答えを外に求める信仰、内に求める修行

塾長のつぶやき

――出口王仁三郎、岡田茂吉、そして中今を生きるということ

信仰って、なんやろうな。

修行って、なんやろうな。

私は時々、そんなことを考えます。

人は苦しい時、迷った時、どうしても答えを求めます。

神様は何を望んでいるのか。
先生は何と言っているのか。
先人は何を残したのか。

分からないから、分かる人を探す。

これは人間として、ごく自然なことだと思います。

私自身も、多くの先人から学んできました。

古い書物を読み、教えを受け、神道を修奉し、自分より先にこの道を歩いた人たちの言葉にも、何度となく助けられてきました。

だから私は、「人から学ぶこと」を否定するつもりはまったくありません。

ただ、その先に一つ、ずっと感じていることがあります。

いつまで、答えを外から借り続けるんやろう。

そんな問いです。


少し、歴史を淡々と見てみます

近代日本の宗教史を見ると、非常に大きな存在として出口王仁三郎がいます。

出口なおとともに大本を形成し、大本は大正期から昭和初期にかけて大きな宗教運動へ成長しました。

しかし1921年の第一次大本事件、1935年の第二次大本事件によって国家から大規模な弾圧を受けます。第二次事件では王仁三郎をはじめ多数の関係者が検挙され、綾部・亀岡を中心とする施設も大きく破壊されました。戦後、大本は再出発しています。

そして、その大本から大きな影響を受けた人物の一人が、岡田茂吉です。

岡田茂吉は1920年に大本へ入信し、神霊研究などに取り組み、1934年に大本を離れました。その後、1935年に自身の宗教活動を本格化させ、後の世界救世教へと発展していきます。現在の教団でも岡田茂吉は「明主様」と呼ばれ、その教えが受け継がれています。

岡田茂吉の没後、その系統からは複数の教団・組織が生まれました。また世界救世教自体も、1984年に教団運営をめぐって三派に分かれ、その後組織再編が行われています。

ここまでは歴史の話です。

問題は、ここからです。


教祖の言葉が「答え」になった時

私は宗教そのものが悪いとは思っていません。

信仰によって救われた人もいる。
生きる支えを得た人もいる。
人のために尽くしてきた宗教者も、数え切れないほどいます。

問題は、教祖の言葉が「一つの道標」ではなく「最終回答」になってしまった時です。

先生がこう言った。

教祖がこう書いている。

だから、これが正しい。

そこから一歩も動かなくなる。

最初は学ぶためにあった教えが、いつしか人間の思考を囲う壁になってしまう。

私はここに、とても大きな違和感があります。

百年前に生きた人が、命を懸けて修行し、考え、感じ、たどり着いた場所がある。

それは尊いと思います。

しかし、

百年前の一人の人間の精神世界を、百年後の人間の天井にしてしまっていいのか。

私は、そうは思わないんです。

時代は進みます。

科学も進む。
医学も進む。
歴史研究も進む。
人間についての理解も進む。

新しい資料も出てくる。

それなのに精神の世界だけが、

「先生が百年前にこう言われたから」

で止まってしまったら、どうでしょう。

それは教えを継承しているというより、教えを保存しているだけになってしまうことがあります。


教義を知ることと、精神性が高くなることは違う

もう一つ、宗教の世界を見ていて感じることがあります。

教義を学ぶほど、人が必ず謙虚になるとは限りません。

むしろ閉じた教義体系の中では、

「私たちは知っている」

「世間の人はまだ分かっていない」

「この教えを知らないから迷うのだ」

という意識が生まれることがあります。

もちろん、すべての宗教、すべての信仰者がそうだと言っているのではありません。

ただ、こうした構造は確かにあります。

教義を知っている。

長く所属している。

教祖に近い。

役職が高い。

それがいつの間にか、精神性の高さと混同されてしまう。

でも私は思うんです。

本当に精神性が高くなっていくなら、

「私は知っている」より、「まだ分からないことがある」

の方へ向かうんやないかな、と。

人を見下すのではなく、人を見る。

自分の正しさを主張する前に、自分自身を振り返る。

間違っていたら、間違っていたと言える。

私はそこに、修行の深さが現れるように思います。

教義をどれだけ覚えたかではない。

その人が、どう生きているか。

最後はそこなんやと思います。


外に答えを求めるほど、外側は大きくなっていく

これは精神の流れとして、とても興味深いところです。

答えを外に求め続けると、答えを示してくれる存在が必要になります。

最初は「先生」だったものが、

特別な先生になり、

神に選ばれた人になり、

やがて救世主のような存在になっていく。

それに伴って、言葉も大きくなります。

世界を救う。

人類を救う。

特別な使命がある。

神から選ばれている。

外へ外へと答えを求めていくほど、その象徴は視覚的にも、言葉の上でも、どんどん大きくなっていく。

衣装も、建物も、肩書も、教義も壮大になっていくことがあります。

そして皮肉なことに、

外側の神々しさが大きくなるほど、本人が自分で感じる必要がなくなっていく。

「先生が言ったから」

で済むからです。


ここからは、私自身の話です

私は出口王仁三郎も岡田茂吉も、「完成された救世主」として見ているわけではありません。

一人の修行者として見ています。

教えの中には、

「なるほどな」

と思うものもあります。

一方で、

「いや、それはどうなんやろ」

「なんじゃこれは」

と思うものも、正直あります(笑)。

強く断定しすぎていると感じるところもあります。

でも、だからといって、その人が歩いてきた道そのものを否定する気にはなれません。

彼らもまた、自分の時代の中で苦しみ、考え、感じ、世のために何かをしようとした人たちだったのだと思います。

そこは、私と同じです。

方法は違う。

考え方も違う。

たどり着いた場所も違う。

それでも、

「世のために」

という根にある思いには、どこか共通するものを感じます。

だから私は勝手に、こう思っています。

「俺たちは、ここまで来た。あとはお前たちが先へ行け。」

そう言われているような気がするんです。

もちろん、本人たちがそう言ったという意味ではありません。

私が修行者として、勝手にそう受け取っているだけです。

でも、本当に世のため、人のためを願った修行者なら、

後世の人間が百年経っても自分の言葉だけを繰り返し、

「先生を越えてはいけない」

と立ち止まっている姿を、本当に望むやろうか。

私は、そうは思わないんです。


私が目指しているのは、逆の方向です

私が歩いている道は、外に答えを増やしていく方向ではありません。

むしろ、逆です。

自分の内に答えを見いだしていく。

ただし、

「自分が思ったことは全部正しい」

という話ではありません。

それでは単なる思い込みです。

自分の感覚を磨く。

五感を磨く。

身体を整える。

心の動きを見る。

自分の欲を見る。

自分の恐れを見る。

思い込みを疑う。

間違っていたら修正する。

そうやって、外から借りてきた答えを一枚ずつ剥がしていく。

不思議なもので、そうすると修行はどんどん地味になっていきます。

救世主という肩書もいらない。

大きな言葉もいらない。

「自分だけが知っている」と言う必要もない。

残るのは、

今、自分は何を感じているのか。

今、自分は何をするのか。

今、自分はどう生きるのか。

私が大切にしている中今とは、そういうところにあります。

過去に縛られすぎず、未来の幻想にも逃げず、

今ここに、自分がいる。

その今を、どう生きるか。

私はそこを見ています。


でも、内だけを見て終わりではない

ここが、私にとって非常に大切なところです。

自分を整える。

自分を知る。

自分の内に答えを見いだす。

それだけなら、最後には自分の中だけで完結してしまいます。

私は、それで終わりではないと思っています。

内を整えたその先で、もう一度、外を見る。

そして問う。

「世のために、自分から何ができるやろう。」

私はここに、人が生きている意味の一つがあると思っています。

自分だけが幸せになるためではない。

自分だけが特別になるためでもない。

家族がいる。

地域がある。

国がある。

山がある。

川がある。

海がある。

先人がいる。

そして、これから生まれてくる人たちがいる。

自分が少し整ったのなら、その力を何に使うのか。

私はそこを大切にしたい。


対極を消さず、神結びする

世の中には、必ず対極があります。

光と闇。

男と女。

静と動。

古いものと新しいもの。

科学と信仰。

理性と感性。

どちらか一方だけで世界ができているわけではありません。

だから私は、一方を倒して終わることを調和とは思っていません。

違いをなくしてしまうことも、調和ではないと思っています。

違うものは、違うままでいい。

その違いを理解し、その間に新しい結びを生み出す。

私はそれを神結びと捉えています。

対極を争わせるのではなく、

対極だからこそ生まれる力を、一つの働きへ結んでいく。

簡単なことではありません。

むしろ対立した方が楽な時もあります。

「あっちが悪い」

と言ってしまえば済みますから。

でも私は、その先へ行きたい。

どちらかを消すのではなく、

両方を見て、結ぶ。

それもまた、私にとっての修行です。


先人が歩いた続きを、私たちは歩けばいい

出口王仁三郎にも、岡田茂吉にも、私は学ぶところがあります。

同時に、

「そこは違うと思う」

というところもあります。

それでええんやと思います。

先人を敬うということは、その人の言葉を一字一句、永遠に正しいものとして守ることではない。

その人が何を求め、何のために歩いたのか。

その志を受け取り、

自分自身でもう一度確かめ、

自分の時代を生き、

そして次へ渡す。

それが継承なのではないでしょうか。

私は、教祖を越えたいわけではありません。

誰かより上に行きたいわけでもありません。

ただ、

先人がここまで歩いてきたのなら、その続きを歩いてみたい。

それだけです。

外に救世主を求めるのではなく、

自らの内を整える。

中今を生きる。

そして、

世のために自分から何ができるのかを問い続ける。

対極を争わせず、調和させ、神結びしていく。

私にとって修行とは、そういうものです。

派手ではありません。

むしろ、進めば進むほど地味になっていくのかもしれません。

でも、それでいいと思っています。

誰かに「救ってもらう」のではなく、

自ら立ち、

そして自分にできる小さなことを、この世へ返していく。

私は、そんな道を歩いていきたい。

先人を敬うことと、先人の場所で立ち止まることは違う。

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