河瀬昌良が継承する古神道観

塾長のつぶやき

― 招魂・鎮魂・昇魂・調和・神結の道 ―

はじめに

あなたは、

「祈る」とは何だと思いますか。

願いを叶えることなのか。

亡き人を慰めることなのか。

それとも、自分自身を取り戻すことなのか。

現代では祈りという言葉が、とても軽く扱われることがあります。

しかし古神道における祈りは、本来もっと深く、生き方そのものに関わるものでした。

前稿では、歴史学や神道学の視点から、古神道の成立とその実像について考察しました。

しかし古神道は、単なる歴史上の信仰ではありません。

古神道とは、失われた古代を再現するための思想ではなく、古代より受け継がれてきた「調和の智慧」を現代に生かすための道であると私は考えています。

古神道は教義によって人を縛るものではありません。

信じるか信じないかを問うものでもありません。

生き方そのものの中に息づく、調和の智慧です。

自然を敬い、祖先を敬い、人と人との和を重んじる精神。

その精神は時代を超えて、今も私たちの中に息づいています。

私は古神道を通して、人が本来の自分を思い出し、天地自然と調和して生きる道を伝えています。

その実践が、倭呼吸であり、招魂・鎮魂・昇魂の祈りであり、全国各地で続けてきた巡礼と祈念活動です。

本稿では、私が継承し実践している古神道観についてお伝えしたいと思います。


私の歩み

私は幼少の頃より、父のもとで古神道の修道に触れて育ちました。

父は土地供養や鎮魂を行い、その背中を見ながら私は自然と祈りの世界に身を置いていました。

幼い頃から、なぜか強く感じていたことがあります。

それは、

各地で亡くなった日本兵たちを迎えに行かなければならない

という想いでした。

子供ながらに、その想いは消えることなく、年を重ねるごとに深くなっていきました。

そして2016年。

口伝による呼吸法を継承し皆伝。

その翌月、

「地を鎮めよ」

という導きを受け、全国巡礼が始まりました。

当初、私が行っていたのは地震の分散祈念でした。

地球が生きている以上、

「地震そのものを無くしてほしい」

と願うことは、自然の理に反すると感じていました。

自然は生きており、大地もまた呼吸し、動き続けています。

ならば、その大きな反発が一度に噴き出す前に、

ビスケットが周りから少しずつ崩れていくように、

その力を分散できないか。

その祈りをもって各地を巡り、地を鎮める歩みを始めました。

それ以来、

戦没地、被災地、古戦場、空襲地を巡り、

その数は500ヶ所を超えています。

それ以来、

戦没地、被災地、古戦場、空襲地を巡り、

その数は500ヶ所を超えています。

その歩みの中で、私が強く感じ続けてきたことがあります。

それは、

歴史の大きな流れに飲まれ、

名を残した者も、

名も残せず消えていった者も、

そのすべてに等しく光を当てること。

それこそが私に与えられた祈りの役目であると、今は確信しています。


調和とは何か

私が古神道の本質として最も大切にしている言葉があります。

それが

「調和」

です。

古代日本人は自然を征服しようとは考えませんでした。

山を神とし、
川を神とし、
海を神とし、
森を神とし、
天地自然と共に生きる道を選びました。

そこには支配でも対立でもない世界観があります。

人も自然の一部であり、すべては繋がっているという感覚です。

私は、この精神こそが古神道の本質であり、現代においては「調和」という言葉に集約されると考えています。

古神道では、この調和を

神結(かみむすび)

といいます。

神結とは、ただ繋がることではありません。

天地と結ばれ、
自然と結ばれ、
人と結ばれ、
祖霊と結ばれ、
そして本来の自神と結ばれること。

それは目に見えない縁を整え、

分かれたものを本来あるべき姿へ結び直していく働きです。

私は、この神結こそが祈りの本質であり、

招魂・鎮魂・昇魂、そのすべてに通じる根本の力であると考えています。

しかし調和とは、ただ周囲に合わせることではありません。

調和とは同調ではありません。

同調とは、自分を失い、周囲に埋もれることです。

調和とは、自らを立てながら共に生きることです。

調和とは、自分を消すことではない。

誰かに合わせることでもない。

本来の自分を生かしながら、人とも自然とも共に生きることです。

倭呼吸もまた、この調和を学ぶための修道です。


倭とは何か

倭国という名には、単なる古代国家の意味だけではない精神性が宿っています。

私は「倭」を、

和をもって尊しとなす民の精神

として受け継いでいます。

争いではなく調和。
支配ではなく共生。
奪い合いではなく生かし合い。

この精神こそが倭の本質であると考えています。

その精神を呼吸と共に現代に蘇らせるもの。

それが倭呼吸です。


招魂とは何か

一般的に招魂とは、祖先や英霊の御霊をお迎えする祭祀を意味します。

もちろんその意味も大切です。

しかし私が考える招魂には、もう一つの意味があります。

それは、

「本来の自分を思い出すこと」

です。

人は人生の中で、

悲しみ
怒り
執着
恐れ

様々な経験によって、本来持っている輝きを見失うことがあります。

気づけば、自分らしく生きることよりも、周囲に合わせることに追われてしまうこともあります。

招魂とは、その失われた自分自身との再会でもあります。

しかし招魂とは、誰かに救われることではありません。

招魂とは依存ではありません。

失った自分を、自ら迎えに行くことです。

魂を呼び戻すとは、本来の自分を迎え直すことでもあるのです。


鎮魂とは何か

鎮魂とは、荒ぶる魂を鎮めることです。

しかし私は、鎮魂を単なる慰霊とは考えていません。

鎮魂とは、

「魂の尊厳を取り戻す祈り」

です。

戦場で散った人々。
災害によって命を落とした人々。
歴史の中で語られることなく消えていった人々。

私は全国各地を巡り、多くの場所で手を合わせてきました。

沖縄の地を歩いた時、私は深く感じました。

沖縄戦の跡地に立った時、そこにあったのは重さではありませんでした。

そこにあったのは、

生き抜いた人々の力強さ

でした。

悲しみの跡ではなく、

命を繋いだ意志がそこにありました。

私はその時、鎮魂とは悲しみを消すことではなく、

尊厳を受け取ること

なのだと深く知りました。

鎮魂とは忘却ではありません。

過去を消すことでもない。
忘れることでもない。

その痛みごと受け止め、その人生に敬意を払い、その存在の尊厳を認めること。

それが鎮魂であると考えています。


昇魂とは何か

昇魂とは、

「本来あるべき場所へ還ること」

です。

私は昇魂を、消滅や終わりとは考えていません。

魂は役目を終えた後も、その存在が失われるわけではありません。

本来の光を取り戻し、本来あるべき場所へ還り、新たな歩みへ進んでいく。

それが昇魂です。

それは亡くなった方だけではありません。

生きている私たちもまた、

古い執着を手放し、新たな自分へ進む時、

昇魂という営みを行っているのかもしれません。


光の御柱と原初祭祀

古代の祭祀は、社殿以前に存在していました。

神籬(ひもろぎ)
磐座(いわくら)
磐境(いわさか)
禁足地
巨木信仰

これらは自然そのものを神の依代として敬う場でした。

私はその原初祭祀の精神を現代に継承するものとして、

天御柱

を建立しています。

それは物理的な柱ではありません。

天地を結び、
人と神を結び、
過去と未来を結ぶ祈りの柱です。


倭呼吸とは何か

倭呼吸とは単なる呼吸法ではありません。

調和を学ぶための修道です。

天地と調和し、
自然と調和し、
人と調和し、
自らと調和する。

倭呼吸では、

五感を磨き、
六感を開き、
七感で調和を知り、
八感で宇宙の理と融合する。

それは単なる能力開発ではありません。

本来の自神へ還るための修道です。


身は地に帰し 魂は空に帰す

私は巡礼の中で、一つの想いに辿り着きました。

身は地に帰し
魂は空に帰す

人は大地より生まれ、やがて大地へ還ります。

そして魂は空へ帰り、再び新たな歩みを始める。

招魂とは、本来の自分を思い出すこと。

鎮魂とは、魂の尊厳を整えること。

昇魂とは、次なる歩みへ進むこと。

古神道とは過去の信仰ではありません。

今を生きる私たちが、本来の自分を思い出すための道でもあるのです。


おわりに

古神道は歴史の中にだけ存在するものではありません。

その精神は今も人々の心の中に息づいています。

自然を敬い、
祖先を敬い、
命を敬い、
調和を大切にする。

そして私は、こう考えています。

祈りとは願望ではありません。

祈りとは現実から目を逸らすことでもありません。

祈りとは現実を受け止め、天地と命を結び直す行為です。

もし今、

迷いの中にいるなら。

自分を見失っているなら。

一度、自らの呼吸に耳を澄ませてみてください。

そこに眠る本来の自神は、

今も静かに息づいています。

私はその精神を受け継ぎ、

招魂・鎮魂・昇魂の祈りと共に歩み続けたいと思います。

そして一人でも多くの方が、本来の自分を思い出し、自らの人生を輝かせることを願っています。

倭呼吸塾 河瀬昌良

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