生活こそ本来の道場である

塾長のつぶやき

――「修行は必要ない」という時代に、心行の意味を問い直す

近年、スピリチュアルの世界では、

「無理をする必要はない」
「嫌なことはしなくていい」
「苦しい場所からは離れればいい」
「修行の時代は終わった」

といった言葉をよく見かけるようになりました。

こうした考え方のすべてを、私は否定するつもりはありません。

人には休むことが必要です。

心や身体が壊れるまで耐える必要もありません。

暴力や支配、理不尽な環境から離れることが必要な場合もあります。

しかし、休息や退避のために必要な言葉を、そのまま人生全体の原理にしてしまえば、別の問題が生じます。

嫌だからやらない。
苦しいから離れる。
自分を否定してはいけないから、自らを改めない。

これを続けながら、

「魂を成長させる」
「覚醒する」
「本来の自分に戻る」

と語ることに、私は大きな矛盾を感じています。

何も鍛えず、何も改めず、自らの課題を避け続けながら、なぜ魂だけが成長するのでしょうか。

この疑問から、私は改めて「修行」と「心行」の意味を考えてみたいと思います。

修行と聞いて、何を思い浮かべるか

修行と聞くと、多くの人は山に籠もることや、滝に打たれること、断食をすることなどを思い浮かべるでしょう。

自然の厳しさに身を置き、自らの限界と向き合う。

死の危険を伴う行もあり、その過酷さを軽く見ることはできません。

山中での行や滝行も、間違いなく修行の一つです。

しかし、修行とは本当に、それだけなのでしょうか。

山に入らなければ、修行はできないのでしょうか。

私は、そうは考えていません。

むしろ大半の人は、修行をしていないのではなく、修行だと気づかずに、毎日の生活の中で修行をしているのだと思います。

山の行と、里の行

山での修行は、自然と自分との対峙です。

寒さ、暑さ、飢え、恐怖、疲労、孤独。

自然は容赦なく、人間の都合に合わせてはくれません。

それに対して、生活の中で行う修行は、人と自分との対峙です。

家庭、職場、地域、人間関係。

そこには嫉妬、損得、誤解、裏切り、怒り、責任、立場の違いがあります。

自然の厳しさとは別の意味で、人間社会もまた過酷です。

正直に生きれば、損をすることがあります。

義を通せば、孤立することがあります。

道理を説けば、煙たがられることがあります。

責任を負えば、逃げた人の分まで背負わされることもあります。

それでも、怒りや恐れ、欲や損得だけに流されず、何を選び、どのように行うのか。

この心の葛藤と選択の積み重ねもまた、修行ではないでしょうか。

山は心を研ぎます。

そして里は、その心が本物であるかを試します。

山を下りれば、修行が終わるのではありません。

山を下り、人の中へ戻ったところから、人としての修行が始まるのです。

生活そのものが修行である

子育ての中で、感情のまま怒らないように努める。

家族を支え、自分の役割を果たす。

職場で理不尽なことがあっても、感情だけで判断せず、道理ある解決を探す。

自分の間違いを認め、必要なら謝罪する。

一度交わした約束を守る。

自分とは考えの違う人とも向き合う。

誰も見ていないところでも、するべきことを行う。

これらは滝行ではありません。

山中に籠もることでもありません。

しかし、自らの心を見つめ、行いを選び続けるという意味では、立派な修行です。

生活は、修行の代用品ではありません。

生活そのものが、人の心と行いを磨く本来の道場なのです。

修行とは、苦しみに耐えることではない

ここで一つ、明確にしておかなければならないことがあります。

修行とは、理不尽な環境に耐え続けることではありません。

暴力や支配を受け入れることでもありません。

ブラック企業で壊れるまで働くことでもなければ、自分を犠牲にして他人の都合に従い続けることでもありません。

修行を単なる我慢と考えると、

「苦しめば苦しむほど偉い」

という誤った精神論に陥ります。

私が考える修行とは、道理に照らし、

耐えるべきこと、
改めるべきこと、
伝えるべきこと、
離れるべきことを見極め、

その選択に責任を持つことです。

離れることが必要な場合もあります。

しかし、自らが越えるべき課題から逃げているのか、本当に離れるべき環境なのかは、慎重に見極めなければなりません。

何でも、

「違和感があったから」
「波動が合わなくなったから」
「自分を大切にするため」

と説明すれば、反省も検証も責任も消えてしまいます。

必要なのは、耐え続けることではなく、正しく見極める力です。

心地よさと、道理は同じではない

現代では、心地よくない状態をすぐに「間違っている」と判断する傾向があります。

しかし、不快であることが、必ずしも間違いの証拠とは限りません。

自らの非を認めることは、心地よいものではありません。

謝罪することも、苦手なことを学ぶことも、責任を負うことも、ときには大きな葛藤を伴います。

それでも、道理に照らして必要であるなら、行わなければならないことがあります。

心地よいかどうかだけを基準にすれば、自分に都合の悪いものをすべて遠ざけることができます。

しかし、それでは人としての成長は止まります。

葛藤は、必ずしも不幸ではありません。

葛藤とは、自分の心と現実を照らし合わせる場でもあるのです。

「自分らしさ」と「自分勝手」

「自分らしく生きる」という言葉も、よく使われます。

自分らしく生きることは大切です。

しかし、自分らしさは、他者への責任を失ってよい免罪符ではありません。

自分の思いだけを優先し、他人に迷惑をかけても、

「これが本当の私だから」
「自分を大切にしただけだから」

と正当化するのであれば、それは自分らしさではなく、自分勝手です。

人は一人では生きていません。

家庭、仕事、地域、社会。

私たちは、多くの人との関係の中で生きています。

だからこそ、自分の自由と他者への責任の間で、道理ある着地点を探さなければならない。

その葛藤こそ、生活の中にある修行です。

心行とは何か

私は「心行」を、単に心を清らかに保つことだとは考えていません。

どれほど美しいことを思っていても、行いが伴わなければ、現実は何も変わりません。

平和を願いながら、身近な人を傷つける。

感謝を語りながら、受けた恩を忘れる。

愛を語りながら、自分の都合だけで人を切り捨てる。

それでは、心と行いが分離しています。

心行とは、葛藤の中で心を正し、道理と義に基づく選択を行動として現すことです。

つまり、

心行とは、心を現実に表す営みである。

義を選ぶ。

責任を負う。

約束を守る。

必要なら謝る。

間違いを認める。

人を敬う。

見返りがなくても、するべきことを行う。

この積み重ねによって、心は初めて行いとなります。

善意だけでは足りない

心行には、もう一つ大切な要素があります。

それは、自分の行いが生んだ結果を引き受けることです。

人は、ときに善意から行動して、相手を傷つけることがあります。

「良かれと思ってした」
「悪気はなかった」

という言葉だけでは、結果に対する責任は消えません。

必要なら謝り、修正し、償う。

自分の選択が生んだ結果から、目を逸らさない。

ここまで含めて、心行なのだと思います。

心行とは、心の動機を正すだけでなく、行いの結果まで引き受けることである。

責任を負わず、都合の悪い現実だけを「手放す」のであれば、それは解放ではありません。

綺麗な言葉で包まれた、責任放棄になってしまいます。

修行は、完成することではない

修行という言葉から、悟った人、完成した人を想像する人もいるでしょう。

しかし、人は簡単には完成しません。

誰でも怒ります。

迷います。

間違います。

ときには、欲や恐れに負けることもあります。

大切なのは、間違わない人になることではありません。

間違いに気づいたとき、逃げずに自らを正せる人になることです。

気づく。

振り返る。

正す。

やり直す。

そして、再び歩む。

この繰り返しが修行です。

修行とは、自分を責め続けることではありません。

自分を甘やかし続けることでもありません。

自らを見つめ、必要な修正を重ねていくことです。

修行・心行・修道

ここまでの考えを、私は次のように整理しています。

修行とは、
人と社会の中で生じる葛藤から逃げず、自らの心を見つめること。

心行とは、
葛藤の中で道理と義に基づく選択をし、それを行動として現すこと。

修道とは、
その選択と行動を一度で終わらせず、生涯にわたり修正し、積み重ねていく道です。

修行は、苦しむために行うものではありません。

人として成熟するために、自らの心と行いを磨くものです。

そして、その道場は特別な山の中だけにあるのではありません。

家庭にもあります。

職場にもあります。

地域にもあります。

人間関係の中にもあります。

私たちが生きる日常そのものが、道場なのです。

「修行は必要ない」という時代に

「無理をしなくていい」という言葉に救われる人はいます。

「嫌な場所から離れていい」という言葉が、命を救うこともあります。

だから、その言葉自体を否定する必要はありません。

ただし、それは休息や退避のための言葉であり、すべての葛藤から逃れるための言葉ではないはずです。

人として生きる以上、自分の未熟さと向き合わなければならないときがあります。

責任を負わなければならないときがあります。

謝らなければならないときも、耐えなければならないときも、立ち向かわなければならないときもあります。

そのすべてを、

「自分らしくない」
「心地よくない」
「波動が合わなくなった」

という言葉で遠ざけてしまえば、生きることそのものが薄くなってしまうのではないでしょうか。

人は、苦しむために生きているのではありません。

しかし、人として成長するためには、避けて通れない葛藤もあります。

では、あなたが今向き合っている葛藤は、ただ逃れるべき苦しみなのでしょうか。

それとも、自らの心を知り、これからの生き方を選び直すために現れた、あなた自身の心行なのでしょうか。

すぐに答えが出なくても構いません。

迷い、立ち止まり、ときには間違いながらも、人は何度でも自らの心を見つめ直すことができます。

立ち止まったあなたを責める人など、この空のどこにもいません。

だからこそ、自分自身まで、自分を責め続ける必要はありません。

昨日までできなかったことを、今日から一つ改めることもできます。

伝えられなかった感謝を伝えることも、認められなかった過ちを認めることも、果たせなかった責任にもう一度向き合うこともできます。

心行とは、完成した人だけが歩む特別な道ではありません。

不完全な自分を見捨てず、よりよい生き方を選び直しながら、一歩ずつ歩んでいく道です。

あなたは、この日々という道場の中で、これからどのような心を育て、どのような一歩を選びますか。

その小さな一歩が、未来のあなたを育てる、新たな心行の始まりとなることを願っています。

河瀬昌良

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