- おかしいと思っているのに何故誰も言わないのか
- 序章 誰もが「おかしい」と思っている
- 第一章 「和」と「沈黙」を履き違えた日本人
- 第二章 「自分一人では変わらない」という大衆の嘘
- 第三章 「悪意を持つ者」は、大衆の善意を利用する
- 國は、一枚の紙ではできていない
- 土地を失うとは、面積を失うことだけではない
- 地名が消える時、記憶も消える
- 制度の穴は、信頼を削る
- 身分を証明する仕組みは、共同体の記憶でもある
- 教育が変われば、未来の記憶が変わる
- 言葉が痩せれば、考える力も痩せる
- 祭りが消える時、地域の時間が切れる
- 墓を守る者がいなくなる時
- 地域共同体の弱体化は、國全体の問題である
- 「便利だから」で失うもの
- 小さな例外が、やがて原則を変える
- 「今すぐ困らない」が最も危険である
- 二百年後から見れば、今は「昔」である
- 國は、奪われるだけではない
- 守ることと、変わることは対立しない
- 小さな違和感を、見過ごさない
- 國を守るとは、日常を守ることである
- 気づいた時には遅かった、と言わないために
- 第四章 小さな違和感は、やがて國の形を変える
- 國は、一枚の紙ではできていない
- 土地を失うとは、面積を失うことだけではない
- 地名が消える時、記憶も消える
- 制度の穴は、信頼を削る
- 身分を証明する仕組みは、共同体の記憶でもある
- 教育が変われば、未来の記憶が変わる
- 言葉が痩せれば、考える力も痩せる
- 祭りが消える時、地域の時間が切れる
- 墓を守る者がいなくなる時
- 地域共同体の弱体化は、國全体の問題である
- 「便利だから」で失うもの
- 小さな例外が、やがて原則を変える
- 「今すぐ困らない」が最も危険である
- 二百年後から見れば、今は「昔」である
- 國は、奪われるだけではない
- 守ることと、変わることは対立しない
- 小さな違和感を、見過ごさない
- 國を守るとは、日常を守ることである
- 気づいた時には遅かった、と言わないために
- 第五章 二百年後、日本はまだ日本であるのか
- 古い地名を呼ぶ者はいるのか
- 第六章 國を滅ぼすのは、悪人の数ではない
- 國民であるということは、観客ではない
- 第七章 本音を言うとは、他人を攻撃することではない
- 黙るか、怒鳴るか
- 怒りは悪ではない
- 本音と暴言は違う
- 異論と差別を混同してはいけない
- 相手を黙らせても、問題は消えない
- 対話とは、相手に負けることではない
- 相手の話を聞くことは、同意することではない
- 言葉には、責任がある
- 匿名の怒りが社会を変えるのか
- 本音とは、自分に対しても嘘をつかないことである
- 國を愛することと、他國を憎むことは違う
- 誰であるかではなく、何をするかを見る
- 正しいことを言う時ほど、品格が問われる
- 「勝った」「負けた」で國はつくれない
- 対話には、勇気がいる
- 調和とは、相手に合わせることではない
- 本音の先に、神結がある
- 語る者は、自分も問われている
- 本音とは、國をつくるための言葉である
- 沈黙ではなく、罵声でもなく
- 最後に残る問い
- 終章 最初の「1」として立つ
おかしいと思っているのに何故誰も言わないのか
「本書(本文)は、時代が大きく揺れ動く中で、私たちが未来へ何を残すべきかを問うものである」
序章 誰もが「おかしい」と思っている
私たちは、いつから本音を言わなくなったのだろう。
いや、本音そのものを失ったわけではない。
心の中では感じている。
「何かがおかしい」
「このままで本当に大丈夫なのか」
「こんなことが、いつの間に当たり前になったのだろう」
そう感じながらも、多くの人は口を閉ざす。
言えば面倒な人間だと思われるかもしれない。
空気の読めない人間だと思われるかもしれない。
時代遅れだと言われるかもしれない。
差別だ、偏見だ、排他的だと、強い言葉を浴びせられるかもしれない。
だから、黙る。
職場では黙る。
地域では黙る。
友人同士でも黙る。
家族の間でさえ、あえて話題にしない。
そして、誰もが心の中で違和感を抱えながら、表面上は何事もないように日々を過ごしていく。
それが、今の日本ではないだろうか。
もちろん、何にでも噛みつき、他人を攻撃することを私は勧めたいのではない。
世の中には、さまざまな考え方がある。
立場が違えば、見える景色も違う。
すべての人間が同じ意見になる必要もない。
しかし、問題はそこではない。
問題は、自分の中に生まれた違和感を、自分自身で確かめることすらしなくなったことである。
考えない。
調べない。
問い直さない。
そして、周囲が黙っているから、自分も黙る。
その姿を、私たちは「大人の対応」と呼び、「空気を読む」と呼び、「和を乱さない」と呼んできた。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
おかしいものが「普通」に変わる時
社会が大きく変わる時、必ずしも大きな音が鳴るわけではない。
ある日突然、国がなくなるわけでもない。
ある日突然、文化が消えるわけでもない。
ある日突然、人々の価値観がすべて入れ替わるわけでもない。
変化は、多くの場合、静かに進む。
最初は、ほんの小さな違和感である。
「少しおかしいな」
そう思う。
しかし、誰も何も言わない。
次に同じことが起こる。
また誰も言わない。
三度、四度と繰り返されるうちに、人は慣れていく。
そして、かつては「おかしい」と思っていたことが、いつしか「仕方がない」に変わる。
さらに時間が経てば、「そういうものだ」に変わる。
最後には、それを疑問に思う人間の方が、変わり者として扱われるようになる。
社会とは恐ろしいものである。
善悪が一夜にして逆転するのではない。
多くの人間が少しずつ沈黙することで、常識そのものが書き換えられていく。
その時、誰が変えたのかと問うても、明確な犯人などいない。
誰か一人が国を変えたわけではない。
誰か一人が文化を壊したわけではない。
一人ひとりが、
「自分には関係ない」
「自分が言っても仕方がない」
「面倒なことには関わりたくない」
そう思い、小さく目を背けた結果として、大きな流れが生まれていることがある。
だから私は思う。
悪意ある人間だけを恐れていてはいけない。
悪意は、いつの時代にも存在する。
問題は、その悪意が自由に動けるほど、善意ある人間が黙ってしまうことである。
悪意よりも恐ろしいもの
世の中には、他人を利用する人間がいる。
制度の隙を探す人間もいる。
美しい言葉を使いながら、自分の利益だけを求める人間もいる。
弱い立場の者を守ると言いながら、その弱者を自分の商売や政治的な道具として利用する者もいる。
これは、今に始まったことではない。
人間の歴史を見れば、いつの時代にも存在してきた。
だからこそ、社会には規範があり、法があり、共同体の目があり、互いに問い直す仕組みが必要だった。
しかし、もし多くの人間が、
「何か変だと思うけれど、言わないでおこう」
「誰かが調べるだろう」
「専門家が何とかするだろう」
「政治家が解決するだろう」
そうやって考えることを他人に預けてしまったなら、どうなるだろう。
悪意ある人間にとって、これほど都合のよい社会はない。
誰も見ない。
誰も聞かない。
誰も問いたださない。
しかも、少しでも疑問を口にすれば、今度は周囲の人間が、
「そんなことを言うな」
「波風を立てるな」
「皆が黙っているのだから、黙っていろ」
と、問題を提起した側を責め始める。
悪意を持つ者が直接、人々を黙らせる必要さえない。
大衆がお互いを監視し、同調を求め、沈黙を強要してくれるからである。
私は、ここに現代社会の危うさを見る。
悪人が増えたことだけが問題なのではない。
善良な人間が、自分の感覚を信じられなくなったことの方が、はるかに深刻なのではないか。
「みんながそうだから」という危うさ
日本人は、周囲に合わせることを得意としてきた。
それ自体は悪いことではない。
人と人とが助け合い、相手の気持ちを察し、言葉にしなくても互いを支える。
これは日本文化の美しさでもある。
しかし、その力は使い方を誤れば、容易に逆方向へ働く。
皆が右へ行けば、自分も右へ行く。
皆が黙れば、自分も黙る。
皆が笑っていれば、本当は笑えなくても笑う。
皆が「問題ではない」と言えば、自分の中に違和感があっても、その違和感の方を間違いだと思う。
そして、最も危険なのは、誰も未来を見なくなることである。
今、自分が困っていない。
今、自分の生活が壊れていない。
今、自分の家族が直接被害を受けていない。
だから、まだ大丈夫だと思う。
しかし、国家や文化の変化は、個人の一生よりも長い時間をかけて進む。
十年。
五十年。
百年。
二百年。
一人の人間の人生では見届けられないほど長い時間の中で、国の形は変わっていく。
私たちは、どうしても自分の人生の長さだけで物事を見てしまう。
だが、国というものを考えるなら、それでは足りない。
私たちが今、何を許し、何を見逃し、何を守らなかったのか。
その結果を受け取るのは、私たちではないかもしれない。
私たちの子どもかもしれない。
孫かもしれない。
あるいは、まだ生まれていない何世代も先の人々かもしれない。
その未来を、私たちは想像したことがあるだろうか。
二百年後の日本を想像できるか
二百年前の日本を考えてみてほしい。
当時を生きた人々の多くは、現代の社会を想像できなかっただろう。
交通も変わった。
暮らしも変わった。
言葉も変わった。
政治も社会制度も大きく変わった。
二百年とは、それほど長い時間である。
では、逆に考えてみたい。
今から二百年後。
西暦二二〇〇年代。
その時、日本はどのような国になっているのだろう。
そもそも、今と同じ意味での「日本」は存在しているのだろうか。
日本語は、どのように話されているのだろう。
地域の祭りは残っているだろうか。
氏神を祀る人はいるだろうか。
祖先の墓を守る人はいるだろうか。
土地に残る古い地名は受け継がれているだろうか。
神話や歴史を、自分たちの物語として語る人はいるだろうか。
山や川や海に対して、畏れと感謝を持つ感覚は残っているだろうか。
私たちの子孫は、日本人であることをどのように受け止めているだろうか。
この問いに、誰も答えることはできない。
未来は決まっていないからである。
しかし、だからこそ考えなければならない。
未来は突然現れるものではない。
今日の選択の積み重ねの先に現れる。
私たちが今日、何を大切にするか。
何を黙認するか。
何を次代に伝えるか。
何を守り、何を変えるか。
その一つ一つが、百年後、二百年後の国の姿につながっている。
国を失うとは、外国軍が攻めてきて国旗が変わることだけではない。
人々が、自分たちの文化に関心を失う。
自分たちの歴史を知らなくなる。
土地への愛着を失う。
地域とのつながりを失う。
祖先から受け継いだものを、面倒なものとして捨てていく。
そして最後には、
「別に日本でなくてもいい」
そう思う人間ばかりになる。
もし、そこまで進んだなら、国の名前が残っていたとしても、それは本当に同じ國なのだろうか。
私は、そうは思わない。
私たちは、未来から國を預かっている
人は、自分の財産なら大切にする。
家なら手入れをする。
土地なら境界を守る。
大切な道具なら、壊れれば修理する。
しかし、不思議なことに、國については「誰かが守るもの」だと思ってしまう。
政治家が守る。
役人が守る。
自衛隊が守る。
警察が守る。
誰か偉い人が守る。
確かに、それぞれに役割はある。
しかし、國は一部の人間だけで成り立つものではない。
そこに生きる一人ひとりが、
何を大切にするのか。
何を子に伝えるのか。
何をおかしいと言うのか。
何を守るために立つのか。
その積み重ねによって、國はつくられていく。
私は、國とは今を生きる者だけの所有物ではないと思っている。
私たちは、祖先から受け取ったものを生きている。
言葉も。
文化も。
土地も。
祭りも。
信仰も。
家族の記憶も。
数え切れないほど多くの人々が生き、働き、守り、次へ渡してきたものの上に、今の私たちは立っている。
そして同時に、この國は、まだ生まれていない未来の人々のものでもある。
そう考えるなら、私たちは日本を所有しているのではない。
一時的に預かっているのである。
預かったものを、どのような形で次へ渡すのか。
それが、今を生きる者の責任ではないだろうか。
沈黙は、本当に中立なのか
「私は政治には関心がない」
「難しいことは分からない」
「揉め事には関わりたくない」
その気持ちは分かる。
人は日々の生活で忙しい。
家族を養い、仕事をし、目の前の生活を守るだけでも精一杯である。
すべての人が活動家になる必要などない。
すべての人が声高に主張する必要もない。
しかし、考えることまで放棄してよいわけではない。
沈黙しているから、自分は何の責任もない。
そう言い切れるのだろうか。
何かがおかしいと感じながら、それを見ないふりをする。
何も言わず、何も調べず、何も考えない。
そして問題が大きくなった時に、
「なぜ誰も止めなかったのか」
と問う。
だが、その「誰も」の中には、自分自身も含まれている。
これは厳しい言い方かもしれない。
しかし、私はあえて言いたい。
悪意ある人間に利用され続ける社会をつくるのは、悪意ある人間だけではない。
考えることを放棄した人間。
誰かに任せ続けた人間。
おかしいと思いながら黙った人間。
そうした無数の沈黙もまた、その社会を形づくっている。
國の衰退とは、ある日突然始まるものではない。
一人ひとりが、
「まあいいか」
「自分には関係ない」
「誰かが何とかするだろう」
そう思った瞬間の積み重ねから始まる。
だから、この文章を書いている。
誰かを憎ませるためではない。
誰かを敵にするためでもない。
私は、眠っている人に起きてほしいのである。
流されていることに気づいてほしい。
自分の違和感を、もう一度確かめてほしい。
そして、未来を想像してほしい。
百年後。
二百年後。
私たちがいなくなった後の日本を。
その時代に生きる人々へ、私たちは何を渡すのか。
豊かな國か。
誇りを持てる國か。
互いに意思を交わせる國か。
それとも、
皆が「おかしい」と思いながら、
誰も何も言わず、
少しずつ失われていった國の残骸なのか。
未来は、まだ決まっていない。
だからこそ、今を生きる私たちには責任がある。
まず必要なのは、大きな運動ではない。
自分の中にある違和感から、目を背けないことだ。
そして、自分自身に嘘をつかないことである。
本当はおかしいと思っているのに、
「みんなが黙っているから」
という理由だけで、自分まで黙る。
その小さな嘘こそが、やがて大きな沈黙をつくる。
そして、その沈黙を、私たちはいつの間にか「和」と呼ぶようになった。
だが、本当にそれは和なのだろうか。
次に考えたい。
私たち日本人は、いつから「和」と「沈黙」を履き違えるようになったのか。
そして、本当の調和とは何なのか。
第一章 「和」と「沈黙」を履き違えた日本人
日本人は、古くから「和」を大切にしてきた。
人と人が争うことを避け、互いの立場を思いやり、場の空気を読み、言葉にしなくても相手の心を察する。
こうした精神性は、日本文化の根底に流れてきた。
茶の湯にもある。
祭りにもある。
村の共同体にもある。
家庭にもある。
多くを語らずとも、相手を思う。
自分の欲を少し引き、全体が収まる道を探す。
それは、日本人が長い歴史の中で育ててきた、大切な知恵だった。
しかし私は、今の日本を見ていて思うことがある。
私たちは、いつから「和」と「沈黙」を同じものだと思うようになったのだろう。
いつから「調和」と「同調」を混同するようになったのだろう。
いつから「相手を思いやること」と「言うべきことまで黙ること」を、同じ美徳として扱うようになったのだろう。
ここには、大きな履き違えがある。
和とは、全員が同じ方向を向くことではない。
和とは、違いを消すことでもない。
和とは、問題を見なかったことにすることでもない。
それぞれが違う声を持ちながら、それでも互いを壊さず、よりよい道を探していく。
私は、それが本来の和だと思っている。
和は「無言」ではない
人は皆、違う。
育った場所も違う。
家庭環境も違う。
考え方も違う。
価値観も違う。
経験も違う。
その違いを持ったまま、どう共に生きるのか。
そこに、和の難しさがある。
もし全員が同じ意見なら、和など必要ない。
何も言わなくても同じ方向を向いているなら、調整も対話もいらない。
違うからこそ、和が必要になる。
違う意見がある。
異なる立場がある。
時にはぶつかる。
それでも相手を人として尊重し、互いに言葉を交わし、よりよい道を探す。
和とは、本来そのための働きではないだろうか。
だから、私は思う。
何も言わないことは、必ずしも和ではない。
黙ることで問題が消えるなら、それでもいい。
しかし、問題が残り続けるのなら、沈黙は和ではなく、ただの先送りである。
誰かが傷ついている。
制度に穴がある。
不公平がある。
明らかな矛盾がある。
それを知りながら、
「波風を立てるな」
「空気を読め」
「皆が我慢している」
と言って黙らせる。
それは和ではない。
ただ、問題を見えなくしているだけである。
表面が静かであれば、何でも平和なのだろうか。
声が出ていなければ、問題はないのだろうか。
私はそうは思わない。
静かな水面の下で、流れが濁っていることもある。
誰も声を上げない社会ほど、深いところで不満や諦めが蓄積していることもある。
だからこそ、表面の静けさだけを見て、
「うまくいっている」
と思ってはいけない。
調和と同調は違う
今の日本社会では、調和よりも同調が求められる場面が多い。
同調とは、
皆と同じことを言う。
皆と同じように考える。
皆と同じように振る舞う。
そして、違う声を出す者に圧力をかけることである。
一方、調和は違う。
調和とは、異なるものが異なるままに響き合うことだ。
音楽を考えれば分かりやすい。
すべての楽器が同じ音を出していたら、音楽にはならない。
高い音があり、低い音がある。
強い音があり、弱い音がある。
それぞれが違う役割を持ちながら、一つの流れを生み出す。
それが調和である。
人間社会も同じだと思う。
全員が同じ意見である必要はない。
むしろ、違う意見があるからこそ、見落としに気づく。
違う経験を持つ人がいるからこそ、自分では見えなかったものが見える。
反対する人がいるからこそ、本当にそれでよいのかを問い直すことができる。
異論とは、本来、社会を壊すためにあるものではない。
社会を壊さないために必要なこともある。
ところが私たちは、異論を「面倒なもの」として扱うようになった。
違うことを言う人間を遠ざける。
空気を乱す人間と見る。
皆が納得しているように見える状態を保つことを優先する。
だが、その状態は本当に調和なのだろうか。
私は、違うと思う。
それは、声の大きい者に皆が合わせているだけかもしれない。
あるいは、誰も責任を取りたくないから、何も言わずにいるだけかもしれない。
それを和と呼ぶなら、和という言葉があまりにも軽くなる。
察する文化の美しさと限界
日本人には、相手の心を察する文化がある。
相手が言葉にしなくても、表情を見る。
声の調子を見る。
間を見る。
場の空気を見る。
そして、
「今は言わない方がよい」
「ここでは自分が引こう」
「相手の顔を立てよう」
と考える。
これは確かに美しい文化である。
世界のどこにでも同じ形で存在するものではない。
しかし、この文化にも限界がある。
察することが前提になりすぎると、
「言わなくても分かるだろう」
「分かっているはずだ」
という思い込みが生まれる。
そして、実際には伝わっていないのに、伝わっていることにされる。
問題を話し合わない。
不満を伝えない。
相手に確認しない。
ただ、相手が察してくれることを期待する。
その期待が外れれば、
「あの人は分かってくれない」
と心の中で距離を置く。
こうして、表面では何も起きていないのに、人と人の心は離れていく。
これは家庭でも起こる。
夫婦でも起こる。
親子でも起こる。
職場でも起こる。
地域でも起こる。
國でも起こる。
言葉にしなければ伝わらないことがある。
問いたださなければ分からないことがある。
話し合わなければ解けない誤解もある。
察する力は尊い。
しかし、察することと、伝えることは対立しない。
本当の意思の疎通には、両方が必要である。
相手を思う。
そして、言うべきことは言う。
相手の立場を考える。
そして、自分の考えも伝える。
相手を傷つけないように言葉を選ぶ。
しかし、必要なことまで曖昧にはしない。
私は、これこそが成熟した関係だと思う。
建前が生んだ「誰も責任を取らない社会」
建前は、本来、人間関係を円滑にするための知恵でもあった。
どんな場でも、すべて本音だけをぶつければよいわけではない。
人には言葉を選ぶ配慮が必要である。
しかし、建前が過ぎれば、別の問題が生まれる。
誰も本心を言わない。
誰も本当の問題を口にしない。
会議では皆が黙る。
終わった後で、
「あれはおかしい」
と言い始める。
その場では賛成したふりをしながら、裏では反対する。
責任を負う立場の人間も、
「皆さんの意見ですから」
と言う。
現場の人間も、
「上から言われたから仕方がない」
と言う。
こうして、誰も自分の意思で決めていないことになっていく。
これは非常に危険である。
なぜなら、失敗した時に誰も責任を取らないからだ。
上は現場のせいにする。
現場は上の指示だと言う。
組織は制度のせいにする。
制度は時代のせいにする。
最後には、誰の責任か分からなくなる。
しかし、社会の結果だけは残る。
誰も決めていない。
誰も責任を取らない。
だが、物事だけは進んでいく。
私は、この構造が今の日本のあちこちにあるように感じる。
問題を見つけた人がいても、
「今は言わない方がいい」
「上が決めることだから」
「自分の立場では言えない」
と言って口を閉じる。
そして後になって、
「やっぱりこうなった」
と皆が言う。
しかし、その時には遅い。
これは、國の問題だけではない。
会社でもある。
地域でもある。
家族でもある。
人は、自分の考えを放棄すると、その瞬間は楽になる。
しかし、その代わりに、未来を選ぶ力も失う。
「いい人」でいたいという自己保身
本音を言えない背景には、日本人の優しさだけでなく、自己保身もあると思う。
嫌われたくない。
面倒な人と思われたくない。
関係を壊したくない。
立場を失いたくない。
孤立したくない。
これは誰にでもある感情である。
私にもある。
だからこそ、簡単に他人を責めるつもりはない。
しかし、ここで一度、自分の心を見つめる必要がある。
本当に相手を思って黙っているのか。
それとも、自分が傷つきたくないから黙っているのか。
本当に和を大切にしているのか。
それとも、嫌われる勇気がないだけなのか。
本当に思いやりなのか。
それとも、責任を負いたくないだけなのか。
この問いは厳しい。
しかし、避けてはいけないと思う。
私たちは、自分の弱さを、美しい言葉で隠すことがある。
「思いやり」
「和」
「大人の対応」
「空気を読む」
それらの言葉の中に、自分の恐れや逃げを隠してしまうことがある。
そして、自分は正しいことをしていると思い込む。
だが、本当に相手を思うなら、言わなければならないこともある。
子どもが危険な道を選ぼうとしている時、
「本人の自由だから」
と黙ることだけが愛ではない。
友人が明らかな過ちに向かっている時、
「関係を壊したくないから」
と何も言わないことだけが友情ではない。
國が誤った方向へ進もうとしていると感じた時、
「政治の話は揉めるから」
と考えないことが、本当に責任ある態度なのか。
優しさには、時に厳しさが必要である。
和にも、時に異論が必要である。
調和にも、時に衝突が必要である。
問題は、衝突することではない。
衝突した後、どう向き合うかである。
本音を言うことと、争うことは違う
今の日本では、本音を言うことそのものを、争いの始まりのように捉える人が多い。
だから、最初から言わない。
しかし、本音を言うことと、相手を攻撃することは違う。
自分の考えを伝える。
理由を説明する。
相手の考えも聞く。
違いがあれば問い直す。
必要であれば反対する。
それでも、人として相手を否定しない。
これが対話である。
ところが、対話の訓練を失った社会では、二つの極端しかなくなる。
黙るか。
怒鳴るか。
何も言わないか。
相手を叩き潰すか。
しかし、本来はその間に広い道がある。
私はこう思う。
あなたはどう思うのか。
なぜそう考えるのか。
その前提は本当に正しいのか。
別の見方はないのか。
互いに問いながら、より深いところへ進んでいく。
これが意思の疎通である。
そして、國をつくるということは、こうした意思の疎通を積み重ねることでもある。
一人の人間の思いだけでは國はつくれない。
大勢の人間が、異なる立場から声を持ち寄り、その中から道を探していく。
だからこそ、国民が黙れば、國は一部の声だけで動くようになる。
声を上げる者だけが、社会の方向を決める。
そして、声を上げない多数は、後になって、
「こんなはずではなかった」
と言う。
しかし、黙っている間にも、社会は動いている。
沈黙は停止ではない。
沈黙している間にも、誰かは動いている。
沈黙している間にも、制度は変わる。
沈黙している間にも、予算は決まる。
沈黙している間にも、土地は売買される。
沈黙している間にも、教育は変わる。
沈黙している間にも、文化は変わる。
自分が何も選ばなければ、世界も何も選ばないわけではない。
誰かが選ぶ。
誰かが決める。
そして、その結果の中で自分は生きることになる。
ここを、多くの人は忘れている。
和とは、違いを消すことではない
私は、「和」という言葉を大切にしている。
だからこそ、和を都合よく使ってはいけないと思う。
和とは、誰かに従うことではない。
和とは、強い者に合わせることではない。
和とは、違いを隠すことではない。
和とは、沈黙を強いることでもない。
それぞれが自分の役割を知り、自分の声を持ち、互いの違いを認め、その上で共に道を探す。
そこには、強さが必要である。
自分の意見を持つ強さ。
相手の意見を聞く強さ。
間違いを認める強さ。
時に孤立しても、自分の良心に従う強さ。
そして、対立しても相手を人として見る強さ。
本当の和とは、弱さの上には成り立たない。
自分を持たない者同士がただ合わせることは、和ではなく流されているだけである。
周囲の顔色だけを見て動くことは、調和ではなく依存である。
私はここを、はっきりと言いたい。
日本人が失いつつあるものは、「和」ではない。
和を支えるために必要な、自分の意志ではないだろうか。
自分の声を持たない者は、流れに飲まれる
大きな川には流れがある。
その流れに身を任せれば、楽である。
何もしなくても進んでいく。
しかし、その川がどこへ向かっているのかを知らなければならない。
滝へ向かっているかもしれない。
危険な場所へ向かっているかもしれない。
流れに逆らうには力がいる。
泳ぐ方向を決めるにも意志がいる。
だから人は、流される方を選びやすい。
社会も同じである。
皆が言っている。
テレビが言っている。
専門家が言っている。
有名人が言っている。
SNSで多くの人が言っている。
だから、自分もそう思う。
これは楽である。
自分で調べなくていい。
自分で考えなくていい。
自分で責任を負わなくていい。
しかし、その楽さと引き換えに、人は自分の意思を失っていく。
そして、自分の意思を失った人間ほど、誰かに利用されやすい。
何を恐れるべきかを教えられれば、それを恐れる。
誰を敵だと思うべきかを教えられれば、その人を敵だと思う。
何が正義かを教えられれば、それを疑わずに受け入れる。
しかも、自分は自分で考えていると思っている。
これほど危ういことはない。
だからこそ、和を語る前に、自分を持たなければならない。
自分を持つとは、頑固になることではない。
人の話を聞かないことでもない。
自分で見て、
自分で聞いて、
自分で調べ、
自分で考え、
その上で、自分の言葉を持つことである。
それがあって初めて、他者と本当に調和することができる。
自分を失った者同士の集まりは、調和ではない。
ただ大きな流れに飲み込まれているだけである。
和を取り戻すために、声を取り戻す
私は、日本人に争えと言いたいのではない。
分断しろと言いたいのでもない。
むしろ逆である。
本当の和を取り戻すために、一人ひとりが自分の声を取り戻す必要があると思っている。
違う意見を恐れない。
問いを恐れない。
対話を恐れない。
おかしいと思ったことを、そのままにしない。
調べる。
確かめる。
そして、自分の言葉で話す。
その上で、相手の言葉にも耳を向ける。
これができて初めて、私たちはもう一度、本当の意味で人と人との意思の疎通を取り戻せるのではないか。
和とは、静かであることではない。
和とは、生きていることだ。
異なるものが触れ合い、時にはぶつかり、互いに変わりながら、一つの流れをつくる。
そこには、動きがある。
問いがある。
葛藤がある。
そして、乗り越えようとする意志がある。
ただ黙っているだけでは、何も生まれない。
皆が同じ方向を向いているだけでも、國は強くならない。
國を支えるのは、自分の意志を持った一人ひとりである。
だから、次に問わなければならない。
なぜ私たちは、
「自分一人が動いても何も変わらない」
と思うようになったのか。
なぜ、最初の一歩を踏み出す前から、諦めるようになったのか。
なぜ、自分の力を信じることよりも、流されることを選ぶようになったのか。
その根にあるものは何か。
次章では、
「自分一人では変わらない」
という言葉の裏に隠された、大衆意識と無力感の正体を考えていきたい。
第二章 「自分一人では変わらない」という大衆の嘘
人は、変わらない理由を探すのがうまい。
「自分一人が動いても意味がない」
「どうせ何も変わらない」
「世の中はそんなに甘くない」
「昔からそうなんだから仕方がない」
こうした言葉は、一見すると現実を知った人間の言葉のように聞こえる。
物事を冷静に見ている。
夢物語に流されていない。
世の中の厳しさを知っている。
そう見えるかもしれない。
しかし私は、必ずしもそうではないと思っている。
その言葉の中に、
本当は傷つきたくない。
失敗したくない。
笑われたくない。
孤立したくない。
責任を負いたくない。
そうした恐れが隠れていることがあるからだ。
人は、自分が何もしなかった理由を、そのまま「怖かったから」とは言いにくい。
だから、
「どうせ変わらない」
という言葉に置き換える。
自分が動かなかったのではない。
世の中が動かないのだ。
自分が諦めたのではない。
社会の仕組みが悪いのだ。
自分が声を上げなかったのではない。
声を上げても無駄なのだ。
そう考えれば、自分の心は傷つかない。
しかし、その瞬間、人は自分の力を自分で手放している。
私はここを、大きな問題だと思っている。
「どうせ変わらない」は、本当に現実的なのか
人はよく、
「現実を見ろ」
と言う。
だが、本当に現実を見ているのだろうか。
歴史を見れば、最初から大勢が動いた出来事ばかりではない。
何かが変わる時、最初は小さい。
一人が疑問を持つ。
一人が声を上げる。
一人が行動する。
そこに、もう一人が加わる。
その姿を見て、また誰かが動く。
やがて、小さな点が線になる。
線が面になる。
そして、気がついた時には、それまで「変わるはずがない」と言われていたものが変わっている。
大きな流れとは、最初から大きいのではない。
最初は、必ず小さい。
一本の川も、源をたどれば小さな水の流れである。
一本の巨木も、最初は小さな芽である。
人の人生もそうだ。
何かを始める時、最初から完成している者などいない。
一歩があるから、次の一歩がある。
一日があるから、百日がある。
一人がいるから、二人目が現れる。
それなのに、社会のことになると、なぜか多くの人は最初から大きな結果を求める。
「一人で国が変わるのか」
「一票で政治が変わるのか」
「一人が発信して何になる」
そう言う。
だが、その問い自体がおかしい。
一人が国全体を一瞬で変える必要などない。
一人の役割は、最初の一歩を踏み出すことである。
その一歩が次につながるかどうかは、最初から誰にも分からない。
しかし、最初の一歩がなければ、次は絶対に生まれない。
ここは、単純な話である。
零のままでは、何も増えない。
最初の「1」があって初めて、次が始まる。
何もしない者ほど、結果だけを求める
私は、多くの人を見ていて思うことがある。
何もしない人ほど、大きな結果を求めることがある。
自分は動かない。
しかし、世の中には変わってほしい。
自分は声を上げない。
しかし、政治家には勇気を求める。
自分は責任を取りたくない。
しかし、誰かには命を懸ける覚悟を求める。
自分は地域に関わらない。
しかし、地域が衰退すれば行政を責める。
自分は文化を学ばない。
しかし、文化が失われれば「日本らしさがなくなった」と嘆く。
私は、ここに一つの矛盾を見る。
もちろん、すべての人が同じことをする必要はない。
それぞれに生活があり、役割がある。
しかし、
何も差し出さず、
何も担わず、
何も守ろうとせず、
ただ結果だけは受け取りたい。
それでは、社会は成り立たない。
國とは、誰かが用意してくれる完成品ではない。
そこに生きる一人ひとりの関わりの積み重ねである。
だから、自分の役割をすべて誰かに預けながら、
「この国はどうなっているんだ」
と怒るだけでは、本当の意味での当事者にはなれない。
当事者とは、責任を引き受ける人間である。
大きな責任ではなくていい。
自分にできる範囲でいい。
しかし、自分の足で立つ。
自分の頭で考える。
自分の言葉で話す。
そして、自分のできる行動をする。
その姿勢があるかどうかで、人は大衆の一部として流される存在にもなり、時代をつくる一人にもなる。
被害者でいることの甘さ
少し厳しいことを言いたい。
人は、被害者でいる方が楽なことがある。
社会が悪い。
政治が悪い。
会社が悪い。
親が悪い。
時代が悪い。
国が悪い。
確かに、現実に理不尽なことはある。
本人の力ではどうにもならないこともある。
努力だけでは乗り越えられない問題もある。
私は、それを否定するつもりはない。
しかし、何があっても最後まで「自分には何もできない」と考え続ければ、人は自分の人生の主導権を失う。
被害を受けたことと、
被害者として生き続けることは、
同じではない。
誰かのせいにしている間、人は自分の責任を引き受けなくてよい。
自分が変わらなくてもよい。
失敗しても、
「もともと環境が悪かったから」
と言える。
動かなくても、
「どうせ無理だから」
と言える。
これは心を守るための働きでもある。
しかし、そこに長く留まり続ければ、やがて無力感は自分の性格になる。
何かを見るたびに、
「無理だ」
「意味がない」
「仕方がない」
という言葉が先に出るようになる。
そして最後には、まだ始めてもいないことまで諦める。
私は、この状態を最も恐れている。
なぜなら、外から鎖をつながれなくても、自分で自分を縛るようになるからである。
大衆は、なぜ流れるのか
大衆という言葉には、少し冷たい響きがある。
しかし私は、特定の誰かを見下して使っているのではない。
私も含め、人は皆、大衆の一部になる可能性がある。
考えることをやめた時。
周囲に合わせることだけを選んだ時。
自分の責任を誰かに預けた時。
その瞬間、人は流れの一部になる。
大衆意識の怖さは、一人ひとりを見ると普通の人間であることだ。
悪い人間ばかりではない。
むしろ、善良な人が多い。
家族を大切にし、
仕事をし、
税を納め、
地域で生活している。
しかし、その善良さと、主体性は同じではない。
善良な人でも、流される。
優しい人でも、周囲に合わせる。
真面目な人でも、命令に従う。
その結果、自分では望んでいなかった方向に社会が進むことがある。
ここが怖い。
悪意ある少数だけを見ていれば、本質を見誤る。
社会を大きく動かすのは、時に悪意ではなく、多数の無関心である。
声の大きい少数が方向を示す。
多くの人は、
「よく分からないけれど、皆がそう言っているから」
と流れる。
少し疑問があっても、
「専門家が言っている」
「テレビで言っている」
「世の中がそういう流れだから」
と、自分の考える役割を手放す。
そして、気づいた時には、
「こんなはずではなかった」
と言う。
しかし、その流れを大きくした一滴の中に、自分もいたかもしれない。
無力感は、最も扱いやすい
人を支配しようとする時、必ずしも力で押さえつける必要はない。
「あなたには何もできない」
と信じ込ませればよい。
「考えても無駄」
「声を上げても無駄」
「どうせ変わらない」
「世の中はそういうもの」
この感覚が人々の中に深く根づけば、誰も動かなくなる。
命令しなくても動かない。
監視しなくても黙る。
禁止しなくても諦める。
これは非常に都合がよい。
なぜなら、人々が自分自身で自分を止めてくれるからである。
だから私は、「どうせ変わらない」という言葉を軽く見ない。
それは単なる愚痴ではない。
その言葉が社会全体に広がれば、社会は本当に変わらなくなる。
人が行動しないからである。
逆に言えば、最も必要なのは、
「自分にもできることがある」
という感覚を取り戻すことである。
大きなことではない。
小さな一歩でいい。
一つ調べる。
一つ疑問を持つ。
一つ意見を伝える。
一つ投票する。
一人と話す。
一つ地域の行事に参加する。
一つ文化を学ぶ。
一つ子どもに伝える。
それでいい。
人は、大きな結果をすぐに求めるから動けなくなる。
だが、本当の変化は、小さな積み重ねから生まれる。
最初の一人は、孤独である
最初に動く者は、たいてい孤独である。
皆が理解してくれるわけではない。
笑われることもある。
否定されることもある。
「そこまでしなくてもいい」
と言われることもある。
「何を熱くなっているんだ」
と冷ややかに見られることもある。
人は、まだ形になっていないものを信じるのが苦手である。
だから、最初の一人は理解されにくい。
しかし、考えてみれば当たり前である。
皆が理解しているなら、もう最初の一人ではない。
多くの人が賛成しているなら、それはすでに流れになっている。
本当の始まりは、誰も動いていない時に動くことだ。
誰も言っていない時に言うことだ。
誰も見ていないものを見ることだ。
そこには勇気がいる。
しかし、私は思う。
最初の一人に必要なのは、特別な才能ではない。
自分の違和感をごまかさないこと。
そして、
「誰もやらないなら、自分ができる範囲でやる」
という覚悟である。
それだけである。
大英雄になる必要はない。
世界を変える必要もない。
ただ、自分に嘘をつかない。
その姿が、次の一人を呼ぶことがある。
人は、行動している人に影響される
言葉は大切である。
しかし、人は言葉だけでは動かない。
誰かが実際に動いている姿を見た時、人の心は変わる。
誰かが声を上げる。
誰かが現場に行く。
誰かが地域を守る。
誰かが祈る。
誰かが学ぶ。
誰かが働く。
誰かが失われたものを拾い上げる。
その姿を見て、
「自分にも何かできるかもしれない」
と思う人が現れる。
私は、これが本当の影響力だと思っている。
強い言葉で他人を動かすことではない。
自分が立つことで、他人の中にある力を思い出させる。
これが最も強い。
だから、
「自分一人が動いても意味がない」
という言葉は間違っている。
一人の行動が、直接大きな制度を変えなくても、
誰かの心を変えることはある。
誰かの心が変われば、その人の行動が変わる。
その行動が、また誰かに影響する。
人の行動は、目に見えないところで連鎖する。
最初に石を投じた者には、波紋がどこまで広がるか分からない。
しかし、石を投じなければ、水面は何も変わらない。
多数派は、いつも最初から多数派だったわけではない
人は、多数に弱い。
多くの人が賛成している。
皆がやっている。
それだけで正しいように感じる。
しかし、今では当たり前になっていることも、最初は少数の意見だったことがある。
社会の価値観は、固定されたものではない。
人々が問い、
考え、
議論し、
行動し、
少しずつ変わっていく。
だから、今少数であることは、必ずしも間違いを意味しない。
逆に、多数であることが正しさを保証するわけでもない。
大切なのは、
何人が言っているかではない。
誰が言っているかでもない。
その中身は何か。
根拠はあるか。
未来に何をもたらすのか。
そこを見ることである。
しかし、大衆意識に流されると、人は数だけを見る。
「皆がそう言っているから」
「そんな話をしている人はいないから」
「有名な人がそう言っているから」
こうして、自分の判断を外側に預ける。
私は、それが最も危ないと思う。
なぜなら、外側の流れが間違った時、自分も一緒に流されるからである。
考えることは、責任を引き受けること
自分で考えるということは、楽なことではない。
考えれば、選ばなければならない。
選べば、責任が生まれる。
だから、人は考えない方を選ぶことがある。
誰かの意見に乗れば、
「自分はそう聞いたから」
と言える。
皆と同じなら、
「自分だけではない」
と言える。
しかし、自分で考え、自分で選んだなら、結果を引き受けなければならない。
だからこそ、自分で考える人間は強い。
そして、國を支えるのは、そういう人間だと思う。
何でも国に聞く。
何でも専門家に任せる。
何でも権威に従う。
それだけでは、民主的な社会は形だけになる。
本当に必要なのは、一人ひとりが考えることだ。
完全な答えを持つ必要はない。
間違えることもある。
後で考えを改めることもある。
それでもいい。
大切なのは、自分で考えるという営みを手放さないことだ。
未来は、誰かがつくるのではない
人は未来を語る時、
「これから日本はどうなるんだろう」
と言う。
しかし、この言葉には、少し他人事の響きがある。
日本は自然現象ではない。
空から完成した未来が降ってくるわけではない。
未来は、今を生きる人々の選択によって形づくられる。
何を選ぶか。
何を許すか。
何に無関心でいるか。
何を守るか。
何を捨てるか。
その積み重ねが未来になる。
だから、
「日本はどうなるのか」
と問うだけでは足りない。
本当は、
「私たちは、どんな日本を次へ渡すのか」
と問わなければならない。
そこには、自分も含まれている。
國の未来とは、誰か遠い人の仕事ではない。
今を生きる一人ひとりの、毎日の選択の中にある。
私は、この感覚を取り戻さなければならないと思っている。
二百年後から、今を見る
もう一度、未来を想像してみたい。
二百年後。
今を生きている私たちは、誰もいない。
名前さえ残らない人がほとんどだろう。
しかし、私たちの選択の結果は残る。
守ったものも残る。
捨てたものも残る。
言った言葉も残るかもしれない。
黙ったことの結果も残る。
二百年後の人々が、今の私たちを振り返った時、
何と思うだろう。
なぜ、あの時に何も言わなかったのか。
なぜ、分かっていたのに動かなかったのか。
なぜ、目の前の便利さだけを選んだのか。
なぜ、未来を考えなかったのか。
そう問われることはないだろうか。
あるいは逆に、
あの時代に立った人がいた。
小さくても声を上げた人がいた。
守ろうとした人がいた。
次へ渡そうとした人がいた。
そのおかげで、今の私たちがある。
そう思ってもらえる未来もある。
どちらになるかは、今は分からない。
しかし、未来は今と切り離されていない。
今の私たちの姿勢が、未来の人々の足場になる。
だから私は、
「自分一人では何も変わらない」
という言葉を信じたくない。
自分一人ですべてを変える必要などない。
ただ、自分の持ち場で立てばいい。
最初の「1」は、結果ではなく姿勢である
最初の「1」として立つ。
この言葉を、私は大げさな英雄論にはしたくない。
最初の1とは、
国会前で叫ぶことだけではない。
大きな組織をつくることでもない。
有名になることでもない。
自分の家庭で、子どもに歴史を伝える。
地域の祭りを手伝う。
選挙に行く。
一つの制度について調べる。
間違った情報をそのまま拡散しない。
違和感を持った時、自分で確かめる。
誰かが不当に傷つけられている時、黙って見過ごさない。
おかしいと思ったことを、冷静に伝える。
そうした一つ一つが「1」である。
大きさではない。
姿勢である。
自分の人生を、自分で生きる。
自分の國を、他人事にしない。
自分の未来を、誰かに丸投げしない。
その姿勢が最初の「1」である。
そして、その「1」は必ずしも孤立したままでは終わらない。
同じ違和感を持ちながら、黙っていた人がいるかもしれない。
誰かが立つのを待っていた人がいるかもしれない。
一人が言葉にしたことで、
「自分もそう思っていた」
と声を上げる人が現れるかもしれない。
だから、最初の一人には意味がある。
黙っている間にも、誰かは動いている
ここで、もう一つ厳しい現実を見なければならない。
自分が諦めている間にも、誰かは動いている。
自分が、
「どうせ変わらない」
と言っている間にも、
目的を持つ者は動いている。
自分の利益のために。
組織の利益のために。
思想を広げるために。
制度を変えるために。
予算を取るために。
土地を得るために。
権限を広げるために。
世の中は止まっていない。
自分が何もしないことは、社会も何も動かないことを意味しない。
むしろ、自分が黙っている間に、別の誰かの意思が社会へ反映されていく。
ここを理解しなければならない。
「私は何も選ばない」
という選択はできない。
何も選ばなければ、誰かが選んだ未来の中で生きることになる。
「私は関わらない」
という立場も完全な中立ではない。
関わらないことで、現状をそのまま通す力になることもある。
だからこそ、自分で考える必要がある。
自分の意思を持つ必要がある。
そして、必要な時には言葉を持つ必要がある。
大衆の沈黙を、誰が喜ぶのか
もし多くの国民が、
政治に関心を持たない。
制度を調べない。
公金の流れを見ない。
報道を疑わない。
自分で資料を読まない。
選挙にも行かない。
地域にも関わらない。
ただ与えられた情報を受け取り、
不満を言いながらも何もしない。
そのような状態になれば、誰が最も得をするのだろう。
少なくとも、国民一人ひとりではない。
誰にも見られたくない者。
誰にも問われたくない者。
誰にも仕組みを知られたくない者。
そうした人間にとって、無関心な大衆ほど都合のよい存在はない。
だから次に考えなければならない。
人々の無力感と沈黙は、
誰に利用されるのか。
「弱者救済」
「人権」
「平等」
「正義」
本来、大切であるはずの言葉が、
なぜ時に、人々の思考を止める道具として使われるのか。
美しい言葉の陰で、
誰が動き、
誰が利益を得て、
誰が責任を負わずに済んでいるのか。
大衆が考えることをやめた時、
最も自由になるのは誰なのか。
次章では、
「悪意を持つ者」がどのように大衆の善意と無関心を利用するのか。
そして、なぜ美しい言葉ほど疑う力が必要なのか。
その構造を考えていきたい。
第三章 「悪意を持つ者」は、大衆の善意を利用する
悪意は、いつも悪人の顔をして近づいてくるわけではない。
むしろ厄介なのは、正しい言葉を使って近づいてくることである。
「弱者を守ろう」
「困っている人を救おう」
「差別をなくそう」
「誰もが平等であるべきだ」
「人権を大切にしよう」
どれも、大切な言葉である。
私は、それらを否定したいのではない。
人が人を思いやること。
弱い立場に置かれた者を支えること。
不当に傷つけられる者を守ること。
それは、社会が社会であるために必要なことだと思っている。
しかし、だからこそ注意しなければならない。
美しい言葉は、善良な人間の心を動かす。
そして、善良な人間の心を動かせる言葉は、悪意を持つ者にとっても非常に使いやすい。
なぜなら、人は「正しいことをしている」と思った瞬間に、疑う力を失いやすいからである。
自分は弱者を救っている。
自分は差別と戦っている。
自分は正義の側にいる。
そう思えば、その先にある構造を見なくなる。
誰が利益を得ているのか。
誰が責任を負っているのか。
制度は本当に公平なのか。
善意は本当に必要な人へ届いているのか。
支援の名の下に、新たな依存を生んでいないか。
正義の名の下に、異論を封じていないか。
そこまで考えなくなる。
私は、ここに大きな危うさを見る。
悪意は、善意そのものを壊さなくてもよい。
善意の流れる方向を、少し変えればいい。
善意を利用し、
正義の言葉を盾にし、
人々の感情を動かし、
その裏で、自分の目的を進めればいい。
だからこそ私たちは、「正しい言葉」であるほど、一度立ち止まって考えなければならない。
美しい言葉は、思考停止を生むことがある
人は、美しい言葉に弱い。
それは当然である。
誰も、自分が冷たい人間だと思われたくない。
弱者を切り捨てる人間だと思われたくない。
差別する人間だと見られたくない。
人権を軽視する人間だと言われたくない。
だから、多くの人は慎重になる。
それ自体は悪いことではない。
しかし、その慎重さが恐怖へ変わる時、問題が起こる。
疑問を持っても言えない。
制度の不備を指摘できない。
支援の方法に問題があっても問えない。
「それを言うと差別だと思われる」
「冷たい人間だと言われる」
「人権を理解していないと思われる」
そう考えて、口を閉ざす。
すると議論そのものがなくなる。
本当に困っている人をどう支えるか。
制度をどう公平にするか。
不正をどう防ぐか。
限られた財源をどう使うか。
そうした大切な議論が、
「優しいか、冷たいか」
という感情の二択に変えられてしまう。
私は、これを非常に危険な状態だと思う。
制度について問い直すことと、弱者を否定することは違う。
不正を問題にすることと、支援そのものを否定することも違う。
本人確認を厳格にすることと、人間の尊厳を傷つけることは同じではない。
しかし、議論が感情だけで動くようになると、こうした区別ができなくなる。
その結果、
「疑問を持つな」
「問うな」
「反対するな」
という空気だけが残る。
それでは、社会は良くならない。
本当の優しさとは、問題を見ないふりをすることではない。
制度に穴があるなら塞ぐ。
不正があるなら正す。
支援が必要な人には、きちんと支援が届くようにする。
そして、そのために冷静な議論をする。
私は、それが本当の意味で人を守ることだと思っている。
善意は、制度設計の代わりにはならない
社会を運営する時、善意は大切である。
しかし、善意だけでは社会は支えられない。
なぜなら、人間にはさまざまな面があるからだ。
助け合う人もいる。
自分を犠牲にして他人を支える人もいる。
一方で、制度の穴を探す人もいる。
嘘をつく人もいる。
他人の善意を利用する人もいる。
これは、人間社会の現実である。
だから制度には、優しさと同時に確認が必要になる。
支援と同時に審査が必要になる。
権利と同時に責任が必要になる。
自由と同時に規律が必要になる。
これを言うと、
「人を疑うのか」
と言う人がいる。
しかし、社会制度は、すべての人間が善人であることを前提にはできない。
もし全員が善良で、嘘もつかず、他人を利用せず、約束を守るなら、法律も契約も警察も裁判所も必要ない。
しかし、現実はそうではない。
人を信じることと、制度を無防備にすることは違う。
思いやりを持つことと、無条件に何でも認めることも違う。
ここを混同すると、善良な人ほど傷つく。
ルールを守る人が損をする。
正直な人が馬鹿を見る。
そして最後には、
「真面目にやっても意味がない」
という空気が広がる。
私は、それが最も危険だと思う。
社会の土台は、真面目に生きる人間が、
「真面目に生きていてよかった」
と思えることで支えられている。
正直に申告する。
税を納める。
ルールを守る。
他人の権利を尊重する。
そうした人々が報われず、制度を利用する者だけが得をするように見えれば、社会への信頼は崩れる。
信頼が崩れれば、誰も制度を信じなくなる。
誰も協力しなくなる。
そして、共同体は弱くなる。
だから、不正を正すことは冷たさではない。
むしろ、真面目に生きる人を守ることでもある。
「弱者」という言葉に隠れる権力
「弱者」という言葉には、大きな力がある。
弱い立場の人を守る。
それは当然のことだと思う。
しかし、ここにも注意が必要である。
誰が弱者を定義するのか。
誰が代弁者になるのか。
誰が支援の窓口になるのか。
誰が予算を管理するのか。
誰が声を大きく届けられるのか。
弱者そのものと、
弱者を支援すると名乗る組織は、
同じではない。
弱者そのものと、
弱者を代弁すると名乗る人間も、
同じではない。
本当に困っている人は、声を上げる力さえないことがある。
一方で、その人たちを支援すると名乗る者が、強い発言力や政治的影響力を持つこともある。
ここで立ち止まって見なければならない。
支援される側は本当に救われているのか。
支援する側だけが大きくなっていないか。
問題が解決すれば困る構造になっていないか。
支援が続くこと自体が目的になっていないか。
これは、特定の団体だけを疑えという話ではない。
どんな分野でも起こり得ることである。
福祉でも。
医療でも。
教育でも。
災害支援でも。
国際協力でも。
宗教でも。
精神世界でも。
人が困っている場所には、善意が集まる。
善意が集まれば、お金も集まる。
お金が集まれば、人も集まる。
人が集まれば、組織ができる。
組織ができれば、その組織を守る力学も生まれる。
これは、善悪以前の問題である。
組織には、存続しようとする力が働く。
だからこそ、透明性が必要になる。
説明責任が必要になる。
第三者の目が必要になる。
そして、問い続ける人間が必要になる。
「善いことをしているのだから、疑うな」
この言葉が出た瞬間こそ、私は最も注意しなければならないと思っている。
本当に善い仕組みなら、問いに耐えられるはずである。
正義は、異論を封じる武器になり得る
正義は必要である。
しかし、正義ほど人を残酷にするものもない。
なぜなら、自分が完全に正しいと思った時、人は相手を人として見なくなることがあるからだ。
「あちらは悪だ」
「こちらは正義だ」
そう分けた瞬間、対話は終わる。
相手の話を聞く必要がなくなる。
事実を確認する必要もなくなる。
どんな言葉を投げても、
「相手は悪なのだから」
と正当化できる。
私は、ここに正義の怖さを見る。
本来、正義は人を守るためのものである。
しかし、正義を持つ者が自分を疑わなくなれば、正義は排除の道具にもなる。
そして現代社会では、
「正しい側にいること」
そのものが、一つの快楽になっているように感じることがある。
SNSを見ても、
誰かを批判する。
誰かを吊し上げる。
誰かの過去の発言を探す。
そして、
「私は正しい側にいる」
という安心を得る。
しかし、その時に問われているのは、
本当に社会を良くしたいのか。
それとも、誰かを裁くことで自分を正しい人間だと思いたいのか。
ということである。
正義の言葉を使う者ほど、自分自身を問い続けなければならない。
これは、私自身にも言えることである。
私も、自分の考えが絶対に正しいとは思っていない。
見落としていることもあるだろう。
間違っていることもあるだろう。
だからこそ、問い続ける。
自分は本当に人を見ているのか。
それとも、自分の思想を通すために、人を利用していないか。
その問いを失った時、正義は簡単に独善へ変わる。
悪意は、人々の分断を利用する
悪意を持つ者にとって、人々が互いに争ってくれる社会は都合がよい。
右と左。
保守と革新。
若者と高齢者。
男性と女性。
日本人と外国人。
都市と地方。
労働者と経営者。
こうした違いそのものが悪いのではない。
問題は、違いを利用して人々を敵対させることである。
人々が互いを憎んでいれば、本当の構造を見なくなる。
誰が制度を決めているのか。
誰が利益を得ているのか。
なぜ同じ問題が繰り返されるのか。
そこに目が向かなくなる。
人々は、
「あいつらが悪い」
と言い争う。
その間に、別の場所で静かに物事が進む。
私は、分断がすべて意図的に作られていると言いたいのではない。
社会には本当に意見の違いがある。
利害の違いもある。
しかし、その違いを煽ることで得をする者がいることも忘れてはいけない。
分断された大衆は弱い。
互いに疑い合う。
互いに攻撃し合う。
そして、本当に見るべきものを見失う。
だからこそ、大切なのは、
違う立場の人間とも話すことである。
一つの言葉だけで相手を判断しない。
保守だから。
左派だから。
若者だから。
高齢者だから。
外国人だから。
日本人だから。
その属性だけで、人間全体を決めつけない。
一人ひとりを見る。
行動を見る。
事実を見る。
構造を見る。
私は、これが大切だと思っている。
「敵」を作る文章は簡単である
誰かを敵にする文章は、簡単に人を動かす。
「あいつらが悪い」
「こいつらが日本を壊している」
そう言えば、分かりやすい。
読者は怒る。
共感も集まる。
しかし私は、そこで終わりたくない。
なぜなら、敵を一人消せば社会が良くなるほど、現実は単純ではないからである。
一人の政治家が辞めても、構造が残れば同じことが起こる。
一つの団体がなくなっても、制度の穴が残れば別の誰かが利用する。
一人の悪人を叩いても、大衆が考えないままなら、また別の悪人が現れる。
だから、本当に見なければならないのは構造である。
なぜ利用できるのか。
なぜ監視が働かないのか。
なぜ質問する人が排除されるのか。
なぜ大衆はすぐに感情で動くのか。
なぜ「正しい言葉」が思考停止を生むのか。
そこを見なければならない。
悪意ある人間を責めるだけでは足りない。
悪意が育ちやすい社会の空気を変えなければならない。
そのためには、大衆が考える力を取り戻す必要がある。
人は、複雑な問題ほど「物語」で理解する
現実の社会は複雑である。
一つの問題にも、多くの原因がある。
歴史がある。
制度がある。
経済がある。
人間関係がある。
地域差がある。
世代差がある。
しかし、人は複雑なものをそのまま理解するのが苦手である。
だから、分かりやすい物語を求める。
善人と悪人。
被害者と加害者。
正義と悪。
救う側と救われる側。
この構図は理解しやすい。
しかし、現実はもっと複雑である。
被害者が別の場面では加害者になることもある。
支援する側に問題があることもある。
善意で始まった制度が、後に別の目的で使われることもある。
正しい理念から始まった仕組みが、時代とともに形骸化することもある。
だから、物語だけで判断してはいけない。
「かわいそうだから」
「正義だから」
「悪い人だから」
それだけで決めない。
事実を見る。
数字を見る。
制度を見る。
誰が決めているかを見る。
誰に利益が流れているかを見る。
結果として誰が救われているかを見る。
ここまで見て初めて、社会の本当の姿が見えてくる。
善良な人ほど、利用されることがある
私は、善意を否定したいのではない。
むしろ、善意は大切にしたい。
だからこそ、善良な人に考える力を持ってほしい。
優しい人ほど、
「困っている人を助けなければ」
と思う。
誠実な人ほど、
「差別してはいけない」
と思う。
真面目な人ほど、
「ルールを守らなければ」
と思う。
しかし、その心を利用する者がいる。
善良な人は、自分が人を利用しないから、他人もそこまで悪く考えないことがある。
自分が嘘をつかないから、相手も嘘をつかないと思う。
自分が制度を悪用しないから、他人も悪用しないと思う。
しかし、世の中には違う人間もいる。
だから、優しさには知恵が必要である。
善意には洞察が必要である。
人を信じることと、何も確認しないことは違う。
人を助けることと、依存を生むことも違う。
寛容であることと、無防備であることも違う。
本当に善良であり続けるためには、時に厳しくなる必要がある。
問題を直視する必要がある。
問いを持つ必要がある。
それが、本当の意味で人を守ることにつながる。
「人権」という言葉を守るために
私は、人権という考え方は大切だと思う。
だからこそ、人権という言葉を軽く使ってはいけないと思っている。
何でも人権問題にする。
制度の確認まで人権侵害と呼ぶ。
異論そのものを人権軽視と決めつける。
そうなれば、人権という言葉そのものが信用を失う。
本当に深刻な人権侵害が起きた時、人々が耳を傾けなくなる。
言葉は、乱用すれば力を失う。
差別という言葉もそうである。
人権という言葉もそうである。
弱者という言葉もそうである。
本当に守るべきものを守るためには、言葉を正確に使わなければならない。
異論と差別を分ける。
批判と憎悪を分ける。
制度改革と排除を分ける。
厳格さと冷酷さを分ける。
そこを丁寧に見なければならない。
すべてを一つの言葉で封じれば、社会は対話の力を失う。
私は、それを危惧している。
「誰が得をするのか」という視点
社会を見る時、私は一つの視点を大切にしている。
誰が得をするのか。
これは、何でも疑ってかかれという意味ではない。
すべての出来事の裏に陰謀があると言いたいのでもない。
ただ、物事には結果がある。
制度が変われば、得をする者がいる。
予算がつけば、受け取る者がいる。
規制が緩めば、便利になる者がいる。
規制が強まれば、利益を失う者もいる。
だから、
「この制度で誰が助かるのか」
「誰が負担するのか」
「誰が管理するのか」
「誰が監視するのか」
「問題が起きた時、誰が責任を取るのか」
この問いは必要である。
美しい理念だけを見るのではない。
仕組みを見る。
流れを見る。
結果を見る。
私は、この視点が大衆に足りなくなっていると思う。
言葉だけで反応する。
感情だけで判断する。
映像だけで怒る。
見出しだけで信じる。
そして、その先を見ない。
これでは、利用される。
どれほど善良でも、考えなければ利用される。
どれほど優しくても、構造を見なければ利用される。
ここを、私ははっきりと言いたい。
本当に恐ろしいのは、悪意ではなく無防備である
悪意は、完全になくならない。
人間社会である以上、欲もある。
権力欲もある。
金銭欲もある。
承認欲求もある。
誰かを利用しようとする者も現れる。
だから必要なのは、
悪人が一人もいない社会を夢見ることではない。
悪意があっても簡単には利用できない社会をつくることである。
透明性を高める。
記録を残す。
説明責任を求める。
本人確認を適切に行う。
公金の流れを見えるようにする。
異論を封じない。
第三者が検証できるようにする。
そして何より、国民が関心を持つ。
制度は、人々の目があって初めて健全さを保つ。
誰も見なければ、どんな立派な制度も形骸化する。
誰も問わなければ、権力は緩む。
誰も調べなければ、不正は見えなくなる。
だから、大衆の無関心は、悪意にとって肥沃な土壌になる。
悪意そのものよりも、
「誰も見ていない」
という環境の方が恐ろしい。
國を守るとは、誰かを憎むことではない
ここは、はっきりさせておきたい。
國を守るとは、外国人を憎むことではない。
異なる文化を排除することでもない。
すべてを拒絶することでもない。
國を守るとは、
自分たちの制度を自分たちで理解すること。
ルールを公平にすること。
不正を許さないこと。
文化を次代へ渡すこと。
土地を大切にすること。
歴史を学ぶこと。
そして、共に生きる者同士が、互いに責任を持つことである。
日本人であろうと、
外国人であろうと、
ルールを守り、地域を尊重し、共に社会を支える者はいる。
逆に、日本人であっても、社会を食い物にする者はいる。
だから、本質を見なければならない。
血だけを見るのではない。
言葉だけを見るのでもない。
行動を見る。
責任を見る。
社会への向き合い方を見る。
私は、國を守るということを、排除の思想にしたくない。
それでは國は強くならない。
大切なのは、誰であれ、ルールを守る者が尊重され、破る者が得をしない社会をつくることである。
そして、日本という國の歴史と文化を、私たち自身が大切にすることである。
守る側が守ることをやめれば、誰かを責める資格も失う。
大衆の善意を、思考する力へ変える
私は、日本人の善良さを信じている。
災害が起きれば助け合う。
困っている人がいれば手を差し伸べる。
公共の場を大切にする。
誰も見ていなくても秩序を守る。
そうした力は、今も残っている。
だからこそ思う。
その善意に、考える力が加われば強い。
優しさに、洞察が加われば強い。
思いやりに、責任が加われば強い。
和に、意思が加われば強い。
問題は、日本人に善意がないことではない。
善意が、時に無防備なままであることだ。
良い人でいたい。
争いたくない。
疑いたくない。
その気持ちは分かる。
しかし、その優しさを守るためにこそ、問いが必要である。
本当にこれは人を救っているのか。
本当に公平なのか。
本当に未来につながるのか。
誰が責任を持つのか。
誰が利益を得るのか。
その問いを持ち続けることが、善意を守る。
疑うことは、憎むことではない。
確認することは、差別ではない。
問い直すことは、排除ではない。
そして、間違いに気づけば、自分も改める。
私は、それが成熟した社会だと思う。
眠っている善意を、目覚めさせなければならない
この國には、まだ多くの善意がある。
しかし、善意だけでは足りない。
善意は眠ったままでは力にならない。
違和感を持ちながら黙っている善意。
困っている人を見ながら、誰かが助けると思っている善意。
制度がおかしいと思いながら、難しいからと目を背ける善意。
それでは、悪意を止めることはできない。
善意は、意志を持たなければならない。
善意は、知恵を持たなければならない。
善意は、時に声を持たなければならない。
そして、善意ある者同士が、互いに話し合わなければならない。
私は、大衆を敵だと思っていない。
むしろ、大衆の中に眠っている力を信じている。
ただ、その力が眠ったままであることを恐れている。
誰かに与えられた正義に乗るのではなく、
自分で考える。
自分で確かめる。
自分で判断する。
そして必要なら、自分の言葉で声を上げる。
その人が増えれば、悪意ある者は動きにくくなる。
制度を利用しようとしても、見られる。
嘘をついても、問われる。
美しい言葉を使っても、その先の仕組みまで見られる。
これが、本当の意味で強い社会ではないだろうか。
次に見るべきものは、小さな違和感の積み重ねである
悪意は、ある日突然、國を奪うわけではない。
制度の隙間から入る。
人々の無関心の中へ入る。
小さな例外として認められる。
その例外が積み重なる。
やがて、
「以前からそうだった」
と言われるようになる。
そして最後には、それを疑う者の方が異端とされる。
國の形は、こうして静かに変わることがある。
土地。
制度。
戸籍。
教育。
言葉。
文化。
地域。
祭り。
家族。
それぞれは別々の問題に見える。
しかし、すべては國を支える土台である。
一つずつなら小さな変化に見える。
だが、それが長い時間をかけて積み重なった時、何が起こるのか。
國は、ある日突然消えるのではない。
少しずつ、
気づかれないように、
自分たちの手の中から離れていくことがある。
次章では、
一つ一つは小さく見える違和感が、
どのように積み重なり、
やがて國の形そのものを変えていくのか。
私たちが見落としている「静かな変化」について考えていきたい。
第四章 小さな違和感は、やがて國の形を変える
國は、ある日突然なくなるのだろうか。
朝起きたら国境が消えている。
翌日から言葉が変わる。
神社も祭りもなくなる。
戸籍も制度も一夜にして別のものになる。
現実には、そのような形で國が失われることの方が少ないのではないかと思う。
多くの場合、変化はもっと静かである。
最初は小さい。
誰も深刻には考えない。
「それくらい、別にいいだろう」
「時代が変わったのだから仕方がない」
「そんな昔のことにこだわる必要はない」
「今すぐ困るわけではない」
そう言って、一つ手放す。
次に、もう一つ手放す。
さらに次の世代が、
「昔からこうだったのだろう」
と思う。
そして、さらに次の世代になると、何を失ったのかさえ分からなくなる。
私は、それが最も怖い。
失った瞬間に痛みを感じるものなら、人は守ろうとする。
しかし、失っていることに気づかないものは守れない。
國の形を変えるのは、大きな事件だけではない。
日々の小さな選択。
小さな無関心。
小さな先送り。
小さな諦め。
その積み重ねが、長い時間の中で國の姿そのものを変えていく。
國は、一枚の紙ではできていない
國という言葉を聞くと、多くの人は地図を思い浮かべる。
国境があり、
政府があり、
国旗があり、
法律がある。
確かに、それらも國を形づくる大切な要素である。
しかし、國はそれだけではない。
人が暮らす土地。
その土地につけられた名前。
先祖を祀る場所。
地域に伝わる祭り。
子どもに語り継ぐ昔話。
家庭の中に残る習慣。
言葉。
歌。
祈り。
食文化。
季節の行事。
墓地。
鎮守の森。
小さな社。
山や川への畏れ。
目に見えるものと、目に見えないもの。
そのすべてが重なり合って、國というものができている。
だから、國は法律だけを守れば残るものではない。
経済が成長すれば残るものでもない。
国旗が掲げられていれば、それだけで國の精神が残るわけでもない。
國とは、人々の記憶の中にも存在する。
生活の中にも存在する。
土地との関係の中にも存在する。
そして、その一つ一つが失われる時、國は少しずつ薄くなっていく。
土地を失うとは、面積を失うことだけではない
土地とは何だろう。
経済的な価値だけを見れば、不動産である。
売買できる。
価格がつく。
相続できる。
開発できる。
しかし、土地は本当にそれだけだろうか。
一つの土地には、記憶がある。
人が生きた記憶がある。
喜びがある。
悲しみがある。
争いがあった場所もある。
祈りが捧げられた場所もある。
災害を乗り越えた場所もある。
名も残らない人々が働き、家族を育て、死んでいった場所もある。
土地は、その記憶を抱えている。
だから私は、土地を単なる商品として見ることに違和感がある。
土地の所有権を否定したいのではない。
売買を否定したいのでもない。
しかし、その土地が地域とどのようにつながっているのか。
水源なのか。
森林なのか。
農地なのか。
祭祀に関わる場所なのか。
地域の共同体にとって、どのような意味を持っているのか。
その視点まで失ってはいけないと思う。
目の前の価格だけを見て売る。
便利さだけを見て開発する。
効率だけを見て切り分ける。
その判断が何十年後、何百年後に何を残すのか。
そこまで考える視点が必要である。
土地を失うとは、面積を失うことだけではない。
土地との関係を失うことである。
人が土地を自分たちの暮らしの一部として感じなくなった時、國の土台は一つ弱くなる。
地名が消える時、記憶も消える
私は、古い地名には意味があると思っている。
山の形を表すもの。
水の流れを示すもの。
災害の記憶を伝えるもの。
古い氏族の名を残すもの。
祭祀の痕跡をとどめるもの。
戦いや出来事の記憶を残すもの。
地名は、土地に刻まれた言葉である。
しかし、現代では利便性や整理のために、古い地名が失われることがある。
それ自体をすべて否定するつもりはない。
行政には行政の事情がある。
しかし、一つの地名が消える時、
そこに何があったのか。
なぜその名がついたのか。
誰がその土地で生きたのか。
そうした記憶まで一緒に消えていくことがある。
名前を失うということは、存在の輪郭を失うことである。
人の名もそうだ。
土地の名もそうだ。
山の名もそうだ。
川の名もそうだ。
名を呼ばれなくなったものは、やがて忘れられる。
だから、國を守るということは、大きな象徴だけを守ることではない。
小さな土地の名を知ること。
地域の由来を知ること。
そこに生きた人々を知ること。
それも國を守ることだと私は思う。
制度の穴は、信頼を削る
國を支えているものの一つに、制度への信頼がある。
自分がルールを守れば、他の人も基本的には守る。
税を納めれば、社会のために使われる。
困った時には、必要な支援がある。
不正をすれば、正される。
真面目に働く人が、一方的に損をすることはない。
完全ではなくても、
「この社会はおおむね公平に動いている」
そう思えることが大切である。
しかし、制度の穴が放置されると、この信頼が少しずつ削られる。
誰かがルールを破る。
それを知っている人がいる。
しかし、誰も何も言わない。
制度上の問題だと言う。
担当が違うと言う。
確認できないと言う。
前例がないと言う。
こうして不公平が積み重なる。
最初は、
「一部の人だけの問題だ」
と考える。
しかし、それが続けば、人々は思う。
真面目にやっている自分が馬鹿なのではないか。
正直に申告する方が損なのではないか。
ルールを守る意味はあるのか。
社会にとって本当に恐ろしいのは、不正そのものだけではない。
不正を見た普通の人間が、
「真面目に生きても意味がない」
と思うことである。
制度への信頼が崩れると、人々は協力しなくなる。
皆が自分だけを守ろうとする。
助け合いが弱くなる。
共同体が弱くなる。
そして最後には、國そのものへの信頼が失われる。
だから制度の穴を塞ぐことは、単なる事務の問題ではない。
國の信頼を守る仕事である。
身分を証明する仕組みは、共同体の記憶でもある
昔の共同体では、人が人を知っていた。
誰の子か。
どこの家の者か。
どこで生まれたか。
どこで暮らしているか。
良くも悪くも、地域の目があった。
もちろん、その社会にも窮屈さはあった。
しがらみもあった。
私は昔の社会がすべて良かったと言いたいのではない。
しかし、人と人とのつながりが薄くなった現代では、別の問題が生まれる。
互いを知らない。
隣に誰が住んでいるか分からない。
地域に誰が入ってきたのか分からない。
誰が責任を持つ人なのか分からない。
だからこそ、制度としての本人確認や記録が重要になる。
共同体のつながりが弱くなるなら、その分、仕組みは正確でなければならない。
ところが、人間関係も薄い。
制度も曖昧。
確認も十分でない。
責任の所在も分からない。
そうなれば、悪意を持つ者に利用される隙が生まれる。
これは、外国人か日本人かという単純な話ではない。
人を知らない社会になった以上、誰であれ、正確に本人を確認できる仕組みが必要だという話である。
信頼社会とは、確認をしない社会ではない。
適切に確認した上で、安心して信頼できる社会である。
ここを履き違えてはいけない。
教育が変われば、未来の記憶が変わる
國の未来を考える上で、教育ほど大きなものはない。
子どもは、最初から國について知っているわけではない。
家族のこと。
地域のこと。
歴史のこと。
文化のこと。
先人のこと。
失敗のこと。
誇りのこと。
それらを誰かから学ぶ。
学ばなければ、知らない。
知らなければ、大切にしようとも思えない。
私は、自国の歴史を美化しろと言いたいのではない。
失敗も学ぶべきである。
過ちも見るべきである。
苦い歴史も受け止めるべきである。
しかし、過ちしか教えず、誇りを教えないことも不自然である。
逆に、誇りだけを教え、過ちを隠すことも危険である。
必要なのは、全体を見ることである。
國にも光がある。
影がある。
先人にも偉業がある。
過ちがある。
その両方を見た上で、
自分たちは何を受け継ぎ、
何を改め、
何を未来へ渡すのか。
そこまで考える教育が必要である。
教育とは、知識を詰め込むことだけではない。
次の時代に何を残すかを決める営みでもある。
今の子どもが何を学ぶかで、五十年後の國の姿は変わる。
その子どもたちが親になり、教師になり、地域を支え、制度をつくるからである。
教育の変化は、すぐには見えない。
だからこそ怖い。
結果が出る頃には、一世代が過ぎている。
言葉が痩せれば、考える力も痩せる
國を支えるものの中で、私は言葉も非常に重要だと思っている。
人は、言葉によって考える。
言葉によって記憶する。
言葉によって祈る。
言葉によって伝える。
言葉がなければ、感じていることを形にできない。
しかし、言葉が簡単になりすぎると、考え方まで簡単になる。
善か悪か。
味方か敵か。
右か左か。
賛成か反対か。
白か黒か。
その二つだけで世界を見るようになる。
だが、人間の現実はもっと複雑である。
一つの出来事に、喜びと悲しみが同時にあることもある。
正しさの中に危うさがあることもある。
失敗の中に学びがあることもある。
対立する二つの側に、それぞれ理があることもある。
そうした複雑な現実を受け止めるためには、豊かな言葉が必要である。
日本語には、曖昧さがある。
しかし、その曖昧さはすべて悪いものではない。
余白を持たせる力もある。
相手を傷つけずに伝える知恵もある。
季節や心の微細な変化を表す言葉もある。
その豊かさを失い、強い言葉だけが社会を動かすようになれば、対話はさらに難しくなる。
言葉を失うとは、単に古い言葉を知らなくなることではない。
考えるための道具を失うことでもある。
祭りが消える時、地域の時間が切れる
祭りを、ただの娯楽だと思ってはいけない。
もちろん、楽しみの場でもある。
人が集まり、笑い、食べ、子どもたちが喜ぶ。
しかし、祭りにはそれ以上の役割がある。
地域の人々が同じ時間を共有する。
年長者から若者へ役割が渡される。
子どもが地域の大人を見る。
土地の神を祀る。
先祖を思う。
季節の移り変わりを感じる。
昔と今がつながる。
祭りは、時間をつなぐ装置でもある。
一度中断した祭りを、再び始めるのは難しい。
担い手がいなくなる。
作法が分からなくなる。
歌が分からなくなる。
道具の扱いが分からなくなる。
「誰か知っているだろう」
と思っているうちに、知っている人がいなくなる。
これは、祭りだけではない。
家のしきたりもそうである。
地域の言い伝えもそうである。
山の道もそうである。
水の流れを知る知恵もそうである。
文化は、資料に書いておけば残るものではない。
人から人へ渡して初めて生き残る。
伝承とは、情報ではない。
実践である。
やる人がいる。
見る子どもがいる。
覚える人がいる。
次へ渡す人がいる。
その循環が切れた時、文化は急速に失われる。
墓を守る者がいなくなる時
墓についても考えたい。
墓の形は、時代によって変わるだろう。
供養の方法も変わるかもしれない。
私は、必ず昔と同じ形を守れと言いたいのではない。
しかし、先祖を思う心そのものが失われることには、大きな危うさを感じる。
人は一人で生まれたのではない。
自分の前に、無数の命がある。
そのすべての人が立派だったわけではない。
名も残らない。
何をしたかも分からない。
それでも、その命の連なりの先に自分がいる。
先祖を思うことは、自分を縛るためではない。
自分が突然ここに現れた存在ではないと知ることである。
人は、自分の前にあるものを知ることで、自分の後ろに続くものを考えるようになる。
過去を知らない人間は、未来にも責任を感じにくい。
自分一代だけを考えればいいからである。
しかし、自分がつながりの中にいると知れば、
自分もまた、次へ渡す側だと気づく。
先祖を思うことと、未来を思うことは、実は一つにつながっている。
地域共同体の弱体化は、國全体の問題である
人々の生活は便利になった。
移動しやすくなった。
一人でも暮らせる。
買い物もできる。
情報も得られる。
多くのことを、地域の人間関係に頼らずにできるようになった。
これは大きな進歩である。
しかし、その便利さの裏で、地域共同体が弱くなった。
隣人を知らない。
地域の歴史を知らない。
祭りに参加しない。
困っている人がいても分からない。
子どもを地域全体で見ることも減る。
災害が起きた時に、誰がどこにいるのか分からない。
共同体が弱くなると、人々はすべてを行政に求めるようになる。
行政がやるべきだ。
国がやるべきだ。
専門家がやるべきだ。
しかし、どれほど制度が整っても、地域のすべてを行政が担うことはできない。
國とは、上から下へ支えるだけのものではない。
下から上へ支える力も必要である。
家庭。
近所。
地域。
町。
市。
県。
國。
その層が重なって社会ができる。
真ん中の層が失われれば、個人と国家だけになる。
すると人は孤立する。
そして、何でも大きな組織に依存するようになる。
私は、それを健全な國の姿だとは思わない。
「便利だから」で失うもの
現代社会は、便利さを求める。
早く。
簡単に。
安く。
手間をかけずに。
それ自体は悪いことではない。
人類は、長い時間をかけて不便を減らしてきた。
しかし、すべての手間が無駄なのだろうか。
祭りの準備は面倒である。
地域の行事も面倒である。
年長者の話を聞くことも、時には面倒である。
古い建物を守ることも手間がかかる。
山や水路を管理することも大変である。
墓を守ることも負担になる。
だが、その「面倒」の中に、人と人とのつながりがあったのではないか。
共同作業があった。
教える機会があった。
話す時間があった。
顔を覚える機会があった。
伝承があった。
便利さとは、多くの場合、間にあったものを省くことである。
しかし、間にあったものがすべて無駄だったとは限らない。
人間関係。
記憶。
役割。
責任。
技術。
感謝。
それらまで一緒に省いていないか。
便利になることはよい。
だが、何を失って便利になったのかを考える必要がある。
小さな例外が、やがて原則を変える
社会の仕組みは、一つの例外から変わることがある。
最初は特別な事情だった。
今回は仕方がない。
この人だけは例外にしよう。
期間限定だから。
緊急時だから。
しかし、例外は前例になる。
前例は基準になる。
基準は常識になる。
そして、いつの間にか原則の方が古いものとされる。
もちろん、制度は変わるべきである。
時代に合わないものは改めなければならない。
伝統という理由だけで、すべてを固定する必要はない。
しかし、変えるなら、
何を守るために変えるのか。
何を失う可能性があるのか。
元に戻せるのか。
将来どのように使われるのか。
そこまで考える必要がある。
善意で設けた例外が、後に別の目的で使われることもある。
緊急時の仕組みが、常態化することもある。
小さな変更が、後の大きな変化の入り口になることもある。
だからこそ、大衆が関心を持たなければならない。
國の形は、国会の大きな議論だけで変わるのではない。
小さな規則。
小さな運用。
小さな例外。
その積み重ねでも変わる。
「今すぐ困らない」が最も危険である
人は、今すぐ困る問題には動く。
水が止まれば困る。
電気が止まれば困る。
収入がなくなれば困る。
病気になれば困る。
だから、すぐに対処する。
しかし、十年後、五十年後、百年後に影響する問題には動きにくい。
今は困っていないからである。
森林が荒れる。
地域の担い手が減る。
祭りがなくなる。
若者が土地を離れる。
古い建物が失われる。
言葉が消える。
歴史を知る人がいなくなる。
一つ一つは、今日の夕食を奪う問題ではない。
明日の仕事がなくなる問題でもない。
だから後回しにする。
しかし、國を変えるのは、こうした長い時間の問題である。
今すぐ困らない。
だから何もしない。
そして、困った時には手遅れになっている。
私は、ここに世代を超えて考えることの難しさを見る。
人間は、自分の寿命を超えた未来を実感しにくい。
だからこそ、意識して未来を想像しなければならない。
二百年後から見れば、今は「昔」である
私たちは、昔の人々について語る。
なぜ、あの時に気づかなかったのか。
なぜ、止めなかったのか。
なぜ、あの判断をしたのか。
歴史を見れば、そう思うことがある。
しかし、二百年後の人々にとって、私たちもまた「昔の人」である。
今の私たちの選択も、歴史になる。
今の政治も。
今の制度も。
今の土地利用も。
今の教育も。
今の文化への態度も。
すべてが過去になる。
その時、未来の人々は何を見るだろう。
便利な時代だったと言うだろうか。
豊かな時代だったと言うだろうか。
それとも、
多くのものを持ちながら、
自分たちが何を失っているのか気づかなかった時代。
そう言われるだろうか。
私は時々、そのことを考える。
私たちは、未来から見られている。
もちろん、実際に未来の人間が今を見ているわけではない。
しかし、未来から逆算して今を見る視点は必要である。
百年後に何を残したいのか。
二百年後に何が残っていてほしいのか。
そこから今の選択を見る。
そうすれば、
目の前の便利さだけでは見えないものが見えてくる。
國は、奪われるだけではない
人は、國を失うというと、外から奪われる姿を想像する。
戦争。
侵略。
支配。
確かに、それも國を失う形である。
しかし、もう一つある。
自分たちで守ることをやめることである。
言葉を大切にしなくなる。
文化を学ばなくなる。
地域に関心を持たなくなる。
土地を単なる商品としてしか見なくなる。
先祖を忘れる。
未来の世代を考えなくなる。
何を守るべきか分からなくなる。
そして最後には、
「別に失っても困らない」
と思うようになる。
そこまで行けば、外から奪う必要さえない。
自分たちで手放すからである。
私は、それを最も危惧している。
國は、攻撃だけで滅びるのではない。
無関心でも滅びる。
諦めでも滅びる。
記憶の喪失でも滅びる。
自分たちのものを大切にしない心によっても、國は薄くなる。
守ることと、変わることは対立しない
ここで一つ、誤解されたくないことがある。
私は、何も変えるなと言いたいのではない。
時代は変わる。
社会も変わる。
技術も変わる。
家族の形も変わる。
働き方も変わる。
文化もまた、生きている以上、変化する。
変わらないことだけが伝統ではない。
本当に大切なのは、
何を変え、
何を守るのか。
その判断を、自分たちで行うことである。
流行しているから変える。
海外がそうしているから変える。
効率がよいから変える。
儲かるから変える。
それだけでは足りない。
変えた先に何があるのか。
自分たちらしさはどこに残るのか。
次代へ何を渡すのか。
そこまで考えて変える。
守るために変えることもある。
伝えるために形を変えることもある。
しかし、何を守るのか分からないまま変われば、ただ流されるだけになる。
自分を持つからこそ、変化できる。
軸があるからこそ、柔軟になれる。
これは人間も國も同じだと思う。
小さな違和感を、見過ごさない
大きな問題になってからでは遅いことがある。
だからこそ、小さな違和感が大切になる。
何か変だ。
以前と違う。
誰かが困っている。
制度の説明が合わない。
話が見えない。
責任の所在が分からない。
なぜだろう。
その疑問を、すぐに陰謀や敵意へ変える必要はない。
まず調べる。
確かめる。
聞く。
比べる。
考える。
小さな違和感とは、恐怖を煽る材料ではない。
未来を守るための感覚である。
身体が痛みを感じるように、社会にも違和感という感覚が必要である。
痛みをすべて悪いものとして消せば、病気に気づけない。
同じように、
社会の違和感をすべて、
「気にしすぎ」
「考えすぎ」
「波風を立てるな」
と消してしまえば、深い問題に気づけなくなる。
だから、小さな声を大切にする必要がある。
異論を持つ人間を、すぐに敵と見ない。
なぜそう思うのかを聞く。
そこに、皆が見落としているものがあるかもしれない。
國を守るとは、日常を守ることである
國を守るというと、大げさに聞こえるかもしれない。
しかし、本当はもっと日常的なことだと思う。
家族と話す。
子どもに土地の話をする。
地域の祭りに参加する。
墓参りをする。
古い地名の由来を知る。
歴史を学ぶ。
選挙へ行く。
制度に疑問があれば調べる。
公共のものを大切に使う。
困っている隣人を気にかける。
地域の山や川に関心を持つ。
美しい日本語を子どもに渡す。
そうしたことの積み重ねである。
國とは、遠くにある巨大なものではない。
私たちの暮らしの中にある。
だから、國を守る者は、必ずしも有名である必要はない。
名前が歴史に残る必要もない。
自分の場所で、一つを守る。
一つを伝える。
一つを次へ渡す。
その無数の行為が、國を支えている。
気づいた時には遅かった、と言わないために
私は、未来を悲観したいのではない。
「もう終わりだ」
と言いたいのでもない。
むしろ逆である。
まだ変えられると思うから、書いている。
まだ守れると思うから、問いかけている。
本当に終わっているなら、何を言っても意味はない。
しかし、未来はまだ決まっていない。
だから今、小さな違和感を見過ごしてはいけない。
大きな危機だけを見るのではない。
日常を見る。
制度を見る。
言葉を見る。
土地を見る。
地域を見る。
教育を見る。
文化を見る。
自分自身の無関心を見る。
國の形は、こうした小さなところから変わる。
そして、同じように、
國を立て直す力も、
小さなところから始まる。
一つの祭りを残すこと。
一つの言葉を伝えること。
一つの制度を問い直すこと。
一人の子どもに歴史を語ること。
一人の人間が、
「おかしいものは、おかしい」
と静かに言うこと。
その小さな「1」が、未来をつくる。
しかし、ここでさらに考えなければならない。
私たちは、どのような未来を望んでいるのか。
何を守りたいのかを考える時、
目の前の十年だけでは足りない。
百年。
二百年。
その先まで視線を伸ばす必要がある。
二百年後。
私たちが誰一人生きていない時代。
その時、日本はまだ日本であるのか。
日本語は生きているのか。
祭りは残っているのか。
土地の記憶は残っているのか。
祖先から受け取ったものを、
私たちは未来へ渡すことができるのか。
次章では、
今の損得から一度離れ、
二百年後の日本を想像してみたい。
未来から今を見た時、
私たちは何を選ぶべきなのか。
そして、
今を生きる私たちは、
まだ生まれていない人々に対して、
どのような責任を持っているのか。
その問いに向き合いたい。
第四章 小さな違和感は、やがて國の形を変える
國は、ある日突然なくなるのだろうか。
朝起きたら国境が消えている。
翌日から言葉が変わる。
神社も祭りもなくなる。
戸籍も制度も一夜にして別のものになる。
現実には、そのような形で國が失われることの方が少ないのではないかと思う。
多くの場合、変化はもっと静かである。
最初は小さい。
誰も深刻には考えない。
「それくらい、別にいいだろう」
「時代が変わったのだから仕方がない」
「そんな昔のことにこだわる必要はない」
「今すぐ困るわけではない」
そう言って、一つ手放す。
次に、もう一つ手放す。
さらに次の世代が、
「昔からこうだったのだろう」
と思う。
そして、さらに次の世代になると、何を失ったのかさえ分からなくなる。
私は、それが最も怖い。
失った瞬間に痛みを感じるものなら、人は守ろうとする。
しかし、失っていることに気づかないものは守れない。
國の形を変えるのは、大きな事件だけではない。
日々の小さな選択。
小さな無関心。
小さな先送り。
小さな諦め。
その積み重ねが、長い時間の中で國の姿そのものを変えていく。
國は、一枚の紙ではできていない
國という言葉を聞くと、多くの人は地図を思い浮かべる。
国境があり、
政府があり、
国旗があり、
法律がある。
確かに、それらも國を形づくる大切な要素である。
しかし、國はそれだけではない。
人が暮らす土地。
その土地につけられた名前。
先祖を祀る場所。
地域に伝わる祭り。
子どもに語り継ぐ昔話。
家庭の中に残る習慣。
言葉。
歌。
祈り。
食文化。
季節の行事。
墓地。
鎮守の森。
小さな社。
山や川への畏れ。
目に見えるものと、目に見えないもの。
そのすべてが重なり合って、國というものができている。
だから、國は法律だけを守れば残るものではない。
経済が成長すれば残るものでもない。
国旗が掲げられていれば、それだけで國の精神が残るわけでもない。
國とは、人々の記憶の中にも存在する。
生活の中にも存在する。
土地との関係の中にも存在する。
そして、その一つ一つが失われる時、國は少しずつ薄くなっていく。
土地を失うとは、面積を失うことだけではない
土地とは何だろう。
経済的な価値だけを見れば、不動産である。
売買できる。
価格がつく。
相続できる。
開発できる。
しかし、土地は本当にそれだけだろうか。
一つの土地には、記憶がある。
人が生きた記憶がある。
喜びがある。
悲しみがある。
争いがあった場所もある。
祈りが捧げられた場所もある。
災害を乗り越えた場所もある。
名も残らない人々が働き、家族を育て、死んでいった場所もある。
土地は、その記憶を抱えている。
だから私は、土地を単なる商品として見ることに違和感がある。
土地の所有権を否定したいのではない。
売買を否定したいのでもない。
しかし、その土地が地域とどのようにつながっているのか。
水源なのか。
森林なのか。
農地なのか。
祭祀に関わる場所なのか。
地域の共同体にとって、どのような意味を持っているのか。
その視点まで失ってはいけないと思う。
目の前の価格だけを見て売る。
便利さだけを見て開発する。
効率だけを見て切り分ける。
その判断が何十年後、何百年後に何を残すのか。
そこまで考える視点が必要である。
土地を失うとは、面積を失うことだけではない。
土地との関係を失うことである。
人が土地を自分たちの暮らしの一部として感じなくなった時、國の土台は一つ弱くなる。
地名が消える時、記憶も消える
私は、古い地名には意味があると思っている。
山の形を表すもの。
水の流れを示すもの。
災害の記憶を伝えるもの。
古い氏族の名を残すもの。
祭祀の痕跡をとどめるもの。
戦いや出来事の記憶を残すもの。
地名は、土地に刻まれた言葉である。
しかし、現代では利便性や整理のために、古い地名が失われることがある。
それ自体をすべて否定するつもりはない。
行政には行政の事情がある。
しかし、一つの地名が消える時、
そこに何があったのか。
なぜその名がついたのか。
誰がその土地で生きたのか。
そうした記憶まで一緒に消えていくことがある。
名前を失うということは、存在の輪郭を失うことである。
人の名もそうだ。
土地の名もそうだ。
山の名もそうだ。
川の名もそうだ。
名を呼ばれなくなったものは、やがて忘れられる。
だから、國を守るということは、大きな象徴だけを守ることではない。
小さな土地の名を知ること。
地域の由来を知ること。
そこに生きた人々を知ること。
それも國を守ることだと私は思う。
制度の穴は、信頼を削る
國を支えているものの一つに、制度への信頼がある。
自分がルールを守れば、他の人も基本的には守る。
税を納めれば、社会のために使われる。
困った時には、必要な支援がある。
不正をすれば、正される。
真面目に働く人が、一方的に損をすることはない。
完全ではなくても、
「この社会はおおむね公平に動いている」
そう思えることが大切である。
しかし、制度の穴が放置されると、この信頼が少しずつ削られる。
誰かがルールを破る。
それを知っている人がいる。
しかし、誰も何も言わない。
制度上の問題だと言う。
担当が違うと言う。
確認できないと言う。
前例がないと言う。
こうして不公平が積み重なる。
最初は、
「一部の人だけの問題だ」
と考える。
しかし、それが続けば、人々は思う。
真面目にやっている自分が馬鹿なのではないか。
正直に申告する方が損なのではないか。
ルールを守る意味はあるのか。
社会にとって本当に恐ろしいのは、不正そのものだけではない。
不正を見た普通の人間が、
「真面目に生きても意味がない」
と思うことである。
制度への信頼が崩れると、人々は協力しなくなる。
皆が自分だけを守ろうとする。
助け合いが弱くなる。
共同体が弱くなる。
そして最後には、國そのものへの信頼が失われる。
だから制度の穴を塞ぐことは、単なる事務の問題ではない。
國の信頼を守る仕事である。
身分を証明する仕組みは、共同体の記憶でもある
昔の共同体では、人が人を知っていた。
誰の子か。
どこの家の者か。
どこで生まれたか。
どこで暮らしているか。
良くも悪くも、地域の目があった。
もちろん、その社会にも窮屈さはあった。
しがらみもあった。
私は昔の社会がすべて良かったと言いたいのではない。
しかし、人と人とのつながりが薄くなった現代では、別の問題が生まれる。
互いを知らない。
隣に誰が住んでいるか分からない。
地域に誰が入ってきたのか分からない。
誰が責任を持つ人なのか分からない。
だからこそ、制度としての本人確認や記録が重要になる。
共同体のつながりが弱くなるなら、その分、仕組みは正確でなければならない。
ところが、人間関係も薄い。
制度も曖昧。
確認も十分でない。
責任の所在も分からない。
そうなれば、悪意を持つ者に利用される隙が生まれる。
これは、外国人か日本人かという単純な話ではない。
人を知らない社会になった以上、誰であれ、正確に本人を確認できる仕組みが必要だという話である。
信頼社会とは、確認をしない社会ではない。
適切に確認した上で、安心して信頼できる社会である。
ここを履き違えてはいけない。
教育が変われば、未来の記憶が変わる
國の未来を考える上で、教育ほど大きなものはない。
子どもは、最初から國について知っているわけではない。
家族のこと。
地域のこと。
歴史のこと。
文化のこと。
先人のこと。
失敗のこと。
誇りのこと。
それらを誰かから学ぶ。
学ばなければ、知らない。
知らなければ、大切にしようとも思えない。
私は、自国の歴史を美化しろと言いたいのではない。
失敗も学ぶべきである。
過ちも見るべきである。
苦い歴史も受け止めるべきである。
しかし、過ちしか教えず、誇りを教えないことも不自然である。
逆に、誇りだけを教え、過ちを隠すことも危険である。
必要なのは、全体を見ることである。
國にも光がある。
影がある。
先人にも偉業がある。
過ちがある。
その両方を見た上で、
自分たちは何を受け継ぎ、
何を改め、
何を未来へ渡すのか。
そこまで考える教育が必要である。
教育とは、知識を詰め込むことだけではない。
次の時代に何を残すかを決める営みでもある。
今の子どもが何を学ぶかで、五十年後の國の姿は変わる。
その子どもたちが親になり、教師になり、地域を支え、制度をつくるからである。
教育の変化は、すぐには見えない。
だからこそ怖い。
結果が出る頃には、一世代が過ぎている。
言葉が痩せれば、考える力も痩せる
國を支えるものの中で、私は言葉も非常に重要だと思っている。
人は、言葉によって考える。
言葉によって記憶する。
言葉によって祈る。
言葉によって伝える。
言葉がなければ、感じていることを形にできない。
しかし、言葉が簡単になりすぎると、考え方まで簡単になる。
善か悪か。
味方か敵か。
右か左か。
賛成か反対か。
白か黒か。
その二つだけで世界を見るようになる。
だが、人間の現実はもっと複雑である。
一つの出来事に、喜びと悲しみが同時にあることもある。
正しさの中に危うさがあることもある。
失敗の中に学びがあることもある。
対立する二つの側に、それぞれ理があることもある。
そうした複雑な現実を受け止めるためには、豊かな言葉が必要である。
日本語には、曖昧さがある。
しかし、その曖昧さはすべて悪いものではない。
余白を持たせる力もある。
相手を傷つけずに伝える知恵もある。
季節や心の微細な変化を表す言葉もある。
その豊かさを失い、強い言葉だけが社会を動かすようになれば、対話はさらに難しくなる。
言葉を失うとは、単に古い言葉を知らなくなることではない。
考えるための道具を失うことでもある。
祭りが消える時、地域の時間が切れる
祭りを、ただの娯楽だと思ってはいけない。
もちろん、楽しみの場でもある。
人が集まり、笑い、食べ、子どもたちが喜ぶ。
しかし、祭りにはそれ以上の役割がある。
地域の人々が同じ時間を共有する。
年長者から若者へ役割が渡される。
子どもが地域の大人を見る。
土地の神を祀る。
先祖を思う。
季節の移り変わりを感じる。
昔と今がつながる。
祭りは、時間をつなぐ装置でもある。
一度中断した祭りを、再び始めるのは難しい。
担い手がいなくなる。
作法が分からなくなる。
歌が分からなくなる。
道具の扱いが分からなくなる。
「誰か知っているだろう」
と思っているうちに、知っている人がいなくなる。
これは、祭りだけではない。
家のしきたりもそうである。
地域の言い伝えもそうである。
山の道もそうである。
水の流れを知る知恵もそうである。
文化は、資料に書いておけば残るものではない。
人から人へ渡して初めて生き残る。
伝承とは、情報ではない。
実践である。
やる人がいる。
見る子どもがいる。
覚える人がいる。
次へ渡す人がいる。
その循環が切れた時、文化は急速に失われる。
墓を守る者がいなくなる時
墓についても考えたい。
墓の形は、時代によって変わるだろう。
供養の方法も変わるかもしれない。
私は、必ず昔と同じ形を守れと言いたいのではない。
しかし、先祖を思う心そのものが失われることには、大きな危うさを感じる。
人は一人で生まれたのではない。
自分の前に、無数の命がある。
そのすべての人が立派だったわけではない。
名も残らない。
何をしたかも分からない。
それでも、その命の連なりの先に自分がいる。
先祖を思うことは、自分を縛るためではない。
自分が突然ここに現れた存在ではないと知ることである。
人は、自分の前にあるものを知ることで、自分の後ろに続くものを考えるようになる。
過去を知らない人間は、未来にも責任を感じにくい。
自分一代だけを考えればいいからである。
しかし、自分がつながりの中にいると知れば、
自分もまた、次へ渡す側だと気づく。
先祖を思うことと、未来を思うことは、実は一つにつながっている。
地域共同体の弱体化は、國全体の問題である
人々の生活は便利になった。
移動しやすくなった。
一人でも暮らせる。
買い物もできる。
情報も得られる。
多くのことを、地域の人間関係に頼らずにできるようになった。
これは大きな進歩である。
しかし、その便利さの裏で、地域共同体が弱くなった。
隣人を知らない。
地域の歴史を知らない。
祭りに参加しない。
困っている人がいても分からない。
子どもを地域全体で見ることも減る。
災害が起きた時に、誰がどこにいるのか分からない。
共同体が弱くなると、人々はすべてを行政に求めるようになる。
行政がやるべきだ。
国がやるべきだ。
専門家がやるべきだ。
しかし、どれほど制度が整っても、地域のすべてを行政が担うことはできない。
國とは、上から下へ支えるだけのものではない。
下から上へ支える力も必要である。
家庭。
近所。
地域。
町。
市。
県。
國。
その層が重なって社会ができる。
真ん中の層が失われれば、個人と国家だけになる。
すると人は孤立する。
そして、何でも大きな組織に依存するようになる。
私は、それを健全な國の姿だとは思わない。
「便利だから」で失うもの
現代社会は、便利さを求める。
早く。
簡単に。
安く。
手間をかけずに。
それ自体は悪いことではない。
人類は、長い時間をかけて不便を減らしてきた。
しかし、すべての手間が無駄なのだろうか。
祭りの準備は面倒である。
地域の行事も面倒である。
年長者の話を聞くことも、時には面倒である。
古い建物を守ることも手間がかかる。
山や水路を管理することも大変である。
墓を守ることも負担になる。
だが、その「面倒」の中に、人と人とのつながりがあったのではないか。
共同作業があった。
教える機会があった。
話す時間があった。
顔を覚える機会があった。
伝承があった。
便利さとは、多くの場合、間にあったものを省くことである。
しかし、間にあったものがすべて無駄だったとは限らない。
人間関係。
記憶。
役割。
責任。
技術。
感謝。
それらまで一緒に省いていないか。
便利になることはよい。
だが、何を失って便利になったのかを考える必要がある。
小さな例外が、やがて原則を変える
社会の仕組みは、一つの例外から変わることがある。
最初は特別な事情だった。
今回は仕方がない。
この人だけは例外にしよう。
期間限定だから。
緊急時だから。
しかし、例外は前例になる。
前例は基準になる。
基準は常識になる。
そして、いつの間にか原則の方が古いものとされる。
もちろん、制度は変わるべきである。
時代に合わないものは改めなければならない。
伝統という理由だけで、すべてを固定する必要はない。
しかし、変えるなら、
何を守るために変えるのか。
何を失う可能性があるのか。
元に戻せるのか。
将来どのように使われるのか。
そこまで考える必要がある。
善意で設けた例外が、後に別の目的で使われることもある。
緊急時の仕組みが、常態化することもある。
小さな変更が、後の大きな変化の入り口になることもある。
だからこそ、大衆が関心を持たなければならない。
國の形は、国会の大きな議論だけで変わるのではない。
小さな規則。
小さな運用。
小さな例外。
その積み重ねでも変わる。
「今すぐ困らない」が最も危険である
人は、今すぐ困る問題には動く。
水が止まれば困る。
電気が止まれば困る。
収入がなくなれば困る。
病気になれば困る。
だから、すぐに対処する。
しかし、十年後、五十年後、百年後に影響する問題には動きにくい。
今は困っていないからである。
森林が荒れる。
地域の担い手が減る。
祭りがなくなる。
若者が土地を離れる。
古い建物が失われる。
言葉が消える。
歴史を知る人がいなくなる。
一つ一つは、今日の夕食を奪う問題ではない。
明日の仕事がなくなる問題でもない。
だから後回しにする。
しかし、國を変えるのは、こうした長い時間の問題である。
今すぐ困らない。
だから何もしない。
そして、困った時には手遅れになっている。
私は、ここに世代を超えて考えることの難しさを見る。
人間は、自分の寿命を超えた未来を実感しにくい。
だからこそ、意識して未来を想像しなければならない。
二百年後から見れば、今は「昔」である
私たちは、昔の人々について語る。
なぜ、あの時に気づかなかったのか。
なぜ、止めなかったのか。
なぜ、あの判断をしたのか。
歴史を見れば、そう思うことがある。
しかし、二百年後の人々にとって、私たちもまた「昔の人」である。
今の私たちの選択も、歴史になる。
今の政治も。
今の制度も。
今の土地利用も。
今の教育も。
今の文化への態度も。
すべてが過去になる。
その時、未来の人々は何を見るだろう。
便利な時代だったと言うだろうか。
豊かな時代だったと言うだろうか。
それとも、
多くのものを持ちながら、
自分たちが何を失っているのか気づかなかった時代。
そう言われるだろうか。
私は時々、そのことを考える。
私たちは、未来から見られている。
もちろん、実際に未来の人間が今を見ているわけではない。
しかし、未来から逆算して今を見る視点は必要である。
百年後に何を残したいのか。
二百年後に何が残っていてほしいのか。
そこから今の選択を見る。
そうすれば、
目の前の便利さだけでは見えないものが見えてくる。
國は、奪われるだけではない
人は、國を失うというと、外から奪われる姿を想像する。
戦争。
侵略。
支配。
確かに、それも國を失う形である。
しかし、もう一つある。
自分たちで守ることをやめることである。
言葉を大切にしなくなる。
文化を学ばなくなる。
地域に関心を持たなくなる。
土地を単なる商品としてしか見なくなる。
先祖を忘れる。
未来の世代を考えなくなる。
何を守るべきか分からなくなる。
そして最後には、
「別に失っても困らない」
と思うようになる。
そこまで行けば、外から奪う必要さえない。
自分たちで手放すからである。
私は、それを最も危惧している。
國は、攻撃だけで滅びるのではない。
無関心でも滅びる。
諦めでも滅びる。
記憶の喪失でも滅びる。
自分たちのものを大切にしない心によっても、國は薄くなる。
守ることと、変わることは対立しない
ここで一つ、誤解されたくないことがある。
私は、何も変えるなと言いたいのではない。
時代は変わる。
社会も変わる。
技術も変わる。
家族の形も変わる。
働き方も変わる。
文化もまた、生きている以上、変化する。
変わらないことだけが伝統ではない。
本当に大切なのは、
何を変え、
何を守るのか。
その判断を、自分たちで行うことである。
流行しているから変える。
海外がそうしているから変える。
効率がよいから変える。
儲かるから変える。
それだけでは足りない。
変えた先に何があるのか。
自分たちらしさはどこに残るのか。
次代へ何を渡すのか。
そこまで考えて変える。
守るために変えることもある。
伝えるために形を変えることもある。
しかし、何を守るのか分からないまま変われば、ただ流されるだけになる。
自分を持つからこそ、変化できる。
軸があるからこそ、柔軟になれる。
これは人間も國も同じだと思う。
小さな違和感を、見過ごさない
大きな問題になってからでは遅いことがある。
だからこそ、小さな違和感が大切になる。
何か変だ。
以前と違う。
誰かが困っている。
制度の説明が合わない。
話が見えない。
責任の所在が分からない。
なぜだろう。
その疑問を、すぐに陰謀や敵意へ変える必要はない。
まず調べる。
確かめる。
聞く。
比べる。
考える。
小さな違和感とは、恐怖を煽る材料ではない。
未来を守るための感覚である。
身体が痛みを感じるように、社会にも違和感という感覚が必要である。
痛みをすべて悪いものとして消せば、病気に気づけない。
同じように、
社会の違和感をすべて、
「気にしすぎ」
「考えすぎ」
「波風を立てるな」
と消してしまえば、深い問題に気づけなくなる。
だから、小さな声を大切にする必要がある。
異論を持つ人間を、すぐに敵と見ない。
なぜそう思うのかを聞く。
そこに、皆が見落としているものがあるかもしれない。
國を守るとは、日常を守ることである
國を守るというと、大げさに聞こえるかもしれない。
しかし、本当はもっと日常的なことだと思う。
家族と話す。
子どもに土地の話をする。
地域の祭りに参加する。
墓参りをする。
古い地名の由来を知る。
歴史を学ぶ。
選挙へ行く。
制度に疑問があれば調べる。
公共のものを大切に使う。
困っている隣人を気にかける。
地域の山や川に関心を持つ。
美しい日本語を子どもに渡す。
そうしたことの積み重ねである。
國とは、遠くにある巨大なものではない。
私たちの暮らしの中にある。
だから、國を守る者は、必ずしも有名である必要はない。
名前が歴史に残る必要もない。
自分の場所で、一つを守る。
一つを伝える。
一つを次へ渡す。
その無数の行為が、國を支えている。
気づいた時には遅かった、と言わないために
私は、未来を悲観したいのではない。
「もう終わりだ」
と言いたいのでもない。
むしろ逆である。
まだ変えられると思うから、書いている。
まだ守れると思うから、問いかけている。
本当に終わっているなら、何を言っても意味はない。
しかし、未来はまだ決まっていない。
だから今、小さな違和感を見過ごしてはいけない。
大きな危機だけを見るのではない。
日常を見る。
制度を見る。
言葉を見る。
土地を見る。
地域を見る。
教育を見る。
文化を見る。
自分自身の無関心を見る。
國の形は、こうした小さなところから変わる。
そして、同じように、
國を立て直す力も、
小さなところから始まる。
一つの祭りを残すこと。
一つの言葉を伝えること。
一つの制度を問い直すこと。
一人の子どもに歴史を語ること。
一人の人間が、
「おかしいものは、おかしい」
と静かに言うこと。
その小さな「1」が、未来をつくる。
しかし、ここでさらに考えなければならない。
私たちは、どのような未来を望んでいるのか。
何を守りたいのかを考える時、
目の前の十年だけでは足りない。
百年。
二百年。
その先まで視線を伸ばす必要がある。
二百年後。
私たちが誰一人生きていない時代。
その時、日本はまだ日本であるのか。
日本語は生きているのか。
祭りは残っているのか。
土地の記憶は残っているのか。
祖先から受け取ったものを、
私たちは未来へ渡すことができるのか。
次章では、
今の損得から一度離れ、
二百年後の日本を想像してみたい。
未来から今を見た時、
私たちは何を選ぶべきなのか。
そして、
今を生きる私たちは、
まだ生まれていない人々に対して、
どのような責任を持っているのか。
その問いに向き合いたい。
第五章 二百年後、日本はまだ日本であるのか
二百年後の日本を、想像したことがあるだろうか。
今から二百年後。
私たちは、もう誰一人生きていない。
今、テレビに映っている政治家もいない。
今、SNSで激しく言い争っている人々もいない。
今、権力を持っている者も、
今、富を持っている者も、
今、世間から注目されている者も、
ほとんどすべてが歴史の中へ消えている。
私たちの多くは、名前さえ残らないだろう。
それは悲しいことではない。
これまでも、そうだった。
私たちの祖先のほとんども、歴史書には名前を残していない。
田を耕した人。
山を守った人。
海へ出た人。
子を育てた人。
家を守った人。
祭りを続けた人。
病人を看た人。
戦地から帰らなかった人。
災害の後に村を立て直した人。
誰にも知られず、ただその場所で懸命に生きた人。
そうした名もなき人々の積み重ねの上に、私たちは生きている。
そして二百年後。
今度は私たちが「過去の人」になる。
その時、未来の人々は、私たちの時代をどのように見るのだろう。
便利な時代だった。
豊かな時代だった。
技術が進歩した時代だった。
情報があふれた時代だった。
そう語るかもしれない。
しかし同時に、こう問われる可能性もある。
これほど多くの情報を持ちながら、なぜ考えなかったのか。
これほど歴史を知る手段がありながら、なぜ自分たちの過去を忘れたのか。
これほど豊かでありながら、なぜ次の時代へ残すことを考えなかったのか。
違和感を持っていたのなら、なぜ黙っていたのか。
おかしいと気づいていたのなら、なぜ誰かが動くのを待ち続けたのか。
私は時々、その問いを想像する。
そして思う。
未来の人々にとって、私たちの沈黙もまた、歴史になる。
二百年後にも、日本語で祈る人はいるのか
二百年後。
子どもたちは、どのような言葉を話しているのだろう。
日本語そのものが消えると決めつけたいのではない。
言葉は変化する。
昔の日本語と今の日本語も違う。
新しい言葉が生まれ、
古い言葉が使われなくなり、
発音も表現も変わっていく。
それは自然なことである。
しかし、私が問いたいのは、もっと深いところだ。
二百年後の人々は、
「いただきます」
という言葉に、何を感じるのだろう。
「おかげさま」
という言葉を、どのように受け取るのだろう。
「もったいない」
という感覚は残っているだろうか。
「お互いさま」
という考え方は生きているだろうか。
山を見て、
海を見て、
朝日を見て、
大きなものに対して自然に頭を下げる感覚は残っているだろうか。
神社で手を合わせる人はいるだろうか。
墓前で、亡き人へ語りかける人はいるだろうか。
日本語とは、単なる情報伝達の道具ではない。
そこには、長い時間をかけて育てられた感覚が宿っている。
言葉の中には、その民族が世界をどう見てきたのかが残っている。
自然をどう感じたのか。
死者をどう思ったのか。
他者とどう関わったのか。
季節をどう受け止めたのか。
目に見えないものを、どう感じたのか。
言葉が残っていても、その言葉に込められた感覚を失うことがある。
形だけ残り、心が失われることもある。
だから、言葉を残すということは、辞書を残すことだけではない。
その言葉を使う暮らしを残すことである。
「ありがとう」と言う。
「いただきます」と言う。
先祖に手を合わせる。
季節の節目を祝う。
子どもに昔話をする。
そうした日常の中で、言葉は生きる。
二百年後にも、日本語で祈る人がいるだろうか。
私は、そのことを考える。
神社が残っていても、祈りがなければ
二百年後。
神社は残っているかもしれない。
社殿もある。
鳥居もある。
観光客もいる。
写真を撮る人もいる。
しかし、そこに祈りはあるだろうか。
神社とは、建物だけではない。
そこには、長い時間の中で人々が手を合わせてきた記憶がある。
豊作を願った人。
無事を願った人。
戦地へ向かう家族の帰還を願った人。
病の平癒を願った人。
子どもの成長を願った人。
亡き者の魂の安らぎを願った人。
名も知られない無数の祈りが積み重なっている。
社殿が修復され、
文化財として保存され、
観光地として人が訪れる。
それも大切なことである。
しかし、祈る人がいなくなった時、
その場所は何になるのだろう。
祭りが形だけ残り、
意味を知る人がいなくなる。
祝詞の音は残っても、
なぜ唱えるのかを誰も知らない。
神輿は出る。
しかし、何のために神を迎え、何を願い、何を感謝するのか分からない。
形だけを残しても、精神は自動的には残らない。
精神だけを語っても、実践がなければ残らない。
文化とは、
形と心。
記憶と行為。
その両方によって継承される。
二百年後にも、誰かが子どもの手を引いて神社へ行き、
「ここは昔から、みんなが大切にしてきた場所なんやで」
と話しているだろうか。
私は、そんな未来であってほしいと思う。
祭りは、未来への手紙である
祭りについて考えてみたい。
今、私たちが見ている祭りの中には、何世代にもわたって続いてきたものがある。
その始まりにいた人は、もういない。
何百年前かに、
誰かが始めた。
誰かが守った。
誰かが次の世代へ渡した。
戦争があったかもしれない。
飢饉があったかもしれない。
災害があったかもしれない。
担い手が減ったこともあっただろう。
それでも、
「来年もやろう」
「次の子らにも見せよう」
そう思った人がいた。
だから、今がある。
私たちは、その続きを生きている。
祭りとは、過去から届いた手紙のようなものだと思う。
「私たちはここに生きていた」
「この土地を大切にしてきた」
「山に感謝した」
「水に感謝した」
「神に祈った」
「皆で苦労を乗り越えた」
その記憶が、言葉だけではなく、身体の動きとして残されている。
だから、祭りを次代へ渡すことは、
未来へ手紙を送ることでもある。
二百年後の子どもたちが、
私たちの時代から渡された何かを受け取る。
その時、
私たちは何を渡すのだろう。
「面倒だったからやめました」
という空白か。
それとも、
「時代に合わせて形は変えたが、大切な心は渡しました」
という継承か。
未来は、今の私たちの選択の先にある。
古い地名を呼ぶ者はいるのか
二百年後。
私たちの住む土地の名前は残っているだろうか。
古い小字。
山の名。
谷の名。
峠の名。
井戸の名。
池の名。
昔の人が何気なく呼んでいた名前。
その一つ一つに、記憶がある。
ある場所では戦があった。
ある場所では洪水があった。
ある場所では人々が水を求めて井戸を掘った。
ある山では神を祀った。
ある森は、集落の人々が決して木を切らずに守った。
地名は、土地の記憶である。
しかし、記憶は呼ばれなければ消える。
地図から消える。
人の口から消える。
子どもが知らなくなる。
そして百年後には、
そこに何があったのか誰も分からなくなる。
私は全国を歩きながら、土地には記憶があると感じることがある。
古戦場。
被災地。
空襲地。
戦没者の地。
誰かが倒れた場所。
誰かが祈った場所。
歴史に名を残した者もいる。
名も残さず消えていった者もいる。
しかし、名が残っているかどうかで、命の重さが変わるわけではない。
人は忘れる。
だから、迎えに行く者が必要になる。
呼びかける者が必要になる。
手を合わせる者が必要になる。
二百年後。
今の私たちが生きた土地に、
誰かが手を合わせてくれるだろうか。
そのためには、私たちもまた、今、自分たちの前に生きた人々を忘れてはならない。
記憶は、一方通行ではない。
過去を忘れた人間が、未来に覚えていてもらうことを望むのは、少し都合がよすぎるのではないか。
祖先を忘れた人は、子孫の未来も忘れる
私は、先祖を大切にしろと言う時、
過去に縛られろと言いたいのではない。
家柄を誇れと言いたいのでもない。
先祖を絶対視しろと言うのでもない。
私が大切だと思うのは、
自分は突然ここに現れた存在ではないと知ることである。
一人の人間が生まれるまでに、
無数の命がつながっている。
名前を知っている人もいれば、
知らない人もいる。
立派な人もいた。
弱い人もいた。
間違った人もいた。
苦しんだ人もいた。
そのすべての連なりの先に、自分がいる。
そう考える時、
自分の人生は、自分一人だけのものではないと気づく。
そして、その気づきは未来へ向かう。
自分もまた、つなぐ側である。
受け取るだけではない。
渡す側でもある。
これが、世代を超える感覚だと思う。
過去とのつながりを失った人間は、
今だけを生きるようになる。
自分の快適さ。
自分の利益。
自分の時代。
それだけを考える。
しかし、自分が長い時間の中に立っていると知れば、
自分が死んだ後のことも考えるようになる。
祖先を思うことと、
子孫を思うことは、
一つの線でつながっている。
二百年後の子どもへ、何を残すのか
想像してみたい。
二百年後。
一人の子どもがいる。
その子の名前を、私たちは知らない。
どこに住んでいるかも分からない。
男の子かもしれない。
女の子かもしれない。
どんな家族の中で育っているのかも分からない。
しかし、その子は、私たちの選択の結果の中で生きている。
私たちが守った森が残っているかもしれない。
私たちが汚した川を苦労して戻しているかもしれない。
私たちが残した制度に助けられているかもしれない。
私たちが放置した問題に苦しんでいるかもしれない。
私たちが守った言葉を話しているかもしれない。
私たちが捨てた文化を、古い記録から復元しようとしているかもしれない。
その子に会うことはできない。
感謝されることもない。
名前を呼ばれることもない。
それでも、私たちはその子に責任があるのだろうか。
私は、あると思っている。
なぜなら、私たちも、会ったことのない祖先たちが残したものの中で生きているからである。
誰かが山を守った。
誰かが水路を掘った。
誰かが道をつくった。
誰かが歌を残した。
誰かが文字を伝えた。
誰かが神社を守った。
誰かが戦後の焼け野原から町を立て直した。
私たちは、知らない人々から無数のものを受け取っている。
ならば、自分もまた、知らない未来の人に何かを渡す責任がある。
それが、世代を超えて生きるということではないだろうか。
國は、未来の人から借りている
私たちはよく、
「祖先から受け継いだ國」
と言う。
それは正しいと思う。
しかし私は、もう一つの見方も大切だと思っている。
この國は、未来の人々から借りているものでもある。
土地も。
水も。
森も。
文化も。
制度も。
言葉も。
私たちの世代だけで使い切ってよいものではない。
たとえば、借り物なら大切に扱う。
壊せば申し訳ないと思う。
使い終われば、次の人へ返す。
國も同じではないだろうか。
私たちは一時的な管理者にすぎない。
どれほど権力を持っていても、
どれほど富を持っていても、
どれほど大きな声を持っていても、
國そのものを永久に所有することはできない。
人は死ぬからである。
最後には、すべて次の世代へ渡す。
ならば問わなければならない。
どのような状態で返すのか。
壊したまま返すのか。
使い尽くして返すのか。
争いの種を残して返すのか。
それとも、
受け取った時より少しでも良い形にして返すのか。
この視点を持てば、國を見る目が変わる。
政治も変わる。
経済も変わる。
教育も変わる。
文化を見る目も変わる。
「今、自分が得をするか」
だけでは判断できなくなる。
未来への責任が生まれるからである。
國名が残っていても、國は失われることがある
二百年後、
地図の上に「日本」という名前が残っているかもしれない。
国旗も残っているかもしれない。
政府もある。
法律もある。
日本語も使われている。
しかし、それだけで本当に同じ國だと言えるだろうか。
私は、國には精神があると思っている。
もちろん、一つの思想に全員が従うという意味ではない。
國の精神とは、
その土地に生きる人々が何を大切にするのか。
何を美しいと思うのか。
何に手を合わせるのか。
何を恥じるのか。
どのように助け合うのか。
死者をどう扱うのか。
子どもへ何を伝えるのか。
そうした、目に見えない共通の感覚のことである。
それが完全に失われ、
土地に愛着を持つ者もなく、
歴史に関心を持つ者もなく、
文化を伝える者もなく、
過去の人々への感謝もなく、
未来の人々への責任もない。
ただ経済活動だけが行われている。
それでも國は存在していると言えるのだろうか。
私は、國名だけが残ればよいとは思わない。
國を國として生かしているもの。
それは、人々の心の中にある。
だからこそ、國は軍事だけでは守れない。
法律だけでも守れない。
経済だけでも守れない。
人の心の中に、
「これは次へ渡したい」
というものがなければならない。
何を残すかを決めるには、何者かを知らなければならない
未来へ何を残すのか。
この問いに答えるためには、
自分たちは何者なのかを知らなければならない。
何を大切にしてきたのか。
どのように生きてきたのか。
何を失敗したのか。
何を誇りとしてきたのか。
何を祈ってきたのか。
そこを知らなければ、
何を残すべきか判断できない。
自分を知らない者は、
他人の価値観を借りるしかない。
どこかで流行している考え。
誰かがつくった基準。
外国で成功した制度。
有名人の言葉。
それらを学ぶことは大切である。
外から学ぶことを否定するつもりはない。
日本もまた、外から多くを学びながら形を変えてきた。
しかし、受け入れる側に軸が必要である。
何でも受け入れることが寛容ではない。
何でも拒むことが伝統でもない。
自分を知った上で、
何を受け入れ、
何を変え、
何を守るのかを選ぶ。
その力が必要である。
國も人と同じだ。
自分を失った者は、流される。
便利な未来と、豊かな未来は同じではない
二百年後の世界は、今より便利になっているかもしれない。
移動は速くなる。
病気も治る。
情報はさらに早く届く。
人の代わりに機械が多くの仕事をする。
私たちには想像もできない技術が生まれているかもしれない。
それは素晴らしいことだと思う。
しかし、便利であることと、豊かであることは同じだろうか。
孤独ではないか。
自分が何者か分かっているか。
帰る場所があるか。
自分を待っている人がいるか。
土地に愛着があるか。
過去とのつながりを感じられるか。
未来へ何かを渡したいと思えるか。
技術がどれほど進んでも、
人間の心にはこうした問いが残るのではないか。
私は、未来に古い暮らしをそのまま残したいのではない。
未来の人々にも、不便を我慢しろと言いたいのでもない。
ただ、便利さの中で、人間が何を失ってはいけないのかを考えたい。
呼吸すること。
人と向き合うこと。
自然を感じること。
死者を思うこと。
子どもへ伝えること。
自分の足元を知ること。
こうしたものは、時代が変わっても必要なのではないか。
今の一票、今の一言、今の沈黙が未来へ続く
二百年後を考えると、
自分一人の行動など小さすぎるように感じるかもしれない。
しかし、未来とは小さなものの積み重ねである。
今の一票。
今の一言。
今の選択。
今、何を買うか。
今、何を子どもへ伝えるか。
今、地域に関わるか。
今、違和感を見過ごすか。
今、調べるか。
今、黙るか。
一つ一つは小さい。
しかし、同じ選択を何百万人がし、
それが何十年も続けば、
國の形を変える。
大衆意識とは、それほど大きな力を持っている。
だから私は、大衆を軽蔑しているのではない。
むしろ、その力を恐れ、同時に信じている。
流されれば、國を失うほどの力になる。
目覚めれば、國を立て直すほどの力になる。
一人では小さい。
しかし、その小さな一人が無数にいる。
だから、
「自分一人では変わらない」
という言葉は、やはり違うと思う。
未来とは、無数の「自分一人」がつくるものだからである。
未来の人々は、私たちに声を届けられない
未来の人々は、今の私たちに抗議できない。
選挙権もない。
署名もできない。
SNSに意見を書くこともできない。
「その森を残してほしい」
「その文化を消さないでほしい」
「借金だけ残さないでほしい」
「争いを次へ送らないでほしい」
そう言いたくても、まだ生まれていない。
だからこそ、今を生きる者が想像しなければならない。
声を持たない未来の人々のことを。
これは、弱者を守るという考え方の、最も大きな形かもしれない。
今ここにいる弱い人を守る。
それも大切である。
同時に、
まだ生まれていないために、一切の発言権を持たない人々の未来も守る。
その視点が必要ではないだろうか。
未来の人々に代わって、
今の私たちが問わなければならない。
この判断は百年後に何を残すのか。
この制度は次の世代に何を渡すのか。
この便利さの代償は誰が払うのか。
この文化を失えば、取り戻せるのか。
今だけを見ない。
未来の声を想像する。
それが、今を生きる者の責任だと思う。
百年後に褒められなくてもいい
未来への責任と言うと、
何か偉大なことをしなければならないように感じるかもしれない。
しかし、そうではない。
百年後に名前が残る必要はない。
銅像が建つ必要もない。
歴史書に載る必要もない。
ただ、
一つの森を守った人がいた。
一つの祭りを次へ渡した人がいた。
一人の子どもに歴史を教えた人がいた。
一つの制度の不備を問い続けた人がいた。
地域の老人の話を記録した人がいた。
荒れた社を掃除した人がいた。
亡くなった人を忘れずに手を合わせた人がいた。
それでいい。
未来をつくる人の多くは、名もなき人である。
國を支えてきたのも、そういう人たちだ。
私たちも、その一人になればいい。
二百年後に残したいもの
私が二百年後に残したいと思うものは、巨大な建物だけではない。
強い経済だけでもない。
高度な技術だけでもない。
もちろん、それらも大切である。
しかし私は、
子どもが自分の國の歴史を知り、
恥だけでもなく、
思い上がりでもなく、
静かな誇りを持てる國であってほしい。
異なる意見を持つ者同士が、
怒鳴り合うのでもなく、
黙り込むのでもなく、
言葉を交わせる國であってほしい。
困っている人を助けながら、
善意を悪用する者には毅然と向き合える國であってほしい。
外国から来た人とも共に生きながら、
自分たちの文化を恥じず、
守るべきものを守れる國であってほしい。
山を山として敬い、
川をただの水路として扱わず、
海を資源だけで見ない感覚が残っていてほしい。
亡き人を忘れず、
先人へ感謝し、
同時に未来の子どもたちへ責任を持つ國であってほしい。
それは夢物語だろうか。
私はそうは思わない。
國は、結局のところ人がつくる。
人の意識が変われば、社会は変わる。
人が諦めれば、國も諦めの形になる。
人が責任を持てば、國もまた変わる。
未来は、今の私たちの姿を映す
二百年後の日本がどうなっているか。
私には分からない。
誰にも断言はできない。
しかし、一つだけ言えることがある。
その未来は、今と無関係には生まれない。
今日の延長にある。
私たちが何を考え、
何を選び、
何を守り、
何を見過ごし、
何を次へ渡すか。
その積み重ねの先にある。
だから、未来を恐れるだけでは意味がない。
未来を想像し、
今を変える必要がある。
二百年後に日本はあるのか。
私は、その問いを恐怖のために投げかけているのではない。
今を生きる私たちに、
未来を選ぶ力がまだあることを思い出してほしいからである。
未来は、まだ白紙である。
だからこそ責任がある。
そして、希望もある。
私たちは、何を選ぶのか
この章の最後に、もう一度問いかけたい。
二百年後。
日本という名が残っているだけでよいのか。
それとも、
日本という國に生きてきた人々の記憶や精神、
言葉や祈り、
土地への愛着、
人と人との結び、
過去への感謝と未来への責任まで、
何らかの形で次へ渡していきたいのか。
私は後者を選びたい。
そのために、
何か大きなことをしなければならないとは思っていない。
ただ、自分の場所で立つ。
自分の目で見る。
自分の頭で考える。
自分の言葉を持つ。
そして、
次へ渡すべきものを、一つでも渡す。
それが始まりだと思っている。
しかし、未来を守るためには、もう一つ避けて通れない問いがある。
國を弱らせるのは、本当に悪意ある一部の人間だけなのか。
それとも、
知りながら黙る者。
気づきながら動かない者。
誰かが何とかすると思い続ける者。
そうした無数の沈黙もまた、
國の未来をつくっているのではないか。
次章では、
國を滅ぼすのは悪人の数ではないという視点から、
大衆の責任と、
沈黙する多数が持つ本当の力について、
さらに深く考えていきたい。
第六章 國を滅ぼすのは、悪人の数ではない
國を滅ぼすのは、悪人の数なのだろうか。
私は、必ずしもそうではないと思っている。
いつの時代にも、悪意を持つ人間はいた。
自分の利益だけを考える者もいた。
権力を求める者もいた。
制度を利用する者もいた。
人を騙す者もいた。
美しい言葉の陰で、自分だけが得をしようとする者もいた。
それは、人間社会の歴史を見れば分かる。
これから先も、完全になくなることはないだろう。
だから、私は悪人の存在そのものに驚いてはいない。
私が本当に恐れているのは別のことである。
悪意を持つ者が動いている時に、
善良な人々が黙っていることだ。
おかしいと気づいている。
しかし、言わない。
問題があると感じている。
しかし、調べない。
誰かが利用されている。
しかし、自分には関係ないと思う。
制度が壊れ始めている。
しかし、誰かが直してくれると思う。
國は、悪意ある少数だけで壊れるのではない。
善良な多数が、自分の力を使わなくなった時に弱くなる。
私は、そこを見なければならないと思っている。
悪人よりも、沈黙する多数の方が多い
当然のことである。
社会の大多数は、悪人ではない。
普通に働いている。
家族を大切にしている。
税を納めている。
人を騙すこともない。
犯罪を犯すこともない。
困っている人がいれば、助けようと思う。
災害が起きれば、心を痛める。
戦争が起きれば、平和を願う。
多くの人は善良である。
だからこそ、私は思う。
なぜ、その善良さが社会を守る力にならないのか。
なぜ、
「おかしい」
と思う人が大勢いるのに、何も変わらないのか。
なぜ、
「このままではいけない」
という声があちこちにあるのに、社会全体では諦めが広がるのか。
一つには、善良な人間ほど争いを避けるからだと思う。
自分の生活を守りたい。
家族を守りたい。
仕事を失いたくない。
人間関係を壊したくない。
それは当然のことである。
しかし、その気持ちが強くなりすぎると、
「誰かが言うだろう」
「自分でなくてもいいだろう」
という考えになる。
そして、皆が同じことを考える。
結果として、誰も言わない。
誰も動かない。
悪意ある者は少数でいい。
目的を持って動く。
その間、多数が止まっていれば、それだけで十分だからである。
大多数は、何もしないことで力を与える
私たちは、何かを支持するとは、
積極的に賛成することだと思っている。
しかし現実には、
反対しないことが、結果として支える力になることがある。
関心を持たない。
調べない。
投票しない。
意見を言わない。
制度が変わっても知らない。
予算が使われても見ない。
地域で何かが失われても、
「仕方がない」
と思う。
一つ一つは、小さな無関心である。
しかし、その無関心が何百万人、何千万人と積み重なれば、
非常に大きな力になる。
何かを積極的に壊さなくてもいい。
誰も守らなければ、壊れていく。
誰も受け継がなければ、消えていく。
誰も問いたださなければ、緩んでいく。
誰も見ていなければ、不正は起きやすくなる。
誰も声を上げなければ、声の大きい者だけが決める。
つまり、沈黙は無力ではない。
沈黙にも力がある。
問題は、その力が自分の望まない方向へ使われることがあるということだ。
「私は何もしていない」は、本当に無関係なのか
何か問題が起きた時、人は言う。
「私は関係ない」
「私は何もしていない」
確かに、直接何かをしたわけではない。
不正をしたわけでもない。
誰かを傷つけたわけでもない。
しかし、
何もしていないことと、
何の影響も与えていないことは、
同じではない。
たとえば、地域の祭りがなくなる。
自分は壊していない。
ただ、一度も参加しなかった。
子どもにも伝えなかった。
誰かが続けると思っていた。
そして、担い手がいなくなった。
その時、
「自分は何もしていない」
と言えるだろうか。
古い建物が失われる。
自分が壊したわけではない。
しかし、価値を知らなかった。
関心も持たなかった。
気づいた時にはなくなっていた。
その時、
誰だけを責めればいいのだろう。
國の問題も同じである。
誰か一人がすべてを壊すわけではない。
無関心。
先送り。
面倒だから任せる。
知らないままでいる。
その積み重ねもまた、未来をつくる。
私は、ここを自分自身にも問い続けている。
自分は本当に無関係なのか。
自分が黙ったことで、何かを通してしまっていないか。
自分が関心を持たなかったことで、何かを失っていないか。
この問いは、他人を責めるためではない。
自分の責任を思い出すための問いである。
國民であるということは、観客ではない
政治を見る時、
多くの人は観客のようになる。
政治家が悪い。
官僚が悪い。
与党が悪い。
野党が悪い。
報道が悪い。
経済界が悪い。
確かに、責任を持つ立場の者には、厳しい責任がある。
権力を持つ者は、それだけ大きな説明責任を負う。
しかし、国民が完全な観客であるなら、
國というものは一体誰のものなのだろう。
民主的な社会では、
國民は観客ではない。
参加者である。
もちろん、全員が政治家になる必要はない。
毎日政治活動をする必要もない。
しかし、
考える。
知る。
選ぶ。
問い直す。
声を届ける。
これらを放棄すれば、
形式上は主権者でも、実質的には観客になる。
そして観客は、結果に文句を言うことはできても、試合の流れを変える力は弱い。
私は、日本人の多くが、
主権者としてではなく、観客として政治や社会を見ることに慣れすぎているように感じる。
試合が終わってから文句を言う。
しかし、始まる前には関心を持たない。
選択の時には動かない。
そして結果が出た後に、
「こんなはずではなかった」
と言う。
それでは遅い。
國を生きるということは、
観客席から見ることではない。
どれほど小さくても、
自分もまたグラウンドに立っていると知ることである。
責任とは、罪を背負うことではない
「国民にも責任がある」
そう言うと、
すぐに誰かを責めているように受け取られることがある。
しかし、私が言う責任とは、罪悪感を植えつけることではない。
責任とは、
自分にも力があると知ることである。
もし自分に何の力もないなら、責任もない。
しかし、本当に何の力もないのだろうか。
選ぶ力がある。
話す力がある。
教える力がある。
守る力がある。
調べる力がある。
誰かとつながる力がある。
自分の行動を変える力がある。
その力がある以上、責任もある。
責任とは罰ではない。
力の裏側にあるものである。
私は、責任という言葉をもっと前向きに捉えたい。
責任があるということは、
まだできることがあるということである。
まだ変えられる部分があるということである。
だから、
「自分にも責任がある」
と認めることは、
絶望ではない。
希望の始まりである。
誰かを責め続ける社会は、自分の力を失う
社会が悪い。
政治家が悪い。
会社が悪い。
外国が悪い。
若者が悪い。
高齢者が悪い。
男が悪い。
女が悪い。
右が悪い。
左が悪い。
誰かを責めれば、一時的に心は楽になる。
自分は悪くない。
自分には責任がない。
すべて相手のせいである。
そう思えるからだ。
しかし、その代わりに失うものがある。
自分の力である。
すべて相手が悪いなら、
自分には何もできない。
相手が変わるまで待つしかない。
政治家が変わるまで待つ。
社会が変わるまで待つ。
時代が変わるまで待つ。
その間、自分は被害者として止まり続ける。
私は、そこに大きな危険を感じる。
誰かに責任を求めることは必要である。
しかし、
自分の責任まで相手に渡してはいけない。
政治家を批判しながら、自分は選挙に行かない。
教育を批判しながら、自分の子どもとは何も話さない。
地域の衰退を嘆きながら、自分は地域に関わらない。
文化が失われることを嘆きながら、自分は学ばない。
それでは、何も始まらない。
誰かを批判する前に、
自分にできる一歩は何か。
私は、この問いを持つことが大切だと思っている。
悪意ある者は、行動する
ここで、少し厳しい現実を見たい。
悪意ある者は、行動する。
利益を得たい者は調べる。
制度の穴を探す。
人脈をつくる。
組織を動かす。
資金を集める。
法律を研究する。
世論を動かす方法を考える。
目的のために、粘り強く動く。
それに対して、
善良な人々が、
「面倒だから」
「よく分からないから」
「誰かがやるだろう」
と言っていれば、結果はどうなるだろう。
善悪の問題以前に、
動く者の方が影響力を持つ。
世の中は、
正しい者が自動的に勝つ仕組みにはなっていない。
善良であるだけでは足りない。
善意に意志が必要である。
善意に行動が必要である。
善意に知恵が必要である。
私は、ここを強く言いたい。
「自分は良い人だから大丈夫」
ではない。
「自分は悪いことをしていないから関係ない」
でもない。
悪意に負けないためには、
善意も動かなければならない。
無関心な善人と、目的を持つ悪意
百人の善良な人がいる。
しかし、誰も動かない。
そこに一人、明確な目的を持った者がいる。
その一人が動く。
意見を出す。
資料をつくる。
人に会う。
仕組みに働きかける。
何度断られても続ける。
一方、百人の善良な人は、
「まあ、そこまでしなくても」
「誰かが止めるだろう」
と思っている。
結果として、誰の意思が社会に反映されやすいだろうか。
答えは明らかである。
私は、ここに民主社会の難しさがあると思う。
人数が多いだけでは力にならない。
意思が必要である。
考えが必要である。
行動が必要である。
大多数であることに安心してはいけない。
黙っている多数は、
社会の方向を決める力を持たないことがある。
声を持つ少数が方向を決め、
多数は後からその結果を受け取る。
だから、
「多くの人が自分と同じように思っているから大丈夫」
という考えは危険である。
同じように思っているだけでは、現実は動かない。
意思は、行動によって初めて形になる。
しかし、大衆は本来、巨大な力を持っている
ここまで厳しいことを書いてきた。
しかし私は、大衆を弱い存在だとは思っていない。
むしろ逆である。
本当は、最も大きな力を持っている。
社会を支えているのは誰か。
毎日働く人々である。
税を納める人々である。
子どもを育てる人々である。
地域を守る人々である。
物をつくる人々である。
運ぶ人々である。
教える人々である。
介護する人々である。
農地を守る人々である。
海へ出る人々である。
道路を直す人々である。
店を開ける人々である。
國は、名も知られない無数の人々の働きで動いている。
政治家だけで國は動かない。
官僚だけでも動かない。
大企業だけでも動かない。
大衆が本気で考え、
本気で選び、
本気で動けば、
社会は変わる。
だからこそ、大衆意識の問題は重要なのである。
力がないから問題なのではない。
巨大な力を持っているのに、その力を自分で信じていないことが問題なのである。
一人ひとりは小さいが、決して無力ではない
大衆という言葉でまとめると、
人が一つの塊のように見える。
しかし実際には、
一人ひとりに人生がある。
一人ひとりに家族がいる。
一人ひとりに経験がある。
一人ひとりに判断力がある。
そして、一人ひとりに影響を与える範囲がある。
親が子どもに話す。
教師が生徒に話す。
経営者が社員に伝える。
職人が弟子に技を渡す。
地域の老人が昔の話をする。
若者が新しい方法を持ち込む。
一人の声が、何万人に届かなくてもいい。
目の前の一人に届けばいい。
その一人が、また次の一人に渡す。
社会は、こうしたつながりでできている。
だから、
「自分には影響力がない」
と簡単に決めつけてはいけない。
影響力とは、数字だけではない。
何万人のフォロワーがいるかではない。
一人の人生を変える言葉もある。
一つの地域を守る行動もある。
一つの文化を次へ渡す仕事もある。
小さくても、確かに未来へ続くものがある。
目覚めるとは、特別な人間になることではない
私は、「目覚める」という言葉を、
特別な力を持つことだとは思っていない。
人より上に立つことでもない。
不思議なものが見えることでもない。
社会の真相をすべて知ることでもない。
目覚めるとは、
自分の人生を他人任せにしないことである。
自分の國を他人事にしないことである。
自分の違和感を、自分で確かめることである。
分からないことを分からないままにせず、学ぶことである。
周囲がどう言うかだけで決めないことである。
そして、
自分にできる範囲で行動することである。
それだけでいい。
特別な英雄である必要はない。
完全な知識も必要ない。
ただ、眠ったまま流されない。
それが始まりだと思う。
少数の勇気は、多数の沈黙を破る
大勢が黙っている時、
最初に声を上げる人間には勇気がいる。
しかし、一人が言うと、
それまで黙っていた人の中から、
「自分もそう思っていた」
という声が出ることがある。
私は、この瞬間を大切にしたい。
多数の人は、本当は何も考えていないのではない。
考えている。
感じている。
違和感を持っている。
ただ、自分だけだと思っている。
だから黙る。
しかし、誰かが言葉にすると、
「あ、自分だけではなかった」
と気づく。
そこから空気が変わる。
これが、最初の一人の力である。
一人で全員を説得する必要はない。
眠っている人の中にあるものを、呼び起こせばいい。
そのためには、怒鳴るだけでは足りない。
根拠が必要である。
誠実さが必要である。
自分も行動している姿が必要である。
言葉と生き方がつながっている時、
その声は届く。
沈黙を破る者にも責任がある
ここで、大切なことを言いたい。
声を上げれば、それで正しいわけではない。
大きな声を出す者が、必ず正しいわけでもない。
沈黙を破る者にも責任がある。
事実を確かめる責任。
間違いがあれば訂正する責任。
人を不当に傷つけない責任。
感情だけで煽らない責任。
自分に都合の悪い事実も見る責任。
異論を聞く責任。
私は、この責任を忘れてはいけないと思っている。
声を持つことと、無責任に叫ぶことは違う。
本音を言うことと、他人を攻撃することも違う。
社会を良くしたいなら、
自分の言葉にも責任を持たなければならない。
ここを失えば、
沈黙の社会から、
罵声の社会へ移るだけである。
それでは、本当の意味で國は強くならない。
國を支えるのは、声の大きさではなく姿勢である
國を支える人とは、誰だろう。
有名な人だけではない。
肩書を持つ人だけでもない。
私は、
自分の場所で責任を果たす人だと思っている。
誰も見ていなくても仕事をする。
地域を掃除する。
祭りを手伝う。
子どもに言葉を渡す。
高齢者の話を聞く。
亡くなった人を忘れない。
困っている人を助ける。
不正を見れば、必要な形で伝える。
自分の利益だけでなく、次の世代を考える。
そういう人が國を支えている。
國の強さは、
大声を出す人の数だけでは測れない。
静かに責任を果たす人間が、どれだけいるか。
そこに、本当の強さがあると思う。
「誰かがやるだろう」という國から離れる
私たちは、何か問題が起きると、
誰かがやるだろうと思う。
行政がやる。
政治家がやる。
警察がやる。
先生がやる。
専門家がやる。
地域の役員がやる。
若い人がやる。
暇な人がやる。
しかし、その「誰か」とは誰なのだろう。
結局、その誰かも、
私たちと同じ一人の人間である。
誰かがやるという言葉は、
時に、自分がやらない理由になる。
もちろん、すべてを自分でやる必要はない。
役割分担は必要である。
専門家に任せることも必要である。
しかし、
任せることと、
丸投げすることは違う。
任せた後も関心を持つ。
説明を聞く。
結果を見る。
必要なら問い直す。
これが参加するということだと思う。
國を誰かに丸投げしてはいけない。
國とは、私たち自身が生きる場所だからである。
大衆が目覚める時、悪意は動きにくくなる
私は、完璧な社会を求めているわけではない。
不正が一件もない社会。
悪人が一人もいない社会。
間違いが一度も起きない社会。
そんなものは現実には存在しない。
しかし、
不正があれば問われる社会。
説明を求められる社会。
記録が残る社会。
国民が関心を持つ社会。
異論が許される社会。
間違いがあれば改める社会。
こうした社会はつくれる。
そのために必要なのは、
国民一人ひとりが、
「自分には関係ない」
という位置から少し動くことである。
全員が同じ意見になる必要はない。
むしろ、違う意見があっていい。
大切なのは、考えることである。
話すことである。
確かめることである。
そして、自分が選んだ結果に責任を持つことである。
大衆がこれを始めれば、
悪意ある者は動きにくくなる。
誰も見ていない場所が減るからである。
誰も問わない仕組みが減るからである。
美しい言葉だけでは通らなくなるからである。
「その先はどうなっているのか」
と問う人が増えるからである。
國を救う英雄を待ってはいけない
人は、危機の時に英雄を求める。
強い指導者。
すべてを変える政治家。
真実を語る人物。
自分たちを救ってくれる誰か。
その気持ちは分かる。
しかし、私は思う。
國を救う英雄を待ってはいけない。
なぜなら、英雄を待つということは、
自分たちは待つ側だと決めてしまうことだからである。
本当の國の力とは、
一人の英雄にすべてを預けることではない。
無数の人間が、
自分の場所で立っていることだと思う。
政治家は政治家の場所で立つ。
教師は学校で立つ。
親は家庭で立つ。
経営者は会社で立つ。
職人は現場で立つ。
若者は若者の場所で立つ。
高齢者は経験を次へ渡す。
それぞれが、
自分の役割を誰かに丸投げしない。
その國は強い。
英雄がいなくても立てるからである。
國を滅ぼすのは、悪人の数ではない
もう一度、最初の問いに戻りたい。
國を滅ぼすのは、悪人の数なのか。
私は違うと思う。
悪意ある者が百人いても、
百万人が考え、
見て、
問い、
動いていれば、
その悪意は簡単には広がらない。
逆に、
悪意ある者が少数でも、
何千万人が無関心なら、
その少数は大きな力を持つ。
だから、問題は悪人の人数ではない。
善良な人間が、
自分の力を使うかどうかである。
國を守るのは、
特別な人間だけではない。
普通の人々である。
日々働き、
家族を守り、
地域を支え、
未来を考える人々である。
その普通の人々が、
「自分には関係ない」
と言い始めた時、國は弱くなる。
その普通の人々が、
「自分にもできることがある」
と思い始めた時、國は変わる。
私は、そこに希望を見ている。
大衆とは、眠っている力である
私は、大衆という言葉を見下すために使っているのではない。
大衆とは、眠っている力である。
流されれば、
巨大な流れになる。
目覚めれば、
巨大な支えになる。
恐怖に流されれば、
分断を生む。
怒りに流されれば、
誰かを傷つける。
しかし、
考えることを始めれば、
社会を変える。
未来を想像すれば、
次代を守る。
自分の言葉を持てば、
沈黙を破る。
自分の場所で立てば、
次の一人を呼ぶ。
だから私は、大衆を諦めていない。
むしろ、最も大きな可能性を持つ存在だと思っている。
ただし、眠ったままではいけない。
誰かの言葉をそのまま受け取るのではなく、
自分で考える。
誰かに怒れと言われて怒るのではなく、
自分で事実を見る。
誰かに黙れと言われて黙るのではなく、
必要な時には自分の言葉を持つ。
その一人ひとりの目覚めが、國の未来を変える。
では、本音を言うとは何なのか
ここまで私は、
黙るな。
考えろ。
声を持て。
自分の場所で立て。
そう書いてきた。
しかし、ここで大切な問題がある。
本音を言えばいいのなら、
何を言ってもよいのか。
怒りをぶつければいいのか。
相手を罵倒してもいいのか。
自分と違う者を敵として扱ってもいいのか。
もちろん、そうではない。
本音を言うことと、
人を傷つけることは違う。
意見を持つことと、
憎悪を持つことも違う。
異論を述べることと、
相手の存在を否定することも違う。
私たちは、長く沈黙してきた反動で、
今度は怒鳴り合う社会へ進んではならない。
必要なのは、
沈黙から罵声へ移ることではない。
沈黙から対話へ進むことである。
本音を持ちながら、
相手を人として見る。
異論を述べながら、
事実を確かめる。
自分の考えを伝えながら、
相手の声も聞く。
そして、自分が間違っていれば改める。
そこに、本当の意思の疎通がある。
次章では、
本音を言うことと、
他者を攻撃することの違いを考えたい。
なぜ今の社会では、
「黙る」か「怒鳴る」かの二つに分かれやすいのか。
そして、
本音を失わず、
分断にも流されず、
異なる者同士が國をつくっていくためには、
何が必要なのか。
その問いに向き合いたい。
第七章 本音を言うとは、他人を攻撃することではない
ここまで私は、
黙るな。
考えろ。
自分の言葉を持て。
必要な時には声を上げろ。
そう書いてきた。
しかし、ここで大切なことを、はっきり言っておきたい。
本音を言うことは、何を言ってもよいという意味ではない。
相手を傷つけてよいということでもない。
怒りをそのままぶつければよいわけでもない。
自分と違う人間を敵と決めつけることでもない。
私は、沈黙する社会を危ういと思っている。
しかし同時に、
怒鳴り合う社会もまた危ういと思っている。
何も言えない社会。
何を言ってもよい社会。
どちらも健全ではない。
必要なのは、
沈黙から罵声へ移ることではない。
沈黙から対話へ進むことである。
本音を持ちながら、
相手を人として見る。
自分の意見を伝えながら、
相手の言葉も聞く。
必要なら反対する。
しかし、相手の存在そのものまでは否定しない。
私は、その力を取り戻すことが、今の日本にとって非常に重要だと思っている。
黙るか、怒鳴るか
現代社会を見ていると、
人々の意思表示が極端になっているように感じることがある。
普段は何も言わない。
我慢する。
合わせる。
表面上は笑う。
しかし、限界を超えると突然爆発する。
SNSでもそうである。
目の前では言わない。
直接は話さない。
しかし、画面の向こうでは強い言葉を投げる。
相手の人格を決めつける。
一つの発言だけで、その人間全体を裁く。
謝罪しても許さない。
過去を掘り返す。
皆で叩く。
これは、本音を取り戻した姿ではない。
ただ、長く抑え込んできた感情が、別の形で噴き出しているだけである。
本音とは、怒りそのものではない。
本音とは、自分の内側にあるものを見つめ、
何を感じ、
なぜそう思い、
何を大切にしたいのか。
それを自分の言葉で表すことである。
だから、本音を言うには、実は冷静さが必要になる。
感情のままでは、自分でも本当に何を言いたいのか分からなくなる。
怒りの奥には、
不安があるかもしれない。
悲しみがあるかもしれない。
失望があるかもしれない。
大切なものを守りたいという思いがあるかもしれない。
そこまで見なければ、本当の本音には届かない。
怒りは悪ではない
私は、怒りを悪い感情だとは思っていない。
怒りには意味がある。
理不尽を見た時。
誰かが傷つけられた時。
大切なものが壊されそうな時。
自分の尊厳が踏みにじられた時。
人は怒る。
その怒りが、
行動の力になることもある。
改革の力になることもある。
誰かを守る勇気になることもある。
だから、
「怒ってはいけない」
と感情そのものを封じることは違う。
しかし、
怒りに支配されてはいけない。
怒りは火のようなものだと思う。
火は暖を取る。
料理をする。
暗闇を照らす。
しかし、扱いを誤れば、すべてを焼く。
怒りも同じである。
怒りを持つことは悪くない。
しかし、
何のために怒っているのか。
その怒りをどこへ向けるのか。
何を変えたいのか。
そこを見なければならない。
ただ誰かを叩くだけなら、
怒りは社会を良くしない。
むしろ分断を深める。
怒りを持つなら、
その先に何をつくるのか。
そこまで考えなければならない。
本音と暴言は違う
よく、
「本音を言っただけだ」
という人がいる。
しかし、その言葉が、
単なる侮辱であることもある。
相手の人格を否定する。
属性で決めつける。
見下す。
嘲笑する。
傷つけることを目的にする。
それを、
「本音だから」
で正当化してはいけない。
本音とは、免罪符ではない。
自分の内側にあるものを何でも吐き出せばいいわけではない。
人は誰でも、
嫉妬も持つ。
偏見も持つ。
恐れも持つ。
思い込みも持つ。
誤解もする。
だから、自分の本音だからといって、
必ずしも正しいとは限らない。
本音を語ることと、
本音を絶対視することは違う。
自分はこう感じる。
私はこう考える。
その上で、
本当にそうなのか。
事実はどうなのか。
別の見方はないのか。
そこを確かめる。
私は、この姿勢が必要だと思っている。
自分の心に正直であることと、
自分の心を疑わないことは同じではない。
成熟とは、
自分の本音を持ちながら、
自分自身にも問いを向けられることである。
異論と差別を混同してはいけない
今の社会では、
意見の違いが、すぐに差別や敵意と結びつけられることがある。
もちろん、本当の差別はある。
人を属性だけで見下す。
機会を奪う。
尊厳を傷つける。
人として扱わない。
それは正さなければならない。
しかし、
制度への疑問。
政策への反対。
運用への批判。
文化や社会の変化への懸念。
これらすべてを、
差別という一つの言葉で封じてはいけない。
異論と差別は違う。
批判と憎悪も違う。
疑問を持つことと、
誰かの存在を否定することも違う。
この区別ができなくなれば、
対話は成立しない。
誰かが問題を提起する。
すると、
「差別だ」
と言う。
そこで議論は終わる。
問題の中身を見ない。
事実を確認しない。
なぜそう思ったのかも聞かない。
これでは、社会は成熟しない。
一方で、
「差別と言われるから何も言えない」
と言って、
暴言や偏見まで正当化することも違う。
必要なのは、
線引きを丁寧に見ることだと思う。
相手の存在を否定していないか。
属性だけで決めつけていないか。
事実に基づいているか。
制度や行動を論じているのか。
人間そのものを攻撃しているのか。
この違いを見る。
言葉は、強さだけでなく、正確さが必要である。
相手を黙らせても、問題は消えない
意見の違う人間を黙らせれば、
一時的には静かになる。
しかし、静かになったことと、
問題が解決したことは違う。
反対意見を排除する。
批判する人を遠ざける。
場から追い出す。
SNSで叩く。
見えなくする。
その結果、
自分の周囲には同じ意見の人しか残らない。
すると、
「皆が賛成している」
ように見える。
しかし、それは本当の合意ではない。
違う声が消えただけである。
この状態は危険である。
自分たちの間違いに気づけなくなるからだ。
人は、自分と同じ考えだけに囲まれると、
自分たちは正しいと思いやすい。
外にいる人間を理解しなくなる。
やがて、
相手は間違っているのではなく、
悪い人間なのだ。
そう考えるようになる。
そこから分断が深くなる。
私は、異論を持つ人がいること自体を恐れてはいけないと思う。
むしろ、
なぜそう考えるのか。
何を見ているのか。
何を恐れているのか。
そこを知ることが必要である。
納得できないこともあるだろう。
最後まで意見が一致しないこともある。
それでもいい。
対話とは、必ず同じ結論になることではない。
違うままでも、
相手が何を考えているのかを知る。
それだけでも価値がある。
対話とは、相手に負けることではない
日本人の中には、
議論を避ける人が多い。
一つには、
議論を勝ち負けだと思っているからではないか。
相手を言い負かす。
自分の正しさを証明する。
相手に負けない。
そう考えるから疲れる。
しかし、本当の対話は競技ではない。
相手を倒すことが目的ではない。
自分の考えを確かめる。
相手の見方を知る。
見落としに気づく。
よりよい道を探す。
そのために行う。
だから、
相手の意見を聞いて自分が考えを変えたとしても、
それは負けではない。
むしろ、学んだということである。
逆に、
明らかに間違いに気づいたのに、
「負けたくない」
という理由だけで意見を変えない。
その方が危険である。
國のことを考えるなら、
自分の面子よりも、
よりよい結果を選ばなければならない。
しかし現実には、
人は自分の意見を自分自身と同一化する。
意見を否定されると、
自分が否定されたように感じる。
だから怒る。
だから聞けない。
だから守る。
しかし、
意見は人間そのものではない。
人は考えを変えることができる。
成長することができる。
間違いを認めることもできる。
私は、それが強さだと思う。
相手の話を聞くことは、同意することではない
対話について語ると、
「相手の話を聞けと言うのか」
と反発する人もいる。
しかし、
聞くことと、同意することは違う。
理解することと、
受け入れることも違う。
相手の話を最後まで聞いても、
反対することはできる。
相手の立場を理解した上で、
それでも違うと言うこともできる。
むしろ、
本当に反対するなら、
相手が何を考えているのかを正確に知るべきである。
相手の言っていないことまで決めつけ、
勝手な像をつくり、
その像を攻撃する。
それでは、本当の議論にはならない。
今の社会では、
相手の言葉を短く切り取る。
一部だけを見る。
前後を見ない。
そして怒る。
そうしたことが多い。
しかし、人間の考えはそんなに単純ではない。
一つの発言だけで、
その人間のすべてを決めることはできない。
だから、
聞く。
確かめる。
文脈を見る。
私は、この基本的な姿勢を取り戻さなければならないと思っている。
言葉には、責任がある
言葉には力がある。
人を励ます。
人を救う。
人を立たせる。
しかし同時に、
人を傷つける。
誤解を生む。
憎しみを広げる。
だから、言葉を持つ者には責任がある。
これは、有名人だけではない。
誰にでもある。
SNSで一言を書く。
誰かの話を広める。
噂を伝える。
強い言葉を使う。
その一つ一つに影響がある。
私は、
言いたいことを言えない社会を望んでいない。
しかし、
何を言っても責任を負わなくてよい社会も望んでいない。
自由と責任は、対立するものではない。
自由があるからこそ、責任が必要になる。
自分の言葉が事実に基づいているか。
人を不当に傷つけていないか。
誤解を生む表現になっていないか。
間違いが分かった時に訂正できるか。
そこまで含めて、言葉を持つということだと思う。
匿名の怒りが社会を変えるのか
現代では、
匿名で怒りを表すことができる。
それ自体には意味がある。
立場上、名前を出せない人もいる。
内部告発のように、匿名性が必要な場合もある。
しかし、
誰かを傷つけるためだけの匿名の言葉もある。
責任を負わず、
相手の顔も見ず、
ただ罵倒する。
その言葉が、本当に社会を良くするのだろうか。
一時的な快感はあるかもしれない。
「言ってやった」
という満足感もある。
しかし、その後に何が残るのか。
相手も怒る。
さらに強い言葉を返す。
周囲も加わる。
そして、憎しみだけが増える。
何も変わらない。
私は、怒りを否定しているのではない。
その怒りを、
何に変えるのかを問いたい。
調べる力に変える。
話す力に変える。
地域で動く力に変える。
制度を変える提案に変える。
選挙へ行く力に変える。
誰かを助ける力に変える。
その時、怒りは社会を動かす力になる。
本音とは、自分に対しても嘘をつかないことである
本音を言うということは、
他人に向かって強いことを言うことだけではない。
むしろ最初は、
自分自身に対して正直になることだと思う。
本当は怖い。
本当は寂しい。
本当は羨ましい。
本当は怒っている。
本当は守りたい。
本当は変わりたい。
そこを自分で認める。
人は、自分の感情を見たくない時、
それを他人への攻撃に変えることがある。
自分の不満を、
社会のせいにする。
自分の恐れを、
誰かへの憎しみに変える。
自分の弱さを、
強い言葉で隠す。
だから、本音を語るには、
自分を見つめる必要がある。
私はなぜ怒っているのか。
本当に守りたいものは何なのか。
この言葉は誰のために言うのか。
自分の満足のためか。
誰かを傷つけたいだけなのか。
それとも、
未来を良くしたいのか。
この問いを持つことが、
本音を暴言にしないために必要だと思う。
國を愛することと、他國を憎むことは違う
國を大切にしたい。
日本の文化を守りたい。
土地を守りたい。
歴史を知りたい。
そう思うことは、
他國を憎むことと同じではない。
私は、ここをはっきり分けたい。
自分の家族を大切にするからといって、
他人の家族を憎む必要はない。
自分の故郷を愛するからといって、
他の土地を否定する必要もない。
自分の國を大切にするからといって、
他國の人々を見下す必要はない。
本当に自分のものを大切にしている人は、
他者が自分のものを大切にする気持ちも理解できるはずである。
問題は、
愛と憎しみを混同することである。
國を愛するとは、
誰かを排除することではない。
自分たちが何者かを知ること。
受け継いだものを大切にすること。
未来へ渡す責任を持つこと。
共に生きる人に、
守るべきルールを公平に求めること。
私は、そう考えている。
誰であるかではなく、何をするかを見る
人は、属性で判断すると楽である。
日本人だから。
外国人だから。
男だから。
女だから。
若いから。
高齢だから。
保守だから。
革新だから。
その一言で相手を分類できる。
しかし、人間はそんなに単純ではない。
日本人でも、社会を食い物にする者はいる。
外国から来た人でも、
地域を大切にし、
仕事をし、
税を納め、
日本社会を支える人もいる。
年齢だけで人は決まらない。
性別だけでも決まらない。
思想の看板だけでも決まらない。
だから私は、
誰であるかだけではなく、
何をしているかを見るべきだと思う。
ルールを守っているか。
責任を果たしているか。
他者を尊重しているか。
共同体へ何を返しているか。
言葉と行動が一致しているか。
そこを見る。
これは、差別を避けるためだけではない。
悪意を見抜くためにも必要である。
美しい肩書。
立派な所属。
正義の言葉。
それだけで人を判断しない。
行動を見る。
結果を見る。
私は、その姿勢が重要だと思っている。
正しいことを言う時ほど、品格が問われる
私は、
正しいと思うことを言う時ほど、
人間の品格が問われると思っている。
間違っている相手なら、
何を言ってもよい。
そうではない。
相手が間違っていると思うなら、
なおさら冷静に語る必要がある。
事実を示す。
理由を示す。
改善の道を示す。
そして、
相手が戻れる道を残す。
完全に追い詰めれば、
人はさらに頑なになる。
間違いを認めたら、
人格まで否定される。
そんな社会では、
誰も間違いを認めなくなる。
だから、
間違いを指摘することと、
人を再起不能にすることは違う。
私は、社会に必要なのは、
処刑ではなく修正だと思っている。
もちろん、
重大な責任を取るべきこともある。
法によって裁かれるべきこともある。
しかし、日常のすべてを断罪の場にしてはいけない。
國を立て直すには、
人が学び直し、
考え直し、
戻れる道も必要である。
「勝った」「負けた」で國はつくれない
政治や社会の議論が、
勝ち負けだけになると危険である。
相手を論破した。
言い負かした。
炎上させた。
謝罪させた。
それで何が変わったのか。
制度は良くなったのか。
人々は理解し合えたのか。
未来は良くなったのか。
そこが大切である。
議論に勝って、國が弱くなることもある。
言い負かして、分断が深くなることもある。
だから、
何のために語るのかを忘れてはいけない。
自分が正しいと証明するためか。
相手を負かすためか。
それとも、
よりよい未来をつくるためか。
目的が違えば、言葉の使い方も変わる。
私は、
社会を変える言葉には、
強さと同時に、
未来へつなぐ力が必要だと思っている。
対話には、勇気がいる
黙ることは、時に楽である。
怒鳴ることも、ある意味では楽である。
相手を敵と決めれば、
その人の話を聞かなくてよいからだ。
最も難しいのは、
違う意見を持つ相手と向き合うことである。
自分が傷つくかもしれない。
反論されるかもしれない。
自分の間違いに気づくかもしれない。
それでも聞く。
それでも話す。
対話には勇気がいる。
私は、
調和とは、この勇気の上に成り立つものだと思っている。
違いを消すのではない。
違いを持ったまま、
共に生きる道を探す。
これは簡単ではない。
だからこそ価値がある。
調和とは、相手に合わせることではない
調和という言葉も、
時に誤解される。
相手に合わせる。
自分を抑える。
波風を立てない。
しかし、それだけが調和ではない。
本当の調和には、
自分が必要である。
自分の軸。
自分の意思。
自分の役割。
それがあるから、
他者と響き合うことができる。
自分を消して合わせることは、
調和ではない。
依存や同調になることがある。
逆に、
自分だけを押し通すことも調和ではない。
必要なのは、
自分を持ち、
相手も認め、
その間に新しい道を見つけることである。
私は、これを國にも当てはめたい。
國が自分を失えば、
外から来るものすべてに流される。
國が自分だけを絶対視すれば、
閉ざされる。
必要なのは、
自分を知り、
他者から学び、
それでも軸を失わないことである。
人間も同じだと思う。
本音の先に、神結がある
私は、調和とは、
ただ争いがない状態ではないと思っている。
人と人。
過去と今。
今と未来。
土地と人。
異なる思い。
異なる立場。
それらが、それぞれの違いを持ちながら、
より大きな流れの中で結ばれていく。
その結びの中に、本当の調和がある。
私は、それを神結へ向かう道として見ている。
しかし、結ぶためには、
まず、それぞれが存在しなければならない。
自分を失った者同士は、
本当には結べない。
自分の声を持たない者同士は、
ただ流されるだけになる。
だから、
本音を持つ。
自分を知る。
相手を知る。
違いを認める。
そして、その上で結ぶ。
この順番が大切だと思う。
本音を消してつくる平和は、
いつか崩れる。
不満が残るからである。
違いを力で押さえた秩序も、
いつか崩れる。
恐れで成り立っているからである。
本当に強い結びとは、
違いを超えて生まれるものだと思っている。
語る者は、自分も問われている
ここまで私は、
日本社会について多くを語ってきた。
しかし、語る者自身もまた問われている。
自分は行動しているか。
自分は学んでいるか。
自分に都合の悪い事実も見ているか。
他人だけに厳しくなっていないか。
自分の間違いを認められるか。
私は、この問いから逃げてはいけないと思っている。
社会を語る者が、
自分だけを例外にしてはいけない。
國を語る者が、
自分の足元を疎かにしてはいけない。
未来を語る者が、
目の前の人を大切にできなければならない。
私は完璧ではない。
間違う。
見落とす。
感情的になることもある。
だからこそ、
問い続ける。
自分の言葉と行動は一致しているか。
自分が批判しているものと同じことをしていないか。
國を良くしたいと言いながら、
人を傷つけることを楽しんでいないか。
これは、常に自分に返ってくる問いである。
本音とは、國をつくるための言葉である
私が求めている本音は、
誰かを壊すための言葉ではない。
國をつくるための言葉である。
おかしいものは、おかしいと言う。
分からないものは、分からないと言う。
反対する時は、反対する。
しかし同時に、
どうすればよくなるのかを考える。
批判だけで終わらない。
壊すだけで終わらない。
次をつくる。
私は、その姿勢が必要だと思っている。
「で、どうするのか」
最後には、この問いへ戻らなければならない。
政治が悪い。
制度がおかしい。
大衆が流されている。
利権がある。
それを言うだけでは足りない。
では、自分はどうするのか。
何を学ぶのか。
何を伝えるのか。
何を守るのか。
どこで立つのか。
そこまで行って初めて、批判は未来へつながる。
沈黙ではなく、罵声でもなく
私たちは、
長い間、本音を言わないことを和だと思ってきた。
しかし、
その反動で、
怒鳴ることを本音だと勘違いしてはいけない。
必要なのは、
沈黙でもない。
罵声でもない。
意思の疎通である。
自分の心を見る。
事実を見る。
相手を見る。
未来を見る。
その上で、
自分の言葉を持つ。
私は、それが成熟した國民の姿だと思っている。
誰かに言われたから怒るのではない。
誰かに言われたから黙るのでもない。
自分で考える。
自分で決める。
必要なら話す。
必要なら聞く。
そして、
違う者同士であっても、
共に生きる道を探す。
それが本当の和ではないだろうか。
最後に残る問い
ここまで、
沈黙について考えてきた。
大衆意識について考えてきた。
善意を利用する構造について考えてきた。
國が静かに形を変える過程について考えてきた。
二百年後の日本について考えてきた。
そして、
本音を持つことと、
人を攻撃することの違いについて考えてきた。
最後に残る問いは一つである。
では、自分はどうするのか。
誰かが立つのを待つのか。
誰かが本音を言うのを待つのか。
誰かが國を守ってくれるのを待つのか。
その「誰か」とは、
一体誰なのか。
私は、この問いから逃げたくない。
大勢を動かすことができなくてもいい。
すべての人を説得できなくてもいい。
自分にできる場所で、
自分にできることをする。
一人に伝える。
一つを守る。
一つを調べる。
一つの疑問を口にする。
一つの祈りを未来へ渡す。
それでいい。
最初の「1」とは、
英雄になることではない。
自分に嘘をつかず、
自分の立つ場所で、
責任を引き受けることである。
次はいよいよ、この文章の結びである。
誰かを責めて終わるのではなく、
恐怖を煽って終わるのでもなく、
今を生きる一人ひとりへ問い返したい。
誰かが立つのを待つのか。
それとも、
自分が最初の「1」として立つのか。
終章では、
國を未来へ渡す者として、
今を生きる私たちに何ができるのか。
その最後の問いに向き合いたい。
終章 最初の「1」として立つ
ここまで、長い問いを重ねてきた。
なぜ私たちは、
おかしいと思いながら黙るのか。
なぜ、
「自分一人では何も変わらない」
と思うようになったのか。
なぜ、美しい言葉の陰にある構造を見ようとしないのか。
なぜ、小さな違和感を見過ごし、
未来の問題を、
「今は困っていないから」
という理由で先送りするのか。
そして、
二百年後の日本へ、
私たちは何を渡そうとしているのか。
この問いを突き詰めていくと、
最後には一つの場所へ戻ってくる。
では、自分はどうするのか。
結局、そこから逃げることはできない。
政治家が悪い。
制度が悪い。
時代が悪い。
社会が悪い。
確かに、責任を問うべきものはある。
改めるべき制度もある。
正さなければならない不正もある。
しかし、
それらをすべて指摘した後、
最後に残るのは、
自分自身の生き方である。
私は黙るのか。
私は流されるのか。
私は誰かが立つのを待つのか。
それとも、
自分にできる小さな場所から、
最初の「1」として立つのか。
この文章で、私はそのことを問いかけたかった。
誰かが立つのを待っている社会
私たちは、誰かを待つことに慣れている。
強い政治家。
勇気ある官僚。
正義感のある経営者。
真実を語る評論家。
國を守る英雄。
未来を変える指導者。
確かに、優れた人物は必要である。
決断する人間も必要である。
責任を負う立場の者には、
その責任を果たしてもらわなければならない。
しかし、
誰か一人の英雄によってしか立てない國は、
本当に強い國なのだろうか。
私は、そうは思わない。
強い國とは、
英雄が現れた時だけ動く國ではない。
普通の人間が、
普通の暮らしの中で、
自分の役割を知り、
自分の良心に従い、
自分のできる責任を果たしている國である。
誰か一人が皆を救うのではない。
一人ひとりが、
自分の場所を投げ出さない。
それが、國の本当の強さだと思う。
親が親として立つ。
教師が教師として立つ。
政治家が政治家として立つ。
経営者が経営者として立つ。
職人が職人として立つ。
地域の者が地域の者として立つ。
若者が未来を考える。
年長者が経験を次へ渡す。
誰もが同じことをする必要はない。
それぞれが、
それぞれの場所で立てばいい。
しかし、
誰かにすべてを預けてはいけない。
國を誰かに丸投げした時、
私たちは國民ではなく、
ただの利用者になってしまう。
國は、与えられるものではない
私たちは、
國を巨大な仕組みだと思っている。
政府があり、
法律があり、
行政があり、
税金を納めれば、
國は自然に動く。
確かに、制度として見ればそうである。
しかし、
國とは本当にそれだけだろうか。
朝、近所の人に挨拶する。
子どもが道を歩いている時、
地域の大人が目を配る。
祭りの準備をする。
荒れた場所を掃除する。
山や川を守る。
古い話を子どもへ伝える。
亡くなった人に手を合わせる。
困っている人に声をかける。
不正を見れば、
必要な形で問い直す。
選挙へ行く。
自分の仕事を誠実に行う。
私は、
こうした一つ一つも國だと思っている。
國は、
国会議事堂の中だけにあるのではない。
霞が関だけにあるのでもない。
私たちの暮らしの中にある。
だから、
國が悪くなったと嘆く時、
一度、自分の足元も見なければならない。
自分の家庭はどうか。
自分の仕事はどうか。
自分の地域はどうか。
自分は、受け取るだけになっていないか。
自分もまた、
國をつくる一人であることを忘れていないか。
この問いは、
自分を責めるためのものではない。
自分の力を思い出すための問いである。
最初の「1」は、大きくなくていい
最初の「1」と言うと、
何か大きなことをしなければならないように感じるかもしれない。
大勢の前で演説する。
組織をつくる。
政治に出る。
大きな運動を起こす。
もちろん、
それが自分の役割である人もいるだろう。
しかし、すべての人に必要なわけではない。
最初の「1」は、
もっと小さくていい。
家族の中で、
今まで避けてきた話をする。
一つの制度について、
自分で調べる。
投票へ行く。
地域の歴史を知る。
一度、祭りへ足を運ぶ。
墓参りへ行く。
子どもに、
なぜこの国にはこの習慣があるのかを話す。
誰かの意見をそのまま信じる前に、
一次資料を確かめる。
SNSで怒りを拡散する前に、
本当に正しいのかを調べる。
誰かが不当に扱われている時、
黙って見過ごさない。
自分が間違っていた時、
素直に改める。
そうした一つ一つが「1」である。
誰かに褒められる必要はない。
目立つ必要もない。
結果がすぐに出る必要もない。
最初の「1」とは、
大きさではない。
姿勢である。
私は、
それが最も大切だと思っている。
自分に嘘をつかない
この文章の題に、
「建前という名の嘘」
という言葉を置いた。
しかし、
私は建前そのものを否定したいのではない。
人間社会には配慮が必要である。
何でも思ったままに言えばいいわけではない。
言葉を選ぶこと。
相手を思いやること。
時に自分が引くこと。
それらは大切である。
しかし、
自分の良心まで黙らせてはいけない。
本当はおかしいと思っている。
しかし、
周りが言わないから自分も言わない。
本当は変えた方がいいと思っている。
しかし、
面倒だから誰かに任せる。
本当は不安を感じている。
しかし、
考えるのが怖いから、
大丈夫だと思い込む。
私は、
この自分自身への嘘が、
最も深いところで人を弱くすると思っている。
他人に嘘をつくことより前に、
自分の感覚を裏切り続ける。
その積み重ねによって、
人は自分の声を失っていく。
何が正しいのか分からなくなる。
何を守りたいのかも分からなくなる。
最後には、
誰かが言ったことを、
自分の考えだと思うようになる。
だから、
最初に必要なのは、
大声を出すことではない。
自分の心を確かめることである。
私は本当はどう思っているのか。
何を大切にしたいのか。
何を未来へ残したいのか。
何に違和感を持っているのか。
そして、
その違和感は事実に基づいているのか。
そこから始めればいい。
流されないとは、逆らい続けることではない
流されるなと言うと、
何にでも反対することだと受け取る人がいるかもしれない。
しかし、そうではない。
流されないとは、
常に逆方向へ行くことではない。
周りが右と言えば左へ行く。
皆が賛成すれば反対する。
それもまた、
周りに反応しているだけである。
自分で考えているとは限らない。
本当に必要なのは、
流れを見ることである。
この流れはどこから来たのか。
どこへ向かっているのか。
誰が利益を得るのか。
誰が負担するのか。
未来に何を残すのか。
その上で、
自分の判断を持つ。
流れが正しいと思えば共に進む。
違うと思えば立ち止まる。
必要なら反対する。
必要なら修正を求める。
私は、それが自立だと思っている。
何でも信じることでもない。
何でも疑うことでもない。
自分で確かめる。
自分で考える。
その力を持つことだ。
未来は、まだ決まっていない
この文章の中で、
二百年後の日本について何度も問いかけた。
日本語は残っているのか。
祭りは残っているのか。
祈る人はいるのか。
土地の記憶は残っているのか。
子どもたちは、
自分の國に静かな誇りを持てているのか。
私は、未来を悲観するためにこの問いを投げたのではない。
未来はまだ決まっていない。
だからこそ問うのである。
もし、未来がすでに決まっているなら、
考える意味はない。
何をしても変わらないなら、
書く意味もない。
しかし、私はそうは思わない。
未来は、
今を生きる者の選択によって変わる。
その選択は、
一つ一つは小さい。
しかし、
小さな選択が重なって時代になる。
一人の選択が、
家族へ渡る。
家族の選択が、
地域へ広がる。
地域の積み重ねが、
國の姿になる。
だから、
未来は遠くにあるのではない。
今日の中にある。
今、何を選ぶか。
今、何を黙認するか。
今、何を守るか。
今、何を子どもへ渡すか。
その中に未来がある。
二百年後の人に、言い訳はできない
二百年後の人々に、
私たちは直接会うことができない。
だから、
言い訳もできない。
忙しかった。
生活が大変だった。
政治のことは難しかった。
自分一人では無理だと思った。
周りも黙っていた。
皆がそうしていた。
その言葉を、
未来の人々へ直接届けることはできない。
残るのは結果だけである。
守ったもの。
失ったもの。
残した制度。
放置した問題。
渡した文化。
途切れさせた記憶。
未来の人々は、
私たちの事情ではなく、
私たちが何を残したかの中で生きる。
このことを考えると、
今という時間の見え方が変わる。
私たちにとっての「現在」は、
未来から見れば「過去」である。
私たちは今、
歴史の中を生きている。
そして、
その歴史をつくっている。
これは大げさな話ではない。
誰もが、
自分の場所で歴史の一部になっている。
先祖から受け取り、未来へ返す
私たちは、
祖先から多くのものを受け取っている。
言葉。
土地。
文化。
知恵。
祭り。
祈り。
技術。
家族の記憶。
國という枠組み。
もちろん、
すべてが美しかったわけではない。
過ちもあった。
争いもあった。
差別もあった。
失敗もあった。
だから、
そのまま全部を残せばいいのではない。
受け継ぐとは、
過去を盲目的に肯定することではない。
何を残すかを選ぶことである。
何を改めるかを考えることである。
何を学び、
何を次へ渡すのか。
その判断を引き受けることである。
私は、
今を生きる私たちは、
過去と未来の間に立つ者だと思っている。
後ろには、
無数の先人がいる。
前には、
まだ生まれていない人々がいる。
その真ん中に、
今の私たちが立っている。
受け取るだけではない。
渡さなければならない。
そして、
何を渡すかを決めるのは、
今を生きる私たちである。
國とは、記憶と責任の結びである
私は、
國とは何だろうと考える。
土地だけではない。
政府だけでもない。
制度だけでもない。
國とは、
人と土地の結び。
人と人の結び。
過去と今の結び。
今と未来の結び。
そうした無数の結びの上に成り立っているのではないか。
人が土地を忘れる。
人が先人を忘れる。
人が未来への責任を忘れる。
人と人が互いを敵としてしか見なくなる。
そうした時、
國は形を残しながらも、
内側から弱っていく。
逆に、
人が土地を知る。
歴史を知る。
違う者同士で話す。
過去へ手を合わせる。
未来を思う。
自分の場所で責任を果たす。
その一つ一つの結びが、
國を立て直す力になる。
私は、
國とは大きな建物のようなものではなく、
無数の結びによって立つものだと思っている。
だから、
一つの結びを守ることにも意味がある。
一つの家族を守る。
一つの地域を守る。
一つの祭りを守る。
一つの記憶を残す。
一人と本音で語る。
一人の子どもへ伝える。
その行為が、
大きな國と無関係だと思ってはいけない。
國は、
そうした小さな結びの集合だからである。
「和」を取り戻す
最初に、
私は「和」と「沈黙」を履き違えていないかと問うた。
今、もう一度そこへ戻りたい。
和とは、
皆が黙ることではない。
和とは、
強い者へ従うことでもない。
和とは、
異論を消すことでもない。
本当の和とは、
異なる者が、
異なるままに向き合い、
それでも一つの道を探すことではないだろうか。
そのためには、
自分が必要である。
自分の声が必要である。
相手の声を聞く力も必要である。
そして、
互いに変わる勇気が必要である。
私は、
和を弱さの言葉にしたくない。
調和を迎合の言葉にもしたくない。
本当の和には、
強さがある。
自分を持つ強さ。
相手を認める強さ。
違いに向き合う強さ。
間違いを改める強さ。
未来のために、
今の自分が少し損を引き受ける強さ。
私は、
その強さを取り戻したいと思っている。
誰かを敵にしなければ立てない國は弱い
國を守るために、
誰かを憎まなければならない。
誰かを排除しなければならない。
誰かを敵として固定しなければならない。
私は、そうは思わない。
もちろん、
守るべき境界はある。
ルールも必要である。
不正には毅然と向き合わなければならない。
國の利益を守る必要もある。
しかし、
國を愛することと、
他者を憎むことは違う。
自分の家を大切にすることと、
隣の家を壊すことは違う。
自分を持つことと、
他者を否定することも違う。
本当に強い國とは、
自分たちの文化に自信を持ち、
守るべきものを知り、
必要なルールを公平に運用し、
その上で他者とも向き合える國だと思う。
自分に自信がないから、
他者を恐れる。
自分を知らないから、
何でも受け入れるか、
何でも拒むかの極端になる。
だからこそ、
自分たちが何者かを知る必要がある。
歴史を知る。
文化を知る。
過ちも知る。
誇りも知る。
その上で未来を選ぶ。
私は、それが國の自立だと思う。
恐怖ではなく、責任から立つ
この文章には、
危機への問いがある。
このままでいいのか。
二百年後、日本はまだ日本であるのか。
しかし私は、
恐怖だけで人を動かしたいわけではない。
恐怖だけで動いた人は、
別の恐怖が現れれば、
またそちらへ流される。
本当に必要なのは、
責任である。
怖いから守るのではない。
大切だから守る。
奪われるのが怖いからではない。
未来へ渡したいから残す。
誰かを憎むからではない。
自分たちの役割を知っているから立つ。
私は、
この違いが大切だと思っている。
恐怖から立つ者は、
敵を必要とする。
責任から立つ者は、
未来を見る。
私は、後者でありたい。
私は、私の場所で立つ
私は、
すべてを変えられるとは思っていない。
すべての人に理解されるとも思っていない。
自分が正しい答えをすべて持っているとも思っていない。
私も間違う。
迷う。
考えが変わることもある。
それでも、
自分の場所で立つことはできる。
自分が大切だと思うものを守る。
自分が受け取ったものを次へ渡す。
忘れられた場所へ行く。
名を失った者に手を合わせる。
歴史の中に埋もれた声へ耳を向ける。
土地を鎮める。
人と人を結ぶ。
過去と今を結ぶ。
そして、
未来へ道を渡す。
それが私の役割であるなら、
私はそこに立ちたいと思う。
大きな声で、
自分が正しいと叫ぶためではない。
誰かを従わせるためでもない。
ただ、
自分が受け取ったものに対して、
自分なりの責任を果たすために。
あなたは、どこで立つのか
ここまで読んでくださった人へ、
最後に問いかけたい。
あなたに、
大きなことをしてほしいと言っているのではない。
政治家になれとも言わない。
活動家になれとも言わない。
誰かと戦えとも言わない。
ただ、
一度、自分に問うてほしい。
私は、
何を大切にしているのか。
何を未来へ残したいのか。
何に違和感を持っているのか。
その違和感を、
自分で確かめたことがあるか。
誰かの意見を、
自分の考えだと思い込んでいないか。
本当は言うべきことを、
恐れから黙っていないか。
誰かがやるだろうと、
自分の役割を預けていないか。
そして、
自分には何ができるのか。
大きな答えでなくていい。
小さくていい。
一つでいい。
あなたの場所で、
あなたができる「1」は何だろう。
200年後の日本人へ
私は、
二百年後の人々に会うことはできない。
その人たちが、
どんな國に生きているのかも分からない。
しかし、願うことはできる。
二百年後にも、
日本語で笑う子どもがいてほしい。
自分の故郷の名を、
誇らしく語る人がいてほしい。
祭りの日に、
世代を越えて人が集まっていてほしい。
神社で静かに手を合わせる人がいてほしい。
山を見て、
ただの資源ではなく、
畏れと恵みを感じる人がいてほしい。
亡き人を忘れず、
先人へ感謝し、
未来へ責任を持つ人がいてほしい。
異なる意見を持つ者同士が、
怒鳴り合うのでもなく、
黙り込むのでもなく、
言葉を交わせる國であってほしい。
強さと優しさを、
対立するものとしてではなく、
共に持てる國であってほしい。
そして、
その時代の人々が、
今の私たちの時代を振り返った時、
こう思ってくれたなら、
私は嬉しい。
あの時代にも、
流されなかった人がいた。
諦めなかった人がいた。
小さくても守った人がいた。
誰かを憎むのではなく、
未来を思って立った人がいた。
その人たちがいたから、
今の私たちがいる。
そう思ってもらえる未来を、
私は願っている。
最初の「1」として
國は、
誰か一人のものではない。
政治家だけのものでもない。
権力を持つ者だけのものでもない。
今を生きる私たちのものであり、
過去から受け取り、
未来へ渡すものである。
だから、
私は待たない。
誰かが言ってくれるのを待たない。
誰かが立つのを待たない。
誰かが國を守ってくれるのを待たない。
もちろん、
自分一人ですべてができるとは思わない。
だからこそ、
自分の場所で立つ。
一つを守る。
一人に伝える。
一つを調べる。
一つの違和感から目を背けない。
一つの祈りを未来へ渡す。
その小さな「1」を、
私は軽く見ない。
大きな流れも、
始まりは小さい。
國の衰退も、
小さな無関心から始まる。
ならば、
國の再生もまた、
小さな目覚めから始まるはずである。
誰かが変えてくれるのではない。
未来は、
無数の「私」がつくる。
だから私は、
私の立つ場所で、
最初の「1」として立つ。
二百年後の日本へ、
何を渡すのか。
その答えは、
未来にあるのではない。
今、
私たちがどう生きるのか。
その中にある。
倭呼吸塾 河瀬昌良


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