は基本的に展開しない。
したがって、
交流の深さだけでは、前方後円墳成立を説明できない。
九 必要だったのは、特定の政治状況である
前方後円墳が現れるためには、
倭との交流に加えて、
その形式を選ぶ必要がある。
百済との関係。
倭との関係。
加耶との関係。
地域社会内部の首長間競争。
海上交通の変化。
こうした複数の条件が重なる中で、
前方後円という墳形が、
特定の首長にとって意味を持つ政治的選択肢
になった可能性がある。
十 そのことは、分布と立地からも考えることができる
前方後円形墳は、
半島南西部のどこにでも均等に築かれたわけではない。
海。
河川。
交通路。
外部地域との接点。
こうした条件との関係が注目される。
そこで活動した首長の力には、
農業生産だけではなく、
人・物・情報を結ぶ能力
が関係していた可能性がある。
十一 そして巨大な墓を造れる以上、現地社会の余剰力を無視できない
前方後円墳は輸入品ではない。
現地で造らなければならない。
大量の土を動かす。
人を集める。
食料を供給する。
築造技術を投入する。
したがって、
被葬者の出自がどこであれ、
その人物は、
現地社会の余剰を動員できる政治的位置
にあったと考える必要がある。
十二 ここで「外来の政治表象」と「在地の社会基盤」が一つになる
墳形には、
列島側との強い関係がある。
しかし、
実際の築造には、
在地の技術。
在地の労働力。
在地の資源。
が使われる。
石室や副葬品にも、
複数地域の要素が組み合わされる。
つまり半島前方後円墳は、
単純な文化移植ではなく、
海を越えた政治表象と現地社会の力が結びついて成立した複合体
として見ることができる。
十三 そのため、被葬者像も一つに統一する必要はない
ある墓は、
倭系出自の地域首長だったかもしれない。
ある墓は、
倭と深く結びついた在地首長だったかもしれない。
ある人物は、
百済王権に組み込まれながら、
倭との交渉を担っていたかもしれない。
複合的な家系を持つ人物も考えられる。
したがって、
前方後円墳の共通性が、そのまま被葬者の出自の共通性を意味するとは限らない。
十四 むしろ共通していたのは「政治的位置」だった可能性がある
出自が異なっていても、
海上交通に関与する。
倭と関係を持つ。
百済とも交渉する。
地域社会の余剰を動かせる。
広域的な人間関係を持つ。
そうした共通する政治的位置があれば、
異なる背景を持つ首長が、
同じ前方後円という墓制を選ぶことはあり得る。
ここに、
民族の共通性ではなく、政治関係の共通性
という見方が生まれる。
十五 そして短期間で消えることが、この墓制の性格をさらに示している
半島南西部の前方後円形墳は、
列島のように数世紀続かない。
同じ場所で何世代にもわたり、
安定的に継承される例も限られる。
つまり、
恒久的な地域墓制というより、
ある時期にのみ有効だった政治的表象であった可能性がある。
その政治環境が変われば、
墓制を使う理由も失われる。
十六 ここで「倭の支配」と「ただの模倣」の中間に、大きな歴史空間が現れる
倭の植民地だった。
あるいは、
現地人が流行を真似しただけだった。
この二つの間には、
広い領域がある。
同盟。
外交。
婚姻。
交易。
軍事協力。
人材移動。
地域首長間の競争。
複数王権への接続。
半島前方後円墳は、
まさにこの、
国家と国家の間に広がる海域政治
の中で理解すべき現象である。
十七 だから前方後円墳は「国境線」ではなく「関係線」を見せている
墓の分布を地図へ置いて、
ここからここまで倭領。
ここから百済領。
という線を引くだけでは、
古代の政治関係を捉えきれない。
むしろ前方後円墳が示しているのは、
どの地域の首長が、
どの海域ネットワークに接続していたのか。
どの政治秩序を意識していたのか。
どのような外部関係を、
自らの権威へ利用できたのか。
という、
政治関係の線
だった可能性がある。
十八 ここで第一部から続いてきた「海」の意味が変わる
最初、
海は、
人が渡る場所だった。
次に、
物が動く場所になった。
技術が動く。
人が滞在する。
首長が交流する。
王権が外交する。
軍隊が渡る。
そして最後には、
王権と結びついた墓制まで海を越える。
海を介した交流は、
物の交換から、
政治的表象の共有へまで進んだのである。
十九 しかしこれは、一方向の「倭文化拡大史」ではない
同じ五~六世紀、
列島側にも、
半島から多くの技術と人が入る。
須恵器。
馬文化。
金工技術。
武器・馬具。
横穴式石室。
窯業技術。
工人。
思想や制度。
つまり、
倭から半島へだけではない。
半島から列島へも、
大量の文化要素が動いている。
海域文化は、最初から最後まで双方向なのである。
二十 半島前方後円墳が示す最も大きなものは、その双方向性の深さである
土器が動く。
技術が動く。
それだけなら文化交流である。
しかし、
首長が相手側の政治的墓制まで選ぶ。
そこまで進めば、
両地域の関係は、
単なる交易を超えている。
人間関係。
政治関係。
王権外交。
軍事。
地域首長の利害。
が重なっている。
半島前方後円墳は、
列島と半島南部の海域関係が、首長の死と権威の表現にまで入り込んだことを示す資料
として位置づけることができる。
二十一 そして、その海域政治は永遠には続かなかった
六世紀になると、
東アジアの政治環境は大きく変わる。
加耶諸国が次第に姿を消す。
新羅が成長する。
百済の地方統合が進む。
半島の政治勢力は、
より大きな王権へ再編されていく。
それまで地域首長が複数の政治圏を行き来できた余地も、
少しずつ変化していく。
前方後円墳が姿を消していくのは、
その大きな再編の中で考える必要がある。
二十二 第三部で追ってきたものは、ここで一つの頂点へ達する
海を利用する社会。
交易を支える余剰。
地域首長。
倭王。
纒向。
前方後円墳。
広域王権。
百済との外交。
半島での軍事活動。
倭の五王。
そして、
海の向こうの前方後円墳。
ここまでを見ると、
海域文化は、
王権に取り込まれながら、
外交・軍事・墓制にまで広がった。
しかし次に起きるのは、
その拡大の続きではない。
海域秩序そのものの再編である。
二十三 次に問うべきは「消えた国家の力は、どこへ行ったのか」である
加耶の政治勢力が消える。
百済が滅びる。
白村江で倭・百済復興軍が敗れる。
しかし、
国家が消えたからといって、
人まで消えるわけではない。
船を造る技術も消えない。
鉄を加工する技術も消えない。
農業生産も止まらない。
港も河川も残る。
では、
それまで国家や首長を支えていた、
人。
技術。
交易。
物流。
そして余剰力は、
どこへ移ったのか。
第四部では、
「文化が消えたか」ではなく、「文化と余剰力を支えていた社会構造が、どのように組み替えられたのか」
を追っていく。
第四部 「前方後円墳のあと、力はどこへ行ったのか」――海域秩序の崩壊と国家の再編
第十六章 「海域秩序はなぜ崩れたのか」――加耶の消滅から白村江へ
第一節 「ここから歴史の向きが反転する」――拡大から再編へ
一 第三部まで、海の力は拡大してきた
ここまで本稿が追ってきたのは、
海を渡る人々から始まり、
交易。
技術。
余剰。
地域首長。
王権。
外交。
軍事。
そして、
海を越えた前方後円墳へ至るまでの歴史であった。
長い時間をかけて、
海域社会の力は、
より大きな政治力へ組み込まれていった。
二 しかし六世紀以降、その流れが変わる
これまで成長してきた海域秩序に、
大きな変化が起きる。
加耶諸国が次第に姿を消す。
新羅が半島南部へ勢力を広げる。
百済も地方統合を進める。
そして六六〇年、
百済王朝が崩壊する。
六六三年には、
倭・百済復興軍が白村江で敗れる。
つまり、
それまで倭と半島南部を結んできた政治環境そのものが、大きく組み替えられていく。
三 ここで注意しなければならないことがある
国が滅びた。
だから、
文化も消えた。
人も消えた。
技術も消えた。
そう考えてはいけない。
国家の滅亡と、
社会の消滅は、
同じではない。
四 金官加耶が新羅へ組み込まれても、洛東江は残る
五三二年、
金官加耶は新羅へ組み込まれる。
しかし、
その瞬間に、
港が消えるわけではない。
河川が消えるわけでもない。
鉄を扱う技術も消えない。
船を操る人々も、
一夜にしていなくなるわけではない。
では何が変わるのか。
それらを誰が組織するのか
である。
五 大加耶が消えても、そこにいた人々まで消えるわけではない
五六二年、
大加耶も新羅に組み込まれる。
これによって、
加耶諸国が独立した政治主体として活動する時代は大きく終わる。
しかし、
農民。
鍛冶工人。
商人。
船乗り。
首長層。
彼らの生活そのものが、
五六二年を境に消滅したわけではない。
六 変わるのは「余剰の行き先」である
これは本稿にとって重要な視点である。
同じ農地。
同じ港。
同じ鉄。
同じ工人。
が存在していても、
そこから生まれた余剰を、
誰が集めるのか。
何に使うのか。
どこへ再投資するのか。
が変われば、
社会の性格も変わる。
つまり、
政治体の消滅とは、余剰を循環させていた回路の変更でもある。
七 加耶の問題は「鉄がなくなったか」ではない
加耶諸地域は、
鉄生産と交易で知られる。
しかし、
加耶の政治勢力が消えた後、
鉄そのものがなくなったわけではない。
問題は、
その鉄が、
誰のために生産され、
誰が流通させ、
どの政治圏へ利益や物資が集まるようになったのか
である。
ここを見る必要がある。
八 海は残っても、海を使う政治が変わる
海峡も残る。
島も残る。
港も残る。
航路を知る人々も残る。
しかし、
かつて加耶の首長。
地域交易者。
倭との関係を持つ海域勢力。
が動かしていた海を、
別の王権が管理するようになれば、
海の意味は変わる。
地理は同じでも、政治地理は変わるのである。
九 これは第三部の前方後円墳にもつながる
第三部では、
半島南西部の前方後円墳が、
特定の政治環境の中で成立した可能性を見た。
複数の政治勢力が存在し、
地域首長が、
倭。
百済。
加耶。
などとの関係を利用できる。
そうした余地があるからこそ、
独自の政治表象を選ぶ意味が生まれる。
しかし、
大きな王権による地方統合が進めば、
その余地は縮小する。
十 前方後円墳が消えていくことと、海域首長の政治的自由が縮小することは無関係ではない
もちろん、
墓制の変化を、
一つの政治事件だけで説明することはできない。
しかし、
地域首長が、
複数の政治圏との関係を利用できる時代から、
より大きな王権へ組み込まれる時代へ移る。
その過程で、
前方後円という独自の政治表象が不要になった可能性はある。
つまり、
第三部で見た墓制の終焉と、
第四部で見る政治秩序の再編は、
別々の話ではない。
十一 そして百済の崩壊は、加耶以上に大きな衝撃を持つ
百済は、
加耶諸国とは政治構造が異なる。
王権を持つ。
首都を持つ。
地方統治を進める。
中国王朝と外交する。
そして倭との間には、
数世紀にわたる政治・軍事・人的関係が存在した。
したがって六六〇年の百済王朝崩壊は、
倭にとっても、
単なる隣国の政変では済まない。
十二 なぜなら百済は、倭の国家形成を支えた海域秩序の一角だったからである
技術。
人材。
外交。
軍事。
海上交通。
仏教。
文書文化。
工人。
百済との関係は、
単なる交易相手という範囲を超えていた。
百済王朝が失われれば、
倭がそれまで利用してきた、
東アジアの政治・技術・人材ネットワークそのものが変わる。
十三 だから倭は百済復興へ深く関与する
六六〇年に百済の王都が陥落した後も、
百済復興運動は続く。
地方には、
軍事勢力。
城。
人員。
政治的意思。
が残っていた。
そして復興勢力は、
倭に滞在していた王族を求める。
ここで重要なのは、
倭が、
単に武器を送っただけではないことである。
十四 倭は「王を送り返す」段階まで関与する
百済王族豊璋が、
復興政権の中心となるために半島へ戻る。
倭は、
その帰還を支援する。
兵を送る。
船を出す。
武器を送る。
食料や物資を供給する。
この一連の動きから見えるのは、
百済復興を、
倭が単なる慈善的援助として扱っていなかったことである。
十五 ここで白村江を「百済を助けた戦争」だけで読むと足りない
もちろん、
百済救援という側面はある。
しかし、
それだけでは、
なぜ倭がこれほど大きな国家資源を投入したのかを説明しきれない。
百済の復活は、
倭にとって、
海上交通。
外交。
軍事的緩衝。
人材交流。
技術移転。
を含む、
それまでの海域秩序を維持する問題でもあった。
つまり白村江へ至る戦争は、
倭が自国の周辺秩序を守ろうとした戦争
としても検討する必要がある。
十六 しかし倭の国家力は、ここで限界にも突き当たる
倭は、
大量の兵。
船。
武器。
物資。
を海の向こうへ送ることができた。
これは、
列島王権がすでに相当な動員力を持っていたことを示す。
しかし、
国家力を海の向こうへ投射できることと、
そこで戦争に勝ち続けられることは同じではない。
輸送。
補給。
現地政権との指揮統合。
海戦能力。
敵側の軍事力。
すべてが関係する。
十七 白村江では「余剰力」だけでは勝てないことも見えてくる
人がいる。
船がある。
武器がある。
食料がある。
それでも、
戦争には負ける。
なぜか。
資源を持つだけでは、
十分ではないからである。
必要なのは、
それらを、
適切な場所。
適切な時期。
適切な目的。
へ集中させる力である。
本稿でいう、
転換力
である。
十八 さらに必要なのが「政治統合力」である
百済復興政権内部には、
王統の正統性を持つ豊璋と、
現地で復興運動を支えてきた福信らとの緊張があった。
この対立を、
敗戦の唯一の原因とすることはできない。
しかし、
戦争中の政権内部で、
政治的正統性と軍事指揮が一致しないことは、
継戦力を弱める要因になり得る。
ここで見えてくるのは、
余剰力があっても、それを統合する政治が崩れれば国家は弱くなる
という問題である。
十九 第三部までの「成長の歴史」が、ここで初めて反転する
これまでは、
余剰が増える。
首長が成長する。
王権が形成される。
王権が海へ出る。
という方向だった。
しかし第四部では、
逆を見る。
王権が崩れる。
余剰の回路が変わる。
人材が移動する。
技術が別の国家へ取り込まれる。
国家力の使い道が変わる。
つまり、
文化がどのように生まれたかではなく、どのように受け継がれ、組み替えられたか
を見るのである。
二十 白村江は「終わり」であると同時に「入口」でもある
六六三年、
倭・百済復興軍は敗れる。
これによって、
百済王朝を復活させる可能性は大きく失われる。
倭も、
半島への大規模な軍事関与から後退する。
しかし、
ここで歴史が止まるわけではない。
むしろ、
それまで海の向こうへ向けられていた国家力が、
今度は、
列島内部へ向かっていく。
二十一 城を造る
水城。
山城。
防衛施設。
兵を置く。
道路を整える。
行政拠点を強化する。
人を把握する。
物資を集める。
白村江後の倭が行うのは、
国家力の放棄ではない。
国家力の使い道の変更
である。
二十二 ここで前方後円墳の終焉ともつながる
かつて、
大量の人と物を、
巨大な首長墓へ投入した。
しかし時代が進むと、
同じ社会的動員力が、
城。
寺院。
宮都。
道路。
官衙。
工房。
軍事施設。
へ向けられるようになる。
つまり、
前方後円墳が造られなくなったことは、
余剰力そのものの消滅を意味しない。
二十三 むしろ「墓から国家へ」という転換を見る必要がある
首長の死後の権威を示す墓。
そこへ大量の余剰を投入する時代から、
生きている国家の行政。
防衛。
生産。
宗教。
交通。
へ余剰を投入する時代へ。
もしこの転換が確認できるなら、
前方後円墳の終焉は、
衰退ではなく、
国家形成の次の段階
として見ることができる。
二十四 第四部の問いは、ここにある
加耶は消えた。
百済は滅びた。
白村江で倭は敗れた。
しかし、
鉄は残る。
港も残る。
船の技術も残る。
工人も残る。
農業生産も続く。
では、
その力は、
誰に引き継がれたのか。
何へ使われるようになったのか。
そして、
なぜ前方後円墳という巨大な政治表象は必要とされなくなったのか。
第四部では、
国家が滅びた後にも残る「人・技術・余剰力」の行方
を追っていく。
第二節 「加耶は一日に滅びたのか」――海域世界の再編はゆっくり進んだ
一 まず「加耶」という一つの国があったわけではない
加耶の消滅を考える前に、
最初に整理しておく必要がある。
加耶とは、
一人の王が、
一つの首都から、
半島南部全体を統治していた単一国家ではない。
金官加耶。
大加耶。
阿羅加耶。
小加耶。
その他の地域勢力。
複数の政治主体が、
協力し、
競争し、
時には周辺の大国と個別に関係を結びながら存在していた。
したがって、
「加耶が滅びた」という一文だけでは、実際に何が起きたのかを捉えられない。
二 加耶諸国は、それぞれ異なる条件を持っていた
河口に近い勢力。
内陸の鉄資源や交通路と結びつく勢力。
海上交通を利用しやすい勢力。
百済との関係が強い勢力。
新羅との関係を選ぶ勢力。
倭との交流を持つ勢力。
つまり加耶諸国は、
一つの運命を共有する均質な集団ではない。
そのため、
衰退も統合も、
同じ年に一斉に起こるわけではなかった。
三 四世紀と六世紀では、加耶を取り巻く世界そのものが違う
四世紀には、
半島南部に複数の政治勢力が並立していた。
百済。
新羅。
加耶諸勢力。
そして海を越えて倭。
こうした複数勢力の間に、
交易。
外交。
軍事。
人の移動。
が存在した。
しかし六世紀になると、
百済と新羅の国家的統合がより進み、
小規模な地域勢力が独自に外交・交易を展開できる余地は、
次第に狭くなっていく。
四 つまり加耶の消滅は「弱くなったから滅んだ」だけではない
加耶諸国自身の内部事情もある。
しかし、
周囲の政治単位が大きくなったことも重要である。
百済が地方を統合する。
新羅が領域を拡大する。
軍事動員力が増す。
外交関係も王権間で組織される。
そうなると、
海域交易を基盤とする地域政治勢力が、
従来と同じ方法で自立を維持することは難しくなる。
五 五三二年は一つの大きな節目になる
この変化を象徴するのが、
五三二年の金官加耶である。
金官加耶は、
金海地域を中心とし、
洛東江河口と南海岸の交通に接続できる位置にあった。
古くから、
鉄。
海上交通。
列島との交流。
を考える上で重要な地域である。
その金官加耶が、
六世紀前半に新羅へ組み込まれる。
六 しかし「金官加耶がなくなった」と「金海の社会がなくなった」は違う
政治的独立が失われても、
農地は残る。
人も残る。
河川も残る。
港湾機能も残り得る。
鍛冶技術も、
船舶運用の経験も、
交易路に関する知識も、
その日に消えるわけではない。
ここで消えるのはまず、
それらを金官加耶という政治主体が独自に組織する仕組み
である。
七 同じ港でも、支配する政治が変われば意味が変わる
ある港から、
鉄が出ていく。
船が入る。
人が集まる。
それ自体は変わらなくても、
誰がその交通を管理するのか。
誰が物資を徴集するのか。
誰が外交相手を決めるのか。
誰の軍事目的に船が使われるのか。
これが変われば、
港が生み出す政治的意味は大きく変わる。
八 ここで「余剰の所有者」が変わる
これまで、
地域首長が、
農業生産。
鉄生産。
交易。
人材。
を自らの政治力へ変えていたとする。
その地域が別の王権へ編入されれば、
同じ生産力が残っていても、
余剰の一部は、
より大きな王権の軍事。
行政。
外交。
宮廷。
へ向けられるようになる。
つまり、
余剰が消えるのではなく、余剰を集める政治主体が変わる。
九 これは「吸収」であって、必ずしも「破壊」ではない
国家統合というと、
征服者が旧社会を破壊する場面を想像しやすい。
しかし実際には、
既存の地域社会を利用する方が合理的な場合も多い。
農民をそのまま耕作させる。
工人をそのまま働かせる。
港を利用する。
交通路を引き継ぐ。
地域有力者を新しい政治秩序へ組み込む。
そうすれば、
征服した土地の生産力を維持できる。
十 だから加耶文化の痕跡が残っても、加耶国家が続いていたことにはならない
土器が残る。
金工技術が残る。
墓制の一部が残る。
人名や家系が残る。
それらは、
旧来社会の人々や技術が継続していた可能性を示す。
しかし、
そのことと、
加耶諸国が独立した政治主体として存続していたことは別である。
ここでも、
文化の連続と政治の連続を分けて考える
必要がある。
十一 逆に政治体が消えても、その文化が別の国家の力になることがある
これは第四部全体を貫く重要な視点になる。
ある国家が滅びる。
しかし、
その国家が育てた工人。
船乗り。
武人。
行政経験。
技術。
交易知識。
が、
別の政治体へ吸収される。
すると、
旧国家の蓄積は、
新しい国家の内部で使われ続ける。
つまり、
国家の敗北が、その社会の能力すべての消滅を意味するわけではない。
十二 五六二年も同じ視点で見る必要がある
五六二年、
大加耶が新羅に組み込まれる。
これによって、
加耶諸国が独立した政治主体として活動する時代は、
大きな終点を迎える。
しかし、
これを、
五六二年に「加耶文化が消滅した」
と読むべきではない。
より正確には、
加耶諸勢力が独自の政治判断で人・物・余剰を動かす余地が大きく失われた
と見るべきである。
十三 ここで倭にとっても状況が変わる
加耶諸地域は、
列島との長期交流を考える上で重要な接点であった。
鉄。
人材。
航路。
交易。
軍事。
さまざまな関係が存在した。
しかし、
それらの地域が新羅の政治秩序へ組み込まれていけば、
倭は、
以前と同じように地域首長と直接関係を結べるとは限らなくなる。
十四 つまり海域ネットワークが「国家間ネットワーク」へ変わっていく
初期の海域世界では、
港の首長。
地域勢力。
交易者。
複数の政治主体が、
比較的自由に関係を結べる余地があった。
しかし王権の統合が進むと、
外交。
軍事。
交易。
の一部が、
より大きな国家の管理下へ入っていく。
ここでは、
海がなくなるのではなく、海を利用する政治単位が大きくなる。
十五 この変化は、前方後円墳の消滅とも響き合う
第三部で見た半島南西部の前方後円形墳は、
複数の政治世界が重なり合う時期に現れた。
地域首長が、
自らの政治関係を比較的自由に表現できる。
そのような環境である。
しかし、
百済や新羅による地方統合が進めば、
首長が独自の墓制で、
外部との政治関係を示す余地も狭くなる。
つまり、
海域首長の自律性の縮小と、前方後円形墳の終焉は、同じ時代変化の別の面である可能性がある。
十六 ここで加耶を「倭の橋」とだけ考えるのも危険である
加耶諸国は、
倭のために存在したわけではない。
百済とも関係する。
新羅とも関係する。
中国南朝との外交を行った勢力もある。
それぞれが、
自らの生存と利益のために外交を選択していた。
倭との関係は、
その複雑な政治世界の一部である。
したがって、
加耶の消滅を、
単に「倭が大陸への足場を失った」
とだけ説明することもできない。
十七 重要なのは「複数の選択肢を持つ地域政治」が減っていくことである
加耶諸勢力が存在していた時代には、
百済。
新羅。
倭。
あるいは他の地域勢力。
との間で、
外交的な選択が可能だった。
しかし、
大国による統合が進むと、
その選択肢は減る。
一地域が、
独自に外交・軍事・交易を組み合わせる余地が失われていく。
これは、
多極的な海域秩序から、より国家中心の秩序への転換
と見ることができる。
十八 だから加耶の消滅は「文化の終わり」ではなく「政治構造の転換」である
鉄技術が消えたわけではない。
造船技術も消えない。
交易経験も消えない。
人々も残る。
しかし、
それらを集め、
再配分し、
外交や軍事へ変換していた地域政治構造が変わる。
ここに、
第四部の最初の重要な結論がある。
国家が消えても能力は残る。
しかし、その能力を何へ使うかを決める主体は変わる。
十九 そして次に見るべきは、その変化の中心となった金官加耶である
加耶諸勢力の中でも、
金官加耶は、
海。
河川。
鉄。
列島との交流。
が交わる重要な地点にあった。
その政治的独立が失われた時、
古くから続いてきた海域ネットワークは、
どのように組み替えられたのか。
次節では、
「五三二年、金官加耶の消滅で本当に失われたものは何だったのか」
という問いから、
港・鉄・交易・余剰を結びつけていた政治的結節点の変化を見ていく。
第三節 「五三二年、何が失われたのか」――金官加耶と海上交易の結節点
一 五三二年を見る時、王家の交代だけを見てはいけない
金官加耶が新羅へ組み込まれた。
この出来事を、
一つの小国が消えた
という政治史だけで見ると、
その意味は小さく見える。
しかし本稿が追ってきた、
鉄。
港。
海運。
交易。
人材。
という視点から見ると、
失われたものはそれだけではない。
問題は、
それらを一つの政治主体として結びつけていた地域的な結節点が再編されたこと
にある。
二 金海という場所そのものに意味があった
金官加耶の中心地である金海地域は、
洛東江水系と南海岸を結ぶ位置にある。
内陸から物資を集める。
河川を利用して運ぶ。
海へ出す。
海から来た物資を内陸へ送る。
つまり、
金海は、
単なる一都市ではなく、
内陸物流と海上交通が接続する地域
として見る必要がある。
三 そこで鉄が重要になる
加耶諸地域を考える上で、
鉄は欠かせない。
弥生時代以来、
半島南部の鉄は、
周辺地域との交流を支えた重要な資源であった。
鉄は、
武器になる。
農具になる。
工具になる。
木工を変える。
造船にも関係する。
つまり鉄は、
一つの商品であるだけでなく、
他の生産活動を支える基礎資源
でもあった。
四 鉄があるだけでは海域国家にはならない
ここは重要である。
鉄資源が存在する。
それだけでは、
広域交易は成立しない。
生産する人がいる。
加工する工人がいる。
集積する場所がある。
運ぶ道がある。
船へ積み替える場所がある。
航路を知る人がいる。
交換相手がいる。
そして、
それらの活動を調整する政治関係が必要になる。
つまり、
鉄・港・人・船を結びつける仕組みそのものが政治力なのである。
五 金官加耶の強さは「鉄の量」だけでは測れない
もし鉄を大量に産出していても、
それを地域内部で消費するだけなら、
広い海域関係は生まれない。
反対に、
鉄を交換資源として利用し、
その対価として、
別の物資。
情報。
人材。
政治関係。
を得られるなら、
鉄は首長権力を拡大する手段になる。
したがって見るべきなのは、
資源そのものより、それを外部関係へ変換できる能力
である。
六 ここで倭との関係も位置づけ直す必要がある
金官加耶と列島との関係は、
単純に、
加耶が鉄を売り、
倭が買った
という一方向の商取引だけではない。
人も動く。
土器も動く。
技術も動く。
情報も動く。
軍事・外交関係も変化する。
したがって、
倭との関係は、
金官加耶が持っていた、
複数の外部関係の一つ
として見るべきである。
七 金官加耶は「倭のための港」ではない
この点は明確にしておく必要がある。
金官加耶が、
倭との交通で重要だったからといって、
倭のために存在していたわけではない。
半島内の諸勢力。
中国大陸方面。
海峡を越えた列島。
複数方向へ接続する地域である。
金官加耶自身が、
自らの政治的利益のために、
それらの関係を利用していたと考えるべきである。
八 だから五三二年に変わったのは「外交の主体」でもある
金官加耶が独立した政治主体である間は、
地域首長層が、
誰と関係を結ぶのか。
どの物資をどこへ流すのか。
どの勢力と軍事・外交関係を持つのか。
について、
一定の政治的選択を行えたと考えられる。
しかし新羅へ組み込まれれば、
その選択は、
より大きな政治秩序の中で行われるようになる。
九 つまり港は残っても「港の意思決定者」が変わる
ここが五三二年の核心である。
港が焼失したかどうかだけではない。
鉄生産が翌年停止したかどうかでもない。
重要なのは、
その港を利用して、
誰が外交をするのか。
誰が軍事輸送を行うのか。
誰が交易関係を調整するのか。
が変わることである。
港の物理的存続と、港をめぐる政治的自立は別なのである。
十 これは余剰の流れを変える
鉄を生産する。
物資を交換する。
農業余剰を集める。
海運によって別の資源を得る。
そこから生まれた力を、
再び船。
工人。
軍事。
外交。
へ投入する。
独立した金官加耶が存在していたなら、
この循環の一部は、
地域首長層の政治力として蓄積されたと考えられる。
しかし政治統合が進めば、
その余剰の行き先も変わる。
十一 「余剰が消えた」のではなく「中心が移った」と考える
農業生産が続く。
鉄生産も続く。
交通も残る。
それでも、
地域の独立した首長権力が弱くなることはある。
なぜなら、
生産された余剰が、
新しい政治中枢へ集められるようになるからである。
つまり、
地域の生産力低下と、地域政治の衰退は同じ現象ではない。
十二 これは考古資料の読み方にも関わる
ある地域で、
豪華な首長墓が少なくなる。
独自色の強い副葬品構成が変わる。
墓制が別の体系へ近づく。
その時、
すぐに、
経済力が落ちた
と考える必要はない。
むしろ、
余剰を巨大首長墓へ投入する政治構造そのものが変化した
可能性も検討しなければならない。
十三 金官加耶の変化は、前方後円墳問題ともつながっている
第三部では、
墓を、
余剰の政治的な使い方として考えた。
この視点を使えば、
加耶側で倭との交流が深かったにもかかわらず、
半島南西部のような前方後円形墳群が展開しなかった問題にも、
別の角度が生まれる。
必要なのは交流量だけではない。
各地域で首長が余剰をどの政治表象へ投入したのか
なのである。
十四 五三二年は、古い航路がその日に消えた年ではない
金官加耶の政治的独立が失われたとしても、
対馬海峡を越える人々が、
翌日から航海をやめたわけではない。
古くからの航路。
寄港地。
海の知識。
人的関係。
は残り得る。
だから、
五三二年を、
古代海上交流の終焉年
とすることはできない。
十五 しかし同じ航路でも、使われ方は変わり得る
これまで地域首長間の交易に使われていた船が、
より大きな王権の外交に使われる。
軍事輸送に使われる。
国家間の使節輸送に使われる。
物資の徴集に利用される。
つまり、
交通路そのものは継承されながら、
その上を流れる政治の性格が変化する。
十六 これは「海域首長の時代」が縮小していくことでもある
本稿では、
港。
船。
交易。
内陸生産。
を結びつける地域首長を、
海域首長という視点から見てきた。
しかし国家統合が進むと、
地域首長自身が自由に海を利用するのではなく、
国家の地方支配者として海を管理する方向へ変わり得る。
ここでは、
海を利用する能力が消えるのではなく、その能力が王権へ吸収されていく。
十七 金官加耶で失われた最大のものは「独自に転換する力」だった可能性がある
鉄を作れる。
船を使える。
港がある。
人もいる。
それだけなら五三二年以後も残り得る。
しかし、
それらを、
自らの外交。
自らの軍事。
自らの交易。
自らの首長権力。
へ変換する政治的自由は、
大きく変化する。
本稿の言葉でいえば、
地域社会が持つ余剰を、独自の政治目的へ転換する力
が失われていった可能性である。
十八 だから五三二年は「消滅」より「再編」と見る方がよい
金官加耶の王権は失われる。
しかし、
地域社会は残る。
技術も残る。
物流も残る。
そしてそれらは、
新しい政治秩序の中で再利用されていく。
つまり五三二年は、
鉄と海の文化が消えた年ではなく、
それを束ねる政治主体が交代した年
として位置づける方がよい。
十九 次に起こるのは、さらに大きな統合である
金官加耶だけが変わったのではない。
その後も、
加耶諸勢力を取り巻く政治環境は変化し続ける。
そして五六二年、
大加耶も新羅へ組み込まれる。
ここで問題となるのは、
一つの港湾国家の変化を超えて、
加耶諸国という多極的な政治世界そのものが終わっていくこと
である。
次節では、
「五六二年、加耶諸国の時代が終わるとは何を意味するのか」
を見ていく。
第四節 「五六二年、加耶諸国の時代が終わる」――多極的な海域秩序はどこへ行ったのか
一 五三二年で加耶世界のすべてが終わったわけではない
金官加耶が新羅へ組み込まれた後も、
半島南部には、
複数の加耶系政治勢力が存在していた。
したがって、
五三二年を、
加耶そのものの終焉とすることはできない。
むしろ、
加耶諸国を取り巻く政治環境が大きく変わり始めた節目
として見る必要がある。
二 金官加耶に代わって、大加耶が重要な存在となる
五世紀以降、
高霊地域を中心とする大加耶は、
加耶諸勢力の中で大きな存在感を持つようになる。
しかし、
これは、
金官加耶の政治力がそのまま大加耶へ移った
という単純な交代ではない。
中心となる地域が異なる。
周辺勢力との関係も異なる。
海への接続条件も異なる。
つまり、
同じ「加耶」と呼ばれていても、政治力の構成は同じではない。
三 大加耶の成長は、加耶世界がまだ政治的選択肢を持っていたことを示す
五世紀の加耶諸勢力は、
百済。
新羅。
倭。
そして中国王朝との関係を含む、
複数の政治環境の中に存在していた。
それぞれの勢力が、
常に同じ相手と結びついていたわけではない。
情勢に応じて、
外交。
婚姻。
軍事。
交易。
を選択する余地があった。
そこには、
まだ多極的な政治空間が存在していた。
四 しかし六世紀になると、その「間」が狭くなる
百済が強くなる。
新羅も強くなる。
両者が領域支配を拡大する。
すると、
その間に存在する加耶諸勢力が、
独立した外交主体として行動できる空間は狭くなる。
問題は、
加耶が突然弱くなった
というだけではない。
周囲の国家が、より大きな人口・軍事力・行政力をまとめられるようになった
ことでもある。
五 小さな政治勢力にとって、周囲の国家成長そのものが圧力になる
地域首長社会の段階では、
数千人。
あるいは一地域の余剰力。
でも、
相対的に大きな政治力になり得る。
しかし、
より大きな王権が、
複数地域から、
兵。
食料。
武器。
馬。
船。
を集められるようになれば、
政治力の規模そのものが変わる。
これは、
国家形成が周辺の小政治体の生存条件を変える
という問題である。
六 ここでも「人口が多い方が勝つ」という単純な話ではない
人口。
農業生産。
鉄。
だけで国家の強さは決まらない。
集められるか。
運べるか。
継続的に供給できるか。
複数地域の首長を従わせられるか。
軍事目的へ集中できるか。
つまり、
重要なのは、
分散した社会資源を一つの政治目的へ転換する力
である。
七 加耶諸勢力は、まさにその国家規模の拡大に挟まれていく
西には百済。
東には新羅。
南には海。
その間に、
複数の加耶勢力が存在する。
この位置は、
交易には有利になり得る。
しかし、
大国間の緊張が高まれば、
同じ地理は、
軍事的な圧力を受ける場所にもなる。
交易の結節点は、同時に戦略上の結節点でもある。
八 海域社会の利点が、そのまま政治的安全を保証するわけではない
海を使える。
交易できる。
鉄を扱える。
複数地域と関係を持てる。
これらは加耶諸勢力の強みになり得る。
しかし、
それだけで、
大規模な領域国家に対抗できるとは限らない。
海域ネットワーク型の政治力と、
広い領域から継続的に資源を集める国家力は、
同じものではない。
九 五六二年、大加耶も新羅へ組み込まれる
五六二年、
大加耶は独立した政治主体としての地位を失う。
これによって、
すべての加耶文化が消滅したわけではない。
しかし、
複数の加耶諸国が、
それぞれ独自の政治判断を行う時代は、
大きな終点を迎える。
五三二年から約三十年をかけて、
加耶世界の政治地図そのものが組み替えられた
のである。
十 ここで失われたのは「国名」だけではない
独立した政治主体が存在するということは、
独自に、
使者を送る。
同盟を結ぶ。
戦争をする。
交易相手を選ぶ。
首長を立てる。
余剰を何へ使うか決める。
ことができるということである。
その政治主体が消えるということは、
社会資源の使い道を自ら決定する中心が失われる
ということでもある。
十一 加耶の港や工人は、今度は別の国家の資源になる
鍛冶工人が残る。
陶工が残る。
農民も残る。
航海者も残る。
港も残る。
しかし、
彼らが生み出す力が、
新羅というより大きな政治体へ組み込まれれば、
同じ能力が、
別の国家の軍事。
生産。
交易。
行政。
へ利用されることになる。
つまり、
加耶の力が消えたのではなく、その一部が別の国家力へ組み替えられる。
十二 これは「征服した側がゼロから強くなった」のではないことを意味する
新羅が加耶地域を取り込む。
すると、
土地。
人口。
農業。
工人。
交通路。
地域社会の知識。
が、
新羅の政治秩序の中へ入る。
国家の拡大とは、
地図の色が変わることだけではない。
既存社会が持っていた能力を、新しい政治主体が利用可能にすること
でもある。
十三 第二部で見た「国家は文化をゼロから作らない」という問題が、ここでも戻ってくる
百済形成を考えた時、
国家は、
すでに存在する地域社会。
技術。
人口。
交易。
余剰。
を取り込むと見た。
同じことが、
加耶諸地域の統合にも当てはまる。
新しい支配者が現れたからといって、
社会を最初から作り直す必要はない。
既存能力を取り込み、
別の政治目的へ再編すればよい。
十四 つまり「国家形成」と「国家滅亡」は、反対方向から同じ現象を見ている
国家が形成される時、
地域社会の能力が集められる。
国家が滅びる時、
その国家が束ねていた能力が、
別の政治主体へ移ることがある。
したがって、
歴史を見る時、
王朝の成立と滅亡だけを追うのでは足りない。
重要なのは、
人・技術・余剰を誰が次に束ねたのか
である。
十五 加耶の消滅後も、倭と半島の海は閉じない
五六二年以後も、
倭と半島の往来そのものは続く。
百済との外交。
新羅との外交。
僧侶。
工人。
技術。
文物。
思想。
人の移動。
海は引き続き使われる。
したがって、
「加耶の消滅=倭と半島の交流の終焉」
ではない。
十六 変わったのは「誰と海を渡るのか」である
かつて、
倭側の人々は、
加耶諸地域の複数勢力と関係を持つことができた。
しかし、
それらの政治主体が新羅へ組み込まれれば、
海の向こうにいる交渉相手の構成が変わる。
地域首長との関係から、
より大きな王権との国家間関係へ。
ここでも、
海上交通は残りながら、その政治的性格が変わる。
十七 多極的な海域世界が、より少数の国家へ集約されていく
第三部まで見てきた海域社会では、
多くの地域勢力が、
複雑に重なっていた。
ところが六世紀、
加耶諸勢力が統合されることで、
半島南部では、
百済。
新羅。
という、
より大きな国家の比重が高まっていく。
これは、
単に国の数が減ったというだけではない。
海域政治の意思決定主体そのものが減った
のである。
十八 この変化が、次の百済問題をより大きくする
加耶諸国が存在していた時代、
倭にとって半島南部には、
複数の政治的接点があった。
しかし、
その一角が失われた後、
百済との関係が持つ意味は、
相対的にさらに大きくなる。
その百済まで、
六六〇年に王朝中枢を失う。
そう考えると、
白村江へ至る危機の大きさも見えてくる。
十九 ただし、その前に一つ確認しなければならない
五六二年、
加耶諸国の政治的独立は大きく終わった。
では、
そこに住んでいた人々。
技術者。
農民。
船乗り。
地域首長。
彼らの社会まで、
同時に消えたのだろうか。
答えを急いではならない。
次節では、
「国家が滅びることと、社会が消えることは同じなのか」
という問いを立て、
政治体の終焉と、人・技術・生産力の継続を分けて考えていく。
第五節 「国家が滅びても社会は残る」――政治体と人・技術を分けて考える
一 「滅亡」という言葉は、あまりにも多くのものを一度に消してしまう
歴史書では、
ある年に国家が滅びた
と記される。
王が降伏する。
首都が陥落する。
王統が途絶える。
外交権を失う。
政治的独立を失う。
こうした出来事は、
国家史では確かに「滅亡」である。
しかし、
社会史まで同じ日に終わるわけではない。
二 政治体が消えても、翌朝から人々の生活は続く
農民は田を耕す。
鍛冶工人は鉄を加工する。
陶工は窯を焚く。
船乗りは潮と風を読む。
木工技術者は木を削る。
地域の道も、
川も、
港も残る。
つまり、
国家の寿命と、社会の寿命は一致しない。
三 これは当たり前に見えて、古代史では非常に重要である
王朝名を中心に歴史を追うと、
加耶。
百済。
高句麗。
という政治単位が消えた時、
その文化まで消えたように見える。
しかし実際には、
文化を担っているのは、
国名ではない。
人である。
技術を知る人。
土地を知る人。
航路を知る人。
文字を扱う人。
物を作る人。
彼らが生きている限り、
社会的能力の一部は残り続ける。
四 だから「技術が残ったか」という問いだけでも足りない
鉄を作る技術が残った。
窯業技術が残った。
築城技術が残った。
それだけでは、
その社会が以前と同じ力を維持したことにはならない。
技術には、
原料が必要である。
道具が必要である。
工人を養う食料が必要である。
製品を必要とする人が必要である。
そして、
技術者を組織する仕組みが必要になる。
五 技術は「人の頭の中」にあるだけでは社会の力にならない
優れた鍛冶工人が一人いる。
それだけでは、
国家の鉄生産力にはならない。
弟子を育てる。
原料を確保する。
燃料を確保する。
工房を維持する。
製品を運ぶ。
継続的な需要を作る。
そこまで整って初めて、
個人の技能が、
社会的な生産力
へ変わる。
六 つまり国家が滅びると、最初に切れるのは「技術そのもの」ではなく「技術を支える関係」である場合がある
王権が工人を保護していた。
首長が交易品を集めていた。
港が原料を運んでいた。
軍事需要が武器生産を支えていた。
宮廷が高級品を必要としていた。
その政治体が消えれば、
工人自身が生きていても、
仕事を与えていた仕組みが変わる。
ここが重要である。
七 同じことは海運にも言える
船乗りがいる。
船を造れる。
航路も知っている。
しかし、
誰が船団を組織するのか。
何を運ぶのか。
どこへ向かうのか。
誰が食料を用意するのか。
誰が航海の危険を負担するのか。
これらを決める政治・経済関係が変われば、
同じ航海技術でも、
社会の中で果たす役割は変わる。
八 ここで「余剰循環」という問題が出てくる
農業で余剰が生まれる。
その余剰で工人を養う。
工人が道具を作る。
道具が生産性を高める。
生産量が増える。
増えた余剰を交易へ回す。
交易で得た資源を、
さらに生産へ戻す。
この循環が続けば、
社会は新しい余剰を生み出し続けることができる。
九 国家の崩壊は、この循環を切断することがある
首長がいなくなる。
宮廷がなくなる。
交易関係が変わる。
戦争で生産地が荒れる。
物流路が変更される。
工人が移動する。
すると、
技術や人材が残っていても、
かつてと同じ循環は続かない。
つまり、
国家滅亡の本当の衝撃は、余剰の「量」だけでなく「流れ」を変えること
にある。
十 反対に、新しい国家がその循環を引き継ぐこともできる
新しい支配者が、
農地を利用する。
港を使う。
工人を集める。
旧来の地域首長を組み込む。
交易路を維持する。
そうすれば、
旧国家が持っていた社会的能力の一部は、
新しい国家の内部で再利用される。
つまり、
国家が交代しても、
社会の能力は別の政治体へ継承されることがある。
十一 この時、文化の名前も変わって見える
加耶の工人が、
新羅の支配下で働く。
すると、
次の時代の考古資料では、
新羅の文化として見えるかもしれない。
しかし、
その技術の一部が、
旧加耶地域の蓄積を引き継いでいる可能性はある。
逆に、
新羅側の技術や制度が加わり、
新しい形へ変化することもある。
したがって、
政治的名称が変わったからといって、文化の系譜まで完全に切断されたとは限らない。
十二 ただし「残ったから同じ文化である」とするのも危険である
人が残る。
技術が残る。
だから、
加耶が新羅の中でそのまま生き続けた
とは言えない。
新しい政治秩序に入れば、
技術の用途も変わる。
生産組織も変わる。
墓制も変わる。
政治的自己認識も変わる可能性がある。
継承とは、
必ずしも保存ではない。
継承しながら変化する
のである。
十三 この視点を持つと「渡来人」の見え方も変わる
ある国家が崩壊した後、
人々が別の地域へ移る。
その時、
移動したのは、
単なる人口ではない。
言語。
技能。
人脈。
宗教。
行政経験。
軍事経験。
航海知識。
さまざまな社会的能力も一緒に動く。
しかし、
移住先でそれらがどう使われるかは、
受け入れる社会によって変わる。
十四 つまり「人が来た」だけでは文化移転は完成しない
高度な技術者が移住した。
それだけで、
移住先に高度な産業が成立するとは限らない。
仕事を与える人がいる。
原料がある。
弟子を育てられる。
需要がある。
技術を別の産業へ応用できる。
こうした条件が必要になる。
ここに、
受け入れる側の転換力
が現れる。
十五 これは列島側を見る時にも重要になる
加耶や百済から、
人材。
技術。
制度。
が列島へ入った。
しかし、
それだけで倭国の発展を説明することはできない。
列島側にはすでに、
人口。
農業生産。
既存技術。
物流。
王権。
地域首長組織。
が存在した。
そこへ新しい技術を組み合わせたからこそ、
より大きな社会変化が起きたのである。
十六 第二部で見た「受容」が、第四部では「継承」へ変わる
第二部では、
外部から来た技術を、
国家がどう取り込むかを見た。
第四部では、
さらにその先を見る。
取り込んだ技術を、
次の世代へ残せるのか。
別の用途へ変えられるのか。
政治体が変わっても維持できるのか。
つまり、
文化の強さとは、持っている技術の高さだけではなく、それを次へ渡せる能力でもある。
十七 ここから「国家が滅びた後」を追う意味が生まれる
国家が成立する瞬間だけを見ると、
力が集まる過程が見える。
国家が滅びる瞬間を見ると、
その力がどこへ分散し、
誰に引き継がれるのかが見える。
この両方を見ることで、
初めて、
文化の長期的な流れを追うことができる。
十八 そして次の大きな転換点が六六〇年である
加耶諸国の場合、
複数の政治勢力が段階的に新羅へ組み込まれていった。
しかし百済の場合、
事情はさらに大きい。
長い王統。
首都。
官僚組織。
地方支配。
対外外交。
軍事組織。
そして倭との深い関係。
それらを持つ王朝中枢が、
六六〇年に崩壊する。
次節では、
「六六〇年、百済で本当に滅びたものは何だったのか」
を問い、
王朝の崩壊と、なお残された社会・軍事力を分けて見ていく。
第六節 「六六〇年、百済で本当に滅びたものは何か」――王朝崩壊と社会の存続
一 六六〇年を「百済滅亡」の四文字だけで終わらせると、その後の三年間が理解できない
六六〇年、
唐・新羅軍の攻撃によって、
百済王都泗沘は陥落する。
義慈王は降伏し、
王族・高官の一部も唐へ連行される。
百済中央王朝にとって、
これは決定的な打撃であった。
政治史の上で、
六六〇年を百済滅亡とすること自体に問題はない。
しかし、
社会全体を見れば、
話はそこで終わらない。
二 滅びたのは、まず「王朝中枢」である
王が失われる。
王都が失われる。
中央官僚組織が打撃を受ける。
外交を代表する主体が失われる。
中央から地方へ命令を出す仕組みも混乱する。
つまり六六〇年に崩壊したのは、
まず、
百済全域を一つの国家として束ねていた中央政治機構
である。
三 しかし王都が落ちても、百済全土が同じ瞬間に消えるわけではない
地方には、
城がある。
村落がある。
農地がある。
兵士がいる。
地域の有力者がいる。
官人もいる。
交通路も残る。
食料生産も続く。
中央政府が崩壊したことと、
地方社会が直ちに消滅することは、
まったく別の問題である。
四 だから六六〇年以後も抵抗が続く
王都陥落後、
鬼室福信。
道琛。
黒歯常之。
らをはじめとする勢力が、
各地で唐・新羅側への抵抗を続ける。
史料には、
多数の人々が再び集まり、
複数の城が抵抗拠点となったことが伝えられている。
細かな兵数や城数は、
史料ごとの性格を踏まえて慎重に扱う必要がある。
しかし、
少なくとも、
王都陥落後にも広範な抵抗基盤が残っていた
ことは重要である。
五 これは百済の「社会的基盤」が残っていたことを意味する
兵士だけが残っていても、
長期間の抵抗はできない。
兵には、
食料が必要である。
武器が必要である。
衣服が必要である。
城を維持する人々が必要である。
負傷者を支える社会も必要になる。
つまり復興運動が一定期間続いたという事実は、
その背後に、
なお人・生産・物流を支える地域社会が存在していた
ことを考えさせる。
六 ただし「百済国家がそのまま残った」と言うこともできない
ここは重要である。
地方の抵抗勢力が存在した。
だから、
六六〇年以後も以前と同じ百済国家が存続していた
とは言えない。
中央王朝は崩壊している。
王もいない。
地方勢力の指揮系統も、
以前と同じとは限らない。
つまり六六〇年以後の百済は、
旧国家がそのまま継続した状態ではなく、残存する社会資源を再び国家へまとめ直そうとする状態
と見る方がよい。
七 ここで「余剰力」と「政治統合力」の違いが見えてくる
農業生産が残る。
兵士も残る。
城も残る。
工人もいる。
これは、
社会に一定の余剰力が残っていることを意味する。
しかし、
それらを一つの目的へまとめる中央政治がない。
つまり、
余剰力が存在することと、それを国家力として使えることは同じではない。
八 国家は、資源の集合ではない
人口が多い。
米がある。
鉄がある。
城がある。
それだけでは、
国家として行動することはできない。
誰が命令するのか。
誰が軍をまとめるのか。
誰が食料を配るのか。
誰が外交を行うのか。
誰の名で戦うのか。
こうした政治的統合が必要になる。
九 百済復興運動が直面した最大の問題の一つが、まさにここにあった
抵抗できる人はいる。
拠点もある。
しかし、
国家を象徴する王がいない。
義慈王と主要王族は、
唐側の支配下へ置かれている。
そこで復興勢力は、
単なる軍事指導者だけではなく、
王統の正統性を持つ人物
を必要とするようになる。
十 なぜ「王」が必要だったのか
これは、
王が神秘的存在だったから
というだけではない。
国家を再建するには、
複数の地域勢力を、
一つの旗の下へまとめなければならない。
誰に従うのか。
誰の国家を復興するのか。
誰の名で外交するのか。
ここで王統は、
分散した政治勢力を一つへまとめる共通の正統性
として機能し得る。
十一 つまり王朝崩壊後にも、王統そのものには政治資源としての価値が残っていた
これは興味深い。
王都は落ちた。
軍も敗れた。
しかし、
王族の血統が持つ政治的価値までは消えていない。
むしろ中央が失われたからこそ、
分散した勢力をまとめるため、
王統の価値が大きくなる。
ここにも、
物質的余剰だけでは説明できない政治力
がある。
十二 そして、その王族の一人が倭にいた
百済王族の豊璋は、
この時、
倭に滞在していた。
復興勢力は、
その豊璋の帰還を求める。
これは、
倭と百済の関係を考える上で、
非常に重要な事実である。
百済王朝再建のために必要とされた王族が、
列島側にいたのである。
十三 ここで数世紀にわたる倭・百済関係が一気につながる
七支刀。
王族の往来。
外交使節。
軍事協力。
技術者や工人の移動。
仏教や文字文化の伝来。
第三部まで見てきた、
倭と百済の長期的な関係がある。
その延長上に、
六六〇年以後の豊璋問題を置くことができる。
十四 だから百済の崩壊は、倭にとっても単なる外国の政変ではなかった
百済が失われれば、
倭が長期間利用してきた、
外交路。
人材交流。
技術移転。
軍事的関係。
海上交通。
の条件が変わる。
しかも、
その向こうには唐と新羅がいる。
倭にとって、
百済王朝の崩壊は、
東アジアにおける自国の立ち位置そのものを変える事件
だったと考える必要がある。
十五 しかし「百済は倭に依存していた」と単純化することもできない
百済は、
独自の王権を持つ国家である。
中国王朝とも外交する。
半島内部でも、
新羅や高句麗と対立・交渉する。
倭との関係は非常に深いが、
それだけで百済国家全体を説明することはできない。
したがって、
豊璋が倭にいたことも、
百済が倭の従属国だった証拠
と短絡することはできない。
十六 重要なのは「国家を越えた王族・人材ネットワーク」が存在していたことである
王族が海を越えて滞在する。
使者が往来する。
工人が移動する。
軍事援助が行われる。
こうした関係が積み重なっていたからこそ、
百済中央王朝が崩壊した時、
倭が、
復興運動へ直接関与できる位置にいた。
つまり、
海域ネットワークは、
平時の交易だけではなく、
国家崩壊後の再建にも利用される政治基盤
となったのである。
十七 六六〇年に本当に失われたのは「社会」ではなく「社会を一つへ束ねる中心」だった
農地はある。
人もいる。
技術もある。
城もある。
軍事経験も残る。
しかし、
それらを一つの国家へまとめていた中央王権が失われた。
だから復興勢力が必要としたのは、
単なる追加兵力だけではない。
新しい政治中心
であった。
十八 ここで第四部の問いがさらに深くなる
国家とは何か。
大量の食料を持つことか。
多くの兵を持つことか。
高度な技術を持つことか。
それだけではない。
それらを、
一つの目的へ結びつける必要がある。
百済王朝崩壊後の状況は、
国家の力とは、資源量だけでなく、それを統合する政治的仕組みにある
ことを示している。
十九 そして倭は、その「中心」を送り返すことになる
復興勢力が求めたのは、
百済王族豊璋であった。
倭は、
この要請に応じる。
ここから歴史は、
単なる外交援助を越える。
王を送り返す。
軍を送る。
船を動かす。
物資を送る。
百済国家の再建へ、
倭が深く関わっていくのである。
次節では、
「なぜ倭は王まで送り返したのか」
という問いから、
豊璋帰還と百済復興戦争を、
王統・軍事・海域秩序の三つの側面から見ていく。
第七節 「なぜ倭は王まで送り返したのか」――豊璋と百済復興戦争
一 百済復興勢力が求めたのは、兵だけではなかった
六六〇年、
百済中央王朝は崩壊した。
しかし、
地方には抵抗勢力が残った。
城もある。
兵もいる。
食料生産を支える地域社会も残っている。
それでも、
復興勢力には大きな欠落があった。
国家を再び一つにまとめる王である。
二 そこで倭にいた豊璋が必要になる
『日本書紀』には、
百済復興勢力が倭へ援兵を求め、
あわせて百済王族豊璋の帰還を求めたことが記される。
豊璋がなぜ倭に滞在していたのか。
その政治的位置をどのように理解するかについては、
史料の性格を踏まえた検討が必要である。
しかし少なくとも、
百済王統に属する人物が倭に滞在し、復興政権の王として求められた
という構図は重要である。
三 これは単なる「亡命王子の帰国」ではない
豊璋が一人で帰ったのではない。
倭側は、
その帰還を政治的・軍事的に支援する。
ここで起きているのは、
個人の帰国ではない。
百済王朝を再建するための政治事業
である。
四 なぜ復興軍には王統が必要だったのか
鬼室福信らは、
現地で軍事抵抗を組織することができた。
しかし、
軍事指導者であることと、
百済全体を代表する王であることは同じではない。
複数の地域勢力をまとめる。
官人を従わせる。
外交する。
兵を集める。
百済国家を再建したと宣言する。
そのためには、
王統の正統性が大きな意味を持ったと考えられる。
五 王統そのものが「政治資源」だったのである
土地。
米。
鉄。
兵士。
船。
これらは目に見える資源である。
しかし国家には、
目に見えない資源もある。
血統。
官位。
正統性。
過去の王朝との連続性。
人々が、
この人物なら従う
と認める理由である。
豊璋の価値は、
まさにそこにあった。
六 ここで本稿の余剰力論に、もう一つ条件が加わる
余剰がある。
兵士もいる。
物流もある。
それでも、
政治主体が分裂していれば、
一つの国家力にはならない。
必要なのは、
分散した余剰力を一つへ束ねる政治的正統性
である。
豊璋の帰還は、
その機能を期待されたものとして読むことができる。
七 倭が豊璋を送り返した意味は大きい
倭は、
単に百済復興軍へ食料を売ったのではない。
武器だけを渡したわけでもない。
王統に属する人物を、
復興政権の中心となるべき存在として送り返すことに関与する。
これは、
倭が百済復興を、
単なる局地的反乱として扱っていなかったことを示している。
八 倭は「百済という政治主体の復活」に関与した
兵を送ることと、
王を送り返すことには違いがある。
兵なら、
一つの戦場を支援できる。
しかし王は、
国家そのものを再建する中心になり得る。
つまり倭の関与は、
戦闘支援だけではなく、
百済国家を再び成立させようとする政治過程
にまで及んでいた。
九 なぜ倭はそこまで百済再建に関与したのか
ここで、
「昔から友好国だったから」
だけでは説明が足りない。
国家が滅びた後も、
王を戻す。
軍を送る。
船を出す。
物資を供給する。
これには、
相応の危険と負担がある。
倭側にも、
百済再建を必要とする理由があったと考えなければならない。
十 第一に、唐・新羅という新しい政治環境がある
百済が消えれば、
半島南西部の政治地図が大きく変わる。
倭から見れば、
海の向こうに存在していた長年の外交相手が失われ、
唐・新羅の影響力が拡大する。
これは、
単なる外交相手の交代ではない。
列島周辺の安全保障環境そのものの変化
である。
十一 第二に、百済は人材と技術の重要な接点でもあった
百済との関係を通して、
倭には、
僧侶。
工人。
学識者。
文書文化。
建築・築城を含む諸技術。
などが伝わってきた。
個々の技術の由来や伝来経路は、
それぞれ別に検討しなければならない。
しかし、
百済が倭にとって重要な人的・文化的接点だったことは、
無視できない。
十二 第三に、何世代にもわたる王権外交の蓄積がある
百済と倭の関係は、
六六〇年に突然始まったものではない。
第三部で見てきたように、
数世紀にわたり、
王族。
使節。
軍事。
技術。
物資。
が海を越えて動いてきた。
豊璋の帰還は、
長期に形成された王権間ネットワークが、国家崩壊時に作動した事例
として見ることができる。
十三 つまり海域ネットワークは「平時の交易網」だけではなかった
人が行き来する。
物資を交換する。
技術を伝える。
それだけなら、
交流史である。
しかし、
王朝が崩壊した時、
王族を送り返し、
軍事支援まで可能になる。
ここまで来ると、
海域ネットワークは、
政治秩序を再建するための基盤
にもなっている。
十四 ただし「倭が豊璋を王にした」と単純化してはいけない
復興運動の主体は、
百済側にも存在する。
福信らが、
豊璋を必要とした。
現地には、
抵抗勢力がある。
倭がゼロから百済復興政権を作ったわけではない。
より正確には、
現地の復興勢力と倭の国家支援が結びついて、豊璋を中心とする復興政権が成立していく
と見るべきである。
十五 逆に「百済だけの内戦」でもない
倭から王族が戻る。
倭の兵力が加わる。
物資が送られる。
唐・新羅軍と戦う。
すると、
この戦争は、
百済旧領内部だけで完結する戦争ではなくなる。
複数国家が関与する、
東アジア規模の戦争となる。
十六 ここで海は、交易路から軍事補給路へ変わる
第一部では、
海は、
人と物が渡る空間だった。
第三部では、
王権が外交と軍事に利用する海となった。
そして六六〇年代には、
海そのものが、
王。
兵。
武器。
食料。
情報。
を送り続ける、
戦争の生命線
になる。
十七 王を送り返すだけでは国家は再建できない
豊璋が帰還する。
それで百済が復活するわけではない。
王を支えるには、
兵が必要である。
食料が必要である。
武器が必要である。
輸送船が必要である。
現地の支持も必要である。
つまり、
政治的正統性と、
物質的な余剰力の双方が揃わなければならない。
十八 ここで倭の負担は急激に大きくなる
王族を送る。
護衛する。
海を渡す。
兵を派遣する。
武器や生活物資を供給する。
さらに戦争が長期化すれば、
補給を続けなければならない。
一度船を出せば終わる話ではない。
王朝再建とは、継続して資源を投入する国家事業
なのである。
十九 だから豊璋帰還は、倭の国家形成を見る資料にもなる
倭が、
海外の政治主体を支えるために、
王族。
軍。
船。
物資。
を組織できる。
これは、
列島王権が、
相当な広域動員能力を持っていたことを考える材料になる。
ただし、
その具体的な派遣人数や船数については、
史料記事の年代関係や重複可能性を精査しなければならない。
重要なのは、
数字を単純に足すことではない。
海外で継続戦争を支えるだけの動員・物流が行われたこと
である。
二十 そして次の問いが生まれる
では、
倭は、
実際にどれほどの兵。
船。
武器。
食料。
を動かしたのか。
そして、
それだけの資源を、
なぜ列島社会から引き出すことができたのか。
ここで第三部まで追ってきた、
前方後円墳。
地域首長。
広域王権。
余剰力。
物流。
が、
白村江直前の国家動員へつながってくる。
次節では、
「なぜ倭はこれほどの資源を投入できたのか」
という問いから、
百済復興戦争を支えた列島側の国家力を見ていく。
第八節 「なぜ倭はこれほどの資源を投入できたのか」――百済復興戦争を支えた列島国家
一 白村江を見る時、戦場だけを見てはいけない
六六三年の敗戦だけを見ると、
倭軍が海を渡り、
唐軍と戦い、
敗れた。
という一つの会戦に見える。
しかし、
その軍が白村江へ到達するまでには、
その何倍もの社会的準備が必要だった。
問題は、
倭軍が何隻の船を失ったかだけではなく、その艦隊を海へ送り出せる社会がすでに存在していたことである。
二 史料には複数回の軍事派遣が記されている
『日本書紀』には、
豊璋帰還に伴う兵力。
その後の軍勢派遣。
さらに六六三年の大規模派兵。
が記される。
記事間の年代関係や重複の可能性があるため、
記載された人数を単純に加算し、
そのまま実数とすることには慎重でなければならない。
しかし、
一度だけの小規模遠征ではなく、
数年間にわたり兵・船・物資を送り続けた
という戦争の規模は見失ってはならない。
三 兵士一人を海の向こうへ送るだけでも、兵士一人分では済まない
兵士には、
武器がいる。
食料がいる。
衣服がいる。
輸送手段がいる。
海を渡る船員がいる。
船を造る工人がいる。
壊れた船を修理する人がいる。
出航地まで物資を運ぶ人も必要になる。
つまり、
一人の遠征兵の背後には、
戦場へ行かない多数の人々の生産と労働
が存在する。
四 数万規模の派兵記事が意味するのは、人口そのものではない
人口が多ければ、
自動的に大軍を送れるわけではない。
農民を兵にすれば、
その間の生産力は落ちる。
船員を動員すれば、
別の海上輸送に影響する。
武器を作れば、
鉄や木材を別の用途へ回せなくなる。
つまり大規模派兵とは、
社会の一部を、
通常の生産活動から戦争へ振り向けること
なのである。
五 だから必要になるのが「余剰」である
生きるために必要な食料を、
すべて食べてしまう社会では、
長期遠征はできない。
生産した穀物の一部を集める。
保存する。
運ぶ。
兵士へ配る。
さらに、
船大工。
鍛冶工人。
輸送者。
など、
直接食料を生産しない人々も養う。
ここで初めて、
農業余剰が、
軍事力へ変換される。
六 しかし余剰が存在するだけでも足りない
村ごとに食料が余っている。
それだけでは、
海外遠征軍を支えられない。
集めなければならない。
集積しなければならない。
必要な港へ運ばなければならない。
必要な時期まで保存しなければならない。
そして、
軍へ配分しなければならない。
つまり、
余剰力と物流力は一体である。
七 船は、さらに多くの産業を必要とする
船体には木材がいる。
木を伐る。
運ぶ。
加工する。
組み立てる。
縄や索具を用意する。
櫂などの装備を整える。
船員を集める。
航路を知る者を乗せる。
一隻の船は、
一つの技術だけでは作れない。
第二部で見た、
木工。
鉄工具。
物流。
海洋技術。
が、
ここで一つに集約される。
八 これまでの技術史が、ここで軍事史につながる
第二部では、
外部から入った技術が、
列島の既存技術と結びつく過程を見た。
第三部では、
それらを支える地域社会が、
王権へ組織されていく過程を見た。
六六〇年代になると、
その複合技術体系が、
国家規模の海外輸送
として姿を現す。
白村江は、
突然現れた軍事能力ではない。
九 港もまた国家資源になる
兵を集めても、
船を造っても、
どこからでも出航できるわけではない。
船を集める場所。
物資を積む場所。
人を待機させる場所。
航海の時期を調整する場所。
対馬海峡を越えるための中継地。
こうした海上輸送の拠点が必要になる。
つまり、
第一部で見た港や海峡の知識が、
七世紀には、
国家物流のインフラ
として利用されるようになる。
十 海洋技術も、個人の航海術だけではない
潮を知る。
季節風を読む。
島を目標に航行する。
停泊場所を知る。
水や食料を補給する。
複数の船を同じ目的地へ向かわせる。
これらが組み合わさらなければ、
大規模船団は動かない。
したがって、
白村江の遠征は、
縄文以来積み重ねられてきた海上交通能力が、
国家的組織力と結合した段階
としても見ることができる。
十一 さらに難しいのは、一度送ることではなく「送り続けること」である
一度だけなら、
蓄えていた物資を大量に使うこともできる。
しかし、
戦争が数年間続けば事情は違う。
翌年も食料を集める。
次の兵を送る。
船を補修する。
武器を補給する。
現地から情報を受け取る。
その情報によって、
次の派遣を決める。
ここに必要なのは、
瞬間的な動員力ではなく、継戦力
である。
十二 倭は武器だけを送っていたわけではない
『日本書紀』には、
大量の矢だけでなく、
糸。
綿。
布。
革。
稲種。
などを百済復興側へ送った記事がある。
個々の数量や語義については、
史料監査で改めて確認する必要がある。
しかし記載内容からは、
単なる一会戦用の武器援助より広い、
戦争と現地社会を持続させる物資供給
を想定していたことが読み取れる。
十三 これは「戦場の兵」ではなく「戦争を維持する社会」を支える発想である
兵は、
矢だけでは戦えない。
食べなければならない。
着なければならない。
道具を修理する。
拠点を維持する。
農業も続けなければならない。
長期戦では、
軍隊と民間社会を完全に切り離すことはできない。
百済復興戦争への支援は、
軍事力の背後に生活と生産があること
をよく示している。
十四 では、その物資を誰が集めたのか
史料は、
列島各地から、
誰が何俵をどの港へ運んだのかまで、
すべてを記しているわけではない。
したがって、
具体的な徴集制度を推測だけで作ることはできない。
しかし、
相当量の兵力と物資を海外へ送れた以上、
王権が、
複数地域の人・物資・船へアクセスする仕組みを持っていたことは考えなければならない。
十五 ここで前方後円墳体制の意味が、別の角度から見えてくる
巨大古墳を築くには、
人を集める。
食料を供給する。
資材を運ぶ。
工人を組織する。
長期間一つの事業を続ける。
必要があった。
もちろん、
古墳築造組織と七世紀の軍事動員制度を、
そのまま同一視することはできない。
しかし、
広域社会から人と資源を集中させる能力の蓄積
という点では、
国家形成の長い過程として比較することができる。
十六 古墳を造る力と軍を送る力は、同じではない。しかし無関係でもない
巨大古墳を造れた。
だから大軍を送れた。
という単純な因果関係ではない。
時代も制度も異なる。
しかし、
どちらにも必要なのは、
分散する人。
食料。
資材。
技術。
を、
一つの政治目的へ集中させることである。
本稿でいう、
転換力
がここにある。
十七 六六三年の大規模派兵は、列島国家形成の一つの到達点でもある
第一部の海域社会では、
小規模な集団が海を越えた。
第三部の倭王権は、
外交使節や軍事力を半島へ送り出す。
そして七世紀には、
数年間にわたる海外戦争へ、
国家規模の資源が投入される。
つまり、
海を渡れる社会から、海の向こうで戦争を継続できる国家へ
大きく変化していたのである。
十八 ただし「大量に動員できた」ことと「効率よく運用できた」ことは別である
これは白村江を理解する上で重要である。
多くの兵を集められる。
多数の船を送れる。
大量の物資も用意できる。
それでも、
戦争に勝てるとは限らない。
指揮。
情報。
戦術。
補給。
現地勢力との協力。
敵の軍事能力。
などが結果を左右する。
国家力の大きさと、その国家力を有効に使う能力は別なのである。
十九 そして白村江は、その二つの違いを突きつける
倭は、
海を越えて国家力を展開できた。
しかし、
唐・新羅との戦争では、
その力だけで勝利することはできなかった。
しかも、
百済復興政権内部にも、
政治的な対立が生じていく。
ここから見えてくるのは、
余剰力。
物流力。
軍事力。
だけではなく、
それらを一つにまとめ続ける政治統合力
の重要性である。
二十 次に見るのは「敗れた戦い」ではなく「何が終わったのか」である
六六三年、
白村江で倭・百済復興側は大きな敗北を喫する。
しかし、
第四部で重要なのは、
勝敗そのものだけではない。
その敗戦によって、
何が失われたのか。
何が列島へ持ち帰られたのか。
そして、
それまで海の向こうへ使っていた国家力が、
その後どこへ向けられたのか。
次節では、
「白村江で失ったのは艦隊だけだったのか」
という問いから、
旧来の海域政治の終焉と、
列島国家の次の転換を見ていく。
第九節 「白村江で失ったのは艦隊だけだったのか」――旧来の海域政治の終焉
一 六六三年の敗北を「船が焼かれた戦い」で終わらせてはいけない
白村江の戦いでは、
倭・百済復興側の水軍が、
唐水軍に大きな敗北を喫した。
中国側史料には、
複数回の戦闘で倭側を破り、
多数の船を焼いたことが記される。
船数や戦闘の細部については、
史料ごとの差異を慎重に検討しなければならない。
しかし、
倭・百済復興側が水上戦で重大な敗北を受けたこと自体は動かない。
二 しかし、本当に失われたものは船だけだったのか
船は、
また造ることができる。
兵士も、
再び集めることはできるかもしれない。
問題は、
その敗北によって、
戦争全体の構造がどう変わったのか
である。
白村江は、
単なる艦隊同士の衝突ではなかった。
三 戦場が河口であったことには意味がある
百済復興勢力は、
半島内部の拠点だけで戦っていたのではない。
海の向こうの倭から、
兵。
武器。
物資。
そして王まで受け入れていた。
つまり、
百済復興戦争には、
列島と半島を結ぶ海上交通そのものが組み込まれていた。
四 海は、復興政権の外部生命線だった
倭からの支援を受けるには、
海を渡らなければならない。
船団を送り、
半島側の港へ入り、
そこから陸上拠点へ、
人と物を運ばなければならない。
したがって、
海上交通を維持できるかどうかは、
百済復興政権の継戦能力に直接関係する。
五 だから白村江の敗北は、補給の問題でもあった
水軍が大きな損害を受ければ、
次の船団を安全に送れる保証はなくなる。
兵を追加する。
武器を送る。
食料を送る。
負傷者や使者を移動させる。
そうした活動が、
以前と同じようには行えなくなる。
つまり白村江の敗北は、
倭から百済復興勢力へ続いていた大規模な海上支援を著しく困難にする敗北
でもあった。
六 しかも唐・新羅側は、海だけを戦っていたのではない
唐・新羅側は、
陸上からも復興勢力の拠点へ圧力を加えていた。
陸軍。
水軍。
補給。
城郭攻略。
これらが結びついている。
したがって、
白村江を、
海上だけで完結した一戦として見ることはできない。
七 水軍の敗北と陸上拠点の危機はつながっている
復興勢力の主要拠点である周留城をめぐる戦いと、
白村江の水上戦は、
別々の戦争ではない。
海上からの支援が弱まれば、
陸上拠点も孤立しやすくなる。
そして周留城が失われ、
その後も残存勢力による抵抗は続くものの、
復興運動全体は急速に厳しい状況へ追い込まれていく。
八 六六〇年と六六三年では「失われたもの」が違う
六六〇年、
百済中央王朝が崩壊した。
しかし、
地方社会。
兵力。
城。
復興の政治意思。
は残った。
だから国家再建の試みが可能だった。
ところが六六三年には、
その再建を支えていた、
現地拠点と海外支援を結ぶ軍事的条件そのものが大きく崩れる。
九 ここで初めて「百済を再建する」という選択肢が急速に細くなる
六六〇年には、
王朝は崩壊しても、
再建できる可能性があった。
豊璋を立てる。
倭から軍を送る。
城を守る。
唐・新羅へ抵抗する。
しかし六六三年以後、
その条件が一つずつ失われていく。
百済国家の再建は、
政治的願望だけでは維持できない。
十 国家には「復活できる条件」が必要なのである
王がいる。
それだけでは足りない。
兵がいる。
それだけでも足りない。
土地。
食料。
城。
物流。
同盟。
外交。
指揮系統。
これらが結びついて、
初めて国家は再建できる。
白村江は、
国家を成立させるには、個々の資源ではなく、それらを結ぶ構造が必要である
ことを逆側から示している。
十一 この意味で、白村江は本稿の「余剰力」を試す戦争でもあった
倭には、
兵を送り出す余剰力があった。
船を建造・運用する能力もあった。
物資を集める力もあった。
しかし、
それらを海外で継続的な政治成果へ変えるには、
現地の政治統合。
補給路。
軍事指揮。
同盟関係。
まで維持する必要がある。
余剰力だけでは、
国家戦争には勝てない。
十二 つまり「持っている力」と「使える力」は違う
人口がある。
食料もある。
技術もある。
船もある。
それらは国力の条件である。
しかし、
必要な時に。
必要な場所へ。
必要な量を。
長期間送り続けられるか。
そして、
現地の政治・軍事組織と結びつけられるか。
そこで問われるのが、
転換力と政治統合力
である。
十三 白村江の敗北で、倭そのものが崩壊したわけではない
ここは明確に分けなければならない。
倭は敗戦した。
しかし、
列島国家そのものが滅びたわけではない。
農業生産も残る。
工人もいる。
造船能力も残る。
地域社会も残る。
王権も存続する。
したがって、
白村江を、
倭国力そのものの消滅
と読むことはできない。
十四 失われたのは「それまでと同じ方法で半島へ関与する条件」だった
加耶諸国の政治的独立はすでに失われている。
百済中央王朝も崩壊した。
復興政権も大きな打撃を受ける。
倭と長期的な関係を持っていた半島側の政治主体が、
次々に姿を変えていく。
つまり、
倭が、
従来の相手。
従来の航路。
従来の同盟関係。
を前提として半島政治へ関与することが、
難しくなったのである。
十五 ここに「旧来の海域秩序の終焉」がある
これは、
海上交流が終わった
という意味ではない。
六六三年以後も、
列島と半島の間では、
人は動く。
使節も動く。
文化も動く。
技術も動く。
したがって、
海が閉じたわけではない。
終わったのは、
加耶・百済・倭などの長期的関係を前提として成り立っていた、それまでの政治的な海域秩序
である。
十六 「海の時代が終わった」のでもない
むしろその後も、
海は重要であり続ける。
ただし、
海の使い方が変わる。
これまでのように、
半島南部の複数勢力と政治・軍事関係を結ぶ海から、
新羅。
唐。
さらにその後の東アジア諸国。
との国家間外交を行う海へ。
海域社会は消えるのではなく、
より強く国家間関係の中へ組み込まれていく。
十七 そして倭の視線も、列島内部へ向き始める
海外へ軍を送り続けるのではなく、
今度は、
自らの側を守る必要が生じる。
唐・新羅軍が、
次にどこへ向かうのか。
列島へ侵攻する可能性はあるのか。
その危機認識の中で、
九州北部。
瀬戸内。
畿内。
を結ぶ防衛体制が整えられていく。
十八 ここで国家力の向きが反転する
白村江以前、
大量の国家資源が、
海の向こうへ投入された。
兵。
船。
武器。
食料。
しかし敗戦後、
今度は、
城を造る。
防衛拠点を整える。
兵を配置する。
国内交通を利用する。
行政機構を強化する。
つまり、
外へ投射していた国家力が、列島内部の防衛と統治へ振り向けられる。
十九 これは敗戦による「縮小」だけでは説明できない
確かに倭は、
半島で大きな軍事的後退を経験した。
しかし、
その後に起きるのは、
単なる萎縮ではない。
新しい防衛施設。
新しい動員。
新しい行政的対応。
が現れる。
したがって、
白村江後の変化は、
国力がなくなったというより、
国家資源の投資先が変更された
と見る方が理解しやすい。
二十 そして、この転換には半島から来た人々も関わっていく
ここには、
歴史の興味深い逆転がある。
倭が守ろうとした百済国家は、
再建できなかった。
しかし、
百済で培われた人材。
知識。
技術。
政治経験。
の一部は、
列島へ移っていく。
その中には、
列島の防衛や国家形成へ関係していくものもある。
二十一 国家は失われても、その国家が育てた能力は失われない
これこそ、
第四部で追う中心問題である。
加耶が消える。
しかし、
加耶社会が持っていた能力の一部は、
新羅などへ取り込まれる。
百済が滅びる。
しかし、
百済で育った人材の一部は、
唐。
新羅。
倭。
その他の地域へ移る。
つまり、
国家の滅亡とは、社会的能力の消滅ではなく、その再配置を引き起こすことがある。
二十二 ここで第十六章の問いに答えることができる
海域秩序は、
なぜ崩れたのか。
一つの戦争だけが原因ではない。
加耶諸勢力の統合。
百済・新羅の国家化。
唐の介入。
百済王朝の崩壊。
復興政権内部の問題。
そして白村江。
数世代にわたる政治再編の結果として、
古い海域政治の構造が維持できなくなったのである。
二十三 しかし「崩れた後」こそ、本当に見なければならない
国名だけを追えば、
加耶は消えた。
百済も消えた。
倭は敗れた。
そこで物語は終わる。
しかし、
本稿はここで終わらない。
人はどこへ行ったのか。
工人は誰に仕えたのか。
鉄の技術は誰が継いだのか。
船を造る人々はどうなったのか。
築城技術はどこで使われたのか。
古い交易路は、
誰の手へ移ったのか。
二十四 次に追うのは「敗者のその後」である
王朝は滅びる。
国名は消える。
しかし、
文化を生み出してきた人間まで、
歴史から消えるわけではない。
むしろ、
国家が崩壊した時こそ、
人と技術の移動が起こる。
その移動先で、
古い文化は、
別の国家の力へ変わることがある。
次章では、
「国家が滅びても人は消えない」
という視点から、
加耶・百済で蓄積された人材と技術が、
その後どこへ受け継がれていったのかを追っていく。
第十七章 「国家が滅びても人は消えない」――加耶・百済の人材と技術はどこへ行ったのか
第一節 「国家が滅びた翌日、人々はどこへ行ったのか」――国名の消滅と人間の移動
一 歴史地図では、国は一瞬で消える
五六二年。
加耶諸国の時代が大きな終点を迎える。
六六〇年。
百済中央王朝が崩壊する。
六六三年。
百済復興政権も決定的な打撃を受ける。
歴史地図を見ると、
それまで書かれていた国名が、
次の時代には消えている。
しかし、
現実の社会は、
地図のようには消えない。
二 国家が滅びた翌朝にも、人々は生きている
田を耕していた人。
鉄を加工していた人。
土器を焼いていた人。
船を造っていた人。
海を渡っていた人。
文字を書いていた人。
城を築いていた人。
王に仕えていた人。
彼らの人生が、
王朝の滅亡と同時に終わるわけではない。
三 では、彼らはどこへ行ったのか
この問いは、
戦争の勝敗よりも難しい。
王の降伏は記録される。
城の陥落も記録される。
将軍の死も記録される。
しかし、
一人の鍛冶工人が、
その翌年どこで鉄を打っていたのか。
一人の船大工が、
誰のために船を造るようになったのか。
一人の書記が、
次に誰の命令を書いたのか。
そうしたことは、
史料にはほとんど残らない。
四 だから「国家のその後」は、別の方法で追わなければならない
人名だけでは追えない。
考古資料を見る。
技術の継続を見る。
生産地を見る。
墓制を見る。
移住記事を見る。
氏族や官人の記録を見る。
新しい国家で、
以前にはなかった技術がいつ現れるのかを見る。
つまり、
国名ではなく、人と技術の痕跡を追うのである。
五 最初に考えられるのは「そのまま残る」人々である
国家が滅びたからといって、
住民すべてが故郷を捨てるわけではない。
むしろ多くの人々にとって、
田畑。
家。
家族。
地域共同体。
生産施設。
はその土地にある。
支配者が変わっても、
生活そのものは継続し得る。
六 昨日まで加耶の民だった人が、翌日から消えるわけではない
新羅に編入された地域では、
そこにいた人々の多くが、
新しい政治秩序の中へ組み込まれていったと考えるのが自然である。
土地は同じである。
村も残る。
生産技術も残る。
しかし、
政治的な所属が変わる。
ここでは、
人が移動するのではなく、国家の境界が人の上を移動した
と見ることもできる。
七 第二に、支配者側へ取り込まれる人々がいる
旧国家で能力を持っていた者は、
新しい支配者にとっても価値がある。
工人。
軍事経験者。
地域有力者。
文字を扱える者。
外交経験を持つ者。
交通路を知る者。
彼らをすべて排除するより、
利用した方が新しい領域を統治しやすい場合がある。
八 征服とは、土地だけを得ることではない
土地を得れば、
農地を得る。
人口を得る。
しかしそれだけではない。
地域に蓄積された、
技術。
知識。
交通網。
人間関係。
生産組織。
まで利用できる可能性が生まれる。
つまり、
国家が他国を取り込むことは、その社会が蓄積してきた能力を取り込むことでもある。
九 第三に、故郷を離れる人々がいる
戦争が起きる。
政治的立場を失う。
新しい支配者との関係を築けない。
王族や旧官人との関係を持っている。
より安全な土地を求める。
自らの技能を必要とする場所へ移る。
理由は一つではない。
国家崩壊後の人口移動を、
すべて「亡命」という一語でまとめることはできない。
十 移動には、さまざまな形がある
自ら移る者。
家族と移る者。
政治的理由で逃れる者。
戦争によって離散する者。
捕虜や連行によって移される者。
新しい支配者のもとで移住させられる者。
技術や地位を求めて別の地域へ向かう者。
古代の人の移動は、
自発と強制の二択ではなく、その間に多くの形が存在した
と考える必要がある。
十一 そして人が動けば、技術も動く
鍛冶工人が移れば、
鉄加工の知識も移る。
陶工が移れば、
窯の技術も移る。
船大工が移れば、
木材加工や造船の知識も動く。
書記や官人が移れば、
文書行政の経験も移る。
築城に関わる者が移れば、
防御施設を構築する知識も伝わり得る。
人間は、
技術を運ぶ媒体
でもある。
十二 しかし、ここでも「人が来たから技術が伝わった」と即断してはいけない
ある地域に新しい技術が現れた。
だから、
その技術を持つ人々が大量移住した。
とは限らない。
製品だけが来た可能性もある。
少数の専門家が来た可能性もある。
現地の人が学んだ可能性もある。
複数地域を往来する人々によって、
段階的に技術が共有された可能性もある。
第二部で確認した原則は、
国家崩壊後の人材移動にも当てはまる。
十三 「技術の移動」と「民族の移動」は同じではない
一つの技法が広がった。
同じ形式の建物が現れた。
似た武器が作られた。
それだけで、
特定の民族集団がその地域へ大量移住したことにはならない。
逆に、
人が移住しても、
移住先の社会へ同化し、
物質文化には大きな違いを残さない場合もある。
したがって、
物の類似から人間集団を直接決めることには慎重でなければならない。
十四 それでも国家崩壊は、人材移動を生みやすい
政治秩序が安定している時、
官人は宮廷に仕える。
工人は既存の需要に応える。
兵士は所属する軍事組織に従う。
しかし、
王朝が崩壊すれば、
その仕事を支えていた中心がなくなる。
そこで、
技能を持つ者は、
新しい需要のある場所へ移る可能性が生まれる。
これは、
政治的崩壊が、人材の再配置を引き起こす仕組み
として考えることができる。
十五 ここで「敗者の技術が勝者を強くする」という現象も起こり得る
国家間の戦争を、
勝者と敗者だけで見ると、
勝者がすべてを生み出したように見える。
しかし、
敗れた側の、
工人。
官人。
軍事技術者。
地域首長。
が新しい国家へ組み込まれれば、
敗者が蓄積してきた能力が、
勝者の国家力の一部になる。
これは、
加耶から新羅への統合を考える時にも、
百済崩壊後を考える時にも、
重要な視点である。
十六 さらに百済の場合、移動先は一つではない
百済王朝が崩壊した後、
人々の行方を、
すべて倭への移住で説明することはできない。
故地に残る者もいる。
唐側へ移される者もいる。
新羅の支配下へ入る者もいる。
別の地域へ移動する者もいる。
そして、
倭へ渡る者もいる。
つまり、
百済崩壊とは、
一方向の民族移動ではなく、人材と社会集団の広域的な再配置
として見る必要がある。
十七 では、なぜ倭へ渡る人々が重要なのか
人数だけの問題ではない。
誰が来たのか。
何を知っていたのか。
どこへ配置されたのか。
その技術を倭側が何に使ったのか。
そこを見る必要がある。
もし、
国家形成に必要な専門知識を持つ人々が移動し、
その能力が列島社会で継続して利用されたのであれば、
それは単なる人口増加とは意味が違う。
十八 ここで歴史の流れが再び反転する
かつて列島側は、
半島諸地域との交流を通して、
さまざまな技術や知識を受け取った。
その後、
倭は百済復興のために、
兵と物資を海の向こうへ送った。
しかし百済王朝の再建に失敗すると、
今度は、
半島側で蓄積されていた人材や技術の一部が、
列島側へ移ってくる。
人と技術の流れが、再び海を越えて組み替えられるのである。
十九 だから第十七章で追うのは「どの民族が移住したか」だけではない
もっと重要なのは、
国家が失われた時、
そこに蓄積されていた能力が、
どの社会に取り込まれたのか
という問題である。
鉄。
土器。
建築。
築城。
文書。
行政。
軍事。
海上交通。
こうした能力が、
新しい政治秩序の中で、
どのように使われたのか。
二十 最初に見るべきは、加耶である
加耶諸国は消えた。
しかし、
鉄を扱ってきた人々。
港を使ってきた人々。
地域社会そのものまで消えたわけではない。
では、
加耶の政治的独立が失われた後、
その人と技術は、
どのように新羅の中へ組み込まれていったのか。
次節では、
「加耶の鉄と工人は消えたのか」
という問いから、
国家の消滅と技術継承の関係を見ていく。
第二節 「加耶の鉄と工人は消えたのか」――新羅への吸収と技術継承
一 加耶が消えた後、鉄はどうなったのか
加耶を語る時、
鉄は重要な位置を占めてきた。
鉄素材。
鉄器。
鍛冶技術。
それを運ぶ交通路。
そして、
鉄を交換資源として利用する政治関係。
これらが、
加耶諸地域の発展を支えた要素の一つであった。
では、
五六二年に加耶諸国の政治的独立が終わると、
その鉄の世界まで消えたのだろうか。
二 まず「資源」と「国家」を分けなければならない
王国がなくなっても、
土地そのものは残る。
地下資源も、
一日で消えるわけではない。
生産施設も、
戦乱などによる破壊がなければ残り得る。
そして何より、
鉄を扱う知識を持つ人間がいる。
したがって、
加耶という政治体の消滅と、鉄生産能力の消滅を同一視することはできない。
三 しかし「鉄が残ったから加耶も残った」と考えることもできない
ここが逆の注意点である。
鉄生産が続いていたとしても、
誰がそれを管理するのか。
誰が工人を組織するのか。
誰が製品を受け取るのか。
どこへ運ばれるのか。
が変われば、
鉄の政治的意味も変わる。
昨日まで加耶首長の力を支えていた鉄が、
次の時代には、
新羅王権の資源になることもあり得る。
四 国家の交代とは「資源の所属先」が変わることでもある
これは、
所有権という近代的な意味だけではない。
誰が、
人を集められるのか。
誰が、
生産を要求できるのか。
誰が、
完成品を配分できるのか。
誰が、
それを軍事や交易へ投入できるのか。
つまり、
生産力を政治力へ転換する主体が変わる
ということである。
五 鉄を作るには、鍛冶工人だけでは足りない
鉱石や鉄素材。
燃料。
炉。
道具。
水。
木材。
運搬。
食料。
そして、
工人を養う社会。
鉄生産は、
一人の名人だけで成り立つものではない。
複数の仕事が結びついた、
一つの生産体系である。
六 だから技術継承を見る時、「工人が残ったか」だけでは足りない
仮に優れた鍛冶工人が残っていても、
原料が届かない。
燃料が得られない。
生産を注文する者がいない。
製品を運ぶ仕組みがない。
それでは、
技術は社会的な力として維持できない。
逆に、
新しい王権が、
原料。
工房。
需要。
物流。
を与えれば、
旧来の技術は、
新しい政治秩序の中で存続し得る。
七 つまり技術を継承するのは「人」だけではなく「仕組み」である
技法を知る人。
その人から学ぶ人。
原料を供給する人。
製品を必要とする人。
それを運ぶ人。
彼らが結びついて初めて、
一つの技術は世代を越える。
本稿でいう継承とは、
単に、
昔の技術が残った
という意味ではない。
技術を再生産できる環境が残ったか
という問題なのである。
八 新羅にとって、加耶地域の既存能力を利用しない理由はない
新しく領域を取り込んだ国家にとって、
土地を支配するだけでは意味がない。
そこから、
食料。
物資。
兵力。
技術。
を引き出せるようになって、
初めて領域拡大は国家力につながる。
したがって、
加耶諸地域に存在した生産・技術基盤が、
新羅の政治秩序へ組み込まれていった可能性を考える必要がある。
九 ただし「加耶の鉄がそのまま新羅の鉄になった」と断定してはいけない
ここでも、
単純な継承図を描くことは危険である。
生産地が変化した可能性がある。
技術体系そのものが変わった可能性もある。
新羅側の技術と融合した可能性もある。
工人が移動した可能性もあれば、
地域に残った可能性もある。
したがって必要なのは、
どの技術が、どの地域で、どの時期まで継続したのか
を個別に確認することである。
十 考古資料だけで「この工人は加耶人だった」と言うこともできない
炉がある。
鉄滓が出る。
似た工具がある。
技術的共通性が見える。
そこまでは考古学から検討できる。
しかし、
その工人自身が、
どの政治的・社会的帰属意識を持っていたのかまでは、
物だけでは決められない。
したがって、
技術の連続と、人間集団の同一性は分けて扱わなければならない。
十一 それでも「能力が引き継がれた」という視点は重要である
国家が形成されるたびに、
すべての技術をゼロから発明するわけではない。
既存の農業。
既存の鉄加工。
既存の物流。
既存の職人集団。
既存の地域社会。
これらを利用する。
第二部で見た、
「国家は文化をゼロから作らない」
という原則が、
ここでも現れる。
十二 そのことを象徴的に示す史料上の人物が于勒である
『三国史記』には、
加耶の楽師・于勒が、
新羅へ移ったことが伝えられている。
彼は、
音楽と伽倻琴に関わる人物として記録される。
鉄工人ではない。
しかし、
この人物の存在は重要である。
なぜなら、
加耶で形成された専門技能を持つ人物が、新羅社会の中で活動する
具体例だからである。
十三 ここでは「文化が征服された」のではなく「文化の担い手が移る」
政治体はなくなる。
しかし、
専門技能を持った人間が、
次の国家で活動する。
すると、
その技能は、
新しい国家の文化になる。
後世から見れば、
新羅文化として見えるものの中に、
それ以前の加耶社会で育った要素が含まれる可能性がある。
十四 これは鉄工人にも適用できる仮説である
于勒については、
文献史料が人名を残している。
しかし、
多くの工人には名前が残らない。
鍛冶工人。
陶工。
木工。
船大工。
彼らについて、
同じような移動や再編が起きなかったとは考えにくい。
ただし、
個々の工人集団の移動については、
考古資料による検証が必要である。
ここは、
確認された事実と、そこから導く推論を分けておく必要がある。
十五 むしろ「工人はどこへ行ったか」より「誰が彼らを必要としたか」と問う方がよい
技術者は、
需要のある場所で活動する。
武器を大量に必要とする国家。
農具を必要とする農業社会。
馬具を必要とする軍事組織。
宮廷用品を必要とする王権。
つまり、
国家の成長そのものが、
専門工人を集める力になる。
ここでは、
需要を作る国家が、技術者を吸収する
という方向からも考えることができる。
十六 加耶の技術は「加耶のため」だけに存在していたわけではない
技術は、
政治的名称を持たない。
鍛冶技術そのものに、
国境線はない。
それを誰が使うかによって、
加耶の武器になる。
新羅の武器になる。
交易品になる。
農具になる。
したがって、
政治体が変われば、
同じ技術が別の国家目的へ転換され得る。
十七 ここで「余剰の再配置」という意味が具体的になる
加耶地域で、
食料が生産される。
工人が働く。
鉄が加工される。
それが、
地域首長の交易や墓へ使われるのか。
それとも、
新羅王権の軍事。
行政。
宮廷。
地方統治。
へ回されるのか。
同じ地域の生産力でも、
行き先が違えば、
歴史上の見え方はまったく変わる。
十八 巨大な首長墓が見えなくなっても、社会の能力が消えたとは限らない
これは前方後円墳を考えてきた本稿にとって、
特に重要である。
首長が余剰を握れば、
その力は、
巨大な墓として見えやすい。
しかし、
国家が余剰を広く集めれば、
それは、
軍事施設。
行政。
都市。
寺院。
道路。
生産施設。
など、
別の場所へ現れることがある。
したがって、
墓の縮小を、そのまま社会の衰退と読むことはできない。
十九 「加耶が消えた」のではなく「加耶として見えていた力の形が変わった」可能性がある
もちろん、
戦争による破壊もある。
人口移動もある。
生産の縮小が起きた地域もあっただろう。
すべてを、
平和的な吸収
として説明することはできない。
しかし、
逆に、
加耶諸国の消滅を、
社会的能力の全面消滅
として説明することもできない。
より慎重に言えば、
一部は失われ、一部は残り、一部は移動し、一部は新しい国家の中で再編された
と考えるべきである。
二十 この視点を百済へ向けると、さらに大きな問題が現れる
加耶の場合、
新羅への段階的な統合を考えることができる。
しかし百済の場合は、
王都陥落。
王族・官人の移動。
復興戦争。
唐の軍事介入。
新羅との戦争。
という、
より激しい政治変動が続く。
そこで起こった人材の再配置は、
加耶以上に広い範囲へ及んだと考えられる。
次節では、
「百済王朝がなくなっても百済人は残る」
という問いから、
王族・官人・工人・地域社会が、
王朝崩壊後にどのような道をたどったのかを見ていく。
第三節 「百済王朝がなくなっても百済人は残る」――王族・官人・工人の離散
一 六六〇年に百済王朝は崩壊した。しかし、百済社会を生きてきた人々は残った
王都が陥落する。
王が捕らえられる。
官僚機構が崩れる。
復興戦争も敗れる。
政治史だけを見れば、
百済という国家は消えていく。
しかし、
その国家を実際に動かしていたのは、
王朝という名前ではない。
人間である。
二 国家が失われると、人々は一つの方向へ動くわけではない
故地に残る者がいる。
新しい支配体制へ組み込まれる者がいる。
唐側へ移される者もいる。
戦乱を避けて別の地域へ移る者もいる。
そして、
海を越えて倭へ渡る者もいる。
したがって百済崩壊後の人口移動を、
「百済人が倭へ逃げてきた」
という一つの流れだけで理解することはできない。
三 それでも列島への移動は、史料にはっきり現れる
『日本書紀』には、
百済から来た人々が、
列島各地へ配置された記事が残されている。
六六五年には、
百済の男女四百余人が、
近江国神前郡へ置かれたとされる。
さらに六六六年には、
百済の男女二千余人を東国へ移し、
一定期間食料を支給したとする記事がある。
四 六六九年にも、まとまった移住記事が現れる
六六九年には、
佐平余自信。
鬼室集斯。
らを含む百済系の人々、
男女七百余人が、
近江国蒲生郡へ移されたと記される。
これらの記事の人数を、
当時の移住者総数そのものと考えることはできない。
史料に記録されなかった移動もあっただろう。
しかし、
少なくとも、
数百人、数千人という単位で人々を列島内へ配置したという認識が史料上存在する
ことは重要である。
五 これは単なる「個人の亡命」とは規模が違う
一人の王族が逃れてきた。
一人の官人が亡命した。
という話ではない。
男女を含む集団が、
まとまって移動している。
しかも、
列島側が、
彼らを特定地域へ配置している。
ここには、
単なる偶発的避難だけでは説明しにくい、
受け入れる側の政治的対応
が見えてくる。
六 移動した人々を、すべて同じ集団と考えてはいけない
百済から来た人々の中には、
身分も、
技能も、
移動理由も異なる人々が含まれていたはずである。
王族。
旧官人。
軍事経験者。
専門技術者。
僧侶。
工人。
農民。
家族。
しかし、
各移住記事に、
それらすべての内訳が記されているわけではない。
したがって、
一つの移住集団全体を、
「技術者集団」
などと決めつけることはできない。
七 それでも百済から来た専門人材がいたことは、別の史料記事から確認できる
百済出身者の中には、
築城に関与する人物がいた。
政治・行政的な知識を持つ者もいた。
また、
百済で高い官位を持っていた人物も列島へ移っている。
つまり、
倭が受け入れたのは、
単なる人口だけではない。
国家運営や専門技術の経験を持つ人材も含まれていた。
八 ここで百済という国家が蓄積してきたものを考えてみる
百済には、
王権があった。
官人がいた。
文書行政があった。
人口や土地、生産を管理する仕組みがあった。
軍事組織があった。
城を築く技術があった。
寺院建築や瓦生産に関わる技術もあった。
外交経験も蓄積されていた。
これらは、
王朝が滅びた瞬間に消える知識ではない。
九 制度は壊れても、制度を知っている人は残る
これは非常に重要である。
国家制度とは、
法律や建物だけではない。
実際に、
文書を書く人。
計算する人。
物資を管理する人。
命令を伝える人。
工事を指揮する人。
外交儀礼を知る人。
そうした人々によって運用される。
したがって、
王朝が消滅しても、
国家を動かした経験そのものは、人間の中に残る。
十 一人の熟練者が移動する意味は、人口一人分ではない
たとえば、
築城技術者が一人移動する。
その人物は、
何十年かけて得た知識を持っている。
地形を見る。
土を選ぶ。
石を積む。
排水を考える。
人員を配置する。
工事工程を管理する。
そして、
その知識を別の人間へ教えることができる。
つまり、
人材移動とは、
過去に蓄積された時間そのものが移動すること
でもある。
十一 官人なら、さらに別の知識を持っている
文書の書式。
物資の記録。
倉庫管理。
土地や人口の把握。
官位秩序。
外交実務。
こうした知識は、
物として運ばれるだけでは機能しない。
実際に制度を運用した経験を持つ人間がいれば、
新しい社会で応用できる可能性が高まる。
十二 だから百済崩壊後の移住は、人口史だけでは捉えきれない
何人渡ったか。
それも重要である。
しかし、
同じ千人でも、
全員が同じ能力を持つわけではない。
その中に、
高度な専門知識を持つ者が何人含まれていたのか。
どこへ配置されたのか。
誰に仕えたのか。
何を任されたのか。
こちらを見ると、
人口移動が、
国家形成史の問題
へ変わってくる。
十三 列島側も、彼らをただ受け入れただけではない
人々を特定地域へ移す。
食料を支給する。
旧百済の官位を持つ人物を、
列島側の政治秩序の中で扱う。
こうした記事を見ると、
倭側も、
流入した人々を一定の政治的管理のもとへ置こうとしていたことがうかがえる。
これは、
難民を放置する社会とは違う。
十四 つまり「百済人が来た」のではなく「倭が百済系人材を組み込んだ」という側面がある
もちろん、
すべての移住者が、
国家によって計画的に招聘されたわけではない。
戦乱から逃れてきた人々もいただろう。
政治的理由で移動した者もいただろう。
しかし、
移住後の配置を見ると、
倭側が彼らを、
自らの社会の中へ組み込んでいく過程が見える。
移住と受容は、別々の問題なのである。
十五 ここで「渡来」という言葉だけでは見えにくいものがある
「渡来人」とまとめると、
海外から日本へ来た人々
という一括した集団に見える。
しかし実際には、
いつ来たのか。
どこから来たのか。
なぜ来たのか。
何を知っていたのか。
どこへ配置されたのか。
によって意味はまったく違う。
百済滅亡後の移動は、
国家崩壊を背景とした、
政治的・社会的な人材再配置
として見る必要がある。
十六 王族さえ、別の政治秩序へ組み込まれていく
百済王統も、
百済王朝とともに完全に歴史から消えたわけではない。
列島に残った百済王族の系統は、
後に百済王氏として、
列島の政治社会へ組み込まれていく。
百済では王統に属していた人々が、
列島では、
別の王権の中に位置づけられていく。
これは象徴的である。
十七 王統すら「移動」し「再配置」される
第三部では、
王統が、
人々をまとめる政治資源になり得ることを見た。
しかし、
その王朝が再建できなければ、
王族の政治的位置も変わる。
かつて、
一国の王となり得た血統が、
別の国家では、
その国家に仕える有力氏族となる。
つまり、
血統の価値さえ、政治環境によって意味を変える。
十八 百済王朝の終焉は、文化の終焉ではなく「文化の分散」を引き起こした
人が残る。
技術が残る。
制度を知る者が残る。
しかし、
それらを一つにまとめていた百済王朝はない。
すると、
蓄積されていた能力は、
各地へ分散する。
故地に残る。
新羅へ組み込まれる。
唐へ移る。
倭へ渡る。
百済という一つの国家に集積していた能力が、
複数の政治社会へ再配置されていく。
十九 ここで「国家が滅びても文化は残る」という言葉の意味が、さらに具体的になる
文化とは、
器物だけではない。
土器一個。
武器一本。
瓦一枚。
それだけではない。
技術を知る人。
制度を運用する人。
次の世代へ教える人。
その能力を必要とする社会。
この組み合わせが残れば、
国家が消えても、
文化の一部は、
別の場所で再び働き始める。
二十 では、なぜ倭だったのか
ここで次の問いが生まれる。
百済崩壊後、
人々には複数の行き先があり得た。
それでも、
まとまった人々が海を渡り、
倭へ入っている。
なぜ、
列島だったのか。
長年の外交関係があったからか。
王族や知人がすでにいたからか。
戦争中に築かれた軍事的関係があったからか。
あるいは、
倭側が彼らの持つ能力を必要としていたからか。
次節では、
「なぜ倭へ渡ったのか」――亡命だけでは説明できない人材移動
という問いから、
移動する側と受け入れる側、
その双方の事情を見ていく。
第四節 「なぜ倭へ渡ったのか」――亡命だけでは説明できない人材移動
一 「百済が滅びたから倭へ逃げた」だけでは、まだ説明が足りない
百済王朝が崩壊した。
戦争が続く。
復興運動も敗れる。
その結果、
人々が海を渡った。
ここまでは分かりやすい。
しかし、
次の問いが残る。
なぜ、その行き先の一つが倭だったのか。
二 海の向こうなら、どこでもよかったわけではない
古代の移住は、
現代の地図を見ながら、
安全な国を自由に選ぶようなものではない。
航路を知らなければならない。
船が必要である。
受け入れてくれる相手が必要である。
到着後、
生活できる場所も必要になる。
つまり、
まとまった人間集団が移動するためには、
移動以前から存在する関係
が重要になる。
三 倭と百済には、その関係がすでにあった
倭と百済の交流は、
六六〇年代に突然始まったわけではない。
王族。
使節。
僧侶。
工人。
学識者。
軍事関係者。
さまざまな人々が、
それ以前から海を越えていた。
したがって百済側から見れば、
倭は、
まったく未知の土地ではなかった。
四 豊璋が倭にいたこと自体が、その関係の深さを示している
百済復興勢力が王を必要とした時、
その候補となる王族が、
すでに倭に滞在していた。
この事実だけでも、
両王権の間に、
通常の物品交易を超えた人的関係が存在したことが分かる。
王族さえ移動する海である。
その海を、
官人や専門技術者、
その他の人々も渡っていたとして不思議ではない。
五 つまり百済から倭への移動には「道」がすでにあった
ここでいう道とは、
海上航路だけではない。
誰を訪ねればよいのか。
どの港へ行けばよいのか。
誰が船を用意できるのか。
どの王権と交渉すればよいのか。
そうした、
人的・政治的な道
も含んでいる。
人間の移動は、
地理だけでは成立しない。
六 しかも倭は、百済復興戦争の当事者だった
倭は、
遠くから百済の滅亡を見ていた国ではない。
王族を送り返した。
兵を送った。
船を出した。
物資を送った。
そして、
白村江で唐軍と戦った。
つまり、
百済復興勢力と倭の間には、
戦争を通じた直接的な結びつきがあった。
七 敗戦した時、すでに両者を結ぶ人間関係が存在していた
共に戦った者。
使者として往来した者。
倭側の指揮官を知る者。
百済側の官人と関係を持つ者。
どこまで具体的に復元できるかは、
史料上の限界がある。
しかし、
国家間で数年間の共同軍事行動が続いていた以上、
その背後に相当数の人的接触が存在したことは考えなければならない。
八 だから「敗者が偶然倭へ流れ着いた」と見るだけでは足りない
もちろん、
戦乱を逃れた人々もいただろう。
家族を連れて避難した者もいただろう。
政治的報復を恐れた者もいた可能性がある。
しかし、
それだけでは、
列島側が移住者をまとまった人数で受け入れ、
さらに特定地域へ配置したことを十分には説明できない。
九 ここには「受け入れる国家」の意思も見える
人を受け入れるには、
食料が必要である。
土地が必要である。
住む場所が必要である。
大量の人々を、
どこへ配置するかも決めなければならない。
史料に、
移住者の配置や食料支給が記されるということは、
倭側が、
少なくとも一部について、
国家的な受け入れを行っていた
ことを示している。
十 これは救済であると同時に、国家にとっては負担でもある
数百人。
数千人。
という人口を受け入れれば、
その日から食料が必要になる。
住居を整える。
耕地を確保する。
地域社会との関係も調整する。
したがって、
移住者を受け入れること自体が、
列島側の余剰力を必要とする。
十一 それでも受け入れたのはなぜか
ここで、
一つの可能性が見えてくる。
移住者は、
単なる消費人口ではない。
農業をする。
物を作る。
知識を持つ。
技術を持つ。
文字を扱う。
軍事経験を持つ者もいる。
つまり、
一定期間の負担を引き受けても、
定着すれば、
新たな生産力や専門能力を社会へ加えることができる。
十二 しかし「倭が技術者を獲得するために百済人を受け入れた」とまで断定することはできない
ここは慎重でなければならない。
史料は、
すべての移住政策について、
倭側の目的を説明しているわけではない。
安全保障。
旧同盟者の保護。
政治的関係。
人口配置。
地域開発。
専門人材の利用。
複数の理由が重なっていた可能性がある。
したがって、
人材獲得だけを唯一の目的とすることはできない。
十三 むしろ重要なのは「結果として何が起きたか」である
移住の動機が何であったとしても、
百済社会で経験を積んだ人々が、
列島社会へ入った。
そして、
その一部が、
築城。
行政。
学問。
宗教。
建築。
その他の専門分野で活動していく。
ここでは、
移住の理由と、
移住後の役割を分けて考える必要がある。
十四 「逃げてきた人」と「国家に役立つ人」は両立する
戦乱から逃れた人だから、
技術者ではない
とは限らない。
亡命した官人だから、
難民ではない
とも限らない。
一人の人物に、
複数の側面があり得る。
故国を失った人であり、
同時に、
高度な技能や経験を持った人でもある。
したがって、
「難民か人材か」という二択そのものが適切ではない。
十五 ここでも現代的な国民移動の感覚を持ち込まない方がよい
百済から来た人々を、
一つの均質な「百済民族集団」として扱うと、
個々の社会的立場が見えなくなる。
王族。
官人。
軍人。
工人。
僧侶。
農民。
家族。
それぞれ、
移動理由も、
列島で与えられた役割も異なった可能性がある。
本稿で追うべきなのは、
民族名そのものではなく、
どの能力が、どこへ移動したのか
である。
十六 そして倭側にも、彼らを必要とする事情があった
白村江敗戦後、
列島は、
新しい安全保障環境へ入る。
九州北部を防御する。
瀬戸内の交通路を守る。
王権中枢への侵入に備える。
より広い地域から人と物を動かす。
そのためには、
軍事力だけでは足りない。
築城。
土木。
物流。
文書。
行政。
情報。
さまざまな専門能力が必要になる。
十七 ここで百済系人材の持つ経験と、倭側の需要が接続する
百済には、
長期間の対外戦争の経験がある。
城郭を利用した防衛経験がある。
官僚制を運用した経験がある。
中国王朝との外交経験もある。
もちろん、
それらを倭がそのままコピーしたとは言えない。
しかし、
倭が必要としていた能力と、移住してきた人々の一部が持つ経験が重なる場面
は確かに現れる。
十八 だから白村江は「技術の流れ」まで逆転させる
戦争前、
倭は、
兵。
船。
武器。
食料。
を百済へ送った。
敗戦後、
百済から、
人。
経験。
技術。
知識。
が列島へ入ってくる。
すべてが白村江だけによって生じたわけではない。
百済系人材との交流は、
それ以前から存在する。
しかし、
六六〇年代の政治崩壊が、
人材移動を大きく促す契機となった
ことは考えなければならない。
十九 ここに「余剰力」の新しい使い方が現れる
これまで倭は、
国家資源を使って、
海外へ軍を送った。
しかし今度は、
国家資源を使って、
海外から来た人々を受け入れる。
土地を与える。
食料を供給する。
社会へ組み込む。
つまり、
余剰の投入先が、
対外戦争から、人材の定着と国内再編へ
変化し始める。
二十 人を受け入れただけでは、まだ国家力にはならない
重要なのは、
その先である。
高度な技術者が来ても、
使わなければ、
技術は社会へ定着しない。
官人が来ても、
制度へ組み込まなければ、
経験は個人の中で終わる。
工人が来ても、
弟子を育てなければ、
一代で途絶える。
つまり、
次に問わなければならないのは、
移住してきた能力を、倭がどのように自国の能力へ変えたのか
である。
二十一 ここから「移住史」は「国家形成史」へ変わる
誰が来たのか。
だけではない。
何を持ってきたのか。
誰がそれを必要としたのか。
どこで使われたのか。
次の世代へ伝わったのか。
別の用途へ変化したのか。
この流れを追うことで、
百済王朝の崩壊と、
列島国家の発展が、
一本の歴史としてつながってくる。
二十二 次に見るのは「技術はそのまま移植されたのか」という問題である
百済から人が来た。
百済系の技術が列島で使われた。
ここまでは一つの事実として追うことができる。
しかし、
それだけで、
列島が百済化した
とは言えない。
外から来た技術は、
列島に存在していた、
材料。
人。
制度。
需要。
既存技術。
と結びつき、
新しい使われ方をする。
次節では、
「移住者は文化をそのまま運んだのか」
という問いから、
技術移転と現地化の違いを見ていく。
第五節 「移住者は文化をそのまま運んだのか」――技術移転と現地化
一 人が移動すれば、技術も移動する
百済から列島へ、
人々が渡った。
その中には、
国家運営や専門技術に関わる経験を持つ者もいた。
しかし、
ここで一つ注意しなければならない。
人が移動したからといって、
その人が暮らしていた社会全体が、
そのまま別の土地へ移植されるわけではない。
二 文化は「荷物」のようには運べない
土器なら、
船に積んで運べる。
武器も運べる。
書物も運べる。
しかし、
社会制度。
生産組織。
技術体系。
政治文化。
までを、
箱に詰めて運ぶことはできない。
文化は、
移住先の社会との関係の中で初めて再び機能する。
三 たとえば築城技術者が来たとしても、それだけでは城は建たない
地形を調べる。
土を運ぶ。
石を集める。
木材を伐る。
大量の労働者を集める。
食料を供給する。
工事を指揮する。
つまり、
専門知識を持つ人物がいても、
その知識を実際の構造物へ変えるには、
受け入れる社会側の人員と資源が必要である。
四 技術移転とは「教える側」だけの問題ではない
技術を持ってくる人がいる。
しかし、
学ぶ人がいなければ、
その技術は一代で終わる。
工房を用意する者がいなければ、
生産できない。
原料を用意できなければ、
技術は使えない。
需要がなければ、
そもそも作る必要がない。
したがって、
技術移転には、
受け入れる側の社会条件
が不可欠である。
五 ここでも「余剰力」が関係する
専門工人は、
常に農業をして自分の食料を作っているとは限らない。
城を造る者。
瓦を焼く者。
文書を書く者。
仏教を教える者。
こうした専門家を長期間活動させるには、
誰かが食料を供給しなければならない。
つまり、
専門技術を受け入れることそのものが、
社会の余剰を必要とする。
六 技術を受け取れる社会とは、技術者を養える社会でもある
高度な技術者が来ても、
今日の食事を確保できない社会では、
その技術は広がらない。
反対に、
専門家を養える余剰がある。
工房を作れる。
材料を集められる。
弟子を付けられる。
継続的に仕事を与えられる。
そこまでできれば、
外から来た技能は、
一個人の技能から、
社会の技術へ変わる。
七 さらに重要なのは「次の世代」である
一人の技術者が優れた仕事をする。
これは、
技術移転の第一段階である。
しかし、
その人物が死んだ時、
技術も消えるなら、
社会に定着したとは言えない。
弟子が育つ。
その弟子がさらに教える。
材料調達の仕組みが残る。
生産施設が維持される。
ここまで進んで、
初めて、
技術は継承された
と言える。
八 だから「伝来」と「定着」は違う
新しい物が来た。
これは伝来である。
新しい技法を使う人が来た。
これも伝来である。
しかし、
その技法が、
現地の人々に習得され、
継続的に利用され、
社会の中で必要とされるようになる。
ここまで来れば、
単なる伝来から、
定着
へ進んだと見ることができる。
九 さらにその先に「現地化」がある
外から来た技術が、
移住元とまったく同じ形で使われ続けるとは限らない。
材料が違う。
気候が違う。
地形が違う。
既存の技術が違う。
政治目的も違う。
そのため、
受け入れられた技術は、
列島社会の条件に合わせて変化する。
十 ここで「コピー」と「継承」の違いが生まれる
百済で使われた技術を、
百済と同じ目的で、
百済と同じ制度の中で、
百済と同じ形に再現する。
それが単純なコピーである。
しかし、
列島側が、
自らの目的に応じて、
既存の技術と組み合わせ、
別の用途へ使うなら、
それはすでに、
新しい社会の技術
になり始めている。
十一 第二部で見た技術受容と、ここはつながっている
鉄器が入った。
それだけで、
列島社会が大陸社会になったわけではない。
須恵器技術が入った。
馬の利用が広がった。
新しい建築技術が加わった。
しかし、
それらは、
列島に以前から存在した、
木工。
農業。
交通。
地域社会。
と組み合わされた。
第四部でも同じである。
十二 百済系人材が入っても、列島社会は百済社会そのものにはならない
これは当然のことである。
人口構成も違う。
政治構造も違う。
地理も違う。
既存の首長層もいる。
独自の祭祀もある。
それ以前から蓄積してきた技術もある。
したがって、
百済から来た人々は、
列島社会を丸ごと置き換えるのではなく、
すでに存在する社会の一部へ組み込まれていく。
十三 そして受け入れる側も、必要なものを選ぶ
すべての百済文化を、
倭が同じように導入する必要はない。
必要な築城技術。
必要な文書知識。
必要な生産技術。
必要な宗教文化。
その時代の政治目的に応じて、
利用価値の高いものが選ばれる。
つまり、
文化受容には、
選択
がある。
十四 さらに「組み合わせ」がある
新しく入った技術と、
列島側の既存技術を組み合わせる。
百済系の技術者が、
列島側の労働力を指揮する。
外来系の技術を、
列島産の材料で実現する。
外部の制度知識を、
倭王権の政治構造へ合わせる。
こうした過程を経ることで、
技術は、
移住元そのままの姿ではなくなっていく。
十五 そして最後に「転用」が起こる
ここが本稿で重視する点である。
ある技術が、
本来使われていた目的とは、
別の目的へ使われることがある。
たとえば、
半島で培われた防衛技術が、
列島の防衛に使われる。
行政経験が、
列島王権の統治に利用される。
建築・瓦生産の知識が、
列島の寺院や国家施設へ応用される。
これを本稿では、
転換力
として見る。
十六 転換力とは「外国のものを真似る力」ではない
むしろ逆である。
外部から得たものを、
自分たちの社会に必要な形へ変える。
既存技術と組み合わせる。
新しい用途を与える。
次の世代へ伝える。
そして、
その技術によって、
さらに新しい生産や制度を生み出す。
ここまで進めば、
外来技術は、
もはや単なる外来物ではない。
十七 したがって技術移転には、少なくとも四つの段階がある
まず、
人や物が来る。
次に、
技術が使われる。
さらに、
現地で再生産される。
そして、
別の用途へ転換される。
この四段階を分けて見ると、
「どこから来た技術か」
だけでなく、
「受け取った社会が何をしたのか」
が見えてくる。
十八 この視点は、列島の国家形成を外来起源論だけで説明することを防ぐ
高度な技術が半島から来た。
だから、
列島国家は半島人が作った。
という飛躍はできない。
反対に、
列島独自の発展だけで、
外部の影響を小さく扱うこともできない。
必要なのは、
外から来た人材や技術と、
列島側にすでに存在した、
人口。
生産力。
政治組織。
物流。
既存技術。
の双方を見ることである。
十九 国家形成とは「どちらが起源か」ではなく「どう組み合わせたか」という問題でもある
大陸。
半島。
列島。
それぞれに、
異なる技術の蓄積がある。
人が動く。
物が動く。
知識が動く。
そして、
受け取った社会が、
それを自らの条件へ適応させる。
古代国家は、
一つの文化だけから、
完成された形で現れるわけではない。
二十 百済滅亡後の人材移動を見る意味も、ここにある
百済王朝が崩壊したことによって、
百済で蓄積されていた能力の一部が、
別の社会へ移動した。
しかし、
倭が百済文化をそのまま引き継いだ
という話ではない。
より正確には、
百済で蓄積された一部の知識・技能が、列島側の既存能力と結合し、新しい国家目的へ使われていった
と見るべきである。
二十一 そして、その姿が最もはっきり見える分野の一つが「城」である
白村江で敗れた倭は、
半島での政治的足場を失う。
その直後、
列島では、
防衛施設の整備が進められる。
そこには、
百済から来た人物が、
築城に関与したことを示す史料も残る。
百済を守るために培われた経験の一部が、
今度は、
列島を守るために使われる。
次節では、
「築城技術はどこへ向かったのか」
という問いから、
白村江後の防衛体制と、
人材・技術の再配置を見ていく。
第六節 「築城技術はどこへ向かったのか」――白村江後の列島防衛
一 百済を守れなかった技術が、今度は列島を守るために使われる
六六三年、
白村江で倭・百済復興側は敗れた。
百済王朝を再建する試みも、
大きく崩れる。
しかし、
その翌年から列島では、
新しい動きが始まる。
城を造る。
防御線を築く。
西からの侵攻に備える。
ここで、
百済から渡った人々が持つ築城経験が、
列島側の防衛と結びついていく。
二 六六四年、筑紫に水城が築かれる
『日本書紀』は、
白村江敗戦の翌年、
筑紫に水城を築いたことを記している。
これは単なる城壁ではない。
平地を横断する大規模な防御施設として、
大宰府方面へ通じる交通を制御する位置に築かれた。
重要なのは、
敗戦からほとんど時間を置かず、大規模な防衛工事が開始されている
ことである。
三 これは「恐れた」という心理だけでは説明できない
唐・新羅の侵攻を警戒した。
それは背景として考えられる。
しかし、
危機感だけでは、
巨大な土木施設は造れない。
人を集める。
土を掘る。
運ぶ。
積み上げる。
木材を用意する。
食料を供給する。
工事を管理する。
つまり水城は、
危機意識ではなく、
危機意識を実際の構造物へ変換できる国家力
があったことを示す。
四 六六五年には、防衛施設の整備がさらに進む
翌六六五年、
『日本書紀』には、
大野城などの築城記事が現れる。
ここで重要なのは、
築城そのものだけではない。
史料には、
百済から来た人物が、
その築城に関与したことが記されている。
つまり、
国家を失った百済側の人材が、
今度は、
倭の防衛事業へ参加しているのである。
五 これは第四部を象徴する出来事である
百済という政治体は失われた。
しかし、
百済社会で蓄積されてきた、
築城に関する知識や経験まで消えたわけではない。
それを持つ人間が移動した。
そして、
移動先で、
別の政治目的に使われた。
ここに、
国家は滅びても、能力は移動する
という現象が、
具体的な形で現れる。
六 ただし「百済人が列島の城を全部造った」と考えてはいけない
築城を指揮する専門家がいたとしても、
実際に山を削り、
土を運び、
石を積み、
木を伐り、
食料を運んだ人々の大部分は、
列島側で集められたはずである。
専門知識だけでは、
巨大な城は完成しない。
ここでも、
外部の技術と、列島側の動員力
の両方が必要になる。
七 つまり築城技術の移転は「人材移動」だけでは説明できない
技術者がいる。
しかし、
工事を命じる王権が必要である。
労働者を集める地域組織が必要である。
食料を出す農業社会が必要である。
資材を運ぶ物流も必要である。
ここでも、
技術を受け取る側の余剰力が、
技術移転を成立させている。
八 そして列島には、もともと大規模土木を行う経験があった
巨大古墳。
堤。
灌漑施設。
宮殿。
寺院。
列島社会は、
白村江後に突然、
大量の土を動かす方法を知ったわけではない。
すでに、
多くの人間を集め、
大規模建設を行う社会的経験を持っていた。
そこへ、
新たな防衛施設に関する知識が加わる。
九 これは「技術輸入」より「複合技術化」と見る方がよい
百済系の築城経験。
列島側の土木技術。
既存の木工技術。
地域の労働力。
物流。
地形知識。
これらが組み合わされる。
したがって、
白村江後の城郭を、
単純に、
百済の城をそのまま列島へ移したもの
と考えるのでは足りない。
移入された知識を、列島の条件で実現した施設
と見る必要がある。
十 地形そのものも違う
山の形。
岩盤。
水。
植生。
交通路。
守るべき場所。
条件が違えば、
同じ築城知識を使っても、
完成する施設は同じにはならない。
外来技術は、
現地の地形へ適応させなければ使えない。
ここにも、
前節で見た、
現地化
が現れる。
十一 さらに重要なのは、城が一つだけではないことである
一か所だけなら、
特別な工事として説明できる。
しかし、
白村江後の防衛は、
九州北部だけで完結するものではない。
西から列島中枢へ至る交通路を意識し、
複数の防衛拠点が整備されていく。
ここで問題になるのは、
一城の築造技術ではなく、
防衛を地域間で組み合わせる発想
である。
十二 城は「壁」ではなく、物流の拠点でもある
城を造っただけでは、
防衛体制にはならない。
兵が必要である。
食料が必要である。
武器が必要である。
情報を送らなければならない。
援軍を移動させなければならない。
つまり、
城とは、
防御施設であると同時に、
人・物・情報を集中させる結節点
でもある。
十三 ここで第一部から続く「道」の問題が再び現れる
海路。
河川。
陸路。
峠。
港。
これらを知らなければ、
敵も味方も動かせない。
縄文・弥生以来、
人と物を結んできた交通路が、
国家形成が進むにつれて、
交易だけではなく、
軍事と行政にも利用されるようになる。
海域ネットワークが消えたのではない。
その利用目的が変化した
のである。
十四 白村江以前と以後では、同じ国家力でも向きが違う
白村江以前、
倭は、
兵。
船。
武器。
食料。
を海の向こうへ送った。
国家力を、
外へ投射したのである。
敗戦後は、
人。
土。
石。
木材。
食料。
を、
列島内部の防衛施設へ集める。
つまり、
同じ社会的動員能力が、対外遠征から国内防衛へ向きを変える。
十五 ここで「転換力」という概念が具体的になる
余剰を持っている。
それだけではない。
状況が変わった時、
使い道を変えられるか。
海外遠征ができなくなった。
ならば、
国内防衛へ回す。
百済王朝を再建できなかった。
ならば、
百済から来た人材を、
列島国家の防衛へ組み込む。
これが、
本稿でいう転換力である。
十六 しかも、この転換は敗戦直後に始まっている
ここは見逃せない。
白村江では、
兵を失った。
艦船も大きな損害を受けた。
長期間投入してきた物資も失った。
それでも、
翌年から大規模な防衛工事が始まる。
つまり、
白村江は倭に大きな損失を与えたが、
列島社会の余剰を再び生み出す基盤そのものまで破壊したわけではなかった
と考えることができる。
十七 国家の力は「一度どれだけ出せたか」だけでは測れない
巨大な軍を出した。
巨大な墓を造った。
巨大な城を造った。
それだけを比較するのでは足りない。
一度大きな資源を使った後、
もう一度集められるのか。
別の危機へ対応できるのか。
次の事業へ投入できるのか。
つまり、
国家力には再生産する能力が必要である。
十八 前方後円墳との違いも、ここで見え始める
古墳時代、
大きな余剰は、
巨大首長墓として可視化された。
もちろん、
それだけに余剰が使われていたわけではない。
しかし、
政治的威信を巨大墓へ投入することは、
古墳社会の大きな特徴であった。
ところが七世紀になると、
大規模動員の痕跡が、
別の場所にも強く現れる。
十九 墓ではなく、防衛施設に人を集める
死者のために、
巨大な墳丘を造る。
そこから、
生きている国家を守るために、
城を造る。
もちろん、
両者を単純な予算移転として考えることはできない。
巨大前方後円墳の衰退は、
白村江より前から進んでいる。
墓制変化には、
王権構造や葬制、
仏教を含む宗教文化の変化など、
複数の要因がある。
しかし長期的に見るなら、
大規模動員の主要な表現先が変化している
ことは重要である。
二十 「墓から城へ」は、制度変化を見るための一つの窓になる
古墳を造るには、
人を集める力がいる。
城を造るにも、
人を集める力がいる。
しかし、
目的が違う。
墓は、
首長の地位や死後の権威を表現する。
城は、
領域と国家を防衛する。
同じ社会的動員力でも、
何へ投入するかによって、
政治社会の性格は変わる。
二十一 そして百済系人材は、その転換の中に位置づけられる
列島社会に力がなかったから、
百済人が国家を作った。
のではない。
反対に、
百済から来た人々が何も影響しなかった
のでもない。
列島側には、
すでに大規模動員を可能にする社会基盤があった。
そこへ、
百済で培われた専門的経験の一部が加わった。
両者が結びついたところに、新しい防衛体制が形成された
と見るのが適切である。
二十二 これは人材移動が「国家力」へ変わった一つの具体例である
百済から人が来た。
それだけなら人口移動である。
百済の技術を知る人が来た。
それだけなら技術移動である。
その人物を、
国家が必要な場所へ配置し、
列島側の人員・資材と結びつけ、
実際の防衛施設を造る。
ここまで進むと、
人材移動は、
国家能力の一部へ転換された
と言うことができる。
二十三 しかし、築城だけを見てもまだ半分である
国家を守るには、
城だけでは足りない。
兵を配置する。
食料を把握する。
物資を記録する。
命令を伝える。
人口を把握する。
工人を組織する。
外交情報を読む。
つまり、
防衛体制の背後には、
行政能力が必要になる。
二十四 国家を造る技術には、目に見えないものもある
城なら残る。
石垣も残る。
土塁も残る。
しかし、
文書の書き方。
官人の経験。
倉庫管理。
計算。
外交実務。
人員配置。
こうした能力は、
考古資料だけでは見えにくい。
それでも、
国家を継続的に動かすためには欠かせない。
二十五 次に追うべきは、その「見えない技術」である
百済王朝が蓄積していたものは、
築城技術だけではない。
文字を使う。
記録する。
物資を管理する。
人を配置する。
外交を行う。
そうした国家運営の経験を持つ人々も、
政治秩序の崩壊によって各地へ移動した。
次節では、
「文字・行政・工人も国家資源だったのか」
という問いから、
目に見える技術だけではない、
国家を動かす専門知識の再配置を見ていく。
第七節 「文字・行政・工人も国家資源だったのか」――専門職層の再配置
一 国家を動かしているのは、兵士だけではない
古代国家の力というと、
兵。
船。
武器。
城。
が目に入りやすい。
しかし、
数万人の兵を集めるにも、
城を造るにも、
物資を配るにも、
その前に必要なものがある。
誰が何人いるのか。
どこに食料があるのか。
何をどこへ運ぶのか。
誰に命令したのか。
それを、
記録し、計算し、伝える人間
である。
二 文字は「知識人の教養」だけではない
漢字を書く。
漢籍を読む。
詩文を作る。
文字には、
そうした文化的な側面がある。
しかし、
国家形成という視点から見ると、
もっと実務的な役割が重要になる。
人名を書く。
数量を書く。
土地を書く。
物資を書く。
命令を書く。
受け取ったものを記録する。
つまり文字は、
人と物を遠隔地から管理する技術
でもある。
三 口頭命令だけでは、大きな国家になるほど限界が出る
一つの村なら、
首長が直接命令することもできる。
しかし、
離れた地域。
数多くの人々。
大量の物資。
複数の役所。
を動かすようになれば、
「誰が、何を、いつ、どれだけ」
を記録する必要が生まれる。
国家の規模が大きくなるほど、
記憶だけでは足りなくなる。
四 ここで百済の木簡が重要になる
百済の遺跡からは、
行政実務に使われた木簡が出土している。
そこには、
戸や人員。
田地。
生産。
物資管理。
に関係する記載が確認されている。
個々の木簡の解釈には検討が必要だが、
少なくとも百済国家が、
人・土地・生産物を文字によって把握しようとしていた
ことを考える重要な資料である。
五 これは「余剰力」を目に見えない場所から支える技術である
食料がある。
しかし、
どこに何があるか分からなければ、
必要な場所へ運べない。
兵がいる。
しかし、
何人いるか分からなければ、
軍を編成できない。
倉庫がある。
しかし、
出入りを記録しなければ、
何が残っているか分からない。
つまり、
余剰を国家力へ変えるには、情報管理が必要なのである。
六 ここで「国家の技術」という言葉の意味が変わる
鉄を打つ技術。
石を積む技術。
瓦を焼く技術。
これらは分かりやすい。
しかし、
帳簿を作る。
数量を計算する。
命令書を書く。
記録を保存する。
こうした能力も、
国家を維持するための専門技術である。
国家は、
武器だけで動くのではない。
七 官人もまた、一種の専門職である
鍛冶工人が、
長年かけて鉄加工を覚えるように、
行政に携わる人間も、
経験を蓄積する。
文書形式。
数量計算。
儀礼。
官位関係。
倉庫管理。
外交文書。
こうした知識は、
一日で習得できるものではない。
だから、
経験を持つ官人そのものが国家資源になる。
八 百済王朝の崩壊は、この専門職層をも分散させた
王がいなくなる。
中央政府が失われる。
役所が機能しなくなる。
すると、
そこで働いていた人々も、
新しい立場を探さなければならない。
故地に残り、
新しい支配者に仕える者。
唐側へ移る者。
新羅へ組み込まれる者。
倭へ渡る者。
ここでも、
国家の崩壊は、
専門人材の再配置
を引き起こす。
九 ただし「倭の行政制度は百済官人が作った」とは言えない
これは重要である。
列島には、
それ以前から王権組織が存在する。
外交も行っている。
貢納や人員動員も行われていた。
文字を扱う人々も、
六六〇年代以前から存在している。
したがって、
百済滅亡後に来た官人が、
ゼロから倭国家を作った
という説明にはならない。
十 問題は「すでにある制度へ、何が加わったか」である
列島側には、
既存の政治組織がある。
そこへ、
百済で行政実務を経験した人々が入る。
すると、
文書。
計算。
物資管理。
外交。
地方行政。
などについて、
新しい知識や実務経験が加わる可能性がある。
これは、
第二部で見た技術受容と同じ構造である。
十一 外来の行政知識も、そのまま使えるわけではない
百済と倭では、
土地制度が違う。
社会構造も違う。
王権と地方首長の関係も違う。
したがって、
百済の制度を、
列島へそのまま移植することはできない。
必要なのは、
列島側の政治環境に合わせて、
制度を読み替えること
である。
十二 ここでも「現地化」が起きる
築城技術が、
列島の地形へ合わせて使われたように、
行政技術も、
列島の社会へ合わせなければならない。
誰から物資を集めるのか。
誰を官人として使うのか。
どの地域単位で人を把握するのか。
どのように命令を伝えるのか。
外部知識は、
既存社会との組み合わせの中で、
新しい制度へ変わっていく。
十三 文字行政が重要なのは、「人に依存する国家」から一歩進めるからである
ある優秀な首長が、
すべてを覚えている。
その人が死ねば、
情報も失われる。
しかし、
記録が残れば、
次の担当者が確認できる。
誰に何を渡したのか。
どこから何を集めたのか。
何人を動員したのか。
文字は、
人間の記憶を組織の記憶へ変える。
十四 これは国家の「継承力」を大きく変える
国家は、
一代の名君だけでは続かない。
王が替わる。
官人も替わる。
それでも、
制度が動き続けなければならない。
文書。
記録。
規則。
役職。
これらが整えば、
前任者がいなくなっても、
次の人間が仕事を続けられる。
ここで国家は、
個人から、
組織へ
近づいていく。
十五 そして文字は、生産現場にも入っていく
七世紀後半の飛鳥池遺跡では、
多様な工芸生産が行われていた。
金。
銀。
銅。
鉄。
ガラス。
漆。
など、
複数の素材を扱う生産が、
一つの大規模な工房群に集まっている。
十六 そこから出土した木簡が興味深い
飛鳥池遺跡の木簡には、
工人名や、
生産管理に関係すると考えられる記載がある。
ここまで来ると、
文字は、
宮廷の外交文書だけではない。
工房を管理する道具
にもなっている。
十七 つまり「文字」と「工人」は別々の国家資源ではない
工人が物を作る。
官人が数量を記録する。
責任者が生産を管理する。
原料を供給する。
完成品を必要な場所へ送る。
ここでは、
技術。
文字。
行政。
物流。
が、
一つの生産体系として結びついている。
十八 これは、一人の名工に依存する生産とは性格が違う
名人が、
自分の経験だけで物を作る。
その人が死ねば、
技術が失われる可能性がある。
しかし、
複数の工人がいる。
管理者がいる。
生産記録がある。
継続的な国家需要がある。
弟子を育てられる。
こうなると、
技術は個人の技能から、
組織の能力
へ変わり始める。
十九 ここで「国家が技術を持つ」という意味が見えてくる
王自身が、
鉄を打てる必要はない。
瓦を焼ける必要もない。
城を設計できる必要もない。
重要なのは、
必要な人間を集め、
必要な材料を与え、
必要な場所へ配置し、
仕事を継続させられることである。
つまり、
国家が技術を持つとは、
技術者を継続的に組織できること
なのである。
二十 百済系人材の意味も、ここでより正確に理解できる
重要なのは、
「百済人が優れた技術を持っていた」
という民族的な説明ではない。
百済という国家が、
長期間にわたって、
官人。
工人。
軍事技術者。
僧侶。
その他の専門職を必要とし、
育成してきた。
その政治体が崩壊したため、
そこで蓄積された人的能力の一部が、
他の国家へ移動した。
ということである。
二十一 そして受け入れた側に需要があったから、能力が生きた
もし倭側に、
城を造る需要がなければ、
築城経験は十分に使われない。
文書行政を広げる需要がなければ、
官人の経験も活用されにくい。
大規模な工房を維持する余剰がなければ、
専門工人を集めても生産は続かない。
したがって、
技術移動の成功は、移住者の能力と受け入れ社会の需要が一致した時に起こる。
二十二 白村江後の列島では、その需要が急速に大きくなっていた
防衛施設を造る。
人員を動員する。
移住者を配置する。
外交情報を処理する。
各地から物資を集める。
王権中枢の生産を拡大する。
国家が大きくなればなるほど、
専門職層を必要とする。
そこで、
百済崩壊によって移動した人材の一部と、
列島国家形成の需要が重なる。
二十三 だから「技術が来た」ではなく「専門職層が国家へ組み込まれた」と見る
一人の技術者から、
一つの技法を教わった。
それだけなら、
技術伝来である。
しかし、
官人。
工人。
築城技術者。
僧侶。
学識者。
など、
異なる専門能力を持つ人々が、
新しい政治秩序の中で役割を得る。
ここまで見ると、
問題は、
単なる文化伝来ではなくなる。
国家が専門能力を吸収する過程
なのである。
二十四 そして、受け入れただけではまだ足りない
一世代だけ利用する。
それでは、
国家の長期的な力にはならない。
弟子を育てる。
制度として仕事を残す。
工房を維持する。
記録を残す。
次の世代に同じ仕事をさせる。
ここまでできて初めて、
移住した人材の能力が、
受け入れ社会の能力へ変わる。
二十五 次の問いは「技術をどう残したのか」である
国家が滅びても、
人は残る。
人が移れば、
技術も移る。
しかし、
移った技術が、
次の世代まで続くとは限らない。
では、
一代の技能を、
社会の継続的な能力へ変えるには、
何が必要だったのか。
次節では、
「受け入れただけでは技術は残らない」
という問いから、
需要。
教育。
工房。
原料。
記録。
そして、
技術を再生産する社会の仕組みを見ていく。
第八節 「受け入れただけでは技術は残らない」――需要と再生産の仕組み
一 技術者が来たことと、技術が社会に残ったことは同じではない
百済から、
優れた技術を持つ人々が来た。
築城に関わる者。
工人。
官人。
学識者。
しかし、
人が来たという事実だけでは、
その技術が百年後まで残ることは保証されない。
問題は、
その技術を次の世代まで再生産できたか
である。
二 一代限りの名人なら、技術も一代で終わる
優れた職人が一人いる。
その人物が、
見事な製品を作る。
しかし、
弟子がいない。
工房もない。
材料の供給も続かない。
その人物が死ねば、
そこで技術が途切れる。
これは、
高度な技術が存在した社会ではあっても、
高度な技術を継承できる社会
とは言えない。
三 技術を残すには、まず「仕事」が必要である
城を造る必要がある。
寺院を建てる必要がある。
瓦を焼く必要がある。
武器を作る必要がある。
文書を作る必要がある。
国家や社会に継続的な需要があるから、
専門家にも仕事が生まれる。
技術は、
必要とされなければ維持されにくい。
四 つまり技術者を残すのは、需要でもある
どれほど優れた技能でも、
十年使わなければ、
失われる可能性がある。
反対に、
毎年仕事がある。
繰り返し生産する。
新しい注文が来る。
失敗を修正する。
そうした環境があれば、
技能は磨かれ、
次の人間へ伝わる。
需要そのものが、技術を育てるのである。
五 そして需要を継続できる社会には、余剰が必要になる
瓦職人を一年養う。
築城技術者を働かせる。
金属工人へ材料を供給する。
弟子が一人前になるまで支える。
これには、
食料。
土地。
原材料。
施設。
人件的負担。
が必要になる。
技術の伝承もまた、
社会的余剰の使い方
なのである。
六 「技術者を受け入れる」ことより「技術者を養い続ける」ことの方が難しい
一度だけなら、
特別に食料を与えることもできる。
一度だけ工事を行うこともできる。
しかし、
技術を残そうとすれば、
十年。
二十年。
さらに次世代まで、
仕事を続けなければならない。
ここで問われるのは、
一時的な財力ではなく、
継続して余剰を生み出せる社会かどうか
である。
七 だから「最高傑作が一個ある」だけでは技術力を測れない
豪華な金製品が一つ出土する。
精巧な武器が一つある。
優れた瓦が一枚ある。
それだけなら、
完成品が運ばれてきた可能性もある。
一時的に外部の職人が作った可能性もある。
本当に重要なのは、
同じ技術が、
別の場所。
別の時代。
次の世代。
でも確認できるかである。
八 技術史では「作れたか」より「作り続けられたか」が重要になる
一回作れる。
十回作れる。
百年後にも作れる。
別の工房でも作れる。
用途を変えて作れる。
これらは、
すべて違う段階である。
長期的な国家形成を見るなら、
社会自身が技術者を再生産できる段階へ進んだか
を見なければならない。
九 そのために重要になるのが「工房」である
工房とは、
物を作る場所だけではない。
熟練者がいる。
若い工人がいる。
道具がある。
材料がある。
仕事の手順がある。
失敗した時に、
教える人がいる。
つまり工房は、
製品を生産すると同時に、技術者を育てる場所
でもある。
十 熟練者と未熟練者が同じ場所にいる意味は大きい
技術には、
文字だけでは伝えられない部分がある。
火の色を見る。
金属の音を聞く。
粘土の状態を触って判断する。
石の割れ方を読む。
土の締まり具合を見る。
こうした技能は、
実際の作業を繰り返しながら身につける。
だから、
人から人へ伝える環境
が必要になる。
十一 ここで本稿の「伝承力」が見えてくる
継承力は、
制度や組織を残す力である。
伝承力は、
技能を人から人へ渡す力である。
建物が残っていても、
作り方を知る者がいなければ、
同じものは作れない。
窯が残っていても、
焼成を知る者がいなければ、
土器は焼けない。
つまり、
施設の存続と、
技能の存続は別問題である。
十二 文字は、この伝承を補助する
技術のすべてを、
文字で残すことはできない。
しかし、
材料。
数量。
人名。
工程。
注文。
納入。
責任者。
を記録することはできる。
すると、
経験だけに頼っていた生産が、
少しずつ、
組織的な管理
へ変わっていく。
十三 ここで第七節の文字行政と、工人社会がつながる
官人が記録する。
工人が作る。
管理者が工程を調整する。
倉庫が原料を出す。
完成品が別の施設へ運ばれる。
この関係ができれば、
技術は、
一人の職人の頭の中だけではなく、
社会組織の中に保存される
ようになる。
十四 七世紀後半の飛鳥池遺跡は、その変化を考える重要な材料になる
飛鳥池遺跡では、
金。
銀。
銅。
鉄。
ガラス。
漆。
など、
多様な素材を扱う生産が行われていた。
さらに、
工人名や生産管理に関係すると考えられる木簡も出土している。
ここには、
単独の職人仕事を超えた、
組織的な生産の姿
を見ることができる。
十五 重要なのは「大量生産」だけではない
同じ場所に、
異なる分野の工人がいる。
材料が集まる。
管理者がいる。
文字による記録がある。
国家や宮廷側から、
継続した需要がある。
この環境そのものが、
技術を残し、
技術者を増やす条件になる。
十六 国家工房は「技術を集める場所」であると同時に「技術を増やす場所」でもある
熟練者が十人いる。
それぞれが、
若い工人へ教える。
その若い工人が、
次の世代を育てる。
すると、
外部から持ち込まれた技術も、
やがて、
列島社会の内部で再生産できるようになる。
ここで初めて、
外来技術が社会内部の技術へ変わる。
十七 この段階まで来ると、技術の「出身地」だけでは説明できなくなる
最初の技術者は、
百済から来たかもしれない。
別の技術には、
新羅や大陸との関係があるかもしれない。
列島側に以前から存在した技法もある。
それらが、
同じ工房。
同じ建設事業。
同じ国家需要。
の中で組み合わされれば、
もはや単純に、
「これは百済文化」
「これは倭文化」
と分けることが難しくなる。
十八 文化は、混ざった瞬間に元の形を失うのではない
むしろ、
一部は残る。
一部は変わる。
一部は消える。
一部は別の技術と結びつく。
そして、
新しい用途が生まれる。
文化継承とは、
完全保存ではない。
変化しながら残ること
でもある。
十九 技術の再生産には、原料の再生産も必要である
金属加工なら、
金属が必要である。
瓦なら、
粘土と燃料が必要である。
木工なら、
適した木材が必要である。
ガラスなら、
原料と高温を扱う設備が必要になる。
つまり、
技術者だけを育てても、
原料供給が続かなければ、
生産体系は維持できない。
二十 物流も技術継承の一部になる
材料を集める。
工房へ運ぶ。
完成品を運ぶ。
必要な地域へ配る。
この流れが止まれば、
工人はいても仕事ができない。
したがって、
技術を再生産する社会には、
生産と物流を結びつける能力
が必要になる。
二十一 そして政治的安定も無視できない
戦争が続けば、
工人も兵に取られる。
原料輸送も止まる。
工房が破壊される。
農業生産も落ちる。
つまり、
技術体系そのものが弱くなる。
反対に、
一定の政治秩序が維持されれば、
仕事を継続し、
次世代を育てる時間を確保できる。
二十二 だから国家の「技術力」は、名工の数だけでは測れない
必要なのは、
専門家を集める力。
養う力。
仕事を与える力。
材料を集める力。
記録する力。
弟子を育てる力。
そして、
その仕組みを次代へ残す力。
これらが結びついて初めて、
技術は、
国家の一時的な財産から、
国家の再生産能力
になる。
二十三 これは「百済の技術が倭へ移った」という一文では見えない部分である
百済系の専門家が来た。
それは重要である。
しかし、
その技術が列島に残ったとすれば、
受け入れた側にも、
仕事を与え、
材料を用意し、
若い工人を育て、
制度へ組み込む力があったことになる。
技術移転とは、
送り出す側だけの歴史ではない。
受け入れた側が何をしたかまで含めて、初めて説明できる。
二十四 そして、ここで文化の「本流」という問いが変わってくる
どの民族が最初に作ったのか。
どの国から来たのか。
もちろん、
起源を調べることは重要である。
しかし、
千年単位の歴史を考えるなら、
もう一つの問いが必要になる。
誰が受け取ったのか。
誰が残したのか。
誰が改良したのか。
誰が次の世代へ渡したのか。
二十五 文化の本流とは、固定された民族の線ではないのではないか
国家は変わる。
王朝も変わる。
国境も変わる。
しかし、
技術。
知識。
制度。
人材。
生産の仕組み。
は、
人とともに移動し、
別の社会で再編される。
次節では、
「文化の本流とは何か」
という本章の中心問題から、
民族や国名ではなく、
継承され続ける社会的能力
という視点で、
加耶・百済・倭をもう一度つなぎ直してみたい。
第九節 「文化の本流とは何か」――民族ではなく継承される能力を見る
一 ここで「文化の本流」という言葉を、もう一度考え直したい
文化の本流というと、
どの民族が最初だったのか。
どの国が起源なのか。
どちらからどちらへ伝わったのか。
という一本の線を想像しやすい。
しかし、
ここまで見てきた古代東アジアの姿は、
それほど単純ではない。
二 国家より先に、人と技術は動いていた
縄文時代から、
列島と半島南部の間には、
海を越える人々がいた。
弥生時代には、
交易。
滞在。
技術移動。
がさらに重なる。
その後、
加耶。
百済。
新羅。
倭。
という政治体が成立する。
つまり、
人と技術の流れの上に、後から国家が現れた
のである。
三 そして国家ができても、文化は国境の中に閉じ込められなかった
鉄が動く。
土器が動く。
馬が動く。
仏教が動く。
文字が動く。
工人が動く。
王族さえ動く。
国家間に対立があっても、
人間の移動そのものが完全に止まるわけではない。
文化は、
政治的境界を越えて動き続ける。
四 さらに国家が滅びても、その流れは止まらない
加耶諸国は、
政治体として消えていった。
しかし、
地域社会まで消えたわけではない。
百済王朝も崩壊した。
しかし、
百済社会で育った人々。
技術。
知識。
経験。
までが消えたわけではない。
むしろ、
政治秩序が崩れたことで、
それらの一部が別の場所へ移動した。
五 ここから見えてくるのは「文化の器」と「文化の中身」の違いである
国家は、
文化をまとめる器になる。
王権。
行政。
工房。
寺院。
軍事組織。
教育。
そうした制度が、
人と技術を集める。
しかし、
器が壊れた時、
中身まで必ず消えるとは限らない。
人とともに別の器へ移ることがある。
六 加耶の例は、そのことをよく示している
加耶という政治的名称は消える。
しかし、
その地域に暮らす人々は残る。
文化的要素の一部は、
新羅の中へ取り込まれていく。
于勒のように、
史料上、
加耶で培われた技能を持ちながら、
新羅で活動した人物も知られている。
ここでは、
文化の所属する政治体が変わっている。
七 百済の場合は、さらに広域的な分散が起きた
故地に残る者。
新羅側へ組み込まれる者。
唐側へ移る者。
倭へ渡る者。
王朝が失われた後、
人々は一方向へ動いたのではない。
百済という一つの国家に集まっていた人的能力が、
複数の政治社会へ分散した
と見る方がよい。
八 だから「百済文化は日本へ移った」とだけ言うのも正確ではない
百済文化のすべてが、
列島へ移ったわけではない。
百済人のすべてが、
列島へ来たわけでもない。
一部の人々。
一部の技術。
一部の知識。
一部の政治経験。
が移動した。
そして、
その受け入れ方も、
地域や時期によって異なる。
九 逆に「列島文化はすべて列島独自だった」と考えることもできない
列島側も、
長い時間を通して、
外部から多くの刺激を受けている。
鉄。
馬。
須恵器。
仏教。
瓦。
文字文化。
築城に関する知識。
それぞれ伝来時期も経路も異なるが、
列島国家の形成を、
外部との関係を抜きに説明することはできない。
十 しかし外から来たからといって、それがそのまま列島社会になったわけでもない
ここまで繰り返し見てきたように、
技術は、
受け入れられる。
選ばれる。
組み合わされる。
改変される。
次世代へ伝えられる。
別の用途へ使われる。
つまり、
文化移動とはコピーではなく、再編の過程
なのである。
十一 ここで「起源」だけを追う歴史には限界が見えてくる
最初はどこだったのか。
もちろん重要である。
しかし、
起源が分かっても、
その後どうなったかを見なければ、
長期史は分からない。
どこから来たか。
だけでなく、
どこへ移ったか。
どこで残ったか。
どこで変化したか。
まで追わなければならない。
十二 文化の本流とは「最初の一滴」を探すことではない
川を考えてみればよい。
一本の川にも、
多くの支流がある。
途中で、
別の流れが合流する。
分岐する。
水量も変わる。
流路そのものが変わることもある。
文化も同じである。
一つの民族や王朝だけを、永久に続く一本線として置くことはできない。
十三 本稿でいう「文化の本流」は、そのような血統論ではない
どの民族が優れていたのか。
どの国が文明の主人だったのか。
という順位を決めるための言葉でもない。
本稿で追いたいのは、
社会が獲得した、
技術。
知識。
制度。
人材。
物流。
生産力。
を、
次の社会がどのように受け取り、使い直したのか
という流れである。
十四 つまり「何を所有していたか」より「何を継承できたか」が重要になる
一時的に、
高度な技術を持っている。
巨大な墓を造れる。
強力な軍隊を持つ。
それだけでは、
次代まで続くとは限らない。
問題は、
その能力を、
次の世代へ渡せるか。
別の政治環境でも使えるか。
危機の後に再生できるか。
である。
十五 ここまでの議論を、本稿の言葉で整理すると四つの力が見えてくる
危機の後にも活動を続ける、
継戦力。
制度や組織を次代へ残す、
継承力。
技能を人から人へ渡す、
伝承力。
受け取ったものを新しい用途へ組み替える、
転換力。
この四つが、
余剰力と結びついた時、
文化は一世代を越えやすくなる。
十六 ここでは「強い文化」という言い方も慎重にしなければならない
豪華な遺物が多いから、
強い文化とは限らない。
巨大建築があるから、
長く続くとも限らない。
一時的に大量の富を集められても、
それを再生産できなければ、
次代には残らない。
逆に、
目立つ巨大墓が減っても、
行政。
工房。
道路。
城。
寺院。
などへ能力が移っている可能性がある。
十七 だから考古資料の「見え方」が変わることと、社会能力の消滅は同じではない
巨大古墳が減る。
豪華な首長墓が減る。
交易品の分布が変わる。
それだけで、
社会全体が衰退した
とは言えない。
余剰を使う主体。
余剰を使う場所。
余剰を使う目的。
が変われば、
考古学的に見える姿も変わる。
十八 これは前方後円墳を考える上で決定的に重要である
前方後円墳は、
膨大な労働力と物資を必要とする。
しかし、
その築造が縮小・終息したからといって、
列島社会から、
大規模動員能力そのものが消えた
とは限らない。
むしろ七世紀には、
別の大規模事業が見えてくる。
城。
寺院。
宮都。
工房。
道路。
行政施設。
である。
十九 ここで本書の問いは、いよいよ墓の外へ出る
これまで、
前方後円墳を通して、
政治力を見てきた。
人を集める。
土を動かす。
資材を運ぶ。
工人を養う。
巨大な墳墓を築く。
ところが、
その墓が造られなくなった後も、
人。
技術。
生産。
物流。
は存在する。
では、
巨大墓へ向けられていた社会的能力は、その後どこに現れるのか。
二十 ここで「消滅」ではなく「転換」という見方が必要になる
前方後円墳が消える。
だから、
古墳時代の力が消えた。
ではない。
半島の旧国家が消える。
だから、
その文化も消えた。
でもない。
国家や墓制の形が変わった時、
その背後にあった能力が、
別の政治目的へ振り向けられた可能性を追う必要がある。
二十一 ただし「古墳に使っていた予算が、そのまま城や寺へ移った」という意味ではない
そのような帳簿が残っているわけではない。
巨大前方後円墳の縮小は、
白村江以前から進んでいる。
仏教の受容。
王権構造の変化。
葬送観念。
地域首長秩序。
政治制度。
複数の変化が重なっている。
したがって、
「墓から国家施設へ」は、
直接的な資金移転ではなく、
社会的動員の表現先が変化していく過程を捉えるための分析視点
である。
二十二 それでも問いとしては強い
あれほど巨大な墓を造った人々は、
どこへ行ったのか。
石を運んだ人々は。
木を加工した工人は。
食料を供給した地域社会は。
人を集めた政治組織は。
前方後円墳が終わった後、
それらすべてが消えたとは考えにくい。
では、
何へ使われるようになったのか。
二十三 文化の本流を追うとは、形が変わった後まで追うことである
舟から交易へ。
交易から王権へ。
王権から巨大墳墓へ。
巨大墳墓から海外外交と軍事へ。
そして、
敗戦と政治再編を経て、
城。
寺院。
宮都。
行政。
工房。
へ。
これを一直線の進化と考えることはできない。
しかし、
人・技術・余剰が新しい政治目的へ組み替えられていく過程
として追うことはできる。
二十四 第十七章で見えてきたのは、「滅亡」の反対側である
加耶が消えた。
百済が滅びた。
白村江で敗れた。
それだけなら、
失われたものの歴史である。
しかし、
人は残った。
技術も残った。
知識も残った。
そして、
別の社会に取り込まれた。
滅亡とは、
時として、
能力の終わりではなく、能力の再配置を始める事件
なのである。
二十五 次に問うのは、その再配置された力が何を造ったのかである
前方後円墳を築いていた時代から、
巨大古墳が政治の中心ではなくなる時代へ。
しかし、
国家が動員する人と物は、
むしろ増えていく。
では、
古墳へ向けられていたような巨大な社会的能力は、
どこへ現れたのか。
次章では、
「墓へ使っていた力はどこへ向かったのか」
という問いから、
古墳。
寺院。
宮都。
城郭。
工房。
行政施設。
をつなぎ、
前方後円墳の終焉を、
国家形成の終わりではなく、
国家力の使い方が変わる転換期
として読み直していく
第十八章 「墓へ使っていた力はどこへ向かったのか」――古墳から宮都・寺院・城郭へ
第一節 「前方後円墳はなぜ終わったのか」――巨大古墳の終焉を「衰退」で説明しない
一 巨大な墓が造られなくなった時、社会の力も失われたのか
三世紀中頃以降、
列島各地には前方後円墳が築かれた。
その中には、
数百メートルに達する巨大古墳もある。
大量の土を動かす。
石を運ぶ。
木材を加工する。
工人を養う。
労働者へ食料を供給する。
巨大古墳は、
社会が持つ大規模動員能力を、
目に見える形で示していた。
二 ところが、その巨大化は永遠には続かなかった
六世紀になると、
古墳をめぐる状況は変化していく。
前方後円墳そのものは各地で築かれ続けるが、
王権中枢における超巨大古墳の築造は、
やがて終息へ向かう。
六世紀後半から七世紀初頭にかけて、
前方後円墳という墓制自体も、
地域差を伴いながら次第に姿を変えていく。
三 ここで単純な疑問が生まれる
なぜ、
あれほど巨大な墓を造っていた社会が、
造らなくなったのか。
人口が減ったのか。
農業生産力が落ちたのか。
王権が弱くなったのか。
地方首長が貧しくなったのか。
しかし、
その後の歴史を見ると、
それだけでは説明できない。
四 巨大古墳がなくなった後にも、大規模事業は続いている
寺院が造られる。
宮殿が造られる。
都城が整備される。
水城が造られる。
山城が築かれる。
大規模工房が運営される。
道路や行政施設も整えられていく。
つまり、
巨大古墳を造る力が消えた後に、別の巨大事業が現れている。
五 ここから最初の仮説が生まれる
失われたのは、
人を集める能力そのものではないのではないか。
土を動かす技術も、
物流も、
農業余剰も、
工人も、
すべて消えたわけではない。
変わったのは、
それらを何のために使うか
だった可能性がある。
六 ただし「古墳の予算が寺院へ移った」と考えてはいけない
古代に、
古墳建設費という一つの会計があり、
それが翌年から寺院建設費になった、
という意味ではない。
そのような史料は存在しない。
本稿が問うのは、
より大きな社会構造である。
人。
食料。
資材。
工人。
物流。
を大規模に動員できる社会が、
その能力を何へ向けるようになったのか
という問題である。
七 しかも前方後円墳の終焉は、白村江より早く始まっている
ここは重要である。
六六三年に白村江で敗れた。
そのため巨大古墳を造らなくなった。
という単純な因果関係にはならない。
前方後円墳をめぐる変化は、
それ以前から進行していた。
したがって、
白村江は、
墓制変化の原因そのものではなく、
すでに進んでいた国家構造の変化を、さらに別方向へ押し進めた事件
として位置づけるべきである。
八 では、前方後円墳はなぜ必要だったのか
第三部で見たように、
前方後円墳は、
単なる墓ではなかった可能性がある。
王や首長の地位を示す。
地域の政治的位置を示す。
葬送儀礼へ人々を集める。
王権との関係を可視化する。
同じ墓制を共有することで、
広域的な政治秩序への参加を示す。
つまり、
墓が政治を見せる装置
として機能していた可能性がある。
九 文字制度が弱い時代ほど、巨大な「形」は強い
誰が上位なのか。
どの首長が王権に近いのか。
どの地域が同じ政治秩序に属するのか。
これを、
文書だけで全国へ示すことが難しい時代には、
巨大な墓。
同じ墳形。
共通する葬送儀礼。
が、
政治秩序を目に見えるものにする。
前方後円墳は、
その意味で、
景観の中に置かれた政治言語
でもあったと考えることができる。
十 しかし国家制度が変われば、政治を見せる方法も変わる
官位が整う。
役職が生まれる。
行政単位が整えられる。
文書によって命令する。
宮廷で地位を与える。
地方の人員や物資を制度的に把握する。
こうした仕組みが発達すれば、
首長の政治的位置を、
巨大な墓だけで示す必要は弱くなる。
十一 「墓で示す序列」から「制度で示す序列」へ
これは、
大きな変化である。
古墳時代には、
墳墓の規模や形式が、
首長の政治的位置を示す重要な媒体になった。
しかし、
国家制度が整えば、
位階。
官職。
朝廷との関係。
行政上の役割。
によって、
政治的位置を表現できる。
つまり、
政治秩序を可視化する装置が変わっていく。
十二 そう考えると、巨大古墳の縮小は王権の弱体化とは限らない
王が、
巨大な墓を造らなくなった。
だから、
王の力が弱くなった。
とは限らない。
むしろ、
王権が、
墓とは別の方法で、
人と土地を組織できるようになった可能性がある。
巨大古墳を必要としない政治へ、
変化していたとも考えられる。
十三 地方首長についても同じである
地方首長が、
巨大前方後円墳を造らなくなる。
それだけで、
地方社会が貧しくなった
とは言えない。
中央王権との関係が、
墓制とは異なる制度によって示される。
地域の余剰が、
別の事業へ使われる。
首長自身の政治的位置も、
国家制度の内部で再定義される。
そうした可能性を考える必要がある。
十四 もう一つ大きいのが、宗教と葬送観念の変化である
六世紀以降、
仏教の受容が進む。
寺院が造られる。
新しい宗教儀礼が入る。
死者や祖先をめぐる観念にも、
変化が生じていく。
ただし、
「仏教が来たから前方後円墳が終わった」
と一つの原因へ還元することはできない。
十五 墓制の変化には、複数の要因が重なっている
王権構造の変化。
地方首長との関係。
葬送儀礼。
仏教受容。
行政制度。
土地や人口の把握。
政治的身分の表現方法。
それぞれが、
異なる時期と地域で作用した可能性がある。
したがって、
前方後円墳の終焉は、
一つの事件ではなく、政治社会全体の長期的再編
として見るべきである。
十六 そもそも「前方後円墳が終わった」と「古墳がなくなった」は同じではない
前方後円墳が築かれなくなっても、
墓そのものが消えるわけではない。
別の墳形。
別の葬送施設。
別の墓制。
が続く。
地域によって、
その変化の時期も一様ではない。
したがって、
ある年を境に、
全国一斉に古墳社会が消えた
という理解は適切ではない。
十七 重要なのは「前方後円という形を使わなくなった理由」である
人は死ぬ。
有力者も死ぬ。
葬送は続く。
それでも、
前方後円という、
長期間共有されてきた政治的墓制が使われなくなる。
そこには、
墓そのものの必要性ではなく、
その形に政治的意味を持たせる社会構造が変わった
可能性を見ることができる。
十八 前方後円墳は、国家が未完成だったからこそ必要だったのかもしれない
これは本稿の一つの考察である。
全国を、
同じ法令。
同じ官僚制度。
同じ行政組織。
だけで統合できない時代。
王と地域首長の関係を、
儀礼。
婚姻。
贈与。
軍事。
そして墓制。
によって確認する。
その政治社会において、
前方後円墳は大きな意味を持った可能性がある。
十九 制度化が進めば、墓の役割の一部を国家が引き受ける
人を序列化する。
地域を組織する。
労働を動員する。
物資を集める。
祭祀を行う。
外交する。
軍を編成する。
こうした機能が、
より継続的な制度として王権へ集まれば、
巨大墳墓が担ってきた政治的役割の一部は、
別の仕組みへ移っていく。
二十 ここで「墓から国家施設へ」という視点が生まれる
巨大古墳では、
一人の死を契機に、
膨大な人と物が集められた。
しかし、
城。
寺院。
宮都。
官衙。
工房。
は、
死者のための一回限りの事業ではない。
完成した後も使われる。
人が働く。
物資が動く。
命令が出る。
生産が続く。
ここには、
余剰の使い方そのものの違いがある。
二十一 墓は完成すれば、その大部分の建設は終わる
巨大墳丘を造る。
葬送を行う。
その後、
墓そのものは景観の中に残る。
一方、
宮都。
寺院。
城。
工房。
行政施設。
は、
完成した後にも、
人を配置し、
修理し、
物資を供給し、
継続して運営しなければならない。
つまり、
一度集める力から、持続的に運営する力へ
国家能力の重点が移っていく。
二十二 これは「点の巨大さ」から「面の統治」への変化とも言える
巨大古墳は、
一つの場所へ、
非常に大きな余剰を集中させる。
一方、
行政国家は、
複数の地域から、
継続して人と物を集める。
道路。
倉庫。
役所。
工房。
軍事施設。
を各地で維持する。
必要なのは、
一度の巨大動員だけではない。
二十三 だから社会の力を見る物差しも変えなければならない
最大の墓は何メートルか。
それだけでは、
七世紀以後の国家力を測れない。
何か所の施設を維持できるのか。
何年続けられるのか。
何人の専門家を養えるのか。
どれだけ遠くへ命令を伝えられるのか。
どれだけ継続して物資を集められるのか。
国家形成が進むほど、
力は巨大な一点から、制度の網の目へ現れるようになる。
二十四 すると、前方後円墳の終焉は別の姿に見えてくる
巨大墳墓が消えた。
それだけを見ると、
古墳社会が終わった
という話になる。
しかし、
その後に現れる、
寺院。
宮都。
城郭。
工房。
行政制度。
まで続けて見ると、
別の可能性が見える。
社会的能力が失われたのではなく、国家の別の部分へ組み替えられていったのではないか。
二十五 次に問うべきは「人を動かす力は本当に弱くなったのか」である
前方後円墳を造らなくなった後、
列島王権は、
より小さな事業しかできなくなったのだろうか。
それとも、
大規模な人員と物資を、
別の場所へ動かすようになったのだろうか。
この違いを確かめるには、
墓の大きさだけでなく、
その後の建設事業を見る必要がある。
次節では、
「巨大古墳が消えても、動員力は消えなかったのか」
という問いから、
古墳築造を支えた社会的能力が、
七世紀の国家事業へどのようにつながっていくのかを見ていく。
第二節 「巨大古墳が消えても、動員力は消えなかったのか」――墓の縮小と国家事業の拡大
一 まず「造られなくなったもの」と「できなくなったこと」を分けなければならない
巨大前方後円墳が造られなくなる。
これは確認できる変化である。
しかし、
そこから直ちに、
大規模土木ができなくなった。
多数の人を動員できなくなった。
大量の食料を集められなくなった。
とは言えない。
墳墓の縮小と、社会的動員能力の縮小は別の問題
だからである。
二 巨大古墳が必要としたのは、土だけではない
墳丘を築くには、
大量の労働力がいる。
食料がいる。
木材がいる。
鉄工具がいる。
石材を扱う技術がいる。
工事の順序を決める人もいる。
多数の集団を、
一定期間、
一つの目的へ参加させる必要がある。
つまり巨大古墳は、
人・物・時間を集中させる事業
であった。
三 ここで見るべきなのは「墓そのもの」より、その背後の能力である
古墳は残る。
だから、
現代の私たちには、
社会の力が非常に見えやすい。
しかし、
古墳を造った社会的能力は、
土の中に埋葬されたわけではない。
農業生産。
木工。
土木。
運搬。
組織。
地域間協力。
そうした基盤は、
別の事業にも利用できる。
四 ただし「古墳工事の組織が、そのまま国家工事組織になった」とは言えない
ここは区別する必要がある。
三世紀の巨大古墳と、
七世紀の国家事業では、
政治制度も、
動員方法も、
技術構成も異なる。
同じ人々が、
同じ仕組みで、
墓から城へ移った
と証明できるわけではない。
比較できるのは、
大規模な人員と資源を動かす社会的能力
である。
五 もし動員力そのものが失われたなら、その後の大規模事業は説明しにくい
六世紀後半から七世紀にかけて、
列島では、
寺院造営。
宮殿建設。
防衛施設。
大規模工房。
都市的施設。
などが展開していく。
もちろん、
それぞれ成立時期も目的も異なる。
しかし、
共通しているのは、
多数の専門家と労働力、
そして大量の資材を必要とすることである。
六 つまり「大きなものを造らなくなった」のではない
造るものが変わったのである。
巨大墳墓から、
寺院へ。
宮殿へ。
城へ。
工房へ。
そして、
さらに広い政治施設へ。
この変化を見れば、
前方後円墳の終焉を、
単純な土木能力の衰退として読むことは難しい。
七 むしろ動員の目的が増えている
巨大古墳の場合、
中心となる目的は、
葬送と政治的表象である。
しかし国家形成が進めば、
王権は、
一つの事業だけに人を集めるのではなくなる。
外交。
軍事。
宗教。
生産。
行政。
交通。
さまざまな分野へ、
同時に資源を振り向ける必要が生まれる。
八 ここで「一つの巨大事業」と「複数の継続事業」の違いが出てくる
巨大古墳は、
一人の有力者の死を契機として、
大きな資源を集中させることができる。
しかし、
国家は、
一つの事業が終わっても止まれない。
城を維持する。
役所を動かす。
工房を動かす。
寺院を維持する。
使節を送る。
軍を養う。
つまり、
複数の事業を継続して運営する能力
が必要になる。
九 これは動員力の「量」だけではなく「持続時間」が変わるということである
一万人を一度集められる。
それは大きな力である。
しかし、
千人を毎年動かす。
複数の施設へ分けて配置する。
専門職を何十年も養う。
こちらには、
別種の能力が必要になる。
国家形成が進むほど、
一時的な集中だけでは足りなくなる。
十 古墳築造は、非常に強い「集中力」を示す
大量の人員を、
一定期間、
一地点へ集める。
これは、
政治的な動員力として極めて大きい。
一方、
七世紀国家に必要なのは、
集中力だけではない。
各地へ、
必要な人数を、
必要な時期に、
繰り返し配置する。
ここでは、
配分する能力
が重要になる。
十一 「集める国家」から「配る国家」へという変化である
食料を集める。
それを一つの巨大事業へ使う。
そこから、
集めた食料を、
兵。
官人。
工人。
建設事業。
移住者。
へ分けて供給する。
国家規模が大きくなるほど、
余剰を集める力だけではなく、
余剰を配分する仕組み
が必要になる。
十二 ここに文字行政の重要性もつながってくる
何人必要なのか。
どの地域から集めるのか。
食料はいくら必要なのか。
誰へ何を渡したのか。
どこまで工事が進んだのか。
事業が増えれば、
記憶だけでは管理しにくくなる。
つまり、
大規模動員が制度化するほど、
文字。
記録。
数量管理。
が重要になる。
十三 巨大古墳の時代にも、組織は存在していた
巨大墳墓が、
無秩序な群衆によって造られたとは考えられない。
作業を分ける。
資材を運ぶ。
工程を管理する。
人々を動かす。
そこには、
何らかの組織化が必要だった。
しかし、
その具体的制度を、
後世の行政組織と同じものとして復元することはできない。
十四 七世紀になると、組織の痕跡が別の資料から見えやすくなる
文献。
木簡。
官衙。
工房。
城郭。
宮殿。
こうした資料が増える。
そこで見えてくるのは、
人間を集めるだけでなく、
役割を分けて継続的に働かせる仕組み
である。
国家力が、
巨大墳丘だけでなく、
制度として見えるようになっていく。
十五 ここで「墓が小さくなった=王権が弱くなった」という見方は、さらに難しくなる
もし王権が本当に、
人を集める力も、
物資を集める力も、
失っていたのであれば、
その後、
複数の大型事業を展開することは難しい。
ところが実際には、
新しい政治施設が増えていく。
したがって、
少なくとも長期的には、
王権の力が消えたのではなく、力の現れ方が変わった
可能性を考える必要がある。
十六 地方社会から見ても同じ問題がある
巨大古墳を造ったのは、
王権中枢だけではない。
地方にも、
大規模な前方後円墳を造れる首長がいた。
彼らが持っていた、
農業基盤。
労働力。
土木経験。
地域組織。
も、
墓制の終焉とともに消えたとは限らない。
十七 では地方の力は、どこへ組み込まれていったのか
王権の事業に参加する。
地方防衛を担う。
寺院造営へ関与する。
物資を供給する。
官人を出す。
国家的な交通や生産体系へ接続する。
個々の地域ごとに確認する必要はあるが、
地方首長が持っていた社会的能力の一部が、
より大きな国家制度へ組み込まれていく
という視点は重要である。
十八 これは地方が無力になったという意味ではない
中央集権化とは、
地方社会が消えることではない。
農業をするのは地方である。
木材も、
鉄も、
食料も、
地域から出てくる。
中央王権だけでは、
国家を維持できない。
必要なのは、
地域社会の能力を、
中央の政治目的へ接続することである。
十九 前方後円墳体制でも、その接続は存在していた可能性がある
同じ墓制を共有する。
葬送儀礼を共有する。
首長間関係を維持する。
これによって、
地域と王権が結ばれていたと考えることができる。
しかし、
後の国家では、
その接続方法が変わる。
墓制だけではなく、
官位。
行政。
軍事。
宗教。
物資供給。
へ広がっていく。
二十 つまり「地域首長を結ぶ政治」から「地域社会を運営する政治」へ近づいていく
前方後円墳体制では、
まず首長同士の関係が強く見える。
誰と誰が政治的に結ばれているのか。
その関係が、
墓制として可視化される。
一方、
国家制度が進めば、
首長間関係だけでなく、
人口。
土地。
生産。
交通。
まで、
政治の対象になっていく。
二十一 ここで動員力の質が変わる
巨大古墳を造る力は、
一つの目的へ、
大量の力を集中する能力である。
国家制度が求めるのは、
それに加えて、
人と物を、
複数の目的へ、
長期間、
繰り返し動かす能力である。
これは、
単純に「強くなった」「弱くなった」という比較ではない。
動員の仕組みそのものが変化している
のである。
二十二 白村江後の防衛事業は、その変化を強く見せる
六六三年に、
倭は海外戦争で大きな損失を受けた。
それでも、
翌年以降、
列島防衛のための大規模事業を進める。
これは、
古墳築造の終了とは別時期の出来事であり、
両者を直接結ぶことはできない。
しかし、
列島社会が、
依然として大規模動員能力を持っていたことを示す材料にはなる。
二十三 つまり「墓を造らなくなった社会」が「造れなくなった社会」だったとは言いにくい
人はいる。
農業生産も続く。
土木技術もある。
専門工人もいる。
さらに、
外部から新しい技術も取り込む。
そして、
大規模な国家事業を行う。
この流れを見る限り、
前方後円墳の終焉を、
社会的能力の枯渇だけで説明することはできない。
二十四 むしろ問うべきは「何を造る価値があると考えるようになったのか」である
古墳時代には、
巨大墳墓へ、
政治的意味があった。
だから、
そこへ人と物を投入する。
しかし、
政治社会が変化すれば、
価値の高い事業も変わる。
王権を示すために、
巨大墓を造るのか。
寺院を造るのか。
宮殿を造るのか。
城を造るのか。
余剰の投資先そのものが、政治思想を映す。
二十五 そして最初に大きく現れる新しい投資先の一つが、寺院である
寺院は、
単なる宗教施設ではない。
建物を造る。
瓦を焼く。
仏像を作る。
金属を加工する。
僧侶を養う。
儀礼を行う。
そのために、
専門工人。
食料。
原材料。
土地。
が必要になる。
巨大古墳とは異なる形で、
大きな社会的余剰を必要とする施設である。
二十六 次に見るのは「墓から寺へ」という変化である
死者の権威を、
巨大な墳丘で表す社会。
そこへ、
仏教寺院という新しい政治・宗教施設が加わる。
王権や有力氏族は、
なぜ寺院造営へ力を投入するようになったのか。
そして、
寺院は、
巨大古墳とは違う形で、
どのように人・技術・余剰を集めたのか。
次節では、
「墓から寺院へ」
という視点から、
余剰の使われ方と、
政治的権威の表現方法が、
どのように変化していったのかを見ていく。
第三節 「墓から寺院へ」――余剰は死者の権威から生きた社会へ向かう
一 巨大古墳が縮小していく時代に、別の巨大建築が現れる
六世紀後半、
列島社会では、
新しい建築物が目立つようになる。
寺院である。
大きな建物。
瓦葺きの屋根。
仏像。
塔。
金堂。
それを支える工房。
巨大古墳とは形も目的も違う。
しかし、
どちらも、
多数の人間と大量の物資を必要とする。
二 寺院は「墓より小さい建物」ではない
墳丘の長さだけを比べれば、
巨大前方後円墳の方が圧倒的に大きく見える。
しかし、
寺院造営に必要なのは、
建物一棟の面積だけではない。
木材。
瓦。
金属製品。
塗料。
仏像。
装飾。
建築技術。
そして、
それらを作る専門家が必要になる。
つまり、
寺院は複数の高度技術を束ねる総合事業
なのである。
三 しかも寺院は、完成すれば終わりではない
巨大古墳は、
築造と葬送が終われば、
基本的には墓として残る。
寺院は違う。
僧侶が暮らす。
儀礼を行う。
建物を修理する。
屋根を葺き替える。
仏具を作る。
食料を供給する。
つまり寺院は、
完成後も、
継続的に人と余剰を必要とする施設
である。
四 ここに余剰の使い方の大きな違いがある
巨大古墳では、
膨大な力が、
一つの巨大な墳丘へ集中する。
寺院では、
建設後も、
人。
物資。
技術。
儀礼。
教育。
が継続する。
したがって、
同じ社会的余剰でも、
使われ方が変わる。
一度の巨大集中から、継続的な維持へ
という違いである。
五 ただし「古墳をやめて寺を造った」と単純化してはいけない
寺院造営は、
巨大前方後円墳が完全に消えた後に、
突然始まったわけではない。
両者が並行する時期もある。
また、
仏教受容だけで、
前方後円墳の終焉を説明することもできない。
墓制変化には、
王権構造。
地域首長秩序。
葬送観念。
政治制度。
など、
複数の要因が関わる。
寺院は、
その変化を考える重要な一要素である。
六 それでも、寺院造営の拡大が持つ意味は大きい
なぜなら、
王権や有力氏族が、
大きな資源を、
死者の墓だけでなく、
宗教施設へ投入するようになるからである。
これは、
政治的威信を示す方法が、
変化している可能性を示す。
七 巨大古墳は「この首長がどれほど大きな力を持ったか」を見せる
墳丘の規模。
立地。
葬送儀礼。
副葬品。
それらによって、
有力者の権威が表現される。
墓は、
死者を中心とした政治的記憶を、
景観へ固定する。
八 寺院は、死者だけではなく「現在の秩序」を継続的に示す
寺院では、
人が出入りする。
儀礼が繰り返される。
僧侶が活動する。
建物が維持される。
つまり、
一度の葬送ではなく、
日常的・反復的な宗教活動が行われる。
ここでは権威が、
一回の巨大葬送から、繰り返される儀礼へ
移っていく。
九 これは政治権威の見せ方として大きな違いである
墓は、
祖先や死者を通して、
首長家の権威を示す。
寺院は、
新しい宗教体系との結びつきによって、
有力者や王権の権威を表現することができる。
どちらも政治と切り離すことはできない。
しかし、
その表現方法は異なる。
十 寺院造営には、新しい専門家が必要になる
寺工。
瓦を作る者。
絵を描く者。
金属を加工する者。
仏像制作に関わる者。
僧侶。
こうした専門職層が、
一つの建設事業へ集められる。
ここでも、
人材を組織する力が必要になる。
十一 五八八年の飛鳥寺造営記事は、そのことをよく示している
『日本書紀』では、
飛鳥寺造営に際し、
百済から、
僧だけではなく、
寺工。
鑪盤博士。
瓦博士。
画工。
などの専門家が渡来したとされる。
ここで重要なのは、
単に、
「百済から寺院文化が来た」
ということではない。
十二 一つの寺を造るために、複数の専門職が必要だったのである
建物だけではない。
屋根。
装飾。
金属加工。
宗教儀礼。
それぞれに、
異なる知識と技能が必要になる。
つまり、
寺院とは、
複数の専門技術を一つの目的へ統合する施設
でもあった。
十三 瓦一枚を見ても、背後には長い工程がある
粘土を用意する。
成形する。
乾燥させる。
焼く。
必要枚数をそろえる。
運ぶ。
建物へ葺く。
完成した屋根を維持する。
一枚の瓦だけを見ても、
その背後には、
原料。
工人。
窯。
運搬。
建築。
という連続した生産体系がある。
十四 だから寺院造営は、技術を「点」ではなく「体系」で受け入れる必要があった
一人の瓦職人だけでは、
寺院は完成しない。
建築技術者だけでも足りない。
材料供給。
工房。
労働者。
物流。
食料。
それらを組織する側が必要になる。
つまり、
外部から高度な技術者が来ても、
受け入れる社会の動員力がなければ寺院にはならない。
十五 ここでも列島側の「受容余剰力」が問われる
専門家を呼ぶ。
住まわせる。
食料を供給する。
材料を準備する。
列島側の工人と一緒に働かせる。
建設期間中、
仕事を続けさせる。
これには、
すでに相当な社会的余剰が必要になる。
寺院文化の受容は、
受け取る側の力も示している。
十六 そして技術は、造営一回で終わらなかった
飛鳥寺を造った後、
寺院建築そのものが列島各地へ広がっていく。
瓦も、
最初の形式を永久にコピーし続けたわけではない。
列島側で、
文様。
形式。
製作方法。
が変化していく。
ここで、
技術は輸入品から、
現地で再生産される技術
へ変わっていく。
十七 これは前章で見た「伝承力」と「転換力」の具体例である
最初に専門家が来る。
技法を教える。
列島側の人間が学ぶ。
次の寺院でも使う。
さらに、
別の様式へ変えていく。
ここまで来ると、
もはや単純な模倣ではない。
外来技術が、
列島社会の技術体系へ組み込まれている。
十八 そして寺院は、専門工人への継続的需要を生む
一寺だけなら、
建設が終われば仕事も減る。
しかし、
複数の寺院が造られるようになれば、
瓦を作る。
建物を建てる。
仏具を作る。
修理する。
という仕事が続く。
需要が継続すれば、
工人も継続して活動できる。
十九 ここで寺院は「技術を育てる装置」にもなる
寺院そのものが、
工人を直接教育したと単純に言うのではない。
重要なのは、
寺院造営という継続的需要が、
専門技能を持つ人々に、
仕事を与え続けることである。
仕事があれば、
弟子を育てる。
道具を維持する。
技法を改良する。
つまり、
宗教需要が技術伝承を支える
ことになる。
二十 巨大古墳にも技術伝承の役割はあっただろう
土木。
石工。
木工。
運搬。
それらの技術は、
古墳築造を繰り返す中で蓄積されたと考えられる。
したがって、
古墳=浪費。
寺院=生産的。
という単純な比較はできない。
巨大古墳も、
その時代の政治秩序を支える重要な事業であった。
二十一 違うのは、社会の中で果たす機能である
巨大古墳は、
死者。
首長家。
政治序列。
を強く表現する。
寺院は、
宗教儀礼。
専門職。
建築技術。
継続的管理。
を伴う。
どちらも余剰を必要とするが、
余剰を社会へ戻す回路が異なる。
二十二 寺院は、王権だけの施設でもなかった
有力氏族も、
寺院造営へ関与していく。
ここで、
氏族の威信を示す方法も、
巨大墓だけではなくなる。
誰がどの寺を造るのか。
どのような宗教文化と結びつくのか。
政治的地位を表現する舞台が、
墓とは異なる場所へ広がっていく。
二十三 これは「首長の余剰」の使い道が変わることでもある
地域の人。
食料。
木材。
工人。
を、
巨大墳丘へ投入する。
それが、
寺院建築へ投入されるようになれば、
同じ地域余剰でも、
残るものが違う。
巨大な土の山ではなく、
宗教施設。
工房。
技術者集団。
が残る。
二十四 さらに寺院は、外部との文化交流の窓にもなる
仏教そのものが、
列島だけで完結して生まれたものではない。
経典。
僧侶。
仏像。
建築。
瓦。
儀礼。
さまざまな要素が、
大陸・半島との関係を通じて入ってくる。
したがって寺院は、
国内政治施設であると同時に、
東アジア文化との接続点
でもあった。
二十五 ここで「墓から寺院へ」という言葉の意味が見えてくる
墓がなくなったわけではない。
祖先祭祀が突然消えたわけでもない。
仏教だけが政治を支配したわけでもない。
しかし、
大規模な余剰を投入し、
権威を示し、
専門技術を集める場所として、
寺院という新しい選択肢が加わった。
これは、
余剰の政治的利用先が多様化した
ということである。
二十六 そして、この変化は次の段階へつながる
寺院は、
新しい宗教と技術を組織する。
しかし国家には、
さらに別の施設が必要になる。
王が政治を行う場所。
官人が働く場所。
使節を迎える場所。
物資を集める場所。
命令を出す場所。
つまり、
宮殿と宮都
である。
二十七 墓は王の死後を示す。宮都は王権の日常を動かす
ここに、
さらに大きな転換がある。
死者のための巨大施設から、
生きている王権が毎日使う政治空間へ。
その変化を見ると、
国家力が、
一回の巨大事業から、
継続する行政へ向かっていく過程が、
よりはっきり見えてくる。
次節では、
「墓から宮都へ」
という視点から、
王権がどのように、
一つの巨大墓ではなく、
継続して動く政治空間へ余剰を投入するようになったのかを見ていく。
第四節 「墓から宮都へ」――死者の権威から、生きた王権を動かす空間へ
一 巨大古墳と宮都では、同じ「大規模事業」でも意味が違う
巨大古墳には、
大量の人。
食料。
土。
木材。
石材。
技術。
が集められる。
宮殿や宮都にも、
同じように多くの資源が必要になる。
しかし、
両者には決定的な違いがある。
墓は、
王や首長の死を契機として造られる。
宮都は、
生きている王権を毎日動かすために存在する。
二 墓は完成すれば、政治的記念物として残る
もちろん、
その後も祭祀が行われた可能性はある。
しかし、
巨大墳丘を毎年造り続けるわけではない。
一方、
宮殿は、
完成した瞬間から、
使い続けなければならない。
王がいる。
官人が働く。
使者が来る。
物資が運ばれる。
儀礼が行われる。
宮殿とは、
政治活動が継続して発生する場所
なのである。
三 だから宮都には「建設力」だけでは足りない
大きな建物を一度造る。
それだけなら、
大規模土木の問題である。
しかし宮都の場合、
建てた後に、
人を養う。
物資を供給する。
修理する。
警備する。
情報を集める。
命令を送り出す。
必要がある。
つまり、
建設する力と、運営する力の両方
が問われる。
四 ここで余剰力の性質が変わってくる
巨大古墳では、
ある時期に、
大量の余剰を集中させることができる。
しかし宮都では、
毎年。
毎月。
場合によっては毎日、
食料や物資を供給しなければならない。
必要なのは、
大きな余剰だけではない。
継続して余剰を集められる仕組み
である。
五 宮都に人が集まれば、そこには食料を生産しない人々が増える
王。
官人。
工人。
宗教者。
使節。
警備に関わる人々。
彼らすべてが、
その場所で農業をしているわけではない。
誰かが生産した食料を、
そこへ運ばなければならない。
つまり宮都は、
周辺地域や遠隔地の生産力に支えられている。
六 ここで農村と政治中枢が、より強く結ばれる
宮都が大きくなればなるほど、
食料。
木材。
金属。
布。
器物。
を、
外部から集める必要がある。
政治中枢だけを見ていても、
その力は理解できない。
宮都の背後には、
物資を送り続ける地域社会
が存在する。
七 これは巨大古墳にも共通していた
巨大古墳も、
地域の生産力なしには造れない。
そこは同じである。
しかし、
古墳の場合は、
一つの巨大事業として集中する。
宮都の場合は、
政治活動が続く限り、
供給も続かなければならない。
ここで、
一時的動員から、
継続的な供給体制
への比重が大きくなる。
八 さらに宮都では「人を集める」だけでなく「役割を分ける」必要がある
建物を造る者。
物資を運ぶ者。
記録する者。
警備する者。
外交を担当する者。
儀礼を行う者。
工房で働く者。
国家が複雑になるほど、
すべての人間へ、
同じ仕事をさせることはできない。
必要なのは、
専門化された役割を一つの政治空間へ組み込むこと
である。
九 ここで宮都は「専門職を集める場所」になる
前章で見た、
官人。
工人。
学識者。
文字を扱う人。
宗教者。
こうした人々が、
政治中枢の周辺に集まれば、
知識と技術の交流も起こる。
王権が人材を集めることは、
単なる人口集中ではない。
専門能力の集中
でもある。
十 そして専門能力が集まれば、新しい仕事も生まれる
王権が、
建築を必要とする。
武器を必要とする。
祭祀用品を必要とする。
文書を必要とする。
使節への贈答品を必要とする。
すると、
工人や官人への需要が継続する。
宮都は、
国家権力を消費する場所であると同時に、
専門技術への需要を生み出す場所
でもある。
十一 ここで寺院との違いも見えてくる
寺院は、
宗教儀礼と、
それを支える専門職を集める。
宮都は、
さらに広く、
政治。
行政。
外交。
生産。
儀礼。
を集める。
両者は別の施設である。
しかし、
どちらにも共通するのは、
完成後にも人と物を必要とし続ける
ことである。
十二 つまり余剰の使い方が「建設」から「運営」へ広がっていく
巨大古墳を造る。
寺院を造る。
宮殿を造る。
ここまでは建設である。
しかし国家形成が進むと、
造ったものを、
何十年も使い続ける必要が出てくる。
ここから、
余剰力は、
建設能力だけではなく、
維持管理能力
としても現れる。
十三 王権の政治も、墓の周囲だけでは行えない
前方後円墳は、
王権秩序を象徴する強力な装置だった可能性がある。
しかし、
外交交渉を墓の上で行うわけではない。
物資管理も、
行政判断も、
日々の政治も、
生きた政治空間を必要とする。
王権が広域化するほど、
常設の政治中枢
の重要性が高まる。
十四 この点では、纒向から見てきた政治中枢の問題ともつながる
三世紀の纒向では、
大型建物。
計画的配置。
外来系土器。
大溝。
などから、
人・物・情報が集まる政治的中心の存在を考えてきた。
ただし、
纒向を後世の律令的都城と、
そのまま同一視することはできない。
重要なのは、
政治中枢そのものが、早い段階から必要とされていた
ことである。
十五 したがって「古墳の後に突然、都が生まれた」のではない
政治中枢は、
古墳時代にも存在した。
王も、
首長も、
政治を行う場所を持っていたはずである。
問題は、
その中枢が、
より多くの人員。
より多くの機能。
より継続的な行政。
を抱えるようになることにある。
十六 王権が大きくなるほど「その場に集めるもの」が増える
人だけではない。
情報。
物資。
技術。
儀礼。
外交関係。
記録。
が集まる。
そして、
集まったものを、
再び地方へ送り返す。
命令を出す。
人を配置する。
物資を配る。
宮都は、
国家の集積点であると同時に、再配分の起点
になっていく。
十七 ここに古墳とは異なる「ネットワークの中心」が現れる
巨大古墳は、
地域から人と物を集める。
しかし、
集められたものの多くは、
墳墓築造へ集中する。
宮都では、
集められた人・物・情報が、
再び別の地域へ送られる。
つまり、
一方向の集中だけではなく、往復する政治回路
が必要になる。
十八 国家は「中心が大きい」だけでは成立しない
地方から、
物を集める。
それだけでは、
収奪で終わる。
集めた情報をもとに、
地方へ命令を返す。
人材を送る。
軍事力を配置する。
儀礼や制度を共有する。
こうした往復があって初めて、
政治中枢は、
広域国家の中心として機能する。
十九 ここで道路と交通路の意味も変わってくる
古くから、
道はある。
海路もある。
河川交通もある。
しかし、
国家がそれらを継続的に利用するようになると、
交通路は、
交易のためだけではなく、
行政。
軍事。
物流。
外交。
を支える基盤になる。
宮都は、
交通網の結節点としても成立する必要がある。
二十 第一部で見た海上交通が、ここで再び国家内部へつながる
海を渡る力。
港を使う力。
物を運ぶ力。
それらは、
国家形成が進むと、
海外交流だけに使われるのではない。
列島内部の物流にも、
国家事業にも使われる。
古い交通技術が、
新しい国家用途へ組み替えられるのである。
二十一 つまり宮都とは「建物の集合」ではない
そこには、
王がいる。
人材が集まる。
物資が集まる。
情報が集まる。
そして、
それらを再び配分する。
宮都とは、
余剰・人材・情報を循環させる国家装置
として考えることができる。
二十二 この視点から見ると、巨大古墳との違いがさらに明確になる
巨大古墳は、
政治力を、
巨大な形として残す。
宮都は、
政治力を、
日々の活動として使う。
墓は、
王の権威を景観に残す。
宮都は、
王権を、
毎日作動させる。
ここでは、
権威の可視化から、統治の常態化へ
重点が移っていく。
二十三 ただし、これを単純な「進歩」として描く必要はない
巨大古墳には、
巨大古墳が必要とされた政治社会があった。
墓制による政治統合には、
文書制度が未発達な社会だからこその強い機能があった可能性がある。
一方、
宮都と行政による統合には、
それを支える別の条件が必要になる。
両者は、
優劣ではなく、
異なる政治統合の方法
として見るべきである。
二十四 そして宮都は、墓よりも高い「継続負担」を要求する
建てて終わらない。
人を養い続ける。
建物を修理する。
物資を運び続ける。
記録する。
警備する。
政治を止めない。
国家の余剰力が、
一回の巨大事業ではなく、
毎年繰り返される支出へ耐えられるか
が問われる。
二十五 ここで国家力の物差しが変わる
最大の墓を一基造れたか。
ではなく、
政治中枢を何十年動かせるか。
複数の専門職を養えるか。
各地から物資を集め続けられるか。
人が替わっても制度を動かせるか。
こうした能力が、
より重要になる。
二十六 墓から宮都へという変化は、余剰の「固定」から「循環」への変化としても読める
巨大墓へ投入された力は、
巨大な景観として固定される。
宮都へ投入された力は、
官人。
工人。
物資。
情報。
命令。
となって、
絶えず動き続ける。
ここに、
前章で見た、
継承力。
伝承力。
転換力。
が、
一つの国家空間で結びついていく。
二十七 しかし国家は、宮都を造れば安全になったわけではない
七世紀の列島には、
もう一つの巨大な課題が現れる。
外敵への備えである。
白村江敗戦後、
大量の人と資材が、
今度は、
水城。
山城。
防衛施設。
へ投入される。
宮都が、
国家を動かす中心であるなら、
城郭は、
その国家を守るための施設となる。
次節では、
「墓から城へ」
という視点から、
海外へ向けられていた軍事的余剰が、
なぜ列島内部の防衛施設へ振り向けられたのかを見ていく。
第五節 「墓から城へ」――白村江後、余剰は列島防衛へ向かった
一 七世紀後半、列島で新たに巨大化するものがある
巨大前方後円墳は、
すでに縮小へ向かっていた。
しかし、
大規模土木そのものが消えたわけではない。
六六三年、
白村江で敗れた翌年、
倭は筑紫に水城を築く。
さらに六六五年には、
大野城・基肄城など、
山城の整備が進む。
ここで再び、
大量の人と物を動かす国家が現れる。
二 これは「墓が城に変わった」という単純な話ではない
前方後円墳の縮小は、
白村江以前から始まっている。
したがって、
古墳を造っていた労働力を、
六六三年を境にそのまま城へ移した、
という因果関係を立てることはできない。
本稿で見るのは、
より長い変化である。
巨大墓を造れる社会的動員能力が、その後も別の国家事業で確認できる
という点である。
三 水城を造るにも、巨大古墳と共通する条件が必要になる
土を掘る。
運ぶ。
積む。
地形を読む。
木材を集める。
多数の人を動員する。
食料を供給する。
工事全体を管理する。
目的はまったく違う。
しかし、
必要となる社会的能力には、
共通する部分がある。
四 ただし、防衛施設には墓にはない条件も加わる
墓は、
築造する場所を選べる余地がある。
しかし防衛施設は、
敵が通る可能性のある場所。
交通路。
地形。
水系。
防御すべき政治拠点。
との関係で配置しなければならない。
つまり、
土木技術だけでなく、軍事的な空間設計
が必要になる。
五 六六四年の水城は、その象徴である
白村江敗戦の翌年、
筑紫に大規模な防御施設を築く。
ここで重要なのは、
敗北からの時間の短さである。
海外戦争で、
兵。
船。
物資。
を消耗した直後である。
それでも、
列島内部で新たな大規模事業を開始している。
六 これは「敗戦しても国家活動が止まらなかった」ことを示す
白村江で敗れた。
だから、
倭の国家力が消えた。
というわけではない。
むしろ、
敗戦後すぐに、
新しい脅威へ対応している。
前章で見た言葉を使えば、
ここでは、
継戦力と転換力
が同時に問われている。
七 継戦力とは「同じ戦争を続ける力」だけではない
白村江後、
倭は、
同じ形で百済復興戦争を続けたわけではない。
戦場そのものが変わる。
目的も変わる。
海外へ軍を送ることから、
列島を守ることへ移る。
つまり、
危機の後にも、
別の形で国家を動かし続ける。
本稿では、
これも広い意味での継戦力として捉える。
八 さらに重要なのが「転換力」である
白村江以前、
倭は、
兵を海へ送った。
船を送った。
武器を送った。
食料を送った。
社会的余剰の一部を、
半島での軍事・政治活動へ投入した。
敗戦後、
同じ列島社会が、
今度は、
土。
木材。
労働力。
築城技術。
を、
国内防衛へ向ける。
九 余剰が消えたのではなく、使う方向が変わったのである
もちろん、
白村江で失われた人命や物資は大きい。
それを軽視することはできない。
しかし、
敗戦後に防衛施設を造れたということは、
列島内部の、
農業。
人口。
地域組織。
物流。
工人。
までが、
一戦で崩壊したわけではなかったことを示している。
十 国家の厚みは「負けた後」にも現れる
一度、
大きな軍を出せる。
これは国力である。
しかし、
その軍が敗れた後、
もう一度、
人と物を集められる。
別の政策へ転換できる。
こちらも重要である。
国家力とは、一度力を出す能力だけではなく、使った力を再び組み直す能力でもある。
十一 そして六六五年の築城記事には、人材移動の問題も重なる
『日本書紀』には、
百済から来た人物が、
大野城などの築城に関与したことが記されている。
ここで、
第十七章で見た現象が、
再び具体化する。
百済という国家は失われた。
しかし、
その国家で蓄積された専門経験の一部は、
人とともに移動した。
十二 しかも、その技術は別の国家目的へ使われる
百済を守るためではない。
百済王朝を再建するためでもない。
今度は、
倭を守るために使われる。
同じ知識。
しかし、
使う国が違う。
目的も違う。
これは、
技術継承ではなく、技術転換まで起きている
ことを示す。
十三 ただし、城を造ったのは百済系技術者だけではない
専門家が指導したとしても、
土を運ぶのは、
多くの労働者である。
木を伐る。
石を運ぶ。
食料を供給する。
道を整える。
そうした作業は、
列島側の社会基盤がなければ成立しない。
したがって、
大野城を、
「百済人が造った城」
と単純化することはできない。
十四 より正確には「外来の専門知識と、列島の動員力が結びついた」のである
百済側には、
築城経験がある。
列島側には、
大規模土木を実行できる人口と生産基盤がある。
王権には、
それらを一つの事業へまとめる政治力がある。
この三つが結びつく。
ここに、
技術移転が国家力へ変わる条件がある。
十五 古墳築造との違いも、ここで明確になる
巨大古墳は、
王や首長の権威を、
巨大な墳丘として残す。
城は、
未来の危機へ備えるために造る。
つまり、
過去の死者を記念する施設と、
これから起こる可能性のある戦争へ備える施設である。
余剰が向けられる時間軸も違う。
十六 墓は「記憶」を固定する。城は「危機」に備える
どちらも政治施設としての側面を持つ。
しかし、
目的は異なる。
巨大古墳は、
王権秩序や首長関係を、
景観へ刻む。
防衛施設は、
敵の侵入を防ぐ。
兵を置く。
物資を蓄える。
交通路を制御する。
ここでは、
国家力が象徴から安全保障へ投入される。
十七 しかも城は、単独では機能しない
城壁だけあっても、
国家防衛にはならない。
兵が必要である。
武器が必要である。
食料が必要である。
情報が必要である。
援軍を送る道も必要になる。
つまり、
城郭は、
より大きな防衛ネットワークの一部
として機能する。
十八 ここで海・港・道路・山城が一つにつながる
敵がどこから来るのか。
船はどこへ入るのか。
どの道を通るのか。
どこで食い止めるのか。
どこへ情報を送るのか。
第一部から追ってきた、
海。
港。
航路。
陸路。
が、
ここでは、
交易だけではなく、
防衛の地理として読み替えられる。
十九 海を使う能力は、海へ出るためだけのものではない
古代の海上技術は、
交易を可能にした。
外交も可能にした。
軍事遠征も可能にした。
しかし、
海から敵が来る可能性を考える時、
同じ海の知識が、
防衛計画にも必要になる。
海洋国家であることは、海を利用する力と、海から守る力の両方を要求する。
二十 ここで「防衛線が列島側へ移った」という見方が可能になる
加耶諸国が消える。
百済王朝も崩壊する。
倭が政治的・軍事的に関係を持っていた半島南部の構図は、
大きく変わる。
その結果、
列島側が、
自らの西方防衛を、
より直接的に考えなければならない状況が生まれた。
水城や山城の整備は、
その新しい安全保障環境の中で理解できる。
二十一 ただし「加耶・百済が倭の防波堤だった」と固定的に言うべきではない
両者は、
倭のためだけに存在した国家ではない。
独自の政治目的を持っていた。
関係も、
常に友好的だったとは限らない。
ここで言えるのは、
半島南部の政治秩序が変化したことで、
倭を取り巻く戦略環境も変わった、
ということである。
二十二 つまり白村江後の城郭は、敗戦そのものだけではなく、東アジア秩序の変化への対応である
唐。
新羅。
旧百済地域。
倭。
それぞれの政治関係が、
六六〇年代に大きく変わる。
列島防衛は、
その変化への対応として進められた。
したがって、
城郭を、
単なる敗戦ショックの産物として見るだけでは足りない。
二十三 ここに「外へ使う国家力」と「内へ使う国家力」の違いが見える
白村江以前、
列島の余剰の一部は、
海外戦争へ向かった。
白村江後、
防衛施設。
軍事拠点。
国内組織。
へ比重が移る。
これは、
現代的な予算項目がそのまま移ったという意味ではない。
しかし、
国家が優先する事業が変化した
という意味では、
重要な転換である。
二十四 古墳・軍隊・城は、すべて別の形をした余剰の表現でもある
古墳を造る。
兵を養う。
船を造る。
城を築く。
どれも、
生存に必要な最低限を超えた、
人。
食料。
材料。
時間。
を必要とする。
つまり、
その背後には、
社会が生み出した余剰がある。
二十五 違うのは「誰が、何のために使ったのか」である
首長の葬送へ使う。
王権秩序の表現へ使う。
海外戦争へ使う。
列島防衛へ使う。
同じ社会から生み出された力でも、
政治目的によって、
形はまったく違って見える。
だからこそ、
遺跡の形だけを見て社会能力を判断してはいけない。
二十六 前方後円墳が消えても、土木国家は消えていない
むしろ、
墓。
寺院。
宮都。
城郭。
へと、
大規模事業の種類が増えていく。
国家が求めるものが、
一つの巨大記念物から、
複数の恒常的施設へ広がる。
これは、
動員能力の消滅ではなく、
動員能力の用途が多様化した
と見ることができる。
二十七 そして次に現れるのが「生産する国家」という問題である
城を造るには、
道具がいる。
武器がいる。
金属製品がいる。
宮都には、
さまざまな器物が必要になる。
寺院には、
瓦。
仏具。
装飾品。
が必要になる。
つまり、
国家事業が増えれば増えるほど、
専門工人への需要も増える。
二十八 国家は、工人を集めるだけでは足りなくなる
同じ品質のものを、
継続して作る。
複数の素材を扱う。
仕事を管理する。
材料を供給する。
完成品を必要な場所へ送る。
そのためには、
工人そのものを、
組織として動かす必要がある。
二十九 ここで余剰は「建設物」から「生産組織」へも向かう
巨大墓。
寺院。
宮都。
城。
これらは、
目に見える巨大施設である。
しかし国家力は、
建物だけには現れない。
工房という、
物を継続的に生み出す仕組み
にも現れる。
次節では、
「墓から工房へ」
という視点から、
七世紀後半の飛鳥池遺跡などを手掛かりに、
国家が専門技術と工人をどのように組織し、
一回の建設ではなく、
継続的な生産能力へ変えていったのかを見ていく。
第六節 「墓から工房へ」――余剰は「造る力」から「作り続ける力」へ変わった
一 巨大古墳や城は、完成すれば形として残る
巨大な墳丘。
寺院。
宮殿。
城郭。
これらは、
国家や首長が持つ力を、
目に見える巨大施設として示す。
しかし、
国家が必要とするものは、
巨大建築だけではない。
武器。
工具。
器物。
装飾品。
ガラス製品。
漆製品。
金属製品。
こうした物も、
絶えず必要になる。
二 ここで国家力は「大きなものを造る能力」だけでは測れなくなる
一万人を動かして、
巨大な施設を一つ造る。
これは大きな力である。
しかし、
百人の専門工人を、
何年も働かせる。
材料を供給し続ける。
同じ品質の製品を、
繰り返し作る。
こちらには、
別の社会的能力が必要になる。
一度の巨大動員から、継続的な生産へ。
ここにも、
余剰の使い方の変化が見える。
三 工房とは、単に職人が集まっている場所ではない
材料を集める。
道具を用意する。
作業場所を維持する。
工人を配置する。
仕事を分担する。
完成品を管理する。
必要な場所へ運ぶ。
つまり工房は、
人・物・技術を継続的に結びつける生産組織
である。
四 七世紀後半の飛鳥池遺跡は、その姿を考える重要な資料になる
飛鳥池遺跡では、
金。
銀。
銅。
鉄。
ガラス。
漆。
など、
複数の素材を扱う生産活動が確認されている。
さらに、
富本銭の鋳造に関係する遺物も知られている。
一種類の工人だけが働く、
単純な工房ではない。
五 複数の技術が、一つの場所へ集まっている
金属加工。
ガラス加工。
漆工。
その他の工芸生産。
それぞれ、
必要な原料も、
道具も、
作業工程も違う。
その異なる技術が、
同じ大規模工房群の中で活動している。
ここに、
技術の複合化
を見ることができる。
六 奈良文化財研究所は、飛鳥池遺跡を古代国家や宮廷を物質面で支えた大規模な総合工房として位置づけている
重要なのは、
単に、
たくさん物を作っていた
ということではない。
異なる専門技術を持つ工人が、
一つの大きな生産体系へ組み込まれている。
つまり、
技術が、
個々の職人だけに属するものから、
組織の中で利用されるもの
へ変化している。
七 ここで「名工」と「工房」の違いが見えてくる
一人の名工が、
素晴らしい製品を作る。
それは、
高度な技能の存在を示す。
しかし、
国家が必要とするのは、
一人の傑作だけではない。
必要な時に、
必要な数量を、
繰り返し作れること。
そのためには、
工人を組織する必要がある。
八 つまり国家が技術を持つとは、王自身が技術者になることではない
王が、
鉄を打てる必要はない。
ガラスを作れる必要もない。
漆を塗れる必要もない。
重要なのは、
鉄を打てる人。
ガラスを作れる人。
漆を扱える人。
を集め、
仕事を与え、
材料を供給し、
生産を続けさせることにある。
技術者を組織できること自体が、国家能力になる。
九 そして工房は、余剰を「製品」へ変換する場所でもある
農村から食料が来る。
山から木材が来る。
各地から金属や原料が来る。
国家や王権が、
工人を養う。
すると、
集められた余剰は、
武器。
工具。
装飾品。
器物。
という別の価値へ変わる。
ここで余剰は、
単に蓄えられるのではなく、
新しい生産力へ変換される。
十 巨大古墳との違いは、ここにもある
巨大古墳の場合、
大量の労働と物資を投入すると、
巨大な墳丘が残る。
工房の場合、
投入された食料や原料は、
次々と製品へ変わる。
そして、
その製品が、
別の国家事業へ使われる。
工房は、
余剰を消費する場所であると同時に、
次の活動に必要な物を生み出す場所
でもある。
十一 だから工房では「余剰の回転」が起こる
材料を集める。
製品を作る。
その製品を、
建築。
軍事。
儀礼。
政治。
へ使う。
そこから、
さらに新しい需要が生まれる。
つまり、
一回の投入で終わらず、
余剰が次の活動へつながっていく
のである。
十二 ここで前章の「伝承力」も重要になる
工房には、
熟練した工人がいる。
若い工人もいる。
同じ場所で、
道具を使う。
工程を見る。
失敗を直される。
何度も作る。
そうすれば、
一人の技術者が持っていた技能が、
次の世代へ渡りやすくなる。
十三 工房は「物を作る場所」であると同時に「技術者を作る場所」でもある
これは、
長期史では非常に重要である。
優れた技術者を、
一人受け入れる。
それだけなら、
一代の技術移転で終わる可能性がある。
しかし、
工房の中で、
複数の人間が学ぶ。
その人々が、
さらに次の人間へ教える。
こうなれば、
技術は、
社会内部で再生産され始める。
十四 外から来た技術も、この仕組みに入れば性格が変わる
百済。
新羅。
大陸。
あるいは、
列島各地域。
異なる経路から来た技術が、
同じ生産組織へ入る可能性がある。
そこで、
既存技術と組み合わされる。
改良される。
別の製品へ使われる。
つまり工房は、
技術の合流点
にもなり得る。
十五 ただし飛鳥池遺跡のすべての工人を、特定の出自へ結びつけることはできない
技術的類似がある。
外来系技術の影響が考えられる。
だからといって、
そこで働いた工人全員を、
百済人。
新羅人。
などと断定することはできない。
物の技術系譜と、
作った人間の出自は、
分けて考える必要がある。
十六 むしろ重要なのは、異なる技術系統を王権側が利用できたことである
どこで生まれた技術か。
という問いに加えて、
誰が集めたのか。
誰が仕事を与えたのか。
誰が材料を供給したのか。
誰が製品を必要としたのか。
を見なければならない。
国家形成を見るなら、
技術の起源だけではなく、技術を組織する主体
が重要になる。
十七 飛鳥池遺跡では、文字資料も生産の姿を考える手掛かりになる
出土した木簡には、
工人名や、
生産管理と関係すると考えられる記載がある。
ここで、
第十七章で見た、
文字行政と工人組織が再びつながる。
物を作るだけではない。
誰が、何を、どのように作るかを管理する
という段階へ進む。
十八 つまり工房には「手の技術」と「管理の技術」の両方が必要になる
工人は、
実際に物を作る。
しかし、
大規模生産になれば、
誰かが、
材料を管理する。
人員を管理する。
仕事を割り振る。
完成品を管理する。
ここで、
生産技術と行政技術が、
一つの場所で結びつく。
十九 文字は、ここでも「組織の記憶」を作る
一人の親方が、
すべてを覚えている。
その段階から、
人名。
材料。
数量。
仕事。
を記録する。
すると、
情報が、
一人の頭の中だけに存在しなくなる。
技術組織が、
人間の記憶から、
記録を持つ組織
へ近づいていく。
二十 これは前方後円墳の時代とは違う形の政治力である
巨大墳墓では、
政治力が、
巨大な地形として見える。
工房では、
政治力が、
生産の仕組みとして見える。
こちらは、
一見すると、
巨大古墳ほど目立たない。
しかし、
毎日物を作り続ける能力は、
国家を維持する上で極めて重要である。
二十一 だから「巨大な遺跡が少なくなった=国家力が小さくなった」とは言えない
むしろ、
国家力が、
目立つ一つの巨大事業から、
複数の組織へ分散している可能性がある。
宮殿。
寺院。
城郭。
工房。
行政。
それぞれに、
人と余剰が投入される。
国家の力が、
一つの巨大モニュメントだけでは見えなくなる
のである。
二十二 ここで「墓から工房へ」という言葉の意味が見えてくる
墓を造っていた労働者が、
そのまま飛鳥池へ移動した、
という意味ではない。
古墳の資材が、
工房へ転用された、
という意味でもない。
本稿が見ているのは、
社会が持つ、
人を組織する力。
専門家を養う力。
材料を集める力。
物流を管理する力。
が、
別の国家目的へ現れるようになる
という長期的変化である。
二十三 巨大古墳は「政治秩序を見せる装置」だった可能性がある
一方、
国家工房は、
政治秩序を、
物質的に支える装置である。
王権が必要とするものを作る。
国家事業へ道具を供給する。
専門家を継続して働かせる。
ここでは、
権威を示すことより、
国家を実際に動かし続けること
の比重が大きくなる。
二十四 そして工房は「転換力」の集積地にもなる
外から技術を受け取る。
列島側の技術と組み合わせる。
新しい材料へ応用する。
別の用途へ使う。
さらに、
次の世代へ伝える。
受容。
伝承。
改良。
再利用。
それらが、
一つの生産組織の中で起こる可能性がある。
二十五 ここに、国家形成の新しい段階が見えてくる
人を集められる。
だけではない。
人を専門化できる。
技術を集められる。
だけではない。
技術を再生産できる。
余剰を集められる。
だけではない。
余剰から、
新しい製品と能力を生み出せる。
動員国家から、生産を組織する国家へ。
その変化が見え始める。
二十六 しかし、生産するだけでは国家は動かない
何を作るのか。
何個作るのか。
誰へ渡すのか。
どこへ運ぶのか。
どれだけ人がいるのか。
どこから物資を集めるのか。
こうしたことを把握する必要がある。
工房が大きくなるほど、
その背後には、
情報管理が必要になる。
二十七 ここで次の問題が現れる
前方後円墳の政治秩序は、
巨大な形によって、
人々の目に見えた。
しかし、
国家が複雑になるほど、
見えないものが重要になる。
記録。
数量。
人名。
土地。
物資。
命令。
つまり、
文書と行政
である。
二十八 国家力は、ついに「目に見えない仕組み」へ入っていく
巨大古墳なら、
千年以上たっても見える。
城壁も残る。
寺院跡も残る。
しかし、
国家を日々動かした記録や命令は、
それほど目立たない。
それでも、
広域国家を運営するには欠かせない。
次節では、
「墓から文書へ」
という視点から、
政治力が巨大な形だけではなく、
人・物・土地・情報を把握する仕組みへ、
どのように移っていったのかを見ていく。
第七節 「墓から文書へ」――国家力は「見える権威」から「見えない管理」へ入っていく
一 巨大古墳は、誰にでも見える政治であった
山のような墳丘。
大きさ。
形。
立地。
それを見るだけで、
そこに葬られた人物が、
大きな政治力を持っていたことは伝わる。
文字を読めなくても分かる。
巨大古墳は、
政治的序列を景観そのものによって示す装置
であったと考えることができる。
二 しかし国家が複雑になると、「見えること」だけでは統治できなくなる
人口が増える。
支配する地域が広がる。
官人が増える。
工人が増える。
物資の種類も増える。
兵を動かす。
城を造る。
寺院を造る。
政治中枢を維持する。
こうなると、
誰がどこにいるのか。
何がどこにあるのか。
を把握する必要が出てくる。
三 ここで政治力は、巨大な形から「情報」へ入っていく
何人いるのか。
どの土地があるのか。
どれだけ物資があるのか。
誰に何を渡したのか。
誰が仕事を担当したのか。
こうした情報を把握できなければ、
大きな組織は動かしにくい。
つまり、
国家形成とは、人と物を動かすだけでなく、人と物を知る仕組みを作ることでもある。
四 巨大古墳では、人を集める力がよく見える
何千人もの労働を集める。
食料を供給する。
土を運ばせる。
これには、
すでに相当な政治組織が必要だったはずである。
しかし、
その具体的な管理方法までは、
墳丘だけからは分からない。
考古学的に見えるのは、
最終的な巨大構造物である。
五 文書が増えると、その背後にあった管理そのものが少しずつ見える
人名を書く。
数量を書く。
物資を書く。
土地を書く。
命令を書く。
記録を残す。
ここでは、
国家が何を把握しようとしていたのかが、
直接的に見えるようになる。
政治力が、
巨大建造物から記録体系へも現れる
のである。
六 百済の木簡は、その前提を考える重要な資料である
百済の遺跡からは、
人口。
戸。
田地。
生産。
物資管理。
などに関係すると考えられる木簡が出土している。
個別木簡の読解には慎重さが必要だが、
百済国家が、
人や生産を文字によって把握する行政を持っていたことを考える材料になる。
七 ここで重要なのは「文字があった」ことではない
文字そのものは、
それ以前から東アジアで広く使われている。
重要なのは、
その文字が、
国家実務へ使われることである。
文学を書くためだけではない。
宗教経典を読むためだけでもない。
人口・土地・物資・命令を管理するために文字を使う。
ここで文字は、
国家技術になる。
八 文字を使えば、離れた場所を間接的に動かせる
王が、
すべての村へ行くことはできない。
中央の官人が、
すべての倉庫を直接見ることもできない。
しかし、
記録が送られてくる。
命令を書いて返す。
報告を受ける。
こうした仕組みが整えば、
人間がその場へ行かなくても、
政治を動かすことが可能になる。
九 これは「政治の距離」を伸ばす技術でもある
口頭命令は、
人から人へ伝える。
距離が長くなれば、
内容が変わる可能性もある。
記憶にも限界がある。
文字を使えば、
同じ情報を、
遠方まで運ぶことができる。
国家の広域化と、
文字行政が結びつく理由の一つがここにある。
十 さらに文字は「時間」も越える
口頭だけなら、
担当者が死ねば、
情報が失われることがある。
しかし、
記録が残れば、
次の担当者が読むことができる。
誰が何をしたのか。
どれだけ残っているのか。
何が決められたのか。
を引き継げる。
文字は、
政治の記憶を個人から組織へ移す。
十一 ここで「継承力」が一段強くなる
王が代わる。
官人が代わる。
工人の責任者が代わる。
それでも、
記録があれば、
前の仕事を引き継ぎやすい。
国家が、
一人の優れた人物の能力だけに依存しなくなる。
制度が、
人物より長く生きる可能性が高くなる。
十二 飛鳥池遺跡の木簡も、この変化を象徴している
飛鳥池遺跡からは、
工人名や、
生産管理に関係すると考えられる木簡が出土している。
ここでは、
文字が、
王の外交だけに使われているのではない。
工房という生産現場へ入っている。
つまり、
文字が生産を組織する道具にもなっている。
十三 これは非常に大きな変化である
名工が、
頭の中ですべてを管理する。
そこから、
誰が働くのか。
何を作るのか。
どの仕事を担当するのか。
を記録する。
すると、
生産は、
個人技能だけではなく、
組織によって管理されるようになる。
十四 国家が人材を持つとは「名前を知ること」でもある
どの工人が、
どの技能を持つのか。
誰がどこに配置されているのか。
誰に仕事を与えるのか。
これを把握できれば、
必要な人材を、
必要な場所へ動かせる。
つまり、
人材管理もまた、
国家力の一部になる。
十五 ここで前章の百済系人材の問題ともつながる
人が移住してくる。
それだけでは、
国家能力にはならない。
どこへ住まわせるのか。
誰をどこへ配置するのか。
どの技能を使うのか。
誰に役割を与えるのか。
を決める必要がある。
受け入れた人間を、
政治的・生産的組織へ組み込むには、
行政能力
が必要になる。
十六 つまり「人材を受け入れる力」と「人材を使う力」は違う
千人来た。
二千人来た。
それだけなら、
人口が増えたという話である。
しかし、
農業へ配置する。
工房へ配置する。
築城へ使う。
官人として働かせる。
ここまで進んで初めて、
移住人口が、
国家の能力へ変わる。
十七 同じことは物資にも言える
米がある。
布がある。
鉄がある。
木材がある。
しかし、
どこにどれだけあるか分からない。
では、
大規模事業へ使いにくい。
物資を集める力に加えて、
物資を把握する力
が必要になる。
十八 ここで余剰力と行政が結びつく
余剰が百ある。
しかし、
その存在を把握できない。
必要な場所へ動かせない。
では、
国家の力になりにくい。
余剰力とは、
単に多く生産することだけではない。
政治的に利用するためには、
把握。
集積。
配分。
が必要になる。
十九 したがって「豊かな社会」と「国家的に使える社会」は同じではない
各地域が豊かである。
それだけでは、
中央王権が、
その資源を使えるとは限らない。
国家形成が進むということは、
地域社会に存在する人・物・技術を、
より広い政治目的へ接続する仕組みが整っていくことでもある。
二十 七~八世紀になると、その仕組みはさらに明確になる
律令国家形成が進む中で、
戸籍。
計帳。
官道。
駅制。
都城。
官衙。
といった制度や施設が整えられていく。
ここでは、
政治は、
巨大な墓を造ることで示すだけではない。
人と土地と物資を、
継続的に把握し、動かすこと
へ深く入っていく。
二十一 ただし、これを三世紀から一直線に発達したと考えてはいけない
纒向の時代に、
七~八世紀の戸籍制度があったわけではない。
巨大古墳を造った組織が、
そのまま律令官僚制になった
と証明できるわけでもない。
数百年の間には、
政治的対立。
制度変更。
技術移転。
外交環境の変化。
がある。
二十二 それでも長期的に見ると「何を管理するか」が変わっている
古い段階では、
首長同士の関係。
儀礼。
贈与。
軍事。
墓制。
が強く見える。
後になるほど、
人。
土地。
物資。
生産。
役職。
まで、
政治が扱う対象として明確になっていく。
ここに、
首長関係をまとめる王権から、社会を管理する国家への変化
を見ることができる。
二十三 前方後円墳は、政治秩序を「見せる」ことに強かった
誰が大きな首長なのか。
どの地域が同じ秩序に属するのか。
それを、
巨大な形によって伝える。
一方、
文書行政は、
政治秩序を、
日々「動かす」ことに強い。
誰が何をするのか。
何をどこへ送るのか。
を管理する。
両者の役割は同じではない。
二十四 だから「墓から文書へ」は、権威が紙に置き換わったという意味ではない
墓制も続く。
儀礼も続く。
建築も続く。
国家は、
目に見える象徴を必要とする。
しかし、
それだけでは大きくなった社会を管理できない。
そこで、
目に見えない情報体系の比重が高まる。
政治力の一部が、景観から情報管理へ移る
のである。
二十五 これは国家力を考える上で、非常に重要な転換である
巨大古墳なら、
現代でも、
一目で大きさが分かる。
しかし、
百人の官人が、
毎日記録を作り、
物資を管理し、
命令を送り、
生産を調整していたとしても、
その力は景観では見えにくい。
つまり、
国家が制度化するほど、
国力の重要な部分が考古学的に目立たなくなる
ことがある。
二十六 ここで「巨大古墳が減ったから力が減った」という判断が、さらに危うくなる
墳丘は小さくなった。
しかし、
行政組織が広がる。
工房が動く。
城が維持される。
宮都が動く。
各地から物資が来る。
もしそうであるなら、
社会的能力は、
消えたのではなく、
より分散した制度の中へ入り込んでいる
可能性がある。
二十七 そして文書行政には、一回限りではない余剰が必要になる
官人を養う。
記録を作る。
役所を維持する。
情報を運ぶ。
人員を配置する。
これは、
巨大建設一回で終わらない。
政治が続く限り、
毎年必要になる。
ここでも、
国家力は、
一度の巨大動員から、
継続的な再生産
へ比重を移していく。
二十八 ここまで来ると、第十八章の中心問題が見えてくる
墓。
寺院。
宮都。
城。
工房。
文書行政。
一見すると、
別々のものに見える。
しかし、
すべてに共通するのは、
人。
物。
技術。
時間。
を、
社会が特定の目的へ振り向けていることである。
違うのは、
その使い方である。
二十九 次に問うべきは「一回使った余剰を、もう一度作り直せたのか」である
巨大古墳を一基造る。
それは大きな力である。
しかし、
国家を続けるには、
翌年も、
その翌年も、
食料。
人材。
工人。
行政。
軍事。
を支えなければならない。
つまり、
国家形成の核心は、
余剰を集めることだけではない。
余剰を再び生み出せる仕組みを作ること
にある。
三十 次節では「一回限りの余剰」から「再生産される余剰」へ進む
墓を造って終わるのではない。
寺院を維持する。
宮都を動かす。
城を守る。
工房で作り続ける。
行政を毎年動かす。
ここに、
古墳時代から国家形成期へ向かう、
もう一つの大きな変化が見えてくる。
次節では、
「一度集めた力を、どう次の力へ変えたのか」
という問いから、
余剰が消費されるだけでなく、
再び余剰を生み出す循環へ入っていく過程を考える。
第八節 「一度集めた力を、どう次の力へ変えたのか」――一回限りの余剰から再生産される余剰へ
一 巨大な力を一度出せることと、その力を繰り返し出せることは違う
巨大古墳を造る。
大軍を海の向こうへ送る。
巨大な城を築く。
どれも、
大きな社会的能力を必要とする。
しかし、
国家が長く続くためには、
一度だけ大きな力を出せればよいわけではない。
問われるのは、
使った後に、もう一度力を作れるか
である。
二 ここで「余剰力」を、蓄えられた量だけで考えてはいけない
大量の食料がある。
多くの人口がいる。
鉄がある。
木材がある。
船がある。
それは重要である。
しかし、
一度使ってなくなれば、
そこで終わる。
長期的な国家力を見るなら、
余剰を何度作り直せるか
を見る必要がある。
三 一度の豊作だけでは国家は続かない
ある年、
大量に米が取れた。
その米で、
大きな工事を行うことはできるかもしれない。
しかし、
翌年も必要である。
その翌年も必要である。
工人を養う。
官人を養う。
兵を養う。
施設を維持する。
継続する国家には、
毎年生産が続くこと
が必要になる。
四 つまり余剰の基礎は、やはり日常の生産にある
巨大古墳。
豪華な金属器。
城。
宮殿。
それだけを見ると、
支配者の力ばかりが目立つ。
しかし、
その背後には、
田を耕す人。
木を伐る人。
鉄を作る人。
物を運ぶ人。
がいる。
国家の巨大事業は、
日常的な生産活動の上に成立する。
五 ここで「消費」と「再生産」を分けて考える
食料を食べる。
木材を使う。
鉄を使う。
人を工事へ動員する。
これは、
余剰の消費である。
しかし、
その過程で、
新しい道具。
新しい施設。
新しい技術。
新しい組織。
が生まれれば、
使った余剰の一部が、
次の生産を支える能力
へ変わる可能性がある。
六 たとえば工人を養うことは、単なる消費とは限らない
食料を与える。
住居を用意する。
材料を与える。
その結果、
工人が、
道具を作る。
建物を造る。
別の工人を育てる。
ならば、
投入した余剰が、
別の能力へ変換されている。
ここに、
余剰の循環が生まれる。
七 重要なのは「使ったものが、次に何を生むか」である
巨大墓へ使う。
城へ使う。
寺院へ使う。
工房へ使う。
同じ余剰でも、
投じる先によって、
その後に残るものが違う。
景観が残るのか。
防衛能力が残るのか。
技術者が育つのか。
行政組織が残るのか。
八 したがって「余剰を使った」という事実だけでは、国家形成を説明できない
何に使ったのか。
その結果、
何が残ったのか。
残ったものが、
次の生産や統治に使われたのか。
ここまで見なければならない。
本稿が重視するのは、
余剰の量だけでなく、余剰の使われ方
である。
九 前方後円墳にも、再生産につながる側面はあった可能性がある
巨大古墳は、
直接、
農産物を生む施設ではない。
しかし、
多数の人間を組織する。
土木技術を蓄積する。
物流を経験する。
首長間関係を確認する。
政治秩序を可視化する。
という機能を持っていた可能性がある。
その意味では、
完全な「消費」だけで見ることもできない。
十 問題は、その経験が次の社会活動へ接続されたかである
巨大事業で得た、
土木経験。
組織経験。
物流経験。
専門技術。
これらが、
次の事業でも利用される。
そうなれば、
一回の事業が、
次の能力を生む。
社会は、
毎回ゼロから始めなくてもよくなる。
十一 ここに「継承力」が働く
ある王の時代に、
大きな事業ができた。
しかし、
次の王になると、
すべて失われる。
これでは、
蓄積にならない。
組織。
役割。
技術。
記録。
を次代へ残せれば、
前の時代に使った余剰が、
次代の出発点
になる。
十二 さらに「伝承力」が必要になる
技術者が死ねば、
技術も消える。
これでは、
次の事業へつながらない。
弟子を育てる。
工房を維持する。
工程を共有する。
技術を人から人へ渡す。
ここで、
一人の経験が、
社会の経験へ変わっていく。
十三 そして「転換力」が加わる
以前と同じものを、
永遠に作り続ける必要はない。
築城技術を、
別の地域へ応用する。
外来技術を、
列島の材料へ合わせる。
工人の技能を、
新しい国家需要へ使う。
受け継いだ能力を、
別の目的へ組み替える。
これができれば、
蓄積は時代の変化に対応できる。
十四 この三つがなければ、余剰は蓄積になりにくい
継承できない。
伝承できない。
転換できない。
ならば、
毎世代、
同じものを一から集め直すことになる。
反対に、
制度が残る。
技能が残る。
用途を変えられる。
ならば、
前の世代の成果を、
次の世代が利用できる。
十五 だから余剰力は「原因」であると同時に「結果」でもある
最初に余剰がある。
その余剰で、
工人を養う。
工人が、
よりよい道具や施設を作る。
それによって、
生産や物流が改善されることがある。
すると、
新しい余剰が生まれる可能性がある。
つまり、
余剰は、
一方通行ではない。
十六 ただし、これは自動的に発展する循環ではない
新しい技術を導入した。
だから、
必ず生産力が上がる。
とは言えない。
材料が足りない。
需要がない。
戦争で人を失う。
制度が崩れる。
技術者が途絶える。
そうなれば、
循環は途中で止まる。
十七 むしろ歴史では「循環が止まる条件」も見なければならない
戦争。
飢饉。
政治争い。
交易路の断絶。
人口減少。
技術者の喪失。
こうした出来事は、
翌年の生産に必要な条件を壊す。
国家が崩壊するとは、
人や物が完全になくなることではなく、
人・物・技術・政治を再び組み合わせる回路が壊れること
でもある。
十八 百済復興戦争は、その難しさを示した
六六〇年に、
百済中央王朝が崩壊する。
その後も、
復興勢力は活動を続けた。
倭からの支援もあった。
つまり、
兵。
拠点。
食料。
政治的意思。
の一部は残っていた。
それでも、
最終的に復興国家を維持することはできなかった。
十九 ここでは「資源が存在する」ことと「国家を再生産できる」ことの違いが見える
人がいる。
城がある。
武器がある。
だけでは足りない。
指揮系統。
補給。
政治的統合。
外交関係。
を維持しなければならない。
国家とは、
資源の集積ではなく、
資源を繰り返し結びつける仕組み
でもある。
二十 白村江後の倭は、別の意味で再生産力を示した
六六三年に敗れる。
しかし、
翌年には水城。
その後には山城。
人材の受け入れ。
国内防衛。
へ進む。
ここで重要なのは、
一度使った国家力を、
同じ用途へ戻したことではない。
別の用途へ組み直した
ことである。
二十一 つまり「再生産」とは、同じものをもう一度作ることだけではない
もう一度、
同じ軍隊を送る。
同じ古墳を造る。
同じ制度を繰り返す。
それだけではない。
状況が変われば、
余剰の使い道も変える。
それでも、
社会を動かし続ける。
この柔軟性まで含めて、
長期的な国家能力を見る必要がある。
二十二 寺院も、この循環の中に置くことができる
寺院を造る。
そのために、
瓦技術が必要になる。
建築技術が必要になる。
金工が必要になる。
工人を養う。
すると、
技術者が育つ。
その技術が、
別の建築や生産へ利用される可能性が生まれる。
寺院造営も、
単なる一回の消費だけではない。
二十三 宮都も同じである
宮殿を造る。
しかし、
造って終わらない。
官人を養う。
物資を集める。
道を維持する。
工房を動かす。
政治を続ける。
ここでは、
余剰を毎年集め、
毎年配分する必要がある。
国家そのものが、
余剰循環を継続させる装置
へ近づく。
二十四 工房では、この循環がさらに分かりやすい
食料と材料を投入する。
工人が製品を作る。
製品が、
城。
宮殿。
寺院。
軍事。
へ使われる。
工人は、
次の工人を育てる。
投入した余剰が、
次の国家活動に必要な能力へ変わる。
ここでは、
余剰が何度も姿を変える。
二十五 文書行政も「生産しない人を養うだけ」とは言えない
官人は、
田を耕していないかもしれない。
しかし、
人を把握する。
物資を把握する。
命令を伝える。
生産を調整する。
それによって、
国家が人と物を、
より計画的に使えるようになる。
行政もまた、
余剰を消費しながら、
余剰を動かす能力
を生み出している。
二十六 ここで巨大古墳との違いが、さらに明確になる
巨大古墳は、
余剰を大きく集められることを示す。
七世紀の国家施設群は、
余剰を、
複数の組織へ配り、
継続して使い、
次の能力へ変えることを要求する。
一方が単純で、
もう一方が高度という意味ではない。
政治社会が求める能力の種類が、
変わっているのである。
二十七 国家形成とは「大量に集める力」から「循環させる力」への拡張でもあった
集める。
使う。
残す。
教える。
作り替える。
もう一度生産する。
この循環が回れば、
余剰は一回限りの富ではなくなる。
次の余剰を生む基盤
になる。
二十八 だから本稿では、国家の厚みを「最大出力」だけでは見ない
最大の古墳。
最大の軍隊。
最大の城。
それだけではない。
敗戦後も動けるか。
王が替わっても制度が残るか。
技術者が死んでも技能が残るか。
外から来た技術を別の用途へ使えるか。
そして、
使った余剰を、
再び作れるか。
二十九 ここまで来ると、前方後円墳の終焉を「力の消滅」と見る必要はなくなる
むしろ、
問いは逆になる。
巨大墓へ集中していた政治的表現が弱まった後、
社会的能力は、
寺院。
宮都。
城郭。
工房。
行政。
へどのように分散し、
循環するようになったのか。
この視点から見れば、
前方後円墳の終焉は、
国家形成の終わりではない。
三十 次節では、この章全体の問いへ戻る
前方後円墳が消えた。
それは、
古墳時代の国家形成が失敗したからなのか。
それとも、
前方後円墳という政治装置を必要としない段階へ、
王権と社会が変化したからなのか。
次節では、
「前方後円墳の消滅は、国家形成の一部だったのか」
という問いから、
墓。
寺院。
宮都。
城。
工房。
文書行政。
を一つにつなぎ、
第十八章の結論へ進む。
第九節 「前方後円墳の消滅は、国家形成の一部だったのか」――墓を必要としない政治へ
一 ここまで追ってきたものを、もう一度並べてみたい
巨大古墳。
寺院。
宮都。
城郭。
工房。
文書行政。
形だけを見れば、
まったく別のものである。
しかし、
その背後には共通して、
人。
食料。
資材。
技術。
物流。
組織。
がある。
つまり、
社会が生み出した余剰を、特定の目的へ振り向ける力
がある。
二 前方後円墳の時代にも、その力はすでに存在していた
巨大な墳丘を造る。
地方にも同じ墓制が広がる。
多数の人間を動かす。
専門工人を使う。
長距離から物資を運ぶ。
これを可能にした社会は、
決して単純な社会ではない。
前方後円墳そのものが、
政治的組織力の存在を示す重要な資料である。
三 しかし前方後円墳は、国家そのものではない
前方後円墳がある。
だから、
律令国家が完成していた。
とはならない。
戸籍。
常設的行政組織。
統一的な法体系。
全国的な文書行政。
が三世紀から完成していたわけではない。
前方後円墳は、
国家形成のある段階で機能した政治装置
として考える方がよい。
四 では、その政治装置は何をしていたのか
王や首長の権威を示す。
地域間の序列を示す。
葬送儀礼を共有する。
首長同士の関係を確認する。
広域政治秩序への参加を可視化する。
文字行政が十分に発達していない段階で、
巨大な墓そのものが、
政治的意味を伝えていた可能性がある。
五 だから前方後円墳は、単なる墓では説明しきれない
死者を葬るだけなら、
必ずしも、
あれほど巨大である必要はない。
同じ墳形が、
広い地域へ展開する必要もない。
その形と規模が、
社会的な意味を持っていたからこそ、
多くの地域社会が、
その墓制へ参加したと考えられる。
六 しかし政治制度が変われば、同じ装置を永遠に使う必要はなくなる
官位で地位を示せる。
役職で政治的位置を示せる。
文書で命令できる。
宮廷へ出仕する。
地域を行政的に組織する。
こうした制度が整えば、
政治的序列を示す方法は、
墓以外にも増えていく。
七 ここに前方後円墳の終焉を考える重要な視点がある
前方後円墳が、
造れなくなったのか。
それとも、
造る必要が弱くなったのか。
この二つは、
まったく違う。
後の大規模事業を見る限り、
土木能力そのものが消えた
とは考えにくい。
八 むしろ国家は、より多くの仕事を抱えるようになる
寺院を造る。
宮殿を造る。
城を造る。
工房を動かす。
外交する。
軍事組織を維持する。
官人を養う。
情報を管理する。
王権が使う余剰の対象が、
一つの巨大墓だけではなく、
多方向へ広がっていく。
九 これは余剰の「分散」でもある
巨大古墳なら、
一か所へ大量の人と物が集まる。
国家施設が増えれば、
人と物は、
複数の場所へ配分される。
墓だけを見ると、
国家力が小さくなったように見える。
しかし、
実際には、
力が複数の施設へ分かれて見えにくくなった
可能性がある。
十 さらに、国家力の一部は「形を持たないもの」へ移っていく
記録。
官職。
命令。
人員配置。
土地把握。
物資管理。
これらは、
巨大古墳のように、
一目で見えるものではない。
しかし、
国家を動かすには欠かせない。
国家形成が進むほど、
政治力の一部は、
景観から制度へ
移っていく。
十一 ここで「巨大さ」を国力の唯一の尺度にできなくなる
三百メートルの墓を造った。
だから強い。
百メートルの墓しか造らない。
だから弱い。
とは言えない。
後の国家では、
一基の墓の大きさより、
複数の事業を、
同時に、
継続して動かす能力が重要になる。
十二 前方後円墳は「集中する政治」に向いた装置だった可能性がある
一人の王。
一人の首長。
一度の葬送。
一つの巨大墳丘。
そこへ、
人と物を集中する。
この集中力は、
初期王権の成立過程で、
大きな政治的意味を持ったと考えられる。
十三 しかし国家制度が進むと「配分する政治」が必要になる
城へ人を送る。
宮都へ物資を送る。
工房へ材料を送る。
寺院へ資源を送る。
地方へ官人を送る。
軍事拠点へ兵と食料を送る。
つまり、
国家は、
集めるだけではなく、
必要な場所へ分ける能力
を持たなければならない。
十四 ここで国家力は「一点の巨大さ」から「ネットワークの厚さ」へ変わっていく
大きな墓が一つある。
それだけではなく、
複数の施設が、
道路。
水路。
海路。
行政。
物流。
で結ばれる。
それぞれが機能し、
互いに支え合う。
国家の力が、
点ではなく、
網の目として現れる
ようになる。
十五 この変化は、王権の姿そのものも変える
巨大古墳の王は、
死後にも巨大な墓によって権威を示す。
制度国家の王は、
生前から、
官人。
軍事。
行政。
儀礼。
外交。
を動かす。
王の力が、
巨大墳墓という一つの象徴から、
国家組織全体へ分散していく。
十六 つまり王権そのものが「個人」から「制度」へ近づいていく
優れた王が死んでも、
次の王が政治を続ける。
官人も残る。
役所も残る。
工房も残る。
記録も残る。
これができれば、
王権は、
特定の人物の能力だけに依存しなくなる。
前章で見た、
継承力
がここで重要になる。
十七 前方後円墳も、ある段階では継承装置だった可能性がある
王が死ぬ。
墓が残る。
次の王も、
同じ政治的墓制を使う。
地方首長も、
同じ秩序へ参加する。
墓を通して、
「この秩序は続いている」
ことを示す。
その意味では、
前方後円墳も、
王権を世代へつなぐ一つの方法だったと考えられる。
十八 ところが後には、継承を支える装置が増える
文書。
官職。
宮廷。
行政組織。
宗教施設。
工房。
これらが、
王や担当者が変わっても、
一定の機能を残す。
すると、
王権の継承を、
巨大墳墓だけに託す必要は弱くなる。
十九 ここで前方後円墳の消滅を「国家形成の失敗」と読む必要はなくなる
むしろ、
前方後円墳によって表されていた政治秩序が、
別の仕組みへ移っていった可能性がある。
墓が消える。
しかし、
王権は消えない。
地方社会も消えない。
大規模動員も消えない。
むしろ、
国家的制度は、
さらに複雑になる。
二十 ただし「国家が完成したから前方後円墳が不要になった」と断定することもできない
墓制変化には、
複数の要因がある。
仏教。
葬送観念。
王権内部の変化。
地方首長層の再編。
政治的身分表現の変化。
地域差。
それらを無視して、
一つの原因へ還元してはいけない。
二十一 本稿が示すのは「成立可能な構造」である
前方後円墳が持っていた、
政治的可視化。
首長関係の表現。
大規模動員。
という役割の一部が、
後の制度へ置き換えられていく。
その結果として、
前方後円墳を必要とする政治条件が弱まった。
これは、
考え得る重要な構造の一つである。
二十二 そして白村江は、その長期変化の中に入る
巨大前方後円墳の縮小は、
六六三年より前から進んでいる。
だから、
白村江敗戦が、
前方後円墳を終わらせたわけではない。
しかし白村江後、
防衛。
築城。
人材再配置。
行政。
への需要が強くなる。
すでに進んでいた国家再編に、
新しい軍事的緊張が重なった
と見ることができる。
二十三 つまり六~七世紀は「墓の時代が突然終わり、国家の時代が始まった」のではない
長い重なりがある。
墓もある。
寺院も現れる。
宮殿もある。
新しい築城も始まる。
文字行政も拡大する。
複数の政治技術が、
同時に存在しながら、
少しずつ重心が変わっていく。
二十四 この「重心の移動」が重要である
首長墓へ大きく表れた政治力。
それが、
寺院。
宮都。
城郭。
工房。
文書行政。
へ、
より多く現れるようになる。
この変化を、
本稿では、
「墓から国家施設へ」
という視点で捉えてきた。
二十五 しかし本当に移ったのは「土」ではない
古墳の土が、
城へ運ばれたのではない。
古墳の建設費が、
そのまま官僚制へ回ったのでもない。
移ったと考えるべきなのは、
より抽象的な社会能力である。
人を集める力。
余剰を集める力。
技術者を養う力。
物流を組織する力。
地域社会を政治目的へ接続する力。
二十六 そして、その能力は新しい形へ変換される
墓を築く。
船を出す。
兵を送る。
城を築く。
寺を造る。
工房を動かす。
官人を養う。
同じものを繰り返しているのではない。
社会が持つ能力を、その時代の必要へ合わせて使い替えている。
二十七 これが本稿でいう「転換力」である
受け取った技術を、
別の用途へ使う。
蓄積した組織力を、
別の事業へ使う。
政治環境が変われば、
国家の力の向きも変える。
長期的に残る社会とは、
過去の形をそのまま保存する社会ではない。
必要に応じて、
能力を作り替えられる社会
でもある。
二十八 前方後円墳が消えた後に残ったものを見ると、その意味が見えてくる
海を渡る技術。
地域間物流。
鉄。
木工。
土木。
工人。
農業生産。
首長間関係。
王権。
これらは、
前方後円墳とともに消えたわけではない。
新しい国家秩序の中へ、
形を変えながら組み込まれていく。
二十九 だから前方後円墳の終焉は、単なる「終わり」ではない
一つの政治表現が、
歴史的役割を終える。
その一方で、
その背後に蓄積された社会能力は、
別の仕組みへ受け継がれていく。
そう考えれば、
前方後円墳の消滅は、
古墳時代の終末であると同時に、
国家形成の新しい段階への移行
としても読むことができる。
三十 そして、ここで本書最大の問いへ戻る
そもそも、
前方後円墳とは何だったのか。
単なる王墓だったのか。
大和王権の支配標識だったのか。
首長連合の象徴だったのか。
広域政治秩序への参加を示す墓制だったのか。
おそらく、
一つだけでは説明できない。
三十一 第一部では、国家より先に海があった
縄文時代から、
列島と半島南部を結ぶ人々がいた。
弥生時代には、
交易と滞在が重なった。
海を利用する社会的能力が、
国家以前から蓄積されていた。
三十二 第二部では、その蓄積を国家が取り込む過程を見た
鉄。
馬。
土器。
農業。
文字。
建築。
外から入った技術も、
列島側に存在した技術も、
政治社会の中で組み合わされていった。
国家は、
文化をゼロから作ったのではない。
三十三 第三部では、それが政治力へ変わる過程を追った
地域首長。
纒向。
王権。
前方後円墳。
海外外交。
海外軍事。
そして、
半島南西部に現れる前方後円墳。
海を越えていた社会が、
やがて、
海を政治へ利用する社会へ変わっていった。
三十四 第四部では、その秩序が崩れた後を追った
加耶が消える。
百済が滅びる。
白村江で敗れる。
しかし、
人は消えない。
技術も、
知識も、
社会的能力も、
すべてが同時に失われるわけではない。
一部は残り、
一部は移り、
一部は新しい国家へ組み込まれた。
三十五 そして前方後円墳そのものも、同じ視点で見ることができる
墓制は終わる。
しかし、
墓を築けた社会的能力は、
別の場所へ現れる。
ここまで追ってきた長い流れを踏まえれば、
前方後円墳を、
単独の考古学的造形として見るだけでは足りない。
三十六 次章では、いよいよその答えをまとめる
縄文の海から始まり、
弥生の交易。
地域首長。
王権。
纒向。
巨大古墳。
倭王。
半島外交。
白村江。
国家施設。
までを、
一つの流れとしてつなぎ直す。
そして最後に問う。
前方後円墳とは、国家形成の歴史の中で何を担った政治装置だったのか。
次章では、
この問いに、
本書全体の結論を出していく。
第十九章 「前方後円墳とは何だったのか」――海から始まった国家形成の結論
第一節 「墓より先に、海があった」――前方後円墳から縄文へ戻る
一 本書の出発点は、朝鮮半島南西部にある前方後円墳だった
なぜ、
列島で広く築かれた特徴的な墳墓形式が、
海の向こうにも存在するのか。
倭から渡った人物が葬られたのか。
在地首長が採用したのか。
倭王権との政治関係を示すのか。
百済を含む半島側の政治事情の中で選択されたのか。
最初の問いは、
墓であった。
二 しかし墓だけを見ていても、答えには届かなかった
五~六世紀の前方後円墳だけを比較しても、
その前に、
もっと大きな問題が残る。
なぜ、
列島と半島南部の間に、
墓制を選択できるほど深い関係が存在したのか。
そもそも、
人々はいつから、
この海を往来していたのか。
三 そこで時間を遡る必要が生じた
六世紀から五世紀へ。
五世紀から四世紀へ。
四世紀から三世紀へ。
弥生時代へ。
さらに、
縄文時代へ。
すると、
前方後円墳よりはるか以前から、
列島と半島南部の間に、
人と物の移動が存在していたことが見えてくる。
四 つまり、墓より先に海があった
国家より先に、
航路があった。
王権より先に、
船を操る人々がいた。
百済。
新羅。
加耶。
倭。
という政治体が成立する以前から、
海峡を越えて往来する地域社会が存在していた。
ここが、
本書全体を読み解く最初の地点である。
五 この時代へ現代の国境を持ち込むことはできない
「日本人が朝鮮へ渡った」
「韓国人が日本へ渡った」
という表現だけでは、
縄文・新石器時代の社会を正確には捉えられない。
そこに現在の国民国家は存在しない。
存在したのは、
それぞれ異なる地域社会と、
それらを結ぶ海である。
六 しかも、海は境界であると同時に交通路でもあった
現代の地図では、
海に国境線が引かれている。
しかし古代の海を考える時、
海を隔てるものとしてだけ見ると、
重要なものを見失う。
北部九州。
壱岐。
対馬。
半島南岸。
これらを船で結べば、
海は、
地域社会を分断する空間であると同時に、
地域社会を結ぶ道
でもある。
七 考古資料が示すのは、単発の一航海ではない
縄文系土器。
黒曜石。
貝製品。
漁撈具。
それぞれの資料には、
成立時期や移動方向について個別の検討が必要である。
一つの遺物だけで、
集団移住や政治支配を証明することはできない。
しかし、
異なる種類の資料を重ねると、
海峡を越えた接触が、
一回限りの偶然では説明しにくくなる。
八 ここで重要なのは「何が動いたか」だけではない
土器が動いた。
石材が動いた。
貝製品が動いた。
それだけなら、
物の移動である。
しかし、
物は自分では海を渡らない。
運ぶ人がいる。
船がいる。
航海知識がいる。
出発する場所がある。
到着する場所がある。
九 一つの遺物の後ろには、社会がある
黒曜石一個が、
海峡を越えている。
その背後には、
採取する人。
加工する人。
運ぶ人。
交換する人。
船を作る人。
航海する人。
がいる可能性がある。
考古資料を見る時、
物だけを追うのではなく、
その物を動かした社会的能力
を見る必要がある。
十 海を一度渡ることと、海を使い続けることも違う
漂流。
偶然の航海。
一度限りの探索。
そうしたことは、
国家がなくても起こり得る。
しかし、
何世代にもわたり、
同じ海域で、
物と人の移動が繰り返されるなら、
そこには別の条件が必要になる。
十一 船を作り続けなければならない
木を選ぶ。
切る。
削る。
組み合わせる。
修理する。
櫂やその他の道具を作る。
船そのものにも、
木工技術の蓄積が必要になる。
一度船ができれば終わりではない。
海を使う社会とは、
船を再生産できる社会
でもある。
十二 航海する人も育てなければならない
潮を読む。
風を見る。
季節を知る。
島影を読む。
沿岸地形を覚える。
安全な寄港地を知る。
危険な海域を知る。
こうした知識は、
地図一枚だけでは成立しない。
経験が、
人から人へ渡される必要がある。
十三 ここには、すでに「伝承力」が存在する
後の工人社会で見たものと、
規模も制度も同じではない。
しかし、
船を作る技術。
海を渡る知識。
漁撈技術。
を次世代へ伝えなければ、
海上交通は続かない。
国家以前にも、
社会は技術を伝承していた。
十四 さらに、航海する人を社会が支えなければならない
船に乗っている間、
その人は田を耕せない。
山で食料を採れない。
遠距離航海なら、
食料と水も必要になる。
交換する品も必要になる。
つまり、
海上交通が継続するには、
航海者以外の人々も、
その活動を支えなければならない。
十五 ここで「余剰力」という本書の分析軸が現れる
本書でいう余剰力とは、
単に、
食料が余っているという意味ではない。
生存に必要な最低限を超えて、
人。
時間。
物資。
を、
別の活動へ振り向けることのできる社会的能力である。
遠距離航海も、
その使い道の一つである。
十六 つまり、国家以前にも「余剰を動かす社会」があった
王はいないかもしれない。
役所もない。
税制もない。
しかし、
船を作る。
航海する。
交易する。
漁撈する。
一定の専門性を持つ人々を支える。
その程度の余力は、
すでに存在していた可能性がある。
十七 ただし、ここから直ちに首長や王を遡らせてはいけない
縄文時代の海上交流がある。
だから、
後の倭王権につながる王が、
すでに存在した。
とは言えない。
航海能力と、
王権成立の間には、
長い時間がある。
政治組織の形も変化する。
ここで確認できるのは、
国家以前にも広域交流を支える社会的能力が存在した
ということまでである。
十八 この区別は、本書全体で重要である
海上交流があること。
文化的接触があること。
人が滞在すること。
政治的支配があること。
国家があること。
これらは、
同じではない。
一つの資料から、
そのすべてを結論づけることはできない。
十九 しかし逆に「国家がないから高度な交流もなかった」と考える必要もない
国家は、
社会活動の最初に現れるとは限らない。
交易。
技術。
婚姻。
移動。
漁撈。
地域間交流。
そうした活動が、
政治体より先に発達することは十分にあり得る。
国家は、
すでに動いている社会の上に成立する
のである。
二十 この順序を入れ替えると、古代史の見え方が変わる
百済ができた。
だから海上交流が始まった。
倭王権ができた。
だから半島へ渡った。
というだけではない。
その前から、
海を使う人々がいた。
地域社会が結ばれていた。
後の国家は、
その既存の航路と経験を、
利用できた可能性がある。
二十一 国家は、海をゼロから作ったのではない
海は、
もともとあった。
船も、
航海経験も、
地域間接触も、
すでに蓄積されていた。
国家が成立すると、
それを、
外交。
交易。
軍事。
へ利用するようになる。
ここに、
国家以前と国家以後の連続と断絶の両方がある。
二十二 連続しているのは「海を利用する能力」である
船を出す。
物を運ぶ。
人を運ぶ。
海峡を越える。
寄港地を利用する。
こうした能力には、
長い蓄積がある。
しかし、
その能力を誰が統制するのか。
何のために使うのか。
ここは、
時代によって変化する。
二十三 交易の船と軍船は、政治的には同じではない
物を交換するために海を渡る。
外交使節を運ぶ。
兵を運ぶ。
目的は違う。
必要な組織規模も違う。
したがって、
縄文時代の航海から、
白村江の大軍までを、
一本の直線として扱うことはできない。
二十四 しかし白村江の船団も、何もない海へ突然現れたわけではない
数百年。
さらにその前から、
列島社会は、
海を利用してきた。
その長期的な技術蓄積の上に、
より大きな船舶動員。
港湾利用。
兵站。
が成立する条件が形成されていったと考えることはできる。
ここでは、
技術の連続そのものより、海を利用する社会的能力の蓄積
を見るべきである。
二十五 この視点に立つと、朝鮮半島南西部の前方後円墳も突然の出来事ではなくなる
五~六世紀になって、
突然、
列島と半島が接触したのではない。
その背後には、
はるか以前から続く海域交流がある。
もちろん、
縄文時代の交流が、
そのまま半島前方後円墳を生んだわけではない。
政治状況は、
大きく変化している。
二十六 重要なのは「関係を持つための海」が、すでに使われ続けていたことである
政治体が変わる。
交易品も変わる。
船も変わる。
航海目的も変わる。
それでも、
列島西部と半島南部の間に、
海上交通が繰り返し成立する地理的条件そのものは残る。
後の国家は、
その海域を、
新しい政治目的へ利用した。
二十七 だから本書の歴史は、墓から始まったが、海へ戻ることになった
前方後円墳を理解しようとした。
すると、
王権を見る必要が出た。
王権を見ると、
首長社会を見る必要が出た。
首長社会を見ると、
交易と余剰を見る必要が出た。
交易を追うと、
国家以前の海へ戻った。
二十八 そして、ここに本書第一の到達点がある
前方後円墳の歴史を、
三世紀中頃から突然始めるだけでは、
その背後にある社会を十分に説明できない。
その前には、
長く海を使ってきた人々がいる。
技術を蓄積した地域社会がある。
交換と移動がある。
つまり、
前方後円墳の前史には、国家以前の海域社会が存在した。
二十九 しかし海だけでは、前方後円墳は生まれない
海を渡れる社会は、
必ず王権を作るわけではない。
交易が盛んな社会が、
必ず巨大古墳を造るわけでもない。
次に必要なのは、
海域交流によって蓄積された、
人。
物。
技術。
余剰。
を、
誰が政治的に組織したのかという問いである。
三十 次節では「海を渡る社会」から「技術を蓄積する社会」へ進む
縄文から弥生へ。
交流はさらに複雑になる。
農業。
鉄。
土器。
交易。
滞在。
人の移動。
国家成立以前の社会に、
後の王権が利用することになる能力が、
少しずつ積み重なっていく。
次節では、
「国家より先に蓄積されたものは何だったのか」
という問いから、
海域交流が、
どのように技術と余剰の蓄積へつながっていったのかを整理していく。
第二節 「国家より先に蓄積されたものは何だったのか」――弥生の交易と滞在が残したもの
一 縄文の海を越えたあと、弥生時代になると交流の性格がさらに複雑になる
水田稲作が広がる。
鉄器が使われる。
地域間交易が活発になる。
集落規模が変化する。
社会内部の階層差も、
次第に見えやすくなる。
そして、
列島と半島南部を結ぶ海上交通も、
この変化の中へ組み込まれていく。
二 ただし「稲作が半島から伝わった」という話だけで、弥生の海を説明してはいけない
初期水田農耕の伝播方向を考える問題と、
その後数百年間に続いた海上交流は、
分けて考える必要がある。
ある技術が最初にどちらから伝わったか。
その後、
人と物がどちらへ動いたか。
これは同じ問いではない。
三 一度技術が伝われば、交流は一方向ではなくなる
列島側でも、
農業生産が発達する。
人口が増える。
地域ごとの生産物が生まれる。
鉄を求める。
海産物を運ぶ。
工芸品を交換する。
すると、
海上交通は、
「大陸から列島へ文化が来る道」
だけではなくなる。
四 物は、双方向へ動き始める
半島側から列島へ来るものがある。
列島側から半島へ渡るものもある。
さらに、
対馬や壱岐などの海峡地域を経由するものもある。
一度別の地域へ運ばれ、
そこから再び別の場所へ動く可能性もある。
つまり、
海域交流は、
単純な二地点間の直線ではない。
五 ここで「出土した場所」と「作られた場所」も分ける必要がある
ある土器が、
半島南部から出土した。
だから、
そこに列島出身者が住んでいた。
とは直ちに言えない。
交易品として運ばれた可能性がある。
容器として使われた可能性もある。
途中の地域を経由した可能性もある。
六 一つの遺物だけで、人間集団の移住までは証明できない
一個の土器。
一個の石器。
一個の装身具。
それだけなら、
物の移動として説明できる。
そこで重要になるのは、
資料の組み合わせである。
七 同じ種類の資料が複数出る
さらに、
日常的な土器が出る。
漁撈具が出る。
生活に使った痕跡がある。
現地の材料を使いながら、
列島系の製作技法を示すものがある。
こうして証拠が重なるほど、
単純な交易だけでは説明しにくくなる。
八 ここで初めて「人が滞在した可能性」を考えることができる
物だけが運ばれたのか。
物を持った人も来たのか。
短期間だけ滞在したのか。
季節ごとに繰り返し訪れたのか。
長期に住んだのか。
考古資料から問うべきなのは、
この段階差である。
九 「いたか、いなかったか」という二択だけでは足りない
一泊する。
数週間滞在する。
漁の季節だけ来る。
交易のため繰り返し来る。
数年住む。
さらに長期定住する。
人間の移動には、
さまざまな形がある。
古代の海域社会も、
一種類の移住だけで説明する必要はない。
十 むしろ「行き来しながら生きる人々」を考えた方がよい場合がある
港と港を往復する。
漁場を利用する。
交易相手の地域へ一定期間滞在する。
現地で必要なものを作る。
再び帰る。
そうした生活が繰り返されれば、
現代的な意味での移民とも旅行者とも違う、
海域を生活圏とする人々
が存在した可能性がある。
十一 ここで現地生産の問題が重要になる
列島系の形を持つ土器がある。
しかも、
原料が現地のものである。
もしそのような事例が確認されれば、
完成品を持ち込んだだけでは説明できない。
誰かが、
その場所で、
その作り方を知っていたことになる。
十二 ただし、それでも作った人の出自までは自動的に決まらない
列島から来た工人が作ったのか。
現地の人が技法を学んだのか。
両者が一緒に作ったのか。
考古資料だけから、
必ず一つに決められるとは限らない。
技術の系譜と、
人間の出自は、
別に検討しなければならない。
十三 ここに「技術は人とともに動くが、人だけに属するものではない」という問題が現れる
最初は、
技術を知る人が移動する。
しかし、
教える。
見て覚える。
一緒に作る。
となれば、
技術は、
別の地域社会へ移る。
そこで、
もとの担い手がいなくなった後も、
技術だけが残ることがある。
十四 これは後の百済系築城技術や瓦技術と、構造的には同じ問題である
もちろん、
時代も技術内容も違う。
しかし、
技術移転を見る方法は共通する。
誰が最初に持ってきたか。
だけではなく、
誰が覚えたか。
どこで作り続けられたか。
どのように変化したか。
まで見なければならない。
十五 弥生時代の海域交流は、こうした技術移動の基盤を広げた
農業。
漁撈。
土器。
木工。
金属器。
航海。
それぞれの技術が、
地域ごとに異なる形で蓄積される。
そして、
海を通じて、
別の地域の技術と接触する。
十六 特に鉄は、弥生社会を考える上で大きい
列島側では、
鉄素材や鉄製品の入手が、
長く半島との関係に結びついていた。
鉄は、
武器だけではない。
農具。
木工具。
加工道具。
としても使える。
つまり、
鉄を確保することは、
生産能力そのものへ関わる。
十七 すると海上交易は「珍しい品物を交換する活動」だけではなくなる
生活や生産に必要な資源を、
外部から得る。
そのために、
航路を維持する。
交換相手との関係を保つ。
船を用意する。
交換品を準備する。
海上交易が、
地域社会の生産構造そのものへ入り込んでいく。
十八 ここで交易は、政治とも無関係ではいられなくなる
価値の高い物資が動く。
航路がある。
港がある。
交換相手がいる。
すると、
誰がそれを管理するのか。
誰が利益を得るのか。
誰が安全を確保するのか。
という問題が生じる。
十九 しかし、ここでもすぐ王権へ飛んではいけない
交易がある。
だから王が管理していた。
とは限らない。
集落単位。
地域集団。
複数の有力者。
交易を担う専門的な人々。
さまざまな形が考えられる。
国家形成以前の社会を、
後世の国家制度へ当てはめないことが重要である。
二十 それでも、交流が大きくなるほど「調整」は必要になる
誰が船を出すのか。
誰が交換品を用意するのか。
誰が港を使うのか。
誰が外部の人々を受け入れるのか。
誰が争いを調整するのか。
活動規模が大きくなるほど、
社会内部の調整能力も問われる。
二十一 ここで「余剰力」が再び重要になる
交易へ出す物がある。
航海者を養える。
船を作れる。
専門的な技術者を支えられる。
外部から来た人々を、
一定期間受け入れられる。
こうしたことが可能になるには、
社会に余力が必要である。
二十二 そして交易は、その余剰をさらに増やす可能性を持つ
地域にないものを得る。
新しい道具を得る。
新しい技術を知る。
生産効率が変わる。
交換できる品が増える。
すると、
また交易が増える可能性がある。
ここに、
余剰と交流が互いを拡大する循環
が生まれる。
二十三 ただし、この循環はすべての地域で同じように進んだわけではない
港に近い地域。
内陸地域。
農業生産の高い地域。
海産資源の豊かな地域。
鉄へのアクセスを持つ地域。
条件は異なる。
だからこそ、
地域差が生まれる。
二十四 地域差が生まれれば、政治力の差も生まれる可能性がある
人が集まる地域。
物が集まる地域。
航路を押さえる地域。
農業余剰を持つ地域。
それぞれが、
同じ力を持つとは限らない。
交易と生産の違いは、
やがて、
首長層の形成を考える材料にもなる。
二十五 ここで重要なのは、国家成立前にすでに「使えるもの」が蓄積されていたことである
航路。
船。
木工。
農業。
鉄利用。
交換関係。
地域間の人間関係。
外部と接触する経験。
こうしたものを、
後の国家が一から発明したわけではない。
二十六 国家が成立した時、そこにはすでに社会があった
人がいた。
生産があった。
技術があった。
海路があった。
地域間関係があった。
国家は、
空白地帯へ突然現れたのではない。
蓄積された社会的能力を取り込み、組み替えることで成立した。
二十七 この視点に立つと「渡来」という言葉の見え方も変わる
外から来た人が、
すべてを作った。
という話ではない。
逆に、
列島社会が外部と無関係に、
すべてを独自に作った。
という話でもない。
重要なのは、
外から来たものと、すでに存在したものが、どのように結びついたか
である。
二十八 弥生の海は、その「結びつく経験」を積み重ねた
異なる地域の人と会う。
物を交換する。
技法を知る。
必要なものを選ぶ。
現地の条件へ合わせる。
そうした経験が、
何世代にもわたって蓄積される。
国家成立以前から、
地域社会は、
外部を受け入れ、
使い直す経験を持っていた。
二十九 だから後の王権は、完全な無から海域外交を始めたのではない
すでに、
海を渡る人々がいた。
航路を知る人がいた。
港があった。
交換関係があった。
外部社会との接触経験があった。
王権は、
その既存能力を、
より大きな政治目的へ利用できた可能性がある。
三十 ここで、次の問いが生まれる
海はあった。
交易もあった。
技術も動いた。
余剰も蓄積された。
では、
その蓄積は、
どうやって政治力へ変わったのか。
なぜ、
交易社会の中から、
首長が現れ、
やがて王権へつながっていったのか。
次節では、
「技術と余剰は、いつ政治力へ変わったのか」
という問いから、
国家以前に蓄積された能力が、
首長社会を生み出す条件へどうつながったのかを考えていく。
第三節 「技術と余剰は、いつ政治力へ変わったのか」――海域社会から首長社会へ
一 技術があるだけでは、政治力にはならない
船を造れる。
鉄を使える。
農業生産が増える。
交易が広がる。
それだけで、
自動的に王や国家が生まれるわけではない。
技術とは、
あくまで可能性である。
重要なのは、
その可能性を、誰がどのように組織したのか
という問題である。
二 同じ技術を持っていても、社会の形は一つではない
複数の集落が、
それぞれ独立して交易することもできる。
共同体同士が、
対等な関係を保つこともできる。
有力者が現れることもある。
その有力者同士が競争することもある。
したがって、
農業。
鉄。
交易。
があるから、
必ず中央集権国家になる、
という直線的な歴史は描けない。
三 それでも、余剰が増えれば新しい選択肢が生まれる
毎日の食料生産だけで、
社会の全員が働かなければ生きられない状況では、
専門職を維持しにくい。
しかし、
生産力が上がる。
交易から利益を得る。
外部資源を確保する。
すると、
一部の人間を、
別の仕事へ振り向けられる。
四 そこで社会の中に、役割の違いが生まれやすくなる
農耕を担う人。
漁撈を担う人。
船を扱う人。
鉄を扱う人。
土器を作る人。
祭祀を担う人。
外部との交渉を担う人。
役割が細分化すると、
それらを調整する必要も大きくなる。
五 専門化は便利である一方、相互依存も生む
船乗りだけでは、
食料を作れない。
工人だけでも、
社会は維持できない。
農業生産者だけでは、
鉄器や船を作れない。
専門化が進むほど、
人々は、
互いの生産物と技能に依存するようになる。
すると、
交換。
分配。
調整。
が重要になる。
六 この「調整」が、政治力を考える入口になる
誰が、
鉄を受け取るのか。
誰が、
外来品を分配するのか。
誰が、
船を出すのか。
誰が、
交易相手と交渉するのか。
誰が、
集落間の争いを調停するのか。
こうした役割が、
特定の人物や集団へ集中すれば、
そこから政治的な差が生まれる可能性がある。
七 しかし、最初から「王」を置く必要はない
港を管理する有力者。
複数集落の調整役。
祭祀を担う家系。
武力を持つ集団。
外部交易を担当する人物。
そうした存在が、
地域ごとに異なる形で現れればよい。
本書では、
このような段階を考えるため、
便宜的に、
海域首長社会
という視点を用いてきた。
八 ここでいう海域首長は、一つの固定した身分を意味しない
「港を持っていたから首長である」
と、
考古資料から単純に認定するものではない。
港。
船。
物流。
交易。
農業余剰。
祭祀。
武力。
地域関係。
そうした複数の要素を背景として、
海と内陸の双方を結ぶ有力者が存在した可能性を考える、
分析上の概念である。
九 海に強いだけでも、広域首長にはなれない
船を持っている。
航路を知っている。
それは大きな力である。
しかし、
内陸の農業生産と結びつかなければ、
大量の食料を確保できない。
工人を養うことも難しい。
兵力を維持することも難しい。
海上交通と、
内陸生産が結びつくことが重要になる。
十 つまり「港」と「後背地」の関係が政治を生む
海から、
鉄や外来品が入る。
内陸から、
米やその他の生産物が集まる。
港は、
外部と内部を結ぶ。
その結節点を押さえる勢力は、
単なる船乗りではない。
異なる経済圏をつなぐ調整者
になり得る。
十一 ここで交易品は、単なる富ではなく政治資源にもなる
希少な鉄。
装身具。
外来品。
それらを、
有力者が独占したとまでは、
資料ごとに検討が必要である。
しかし、
誰が入手し、
誰へ渡すのか。
その流れに関与することは、
人間関係を作る力になり得る。
十二 物を分けることは、関係を作ることでもある
外部から得た品を、
自分だけが持つ。
別の首長へ贈る。
有力者へ分配する。
祭祀へ使う。
どの使い方をするかで、
政治的意味は変わる。
物資の流通は、
経済だけでなく、
人と人の関係を組み立てる手段
にもなり得る。
十三 農業余剰も同じである
米が多く取れる。
それだけでは政治力ではない。
しかし、
その米で、
工人を養う。
祭祀者を養う。
航海者を養う。
人を工事へ動員する。
困窮した集団へ再分配する。
となれば、
生産物が、
政治的関係へ変わっていく。
十四 つまり余剰力と政治力は同じではない
余剰がある社会。
それを、
特定の目的へ集められる社会。
さらに、
複数の地域から集められる社会。
これは、
それぞれ違う段階である。
重要なのは、
余剰が政治的に動かせるようになる過程
である。
十五 ここで本書の「転換力」が、国家成立以前にも意味を持つ
農産物を、
航海者の食料へ変える。
交易利益を、
新しい技術の獲得へ使う。
鉄を、
農具や武器へ変える。
人間関係を、
広域交易へ利用する。
社会が持つ資源を、
別の目的へ振り向ける力である。
十六 そして、この転換を繰り返せる集団は強くなり得る
交易で得た鉄を使う。
生産力が上がる。
余剰が増える。
その余剰で、
さらに交易する。
工人を養う。
船を作る。
また外部資源を得る。
この循環が成立すれば、
地域ごとの差は大きくなる可能性がある。
十七 しかし、ここでも「強い地域が必ず他地域を征服する」とは限らない
交易による連合。
婚姻。
贈与。
祭祀。
共同防衛。
争いの調停。
政治関係には、
軍事以外にも多くの方法がある。
国家形成を、
最初から征服だけで説明する必要はない。
十八 むしろ広域社会では「協力しなければ得られない利益」も大きい
海路を安定させる。
交易相手を確保する。
鉄を入手する。
瀬戸内を通る。
地域間の紛争を減らす。
一地域だけでは、
完結しない活動が増える。
すると、
複数地域を調整する仕組みそのものに価値が生まれる。
十九 この段階では、政治力とは「命令する力」だけではない
交渉できる。
仲裁できる。
祭祀を共有できる。
交換を成立させる。
人を集められる。
別の首長と関係を結べる。
こうした能力も、
政治力の一部である。
二十 そして中国史料に倭王が現れる時、すでに政治は一集落の範囲を越えている
一世紀から二世紀にかけて、
中国史料には倭の王や政治的代表者が現れる。
三世紀には、
複数の国々を背景に、
卑弥呼が共立されたと記される。
ここで重要なのは、
最初の王が誰だったかを決めることではない。
二十一 史料に王が現れた時点で、その背後には複数の政治単位が存在している
一つの村が、
突然国家になったのではない。
複数の地域社会。
複数の有力者。
複数の利害。
それらを束ねる上位者が、
史料上に現れる。
つまり王は、
何もないところへ現れた人物ではない。
二十二 王が社会をゼロから作ったのではない
その前に、
農業がある。
交易がある。
港がある。
技術がある。
首長がいる。
地域間関係がある。
社会の複雑化が先に進んでいる。
その上で、
さらに広域の調整を担う政治的中心が必要になる。
二十三 したがって「余剰が王を生んだ」と単純に言うべきでもない
余剰だけでは、
王は生まれない。
社会によっては、
複数の有力者が並立し続けることもある。
政治統合が進まない場合もある。
必要なのは、
余剰。
交易。
紛争。
祭祀。
外部関係。
地域間協力。
などが重なり、
上位調整の必要性が高まること
である。
二十四 卑弥呼の「共立」という記述は、この問題を考える上で興味深い
『魏志倭人伝』では、
倭国の争乱の後、
卑弥呼が共立されたとされる。
これは、
後世の絶対君主が、
最初から一方的に支配した姿とは異なる。
複数の政治勢力が、
一人の上位者を必要とした構図として読むことができる。
二十五 ここで海域首長社会と倭王権がつながる可能性が見える
各地域が、
それぞれ、
農業基盤を持つ。
交易路を持つ。
有力者を持つ。
その一方で、
鉄。
海路。
外交。
紛争調整。
など、
地域を越える問題もある。
その調整装置として、
より上位の王が必要になる。
二十六 ただし、これは「海域首長が集まって卑弥呼を選んだ」と証明されたという意味ではない
史料には、
そこまで具体的な政治構成は書かれていない。
考古資料から、
個々の共立主体を特定することもできない。
本書が示すのは、
広域社会の調整需要と共立王という史料像が、構造的に両立し得る
ということである。
二十七 ここで初めて、技術と政治の関係が一本につながる
海を渡る技術がある。
交易が広がる。
資源が動く。
農業余剰が増える。
専門職が生まれる。
地域差が大きくなる。
首長が現れる。
首長同士の関係が複雑になる。
そして、
さらに上位の調整機構が必要になる。
二十八 しかし、この流れは「技術が王を作る」という一本道ではない
途中で、
争いが起きることもある。
交易路が変わることもある。
有力地域が衰退することもある。
別の政治中心が台頭することもある。
国家形成とは、
一本の設計図に従って進むものではない。
二十九 それでも三世紀になると、列島の複数地域を結ぶ動きが、より明瞭になる
北部九州。
吉備。
山陰。
瀬戸内。
東海。
大和。
それぞれの地域が持つ、
人。
物。
技術。
政治関係。
が交差する。
その中で、
大和盆地に、
新しい政治中枢が現れる。
三十 それが纒向である
纒向を、
いきなり「日本最初の都」
と断定する必要はない。
卑弥呼の都と確定することもできない。
しかし、
広い地域から人と物が集まり、
大型建物や大規模な施設が築かれたことは、
政治的結節点の形成を考える上で重要である。
三十一 ここで社会的余剰は、初めて「場所」を持つように見えてくる
それまでは、
各地域に分散していた、
生産。
交易。
技術。
首長関係。
それらの一部が、
一つの政治中枢へ集まる。
言い換えれば、
広域ネットワークが、恒常的な政治空間を必要とする段階
へ入った可能性がある。
三十二 そして王権が成立すると、今度は王権が社会を変え始める
ここが、
次の重要な転換である。
社会が王を必要とする。
しかし、
一度王が成立すると、
王もまた、
交易。
祭祀。
首長関係。
軍事。
動員。
へ働きかける。
国家形成は、
社会から王への一方向だけではない。
三十三 次節では、その逆向きの力を見る
余剰が首長を生む。
首長社会が王を必要とする。
そして、
王が成立すると、
今度は王権が、
社会の余剰と地域関係を再編していく。
次節では、
「社会が王を作り、王も社会を作った」
という視点から、
首長連合が、
どのようにより恒常的な王権へ近づいていったのかを考えていく。
第四節 「社会が王を作り、王も社会を作った」――共立王から恒常的王権へ
一 王が生まれたところで、国家形成は終わらない
複数の地域社会がある。
首長がいる。
交易がある。
争いがある。
それらを調整するために、
上位の王が必要になる。
しかし、
王を一人立てれば、
それで安定した国家が完成するわけではない。
むしろ、
そこから次の問題が始まる。
二 最初の王は、社会に支えられている
食料を生産するのは、
地域社会である。
兵を出すのも、
各地域である。
船を造るのも、
工人である。
交易路を支えるのも、
各地の首長や集団である。
王は、
その社会的基盤なしには存在できない。
三 だから初期王権は、地方社会を無視して動くことはできない
王が、
すべての土地を直接支配する。
すべての人間へ直接命令する。
そのような中央集権国家を、
三世紀から想定する必要はない。
むしろ、
地域首長の力を前提として、
その上に王が立つ。
そのような構造から考える方が自然である。
四 卑弥呼の「共立」は、その性格を象徴する
『魏志倭人伝』では、
争乱の後、
卑弥呼が共立されたとされる。
誰か一人が、
武力だけで全倭を征服した、
とは書かれていない。
複数の勢力が、
一人の上位者を必要とした構図が見える。
五 ここで王は「支配者」であると同時に「調整者」でもある
地域間の争いを抑える。
外部との外交を行う。
祭祀的権威を持つ。
交易関係を調整する。
場合によっては、
軍事的な協力をまとめる。
初期王権の力は、
単純な命令権だけでは測れない。
六 しかし、調整者として始まった王も、やがて社会へ働きかける
ここで関係が逆方向へ動く。
社会が王を作る。
その王が、
今度は、
首長関係を変える。
祭祀を整える。
交易を安定させる。
人を動員する。
政治中枢を形成する。
七 つまり王権は、社会の上に乗るだけではない
一度成立すると、
社会そのものを、
別の形へ組み替える力を持ち始める。
どの首長が上位なのか。
誰が王と近いのか。
どの地域が重要なのか。
どの祭祀を共有するのか。
王権の存在が、
地域社会の関係を変えていく。
八 ここで政治は「調整」から「秩序形成」へ進む
最初は、
争いを止める。
交易を維持する。
という役割だったかもしれない。
しかし、
王権が継続すれば、
誰がどの位置にいるのか。
どの地域がどのような役割を持つのか。
より恒常的な政治関係が作られていく。
九 この変化には、時間が必要である
一代の王だけで、
広域政治秩序を安定させることは難しい。
王が死ぬ。
次の王を決める。
首長間の関係を保つ。
祭祀を継続する。
外交を続ける。
こうしたことを、
何世代にもわたって繰り返さなければならない。
十 ここに「共立王」の弱点がある
一人の王を、
複数勢力が合意して立てる。
それは、
争乱を収める方法として有効だったかもしれない。
しかし、
王が死ぬたびに、
再び全勢力が合意しなければならないのであれば、
政治秩序は不安定になりやすい。
十一 『魏志倭人伝』にも、その不安定さを考える材料がある
卑弥呼の死後、
男王を立てたが、
国中が服さず、
再び争乱が起こったとされる。
その後、
壹与が立てられ、
秩序が回復したと記される。
少なくとも史料上、
王位継承は、
まだ自動的ではなかったように見える。
十二 ここから「誰を王にするか」という問題が国家形成の核心になる
強い王がいた。
それだけでは足りない。
その王が死んだ後、
次の王が立つ。
さらに、
その次も続く。
政治秩序が、
個人の死を越えて続く。
ここで初めて、
王権は恒常性を持ち始める。
十三 つまり国家形成には「王を作る力」だけでなく「王権を再生産する力」が必要になる
一度王を立てる。
これは政治的決断である。
王統を続ける。
これは制度である。
この違いは大きい。
国家が長期化するには、
政治権威そのものを、
次の世代へ渡す仕組みが必要になる。
十四 そこで祭祀の意味も大きくなる
王が、
単なる調停者ではなく、
特別な祭祀的地位を持つ。
その地位が、
次代へ継承される。
共通する儀礼が行われる。
そうすれば、
王の権威を、
毎回ゼロから作り直す必要がなくなる。
祭祀は、
王権を継続させる仕組みの一つになり得る。
十五 もちろん、祭祀だけで王権が成立したとは言えない
軍事。
交易。
婚姻。
首長関係。
外交。
生産。
すべてが関わる。
ただし、
文字制度や官僚制度が十分に発達していない社会では、
共有祭祀が、
政治秩序を再確認する有力な方法だった可能性がある。
十六 そして王権が継続すれば、交易にも影響を与える
航路を安定させる。
地域間の争いを抑える。
外部勢力との交渉窓口を持つ。
希少資源の入手を支える。
これらが実現すれば、
交易はさらに安定する可能性がある。
つまり、
社会が王を支え、
王が社会の余剰を増やす循環が生まれる。
十七 ここで「社会→王」という一方向の説明では足りなくなる
社会が発達する。
余剰が増える。
首長が現れる。
王が成立する。
それで終わりではない。
王が成立すると、
その王権が、
交易。
祭祀。
軍事。
動員。
首長関係。
へ働きかける。
十八 したがって国家形成は、循環として見る必要がある
社会が王を作る。
王が社会を再編する。
再編された社会が、
さらに大きな余剰を生む。
その余剰が、
より強い王権を支える。
そして、
強くなった王権が、
さらに広い地域へ働きかける。
社会と王権は、互いを作り替えながら成長する。
十九 この循環が続けば、王権の性格も変わる
最初は、
首長たちの代表者だった王が、
やがて、
首長秩序の中心になる。
さらに、
王との関係そのものが、
首長の地位を示すようになる。
ここまで来れば、
王は、
単なる仲裁者ではない。
二十 地方首長が消える必要はない
王権が強くなる。
だから、
地方首長をすべて滅ぼした。
と考える必要はない。
むしろ、
地域首長を残したまま、
その上位関係を組み替える方法もある。
地方の生産力や兵力を利用するには、
地域社会そのものを維持した方が合理的な場合もある。
二十一 重要なのは「地方をなくすこと」ではなく「地方を王権へ接続すること」である
地域首長が、
自らの土地を持つ。
生産力を持つ。
人を動かせる。
その一方で、
王権との政治関係を持つ。
祭祀。
婚姻。
軍事。
贈与。
墓制。
さまざまな方法によって、
その関係を確認する。
二十二 ここで「広域首長秩序」という姿が見えてくる
中央が、
全国の村々を直接支配する国家ではない。
しかし、
各地の首長が、
まったく無関係に存在しているわけでもない。
複数の首長が、
一つの上位政治秩序へ参加する。
その頂点に、
王がいる。
二十三 この中間段階を認めることが重要である
村。
その次に、
いきなり中央集権国家。
ではない。
地域首長。
大首長。
首長ネットワーク。
共立王。
恒常的政治中枢。
広域王権。
そのような複数の段階を考えた方が、
二~五世紀の変化を説明しやすい。
二十四 そして、その王権には「場所」が必要になる
一時的な会合だけでは、
継続的な政治は難しい。
外交を行う。
儀礼を行う。
人を集める。
物資を集める。
首長が集まる。
こうした活動が繰り返されるなら、
政治中枢となる場所の重要性が高まる。
二十五 政治中枢が定着すれば、王権はさらに継続しやすくなる
王が替わっても、
場所は残る。
儀礼空間が残る。
建物が残る。
人が集まる理由が残る。
政治が、
特定の人物だけでなく、
特定の場所とも結びつく。
ここに、
「人としての王」から「場所を持つ王権」へ
という変化が見えてくる。
二十六 この意味で、纒向の登場は大きい
三世紀、
大和盆地に、
広域的な人と物が集まる大規模な拠点が現れる。
大型建物。
大溝。
各地域との関係を示す土器。
こうした資料は、
そこが単なる一集落ではなかった可能性を考えさせる。
二十七 ただし「纒向があるから中央集権国家が完成していた」とは言えない
纒向を、
後の藤原京や平城京と同じ都城として扱うことはできない。
全国的な行政制度が完成していた証拠もない。
重要なのは、
それ以前よりも、
政治中枢が恒常化している可能性
である。
二十八 ここで社会と王権の循環が、具体的な場所を持ち始める
各地から、
人が来る。
物が来る。
首長が来る。
祭祀が行われる。
政治判断が行われる。
そして、
そこで生まれた政治関係が、
再び各地域へ戻る。
政治中枢は、
集める場所であると同時に、
関係を再配分する場所になる。
二十九 つまり纒向は「王が社会を作り直す場所」だった可能性がある
もちろん、
個々の建物を、
特定の王や人物へ直接結びつけることはできない。
しかし、
広域社会の人・物・情報が、
一つの場所へ集まること自体が、
王権形成を考える上で重要である。
三十 そして政治中枢だけでは、まだ足りない
大和に王がいる。
政治中枢がある。
しかし、
遠く離れた首長から見れば、
その王権は、
日常的には見えない。
そこで次に必要になるのが、
王権との関係を、
各地の首長自身が表現できる仕組みである。
三十一 その仕組みとして、前方後円墳が大きな意味を持ち始める
王権が、
場所を持つ。
次に、
その政治秩序が、
列島各地へ可視化される。
巨大墳墓。
共通する墳形。
規模の差。
葬送儀礼。
これらを通して、
首長間の政治関係が、
地上へ表現される可能性が生まれる。
三十二 ここで国家形成は、さらに一段進む
社会が王を作った。
王が政治中枢を作った。
政治中枢が、
広域首長関係を安定させる。
そして、
その関係を、
列島の各地域で見える形にする。
次節では、
「王権は、どうやって列島全体から見える存在になったのか」
という問いから、
纒向と前方後円墳が、
どのように広域政治秩序を結びつけたのかを見ていく。
第五節 「王権は、どうやって列島全体から見える存在になったのか」――前方後円墳という政治のかたち
一 政治中枢ができただけでは、広域王権は完成しない
纒向に、
人が集まる。
物が集まる。
首長が集まる。
政治的中心が形成される。
しかし、
北部九州。
吉備。
山陰。
東海。
北陸。
さらに東国。
それぞれの首長が、
毎日纒向にいるわけではない。
二 遠く離れた首長にとって、王権は「見えにくい存在」である
大和に王がいる。
それだけでは、
地方社会の日常に、
王権の存在は現れにくい。
地方には、
地方の有力者がいる。
独自の祭祀がある。
土地がある。
生産基盤がある。
そこで必要になるのが、
「自分は、この広域政治秩序のどこにいるのか」
を示す仕組みである。
三 ここで前方後円墳が重要になる
三世紀、
大和周辺で新しい墳墓形式が形成される。
そして、
同じ基本形を持つ古墳が、
各地域へ広がっていく。
これは、
単に、
新しい墓の流行が広がった、
というだけでは説明しきれない。
四 その前には、地域ごとに異なる墓制があった
吉備。
山陰。
北部九州。
東海。
それぞれの地域には、
それぞれの有力者墓があった。
政治的有力者は、
前方後円墳以前から存在する。
しかし、
その権威の表し方は、
地域ごとに違っていた。
五 つまり前方後円墳以前の列島は「首長はいるが、首長身分を示す共通形式がない社会」だった
各地域に、
力のある首長がいる。
しかし、
その墓の形は異なる。
地域ごとの祭祀体系も異なる。
ここには、
複数の政治社会が並立している姿が見える。
六 三世紀になると、そこへ新しい共通形式が現れる
前方後円という、
特徴的な墳丘形である。
重要なのは、
大きいことだけではない。
同じ基本形が共有されること
である。
七 形が共有されるということは、何かが共有されている可能性を示す
設計思想。
葬送儀礼。
首長身分の表現。
政治的価値観。
もちろん、
同じ形だから、
すべて同じ制度だった、
とは言えない。
しかし、
まったく無関係な地域が、
偶然同じ巨大墓を造り続けた、
と考えるのも難しい。
八 だから前方後円墳は「墓の形」であると同時に「政治的言語」だった可能性がある
現代なら、
肩書。
官位。
役職。
制服。
徽章。
などによって、
政治的地位を示すことができる。
文字制度が十分に発達していない段階では、
巨大墓そのものが、
その役割の一部を担った可能性がある。
九 墓を見れば、その人物の政治的位置がある程度分かる
巨大な前方後円墳。
中規模の前方後円墳。
小規模な古墳。
墳形。
規模。
埋葬施設。
副葬品。
それらには、
地域差を含みながらも、
首長層の違いを考える材料がある。
十 ただし「何メートルなら何位」という官位表があったわけではない
ここは慎重に考える必要がある。
古墳規模は、
地域条件にも左右される。
時代によっても変わる。
墳丘だけで、
厳格な政治順位を復元することはできない。
しかし、
墓制に政治的序列が反映されていた可能性
まで否定する必要はない。
十一 では、なぜ地方首長は前方後円墳を採用したのか
ここが重要である。
大和から軍隊が来て、
「この形の墓を造れ」
と命じた。
そのような場合が、
まったくなかったとは言えない。
しかし、
列島各地への広がりを、
すべて軍事的強制だけで説明するのは難しい。
十二 むしろ地方首長側にも、参加する理由があった可能性がある
広域政治秩序へ入る。
他地域の首長と関係を持つ。
交易関係を利用する。
希少な物資へ接近する。
婚姻関係を広げる。
軍事的協力を得る。
祭祀秩序を共有する。
王権と結びつくこと自体が、
地方首長にとって利益になり得る。
十三 ここで王権は「征服するだけの仕組み」ではなくなる
参加する価値がある。
そのため、
地方首長自身が、
広域秩序へ加わる。
もちろん、
政治的圧力。
競争。
軍事的緊張。
もあっただろう。
しかし、
利益と権威を共有できる政治システム
という側面も考える必要がある。
十四 前方後円墳は、その参加を地域社会へ示す装置になり得る
自分の地域に、
大きな前方後円墳を築く。
すると、
その首長が、
広域政治秩序と結びついていることを、
地域の人々へ見せることができる。
墓は、
死者のためだけではなく、
生きている社会へ向けたメッセージにもなる。
十五 王が死んでも、墓は残る
王個人は、
いなくなる。
しかし、
巨大墳丘は残る。
次の王も見る。
地方首長も見る。
地域社会も見る。
つまり、
王の権威を、
景観そのものへ固定すること
ができる。
十六 ここで王統の継続も見えるようになる
一代の王だけではない。
次の王。
さらに次の王。
巨大墓が連続して造られる。
すると、
そこには、
個人を超えた、
王家。
王統。
というイメージが生まれやすくなる。
十七 これは共立王を恒常的王権へ変える上で重要だった可能性がある
王が死ぬたびに、
すべてをゼロから決め直す。
それでは不安定である。
しかし、
王の墓が残る。
その祭祀が続く。
次の王も、
同じ政治秩序の中で位置づけられる。
前方後円墳は、
王権継承を支える象徴装置の一つだった可能性がある。
十八 そして同じ形式を地方首長も使う
王だけが、
まったく別の墓を造るのではない。
地方首長も、
前方後円という共通形式を採用する。
ただし、
規模や内容には差がある。
ここに、
同じ秩序へ属しながら、地位は異なる
という表現が可能になる。
十九 これが前方後円墳体制の重要なところである
王。
大首長。
地域首長。
それぞれが、
まったく別々の政治世界にいるのではない。
共通する墳墓文化を持つ。
その一方で、
規模や内容には差がある。
墓制が、
広域政治社会の関係を表す。
二十 だから前方後円墳は「国境線」より「人間関係」を見る方が理解しやすい
前方後円墳がある。
だから、
そこは大和王権の直轄地である。
とは限らない。
地方首長は、
自らの地域社会を持っている。
王権が、
一人一人の農民を直接管理していた証拠でもない。
二十一 より適切なのは「首長と首長が結ばれた政治秩序」と考えることである
地域には、
地域首長がいる。
その首長が、
さらに上位の有力者と結びつく。
その上に、
王がいる。
つまり、
土地を直接一律に管理する国家ではなく、
人的関係を重ねて広域社会を束ねる政治
である。
二十二 この構造なら、地方の力を壊さずに王権を拡大できる
地方首長が、
農業生産を管理する。
人を動かす。
地域祭祀を担う。
王権は、
その地方首長と関係を結ぶ。
すべてを中央から直接管理しなくても、
地方の力を、
広域政治へ利用できる。
二十三 ここで余剰力が再び重要になる
地方首長は、
地域の余剰を集める。
食料。
労働力。
工人。
物資。
それを使って、
自らの古墳を築く。
つまり、
前方後円墳が各地にあるということは、
各地域にも、
相当な余剰動員能力が存在したことを示す。
二十四 王権は、その地方余剰をすべて大和へ運ぶ必要はない
ここが重要である。
全国から米を集めて、
大和で一括管理する。
そのような制度を、
三~四世紀から想定する必要はない。
地方首長が、
地域の余剰を持ったまま、
王権と政治的に結びつけばよい。
二十五 王権にとって重要なのは「米を直接持つこと」より「米を持つ首長と結びつくこと」だった可能性がある
首長が、
王権秩序へ参加する。
必要な時、
兵を出す。
物資を出す。
労働力を出す。
外交や祭祀へ協力する。
そうであれば、
王権は、
広い地域の余剰へ、
間接的に接続できる。
二十六 ここで前方後円墳体制は、動員力と結びつく
墓を造る時、
人を集める。
食料を集める。
工具を用意する。
物資を運ぶ。
工程を管理する。
祭祀を行う。
これらを実行できる首長社会なら、
大きな政治事業へ参加する能力も持っている可能性がある。
二十七 ただし「古墳築造組織が、そのまま軍隊になった」と考えるべきではない
墓を造る能力と、
軍事遠征を行う能力は、
別のものである。
目的も、
技術も、
組織も違う。
しかし、
大量の食料を集める。
人を編成する。
物資を運ぶ。
長期間活動を維持する。
という基盤には、
共通する部分がある。
二十八 つまり前方後円墳は、国家の軍事力そのものではない
しかし、
後に王権が、
兵。
船。
食料。
工人。
を広域から動員するための社会的条件を考える上で、
重要な資料になる。
巨大墓は、
単なる死者の記念物ではなく、
大規模な社会動員が可能だったことの物証
でもある。
二十九 そして共通祭祀は、政治関係を世代ごとに確認する場になり得る
首長が死ぬ。
古墳を造る。
人が集まる。
葬送儀礼を行う。
次の首長が立つ。
そのたびに、
誰が誰と結ばれているのか。
どの家がどの政治秩序へ属するのか。
を再確認できる。
三十 文字行政が十分に発達していない時代だからこそ、巨大墓は強い
命令書を読む必要がない。
官位表を見る必要もない。
大きな墳丘を見れば、
何か特別な首長であることは分かる。
共通する形を見れば、
他地域の有力者とのつながりも意識できる。
政治秩序が、
誰にでも見える形で存在する
のである。
三十一 ここで「王権が列島全体から見える存在になる」という意味が見えてくる
大和の王が、
地方へ毎日出向く必要はない。
地方首長が、
自分の地域に、
王権秩序と結びつく墓を造る。
すると、
大和にある政治秩序が、
地方の景観の中にも現れる。
三十二 これは非常に効率のよい広域統合だった可能性がある
中央に、
政治中枢がある。
地方には、
地方首長がいる。
共通する墓制がある。
祭祀によって、
関係を確認する。
地方の余剰は、
地方で管理される。
必要な時に、
広域秩序へ動員される。
まだ行政国家ではない。
しかし、
単なる地域社会の集まりでもない。
三十三 前方後円墳は、この中間段階を最もよく見せる
完全な中央集権国家ではない。
しかし、
広域政治秩序は存在する。
地方独立でもない。
直接支配でもない。
首長同士を結ぶことで広い地域を束ねる王権
である。
三十四 そして、この仕組みが何世代も続けば、王権はさらに強くなる
王との関係を持つ首長が増える。
同じ墓制が広がる。
祭祀が共有される。
首長間の序列が安定する。
動員できる地域が広がる。
王権は、
単なる共立された代表者から、
恒常的な広域政治中心へ近づいていく。
三十五 ここで次の段階が見えてくる
三世紀、
王権は、
列島内部の首長秩序をまとめる。
しかし、
四世紀後半以降、
その力は、
列島内部だけにはとどまらなくなる。
外交する。
海を越える。
軍事行動を行う。
五世紀には、
中国王朝へ、
半島南部に関わる政治的・軍事的地位を求める。
三十六 つまり前方後円墳によって見えてくるのは、墓の歴史だけではない
地方余剰を持つ首長。
それらを結ぶ王権。
王権へ集約される政治力。
そして、
その力が、
やがて海の向こうへ向けられる。
次節では、
「列島を束ねた王権は、なぜ海の向こうへ向かったのか」
という問いから、
前方後円墳体制と、
倭王権の外交・軍事が、
どこでつながるのかを考えていく。
第六節 「列島を束ねた王権は、なぜ海の向こうへ向かったのか」――前方後円墳体制から外交・軍事へ
一 列島内部を束ねる力は、やがて海の向こうへ向かう
前方後円墳体制によって、
各地の首長が、
一つの広域政治秩序へ結びつく。
その関係が、
何世代にもわたって続く。
すると王権は、
列島内部だけではなく、
外部へ力を向ける条件を持ち始める。
二 しかし「王が海外へ行きたかった」だけでは、対外活動は成立しない
王が命じる。
それだけでは、
海は渡れない。
船がいる。
水夫がいる。
兵がいる。
武器がいる。
食料がいる。
そして、
それらを港まで運ぶ必要がある。
三 海外軍事とは、巨大な物流事業でもある
兵士だけを見てはいけない。
一人の兵が動けば、
その人を養う食料がいる。
武器がいる。
補充品がいる。
船を動かす人がいる。
船を修理する人もいる。
戦争の背後には、
非常に多くの非戦闘員と生産者がいる。
四 だから海外軍事力は、王個人の強さでは説明できない
王が勇敢だった。
将軍が優秀だった。
それだけではない。
兵を出せる地域社会。
食料を出せる農業生産。
船を造れる工人。
港を使える海域社会。
それらを政治的に結びつける王権が必要になる。
五 ここで前方後円墳体制が再び意味を持つ
地方首長が、
それぞれ地域の余剰を持つ。
その首長たちが、
王権秩序へ参加する。
必要な時、
人。
物。
船。
食料。
を出す。
そうした関係があれば、
王権は、
自らの直轄地だけでは持てない規模の力を動かせる可能性がある。
六 つまり五世紀の倭王の力を考えるには「地方の余剰を王権へ接続する仕組み」が必要になる
兵士は、
どこかの地域社会から出る。
米も、
どこかで作られる。
木材も、
鉄も、
船も、
王宮の中から湧いてくるわけではない。
王権とは、
各地域に分散する能力を、一つの目的へまとめる仕組み
でもある。
七 これは巨大古墳の築造と、構造的に比較できる
墓を造る時、
人を集める。
食料を集める。
木材を集める。
工具を集める。
工程を管理する。
海外軍事では、
その目的が違う。
しかし、
分散した資源を、
大きな一事業へまとめるという点では、
共通する社会的条件がある。
八 だからといって「古墳建設組織がそのまま軍隊になった」とは言えない
墓を造る人。
兵士。
船員。
工人。
役割は違う。
組織原理も、
同じとは限らない。
重要なのは、
大規模な人と物を編成できる社会的基盤
が、
すでに存在していたことなのである。
九 そして四世紀末、外部史料にも倭が軍事主体として現れる
広開土王碑には、
倭に関する軍事記事が記されている。
有名な辛卯年条には、
判読や解釈をめぐる長い議論がある。
したがって、
その一文だけから、
倭の半島支配を断定することはできない。
十 しかし辛卯年条だけに頼る必要もない
三九九年。
四〇〇年。
四〇四年。
これらの記事にも、
倭が、
高句麗・新羅・百済をめぐる軍事状況の中に現れる。
少なくとも、
四世紀末から五世紀初頭、
倭が半島政治へ軍事的に関与していたことを考える重要な史料である。
十一 ここで大きいのは「相手側の史料に倭が出る」ことである
倭自身が、
「自分たちは強かった」
と書いた史料ではない。
高句麗王権が、
広開土王の功績を顕彰するために建てた碑である。
そこに、
戦う相手の一つとして、
倭が現れる。
十二 もちろん広開土王碑も、中立的な戦争報告書ではない
王の功績を、
大きく見せる目的がある。
敵を、
政治的に表現する意図もある。
したがって、
数字。
表現。
勢力関係。
をそのまま客観的事実とすることはできない。
それでも、
倭が軍事的存在として認識されていたこと自体は重要である。
十三 では、その倭軍はどこから来たのか
大和だけから、
すべての兵が出たのか。
すべての船を、
大和の王が直接所有していたのか。
そう考えるより、
列島各地の首長社会を背景にした方が、
説明しやすい。
十四 北部九州には、海峡へ近い地理がある
瀬戸内には、
東西交通路がある。
吉備には、
大きな地域社会がある。
河内や大和には、
政治中枢がある。
それぞれの地域が、
異なる能力を持つ。
広域王権とは、
その違いをまとめられるところに強さがある。
十五 ここで「列島統合」と「海外軍事」がつながる
列島内を束ねられない王権が、
継続的に海を越えて軍事行動を行うのは難しい。
逆に、
兵。
船。
食料。
港。
を複数地域から動かせるなら、
海外活動の規模は大きくなり得る。
十六 海域社会で蓄積された技術も、ここで国家目的へ取り込まれる
船を作る知識。
海を渡る知識。
港を利用する知識。
潮や季節への理解。
これらは、
もともと交易や漁撈にも使われていた。
王権は、
その能力を、
外交や軍事へ利用できる。
十七 ここで「海を渡る力」の意味が変わる
縄文時代には、
交流。
弥生時代には、
交易や資源獲得。
さらに、
人の滞在。
王権成立後には、
外交。
そして、
軍事。
同じ海でも、
政治が変われば、
利用目的が変わる。
十八 つまり王権は、海洋技術を発明したのではない
国家以前から、
海は使われていた。
国家が行ったのは、
既存の能力を、
より大きな政治目的へ組織することである。
ここでも、
国家は、
ゼロから文化を作ったのではなく、
蓄積された社会能力を取り込んだ
と考えることができる。
十九 そして五世紀になると、倭王自身の外交文書に半島南部への関心が現れる
『宋書』倭国伝では、
倭の五王が、
中国南朝へ遣使する。
その過程で、
倭王は、
半島南部諸地域に関係する軍事的称号を求める。
二十 ここでは三つを区別しなければならない
倭王が自称した地位。
宋王朝が認めた地位。
現実に倭王が支配していた範囲。
これらは、
同じではない。
外交上の称号を、
そのまま領土支配の証明にすることはできない。
二十一 しかし、それでも倭王が何を重要視していたかは分かる
百済。
新羅。
任那。
加羅。
秦韓。
慕韓。
名称や政治実態の問題は個別に検討するとして、
倭王が、
半島南部の政治・軍事秩序を、
自らの外交課題として中国王朝へ提示している。
これは無視できない。
二十二 つまり倭王にとって、海の向こうは「外国だから無関係」ではなかった
鉄。
交易。
百済との外交。
加耶諸地域との関係。
軍事。
これらが、
数世紀にわたって積み重なっていた。
五世紀の倭王は、
その長い関係を、
王権外交の問題として扱う。
二十三 ここで倭の五王は「突然現れた外交王」ではなくなる
縄文以来の海上交流。
弥生の交易。
半島南部への人の移動。
鉄資源との関係。
四世紀の王権外交。
四世紀末の軍事活動。
その積み重ねの上に、
五世紀の倭王外交がある。
二十四 したがって五王の歴史的位置は、海域ネットワークの国家化にある
長く存在した海上関係を、
王権が、
外交政策へ使う。
軍事政策へ使う。
中国王朝との外交にも利用する。
海域社会の関係が、
国家戦略へ組み込まれていく。
二十五 ここで前方後円墳体制とも一本につながる
各地の首長が、
共通政治秩序へ参加する。
地方の余剰が、
その首長を通して王権へ接続される。
その王権が、
外交と軍事を行う。
すると、
前方後円墳は、
単なる墓制ではなく、
対外活動を支え得る広域政治秩序の一側面
としても見えてくる。
二十六 五王の軍事力とは、王一人が持っていた兵力ではない
列島各地の、
人口。
生産。
工人。
港。
船。
武器。
首長。
それらが、
政治的に結ばれて初めて、
大きな対外活動が可能になる。
本書の言葉で言えば、
列島各地の余剰力を、王権が政治的目的へ転換した力
である。
二十七 ここで古墳史と軍事史がつながる
なぜ、
五世紀の倭王が、
半島政治に関与できたのか。
その答えを、
軍事史だけから探す必要はない。
その前に、
地域首長をまとめる仕組み。
余剰を動かす仕組み。
人と物を長距離輸送する仕組み。
が形成されていた可能性を見る必要がある。
二十八 そして海域政治は、相手がいる政治でもある
倭だけを見ていては、
歴史は分からない。
百済には、
百済の利益がある。
新羅には、
新羅の利益がある。
高句麗には、
高句麗の戦略がある。
加耶諸国にも、
それぞれの政治的事情がある。
二十九 倭王権の対外活動は、この多極的な政治環境の中で行われた
同盟する。
対立する。
交易する。
人質・王族をやり取りする。
使節を送る。
軍事的に介入する。
関係は、
常に一方向ではない。
したがって、
倭が半島南部へ関与したことと、
半島南部を一貫して支配していたことは、
分けて考えなければならない。
三十 それでも、四~五世紀に大きな変化が起きたことは確かである
国家以前の海上交流から、
王権外交へ。
交易から、
軍事へ。
地域首長の海域関係から、
倭王の国際外交へ。
海を使う主体の規模が、
大きくなっている。
三十一 そして、この政治力が再び墓へ戻ってくる
列島内部では、
前方後円墳が、
首長と王権の関係を表していた。
ところが五世紀後葉から六世紀前半頃、
その前方後円墳が、
朝鮮半島南西部にも現れる。
ここで、
最初の謎が、
もう一度目の前に戻ってくる。
三十二 しかし、今度は最初とは見え方が違う
単に、
「日本の墓が韓国にある」
という話ではない。
その前に、
何世紀もの海上交流がある。
人が動いている。
技術が動いている。
王権外交がある。
軍事活動がある。
半島側にも、
独自の地域社会と政治競争がある。
三十三 つまり半島前方後円墳は、長い海域政治史の末に現れる
墓だけを切り取れば、
突然に見える。
しかし、
その前史をたどれば、
海。
交易。
滞在。
首長関係。
外交。
軍事。
が積み重なっている。
その上で、
政治的墓制までが海を越える。
三十四 次節では、いよいよ本書の出発点へ戻る
なぜ、
前方後円墳は、
海の向こうへ現れたのか。
倭人の墓なのか。
在地首長の墓なのか。
倭王権の支配標識なのか。
それとも、
複数の政治関係が重なる海域社会の中で、
選択された政治表象なのか。
次節では、
「前方後円墳は、なぜ海の向こうへ渡ったのか」
という問いから、
半島南西部の前方後円墳を、
本書全体の長期史の中へ置き直していく。
第七節 「前方後円墳は、なぜ海の向こうへ渡ったのか」――半島南西部に現れた政治表象
一 ここで、ようやく本書の出発点へ戻る
朝鮮半島南西部に、
前方後円墳がある。
なぜなのか。
最初にこの事実だけを見ると、
不可解に見える。
列島で成立した特徴的な墳墓形式が、
なぜ海を越えたのか。
二 しかし、ここまでの歴史をたどれば「突然現れた墓」ではなくなる
縄文以来の海上交流。
弥生時代の物資移動。
鉄をめぐる関係。
人の往来と滞在。
四世紀の王権外交。
四世紀末以降の軍事的関与。
五世紀の倭王外交。
前方後円墳の前には、
長い前史がある。
三 したがって問いは「なぜ倭文化が突然半島へ現れたのか」ではない
より正確には、
数世紀にわたって続いた海域関係が、なぜこの時期に首長墓という強い政治表現にまで達したのか。
ここを問う必要がある。
四 しかも、前方後円墳より前にすでに倭系墓制が確認されている
五世紀前半の朝鮮半島西・南海岸には、
北部九州の中小古墳に近い墓制を、
総体的に取り入れたと評価される、
いわゆる「倭系古墳」が存在する。
これは重要である。
五 つまり時系列は、一段階を挟んでいる
倭系の物がある。
その次に、
倭系墓制を持つ古墳がある。
そして、
その後に、
より大型で政治的意味の強い前方後円墳が現れる。
最初から巨大前方後円墳が、
突然持ち込まれたわけではない。
六 高田貫太の研究では、五世紀前半の倭系古墳の被葬者について、倭と百済・栄山江地域との交渉を担った倭系渡来人であった可能性が論じられている
ここで重要なのは、
個々の被葬者像を確定することではない。
五世紀前半には、
海岸部に、
倭との人的関係を考えなければ説明しにくい墓制が、
すでに存在していたことである。
七 その後、五世紀後葉から六世紀前半頃に、栄山江流域を中心として前方後円墳が現れる
この時間差は重要である。
前方後円墳が現れる頃には、
倭と半島南部の間で、
人。
物。
技術。
外交。
軍事。
が、
すでに長期間動いている。
八 つまり前方後円墳は、交流の「最初」ではなく、かなり後の段階に現れる
ここを逆にしてはいけない。
前方後円墳があるから、
倭と半島の関係が始まったのではない。
関係が長く続き、
深くなった後に、
前方後円墳という墓制まで共有されるようになる。
九 これは本書で積み上げてきた「証拠の階段」とも一致する
一個の土器。
複数の遺物。
生活痕跡。
現地生産。
人の滞在。
墓制。
王権外交。
軍事活動。
そして、
大型首長墓。
証拠の意味が、
少しずつ重くなっていく。
十 墓は、土器よりも政治的意味が大きい
一個の土器なら、
交易でも動く。
武器や装身具も、
贈与で動くことがある。
しかし、
巨大な墳丘を造るには、
その土地で、
人を集め、
土を動かし、
資材を集め、
長期間工事を行わなければならない。
十一 つまり前方後円墳は「持ってきた物」ではない
現地に造られた、
巨大な構造物である。
そこには、
土地。
労働力。
食料。
技術。
政治判断。
が必要になる。
したがって、
前方後円墳の存在は、
単なる舶載品より、
はるかに深い地域社会の関与を示す。
十二 だから「倭人が船で来て、自分たちだけで墓を造った」と考えるだけでは足りない
巨大古墳を造るには、
地域社会の労働力が必要になる。
土も、
木材も、
多くは現地で調達する。
長期間活動するには、
食料供給も必要である。
つまり、
仮に被葬者が列島系人物であったとしても、
現地社会との協力なしに巨大墓は成立しにくい。
十三 そして実際、栄山江流域の前方後円墳には在地的な築造要素も指摘されている
墳丘の基本形には、
列島の前方後円墳との共通性がある。
一方で、
実際の盛土。
埋葬施設。
築造技術。
には、
在地社会の技術が使われたと考えられる事例がある。
十四 ここでも「コピー」では説明できない
設計思想だけを持ってきたのか。
技術者も来たのか。
現地工人が学んだのか。
複数の集団が共同したのか。
墓ごとに、
条件が異なった可能性がある。
一つの移植モデルですべてを説明する必要はない。
十五 さらに副葬品や墓制にも、複数地域との関係が現れる
倭系要素。
百済系要素。
加耶との関係を考え得る要素。
在地的要素。
それらが、
一つの墓の中で組み合わされることがある。
ここに見えるのは、
単純な文化置換ではない。
十六 つまり半島前方後円墳は「倭文化が現地文化を塗りつぶした姿」ではない
現地社会は、
前方後円墳以前から存在する。
独自の墓制もある。
独自の政治関係もある。
そこへ、
倭との関係を持つ新しい政治表象が、
選択的に加わる。
十七 ここで「前方後円墳だから倭人」という判定も危険になる
墓の形は、
被葬者の出自を考える重要な資料である。
しかし、
墓制は、
民族だけを表すものではない。
政治関係。
身分。
祭祀。
外交関係。
権威表現。
こうしたものも墓に反映され得る。
十八 列島側でも、前方後円墳は「大和出身者だけの墓」ではなかった
吉備の首長。
九州の首長。
東海の首長。
東国の首長。
それぞれ、
地域社会を持ちながら、
前方後円墳を築く。
つまり墳形を共有することと、
同一出自であることは、
もともと同じではない。
十九 ならば半島側でも、同じ区別が必要になる
倭系出自の人物。
倭と深い関係を持つ在地首長。
複数の地域社会にまたがって活動した人物。
百済の政治秩序にも関係しながら、
倭とも結びつく有力者。
さまざまな可能性がある。
二十 現段階では、すべての被葬者を一つの型へ統一する必要はない
半島前方後円墳が複数存在する以上、
その被葬者の経歴も、
すべて同じだったとは限らない。
築造理由も、
地域ごと。
世代ごと。
政治状況ごとに、
違っていた可能性がある。
二十一 ここで「倭側か、百済側か」という二択も崩れる
五世紀の倭と百済は、
外交関係を持つ。
したがって、
百済政治圏に属しながら、
倭とも深い関係を持つ人物がいても、
論理的には矛盾しない。
古代の政治関係は、
現代の国籍のような、
一つだけの所属で整理できるとは限らない。
二十二 むしろ海域首長という視点が、ここでも有効になる
港を持つ。
航路を知る。
外部勢力と交渉する。
物資を集める。
内陸社会とも結びつく。
そのような有力者なら、
複数の政治圏との関係を持つことが、
力の源になる場合がある。
二十三 そして前方後円墳を選ぶこと自体が、政治的メッセージになり得る
列島では、
前方後円墳が、
広域首長秩序と結びついていた。
その墳形を、
半島側の有力者が選ぶ。
ならば、
そこには少なくとも、
倭王権との関係を無意味としない政治判断があった可能性を考えられる。
二十四 ただし、これは「倭王から築造許可証をもらった」と証明するものではない
どの程度、
王権が直接関与したのか。
誰が設計を伝えたのか。
どこまで築造方法が統制されていたのか。
個々の古墳ごとに検討が必要である。
前方後円墳の存在だけから、
直接支配を断定することはできない。
二十五 ここで重要なのは「支配」より先に「関係」を読むことである
誰が誰を統治したか。
という問いも重要である。
しかし、
墓から直接読みやすいのは、
むしろ、
誰と結びついていたのか。
どの政治文化を選択したのか。
どのような首長世界へ自らを位置づけたのか。
という関係性である。
二十六 半島前方後円墳は、近代的国境線を引くための資料ではない
ここから、
「この土地は倭の領土だった」
と直ちに結論することはできない。
反対に、
「在地首長が形だけ真似したので政治的意味はない」
と小さく見ることも適切ではない。
二十七 巨大墓を採用することには、相応の理由が必要である
大量の労働力を使う。
在来の墓制とは異なる形を採用する。
地域社会の景観へ、
巨大な墳丘を残す。
これは、
日用品を一つ輸入することとは違う。
首長層が、
相応の政治的意味を認識していた可能性を考える必要がある。
二十八 その政治的意味を理解する鍵は、列島側の前方後円墳体制にある
列島では、
同じ基本形の墓が、
首長間関係を表した可能性がある。
ならば、
海の向こうで同じ墳形を選択することも、
倭王権や倭系首長世界との関係を表す行為だった可能性がある。
二十九 しかし半島では、その表象が現地政治の中で使い直される
これが重要である。
列島で持っていた意味が、
そのまま百パーセント移植されたとは限らない。
栄山江流域には、
栄山江流域の政治事情がある。
百済との関係がある。
周辺地域との競争がある。
その中で、
前方後円墳という表象が、
新しい意味を与えられた可能性もある。
三十 つまり前方後円墳も「転換」されている
技術と同じである。
別の地域へ渡る。
現地社会へ入る。
在来要素と組み合わされる。
新しい政治環境で使われる。
形は似ていても、
社会的意味まで完全に同一とは限らない。
三十一 だから半島前方後円墳を理解するには、二つの視点が同時に必要になる
一つは、
倭王権と前方後円墳体制との関係。
もう一つは、
半島南西部の在地政治社会。
片方だけでは、
説明が偏る。
海を挟んだ両側を、
同時に見なければならない。
三十二 そして、その立地も海域関係を考える手掛かりになる
五世紀前半の倭系古墳には、
西・南海岸との結びつきが強いものがある。
栄山江流域の前方後円墳も、
河川。
海岸。
交通路。
との関係が指摘されている。
墓は、
孤立した内陸世界に現れたわけではない。
三十三 海と川は、墓の背景にある物流を示す
人が移動する。
物が運ばれる。
外交使節が来る。
工人が移る。
情報が入る。
首長同士が交渉する。
海岸や河川沿いの立地は、
こうした広域交通との関係を考える上で重要である。
三十四 ここで本書の最初の問いは、少し違う答えへたどり着く
「誰の墓か」
だけではない。
より大きな問いは、
なぜ、その人物が前方後円墳という政治表象を選べる関係世界にいたのか。
である。
三十五 その答えは、一つの民族移動だけでは説明できない
数世紀の海上交流。
人の滞在。
技術移転。
首長外交。
王権外交。
軍事活動。
地域社会の政治競争。
それらが重なった結果として、
前方後円墳という政治表象が、
海を越えて選択される条件が生まれた。
三十六 つまり墓が海を渡ったのではない
先に、
人が渡った。
物が渡った。
技術が渡った。
政治関係が渡った。
その後に、
政治的な墓制まで海を越えた。
この順序こそが重要である。
三十七 そして、ここから次の問いが生まれる
前方後円墳が、
倭人だけを示すのでない。
倭領だけを示すのでもない。
それなら、
この墓が最も強く語っているものは何なのか。
次節では、
「前方後円墳が示したのは『民族』か、それとも『政治関係』か」
という問いから、
半島と列島に共通して現れる墳形が、
何を可視化していたのかを整理していく。
第八節 「前方後円墳が示したのは『民族』か、それとも『政治関係』か」――墓から人間関係を読む
一 前方後円墳を見た時、最初に考えたくなるのは「誰の墓か」である
倭人なのか。
在地の人なのか。
百済系なのか。
加耶系なのか。
被葬者の出自は、
もちろん重要な問題である。
しかし、
墓が示す情報を、
そこだけに限定してはいけない。
二 墓は「私は何者か」だけを表すものではない
人は、
一つの属性だけで生きているわけではない。
どこで生まれたのか。
どこで暮らしたのか。
誰と婚姻したのか。
誰に仕えたのか。
どの交易圏で活動したのか。
どの政治勢力と関係したのか。
こうした複数の関係を持つ。
三 だから墓も「民族名札」のようには読めない
前方後円墳である。
だから倭人。
倭人だから倭領。
この二段階の推論は、
慎重でなければならない。
墳形と、
被葬者の出自。
被葬者の出自と、
政治的支配。
これは別々の問題である。
四 列島側を見れば、そのことはすぐ分かる
大和の人物だけが、
前方後円墳へ葬られたわけではない。
吉備。
九州。
東海。
北陸。
東国。
各地の首長も、
前方後円墳を築く。
彼らは、
それぞれ地域社会を基盤としている。
五 つまり列島内ですら「同じ墳形=同じ地域出自」ではない
共通しているのは、
生まれた場所ではない。
むしろ、
共通する広域政治秩序との関係である可能性が高い。
この区別を、
半島側でも維持しなければならない。
六 前方後円墳は、政治的所属や関係を表現する墓制だった可能性がある
列島側では、
前方後円墳の形。
規模。
埋葬施設。
副葬品。
などを通じて、
首長層の地位や関係を考える研究がある。
つまり墓は、
単なる個人情報ではなく、
社会的位置を表す。
七 ならば半島側の前方後円墳も「誰と結ばれていたのか」という視点が必要になる
倭王権と関係していたのか。
倭系集団と関係していたのか。
百済とも関係していたのか。
海上交通を担っていたのか。
地域社会の首長だったのか。
一つの墓から、
複数の政治関係を考えることができる。
八 ここで重要になるのが「複数所属」という発想である
現代の国籍感覚では、
どちら側なのか。
と考えやすい。
しかし古代の有力者が、
倭と関係する。
百済とも関係する。
地域社会にも基盤を持つ。
という状態は、
必ずしも矛盾しない。
九 むしろ海域社会では、複数の関係を持つこと自体が強みになる
海を渡れる。
異なる言語や慣習を知る。
複数の政治勢力と交渉できる。
物資の流れを知る。
港を利用できる。
そうした人物は、
一つの地域だけに閉じた首長より、
広い交渉力を持つ可能性がある。
十 このような人物を、現代的な民族区分だけで整理すると見えにくくなる
父系。
母系。
出生地。
成長した地域。
政治的忠誠。
交易関係。
婚姻関係。
これらは、
一致するとは限らない。
古代の被葬者像を考える時、
一つの属性ですべてを決めないことが重要である。
十一 だから「倭系人物」という言葉も、何を意味しているのか確認する必要がある
列島で生まれた人物なのか。
列島系墓制を採用した人物なのか。
倭王権と政治関係を持った人物なのか。
倭系文化を強く用いた人物なのか。
それぞれ意味が違う。
十二 考古資料が直接示すのは、まず物と構造である
墳丘形。
石室。
副葬品。
土器。
築造技術。
これらから、
文化的系譜や交流関係を考える。
そこから、
被葬者の経歴を推定する。
しかし、
推定の段階を飛ばして、
民族名を確定させてはいけない。
十三 逆に、複合的な資料があるからといって「何も分からない」とする必要もない
倭系墳形がある。
在地的築造技術がある。
百済系要素がある。
加耶との関係を考えられる遺物がある。
これは混乱ではない。
むしろ、
被葬者が複数の政治・文化関係の中にいた可能性を示す。
十四 海域社会では、複合性こそ自然なのである
船は、
国境線の上で止まらない。
人は移動する。
技術も移動する。
婚姻も起こる。
贈与もある。
外交もある。
地域社会同士が、
何世代にもわたって接触すれば、
文化要素は混ざる。
十五 したがって「純粋な倭文化」対「純粋な在地文化」という構図そのものを疑う必要がある
前方後円墳の基本形は、
列島側の政治墓制と強く結びつく。
しかし、
半島側で造られる時、
現地の技術が使われる。
在地墓制とも併存する。
新しい政治環境の中で、
意味が組み替えられる。
十六 つまり、形の起源と使われ方は分けなければならない
前方後円という墳形が、
列島側の政治文化から来た。
それと、
半島側で、
誰が。
なぜ。
何のために。
その形を使ったのか。
は別の問題である。
十七 この区別をすれば「倭の墓か、在地の墓か」という二択から離れられる
倭系出自の人物が、
現地社会に根を張っていた可能性。
在地首長が、
倭王権との関係を表すために採用した可能性。
両者の中間的な人物がいた可能性。
墓ごとに、
異なる背景を考えられる。
十八 そして実際、半島前方後円墳の被葬者像を一種類に統一する必要はない
複数の古墳がある。
築造時期も違う。
立地も違う。
墓の内容も違う。
政治状況も変化する。
ならば、
被葬者の経歴も一様だった、
と考える必要はない。
十九 ここで「民族」より「政治関係」という視点が有効になる
民族的出自が、
どうでもよいという意味ではない。
むしろ、
出自を考えた上で、
さらに、
誰と政治的につながっていたのか。
を問う。
この二つを分けることで、
墓の意味がより立体的になる。
二十 前方後円墳は「私は誰である」だけでなく「私は誰と結ばれている」を表し得る
この視点は、
列島でも半島でも使える。
地方首長が、
前方後円墳を造る。
それによって、
広域首長秩序との関係を示す。
半島側の首長が、
同じ墳形を選ぶ。
そこにも、
広域政治関係の表現を考える余地がある。
二十一 つまり墓は、政治的な自己紹介でもある
私は、
この地域の首長である。
私は、
この政治世界とつながっている。
私は、
この祭祀秩序を共有している。
私は、
この広域関係の中で地位を持つ。
文字による肩書がなくても、
墓によってそれを示すことができる。
二十二 そして巨大墓は、個人だけでなく地域社会にも意味を持つ
首長が、
前方後円墳へ葬られる。
すると、
その首長を支えた地域社会も、
広域政治秩序との関係を可視化することになる。
墓は、
被葬者一人のものではなく、
その地域の政治的位置も示し得る。
二十三 ここで半島前方後円墳の存在は、非常に重い意味を持つ
一個の倭系土器より、
政治的意味が大きい。
一個の装身具より、
社会的投入も大きい。
地域社会を動員して、
特徴的な大型墓を造る。
その選択は、
広域関係を考える上で無視できない。
二十四 しかし、その重みを「領土支配」へ直結させる必要はない
政治関係には、
多くの段階がある。
同盟。
従属。
協力。
外交関係。
軍事関係。
婚姻関係。
交易関係。
形式的な権威承認。
墓だけから、
そのどれか一つへ確定することはできない。
二十五 したがって「倭王権の影響がある」と「倭王権が直接統治している」は別である
政治的影響が及ぶ。
墓制が採用される。
それでも、
地域首長が独自の政治基盤を持つことは可能である。
前方後円墳体制そのものが、
列島内部でも、
必ずしも直接行政支配を意味していなかった。
二十六 この点では、半島前方後円墳も列島の地方古墳と同じ問題を持つ
地方首長が、
王権と結びつく。
しかし、
地方社会を自ら統治する。
王権秩序へ参加している。
しかし、
中央官人が村々を直接管理しているわけではない。
こうした政治構造なら、
海を越えた関係でも考え得る。
二十七 だから「支配か模倣か」という二択では狭すぎる
倭が征服した。
あるいは、
現地首長が格好だけ真似した。
そのどちらかだけではない。
その中間に、
政治的関係。
外交的結びつき。
共同利害。
人的移動。
という広い領域がある。
二十八 ここで本書が最も重視してきた「関係の歴史」が戻ってくる
国家より先に、
海があった。
海を越えて、
人が関係を作った。
交易が関係を作った。
技術移転が関係を深めた。
首長外交が始まった。
王権外交が始まった。
その後に、
墓制まで共有される。
二十九 つまり前方後円墳は、長期的に形成された関係を「地上へ固定したもの」とも考えられる
人間関係は、
目に見えない。
外交関係も、
その場を離れれば見えない。
しかし巨大墓なら、
何十年。
何百年。
景観に残る。
政治的な結びつきが、
地形として残る。
三十 この意味では、半島前方後円墳が最も強く示すのは「関係の深さ」である
一度交流した。
という程度ではない。
土器一個が渡った。
という程度でもない。
首長の葬送という、
地域社会にとって重要な場面で、
倭系政治墓制が選択される。
それだけ関係が深まっていた。
三十一 ただし「深い関係」の内容は、墓ごとに検討しなければならない
倭王権との直接関係なのか。
北部九州の首長層との関係なのか。
百済を介した関係なのか。
海上交通を担う集団との関係なのか。
複数が重なっているのか。
前方後円墳という一語だけで、
すべてを同じ政治関係にしてはいけない。
三十二 ここでも「一つの中心から一方向へ文化が広がった」という図では不十分である
倭から半島へ、
人や墓制が動く。
一方で、
半島から列島へも、
鉄。
馬。
窯業技術。
金工技術。
その他の技術や文化要素が動く。
海域関係は、
双方向である。
三十三 前方後円墳だけを見れば、倭側から半島側への動きに見える
しかし、
同じ時代の文化移動全体を見ると、
一方通行ではない。
つまり半島前方後円墳も、
双方向に人と技術が動く海域社会の中で起きた政治現象
として見る必要がある。
三十四 ここで本書の問いは「どちらが文化を与えたか」から離れる
どちらが上だったか。
どちらが先進だったか。
という競争ではない。
何が移動したのか。
誰が受け取ったのか。
どのように使い直したのか。
何が政治力へ変わったのか。
それを追う。
三十五 そうすると前方後円墳の意味も、より明確になる
これは、
民族の境界線を描くためだけの墓ではない。
国境線を確定するためだけの資料でもない。
むしろ、
人・地域・首長・王権を結んだ政治関係を考える資料
なのである。
三十六 そして、この関係は永遠には続かない
前方後円墳が半島に現れる。
しかし、
長期間同じ形で続くわけではない。
六世紀になると、
半島南部の政治秩序は、
さらに大きく変化する。
百済の地方統合。
新羅の勢力拡大。
加耶諸国の再編。
それに伴って、
首長たちが選ぶ政治表象も変化していく。
三十七 ここで次の問いが生まれる
もし前方後円墳が、
政治関係を示す墓だったのなら、
その墓が短期間で姿を消すことにも、
政治的意味があるのではないか。
次節では、
「なぜ半島の前方後円墳は、限られた時期にしか現れなかったのか」
という問いから、
墓制の消滅と、
海域政治秩序の変化を考えていく。
第九節 「なぜ半島の前方後円墳は、限られた時期にしか現れなかったのか」――墓制の消滅から政治秩序を読む
一 半島南西部の前方後円墳には、もう一つ大きな特徴がある
長く続かない。
主に五世紀後葉から六世紀前半頃という、
限られた時期に集中して現れる。
列島の前方後円墳のように、
何世紀にもわたる広域墓制として定着したようには見えない。
ここは重要である。
二 墓が現れた理由を考えるなら、消えた理由も考えなければならない
なぜ造ったのか。
だけではない。
なぜ、
造らなくなったのか。
墓制の採用も、
墓制の放棄も、
地域社会の選択である。
三 もし前方後円墳が、その地域の恒久的な祖先墓制として定着していたなら、より長く続いてもよい
一代。
次の世代。
さらにその次。
同じ政治集団が、
同じ墓制を継承する。
そのような展開も考えられる。
しかし現状の資料からは、
半島南西部で前方後円墳が、
長期にわたり世代を重ねて展開した姿は見えにくい。
四 ここから考えられるのは、前方後円墳が「永続的な地域伝統」ではなかった可能性である
特定の時期。
特定の政治環境。
特定の首長関係。
その中で、
前方後円という墓制を選ぶ意味があった。
言い換えれば、
政治条件が変われば、選ぶ必要もなくなる墓制
だった可能性がある。
五 これは、前節までの議論ともよく合う
前方後円墳が、
民族そのものを示す墓ではなく、
政治関係を表現する墓でもあったとすれば、
その政治関係が変われば、
墓の形も変わり得る。
六 五世紀後半から六世紀前半は、まさに半島南部の政治秩序が大きく動く時期である
百済。
新羅。
加耶諸国。
栄山江流域の地域勢力。
それぞれの関係が、
固定していたわけではない。
勢力関係そのものが変化している。
七 栄山江流域でも、墓制の変化が起こる
それまでの在地的な墓制がある。
そこへ、
外部文化の影響が入る。
前方後円墳も現れる。
さらに、
百済系墓制の影響が強くなる。
つまり、
前方後円墳は、
墓制が大きく動いている時期の中に現れる。
八 この点から見ると、前方後円墳は「完成した新伝統」ではなく、政治的過渡期の墓制だった可能性がある
古い秩序が変わる。
新しい秩序も、
まだ完全には固定していない。
複数の政治関係が重なる。
その間に、
ある首長たちが、
前方後円という政治表象を選択する。
九 だから短期間しか続かなかったこと自体が、重要な情報になる
失敗した。
流行が終わった。
というだけではない。
前方後円墳を必要とした政治状況そのものが短かった
可能性がある。
十 ここで百済の地方統合との関係が浮かび上がる
栄山江流域の前方後円墳が見えなくなっていく時期は、
百済が湖南方面との政治関係を、
より強く制度化していく過程と重なると論じられている。
ただし、
その進行時期や支配形態については、
研究上の議論が残る。
十一 したがって「前方後円墳が消えた=百済が征服した」と単純化してはいけない
一つの墓制が消えた。
だから、
その年に軍事征服が起こった。
とは言えない。
政治統合は、
軍事。
婚姻。
官位。
地方支配。
祭祀。
人的関係。
など、
複数の方法で進み得る。
十二 重要なのは、地方首長が自らの国際関係を墓によって表現する余地が変化した可能性である
以前なら、
倭との関係を、
前方後円墳という形で示す意味があった。
しかし、
百済王権との関係が、
より制度的に首長の地位を決めるようになれば、
別の政治表現が必要になる。
十三 つまり、同じ首長でも「地位の根拠」が変わる
海域交易を押さえている。
倭とつながっている。
複数の政治勢力と交渉できる。
そうした能力が、
大きな政治資源となる段階がある。
一方で、
中央王権との制度的関係が強くなれば、
首長の地位は、
別の仕組みで保証されるようになる。
十四 ここで前方後円墳という政治表象の価値が下がる可能性がある
「私は倭と深い関係を持つ」
ことを、
巨大墓で表現する。
それが力になる時代。
そこから、
「私は百済王権の秩序の中でこの地位にいる」
ことの方が重要になる時代へ変わる。
そうなれば、
同じ墓を造り続ける理由は弱くなる。
十五 つまり墓制の変化は「誰が首長の地位を承認するのか」という問題でもある
地域社会。
海域ネットワーク。
他国の王権。
中央王権。
首長の権威を支える相手が変われば、
その権威を表す方法も変わる。
十六 この意味では、前方後円墳の消滅は政治的孤立を意味しない
墓が変わった。
だから、
倭との交流が完全に消えた。
とは限らない。
人は引き続き動くことがある。
交易も続く。
外交関係も残り得る。
変わったのは、
その関係を墓制として表現する必要性
だった可能性がある。
十七 これは列島側の前方後円墳の終焉とも、構造的に比較できる
列島でも、
前方後円墳は永遠には続かない。
しかし、
墓が小さくなったから、
王権が消えたわけではない。
むしろ、
政治制度はさらに変化していく。
政治を表す装置そのものが変わるのである。
十八 半島側でも同じ視点を持つ必要がある
前方後円墳が消えた。
だから、
その地域社会が衰退した。
とは限らない。
首長の権威が、
別の墓制。
別の制度。
別の政治関係。
によって表されるようになった可能性がある。
十九 ここで「墓の消滅」と「社会能力の消滅」を分けなければならない
農地は残る。
港も残る。
人もいる。
工人もいる。
船もある。
交易経験も残る。
前方後円墳が消えても、
その墓を造れた社会の能力まで、
同時に消えるとは限らない。
二十 むしろ問題は、その能力を誰が使うようになったかである
地域首長が、
自らの政治表現として使うのか。
より大きな王権が、
軍事や行政へ組み込むのか。
交易へ向かうのか。
別の墓制や施設へ使われるのか。
ここで、
余剰の使われ方が変化する。
二十一 本書が第四部で見てきた「余剰の再編」という問題が、ここにもある
余剰が消える。
とは限らない。
余剰を集める主体が変わる。
使う目的が変わる。
政治回路が変わる。
その結果、
考古資料として見える形も変わる。
二十二 多極的な海域社会では、境界をつなぐ首長が大きな力を持ち得る
複数の王権と交渉する。
港を押さえる。
船を持つ。
物資を動かす。
そうした首長にとって、
倭との関係を墓で示すことは、
政治的価値を持ち得る。
二十三 しかし国家統合が進むほど、その独自性は制約される可能性がある
外交を中央王権が担う。
軍事を中央王権が組織する。
地方首長の地位を、
中央との関係が決める。
すると、
地方首長が独自に、
複数の海外勢力との関係を政治資源として使う余地は小さくなる。
二十四 つまり前方後円墳は「国家の狭間」に強く見える墓だった可能性がある
完全に独立した地域社会だけでもない。
強い中央国家へ完全に組み込まれた状態でもない。
複数の政治勢力の間で、
地域首長自身が大きな交渉力を持つ。
そのような環境で、
海域関係を可視化する墓として意味を持った可能性がある。
二十五 この視点なら、なぜ加耶との交流が深かった地域に前方後円墳が大量に並ばないのかという問題も見えてくる
交流の深さだけで、
前方後円墳は生まれない。
倭との交流がある。
それだけでは足りない。
地域首長が、
その関係を、
前方後円という墓制で表現する政治的理由が必要なのである。
二十六 つまり「交流量」と「墓制採用」は別の問題である
大量に交易していても、
別の墓制を使うことはできる。
人が多く往来していても、
前方後円墳を造らないことはある。
墓制を決めるのは、
交流だけではない。
地域政治の構造である。
二十七 だから栄山江流域の事例が重要になる
在地の強い墓制伝統がある。
百済との政治関係がある。
倭との海上関係もある。
複数の文化要素が入る。
しかも、
政治秩序が変化している。
前方後円墳が現れる条件が、
複数重なっている。
二十八 そして、その条件が崩れれば墓も消える
百済との関係が変わる。
新羅の勢力が伸びる。
加耶諸国の政治状況が変わる。
海域交易の構造も変化する。
地方首長の外交的位置も変わる。
すると、
前方後円墳という墓制の意味も変わる。
二十九 だから「消えたこと」は、前方後円墳が重要でなかったことの証拠ではない
むしろ逆である。
政治状況に応じて選ばれ、
政治状況が変われば使われなくなる。
それだけ、
政治関係と強く結びついた墓制だった可能性がある。
三十 誕生と消滅を一緒に見ると、前方後円墳の性格がはっきりしてくる
長い海域交流の後に現れる。
政治関係が深まった時期に現れる。
地域政治秩序の再編とともに姿を変える。
この流れは、
前方後円墳を、
単なる建築様式としてだけ見るより理解しやすい。
三十一 つまり半島前方後円墳とは、固定した民族文化の証明というより「ある政治関係が成立していた時間」を地上へ残した墓だった可能性がある
海を越えた人々。
地域首長。
倭王権。
百済。
周辺諸勢力。
それらの関係が、
ある時期だけ特定の形を取る。
その一瞬が、
巨大な墳丘として残った。
三十二 ここまで来ると、本書最初の問いに対する答えもかなり絞られてくる
なぜ、
朝鮮半島南西部に前方後円墳があるのか。
単に、
倭人が移住したから。
だけでは足りない。
在地首長が模倣したから。
だけでも足りない。
倭王権が領土支配したから。
と断定することもできない。
三十三 必要なのは、その墓を成立させた「関係世界」全体を見ることである
海上交通。
人の往来。
技術。
地域の余剰力。
首長の政治的位置。
倭との関係。
百済との関係。
そして、
六世紀へ向かう政治再編。
これらが重なった時、
前方後円墳が成立する。
三十四 そして条件が変われば、墓は消える
この事実こそ、
前方後円墳が、
単なる民族標識でも、
単なる流行でもなく、
政治社会と深く結びついた墓制だったことを考える重要な手掛かりになる。
三十五 では結局、前方後円墳とは何だったのか
墓である。
王や首長の権威を示すモニュメントでもある。
社会動員能力の物証でもある。
首長間の関係を可視化する装置でもある。
海を越えれば、
異なる政治圏を結んだ関係まで映し出す。
三十六 次節では、本書全体をこの問いへ収束させる
縄文の海。
弥生の交易。
技術と余剰。
海域首長。
倭王。
纒向。
前方後円墳体制。
海外外交。
軍事。
半島前方後円墳。
そして、
墓制の消滅。
これらを一つにつなぎ、
最後に、
「前方後円墳とは、国家形成の中で何を担った政治装置だったのか」
という本書の結論を示す。
第十節 「前方後円墳とは何だったのか」――海から始まった国家形成の結論
一 最初に見ていたのは、墓の形だった
なぜ、
前方後円なのか。
なぜ、
あれほど巨大なのか。
なぜ、
列島各地へ広がったのか。
そして、
なぜ朝鮮半島南西部にも現れるのか。
本書の出発点は、
そこにあった。
二 しかし、最後まで追うと、本当の謎は形ではなかった
本当に問うべきだったのは、
なぜ、その巨大な墓を造れる社会が成立したのか。
ということである。
さらに、
なぜ、その政治的墓制を、海の向こうの有力者まで選択する関係世界が生まれたのか。
ということであった。
三 その答えを探すために、縄文まで戻る必要があった
墓より先に、
海があった。
国家より先に、
船があった。
王より先に、
海を渡る人々がいた。
そして、
国家成立以前から、
列島と半島南部を結ぶ地域社会が存在していた。
四 そこでは、文化は国境を越えたのではない
そもそも、
現在のような国境がない。
人が動く。
土器が動く。
石材が動く。
技術が動く。
知識が動く。
海は、
境界であると同時に、
道だった。
五 弥生時代になると、その海域関係はさらに複雑になる
農業。
鉄。
交易。
滞在。
技術移転。
地域間交流。
これらが重なる。
社会の生産力が増え、
人や時間を、
生存以外の活動へ向ける余地も大きくなる。
六 ここで、本書の分析軸となった「余剰力」が現れる
余剰とは、
単に米が余ることではない。
社会が、
生存に必要な最低限を超えて、
人。
時間。
物資。
を、
別の目的へ振り向けられる能力である。
七 海を渡ることにも余剰がいる
船を造る。
船を修理する。
航海者を養う。
交換物資を用意する。
寄港地との関係を維持する。
それを、
何世代も続ける。
海域交流そのものが、
社会的余力の存在を示す。
八 そして余剰が増えると、社会は専門化する
工人。
船乗り。
祭祀者。
交易担当者。
武器を扱う者。
外部との交渉者。
役割が分かれるほど、
社会内部の調整も必要になる。
九 そこで首長が現れる条件が整う
港を押さえる。
内陸生産と海をつなぐ。
交易を調整する。
人を集める。
物資を分配する。
他地域と交渉する。
ただし、
交易があるから、
必ず首長が生まれるわけではない。
重要なのは、
余剰と関係を政治的に組織する必要が高まったこと
である。
十 さらに複数の首長が関係すれば、その上位調整が必要になる
首長同士が争う。
交易利害がぶつかる。
祭祀を共有する。
外部勢力と交渉する。
軍事的に協力する。
一地域だけでは処理できない問題が増える。
その中で、
上位の王が必要になる。
十一 だから王が社会をゼロから作ったのではない
すでに、
人がいる。
農業がある。
交易がある。
港がある。
首長がいる。
地域社会がある。
王は、
その社会の上に現れた。
十二 しかし、一度王が成立すると、関係は逆向きにも働く
王が、
首長関係を調整する。
祭祀を整える。
外交を行う。
動員を行う。
政治中枢を形成する。
すると、
王権もまた、
社会を作り替え始める。
十三 国家形成は、社会から王への一方向ではなかった
社会が王を作る。
王が社会を再編する。
再編された社会が、
より大きな余剰を生む。
その余剰が、
さらに強い王権を支える。
本書では、
この循環を重視した。
十四 そして、その王権が「場所」を持つ
纒向である。
人が集まる。
物が集まる。
広域の文化要素が集まる。
大型施設が築かれる。
ここに、
広域政治関係が、
恒常的な場所を持ち始めた可能性を見ることができる。
十五 しかし、場所だけでは広域王権は見えない
大和から遠い首長にとって、
政治中枢は遠い。
そこで、
王権との関係を、
各地域でも表現できる仕組みが必要になる。
十六 その有力な装置が、前方後円墳だった
共通する基本形。
規模の差。
葬送儀礼。
巨大な景観。
地方首長が、
自分の地域に前方後円墳を築く。
すると、
王権と地域首長の関係が、
土地の上に残る。
十七 本書では、前方後円墳を「政治関係を可視化した墓」と考えてきた
これは、
前方後円墳が国家そのものだ、
という意味ではない。
律令国家のような、
完成した行政制度があったという意味でもない。
むしろ、
首長社会から広域王権へ変わる途中に現れた政治的モニュメント
として捉える。
十八 そこでは、地方首長は消えていない
地方首長は、
地域の人と余剰を持つ。
自らの政治基盤を持つ。
そのうえで、
王権と結びつく。
つまり、
中央がすべてを直接支配する前に、
首長と首長を結ぶことで、
広い地域をまとめる政治があった可能性がある。
十九 前方後円墳は、その人間関係の地図でもあった
領土の境界線ではない。
誰が、
誰と結ばれているのか。
誰が、
どの政治秩序へ参加しているのか。
誰が、
どの程度の地位を持つのか。
それを、
墓という形で示す。
二十 そして巨大古墳は、同時に余剰力の物証でもある
土を動かす。
石を運ぶ。
木材を使う。
工具を供給する。
食料を集める。
人を動員する。
工程を管理する。
巨大古墳とは、
死者の墓であると同時に、
その社会がどれほどの人と物を動かせたかを示す巨大な痕跡
でもある。
二十一 この社会能力は、墓だけには使われない
外交。
軍事。
船舶。
大規模土木。
祭祀。
政治中枢。
目的が変われば、
人と物を動かす能力も、
別の用途へ向けられる。
二十二 ここで前方後円墳体制と、四~五世紀の対外活動がつながる
広開土王碑では、
倭が軍事主体として現れる。
五世紀には、
倭の五王が中国南朝へ遣使し、
半島南部の政治・軍事秩序に関わる地位を求める。
王権の活動範囲が、
列島内部から、
海の向こうへ広がっている。
二十三 しかし、その軍事力も王一人の力ではない
兵。
米。
船。
水夫。
武器。
港。
これらは、
地方社会から生まれる。
だから倭王権の対外活動を考えるには、
地方の余剰を王権へ接続する広域政治秩序
が必要になる。
二十四 この意味で、前方後円墳は軍事史ともつながる
古墳が軍隊だった、
ということではない。
古墳建設組織が、
そのまま海外遠征した、
ということでもない。
しかし、
多数の人と物を動かす社会的基盤が存在したことは、
後の対外活動を考える重要な条件になる。
二十五 そして海域社会の能力は、王権によって政治化される
国家以前から、
船はあった。
航路もあった。
交易もあった。
人の往来もあった。
国家は、
それをゼロから作ったのではない。
既存の能力を、
外交。
軍事。
王権政治。
へ組み込んだ。
二十六 つまり、海域文化が先にあり、国家は後からその上に成立した
ただし、
国家ができた後も、
海域文化がそのまま残るわけではない。
国家は、
航路を利用する。
人材を組織する。
交易関係を政治利用する。
軍事へ転換する。
国家は海域文化を消したのではなく、政治化した。
二十七 その政治化が最も強く見える現象の一つが、海を越えた前方後円墳である
五世紀前半には、
半島西・南海岸に倭系墓制を採用した古墳が現れる。
その後、
五世紀後葉から六世紀前半頃、
半島南西部に前方後円墳が現れる。
ここにも、
段階がある。
二十八 前方後円墳は、何もない土地へ突然現れたのではない
その前には、
何世紀もの海上交流がある。
鉄交易がある。
人の滞在がある。
墓制の移動がある。
王権外交がある。
軍事関係がある。
それらが積み重なった後に、
大型の政治墓制までが海を越える。
二十九 だから、半島前方後円墳を一つの民族移動だけで説明する必要はない
倭系出自の人物も、
いた可能性がある。
在地首長も、
いた可能性がある。
複数の政治圏に関わる人物も、
いた可能性がある。
墓ごとに、
背景が異なっていてもよい。
三十 重要なのは「何人だったか」だけでなく「誰と結ばれていたか」である
前方後円墳は、
民族判定装置ではない。
政治関係も表す。
社会的地位も表す。
広域秩序への参加も表し得る。
つまり、
墓の共通性は、
必ずしも血統の共通性ではない。
三十一 そして半島前方後円墳が短期間で消えることも、その性格を示している
地域政治秩序が変わる。
百済との関係が変わる。
新羅が成長する。
加耶諸国が再編される。
地方首長が、
前方後円という形で倭との関係を示す政治的意味も変わる。
三十二 墓制の消滅は、関係世界の変化でもある
前方後円墳が消えた。
だから、
海上交流が消えたわけではない。
人も、
港も、
技術も、
船も、
残る。
変わったのは、
それらを束ねる政治回路である。
三十三 七世紀になると、その政治回路はさらに大きく組み替えられる
加耶諸国が消える。
百済王朝が崩壊する。
白村江で、
百済復興勢力と倭軍が敗れる。
しかし、
海そのものは消えない。
三十四 国家が滅びても、人は残る
王族。
官人。
工人。
築城技術者。
船乗り。
農民。
彼らは、
別の政治体へ組み込まれる。
文化は、
国家名と同時には消えない。
三十五 ここで本書第四部の問いが戻る
前方後円墳が消えた後、
力はどこへ行ったのか。
加耶が消えた後、
技術はどこへ行ったのか。
百済が滅びた後、
人材はどこへ行ったのか。
白村江で敗れた後、
倭の余剰力はどう使われたのか。
三十六 見えてきたのは「消滅」より「再編」であった
墓から、
寺院へ。
宮都へ。
城郭へ。
工房へ。
文書行政へ。
もちろん、
古墳の予算がそのまま移った、
という意味ではない。
しかし、
人を集める。
技術者を養う。
物資を運ぶ。
大規模事業を組織する。
そうした社会能力は、
新しい目的へ使われ得る。
三十七 ここに「転換力」がある
受け継いだ能力を、
別の用途へ使う。
環境が変われば、
使い方も変える。
技術を、
そのまま保存するのではない。
新しい政治状況へ、
適応させる。
三十八 同時に「継承力」がある
王が変わっても、
仕組みが残る。
担当者が変わっても、
組織が残る。
制度が、
一代で消えない。
政治力を、
個人から社会へ残す力である。
三十九 そして「伝承力」がある
技能を、
次世代へ渡す。
知識を教える。
技術を繰り返し使う。
一人の名工で終わらせず、
社会の中へ広げる。
文化を、
点から面へ変える力である。
四十 さらに「継戦力」がある
危機の後にも、
社会を立て直す。
消費した余剰を、
もう一度作る。
敗戦しても、
次の事業へ移る。
国家力とは、
一度大きな力を出せるかだけではない。
使った力を、再び作り直せるか
でもある。
四十一 これら四つの力を支えるのが、余剰力である
継戦力。
継承力。
伝承力。
転換力。
それらは、
人や物を支える余裕がなければ働かない。
そして、
それらがうまく働けば、
また次の余剰が生まれる。
四十二 したがって、本書が追ってきた国家形成は「一度の征服」ではない
一人の英雄が、
列島を統一した日。
一つの戦争で、
国家が完成した日。
そのような一点だけでは説明できない。
国家形成とは、
何世代にもわたり、
社会能力が積み重なる過程である。
四十三 同じ「倭」という名でも、中身は変化する
地域社会。
首長。
首長連合。
共立王。
恒常的政治中枢。
広域王権。
大王。
海外軍事を行う国家。
呼称が同じでも、
政治能力は同じではない。
器の中身が、何世代もかけて厚くなった
と考えるべきである。
四十四 だから前方後円墳は「国家完成の証明」ではない
むしろ、
国家形成の途中に現れた。
地方首長がまだ強い。
地域文化も残る。
王権も、
すべてを直接統治してはいない。
しかし、
共通墓制。
政治中枢。
首長序列。
広域動員。
という新しい秩序が生まれている。
四十五 本書の立場から言えば、前方後円墳とは、その中間段階に最もよく適応した政治装置だった
国家そのものではない。
しかし、
国家形成と無関係でもない。
墓である。
しかし、
墓だけでもない。
祭祀施設である。
しかし、
祭祀だけでもない。
政治関係。
余剰。
動員。
王権。
それらが、
一つの巨大な形へ重なっている。
四十六 そして前方後円墳は、物流の遺跡でもある
土。
石。
木材。
鉄工具。
食料。
労働者。
これらを、
必要な場所へ動かす。
さらに、
墳丘思想や築造技術を広域へ伝える。
巨大古墳は、
生きた物流社会がなければ成立しない。
四十七 この物流は、最初の海ともつながっている
縄文の舟。
弥生の交易船。
古墳時代の首長ネットワーク。
四~五世紀の外交航路。
軍事船団。
時代ごとに、
目的と規模は違う。
しかし、
余剰を動かすためには、
常に物流が必要だった。
四十八 だから前方後円墳を理解するには、墳丘の外を見なければならない
墓を見る。
その向こうに、
田を見る。
工人を見る。
港を見る。
船を見る。
首長を見る。
交易を見る。
そして、
それらを結ぶ政治を見る。
四十九 そうすると「誰の文化か」という問いだけでは足りなくなる
鉄は誰のものか。
須恵器は誰のものか。
前方後円墳は誰のものか。
もちろん、
起源は重要である。
しかし、
さらに問う。
誰が運んだか。
誰が受け取ったか。
誰が作り替えたか。
誰が養ったか。
誰が次世代へ渡したか。
五十 本書の方法上の結論は「起源論から循環論へ」である
文化は、
所有物ではない。
動く。
分かれる。
混ざる。
使い直される。
別の社会へ受け継がれる。
重要なのは、
始点だけではなく、
その後、どのように循環し続けたか
である。
五十一 この視点に立てば、半島と列島の関係も勝敗や優劣だけでは読めない
技術は、
一方向だけに動かない。
人も、
一方向だけに動かない。
国家が滅びても、
文化は別の政治体へ流れる。
軍事的勝者と、
文化的継承先が一致するとは限らない。
五十二 前方後円墳問題も、一つの民族移動だけでは説明できなかった
海上交流。
交易。
技術。
余剰。
往還する人々。
首長。
王権。
纒向。
広域墓制。
外交。
軍事。
これらが積み重なって初めて、
海の向こうの前方後円墳まで見えてくる。
五十三 本書の仮説を一文に縮めれば、こうなる
日本列島と朝鮮半島南部には、国家成立以前から長期的な海域交流が存在し、その中で人・技術・交易・余剰が蓄積された。その社会的基盤の上に地域首長と王権が成長し、倭王権は既存の海域ネットワークを列島統合・外交・軍事へ転換した。前方後円墳は、その国家形成過程で首長関係と社会動員力を可視化した政治的墓制の一つであり、五~六世紀の半島南西部に現れた前方後円墳も、長期間にわたり成熟した海域政治関係の中で成立した可能性がある。
ただし、
それを、
倭による半島全域の直接統治と同一視するものではない。
五十四 そして、この仮説の重要な点は「海から国家を見る」ことである
国家から海を見るのではない。
先に、
海を使う社会がある。
その上に、
政治が生まれる。
そして政治が、
海の使い方を変える。
この順序で見る。
五十五 だから前方後円墳は、国家形成の終点ではない
その後、
王権はさらに変わる。
墓制も変わる。
行政も変わる。
政治表現も変わる。
やがて、
前方後円墳を必要としない国家へ向かう。
五十六 しかし、その墓を造った力まで消えたわけではない
巨大墳丘を築く。
人を動かす。
食料を集める。
技術者を養う。
物流を組織する。
その能力は、
別の時代には、
別の形で現れる。
五十七 そう考えた時、前方後円墳の向こうに見えるものが変わる
海。
船。
米。
鉄。
港。
工人。
首長。
王。
軍隊。
そして、
そのすべてを支える、
社会の余剰力。
前方後円墳は、
死者だけを語る遺跡ではない。
五十八 生きた人々の社会が、巨大な形となって残った遺跡なのである
何万人もの名は残らない。
船を造った人の名も、
土を運んだ人の名も、
食料を作った人の名も、
多くは分からない。
しかし、
その人々がいなければ、
巨大古墳は存在しない。
五十九 王だけが国家を作ったのではない
農民。
工人。
船乗り。
交易者。
地域首長。
祭祀者。
兵。
外から来た人々。
そして、
技術を次世代へ渡した人々。
その積み重ねが、
王権を支えた。
六十 本書が前方後円墳の向こうに見いだしたものは、そこにある
海域文化が国家を生んだ。
生まれた国家が、
海域文化を政治化した。
政治秩序が崩れても、
人と技術は次の社会へ流れた。
そして、
受け継がれた能力は、
新しい用途へ転換された。
六十一 だから歴史は、国境線だけでは読めない
海を渡った人を見る。
その人を養った社会を見る。
技術がどこから来たかを見る。
その技術を誰が残したかを見る。
国家が何を支配したかだけでなく、
何を受け取り、何を組み替え、何を次の時代へ渡したのか
を見る。
六十二 前方後円墳は、その長い歴史の途中に立つ巨大な標識である
国家より先に、
海があった。
海の上に、
交流があった。
交流の中に、
余剰と技術が蓄積された。
そこから、
首長が育った。
王が生まれた。
王権が、
人と物をさらに広く動かした。
そして、
その政治秩序が、
巨大な墓として地上に現れた。
六十三 その意味で、前方後円墳とは何だったのか
本書の結論は、
次のようになる。
前方後円墳とは、国家そのものではない。
国家がまだ制度だけでは人々を束ねきれなかった時代に、首長・地域・余剰・祭祀・王権の関係を、巨大な墳墓によって目に見える形へ変えた政治装置であった。
そして、
その墓を造ることのできた社会能力こそ、
後の国家形成を支えた重要な基盤の一つだったのである。
六十四 墓から始めた歴史は、最後にもう一度、海へ戻る
墳丘だけを見れば、
そこにあるのは土である。
しかし、
その向こうを見れば、
海がある。
船がある。
田畑がある。
人がいる。
関係がある。
そして、
何世代にもわたり、
それらを動かし続けた社会がある。
六十五 前方後円墳の向こうに見えたもの。
それは、
一つの民族の物語でも、
一つの王の物語でもない。
海を渡り、作り、交換し、組織し、伝え、そして次の時代へ力を渡してきた人々の歴史である。
著者紹介|河瀬昌良
古神道家・倭呼吸塾 塾長。
全国の神社や古戦場、戦没者ゆかりの地などを巡り、鎮魂・昇魂の祈りを重ねる。
歴史の考察では、史料や伝承に加え、地理・技術・生産・物流・軍事などの視点から、当時の人々の営みと社会の成り立ちを読み解く。確認できる事実と自身の仮説を区別しながら、複数の資料を照合することを大切にしている。
現地の風土と受け継がれてきた伝統に向き合い、先人たちの足跡や想いを今に伝えるため、歴史・文化・精神世界について執筆・発信を続けている。
主要史料・参考文献
本書の執筆にあたっては、以下の一次史料、金石文、考古学・歴史学研究、発掘調査・文化財資料、研究機関データベース等を参照した。なお、一次史料については異本・校訂上の問題があるため、本文中では必要に応じて史料間の相違を確認し、考古資料および先行研究との整合を検討した。
一 一次史料・古典史料
日本列島関係史料
『古事記』
『日本書紀』
中国史料
陳寿『三国志』魏書東夷伝(倭人・韓・弁辰関係記事)
范曄『後漢書』東夷列伝
沈約『宋書』夷蛮伝・倭国条
姚思廉『梁書』諸夷伝
劉昫等『旧唐書』
欧陽脩・宋祁等『新唐書』
司馬光『資治通鑑』唐紀
朝鮮半島関係史料
金富軾『三国史記』高句麗本紀・百済本紀・新羅本紀
韓国国史編纂委員会「韓国古代史料DB」所収『三国史記』および中国正史関係記事
二 金石文・銘文資料
広開土王碑文
石上神宮七支刀銘文
埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘
熊本県江田船山古墳出土銀象嵌銘大刀銘
三 前方後円墳・古墳時代政治構造
広瀬和雄「古墳時代像再構築のための考察――前方後円墳時代は律令国家の前史か」『国立歴史民俗博物館研究報告』第150集、2009年、33–147頁。
広瀬和雄ほか『古墳時代の政治構造――前方後円墳からのアプローチ』青木書店、2004年。
広瀬和雄『前方後円墳国家』角川学芸出版、2003年。
文化庁「国指定文化財等データベース」前方後円墳・古墳群・古代山城関係資料。
国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ、古墳時代・初期王権・前方後円墳関係研究。
四 縄文・弥生期の列島―朝鮮半島海域交流
古澤義久「玄界灘島嶼域を中心にみた縄文時代日韓土器文化交流の性格――弥生時代早期との比較――」『東京大学考古学研究室研究紀要』第28号、2014年、27–80頁。
石丸あゆみ「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉――勒島遺跡・原ノ辻遺跡出土事例を中心に」『東京大学考古学研究室研究紀要』、2011年。
李相均「縄文前期前半期における轟B式土器群の様相――九州、山陰地方、韓国南岸を中心に」『東京大学文学部考古学研究室研究紀要』第12号、1994年。
国立金海博物館「加耶以前の人々の暮らしと文化」東三洞出土縄文系土器・黒曜石資料等。
五 倭・加耶・朝鮮半島南部の交流
高久健二「韓国の倭系遺物――加耶地域出土の倭系遺物を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第110集、2004年。
白石太一郎「もう一つの倭・韓交易ルート」『国立歴史民俗博物館研究報告』第110集、2004年。
国立歴史民俗博物館『加耶――古代東アジアを生きた、ある王国の歴史』企画展示関係資料、2022年。
国立歴史民俗博物館「中国と加耶と倭」講演・研究資料、2022年。
六 朝鮮半島西南部の倭系古墳・前方後円墳
高田貫太「5,6世紀朝鮮半島西南部における『倭系古墳』の造営背景」『国立歴史民俗博物館研究報告』第211集、2018年、487–512頁。
権五栄「栄山江流域の古代政治体を見とおす多様な視角」『国立歴史民俗博物館研究報告』第217集、2019年、13–28頁。
金洛中「古墳からみた栄山江流域・百済と倭」『国立歴史民俗博物館研究報告』第217集、2019年、47–70頁。
林智娜「栄山江流域における前方後円墳の築造技術」『国立歴史民俗博物館研究報告』第217集、2019年、183–211頁。
山本孝文「横穴式石室の築造技法からみた百済と湖南地方――熊津期百済と栄山江流域の造墓集団」『国立歴史民俗博物館研究報告』第217集、2019年、261–288頁。
白石太一郎「もう一つの倭・韓交易ルート」『国立歴史民俗博物館研究報告』第110集、2004年。
七 初期王権・倭と百済の外交関係
仁藤敦史「神功紀外交記事の基礎的考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』第211集、2018年、211–235頁。
韓国国史編纂委員会「韓国古代史料DB」所収『宋書』『三国史記』関係記事。
広開土王碑文および碑文校訂・釈読関係資料。
奈良国立博物館、七支刀関係資料。
八 列島内の人・物・土器の移動
山下優介「弥生・古墳時代移行期における近江系土器の移動とその背景」東京大学大学院人文社会系研究科博士論文、2020年度。
国立歴史民俗博物館、列島内地域間交流・古墳時代物流関係資料。
文化庁および各自治体教育委員会・埋蔵文化財調査機関による発掘調査・文化財資料。
九 古代DNA・集団移動研究
Robbeets, Martine, et al. “Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages.” Nature, 599, 2021, pp. 616–621.
Gelabert, Pere, et al. “Northeastern Asian and Jomon-related genetic structure in the Three Kingdoms period of Gimhae, Korea.” Current Biology, 32, 2022, pp. 3232–3244.e6.
Yamamoto, Kenichi, et al. “Genetic legacy of ancient hunter-gatherer Jomon in Japanese populations.” Nature Communications, 15, 2024, Article 9780.
十 白村江敗戦後の列島防衛・技術移転
『日本書紀』天智天皇条。
太宰府市・太宰府市教育委員会「大宰府跡」関係文化財資料。
太宰府市・太宰府市教育委員会「水城跡」関係文化財資料。
太宰府市・太宰府市教育委員会「大野城跡」関係文化財資料。
文化庁「国指定文化財等データベース」古代山城関係資料。
十一 朝鮮半島・日本列島の長期社会比較
韓国学中央研究院『韓国民族文化大百科事典』市場・手工業・貨幣・大同法・貢人等関係項目。
韓国国史編纂委員会「韓国史データベース」。
国立歴史民俗博物館、古代・中世・近世社会経済史関係資料。
文化庁および各自治体文化財資料。
十二 博物館・研究機関・データベース
国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ
東京大学学術機関リポジトリ
奈良国立博物館収蔵品・画像データベース
国立金海博物館
韓国国史編纂委員会「韓国史データベース」
韓国国史編纂委員会「韓国古代史料DB」
韓国学中央研究院『韓国民族文化大百科事典』
文化庁「国指定文化財等データベース」


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