白村江の戦いの真実
- ――「百済救援」だけでは見えない倭国の国家戦争
- 第一節 660年、百済王朝の滅亡
- 第二節 百済復興政権はどのような政権だったのか
- 第三節 斉明天皇はなぜ筑紫へ向かったのか
- 第四節 豊璋を送り返した五千人余の先発軍
- 第五節 倭国が送った大量の武器と物資
- 第六節 倭国軍の派遣兵力
- 第七節 百済救援軍ではなく、新羅を討つ倭国軍
- 第八節 なぜ倭国は三万人を超える軍勢を送ったのか
- 第九節 百済と倭国は、同じ戦争を見ていなかった
- 第十節 豊璋と鬼室福信の対立
- 第十一節 福信殺害は白村江敗北の原因だったのか
- 第十二節 倭国は豊璋と福信を仲裁しなかったのか
- 第十三節 なぜ高句麗との統一戦線を作れなかったのか
- 第十四節 百済滅亡から白村江敗戦までの時系列
- 第十五節 唐・新羅軍は戦争の急所を見抜いていた
- 第十六節 白村江の海戦
- 第十七節 二万七千人の倭国軍はどこにいたのか
- 第十八節 豊璋はなぜ逃げたのか
- 第十九節 豊璋は当時の人々からどう見られたのか
- 第二十節 州柔城の降伏
- 第二十一節 倭国軍と百済人の撤退
- 第二十二節 最後の抵抗拠点・任存城
- 第二十三節 百済は自らの王の手によって滅んだのか
- 第二十四節 倭国に残った豊璋の弟・善光
- 第二十五節 百済王統は倭国王権の臣下として組み込まれた
- 第二十六節 白村江の本当の敗因
- 第二十七節 白村江後、倭国は列島防衛へ転換した
- 結び 半島の拠点を失い、列島を守る国家へ
――「百済救援」だけでは見えない倭国の国家戦争
白村江の戦いは、一般にこう説明されます。
唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済を助けるため、倭国が援軍を送り、663年の白村江で大敗した。
しかし、この説明だけでは重大な事実が抜け落ちています。
倭国が半島へ送った兵力は、一度きりの小規模な救援軍ではありませんでした。
『日本書紀』に記された兵力だけでも、五千人余、二万七千人、一万人余。三度の派遣を別部隊として合計すれば、最大四万二千人余に達します。
しかも倭国軍は、百済復興軍の指揮下で城を守るだけの補助部隊ではありませんでした。独自の将軍と作戦目的を持ち、新羅領内の城を攻略し、最後には唐水軍と直接戦っています。
白村江の戦いは、663年8月に突然起きた一度の海戦ではありません。
660年の百済滅亡から始まり、豊璋の帰国、百済復興政権の成立、倭国による段階的な派兵、新羅領への攻撃、唐水軍との決戦、州柔城の降伏、そして倭国軍の撤退まで続いた、約三年間に及ぶ国家戦争でした。
では、なぜ倭国は、国家を傾けるほどの軍勢を半島へ送ったのでしょうか。
本当に、ただ百済を助けるためだったのでしょうか。
第一節 660年、百済王朝の滅亡
660年、唐・新羅連合軍は百済へ総攻撃を開始しました。
唐軍は海側から、新羅軍は陸側から侵攻し、百済の王都・泗沘城を攻略します。最後の王・義慈王をはじめ、王族・重臣らは唐へ連行されました。
この時点で、従来の百済王朝は国家として一度滅亡しています。
王都を失い、国王を失い、中央政府を失った旧百済領には、唐の熊津都督府などが置かれました。唐は旧百済の行政組織や現地官人も利用しながら、半島西南部の支配を始めます。
しかし、百済全土が直ちに唐へ服従したわけではありません。
鬼室福信、僧・道琛、黒歯常之、遅受信らは、各地に残る兵士と住民を集め、唐の占領支配に対する抵抗を始めました。
これが百済復興運動です。
第二節 百済復興政権はどのような政権だったのか
百済復興勢力は、単なる少数の敗残兵ではありませんでした。
任存城では、黒歯常之らの呼びかけに多数の人々が集まり、記録上は三万人に達したとも伝えられます。また、一時は二百余りの城を回復するほど勢力を広げました。
したがって、百済復興運動を最初から無力な籠城集団として扱うことはできません。
一方で、以前の百済王朝のように、王都・国土・行政組織を安定的に支配する国家でもありませんでした。
その実態は、
- 周留城・任存城などの城砦
- 各地の百済遺民
- 旧百済の地方軍
- 唐へ服属しなかった地方勢力
- 鬼室福信ら現地の軍事指導者
によって構成された、城砦拠点型の復興政権でした。
福信らには城と兵力がありました。しかし、百済諸勢力を一つにまとめるための正統な王がいません。
そこで福信らは、倭国に滞在していた百済王子・豊璋の帰国を求めます。
豊璋は義慈王の王子です。
百済王家の血を引く豊璋を王として迎えれば、各地の百済遺民を「百済復興」という一つの旗のもとへ結集させることができます。
豊璋に求められた最初の役割は、現地軍を指揮する能力というより、百済王統の正統性を示す象徴だったと考えられます。
第三節 斉明天皇はなぜ筑紫へ向かったのか
百済からの救援要請を受けた倭国は、ただちに国家規模の準備を始めます。
斉明天皇は、中大兄皇子、大海人皇子ら政権中枢を伴い、西へ向かいました。
難波では武器を調達し、瀬戸内を通って筑紫へ進み、朝倉橘広庭宮を軍事・政治上の拠点とします。
これは、地方豪族へ少数の兵を出させる程度の対応ではありません。
天皇と政権中枢が西へ移り、
- 兵士を集める
- 武器を整える
- 軍船・輸送船を建造する
- 兵糧を蓄える
- 半島への輸送路を確保する
という、国家総動員に近い準備を進めたのです。
しかし661年7月、斉明天皇は筑紫の朝倉宮で崩御します。
それでも出兵計画は中止されませんでした。
中大兄皇子は直ちに即位せず、皇太子のまま政務を執る「称制」によって戦争を継続します。
斉明天皇の死によっても止まらなかったことから、この戦争が倭国にとって極めて重要な国家政策だったことが分かります。
第四節 豊璋を送り返した五千人余の先発軍
661年9月、倭国は豊璋を百済へ送り返します。
豊璋には倭国側の冠位が授けられ、婚姻も整えられました。そして狭井連檳榔、朴市秦造田来津らが率いる五千人余の軍勢が護衛として付けられました。
『日本書紀』は、豊璋が帰国すると鬼室福信が迎え、国の政治を委ねたと記しています。
しかし、この五千人余は、豊璋を送り届けて全員帰国した単なる護送隊ではありません。
少なくとも一部の倭国将士は現地に残り、百済復興政権の軍事・政治判断に関わっています。
662年12月、百済復興政権では、本拠を州柔城から避城へ移すかどうかの会議が開かれました。
この会議には、豊璋、鬼室福信ら百済側だけでなく、倭国側の狭井連と朴市秦田来津も参加しています。
田来津は、避城は敵に近く、州柔城は山険で守りやすいとして、遷都に強く反対しました。
しかしその進言は受け入れられず、復興政権は避城へ移ります。
その後、新羅軍が避城へ迫ったため、663年2月、復興政権は結局、州柔城へ戻ることになりました。
この記録から、先発軍の少なくとも一部が百済側と連携し、現地拠点の防衛と軍議に深く関わっていたことが分かります。
ただし、五千人全員が二年間にわたって州柔城へ駐留していたとまでは断定できません。
第五節 倭国が送った大量の武器と物資
倭国は兵士だけを送り込んだのではありません。
662年、『日本書紀』は倭国から鬼室福信らへ、次の物資が供給されたと記しています。
- 矢 十万本
- 糸 五百斤
- 綿 千斤
- 布 千端
- なめし皮 千張
- 稲種 三千斛
さらに百済王にも布三百端が与えられました。
これは、一度の戦いに使うだけの物資ではありません。
武器・衣類・防具・食糧生産まで含め、百済復興政権が現地で戦争を継続するための国家基盤を支える供給です。
その背後では、
- 武器を作る職人
- 船を建造する技術者
- 兵糧を集める人々
- 港まで物資を運ぶ輸送要員
- 船を操る水手
- 海上輸送路を維持する沿岸勢力
が動員されていたはずです。
史料に記された兵員数だけが、この戦争へ参加した倭国人の総数ではありません。
白村江への出兵は、列島内部の大規模な兵站体制によって支えられていたのです。
第六節 倭国軍の派遣兵力
『日本書紀』に記された倭国軍を整理すると、次のようになります。
| 派遣時期 | 兵力 | 主な役割 |
|---|---|---|
| 661年9月 | 五千人余 | 豊璋の護送と百済復興政権の支援 |
| 663年3月 | 二万七千人 | 新羅方面への攻撃 |
| 663年8月 | 一万人余 | 州柔城を海上から救援 |
| 記録上の累計 | 最大四万二千人余 | 三度の派遣を別部隊とした場合 |
第三次派遣軍の一万人余については、二万七千人の一部が迂回した部隊ではないかという見方もあります。
一方で、指揮官名と行動時期が異なるため、別の後続部隊とする見方もあります。森公章氏も、第二次派遣軍の一部という説を示しながら、別部隊の可能性を残しています。
したがって記事上は、
史料上、五千人余と二万七千人の渡海は明記され、少なくとも三万二千人余に達する。さらに一万人余の後続軍を別部隊とすれば、累計は最大四万二千人余となる。
とするのが最も堅実です。
第七節 百済救援軍ではなく、新羅を討つ倭国軍
663年3月、倭国は二万七千人の主力軍を派遣します。
前軍・中軍・後軍の三軍に編成され、それぞれ倭国側の将軍が指揮しました。
重要なのは、その目的です。
『日本書紀』は、
二万七千人を率いて、新羅を討たせた。
と記しています。
「百済の城を守らせた」ではありません。
倭国軍は、百済復興軍の指揮下にある補助部隊ではなく、独自の指揮系統と攻撃目標を持つ遠征軍でした。
同年6月、前将軍・上毛野君稚子らは、新羅の沙鼻・岐奴江の二城を攻略しています。
これは倭国軍が現地で実際に行った陸上戦です。
白村江の戦いを、一万人程度の倭国水軍が無謀な突撃をして敗れた戦争として理解するだけでは不十分です。
その前には、二万七千人の倭国軍が新羅領内で軍事行動を行い、城を攻略していました。
第八節 なぜ倭国は三万人を超える軍勢を送ったのか
百済復興軍は、すでに現地で抵抗していました。
それにもかかわらず、なぜ倭国は、別に三万人を超える自国軍を半島へ送り込んだのでしょうか。
「友好国を助けるため」という理由だけでは、この規模を説明しきれません。
倭国には、倭国自身の国家目的があったと考える必要があります。
百済を前方防衛拠点として復活させる
百済がなくなれば、唐・新羅の勢力は半島南部まで到達します。
その先には、対馬・壱岐・北部九州があります。
倭国にとって百済復興は、遠い外国の救援であると同時に、
唐・新羅の軍事勢力を列島の対岸で食い止める前方防衛
という意味を持っていました。
唐・新羅による東アジア秩序の再編を阻止する
唐は旧百済領を都督府として支配し、新羅を通じて半島全体への影響力を拡大していました。
百済が消えれば、それまで倭国・百済・高句麗・新羅の間で保たれていた勢力均衡が崩れます。
倭国の出兵は、百済王朝を復興する戦争であると同時に、唐・新羅中心の新しい東アジア秩序へ対抗する戦争でもありました。
半島西南部と北部九州を結ぶ海域圏を守る
旧百済地域と北部九州の間には、長い人的・物的交流がありました。
そこを移動した人々を、現代的な意味で単純に「日本人」「朝鮮人」と分けることはできません。
王族、豪族、官人、僧侶、技術者、船乗り、兵士たちは、海峡を挟んだ海域文化圏の中を往来していました。
旧百済地域が唐・新羅の支配下に入れば、倭国は半島側の政治的拠点だけでなく、海上交通路と人的ネットワークも失います。
倭国と結びついた百済政権を樹立する
豊璋は、偶然百済へ戻った王子ではありません。
倭国は豊璋に冠位を授け、婚姻を整え、五千人余の軍を付け、武器・食糧を供給して王位継承を支えました。
復興が成功すれば、倭国は半島南部に、倭国と強く結びついた友好的な百済政権を回復できます。
ただし、これをもって「百済は倭国領だった」と断定することはできません。
豊璋は百済王として独自の意思決定を行い、倭国軍も百済政権とは別の指揮系統を持っていました。
したがって、
百済と倭国は同一国家だった
とするのではなく、
百済と倭国は、現代の国境感覚だけでは説明できないほど、王族・軍事・政治・海上交通を共有する深い関係にあった
とするのが適切です。
第九節 百済と倭国は、同じ戦争を見ていなかった
百済復興政権と倭国は、唐・新羅という同じ敵と戦っていました。
しかし、両者が見ていた戦争は同じではありません。
百済復興政権が見ていたのは、
- 誰を王にするのか
- どの城を本拠にするのか
- どの地域を奪還するのか
- 誰が兵権を握るのか
- どのように百済王朝を再建するのか
という問題でした。
一方、倭国が見ていたのは、
- 新羅の拡大をどう止めるのか
- 唐の半島支配をどう阻止するのか
- 半島南部の海上交通圏をどう守るのか
- 唐・新羅の勢力を列島の対岸でどう食い止めるのか
という、より広い東アジアの安全保障問題でした。
百済復興政権は「国家の形」を整えようとしていました。
倭国は、その外側で戦争の根本原因となった唐・新羅の勢力拡大へ、自国軍として向き合っていたのです。
最終段階では、
百済復興政権が王統・大義・現地拠点を担い、倭国が大規模な陸軍・水軍・兵站を担った
という役割分担になっていました。
両者は同盟していました。
しかし、同じ敵と戦っていても、同じ戦争をしていたわけではなかったのです。
第十節 豊璋と鬼室福信の対立
百済復興政権は、唐・新羅軍に攻められる以前から内部に深刻な問題を抱えていました。
復興運動は当初、鬼室福信と僧・道琛らによって始められました。
しかし福信は、権力争いの中で道琛を殺し、その兵力と兵権を掌握したと伝えられています。
福信もまた、無私の忠臣として一方的に被害を受けただけの人物ではありませんでした。
その後、倭国から豊璋が帰国し、百済王として迎えられます。
しかし豊璋には、百済国内に独自の軍事基盤がありません。
一方の福信は、百済滅亡直後から現地で戦い、復興軍の兵権を握っていました。
王統の正統性を持つ豊璋。
現地の軍事力を握る福信。
百済復興政権は、王権と兵権が分かれた二重権力に近い状態を抱えていたと考えられます。
やがて豊璋は、福信に謀反の疑いをかけます。
『日本書紀』によれば、豊璋は福信の手のひらを穿ち、革で縛りました。そして諸臣に処刑の可否を尋ね、最終的に福信を斬らせています。
一方、『旧唐書』『三国史記』系統では、福信が病気を装い、見舞いに来る豊璋を殺そうとしたため、豊璋が先手を打ったと伝えられています。
どちらが先に相手を排除しようとしたのかは確定できません。
しかし、
- 豊璋と福信が激しく対立した
- 豊璋が福信を殺した
- 百済復興政権が中心的軍事指導者を失った
ことは、各史料に共通しています。
なお、福信殺害の年代は史料によって異なります。『日本書紀』は663年6月としますが、唐・半島側史料には異なる年代があります。
第十一節 福信殺害は白村江敗北の原因だったのか
福信殺害は、百済復興政権の結束と州柔城防衛に影響した可能性があります。
しかし、これを白村江敗北の直接原因とするのは適切ではありません。
福信と豊璋が争っていた時期にも、倭国の二万七千人は独自の指揮系統で新羅方面の作戦を続けていました。
663年6月には、倭国軍が新羅の二城を攻略しています。
また、白村江で倭国水軍の攻撃を決めたのは、倭国側の諸将と豊璋です。福信は海戦の指揮に関わっていません。
『日本書紀』が描く海戦の敗因も、
- 敵情を十分に確認しなかった
- 唐軍の堅陣へ突撃した
- 各部隊が先陣を争った
- 倭国軍の隊列が乱れた
- 唐軍に左右から包囲された
- 船を旋回できなかった
という倭国水軍自身の指揮・戦術上の問題です。
したがって、
福信を殺したから白村江で敗れた
とは言えません。
福信と豊璋の争いは、白村江海戦の直接原因というより、百済復興政権内部で並行して起きていた政治的・軍事的弱体化と位置づけるべきです。
第十二節 倭国は豊璋と福信を仲裁しなかったのか
倭国が両者を仲裁したという明確な記録はありません。
ただし、倭国側が対立を知らなかったとも言い切れません。
『日本書紀』天智二年五月条には、倭国の使者・犬上君が高句麗から帰る途中、石城で「糺解」に会い、福信の罪について聞いたとあります。
この糺解を豊璋とみる説が一般的ですが、人物比定には異論もあります。
もし糺解が豊璋ならば、豊璋は福信を殺す前に、倭国側へ福信の罪または謀反の疑いを伝えていた可能性があります。
しかし、その報告を受けた倭国が調査したのか、両者を仲裁したのか、豊璋による処刑を認めたのかは記録されていません。
豊璋が処刑の可否を諸臣へ尋ねた場面でも、発言者として記されるのは百済官位を持つ徳執得です。
倭国側の将軍が処刑に賛成した、反対した、あるいは裁定を行ったという記録はありません。
これは、倭国が大軍を送っていても、百済復興政権の内部を直接統治していたわけではなかったことを示しています。
第十三節 なぜ高句麗との統一戦線を作れなかったのか
当時、高句麗も唐と戦っていました。
661年、唐軍は高句麗の王都・平壌城を包囲します。高句麗はこれを耐え抜き、唐軍は662年に撤退しました。
この時期の半島には、
- 北部戦線――高句麗対唐・新羅
- 南部戦線――百済復興軍・倭国対唐・新羅
という二つの戦線が存在していました。
高句麗が北で唐軍を拘束し、百済復興軍と倭国が南で唐・新羅軍を圧迫する形は、ある程度機能していました。
倭国も高句麗との軍事連絡を試みています。
663年5月、犬上君は高句麗へ赴き、軍事に関する連絡を行いました。
唐側史料も、豊璋が高句麗と倭国へ使者を送り、援軍を求めたと伝えています。
しかし三者は、一つの統一された作戦を実行できませんでした。
- 高句麗は自国防衛
- 百済は王朝復興
- 倭国は新羅攻撃と海域秩序の維持
をそれぞれ優先していました。
さらに時期もずれています。
高句麗が唐軍を平壌方面へ引きつけていた661年から662年、倭国の主力二万七千人はまだ到着していません。
倭国主力軍が渡海した663年には、唐は北方戦線から戦力を戻し、百済復興勢力の本拠へ兵力を集中できる状態になっていました。
倭国・百済・高句麗は同じ敵と戦っていました。
しかし、同じ時期、同じ目的、同じ指揮系統で戦うことができなかったのです。
第十四節 百済滅亡から白村江敗戦までの時系列
※月日は『日本書紀』の旧暦表記を基準とします。
| 西暦 | 出来事 |
|---|---|
| 660年 | 唐・新羅連合軍が百済を攻撃。王都・泗沘城が陥落し、義慈王らが唐へ連行される |
| 660年後半 | 鬼室福信・道琛・黒歯常之らが百済復興運動を開始 |
| 661年 | 斉明天皇が政権中枢とともに筑紫へ移り、造船・武器・兵糧を準備 |
| 661年7月 | 斉明天皇が朝倉宮で崩御。中大兄皇子が称制によって戦争を継続 |
| 661年9月 | 倭国が豊璋を百済へ送り返し、五千人余の先発軍を派遣 |
| 662年 | 倭国が矢十万本など大量の軍需物資を百済復興勢力へ供給 |
| 662年5月 | 阿曇比羅夫らが船団百七十艘を率い、豊璋の王位継承を支援 |
| 662年12月 | 州柔城から避城への移転を決定。朴市秦田来津は危険として反対 |
| 663年2月 | 新羅軍が避城へ迫ったため、百済復興政権は州柔城へ戻る |
| 663年3月 | 倭国が二万七千人の主力軍を派遣 |
| 663年5月 | 犬上君が高句麗へ赴き、軍事に関する連絡を行う |
| 663年6月 | 倭国軍が新羅の沙鼻・岐奴江の二城を攻略 |
| 663年6月 | 豊璋が鬼室福信を殺害 |
| 663年8月13日 | 百済側が倭国の一万人余の後続軍が渡海すると知る。豊璋は白村へ迎えに向かう |
| 663年8月17日 | 唐・新羅陸軍が州柔城を包囲。唐水軍百七十艘が白村江に布陣 |
| 663年8月27日 | 到着した倭国水軍が唐水軍と交戦し、退却 |
| 663年8月28日 | 倭国水軍が再攻撃。唐水軍に左右から包囲され大敗 |
| 663年8月28日 | 豊璋が数人と逃亡。『日本書紀』は高句麗へ逃れたと記す |
| 663年9月7日 | 百済復興政権の本拠・州柔城が唐へ降伏 |
| 663年9月24日 | 倭国軍、百済将官・住民らが弖礼城へ集結 |
| 663年9月25日 | 倭国軍が百済人を伴い、列島へ向けて撤退 |
| 663年秋以降 | 遅受信が任存城で抵抗を継続 |
| 663年末頃 | 唐へ降った旧百済将らの攻撃で任存城が陥落。遅受信は高句麗へ逃亡 |
『日本書紀』には、661年の豊璋送還と、662年の船団百七十艘による王位継承支援が別々に記されています。この二つを重複記事とみる説もあり、細かな年代には検討の余地があります。
しかし、倭国が複数年にわたって兵員・武器・物資・船団を送り続けた事実は変わりません。
第十五節 唐・新羅軍は戦争の急所を見抜いていた
663年8月、唐・新羅連合軍は百済復興政権の本拠・州柔城へ総攻撃を開始します。
唐側の軍議では、先に加林城を攻めるべきだという意見もありました。
しかし劉仁軌は、加林城は堅固で攻略に時間がかかる、州柔城こそ復興勢力の中心であり、ここを落とせば他の城も降ると判断します。
唐・新羅側の作戦は明確でした。
- 唐・新羅陸軍が州柔城を包囲する
- 唐水軍が糧船を伴って白江へ進む
- 水陸両軍が州柔城へ攻撃を集中する
一方の倭国・百済側は、
- 二万七千人の倭国軍は新羅方面
- 先発軍の一部は現地拠点
- 一万人余の後続軍は海上
- 百済復興軍は州柔城・任存城などに分散
- 豊璋は白村で後続軍を迎える
- 全軍を統括する最高司令官は不明
という状態でした。
唐・新羅側は、戦争の急所へ水陸両軍を集中しました。
倭国・百済側は、大きな兵力を持ちながら、それを同じ時期、同じ場所へ集中できなかったのです。
第十六節 白村江の海戦
663年8月17日、唐・新羅陸軍は州柔城を包囲しました。
同時に、唐水軍百七十艘が白村江へ布陣します。
8月27日、倭国から来た水軍が唐水軍と交戦します。しかし倭国側は不利となり、いったん退却しました。
翌28日、倭国側の諸将と豊璋は、十分な敵情・地形・水流を確認しないまま、
倭国軍が先を争って攻めれば、唐軍は退くだろう。
と判断します。
そして隊列を整えないまま、唐水軍の堅陣へ突撃しました。
唐水軍は左右から倭国船団を包囲します。
狭い水域で倭国船は旋回できず、多数の兵が水へ落ち、溺死しました。
『旧唐書』は、唐軍が四度の戦いに勝ち、倭船四百艘を焼いたと記しています。
朴市秦田来津は、天を仰いで誓い、歯を食いしばり、最後まで戦って戦死しました。
倭国水軍の大敗は事実です。
しかし、倭国軍三万人以上が白村江へ一度に集結し、全滅したわけではありません。
白村江で直接戦った主力は、廬原君が率いて到着した一万人余の後続軍だったと考えられます。
第十七節 二万七千人の倭国軍はどこにいたのか
白村江最大の謎が、二万七千人の主力軍の行方です。
『日本書紀』は、
- 663年3月、新羅を討つため二万七千人を派遣
- 663年6月、新羅の二城を攻略
と記します。
しかし、その後、この二万七千人がどこへ移動し、白村江と州柔城の決戦にどのように関わったのかを記していません。
二万七千人の一部が白村江方面へ移動した可能性はあります。
しかし、
二万七千人全員が白村江で唐水軍と戦って全滅した
とする根拠はありません。
主力軍は新羅方面に分散し、州柔城救援へ十分に集結できなかった可能性があります。
この大軍を決戦場へ集中できなかったことこそ、倭国側の戦略上の大きな失敗でした。
兵力が足りなかったのではありません。
持っていた兵力を、戦争の急所へ集められなかったのです。
第十八節 豊璋はなぜ逃げたのか
白村江で倭国水軍が敗れると、豊璋は数人と船に乗り、『日本書紀』によれば高句麗へ逃亡しました。
『三国史記』は行方不明としながら、高句麗へ逃れたとも伝えています。
この逃亡については、二つの見方ができます。
第一に、州柔城へ戻ることが物理的に困難だった可能性です。
州柔城は唐・新羅陸軍に包囲され、海側には唐水軍が布陣していました。
倭国の救援船団も敗れています。
第二に、高句麗へ逃れて王統を保存し、再び援軍を求めようとした可能性です。
高句麗は唐と戦っており、豊璋が生き残れば、百済王として再起する可能性を残せます。
しかし、王としての責任という問題は残ります。
豊璋は州柔城の将兵と住民を残して逃れました。
さらに任存城では、遅受信らがその後も抵抗していました。それにもかかわらず豊璋は任存城へ入り、百済王として残存勢力を再編することもありませんでした。
豊璋は当初、百済王統の正統性を示す象徴として迎えられました。
しかし王位に就くと、
- 避城への移転に関与する
- 鬼室福信を殺害する
- 倭国諸将と唐水軍への攻撃を決める
- 敗戦後、残存拠点へ戻らず逃亡する
という重大な判断を行っています。
したがって豊璋を、何の権限もない「お飾りの王」とだけ評することはできません。
より正確には、
王統の正統性は持っていたが、現地基盤と戦争指導力が乏しいまま、強い権限を行使した王
と見るべきでしょう。
第十九節 豊璋は当時の人々からどう見られたのか
豊璋の逃亡を、当時の倭国人・百済人がどう評したのか。直接的な悪評や罵倒は残っていません。
しかし『日本書紀』の描き方は、非常に対照的です。
朴市秦田来津については、最後まで戦い、数十人を討って戦死した姿を英雄的に記します。
その直後、豊璋については、
数人と船に乗り、高句麗へ逃げ去った。
とだけ記します。
露骨な批評はありません。
しかし、戦死した倭国将と、数人だけを連れて逃げた百済王を並べる記述は冷淡です。
さらに州柔城が降伏すると、百済人たちは、
百済の名は今日絶えた。
と語ったと記されています。
豊璋は生きています。
それにもかかわらず、人々は「百済の名は絶えた」と認識しました。
任存城の抵抗勢力も、豊璋を呼び戻し、その名のもとで戦ったとは記されていません。
倭国も豊璋を救出し、もう一度百済王として立てることはありませんでした。
豊璋が公然と罵られた記録はない。
しかし、逃げた王のもとへ再び人々が集まった記録もない。
それが、豊璋に対する当時の人々の評価だったのではないでしょうか。
第二十節 州柔城の降伏
倭国水軍の敗北によって、州柔城への海上救援路は断たれました。
王である豊璋も逃亡しました。
そして663年9月7日、百済復興政権の本拠・州柔城は唐へ降伏します。
この時、百済人たちは、
州柔城は降った。もはやどうすることもできない。百済の名は今日絶えた。
と語ります。
白村江の海戦は軍事的敗北でした。
しかし、百済復興政権にとっての決定打は、
- 海上補給路を失ったこと
- 王が逃亡したこと
- 政権の本拠・州柔城を失ったこと
です。
兵士が全員いなくなったから戦争が終わったのではありません。
王・拠点・補給路を同時に失い、百済復興政権が国家として戦い続ける意味と手段を失ったのです。
第二十一節 倭国軍と百済人の撤退
州柔城の降伏後、生き残った倭国軍と百済人は弖礼城へ集まりました。
663年9月24日、倭国水軍、百済の将官・余自信、木素貴子、谷那晋首、憶礼福留ら、さらに多くの住民が弖礼城へ到着します。
翌25日、彼らは船で倭国へ向けて出発しました。
したがって、倭国水軍のすべてが白村江で消滅したわけではありません。
残存船団は、百済の王族・貴族・官人・技術者・住民を収容し、列島へ撤退しています。
これは単なる敗走というだけでなく、百済復興が不可能になった後の組織的な撤収でもありました。
倭国軍には、
- 支えるべき百済王がいない
- 復興政権の本拠がない
- 海上補給路がない
- 全軍を統括する司令部がない
- 半島で戦い続ける政治目的がない
という状況が生じていました。
倭国軍が撤退したのは、兵力をすべて失ったからではありません。
半島で戦い続けるための政治的・軍事的基盤を失ったからです。
第二十二節 最後の抵抗拠点・任存城
州柔城が降伏しても、すべての百済復興勢力が直ちに戦いをやめたわけではありません。
遅受信は任存城に籠もり、抵抗を続けました。
ただし、任存城は州柔城陥落後に倭国軍が集結した城ではありません。
もともと黒歯常之、沙吒相如、遅受信らが拠点としていた、別系統の百済復興軍の本拠です。
白村江敗戦後、百済王族の扶余忠勝・忠志らは残存勢力や一部の倭人とともに唐へ降伏したと、唐・半島側史料は記しています。
さらに黒歯常之と沙吒相如も唐へ降りました。
唐側は二人に武器と兵糧を与え、任存城を攻めさせます。
つまり最後は、かつて百済復興軍を率いた旧百済将が、唐側に立って百済最後の抵抗拠点を攻めることになりました。
遅受信は妻子を残して高句麗へ逃れ、任存城は陥落します。
任存城の守備隊が全滅したのではありません。
内部離反によって城が落ち、最後の指揮官も逃亡したことで、百済復興運動は終焉を迎えたのです。
第二十三節 百済は自らの王の手によって滅んだのか
百済王朝を最初に滅ぼしたのは、唐・新羅連合軍です。
したがって、
百済は豊璋一人によって滅ぼされた。
とだけ書くのは正確ではありません。
しかし、百済復興政権が内部から崩れていく過程で、豊璋の判断が重大な影響を与えたことも否定できません。
豊璋は、
- 現地軍事指導者・鬼室福信を殺した
- 倭国の諸将と無謀な海上攻撃を決めた
- 敗北すると州柔城へ戻らなかった
- 任存城の残存勢力をまとめなかった
- 高句麗で百済復興戦線を再建しなかった
という結果を残しました。
したがって、最も正確で強い結論は、
百済王朝を滅ぼしたのは、唐・新羅連合軍である。
しかし、百済復興政権を内部から崩壊させたのは、王として迎えられた豊璋自身だった。
となります。
唐・新羅が百済の国土を滅ぼし、豊璋が百済復興政権の最後の柱を折ったのです。
第二十四節 倭国に残った豊璋の弟・善光
豊璋の弟とされる善光は、倭国に残っていました。
白村江の敗戦後、善光を新たな百済王として半島へ送ることはありませんでした。
州柔城は落ち、海上補給路は断たれ、倭国軍も撤退しています。
任存城が残っていたとはいえ、善光を安全に送り届け、再び大軍を派遣し、百済国家を再建できる状況ではありませんでした。
善光は、百済を復興するための「予備の王」としての役割を失ったのです。
しかし善光の政治的価値が、完全になくなったわけではありません。
664年、善光は難波に居住することを認められました。
持統朝には、その一族が「百済王氏」として倭国の氏族制度へ組み込まれます。善光の子孫は、国司や軍事関係の官職を務め、奈良・平安時代の倭国・日本国で活動しました。
善光の役割は、
半島へ送り返す百済王子
から、
倭国の中に百済王統を保存する人物
へ変わったのです。
第二十五節 百済王統は倭国王権の臣下として組み込まれた
白村江後、百済王統が倭国王権へ取って代わったわけではありません。
滅亡した百済の王族と遺民は、当初、亡命王族・賓客として保護されました。
その後、善光の系統は「百済王氏」という、倭国大王家とは別の氏族として編成されます。
つまり百済王統は、
- 倭国の皇統・大王家になったのではない
- 倭国王権を奪ったのでもない
- 倭国王権の保護を受けた
- 倭国の氏族制度へ編入された
- 臣下・貴族・官人として活動した
ということです。
豊璋は百済王となりましたが、百済王朝を残せませんでした。
善光は百済王として半島へ戻りませんでしたが、倭国の中に「百済王氏」として王統の名を残しました。
百済王統は半島で国家を再建できず、倭国王権の内部へ取り込まれて存続したのです。
第二十六節 白村江の本当の敗因
白村江の敗因を、船の性能や兵士の勇気だけで説明することはできません。
倭国側には、三万人を超える大兵力がありました。
しかし、
- 二万七千人は新羅方面
- 先発軍は各拠点
- 一万人余の後続軍は海上
- 百済復興軍は複数の城に分散
- 豊璋と福信は対立
- 高句麗との統一作戦は成立しない
- 全軍を統括する最高司令部がない
という状態でした。
一方、唐・新羅側は、
- 州柔城を戦争の中心と定める
- 陸軍が州柔城を包囲する
- 水軍が白村江を封鎖する
- 糧船を伴い、水陸同時に進む
- 必要な場所へ戦力を集中する
という統一作戦を実行しました。
白村江の真の敗因は、倭国に兵力がなかったことではありません。
大兵力を持ちながら戦争の急所へ集中できず、倭国・百済・高句麗を一つにまとめる戦略と司令部を持たなかったこと
にありました。
海戦の敗北によって救援路を失い、豊璋の逃亡によって王を失い、州柔城の降伏によって復興政権の中心を失いました。
これが百済復興戦争の決定的な敗北です。
第二十七節 白村江後、倭国は列島防衛へ転換した
白村江の敗戦によって、倭国が失ったものは、兵士や軍船だけではありません。
倭国は、百済という半島側の政治的・軍事的拠点を失いました。
それまで百済が存在していた半島西南部は、
- 唐・新羅の勢力を牽制する前方拠点
- 北部九州を守る半島側の防衛線
- 倭国と半島を結ぶ海上交通の拠点
- 人・物資・技術が往来する交流圏
として機能していました。
しかし百済復興に失敗したことで、唐・新羅の軍事勢力と倭国の間にあった防衛上の空間が消えます。
倭国の防衛線は、半島南部から、対馬・壱岐・北部九州、さらに瀬戸内海へ後退しました。
敗戦後の防衛整備
| 西暦 | 防衛整備 |
|---|---|
| 664年 | 対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を配置 |
| 664年 | 大宰府前面に水城を築造 |
| 665年 | 長門に城を築造 |
| 665年 | 大野城・基肄城を築造 |
| 667年 | 都を近江大津宮へ移す |
| 667年頃 | 対馬の金田城など西日本各地の防衛拠点を整備 |
水城は大宰府の前面を遮断する大規模な土塁と濠です。
大野城・基肄城は大宰府を南北から守る山城として築かれ、百済から亡命した憶礼福留・四比福夫らの知識が用いられました。
倭国は、半島で維持できなかった防衛線を、列島内部で作り直していったのです。
結び 半島の拠点を失い、列島を守る国家へ
白村江の戦いは、663年8月に行われた一度の海戦ではありません。
660年の百済滅亡から始まり、豊璋の送還、武器・食糧の供給、五千人余の先発軍、二万七千人の主力軍、一万人余の後続軍、白村江での敗北、州柔城の降伏、倭国軍と百済人の撤退まで続いた、約三年間に及ぶ国家戦争でした。
倭国軍は、百済復興軍の補助部隊として戦っただけではありません。
独自の将軍と軍事目的を持ち、新羅の城を攻略し、唐水軍と直接戦った主要な参戦国でした。
百済復興政権と倭国は同じ敵と戦っていました。
しかし、百済側が王朝の再建と国内の主導権をめぐって動く一方、倭国は唐・新羅による半島秩序の再編と、自国の海域圏・安全保障に向き合っていました。
両者は同じ敵と戦いながら、必ずしも同じ戦争を見ていたわけではありません。
倭国は三万人を超える兵力を持ちながら、各方面へ軍勢を分散させました。
唐・新羅連合軍は、百済復興政権の本拠・州柔城へ水陸両軍を集中させました。
白村江で倭国水軍が敗れると、州柔城への海上救援路は断たれます。豊璋は高句麗へ逃亡し、州柔城は降伏しました。
任存城では遅受信らが抵抗を続けましたが、内部離反によって最後の拠点も失われます。
百済王朝を滅ぼしたのは、唐・新羅連合軍です。
しかし、一度は立ち上がろうとした百済復興政権を内部から崩壊させ、その最後の柱を折ったのは、王として迎えられた豊璋自身でした。
白村江敗戦後、倭国は百済復興を断念します。
倭国に残っていた豊璋の弟・善光は、亡命王族として難波に居住し、その系統は後に「百済王氏」として倭国王権の氏族制度へ組み込まれました。
百済王統が倭国王権に取って代わったのではありません。
滅亡した百済の王族と遺民が、倭国王権の保護を受け、その臣下・貴族・官人として列島社会の中に生き残ったのです。
百済という国家は半島から消えました。
しかし、その王統と人々、技術と文化は、倭国の中に受け継がれました。
そして倭国は、百済という半島側の政治的・軍事的拠点を失いました。
それまで半島南部に置かれていた防衛線は、対馬・壱岐・北部九州、さらに瀬戸内海へと後退します。
倭国は対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を置き、大宰府前面に水城を築き、その背後に大野城・基肄城などの山城を整備していきました。
白村江の敗戦は、倭国が半島の拠点を失った瞬間でした。
同時にそれは、倭国が列島そのものを守るため、防衛拠点と国家体制を作り直していく出発点でもあったのです。
史料整理・考察 河瀬昌良
古神道家・倭呼吸塾 塾長

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