- 古代から明治まで、日本を動かした琵琶湖水運と巨大物流圏
- 序章 なぜ近江は日本史の中心に現れ続けるのか
- 第一章 都とは「生産地」ではなく「集積地」である
- 第二章 近江は五方向へ開かれていた
- 第三章 琵琶湖という巨大な内陸物流装置
- 第四章 港はなぜそこに生まれたのか――内湖・入江・河口
- 第五章 「積み替え」が富を生んだ――近江は通過地ではなく物流拠点だった
- 第六章 難波と敦賀――古代国家を支えた二つの海の玄関
- 第七章 都は何を求めて移動したのか――大和・難波・近江・山城
- 第八章 大津は琵琶湖の終点ではなかった――湖上物流から山城・難波へ
- 第九章 街道が琵琶湖へ集まった――水路と陸路がつくった近江の交通網
- 古代近江には三つの主要官道が通っていた
- 東の大動脈――不破・関ヶ原から近江へ
- 朝妻湊が示す「街道と港」の結合
- 関ヶ原の先には美濃、そして岐阜・濃尾平野がある
- 北へ分かれる道――北国街道
- 木之本は北陸・東海・近畿の交差点だった
- 関ヶ原から湖北へ直接入る道もあった
- 西岸――若狭へ向かう道は一本ではなかった
- 小浜から今津へ――九里半街道
- 朽木を通る若狭街道――琵琶湖を使わない選択肢
- 湖西を縦断した北陸道
- 高島では川も物流路になった
- 南東――鈴鹿峠と東海道
- 草津――二つの東国路が重なる場所
- 瀬田唐橋――湖の出口を押さえる場所
- 逢坂――最後の関門
- 道路と湖上交通は競争していたのではない
- 街道が港を生かし、港が街道を生かした
- 現代の交通網にも残る古い地形の力
- 近江は「交差点」よりさらに複雑だった
- 第十章 近江・山城・難波・美濃を結ぶ巨大物流圏
- 第十一章 城は水を背負っていた――内湖を利用した水運城郭と、水路を用いた水運城郭都市
- 第十二章 信長・秀吉はなぜ近江を押さえたのか――熱田・岐阜・安土・長浜・大坂
- 信長は海運を知らない内陸武将ではなかった
- 織田氏と熱田は無関係ではなかった
- 熱田から清洲――「湊と政治拠点」という構造
- 岐阜――東西回廊を押さえる
- 近江を押さえなければ、岐阜と京都はつながらない
- 岐阜から安土へ――拠点の重心が変わった
- 安土は「京都を監視する城」だけではなかった
- 熱田と安土――共通するのは「港を持つ城」ではない
- 秀吉の出発点としての長浜
- 秀吉は小谷から湖岸へ下りた
- 長浜では城だけでなく「町」を造った
- 長浜湊は城下町の外港だった
- 長浜の経験と大坂を直接結びつけられるか
- 大坂――なぜ秀吉はここを選んだのか
- 秀吉は「水のある場所」を利用しただけではない
- 大坂を「最終集積地」と見る
- 信長の安土と秀吉の大坂は何が違うのか
- 熱田・岐阜・安土・長浜・大坂を一本につなぐと何が見えるか
- 天下統一とは「物流圏をつなぐこと」でもあった
- 信長・秀吉は交通を支配したから天下人になったのか
- 第十三章 城郭から水運都市へ――長浜と近江八幡
- 第十四章 平時の交通路は、戦時には軍事回廊となる――壬申の乱から関ヶ原へ
- 壬申の乱――大海人皇子は不破を押さえた
- 不破を押さえることは、東国と近江の間を押さえることだった
- 壬申の乱の後、不破関が置かれた
- 不破は「入口」、瀬田は「最後の絞り口」だった
- なぜ橋が戦場になるのか
- 軍勢は道路だけでは動かない
- 関ヶ原は壬申の乱だけの舞台ではなかった
- 戦国時代の近江も同じ構造の上にあった
- 佐和山は八か月にわたって抵抗した
- そして石田三成が佐和山へ入る
- なぜ関ヶ原だったのか
- 一六〇〇年の軍勢も街道の上を動いた
- 関ヶ原の戦いの直後、佐和山も攻撃された
- 六七二年と一六〇〇年は同じ戦争ではない
- 変わらなかったのは「戦争」ではなく「地形」である
- 交通の要衝は、同時に危険な土地でもある
- 平時の経済力は、戦時の軍事力へ変換できる
- 不破と瀬田――二つの門
- 戦争が終われば、再び人と物が通り始める
- 近江の軍事史は、交通史の裏面である
- 第十五章 物資が集まる場所には人と情報も集まる――近江は「情報の交差点」でもあった
- 古代大津は「文物と情報の集積地」でもあった
- 情報は「紙」だけで運ばれたのではない
- 大津宿は巨大な「人の交差点」でもあった
- 犬上氏――近江から国家外交の最前線へ
- 外交使節とは「情報を持ち帰る者」でもある
- 近江の人材は外交の外へも出ていた
- 海外情報は難波だけから入ったわけではない
- 比叡山は宗教だけでなく巨大な人的ネットワークを持った
- 坂本では宗教・物流・金融が重なった
- 寺社ネットワークは現在の県境を越える
- 商人にとって「情報」は商品と同じくらい重要だった
- 近江商人は「地域差」を利益へ変えた
- 情報の速さは「距離」だけでは決まらない
- 情報が集まる場所を押さえることは政治力になる
- 関所は「物」だけを見ていたのではない
- 琵琶湖は巨大な「情報水路」でもあったのではないか
- 物流拠点には「見る人」が集まる
- 「近江を制する」ことは情報回廊を押さえることでもあった
- 近江の強さは「物」だけでは測れない
- 第十六章 近江の地域力――農業・水・森林・寺社・名族
- 近江は「通り道」である以前に米どころだった
- 近江は都へ食料を送る側でもあった
- 琵琶湖があるから水田が簡単に造れた、ではない
- 近江全体が一つの流域になっている
- 米だけではない――水田と湖は食料生産でもつながっていた
- 山もまた近江を支えていた
- 森林は「資源」であると同時に水源だった
- 交通拠点が成立するには「食べさせる力」が必要だった
- 寺社は「信仰の場所」だけではなかった
- 比叡山は巨大な宗教都市であると同時に経済主体だった
- 湖東の寺院も大規模な地域拠点だった
- 寺社が多いということは「蓄積」があるということでもある
- 名族が生まれた土地
- 犬上氏――地域豪族から国家外交へ
- 息長氏――坂田の地に根を張った古代豪族
- 佐々木氏――中世近江を長く支配した武家
- 名族は交通だけでは育たない
- 生産地と交通地が同じ場所に存在した
- 近江の本当の強さは「自給」と「接続」の両立にあった
- だから近江には人が集まった
- 寺社と名族も「余剰」の上に成立する
- 「近江を制する」とは生産基盤まで手にすることだった
- 近江は「巨大な倉庫」ではなく「巨大な生産物流圏」だった
- では、近江の「実力」はどれほどだったのか
- 第十七章 数字で検証する近江の実力――生産力・人口・石高・交通密度
- 古代から近江は「大国」だった
- 近江は12郡からなる地域だった
- 国土の約6分の1を琵琶湖が占める
- 現在でも農地の93.1%が水田である
- 近世の近江は85万石規模だった
- 近江は「広さ」ではなく「密度」で強かった
- 人口では全国15位だった
- 石高は「実際に取れた米の量」ではない
- 生産力は1か所だけに集中していなかった
- 石高だけでは測れない――「物流力」という経済指標
- 琵琶湖には1,000艘を超える丸子船が活動した
- 85万石と1,000艘の船が同じ地域にあった
- 大津百艘船――物流そのものが「権利」になった
- 1,000艘の船は1つの港では成立しない
- 長浜には95業種、434人の経営者がいた
- 「船が多い」だけでは物流圏とは呼べない
- 人口15位、石高6位、そして巨大な輸送能力
- 人口が多いだけでは地域力にならない
- 近江の実力は「密度」にあった
- 現代でいう「物流ハブ」に近い機能
- 数字は「近江が日本最強だった」とは言っていない
- 「近江を制する者は天下を制す」を数字から読み直す
- 近江の強さは「生産量」ではなく「変換能力」にあった
- そして、この構造を一変させるものが現れる
- 第十八章 鉄道は千年の物流構造をどう変えたのか――「積み替えの近江」から「通過する近江」へ
- しかし最初の鉄道は、琵琶湖を不要にはしなかった
- 鉄道が来ても「積み替え」はむしろ強化された
- 太湖汽船――鉄道時代だからこそ生まれた湖上交通
- 長浜港まで鉄道に合わせて造り替えられた
- 古代の塩津と明治の長浜には共通点がある
- 長浜は一時、「北陸・東海・京阪を結ぶ結節点」になった
- ところが、その繁栄はわずか数年で崩れる
- 近江を豊かにした「積み替え」が、弱点へ変わった
- 長浜の衰退は驚くほど急激だった
- 米原という新しい結節点が生まれる
- それでも米原が選ばれた場所は偶然ではない
- 鉄道は近江の重要性を消したのではない
- 鉄道は「物流距離」をさらに縮めた
- 「通過地化」という新しい問題
- しかし湖上交通は一夜にして消滅したわけではない
- 琵琶湖は「幹線」から「地域交通」へ役割を変えた
- そして二十世紀、湖西にも鉄道が通る
- 技術は変わっても「五方向へ開く近江」は変わらなかった
- 千年の物流構造は「消えた」のではなく「組み替えられた」
- 「積み替えの富」から「接続の富」へ
- 近江の地理的優位は、鉄道によって完全には消せなかった
- 交通革命が証明したもの
- 「近江を制する者は天下を制す」の時代は終わったのか
- 千年以上続いたものは「船」ではなかった
- 近江は鉄道によって敗北したのではない
- 琵琶湖は「湖」ではなく交通空間だった
- 近江は五方向へ開かれていた
- 「積み替え」が近江を豊かにした
- 大津は終点ではなかった
- 敦賀と難波――二つの海の間に近江があった
- 都は物流から自由ではなかった
- 城は交通路の上に築かれていた
- 信長・秀吉は近江で「交通の力」を利用した
- 平時の道が戦時には軍事回廊となった
- 物が集まれば、人と情報も集まる
- しかし近江は「物流だけ」の国ではなかった
- 八十五万石と千艘の船が同じ場所にあった
- 明治の鉄道が近江の本質を逆に証明した
- 変わらなかったものは「道」ではなく地形だった
- では「近江を制する者は天下を制す」は成立するのか
- 近江は「通り道」ではなかった
- 近江を中心に日本を見る
- 湖は動かない。しかし歴史を動かした
- 者コラム 近江に立つと、歴史は「地図」ではなくなる
- 一 基礎史料・一次史料
- 二 古代都城・交通に関する研究資料
- 三 近江大津宮・大津・坂本関係
- 四 琵琶湖・内湖・港湾・城郭関係
- 五 湖北・湖東・街道関係
- 六 敦賀・難波・広域水運関係
- 七 近代交通・鉄道・汽船関係
- 八 統計・自然環境・農業関係資料
- 九 石高・人口・地域経済関係
- 十 本稿における史料利用上の方針
古代から明治まで、日本を動かした琵琶湖水運と巨大物流圏
序章 なぜ近江は日本史の中心に現れ続けるのか
日本史を眺めていると、近江という土地は不思議なほど繰り返し重要な場面に現れる。
古代には大津宮が置かれ、壬申の乱では近江朝廷をめぐって大規模な戦いが起こった。中世には延暦寺や園城寺をはじめとする巨大寺社勢力が存在し、佐々木氏、六角氏、京極氏などの有力勢力がこの地を基盤とした。戦国時代になると、織田信長は安土を天下統一の拠点とし、羽柴秀吉は長浜からその勢力を伸ばした。さらに近江八幡、佐和山、彦根と、時代が変わっても政治・軍事・商業の重要拠点が琵琶湖周辺に置かれ続ける。
なぜであろうか。
京都に近かったから、と説明することはできる。
しかし、それだけでは十分ではない。
近江の本当の特徴は、京都への近さではなく、日本列島の複数の巨大交通圏が交差する場所に位置していたことにある。
北には敦賀がある。
敦賀湾は日本海へ開き、北陸方面と畿内を結ぶ重要な入口となった。その敦賀から山を越えれば湖北へ入り、塩津などを通じて琵琶湖水運へ接続することができる。
西には若狭・小浜がある。
小浜から熊川方面を経て近江へ入る道、あるいは朽木を経て山城へ向かう道など、若狭と近江を結ぶ複数の交通路が存在した。日本海側から畿内へ至る道は、敦賀一本ではなかったのである。
東には関ヶ原がある。
米原から醒井、柏原を経て不破・関ヶ原を越えれば、美濃へ出る。さらに岐阜、濃尾平野へ進めば、尾張そして東国へつながっていく。
南東には鈴鹿山脈があり、その峠を越えれば伊勢方面へ出ることができる。
そして南には大津がある。
琵琶湖を南下した物資や人は、大津周辺から山城へ入り、京都盆地へと向かう。さらに時代によって交通形態は異なるものの、宇治川・淀川水系を介して難波・大坂方面へとつながる。
近江を中心に置いてみれば、
北の敦賀、
西の小浜、
東の関ヶ原・岐阜、
南の山城・難波、
南東の鈴鹿・伊勢。
これらの交通方向が、琵琶湖周辺に集中していることが分かる。
近江は一方向へ人や物が通過する「道」ではなかった。
むしろ、複数の道が集まり、そこで物資が積み替えられ、保管され、再び別の方向へ送り出される交通の交差点であったと見るべきである。
琵琶湖は「湖」ではなく巨大な輸送空間であった
現代人にとって琵琶湖は、巨大な湖であり、観光や水資源のイメージが強い。
しかし、鉄道も自動車も存在しなかった時代において、その意味はまったく異なる。
大量の米、塩、魚介類、木材、鉄、布、武器、生活物資を陸路だけで運ぶことには大きな負担が伴う。
人や馬が運べる重量には限界があり、道路状況や峠越えにも左右される。
一方、船舶は一度に大量の物資を運ぶことができる。
その意味で琵琶湖は、近江の中央に横たわる障害物ではなかった。
むしろ、湖北・湖東・湖西・湖南を結びつける巨大な内陸輸送空間であった。
しかも琵琶湖の価値は、湖の内部だけで完結するものではない。
北には敦賀・若狭があり、東には美濃、西には山城、南東には伊勢がある。
つまり琵琶湖は、周囲から集まってくる陸上交通を受け止め、それを湖上輸送へ転換し、再び別の陸路や河川交通へ送り出す場所でもあった。
ここに近江の本質がある。
近江は「通過地」ではなく「変換地」であった
本稿では、近江を単なる交通の要衝としてだけではなく、もう一段踏み込んで考える。
重要なのは、積み替えである。
敦賀から運ばれた物資が、そのまま同じ船で京都まで届くわけではない。
日本海の船、琵琶湖の船、河川を航行する船、そして陸上輸送には、それぞれ異なる条件がある。
したがって、物流の途中では輸送手段を変更しなければならない。
物資を船から降ろす。
一時的に倉庫へ保管する。
荷を組み替える。
馬や人夫を確保する。
別の船へ積み直す。
そして次の目的地へ送り出す。
この作業が発生する場所には、当然ながら人が集まる。
船頭、荷役人、馬借、商人、宿泊施設、役人、倉庫、市場が必要になる。
物流が通過するだけなら、利益の多くはその土地に残らない。
しかし、そこで物資が止まり、積み替えられ、再配分されるなら、その地点そのものに経済価値が生まれる。
近江の重要性を考えるうえで、これは極めて重要な視点である。
すなわち近江とは、単なる「道」ではなく、物資の流れを変換する物流拠点の集合体だったのではないか。
都の成立を「物流」から考え直す
この視点に立つと、都の見え方も変わってくる。
大都市は、その都市の内部だけで食料や資材を生産して成立しているわけではない。
人口が増えれば増えるほど、外部から大量の物資を運び込まなければならない。
宮殿を造営するにも木材や石材がいる。
軍隊を維持するにも食料、馬、武器が必要になる。
寺院を建てるにも莫大な資材と労働力がいる。
つまり、政治中枢とは同時に巨大な消費地でもある。
そのため都の立地を考える際には、政治的理由だけでなく、
どこから物資を集められるのか。
どの程度の量を運べるのか。
どこで積み替えるのか。
そして、どの方向へ再配分できるのか。
という物流の視点が必要になる。
ここで難波の存在も重要になる。
古代の難波は、瀬戸内海を通じて西日本や大陸方面へ開く海上交通の玄関であった。
一方、敦賀は日本海へ開く北方の玄関であった。
その敦賀と畿内中枢をつなぐ位置に、近江と琵琶湖がある。
つまり古代国家の交通体系を大きく見るなら、
西・南西の海の玄関としての難波、
北の海の玄関としての敦賀、
その間に位置する大和・山城、
そして北方交通を畿内へ接続する近江。
という構造が見えてくる。
本稿では、この構造を古代から近世、さらに明治まで追っていく。
なぜ信長は安土を選び、秀吉は大坂へ向かったのか
この問題は戦国時代にもつながる。
織田信長は、なぜ安土に巨大な城郭を築いたのであろうか。
京都に近いことだけでは説明しきれない。
安土の周囲には、現在とは大きく異なる水辺環境が存在し、大中の湖をはじめとする内湖群が琵琶湖水運とつながっていた。
信長が育った尾張にも、伊勢湾に開く熱田湊が存在した。
清洲という内陸政治拠点と熱田という水運・商業拠点が近接する地域環境を信長は経験している。
もちろん、それを直接安土選定の理由と断定することはできない。
しかし、安土城の立地を考える際に、信長が水運と市場の価値を知り得る環境の中で成長したことは、比較の対象となり得る。
秀吉の場合はさらに興味深い。
秀吉は長浜を拠点とし、琵琶湖水運と城下町形成を経験した後、天下統一の過程で大坂へと政治・軍事・経済の巨大拠点を築いていく。
大坂は瀬戸内海に開き、淀川水系を通じて京都方面とも結ばれる。
その立地は軍事拠点であると同時に、各地から集まった物資を蓄積し、取引し、再配分できる場所でもあった。
本稿では、信長と秀吉の拠点選択についても、政治史だけではなく物流の経験と水運の構造から検討する。
「近江を制する者は天下を制す」を地理から検証する
本稿の題名に掲げる、
「近江を制する者は天下を制す」
という言葉は、特定の史料に記された歴史上の格言として扱うものではない。
これは本稿が検証する命題である。
近江を押さえるということは、単に一国を領有することを意味しない。
北へ向かえば敦賀。
西へ向かえば若狭・小浜。
東へ向かえば不破・関ヶ原を経て美濃・岐阜。
南へ向かえば山城、そして難波・大坂。
南東へ向かえば鈴鹿を越えて伊勢。
そして、その中央には琵琶湖が存在する。
この交通構造を支配する者は、物資の流れを見ることができる。
人の移動を押さえることができる。
情報の流れにも接触できる。
そして戦争になれば、同じ道路、同じ港、同じ峠を軍隊が通る。
平時の物流路は、そのまま戦時の兵站路となるのである。
壬申の乱で不破・瀬田周辺が重要となり、戦国期に近江が繰り返し争奪され、安土・佐和山・彦根と重要拠点が移り、さらに関ヶ原で天下を分ける大戦が起こったことも、個々の事件として切り離すだけでは十分ではない。
その背後には、時代を越えて変わりにくい地形と交通の構造が存在した可能性がある。
近江の歴史とは、琵琶湖の歴史だけではない。
敦賀、小浜、岐阜、伊勢、山城、難波を結びつける広域交通史でもある。
本稿では、古代の都城と国家物流から、内湖と港、街道、城郭、都市形成、信長・秀吉の交通戦略、近江商業圏、そして明治の鉄道革命までをたどる。
その過程から見えてくるのは、近江が「京都への通り道」であったという姿ではない。
人・物・情報が集まり、止まり、積み替えられ、再び列島各地へ動き出す場所。
それこそが、本稿で明らかにしていく近江のもう一つの姿である。
第一章 都とは「生産地」ではなく「集積地」である
古代の都を考えるとき、私たちはしばしば、その土地がどれほど豊かであったかという視点から立地条件を考える。
平野が広いか。
水が豊富か。
米がどれほど収穫できるか。
もちろん、これらは重要である。
しかし、本稿ではもう一つ別の視点を重視したい。
都にとって本当に重要なのは、自らどれだけ生産できるかだけではなく、外部からどれだけ大量の物資を継続して集めることができるかという能力である。
本章の題名を「都とは『生産地』ではなく『集積地』である」としたのは、この意味である。
これは、都周辺の農業生産を否定するものではない。むしろ大都市が成立するためには、周辺地域の生産力とともに、それを越える広域的な供給網が必要になるということである。
人口が集中すれば、巨大な消費地が生まれる
都市とは、人が集まる場所である。
そして人が集まるということは、その場所が巨大な消費地になることを意味する。
奈良時代の平城京については人口推定に幅があるものの、国税庁の歴史解説では約十万人が生活し、そのうち貴族や役人だけでも約七千人いたと説明されている。数字そのものには推計上の幅を考慮する必要があるが、当時として極めて大規模な人口集中が生じていたことは間違いない。国税庁
仮に十万人規模の人間が生活するとすれば、必要になるものは食料だけではない。
米、塩、魚、野菜、酒、布、木材、燃料、土器、鉄製品、馬、飼料。
宮殿や官衙、寺院を建設するなら、さらに木材、瓦、石材、金属、そして大量の労働力が必要になる。
しかも、それらは一度運べば終わるものではない。
食料や燃料は日々消費され、建物は修理され、役人や軍隊は維持され続ける。
したがって、都とは政治中枢であると同時に、巨大な継続的消費地でもあった。
ここから重要な問題が生じる。
その物資を、どこから運んだのであろうか。
律令国家そのものが「全国物流」を必要としていた
律令制度を見ると、この問題は制度の中にすでに組み込まれていたことが分かる。
七〇一年に成立した大宝律令では、租・庸・調などの税制が整えられた。国税庁の解説によれば、調には布や絹をはじめ各地の特産物が含まれ、庸と調は納税者側によって都へ運ばれたという。国税庁
この点は極めて重要である。
古代国家は、地方から税を徴収しただけではない。
地方で生産された物資を中央へ実際に移動させる仕組みを必要としていた。
国家が全国支配を強めれば、それだけ中央へ集まる人と物も増える。
つまり律令国家の成立とは、政治制度の成立であると同時に、列島規模の物流体系を構築することでもあったと考えることができる。
都は、その物流網の最終消費地であり、同時に再配分の中心でもあった。
木簡が語る「地方から都へ」
この全国物流は、制度上の理念だけではない。
平城宮・平城京から出土した木簡には、地方から実際に物資が運び込まれていた痕跡が残っている。
たとえば平城宮内裏北方官衙地区からは、若狭国三方郡に関係する塩の貢進札と考えられる木簡が出土している。木簡庫
また若狭国遠敷郡から「御調塩三斗」を送ったことを示す荷札や、同じ若狭から「御贄」として貝を納めたことを示す木簡も確認されている。木簡庫
さらに美濃国からは、煮塩年魚に関する荷札が平城京跡から出土している。木簡庫
これは非常に示唆的である。
若狭から塩や海産物が運ばれ、美濃からも加工された水産物が入り、その他の地域からも布、米、特産物などが集まる。
平城京という都市は、大和盆地の内部だけで完結していたのではない。
若狭、美濃、但馬、瀬戸内海沿岸、さらに各地の国々と物流によって結ばれていた。
都の食卓一つをとっても、その背後には列島規模の移動が存在していたのである。
そして、この事実は本稿にとって大きな意味を持つ。
若狭から都へ物資が届いているのであれば、その間には必ず「道」が存在する。
道とは単に道路を意味しない。
港があり、船があり、峠があり、馬があり、宿があり、荷を一時的に保管する場所があり、輸送を管理する人間がいる。
荷札一枚の背後には、一つの物流システムが存在しているのである。
宮殿を造ること自体が巨大な物流事業だった
都市が消費するのは食料だけではない。
都城そのものを建設するにも、膨大な資材が必要になる。
奈良文化財研究所の木簡資料には、瓦三百七十枚を宮中の造営現場へ運び込んだ際の送り状とされる木簡が残されている。木簡は単なる数量記録ではなく、宮門を通って造営現場まで資材を搬入する際の通行を保証する役割も果たしていたと考えられている。木簡庫
この事例は、古代都城を考えるうえで興味深い。
大極殿、内裏、官衙、寺院、道路、門、倉庫。
これらを造るには、資材を生産する場所と建設現場を結ばなければならない。
さらに資材だけではなく、それを加工する工人、運搬する人夫、食料を供給する者なども必要になる。
したがって都城造営とは、単なる建築事業ではない。
巨大な物流・労働動員事業でもあった。
政治権力が大規模建築を可能にするためには、命令を出すだけでは足りない。
必要な物資を必要な時期に、必要な数量だけ、目的地へ届ける能力が必要なのである。
都の力とは「集める力」である
ここで、都というものをもう一度考え直してみたい。
都には天皇がいる。
官僚がいる。
宮殿がある。
儀礼が行われる。
しかし、それらを物理的に維持しているものは何か。
米である。
塩である。
布である。
木材である。
鉄である。
馬である。
そして、それらを運ぶ人間と交通路である。
政治権力は、物質的基盤なしには存在できない。
したがって古代国家の力を考える際には、
「何人の兵士を持っていたか」
「どれほど広い領土を支配していたか」
だけではなく、
「どれだけ広い地域から物資を集めることができたか」
を見る必要がある。
これは軍事にもそのまま当てはまる。
軍勢を動かすためには食料がいる。
馬には飼料がいる。
武器や矢を補充しなければならない。
大量の人間を移動させるには道路・船舶・宿営地が必要になる。
したがって、国家物流と軍事兵站は切り離すことができない。
平時に都を支える物流網は、戦時には軍を動かす兵站網へ転用され得る。
ここに、交通の要衝が同時に軍事上の要衝となる理由がある。
「豊かな土地」だけでは首都になれない
豊かな平野があることは重要である。
しかし、豊かな土地であることと、大規模な政治中枢を維持できることは同義ではない。
周辺だけで多くを生産できても、外部との交通が困難であれば、人口や国家機構が拡大したときに限界が生じる。
逆に、地域内部の生産力に加え、
海、湖、河川、街道、峠、港
を通じて複数地域から物資を集めることができれば、その都市の供給可能範囲は大きく広がる。
ここで重要なのは、「距離」だけではない。
百キロ離れていても、大量輸送のできる水路で結ばれていれば有利になる場合がある。
反対に、数十キロしか離れていなくても、急峻な山地を人や馬だけで越えなければならないのであれば、大量輸送には大きな負担となる。
したがって古代交通を考える際、現代の道路地図に定規を当てて距離を測るだけでは、本当の近さは分からない。
必要なのは、
「何キロ離れているか」ではなく、「どれだけ運べるか」
という視点である。
本稿では、この意味での距離を物流距離として考えていく。
ここで近江が浮かび上がる
この視点から列島中央部を見ると、近江の存在が急に大きく見えてくる。
近江そのものにも農業生産力はある。
しかし、本稿が注目するのはそこだけではない。
近江には琵琶湖がある。
北には敦賀があり、日本海へ開く。
西には若狭・小浜がある。
東には関ヶ原を越えて美濃がある。
南には山城があり、その先には難波・大坂がある。
南東には鈴鹿を越えて伊勢がある。
つまり近江は、周辺地域で生産された物資を自ら消費するだけの土地ではない。
複数の生産地域と巨大な消費地域を結ぶ場所である。
しかも、その中央に大量輸送に利用できる琵琶湖が存在する。
ここに、近江を考える第一の鍵がある。
都が「集める力」によって支えられるのであれば、その都へ物資を集める交通網を支配する地域もまた、政治的・経済的に大きな価値を持つことになる。
そして近江は、その交通網の一つではなかった。
複数の交通網が重なる場所であった。
次章では、近江から視線を四方へ広げる。
北の敦賀。
西の小浜。
東の関ヶ原・美濃・岐阜。
南の山城・難波。
南東の鈴鹿・伊勢。
なぜこれほど多くの交通路が近江へ集まったのか。
まずは地形そのものから、その構造を検証していく。
第二章 近江は五方向へ開かれていた
近江を日本列島の交通史の中で考えるとき、まず確認しておかなければならないことがある。
近江は、単に京都と東国を結ぶ途中に存在した国ではない。
北には敦賀、西には若狭・小浜、東には不破・関ヶ原を経て美濃、南には山城、さらにその先には難波、そして南東には鈴鹿を越えて伊勢がある。
現代の行政区域をいったん頭から外して地形だけを眺めると、近江という土地が複数の地域圏の中央に位置していることが分かる。
本稿では、この構造を便宜上、
北――敦賀
西――小浜・若狭
東――関ヶ原・美濃・岐阜
南――山城・難波
南東――鈴鹿・伊勢
という五方向から捉える。
もちろん、各時代によって街道の経路や名称、重要度は変化している。古代の官道と近世の街道をそのまま同一視することはできない。
しかし注目すべきなのは、道路の名前が変わっても、山脈の切れ目、峠、河川、湖岸、港といった地形条件そのものは容易には変わらないということである。
近江の交通史を考えるうえで重要なのは、この「変わる道」と「変わりにくい地形」を区別することである。
北――敦賀という日本海への出口
近江の北に位置する敦賀は、日本海側の天然の良港である。
福井県は敦賀港について、日本海における天然の良港であり、古くから大陸との交流拠点として機能してきたとしている。敦賀市の文化財関係資料でも、敦賀は北陸道・丹後街道・西近江路などが交差し、日本海海運と琵琶湖水運を結ぶ中継地として重要であったことが指摘されている。福井県公式サイト
ここで重要なのは、敦賀港だけを単独で見ないことである。
敦賀の南には山地があり、そのさらに南に琵琶湖が存在する。
したがって、
日本海
↓
敦賀
↓
山越え
↓
湖北
↓
琵琶湖
という交通の連鎖が成立する。
この構造を象徴するのが塩津である。
塩津港遺跡は、現在の長浜市西浅井町に位置する。滋賀県文化財保護協会の発掘調査では、平安時代末から中世にかけて大規模な港湾整備が繰り返され、琵琶湖を埋め立てて護岸や桟橋を築くほど活発な港であったことが確認されている。滋賀県文化財保護協会
さらに発掘された道路は、南端が琵琶湖に接し、北側は敦賀方向へ延びており、かつての塩津街道に相当すると考えられている。滋賀県文化財保護協会
これは非常に重要な考古学的事実である。
塩津は単なる湖岸集落ではなかった。
琵琶湖水運と敦賀方面への陸上交通とが接続する場所だったのである。
滋賀県の『琵琶湖ハンドブック』も、塩津港を北陸方面と京都を結ぶ「水上交通の北の玄関口」と位置づけている。滋賀県公式サイト
したがって近江の北側を見る場合、
敦賀が日本海側の玄関であり、塩津はその玄関を琵琶湖へ接続する港であった
と整理するのが適切である。
この違いは重要である。
敦賀と塩津は同じ役割ではない。
一方は海港であり、一方は湖港である。
その二つを山越えの陸路が結び、さらに琵琶湖水運が大津方面へ延びる。
ここにはすでに、後に本稿で詳しく取り上げる**「異なる輸送手段を接続する近江」**という特徴が現れている。
西――小浜・若狭から琵琶湖へ
北の敦賀と並んで忘れてはならないのが、若狭・小浜である。
日本海側から畿内へ入る交通を「敦賀―塩津」の一本だけで考えてしまうと、湖西地域の役割が見えなくなる。
若狭と近江の間にも、古くから複数の山越えルートが存在した。
現在の高島市域は、東に琵琶湖、西に若狭方面の山地を持つ。
高島市は、この地域について古代から若狭・越前へ通じる交通の要衝であり、湖岸沿いには古代北陸道、その後の西近江路・北国海道が通ったとしている。また、現在の国道303号に相当する方向には、若狭小浜と琵琶湖を結ぶ交通路が存在した。高島市公式サイト
特に今津は重要である。
近世には小浜方面から九里半街道を通じて日本海側の物資が流入し、今津はその結節点として船着港と宿場の両方の機能を持った。高島市公式サイト
また若狭から京都へ向かう道には、熊川・保坂・朽木・大原方面を経る経路など複数のルートがあった。高島市の資料でも、若狭街道には複数の経路が存在し、朽木谷を経由する道が重要な交通路となったことが確認できる。高島市公式サイト
ここから見えてくるのは、若狭から運ばれた物資には二つの方向性があったということである。
一つは山間部を経て直接京都方面へ向かう経路。
もう一つは今津など琵琶湖岸へ出て、湖上交通へ乗り換える経路である。
したがって小浜―若狭方面から見ても、琵琶湖は単なる地理的障害ではなかった。
むしろ、
山越えによって運ばれてきた荷物を、より大量輸送に適した湖上交通へ変換する場所
となり得たのである。
若狭から塩や魚介類が畿内へ運ばれたことは、前章で見た平城京出土木簡からも確認できる。
その荷がどの経路を通ったかは、時代や品目ごとに慎重な検討が必要である。
しかし少なくとも、若狭と畿内の間に近江・湖西を介する交通網が存在したこと自体は明らかである。
東――関ヶ原は「近江の出口」だった
近江の東には伊吹山地と鈴鹿山脈が連なっている。
一見すれば、東方への交通を遮断する巨大な壁である。
しかし、その山地には一か所、東西方向へ抜けやすい大きな切れ目が存在する。
それが不破・関ヶ原である。
米原市の文化財資料は、滋賀県東部の伊吹山地と鈴鹿山脈が東西交通を阻む壁となる一方、伊吹山と霊仙山の間には細い谷間が形成され、近江と関ヶ原を結ぶ数少ない通路となっていることを指摘している。米原市公式サイト
この地形条件は古代から利用された。
近江には東山道が通り、瀬田方面から湖東を北東へ進み、美濃へ向かった。滋賀県文化財保護協会も、古代近江には東山道・東海道・北陸道という主要官道が設けられていたことを指摘している。滋賀県文化財保護協会
米原市域では、醒井から柏原付近にかけての古代東山道が、後世の中山道と近い経路を通った可能性が指摘されている。米原市公式サイト
そして近江を抜けた先に不破がある。
岐阜県は関ヶ原を、北に伊吹山、南に養老山地・鈴鹿山脈が迫る東西交通の要衝と説明している。不破関は鈴鹿関・愛発関とともに律令三関の一つに数えられた。岐阜県公式サイト
したがって関ヶ原の重要性は、慶長五年(一六〇〇)の合戦によって突然生まれたものではない。
もともと山地によって絞り込まれた東西交通の回廊だったからこそ、古代には関が置かれ、中世・近世にも重要街道が通り、後世には巨大な軍勢もこの地域へ集中した
と考えるべきである。
ここを越えれば美濃へ入る。
そして濃尾平野、岐阜、尾張方面へ交通圏が広がる。
つまり近江にとって関ヶ原は、東国から見れば畿内への入口であり、近江から見れば美濃・東国へ開く東の出口だったのである。
南――大津から山城、そして難波へ
近江南部の重要性は、大津だけを見ても理解できない。
大津の西には逢坂山があり、その向こう側には山城・京都盆地がある。
逢坂は古代以来の重要な交通の狭窄部であり、大津市歴史博物館は、逢坂関が東海道の道筋に位置し、古代から交通の要所とされたことを紹介している。大津市歴史博物館
滋賀県側の資料でも、逢坂越には東海道・東山道・北陸道方面の交通が集中し、都と東国・北国を結ぶ要衝であったとされる。びわ湖観光情報
ここに、大津の特殊性がある。
琵琶湖を南下してきた船は、そのまま京都まで航行することはできない。
琵琶湖と京都盆地の間には山地がある。
したがって大津周辺では、
湖上輸送
↓
荷揚げ
↓
陸送
↓
山城
という交通手段の切り替えが必要になる。
近世の史料になるが、大津から山科を経て京都へ物資を輸送する東海道では牛車輸送が盛んに行われ、逢坂山などの難所には車石まで整備された。大津市公式サイト
この事実は時代こそ新しいものの、大津―山城間が大量物資輸送の重要路線であり続けたことを端的に示している。
さらに山城へ入った物流は、そこで終わるわけではない。
京都盆地の河川交通を介せば、伏見・淀方面から淀川水系へ入り、大坂湾・難波方面へ接続することができる。
この南北軸を大きく見ると、
敦賀
↓
湖北
↓
琵琶湖
↓
大津
↓
山城
↓
淀川水系
↓
難波・大坂
という巨大な物流回廊が浮かび上がる。
もちろん、これが古代から近世まで完全に同じ経路・同じ制度で機能していたという意味ではない。
本稿で重視するのは、敦賀湾、日本最大の湖、京都盆地、淀川、大阪湾という地形的連鎖そのものである。
制度や政権が変わっても、この地形条件は残り続ける。
だからこそ近江と大津の交通的価値も、長期間にわたり維持されたのである。
南東――鈴鹿を越えれば伊勢へ出る
近江にはもう一つ重要な出口がある。
鈴鹿山脈である。
鈴鹿山脈もまた大きな自然障壁であるが、そこには古くから山越えの交通路が開かれていた。
三重県総合博物館によれば、鈴鹿山脈を越える東海道は、平安時代前期の仁和二年(八八六)に阿須波道と呼ばれる道が開かれたのち、鈴鹿峠越えが正式な東海道として長く利用された。三重県文化振興情報
また鈴鹿関は、不破関・愛発関と並ぶ律令三関の一つであった。岐阜県公式サイト
この三関の配置は興味深い。
北の愛発。
東の不破。
南東の鈴鹿。
いずれも畿内周辺の主要交通路上に位置している。
これは裏を返せば、古代国家がどこから人や軍勢が出入りするのかを把握していたことを意味する。
そして近江は、その複数の交通路に接する位置にあった。
鈴鹿方面へ抜ければ伊勢に至り、さらに東海道方面へつながる。
したがって近江は、関ヶ原経由の東山道方面だけでなく、鈴鹿を経由する東海道方面にも出口を持っていたのである。
道が近江に集まったのではない――地形が道を集めた
ここまで見てくると、一つの疑問が生じる。
なぜこれほど多くの交通路が近江へ集まったのであろうか。
近江に強力な政治権力が存在したから、道路が集められたのだろうか。
それだけではない。
むしろ順序は逆である可能性が高い。
日本海側には敦賀湾と若狭湾がある。
東には伊吹山地と鈴鹿山脈があり、その切れ目に不破・関ヶ原がある。
南東には鈴鹿越えがある。
南には京都盆地へ抜ける逢坂周辺の通路がある。
そして、その中央には巨大な琵琶湖がある。
つまり、
地形そのものが、人や物を近江へ導いていたのである。
これは重要な視点である。
交通史というと、私たちは地図上に描かれた「線」を見てしまう。
しかし、本当に先に存在したのは線ではない。
山がある。
谷がある。
峠がある。
湾がある。
湖がある。
河川がある。
その制約の中で、人間が最も移動しやすい場所を選び続けた結果として道が形成される。
そして、同じ地形が何百年、何千年と残るため、時代が変わっても似た場所に主要交通路が設定される。
古代の東山道の近くを近世の中山道が通り、その近くを近代の鉄道が走り、現在では高速道路や新幹線が通る例は、その典型である。
関ヶ原周辺では、古代の不破関、中山道、東海道本線、東海道新幹線、名神高速道路など、時代の異なる交通路が同じ狭い地域に集中している。岐阜県も、この地が現在に至るまで主要交通幹線の通る場所であることを指摘している。岐阜県公式サイト
交通技術は変わっても、山が開く場所そのものは大きく変わらないのである。
近江は「中央」ではなく「結節点」であった
ここで、本章冒頭の五方向へ戻りたい。
北には敦賀。
西には小浜・若狭。
東には関ヶ原・美濃。
南には山城・難波。
南東には鈴鹿・伊勢。
その中央に近江がある。
しかし、これを単純に「近江は日本の中央だった」と表現するだけでは、本質を捉えられない。
重要なのは中心性ではなく、結節性である。
異なる地域から来た道路が出会う。
異なる輸送手段が接続する。
日本海から入ってきた物資が湖上輸送へ移される。
東国から陸路で来た荷が湖岸へ出る。
湖上を南下した物資が大津で陸路へ変わる。
別の荷はそのまま湖東を進み、鈴鹿や関ヶ原へ向かう。
つまり近江では、交通が単純に通過するのではない。
分かれ、集まり、再び分かれていく。
ここに、近江の地理的価値がある。
そしてこの構造を成立させている最大の存在が、近江の中央に横たわる琵琶湖である。
道路だけを見れば、それぞれは別の街道である。
しかし琵琶湖を中央に置けば、それらの道は一つの交通網として結びつく。
次章では、この琵琶湖を「景観としての湖」ではなく、大量の人と物を動かす巨大な内陸物流装置として捉え直す。
なぜ湖上輸送が必要だったのか。
どこに港が生まれたのか。
そして琵琶湖は、近江の五方向の交通をどのように一つの物流体系へ変えていったのか。
そこから、近江が単なる街道の交差点ではなかった理由が、さらに明確になってくる。
第三章 琵琶湖という巨大な内陸物流装置
前章では、近江が北の敦賀、西の若狭・小浜、東の関ヶ原・美濃、南の山城、南東の鈴鹿・伊勢という複数の方向へ開かれていたことを確認した。
しかし、これらの交通路が近江へ集まっただけでは、まだ近江の本当の強さを説明したことにはならない。
近江には、それらの交通路を相互につなぐ巨大な水面が存在した。
琵琶湖である。
今日の琵琶湖は、水資源、漁業、観光、自然景観といった側面から語られることが多い。しかし鉄道も自動車も存在しなかった時代において、琵琶湖はまったく別の顔を持っていた。
それは、大量の人と物を動かすための内陸輸送路である。
滋賀県文化財保護協会も、琵琶湖を古来「日本列島の交通の要」と位置づけ、その水運が日本史上大きな役割を果たしたとしている。また同協会による琵琶湖交通史の研究では、古代の琵琶湖について「ターミナル」「塩津港」「日本海ルート」といった視点から、その交通・経済機能が検討されている。滋賀県文化財保護協会
本章では、琵琶湖を単なる「湖」ではなく、異なる地域と異なる輸送手段を一つの物流体系へ組み込む装置として捉えてみたい。
陸路だけでは成立しない大量輸送
人間が背負って運べる荷物には限界がある。
馬を使えば輸送量は増えるが、馬には飼料が必要であり、峠や道路状況による制約も受ける。
大量の米、塩、木材、魚介類、布、鉄製品などを継続的に運ぶ場合、陸送だけに依存する負担は大きい。
これに対して船は、浮力を利用して大量の荷物を移動させることができる。
もちろん、古代の琵琶湖船について、その積載量を一律に示すことはできない。船の構造も時代によって変化している。そのため、近世の丸子船の能力をそのまま古代へ遡らせることは避けなければならない。
しかし、後世の丸子船が三十石から五百石積みまで発達し、江戸時代の一六〇〇~一七〇〇年代には琵琶湖全体で千艘を超える丸子船が活動していたことは、琵琶湖という水面が大量輸送に適した空間として長期間利用されてきたことを示している。滋賀県公式サイト
しかも船による移動の歴史は近世に始まったものではない。
滋賀県内では縄文時代の遺跡から丸木舟が出土しており、琵琶湖周辺では早い段階から水上移動が人々の生活に組み込まれていたことが確認されている。滋賀県文化財保護協会
したがって、古代国家が成立したとき、琵琶湖は新しく発見された交通路ではなかった。
すでに長い水上移動の歴史を持った巨大水域を、国家規模の交通・物流体系へ取り込んでいったと考える方が自然である。
『延喜式』が示す敦賀―塩津―大津の物流体系
琵琶湖水運の性格を最も明瞭に示す史料の一つが『延喜式』である。
滋賀県教育委員会・滋賀県文化財保護協会による塩津港遺跡の調査資料には、『延喜式』「諸国運漕雑物功賃」の規定について極めて重要な説明がある。
越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡という北陸六国から運ばれる物資について、まず敦賀で陸揚げし、そこから塩津まで陸送する駄賃、さらに塩津から大津まで湖上輸送する船賃が定められていたというのである。滋賀県文化財保護協会
ここには、古代物流の仕組みが驚くほど具体的に現れている。
北陸諸国
↓
日本海航路
↓
敦賀
↓
陸送
↓
塩津
↓
琵琶湖水運
↓
大津
↓
山城・都
である。
重要なのは、北陸から都へ一本の交通手段で運んでいたのではないことである。
海船から陸送へ。
陸送から湖船へ。
さらに大津で再び陸送へ。
すなわち、古代国家はすでに複数の輸送手段を接続する複合物流体系を利用していたことになる。
これは本稿の中心的な論点である「積み替え」の重要性を、制度史料から確認できる事例である。
しかも『延喜式』は単に道順を書いているのではない。
敦賀―塩津間の駄賃と、塩津―大津間の船賃を定めている。
つまり中央政府は、このルートを物資輸送の実務として把握し、その費用まで制度化していたのである。滋賀県文化財保護協会
ここまで来れば、琵琶湖を「便利だったであろう」と推測する段階を越えている。
国家物流の中に琵琶湖水運が組み込まれていた。
これは史料上確認できる事実である。
塩津は単なる港ではなく「変換点」だった
では、塩津とはどのような場所だったのであろうか。
塩津港遺跡は琵琶湖北端に位置する。
発掘調査では八世紀から十二世紀にかけての遺構が確認され、平安時代には北陸から運ばれる物資を集積し、大津へ湖上輸送する港として機能していたことが考古学・文献史料の双方から明らかになっている。滋賀県文化財保護協会
さらに興味深いのが、十二世紀の起請札木簡である。
そこには、運送を請け負った人物が「荷物を失わない」ことを誓った内容が確認されている。調査者は、この木簡から専門的な運送人の存在や、魚類などの荷物を扱う輸送業の存在を読み取っている。滋賀県文化財保護協会
ここから見えてくる塩津は、「船が着く場所」というだけの港ではない。
荷物を受け取る者がいる。
運送を請け負う者がいる。
荷物を管理する社会的な信用関係がある。
宗教施設もある。
多くの人が往来する。
つまり塩津は、交通だけでなく、物流・商業・人的交流・信仰が重なった複合的な拠点になっていたのである。
調査資料が塩津港を「人・物・情報が集まる」国内屈指のハブ港と評価しているのは、このためである。滋賀県文化財保護協会
現代的な用語を慎重に使うなら、塩津は単なる船着場ではなく、モーダルシフトの拠点に近い。
海上交通と陸上交通。
陸上交通と湖上交通。
異なる輸送体系を切り替える場所であった。
琵琶湖には一つの港しかなかったのではない
琵琶湖水運について考えるとき、塩津―大津という南北線だけを想像するのも正確ではない。
琵琶湖の湖岸には、多数の港が存在した。
『万葉集』には近江の海に多くの港が存在することを示す表現があり、滋賀県文化財保護協会も琵琶湖の湖岸を「水と陸の交通結節点」として捉えている。滋賀県文化財保護協会
特に注目されるのが、
塩津、海津、勝野、朝妻
である。
米原市の資料によれば、『延喜式』には朝妻湊が塩津・海津・勝野とともに記載されており、朝妻は東山道・北陸道の接点に位置する重要港であった。朝妻から大津あるいは坂本へ船で渡り、都へ向かう航路が存在し、畿内と東国を結ぶ湖上ルートの入口として機能していたとされる。米原市公式サイト
これは重要である。
北陸から来た荷物だけが琵琶湖へ入ったのではない。
東国方面から近江へ入ってきた物流もまた、湖東側の港から琵琶湖水運へ接続することができた。
したがって琵琶湖は、北から南へ荷物を運ぶだけの「水上道路」ではない。
東西から来た陸路まで受け止める面的な交通ネットワークであった。
朝妻湊――東国と都を結ぶ湖上ターミナル
朝妻湊の位置は、この構造をよく示している。
天野川河口付近に位置する朝妻は、東山道を介して美濃方面とつながり、さらに北陸方面への交通にも接していた。米原市は、朝妻湊を「中世以前の湖東の要津」とし、大津・坂本を経て都へつながる航路の重要地点だったとしている。米原市公式サイト
ここで考えたいのは、なぜ東国から来た荷物を、そのまま陸路で京都まで運ばなかったのかということである。
もちろん、すべての人や荷物が湖上交通を利用したとは限らない。
急ぎの使者、少量の荷、軍勢など、輸送目的によって最適な経路は異なる。
しかし大量貨物の場合、途中で琵琶湖へ出ることができれば、以後の輸送を船に切り替える選択肢が生まれる。
朝妻はその転換点の一つであった。
つまり、
美濃・東国
↓
東山道
↓
朝妻
↓
琵琶湖
↓
大津・坂本
↓
都
という物流経路が成立する。
前章で見た「東=関ヶ原・美濃」という陸上回廊が、ここで琵琶湖水運とつながるのである。
勝野は若狭・越前と湖上交通を結んだ
湖西側にも同じ構造が存在した。
勝野津である。
滋賀県文化財保護協会の資料では、勝野津は古代の湖上交通における重要港であり、大津―塩津間の中継拠点であると同時に、若狭・越前方面への分岐点として機能したと説明されている。
大津から湖上を北上して勝野で上陸し、そこから陸路で若狭・越前へ向かう。
逆に北陸・若狭方面から来た人や物は、勝野で船へ乗り換えて大津へ向かう。
つまり勝野もまた、陸上交通と湖上交通を切り替える港であった。滋賀県文化財保護協会
これによって前章で確認した西方向、
小浜・若狭
↓
高島地域
↓
琵琶湖
↓
大津
という交通も、琵琶湖物流網の中に組み込まれる。
北の塩津。
西の勝野。
東の朝妻。
南の大津。
この配置を見るだけでも、琵琶湖が単純な南北航路ではなかったことが分かる。
周辺の街道から物資を受け取り、それを湖上で集約し、再び別方向へ送り出す。
まさに巨大な内陸物流ネットワークである。
大津――湖上輸送の南側の集積点
そして琵琶湖南端に大津がある。
大津市歴史博物館は、古代以来、北国・東国からの物資が船によって湖上を運ばれ、大津周辺で陸揚げされたのち都へ向かったと説明している。大津市歴史博物館
また滋賀県も、大津港を天智天皇の時代から人・物の湖上輸送の一大拠点であったとしている。滋賀県公式サイト
ここで重要なのは、大津を「琵琶湖航路の終点」とだけ考えないことである。
確かに船旅はそこで一度終わる。
しかし物流は終わらない。
船から荷物を降ろす。
陸上輸送へ切り替える。
逢坂周辺を越える。
京都盆地へ入る。
さらに時代によっては、その先の河川交通や陸路へ接続する。
したがって大津は、終点であると同時に次の物流体系への入口でもあった。
この点については第八章で改めて詳しく検討するが、琵琶湖の価値は、大津で荷物を下ろした瞬間に初めて都の物流と接続するところにある。
琵琶湖は「一本の道路」ではなかった
以上を整理すると、古代の琵琶湖水運について、一つ重要なことが分かる。
琵琶湖を現代の高速道路のような、
塩津→大津
という一本の線として捉えてはいけない。
実際には、
北から塩津。
湖西から海津・勝野。
湖東から朝妻。
南に大津・坂本・勢多方面。
さらに河川沿いや内湖周辺にも交通拠点が存在する。
滋賀県文化財保護協会は、古代琵琶湖の交通について「水と陸」「湖岸は交通結節点」「馬と船が集うターミナル」といった表現で、その複合性を整理している。滋賀県文化財保護協会
この表現は非常に本質的である。
琵琶湖物流の強さは、湖の上を船が走ったことだけにあるのではない。
湖岸で陸路と水路が結ばれていたことにある。
船だけでは山を越えられない。
馬だけでは琵琶湖を横断できない。
しかし港で両者をつなげば、遠く離れた地域同士を一つの物流体系に組み込むことができる。
その港が湖の周囲に複数存在していた。
これこそが琵琶湖の強さである。
水上交通は便利であると同時に危険でもあった
ただし、琵琶湖を「何でも安全に運べる高速道路」のように描くことも避けなければならない。
湖には風が吹く。
波が立つ。
天候によっては航行できない。
『続日本紀』に記された藤原仲麻呂の乱では、七六四年、塩津付近の波が高かったため、仲麻呂が上陸を断念して勝野方面へ戻ったことが記録されている。塩津港遺跡の調査資料でも、この出来事が紹介されている。滋賀県文化財保護協会
これは琵琶湖水運を考えるうえで重要な事例である。
大きな湖では、対岸が近く見えても、天候次第で船を動かせない。
そのため港には、荷物を積み降ろす機能だけではなく、
風波を避ける。
船を停泊させる。
天候の回復を待つ。
という役割も必要になる。
ここから、内湖・入江・河口の重要性が浮かび上がる。
琵琶湖岸のどこでも同じように港を造れるわけではなかった。
風や波を避けられる水面。
船を安全に寄せられる湖岸。
河川や街道へつながる場所。
背後に物資を置ける土地。
これらの条件が揃った場所に、港が発達したと考えられる。
港が生まれれば、人と経済が集まる
交通拠点が成立すると、そこには新しい経済活動が生まれる。
船頭が必要になる。
荷役人が必要になる。
馬を扱う者が必要になる。
倉庫が必要になる。
船を修理する技術者も必要になる。
旅人がいれば宿泊施設や食料も必要になる。
商人も集まる。
そして大量の物資が集まれば、それを管理する政治権力も無関心ではいられない。
中世には堅田が琵琶湖舟運に関する諸権利を掌握し、その経済力を背景に自治的な都市として発展した。大津市歴史博物館も、堅田を湖上交通の拠点として発展した町と位置づけている。大津市歴史博物館
これは時代の異なる例ではあるが、港湾交通と地域経済との関係をよく示している。
人と物が集中する場所には富が生まれる。
富が生まれる場所には権利が生まれる。
権利が生まれる場所には、それを支配しようとする勢力が現れる。
ここから先、琵琶湖水運は単なる交通史ではなく、政治史・軍事史へもつながっていく。
琵琶湖が五方向の交通を一つにした
前章で、近江が五方向へ開かれていることを確認した。
その五方向を、本章の水運と重ねてみる。
北の敦賀から来た物資は、塩津で琵琶湖へ入る。
西の若狭方面から来た人や荷は、勝野・今津方面などから湖上交通へ接続できる。
東の美濃・関ヶ原方面から入ってきた交通は、朝妻など湖東の港を利用することができる。
南では、大津から山城へ物流が受け渡される。
南東では、湖東の陸路を通じて鈴鹿・伊勢方面へつながる。
すなわち琵琶湖は、五方向の道の中央に「存在した」のではない。
五方向から来る交通を相互に接続する役割を果たしていたのである。
この違いは大きい。
もし琵琶湖がなければ、近江を横断する複数の陸路が存在するだけである。
しかし中央に巨大な水上輸送路があることで、
敦賀から入った物資を大津へ送る。
美濃から来た荷を湖上輸送へ乗せる。
若狭から来た物資を湖東・湖南へ運ぶ。
といった経路の組み替えが可能になる。
ここに琵琶湖の本当の価値がある。
琵琶湖とは、単なる湖ではない。
北陸・若狭・東国・伊勢・畿内という異なる地域圏を結びつける巨大な内陸物流装置であった。
そして、この巨大な物流装置が効率よく機能するためには、安全に船を寄せ、荷物を積み降ろし、保管できる場所が必要になる。
では、なぜある湖岸には大きな港が生まれ、別の場所には生まれなかったのか。
その鍵を握るのが、現在では多くが失われてしまった内湖・入江・河口である。
次章では、琵琶湖の古い湖岸景観へ視点を移し、松原内湖、大中の湖などを含め、港と都市、そして後の城郭立地を支えた「水辺の地形」そのものを検討する。
第四章 港はなぜそこに生まれたのか――内湖・入江・河口
前章では、琵琶湖が単なる湖ではなく、敦賀・若狭・美濃・山城・伊勢という複数の地域圏をつなぐ巨大な内陸物流装置であったことを確認した。
しかし、湖が存在するだけでは水運は成立しない。
船はどこかで岸に着かなければならない。
人を乗せる。
荷物を降ろす。
別の荷を積み込む。
船を停泊させる。
風が強ければ待機する。
船を修理する。
そして陸上交通へ荷を引き渡す。
こうした機能を担うのが港である。
では、琵琶湖の港はなぜ特定の場所に発達したのであろうか。
湖岸であれば、どこでも同じように船を着けることができたわけではない。
その答えを考えるうえで重要なのが、内湖・入江・河口という水辺地形である。
現在の琵琶湖岸を見ているだけでは、かつての交通環境を正確に想像することは難しい。
滋賀県立公文書館によれば、戦前の琵琶湖周辺には四十を超える内湖が存在した。松原内湖、入江内湖、大中の湖をはじめ、その多くは二十世紀の干拓によって姿を消している。滋賀県立公文書館
つまり、信長や秀吉、さらにそれ以前の人々が見ていた琵琶湖岸は、現在私たちが見る湖岸とは大きく異なっていたのである。
内湖とは何であったのか
滋賀県の「内湖再生全体ビジョン」は、内湖を、もともと琵琶湖の一部であった水域が沿岸漂砂や河川から運ばれた土砂の堆積などによって、本湖とは水路などでつながりながら部分的に隔てられて形成された池・沼・沢などの総称としている。滋賀県公式サイト
ここで重要なのは、
内湖は琵琶湖から完全に独立した池ではなかった
ということである。
本湖と水路でつながり、人や生物が移動できる水域であった。
しかも内湖は浅い。
滋賀県の『琵琶湖ハンドブック』によれば、干拓以前の内湖の平均水深は一・七八メートルで、最大級であった大中の湖でも最大水深は二・七メートル程度であった。滋賀県公式サイト
この浅さは大型船にとって常に有利であったとは限らない。
したがって、
「内湖=そのまま大型船の港」
と単純に決めつけることはできない。
しかし一方で、本湖からある程度隔てられた浅く穏やかな水面が存在し、そこに水路や河川、集落、陸路が接続するという地形は、小型船の停泊、荷の積み降ろし、地域内輸送などに適した条件を生み出し得る。
内湖の価値は、単に「水があった」ということではない。
本湖と陸地との間に存在する中間領域であった点にある。
港とは「船を着ける場所」だけではない
港を考えるとき、現代のコンクリート岸壁を想像すると古代・中世の姿を見失う。
当時の港に必要だったのは、必ずしも巨大な人工構造物ではない。
船が接岸できる。
風波を避けられる。
陸へ荷物を上げられる。
その背後に道路や集落がある。
必要であれば荷物を一時保管できる。
こうした条件が揃っていれば、天然の地形を利用して交通拠点が成立する。
河口も同様である。
川をさかのぼれば内陸へ荷物を運べる。
逆に内陸から川を下ってきた物資を、湖上交通へ受け渡すこともできる。
つまり良港とは、
湖上交通と陸上交通、場合によっては河川交通までが接続できる場所
なのである。
前章で見た塩津港が典型である。
塩津では敦賀からの陸路が湖岸に到達し、そこで琵琶湖船へ荷を移すことができた。
港が重要なのは、水面の条件だけではない。
その背後に何がつながっているか
によって価値が決まるのである。
現代の湖岸線を戦国時代へ投影してはいけない
この視点は、近江の城郭を見るときにも非常に重要である。
現在、安土城跡へ行けば、安土山は広い平野の中に立つ山のように見える。
彦根周辺も、市街地と田畑が広がり、佐和山は完全な内陸の山城のように見える。
しかし、その景観をそのまま戦国時代へ戻してはいけない。
二十世紀の干拓によって、湖東・湖北の景観は大きく変わっている。
戦前まで残っていた松原内湖の見取図が滋賀県立公文書館に保存されており、松原内湖は昭和十九年から二十二年にかけての干拓で消滅した。滋賀県立公文書館
また安土周辺では、小中の湖・大中の湖などが干拓され、かつて存在した広大な水面そのものが現在の農地へ変わっている。
したがって城郭立地を考える際には、
現在の陸地だけを見て「なぜここに城を築いたのか」と考えてはいけない。
城が築かれた当時の水面を復元して考える必要がある。
ここから、佐和山と松原内湖、そして安土と大中の湖を含む内湖群という、本稿にとって重要な二つの例が浮かび上がる。
松原内湖――佐和山の西に広がっていた水辺
現在の彦根を訪れると、佐和山城跡は琵琶湖岸からやや離れた内陸の山城に見える。
しかし発掘調査は、現在とは異なる水辺景観を示している。
滋賀県文化財保護協会による松原内湖遺跡の調査では、旧松原内湖の汀線にあたる谷部が確認され、さらに佐和山丘陵の麓にあたる低地からは奈良時代から室町時代にかけての集落跡が見つかっている。滋賀県文化財保護協会
これは重要である。
旧松原内湖の水辺と佐和山丘陵は、別々の世界ではなかった。
その接点に人々の活動域が存在したのである。
同じ松原内湖遺跡からは、戦国時代の城郭施設も確認されている。滋賀県文化財保護協会
もちろん、これだけで「佐和山城が松原内湖を直接軍港として使用していた」と断定することはできない。
そこまで言うためには、船着場、航路、文献史料などをさらに積み重ねる必要がある。
しかし少なくとも、
佐和山城を純粋な内陸山城としてだけ捉えるのも不十分である。
佐和山丘陵の西側には、現在失われた内湖・湿地・低地が広がっていた。
そのさらに西には琵琶湖がある。
東側には鳥居本方面から美濃へ抜ける交通路がある。
つまり佐和山は、
琵琶湖側の水上交通と、東西方向の陸上交通の間に位置する山
として見る必要がある。
これは後の章で、佐和山城の軍事的・物流的価値を検討するときの重要な前提となる。
彦根城の立地も松原内湖抜きには理解できない
佐和山城から彦根城へ視点を移すと、水辺地形の重要性はさらに明瞭になる。
彦根市によれば、彦根城が築かれる以前の彦根山周辺には松原内湖があり、芹川が流れ込み、沼や沢の多い土地であった。城下町建設に際して、こうした水域の一部が埋め立てられたという。彦根市公式ホームページ
現在の彦根城を見ていると、城郭と琵琶湖との間には市街地が広がっている。
しかし築城当初の景観は違う。
城・堀・内湖・琵琶湖が、現在よりはるかに密接な関係にあった。
現在の彦根港についても、滋賀県は旧港が彦根城の堀へ連なる松原運河を利用した掘込み港であったと説明している。滋賀県公式サイト
時代は下るが、この事実は彦根地域で、
内湖・運河・城郭・琵琶湖
を一体として利用する水運構造が成立したことを示している。
佐和山から彦根へ政治・軍事の中心が移った背景を考える際にも、水辺環境は無視できない。
安土は本当に「内陸の山」だったのか
もう一つ、現在の景観によって理解を誤りやすい場所が安土である。
滋賀県立公文書館には、昭和初期に撮影された「安土遠望」という写真が残されている。
そこには、安土山を囲むように小中の湖が広がり、その奥に大中の湖が見える。写真の外側には西の湖も存在していた。
小中の湖は昭和十七年、大中の湖は昭和二十一年から干拓が進められ、その後姿を消した。滋賀県立公文書館
この写真が示す景観は、現在の安土とはまったく異なる。
安土山は広い陸地の中に孤立した山ではなかった。
複数の水域が入り組む水辺の山だったのである。
ここは、信長が安土城を選んだ理由を考えるうえで極めて重要である。
もちろん、安土城の立地理由を「水運だけ」に求めることはできない。
京都への距離。
東国への交通。
近江盆地の支配。
軍事的防御。
政治的象徴性。
複数の条件を考えなければならない。
しかし、水運条件もその一つとして検討しなければ、安土城の立地を十分に理解することはできない。
大中の湖は巨大な水面だった
特に大中の湖は、今日その姿がほぼ完全に失われているため、その規模を実感しにくい。
滋賀県の資料では、大中の湖はかつて琵琶湖最大の内湖であったとされる。滋賀県公式サイト
現在その場所には広大な農地が広がっている。
つまり現代人が陸地として見ている場所の相当部分が、信長・秀吉の時代には水面だった。
さらに大中の湖、小中の湖、西の湖などが組み合わさることで、安土周辺には入り組んだ水上交通空間が形成されていた。
近江八幡市の文化財保存活用地域計画も、中世の安土地域について、大中の湖・小中の湖など内湖によって陸地と水域が複雑に入り組んでいたこと、そして佐々木荘の年貢米を搬出する港として常楽寺湊が存在していたことを記している。大津市公式サイト
これは大きな意味を持つ。
安土周辺の水運は、信長が城を築いたことで突然始まったのではない。
信長以前から、荘園の年貢米を運び出す水運と港が成立していた。
つまり信長が進出した安土は、すでに水運機能を持った地域だったのである。
この点は後の信長論で重要になる。
城が水運を生んだのではなく、水運のある土地に城が置かれた
ここで因果関係に注意したい。
安土城が築かれたから琵琶湖水運が発生したわけではない。
佐和山城が築かれたから松原内湖が重要になったわけでもない。
水辺が先に存在した。
人々が漁業を行った。
船が通った。
港が生まれた。
集落や荘園が形成された。
道路と水路が結びついた。
そのような土地へ、後に政治権力や軍事拠点が置かれたのである。
つまり、
交通拠点が城郭化した
という側面を考える必要がある。
城は軍事施設である。
しかし戦国大名が大量の兵士を維持し、武器や兵糧を集め、城下町を形成するためには、物流が必要になる。
巨大な城郭ほど、物資供給なしには成立しない。
この意味で、城の立地と物流条件は切り離せない。
内湖は「港」であると同時に「生活圏」でもあった
ただし内湖を物流だけで理解するのも不十分である。
滋賀県立公文書館の資料によれば、昭和十六年時点でも内湖は漁場として利用され、泥・藻など肥料となる資源の採取場、農業用水などとして使われていた。滋賀県立公文書館
近江八幡の西の湖周辺では、ヨシ産業、漁業、田舟による移動など、内湖と地域生活が密接に結びついた文化的景観が現在まで残されている。大津市公式サイト
つまり内湖には、
漁業。
農業。
水運。
資源利用。
人の移動。
生活用水。
そして場合によっては港湾機能。
これらが重なっていた。
内湖とは、琵琶湖の「余った水面」ではなかった。
地域社会そのものを支える水辺空間だったのである。
このことは、交通史を考えるうえでも重要である。
船を動かす技術は、突然国家物流のためだけに生まれるのではない。
日常的に漁に出る。
対岸へ渡る。
ヨシを運ぶ。
農作物を運ぶ。
こうした生活水運の蓄積があって初めて、より広域的な物流も成立する。
河口には「陸」と「水」をつなぐ力がある
内湖と並んで重要なのが河口である。
琵琶湖へ流れ込む河川は、山間部や平野部から物資を湖岸へ運ぶルートとなり得る。
また河川によって運ばれた土砂が湖岸地形を形成し、その結果として内湖や砂州が生まれることもある。
港の立地は、
湖だけを見ても分からない。
背後の河川。
平野。
街道。
山越えルート。
これらを一体として見なければならない。
たとえば朝妻湊が天野川河口付近に成立したことにも、この構造が表れている。
川から湖へ。
陸から水へ。
水から陸へ。
港とは、その境界で物流を変換する装置だったのである。
「風を避けられる場所」の価値
前章で見た藤原仲麻呂の例のように、琵琶湖では強風や高波が航行を妨げることがあった。
したがって船にとって重要なのは、目的地までの距離だけではない。
安全に待避できる場所が存在するかどうかである。
本湖に直接面した開放的な湖岸より、湾入部や水路を通してつながる内湖の方が、条件によっては穏やかな水面を提供する。
ここに、内湖を「天然の港湾環境」として評価する余地がある。
ただし本稿では、すべての内湖を一律に天然港と呼ぶことはしない。
内湖によって水深、入口の幅、周辺道路、河川、集落構造は異なる。
重要なのは、
内湖が存在することで、安全な停泊・荷役・地域水運が成立しやすい地形条件が生まれ得た
ということである。
個々の港湾機能については、遺跡・文献・古地図を用いて個別に検証する必要がある。
この区別をしておけば、地理的考察と史料上の事実を混同することもない。
干拓によって消えたのは「水」だけではない
二十世紀に多くの内湖が干拓された結果、失われたのは水面だけではなかった。
かつて存在した、
船の道。
漁場。
ヨシ原。
船着場。
水辺の集落。
城と湖との距離感。
こうした歴史景観そのものが大きく変わった。
その結果、現在の地形だけを見て古代・中世・戦国時代を考えると、城や都市がなぜそこに置かれたのか理解できなくなることがある。
安土山が現在よりはるかに水辺に近かった。
佐和山丘陵の麓近くまで松原内湖の水辺環境が及んでいた。
彦根城周辺にも内湖・沼沢地が広がっていた。
こうした事実を復元して初めて、琵琶湖周辺の歴史地理が立体的に見えてくる。滋賀県文化財保護協会
港の位置には理由がある
本章で確認してきたことをまとめれば、琵琶湖の港が生まれる場所には一定の条件があったことが分かる。
単に湖岸であることではない。
風波を避けられる水面。
船を寄せられる地形。
内陸へ続く道路。
物資を運べる河川。
背後の生産地域。
荷物を保管できる土地。
そして別の交通路への接続。
これらが重なった場所に、交通拠点としての価値が生まれる。
そして交通拠点が成長すれば、人が集まる。
人が集まれば市場が生まれる。
市場が生まれれば富が蓄積される。
富と物資が集まれば、それを支配する政治権力も現れる。
ここから港湾史は、城郭史・都市史・政治史へとつながっていく。
しかし、その前にもう一つ検討しなければならない問題がある。
港へ集まった荷物は、その後どのように次の交通手段へ受け渡されたのであろうか。
日本海の船から馬へ。
馬から琵琶湖の船へ。
湖船から陸送へ。
場合によっては、さらに河川船へ。
この輸送手段の切り替えこそが、近江に経済的価値を生み出した最大の要因の一つではなかったか。
次章では、この「積み替え」に焦点を当てる。
近江が単なる通過地ではなく、物流そのものから富を生み出す場所であった可能性を検討していく。
第五章 「積み替え」が富を生んだ――近江は通過地ではなく物流拠点だった
前章まで、近江には多くの街道と港が集まり、琵琶湖がそれらを結びつけていたことを確認してきた。
しかし、ここで一つ重要な問いが残る。
交通路が集まるだけで、その土地は本当に豊かになるのであろうか。
人や荷物が何もせず通り過ぎるだけなら、街道や航路が存在していても、そこへ落ちる利益は限定される。
近江の交通史を考えるうえで、本稿が特に注目したいのは、単なる「通過」ではない。
積み替えである。
日本海を航行する船から陸へ。
馬による陸送から琵琶湖の船へ。
湖船から牛車や馬へ。
場合によっては、さらに別の川船へ。
異なる輸送手段が接続するたびに、荷物は一度止まる。
そこで人が働く。
そこで物資が保管される。
そこで取引が行われる。
そして、その「止まる場所」に経済が生まれる。
本章では、近江の豊かさを単純な農業生産力だけではなく、物流を変換する能力から考えてみたい。
一本の船で敦賀から京都までは行けない
現代のトラック輸送に慣れた私たちは、一度積んだ荷物が目的地までそのまま運ばれる姿を想像しやすい。
しかし、前近代の物流は必ずしもそうではない。
北陸方面から都へ物資を運ぶ場合を考えてみよう。
日本海側の物資は船で敦賀へ入る。
しかし日本海を航行してきた船が、そのまま琵琶湖へ入ることはできない。
敦賀と琵琶湖の間には山地がある。
したがって敦賀で荷物を降ろし、陸上輸送へ切り替える必要がある。
滋賀県文化財保護協会は、塩津の交通について、北陸から船で敦賀へ到着した荷物が馬に積まれ、深坂峠を越えて塩津へ運ばれ、そこで再び船へ積み替えられて琵琶湖を南下し、大津・坂本方面から都へ向かった様子を紹介している。運ばれた物資として米、魚、各地の特産物などが挙げられている。 滋賀県文化財保護協会
物流の流れを整理すると、
日本海航路
→ 敦賀で荷揚げ
→ 馬による山越え
→ 塩津で再び荷降ろし
→ 琵琶湖船へ積載
→ 大津・坂本で荷揚げ
→ 陸送
→ 京都
となる。
一つの荷物が目的地へ着くまでに、何度も輸送手段を変えているのである。
ここに、近江の経済構造を考える鍵がある。
荷物が止まれば、仕事が生まれる
塩津で船から荷を降ろし、あるいは馬から船へ荷を移すとする。
当然ながら荷物が自分で移動するわけではない。
人間が運ばなければならない。
荷を受け取る。
数量を確認する。
積み替える。
一時的に保管する。
次の船を手配する。
馬を用意する。
荷縄や俵を整える。
船や馬の到着を待つ。
天候が悪ければ荷物も人も滞在する。
すると物流拠点には、輸送を直接担当する船頭や馬方だけではなく、宿泊、飲食、保管、商業、船舶の維持、場合によっては金融などの機能まで集まり始める。
中世の大津では、馬借と呼ばれる運送業者や土倉と呼ばれる金融業者の活動が社会的な影響力を持つまでになったことを、大津市も紹介している。 大津市公式サイト
もちろん、これらすべてが「積み替えだけ」によって生まれたとするのは行き過ぎである。
しかし、交通量の多い場所ほど、輸送に付随する仕事が成立しやすいことは理解できる。
つまり、近江の港や宿場が持っていた経済的価値は、物資を生産することだけではない。
物を動かすことそのものが産業になっていたのである。
「通過地」と「物流拠点」は違う
ここで、本稿では二つの土地を区別したい。
一つは、物資が単純に通過していく場所。
もう一つは、物資がいったん集まり、保管され、輸送手段を変え、別の方向へ送り出される場所である。
後者を本稿では物流拠点として捉える。
この違いは重要である。
仮に一日に大量の荷物が道路を通過していても、そこに止まらなければ、地域経済への直接的な効果は小さい。
しかし港で一度荷を降ろさなければならないなら、話が変わる。
荷役が必要になる。
保管場所が必要になる。
次の船や馬が必要になる。
人々の滞在時間も長くなる。
さらに、複数方向から荷物が集まれば、そこで取引することも可能になる。
つまり積み替え地点には、
「交通量」だけではなく「滞留」が発生する。
この滞留こそが、経済活動を生み出す。
現代の港湾都市や物流センターでも同じ原理を見ることができるが、近江ではそれが海・湖・河川・街道という異なる輸送体系の境界で繰り返し発生していたと考えられる。
朝妻も「陸から水」への変換点だった
塩津だけではない。
湖東の朝妻湊も同様の視点から理解できる。
朝妻湊は天野川河口付近に位置し、東山道を通じて美濃方面へ、また北陸方面へも接続する重要港であった。米原市は、朝妻を畿内と東国を結ぶ湖上ルートの入口とし、大津・坂本方面を経て都へつながる港であったとしている。 米原市公式サイト
この位置は偶然ではない。
東から陸路を通ってきた人や物が、そのまま京都まで陸送されることもあったであろう。
しかし朝妻で琵琶湖へ出れば、以後は船へ輸送を切り替えることができる。
つまり、
美濃・東国からの陸上輸送
→ 朝妻
→ 琵琶湖水運
→ 大津・坂本
→ 山城
という変換が可能になる。
朝妻が重要なのは「そこに港があったから」だけではない。
東西陸上交通と湖上交通を交換できる位置にあったから重要なのである。
近年の米原市の研究でも、古代東山道と琵琶湖交通を組み合わせて「都と東国を結ぶ米原」が検討されている。 米原市公式サイト
この視点から見ると、近江の港はそれぞれ独立して存在していたわけではない。
異なる方向から来る交通を、琵琶湖という共通の輸送空間へ接続する変換装置だったことになる。
大津では「水から陸」へ変わる
湖北の塩津で陸から湖へ変わった荷物は、湖南まで来れば再び陸へ戻る。
その代表が大津である。
江戸時代の資料ではあるが、大津から京都へ向かう物資輸送の姿は非常に分かりやすい。
滋賀県文化財保護協会は、東国・北陸方面から琵琶湖水運によって大津へ集積した物資が、そこで馬の背や牛車へ積み替えられ、東海道を通って逢坂山を越え、京都や大阪方面へ運ばれたとしている。 滋賀県文化財保護協会
大津市の資料でも、江戸時代に琵琶湖水運で大津へ運ばれた米などの物資が、山科を通る東海道を使って京都へ輸送されており、その大量輸送を支えるために車石が整備されたことが確認できる。 大津市公式サイト
ここで注目したいのは、時代を越えて同じ構造が残っていることである。
北や東から来た物資が琵琶湖を使って大津へ集まる。
大津で船から荷を降ろす。
今度は陸上輸送へ切り替える。
そして逢坂を越えて京都へ向かう。
輸送技術や制度は変わっているが、大津が水運と陸運の境界であるという地理条件そのものは変わっていない。
大津が商業都市として発展した理由を考える際には、この「水から陸への積み替え」という機能を外すことはできない。
大津百艘船が示す「荷物を握る」ことの価値
積み替え地点に経済的価値があったことを、さらに明瞭に示すのが大津百艘船である。
大津市歴史博物館によれば、豊臣秀吉の時代、大津城築城に伴って大津町が形成され、その中心的な仕組みの一つとして大津百艘船が組織された。
天正十五年(一五八七)には浅野長吉によって大津百艘船へ特権が与えられ、大津の荷物や旅人を他所から入ってきた船へ勝手に積ませない、という内容が定められた。この権利は江戸時代にも継承された。 大津市歴史博物館
つまり大津の船仲間は、
「大津から出ていく荷物と人を誰が運ぶのか」
という部分に強い権利を持ったのである。
これは極めて重要である。
船そのものに価値があっただけではない。
積み替え地点で荷物を握る権利そのものに価値があった。
大津市歴史博物館も、大津百艘船の最大の特権を、大津から他の港へ向かう荷物・旅人輸送の独占にあったと説明している。 大津市歴史博物館
物流支配とは、物資の所有者になることだけを意味しない。
どの船に載せるかを決める。
誰が運ぶかを決める。
どの港から出すかを管理する。
これもまた経済支配なのである。
この構造を理解すると、後に信長・秀吉・徳川政権が琵琶湖水運を統制しようとした理由も見えてくる。
堅田は「通航そのもの」から利益を得た
さらに興味深い例が堅田である。
堅田は琵琶湖の最狭部付近に位置し、中世には湖上交通に大きな影響力を持った。
滋賀県文化財保護協会によれば、堅田の人々は琵琶湖を航行する船を賊から守る代わりに「上乗」と呼ばれる警護料を得たほか、湖上関を設けて通行する船から通行料を徴収したとされる。 滋賀県文化財保護協会
ここでは積み替えさえ必要ない。
船がそこを通ること自体が経済価値になっている。
これは交通の要衝が持つもう一つの力を示している。
物流量が多くなれば、その流れを保護する仕事が生まれる。
航行秩序を管理する権利が生まれる。
通行料を徴収することも可能になる。
やがてその権利をめぐって政治勢力との関係も生じる。
物流は経済だけでなく、権力を生むのである。
なぜ「積み替え」が富につながるのか
ここまでの事例から、本稿では一つの仮説を提示したい。
近江の経済的重要性を考える際、農地の広さや収穫量だけを見るのでは足りない。
近江には、輸送手段が変わる場所が多かった。
敦賀―塩津では、海・陸・湖が接続する。
美濃―朝妻では、陸・湖が接続する。
琵琶湖南端の大津では、湖・陸が接続する。
若狭方面でも、山越えの道と湖岸港が結ばれる。
このたびに荷物が止まる。
人が集まる。
サービスが必要になる。
そして最終的には、物資を扱う権利そのものが財産になる。
経済学の言葉を借りれば、近江は単なる輸送路ではなく、異なる輸送モードを接続する結節点であったと言える。
ただし、これは近代的物流概念をそのまま古代へ当てはめるという意味ではない。
本稿では、古代・中世の史料に見える具体的な輸送実態を説明するための分析概念として用いている。
そのうえで見るならば、
近江の価値は「物が通ること」だけではなく、「物を次の輸送体系へ渡すこと」にあった。
という見方が成立する。
輸送費そのものが国家制度に組み込まれた
このことをさらに強く示すのが、前章で触れた『延喜式』の運賃規定である。
北陸諸国から運ばれる物資について、敦賀から塩津までは陸上輸送の駄賃、塩津から大津までは船賃というように、輸送区間ごとに費用が設定されていた。
つまり国家は、
どこで輸送方法が変わるのか
を理解していた。
そして、その変換には費用がかかることも理解していた。
これは近江の物流拠点を考えるうえで極めて重要である。
物流は無料ではない。
船頭にも対価が必要である。
馬を使えば駄賃が必要になる。
荷物を扱うにも人手がかかる。
したがって、巨大な物流が動けば、同時に大量の経済活動が発生する。
都へ運ばれる租税物資だけを見れば、荷は中央へ吸い上げられているように見える。
しかし、その途中では輸送に関わる人々へ対価が支払われる。
そこに交通産業が成立する余地が生まれる。
倉庫が生まれる理由
積み替えがある以上、すべての交通機関が同時刻に到着するとは限らない。
敦賀から馬が着いても、船がまだ来ていないことがある。
船が到着しても、風が強くて出航できない。
大津へ船が着いても、京都へ向かう荷車の準備が整っていないこともある。
そこで必要になるのが、一時保管である。
この意味で、物流拠点に倉庫が存在するのは自然な流れである。
物資を安全に保管する。
数量を確認する。
所有者や送り先ごとに分ける。
再び積み直す。
港町や宿場が大きくなるにつれ、この保管機能も重要になったと考えられる。
近世大津では、米や木材などの物資が大量に集まり、商業都市として発展したことが大津市の資料からも確認できる。 大津市公式サイト
古代から近世まで同じ制度が続いたわけではない。
しかし、積み替え地点には保管機能が必要になるという物流上の原理自体は変わらない。
この視点から、今後は古代の倉庫遺構や官衙、港湾遺跡についても検討する必要がある。
情報もまた「積み替え」られる
そして物資の流れは、人と情報の流れでもある。
塩津に北陸から人が来る。
朝妻には東国から人が来る。
大津にはそれらの人々がさらに集まる。
商人、船頭、馬借、役人、僧侶、使者、軍人、旅人。
異なる地域から来た人々が同じ港や宿場で出会う。
そこでは商品の値段だけではなく、
どこの道が通れるか。
どこで戦が起きているか。
今年の収穫はどうか。
どこの大名が動いたか。
船はいつ出るか。
どの港が安全か。
といった情報も交換される。
この問題は後の章で詳しく扱うが、物流拠点が同時に情報拠点になる理由はここにある。
物資の積み替えは、結果として人と情報を交差させるのである。
物流を支配することは、経済を支配することである
ここまで来ると、琵琶湖をめぐって政治勢力が水運支配を重視した理由が見えてくる。
滋賀県文化財保護協会の特別展でも、信長・秀吉・家康による琵琶湖支配が、湖上交通や城郭配置と一体の問題として扱われている。 滋賀県文化財保護協会
船を所有する。
港を押さえる。
荷物の輸送権を与える。
船奉行を置く。
通行を保障する。
これらは単なる交通行政ではない。
大量の物資を誰が動かすのかを決める行為である。
したがって、
物流支配=経済支配=軍事兵站の支配
という関係が生まれる。
戦争になれば、商人が運んでいた米を兵糧として運ぶことができる。
通常は旅人を乗せる船に、兵士や武器を乗せることもできる。
港に集まる情報も軍事的価値を持つ。
平時の物流能力は、戦時には兵站能力へ転換し得るのである。
これが、後に信長・秀吉が琵琶湖周辺の城と水運を重視した理由を考える一つの手がかりになる。
近江は巨大な「変換地」だった
ここで本章の問いへ戻る。
なぜ近江では、交通が富を生み出すことができたのか。
本稿の答えは明確である。
近江は、単に交通量が多かったから重要だったのではない。
異なる交通体系が近江で接続し、荷物を一度止めなければならなかったからである。
日本海から来た物資を受け取る。
馬へ積む。
山を越える。
湖船へ載せる。
琵琶湖を航行する。
大津で再び荷を降ろす。
陸送へ切り替える。
その一つ一つに人間の仕事が発生する。
人が働けば町が生まれる。
荷物が集まれば商業が生まれる。
商業が生まれれば富が蓄積する。
富と交通量が増えれば、その権利を支配しようとする勢力が現れる。
したがって近江を、
「京都へ向かう通り道」
とだけ考えるのは、本質を捉えていない。
より正確には、
近江は日本海・東国・畿内を行き交う物資を受け取り、保管し、輸送方法を変え、再び送り出す巨大な物流変換地であった。
と見るべきである。
そして、この構造をさらに広域から眺めると、二つの巨大な海への玄関が浮かび上がる。
北の敦賀。
そして南西の難波。
一方は日本海へ開き、一方は瀬戸内海・大阪湾へ開く。
その二つの間に、琵琶湖と近江、そして山城が存在する。
次章では視野をさらに広げ、**「難波と敦賀――古代国家の二つの海の玄関」**という観点から、近江が列島規模の物流網の中でどの位置にあったのかを検証する。
第六章 難波と敦賀――古代国家を支えた二つの海の玄関
ここまで、近江を中心として北の敦賀、西の若狭、東の美濃、南の山城・難波、南東の伊勢へ広がる交通構造を見てきた。
しかし、近江の役割をより明確にするためには、一度琵琶湖から視線を外し、列島の外側にある二つの海を見る必要がある。
一つは瀬戸内海である。
もう一つは日本海である。
その二つの海に向かって、古代の畿内国家はそれぞれ重要な玄関を持っていた。
南西の難波。
北の敦賀。
もちろん、両者がまったく同じ制度・同じ規模・同じ時代に同じ役割を果たしたという意味ではない。
難波には宮都が置かれ、国家政治そのものの中心となった時期がある。一方、敦賀は都ではないが、日本海交通と畿内を結ぶ重要な港湾・外交・物流拠点として機能した。
両者の役割は異なる。
しかし列島規模で交通構造を眺めると、この二つを対置することで、近江がどこに位置していたのかが極めて明瞭になる。
難波――大和王権が海へ開いた玄関
古代の難波は、現在の大阪市域に存在した単なる一地方都市ではない。
大阪市立図書館は、難波津を大和王権の「海への玄関口」と位置づけ、中国大陸・朝鮮半島からもたらされた文化や技術が、この港を通じて畿内へ入ったとしている。さらに、現在の大阪歴史博物館周辺では、五世紀の大型倉庫群が発見されている。大阪市オープンデータサイト
この大型倉庫群は非常に重要である。
港に船が到着する。
物資が降ろされる。
しかし、それを直ちにすべて大和へ運ぶとは限らない。
一時的に保管し、数量を管理し、送り先ごとに振り分ける施設が必要になる。
つまり難波には、少なくとも五世紀段階ですでに、港湾と物資集積を組み合わせた国家的物流拠点が成立していたことになる。
ここでも前章で見た「集積」と「再配分」という機能が現れている。
難波津は単なる上陸地点ではなかったのである。
海の玄関のそばに政治中枢を置く
六四五年、乙巳の変の後、孝徳天皇は難波へ移り、前期難波宮が造営された。
発掘調査によって、難波宮には大規模な宮殿施設が存在したことが明らかになっている。大阪市も、難波を古来アジアにつながる交通・交易拠点であり、海外使節や新しい物・情報が集まる場所であったことを、難波宮造営の重要な背景としている。大阪市公式ウェブサイト
ここに一つの大きな意味がある。
飛鳥の政治中枢は内陸部にあった。
これに対して難波は海へ直接開いている。
つまり難波宮には、
政治中枢を海上交通の玄関近くへ置く
という性格があったと考えられる。
これは単に「海が近かったから便利だった」という話ではない。
七世紀は、朝鮮半島情勢、中国王朝との外交、遣隋使・遣唐使など、列島外との政治関係が国家運営そのものに大きな意味を持った時代である。
外国使節が来る。
使節を送り出す。
情報が入る。
技術が入る。
物資が入る。
場合によっては軍事行動のために人や船も動く。
そうした時代に、瀬戸内海の東端に位置する難波は、極めて大きな戦略的価値を持った。
大阪市は、難波宮の時代の大阪について、中国大陸や朝鮮半島との往来における交通の中心であったとしている。大阪市公式ウェブサイト
難波宮を考える際には、宮殿だけを見てはならない。
宮殿+港+倉庫+瀬戸内海交通
という一体的な構造を見る必要がある。
難波は「西の終点」ではなく、西日本・海外への入口だった
畿内側から見ると、難波は海への出口である。
しかし瀬戸内海側から見れば、逆に畿内への入口となる。
九州、中国・四国地方から瀬戸内海を東へ進んだ船にとって、難波はその先に大和・山城という政治中枢を持つ重要な到達点であった。
さらに海の向こうには朝鮮半島、中国大陸がある。
したがって難波では、
海外・西日本
↓
瀬戸内海
↓
難波
↓
河川・陸路
↓
大和・山城
という流れが成立する。
逆方向なら、
大和・山城
↓
難波
↓
瀬戸内海
↓
九州・朝鮮半島・大陸
となる。
難波の価値とは、海と政治中枢との境界にあったことなのである。
敦賀――日本海側の天然の良港
では、北側はどうであったのか。
そこに敦賀がある。
敦賀市は、敦賀湾が半島と海岸地形によって日本海の風波から守られた天然の良港であることを説明している。福井県も、敦賀港を古くから日本とアジア大陸を結ぶ交流・交易の拠点として位置づけている。敦賀市公式サイト
敦賀もまた、単なる北陸地方の一港ではない。
日本海を北へ進めば越前、加賀、能登、越中、越後へつながる。
海を越えれば朝鮮半島や大陸方面へ開く。
そして南へ山を越えれば、そこには琵琶湖がある。
この立地こそが敦賀を特別な港にした。
敦賀には外国使節を迎える施設まで置かれた
敦賀の国際的性格を象徴するのが、渤海使である。
敦賀市は、古代の敦賀について朝鮮半島・中国大陸との交流が盛んであり、渤海国からの使節を迎えるための松原客館が置かれていたとしている。敦賀市公式サイト
渤海は七世紀末から十世紀にかけて、中国東北部から朝鮮半島北部、沿海州方面に広がった国家である。
その渤海から日本へ派遣された使節を受け入れる施設が敦賀に置かれていたという事実は、敦賀が単なる国内輸送港ではなく、外交の玄関口でもあったことを示している。
これは難波との比較において非常に興味深い。
難波には、中国大陸・朝鮮半島方面からの人・文化・情報が瀬戸内海を通じて入った。
敦賀には、日本海を越えて渤海方面から人・情報が入った。
つまり古代国家は、列島外部への窓を一方向だけに持っていたのではない。
瀬戸内海側にも、日本海側にも外の世界へ開く窓が存在した。
敦賀の価値は「港の後ろ」に琵琶湖があったことにある
しかし、本稿が敦賀を重視する最大の理由は、国際港であったことだけではない。
敦賀の南に近江が存在したことである。
日本海から敦賀へ入った物資を、そのまま陸上輸送だけで京都まで運ぶ必要はない。
敦賀から山地を越え、塩津へ出れば、そこから琵琶湖水運を利用できる。
『延喜式』に記された輸送規定では、北陸諸国から敦賀へ入った物資について、敦賀から塩津までの陸送費、塩津から大津までの船賃が定められていたことは、すでに前章で確認した通りである。
すなわち、
北陸・日本海
↓
敦賀
↓
陸路
↓
塩津
↓
琵琶湖
↓
大津
↓
山城
という物流体系が、国家制度の中に組み込まれていた。
ここで初めて、近江の位置がはっきりする。
敦賀そのものが畿内ではない。
しかし敦賀と都を結ぶためには、近江が極めて重要になる。
敦賀が北の海の玄関なら、琵琶湖はその玄関から畿内へ物資を送る巨大な内陸回廊だったのである。
難波と敦賀は同じ「港」ではない
ここで注意しておきたい。
難波と敦賀を「二つの海の玄関」と表現するのは、本稿の交通史上の分析枠組みである。
両者を完全に対称な港として扱うものではない。
難波には宮都が置かれた。
大和王権の政治中枢そのものが、一時期そこへ移った。
大規模倉庫も存在し、瀬戸内海交通、外交、政治機構が極めて近い距離に集中していた。
これに対して敦賀は、首都ではない。
その主な特徴は、日本海航路と北陸道、さらに近江方面への陸路が接続する外港・中継港としての性格にある。
つまり、
難波=海港+集積地+政治中枢
に対して、
敦賀=海港+外交拠点+内陸物流への接続点
という違いがある。
しかし、畿内国家が外部世界や広域物資と接触する場所として見るなら、両者は重要な比較対象となる。
二つの海と畿内の間に何があるのか
ここで列島の地形を大きく見てみよう。
北には日本海。
南西には瀬戸内海・大阪湾。
その間に山城・大和という政治中枢がある。
そして、その北側に琵琶湖がある。
大きく整理すれば、
日本海
↓
敦賀
↓
湖北・琵琶湖
↓
大津
↓
山城
という北方回廊と、
山城・大和
↓
河川・陸路
↓
難波
↓
瀬戸内海
という南西回廊が存在する。
この二つを一続きに見れば、
日本海―敦賀―近江―山城・大和―難波―瀬戸内海
という列島中央部を縦断する巨大な交通軸が浮かび上がる。
これは、すべての物資が必ずこの一本道を通ったという意味ではない。
時代によって経路は異なり、若狭経由、東国方面、伊勢方面など別のルートも存在する。
しかし地形構造として、日本海と瀬戸内海を畿内中枢を介してつなぐ軸が存在したことは、本稿の近江論を考えるうえで重要である。
古代国家は一つの海だけを向いていたのではない
日本古代史を外交から見ると、ともすれば瀬戸内海―九州―朝鮮半島という南西方向に視線が集中する。
確かにこの軸は極めて重要である。
しかし日本海側にも別の国際交流圏があった。
敦賀に渤海使を迎える松原客館が置かれたことは、その象徴である。敦賀市公式サイト
つまり古代国家の対外交通は、
西へ向かう瀬戸内海ルート
だけではなく、
北へ向かう日本海ルート
も持っていた。
この視点を入れると、琵琶湖の価値も変わって見える。
琵琶湖は内陸の湖でありながら、日本海国際交通と畿内中枢の間に位置していた。
これは単なる国内交通の問題ではない。
場合によっては、海外から来た人や情報が敦賀を経由し、近江を通って都へ向かう可能性を含む。
つまり近江は、国内物流と国際交通が接続する背後圏でもあったのである。
難波には「政治」が集まり、敦賀には「北の世界」が接続した
この二つの港を比較すると、古代国家の構造がより立体的になる。
難波には海運だけでなく宮殿が置かれた。
そこには政治権力そのものが存在した。
敦賀には日本海航路が集まり、北陸諸国や海の向こうの世界が接続した。
その敦賀を畿内へつないだのが、湖北と琵琶湖であった。
したがって、近江を理解するためには、
「京都に近い」
という一点だけでは足りない。
近江の向こう側に敦賀がある。
さらに敦賀の向こう側に日本海がある。
その反対側には難波があり、さらに瀬戸内海がある。
近江は、この二つの海の間に存在する巨大な交通体系の一部分だったのである。
なぜ都の位置は交通と切り離せないのか
ここまで考えると、次に一つの疑問が生じる。
政治中枢は、なぜ飛鳥、難波、大津、平城、長岡、平安と移動したのであろうか。
もちろん遷都の理由を交通だけで説明することはできない。
政治権力の再編。
豪族との関係。
宮殿建設。
水害。
防御。
祭祀。
王権の象徴性。
それぞれの時代に固有の事情がある。
しかし、都が巨大な消費地であり、人・物・情報を集めなければ維持できない以上、交通条件を無視して都の立地を理解することもできない。
特に難波宮は海への接続を明瞭に示す。
大津宮は琵琶湖交通のすぐそばに置かれた。
長岡京は複数の河川交通と接する位置にある。
平安京の東には大津と琵琶湖があり、南には淀川水系がある。
こうした都城の配置を並べると、古代国家が政治中枢を置いた場所と広域交通との関係を改めて検討する必要が出てくる。
本稿では、「交通が便利だから都がそこへ移った」という単純な因果関係を提示するつもりはない。
むしろ、
政治・軍事・祭祀・地形など複数の条件の中で、物流と交通がどの程度の意味を持っていたのか。
という問いを立てたい。
難波と敦賀を見たことで、その問いを考える準備が整った。
次章では、大和・難波・近江・山城へ視野を広げ、
第七章 都は何を求めて移動したのか――大和・難波・近江・山城
古代日本の都を年代順に並べると、政治の中心が各地を転々としているように見える。
飛鳥から難波へ。
再び飛鳥へ。
近江大津へ。
藤原京、平城京。
さらに聖武天皇の時代には恭仁京、難波、紫香楽へと政治中枢が動き、その後再び平城京へ戻る。
そして長岡京を経て、平安京へ至る。
この動きを、単純に「より便利な土地を求めて都が移動した」と理解することはできない。
皇位継承。
政権内部の政治関係。
外交・軍事情勢。
寺院勢力との関係。
宮殿造営。
災害。
祭祀や地相。
それぞれの遷都には固有の事情が存在した。
しかし第一章で確認したように、都は巨大な消費地でもある。
人が集まり、役所が置かれ、宮殿や寺院が造営されれば、食料・木材・瓦・鉄・布・燃料を継続して運び込まなければならない。
したがって、遷都の理由を交通だけに求めることはできない一方、交通と物流を無視して都城立地を理解することもできない。
本章では、この二つを区別しながら、古代国家が都を置いた土地にどのような交通条件があったのかを見ていく。
藤原京――巨大な計画都市を大和盆地に造る
持統八年(六九四)、都は藤原京へ移った。
奈良文化財研究所は藤原京を、日本で初めて「首都として計画的に造られた都市」と説明している。中央に藤原宮を置き、その周囲を条坊道路によって区画した大規模な都市であり、近年の発掘調査によって、かつて想定されていた以上に広大な都であったことが明らかになってきた。名文研
ここで注目したいのは、藤原京が道路とは無関係な場所に突然造られた都市ではなかったことである。
橿原市によれば、藤原京の範囲を考える際には、中ツ道、下ツ道、横大路、山田道など、大和盆地を通る古道との関係が重要な手掛かりとなってきた。橿原市公式サイト
つまり藤原京は、内陸都市ではあるが孤立していたわけではない。
大和盆地内部に形成されてきた道路網を基礎として、巨大な政治都市が造られたのである。
しかし、ここで一つの物流上の特徴がある。
藤原京は海港都市ではない。
琵琶湖のような巨大水運路にも直接面していない。
したがって、遠隔地から届く物資を最終的に大和盆地へ運び込むためには、河川交通と陸上交通を組み合わせなければならない。
この問題は、次の平城京になるとさらに明瞭になる。
平城京――内陸都市だからこそ運河を造った
和銅三年(七一〇)、都は平城京へ移る。
平城京は奈良盆地北端に造られた巨大な計画都市であり、平城宮には内裏、大極殿院、朝堂院などの国家中枢施設が置かれ、その南側には大規模な京域が展開した。名文研
しかし平城京を本稿の視点から見ると、非常に興味深い事実がある。
都の内部に人工の運河が造られていた。
奈良文化財研究所によれば、平城京では陸路だけではなく水運も重要な輸送手段であり、東市を通る東堀河、西市付近の西堀河といった人工水路が整備され、商品の運搬と排水に利用されていた。名文研
これは重要である。
平城京は大河川や海港に直接面していない。
しかし大量物資を必要とする都市である以上、水運の利点を捨てたわけではなかった。
むしろ、
水路が足りなければ造る。
という形で都市内部へ水運を引き込んでいる。
平城京の東西には国営市場があり、その市場へ物資を運ぶために運河が利用されたという事実は、古代国家が都市設計と物流を別々に考えていなかったことを示している。
都城とは宮殿だけを配置するものではない。
人を住まわせる。
市場を置く。
道路を引く。
水路を造る。
そして地方から届く物資を都市内部へ分配する。
都市そのものが、一つの巨大物流システムなのである。
平城京だけを見ていては都城史は理解できない
ただし、藤原京から平城京、そして長岡京へ一直線に都が移動したように描くのも正確ではない。
奈良時代の途中には、聖武天皇による激しい宮都移動があった。
天平十二年(七四〇)、平城京から恭仁京へ遷都する。
現在の京都府木津川市である。
木津川市によれば、恭仁京の置かれた加茂盆地は木津川に面し、古代から水陸交通の要衝であった。平城京から東国へ向かう官道も通り、岡田駅が設けられていた。木津川市公式サイト
さらに京都府の研究資料では、恭仁宮の立地を、木津川を利用した物資輸送に適した場所として評価している。甲賀市公式サイト
ここでも水運が現れる。
木津川は下流で宇治川・桂川系統と合流し、淀川を経て大阪湾へつながる。
そして上流・陸路方向には大和・伊賀方面がある。
つまり恭仁京は、小さな盆地に置かれた短命の都ではあるものの、物流地理から見ると決して辺鄙な場所ではない。
むしろ大和・山城・淀川水系を結ぶ交通結節点の一つであった。
紫香楽宮――近江側へ政治中枢が接近した時代
聖武天皇はさらに紫香楽へ宮を造営する。
現在の滋賀県甲賀市である。
甲賀市によれば、紫香楽宮は天平十五年から十七年頃にかけて造営され、信楽盆地北部の広い範囲に宮殿や寺院などの関連遺跡が分布している。甲賀市公式サイト
紫香楽宮を本稿で重要視したい理由は、これが近江国南部に置かれた政治拠点だからである。
ただし、紫香楽宮を「琵琶湖水運を利用するための都」と単純化することはできない。
信楽は琵琶湖岸ではない。
山地に囲まれた盆地であり、大津や湖東平野とは地形的条件が異なる。
それでも、平城京から恭仁京、さらに紫香楽宮へと政治中枢が移動した時期が存在することは、「都は大和盆地でなければならない」という固定観念が古代国家に存在していなかったことを示している。
そして恭仁と紫香楽の間には道路まで整備されたことが研究から確認されている。甲賀市公式サイト
つまり国家は、宮を移すだけではない。
宮と宮を結ぶ交通路まで造る。
政治中枢の移動とは、それに伴う物流網の組み替えでもあったのである。
難波――内陸国家が海へ直接接続する都
さらに注目すべきなのが難波である。
前章で見たように、難波は瀬戸内海・大阪湾に開いた海上交通の玄関であった。
飛鳥や平城京のような内陸都市とは、性格が大きく異なる。
海の向こうから船が来る。
瀬戸内海から西国の物資が来る。
外交使節が来る。
港近くには物資集積施設が存在する。
そして、そのすぐ近くに宮が置かれた。
つまり難波では、
港湾機能と政治機能が非常に近い距離にあった。
これは、古代国家が都を置く場所として必ずしも内陸部だけを選んでいなかったことを示す。
そして聖武天皇期にも、一時的ながら難波へ政治中枢が移された。
古代の宮都移動を見ると、
大和。
難波。
近江。
山城。
という異なる地理条件を持つ地域が、繰り返し国家政治の舞台となっているのである。
近江大津宮――なぜ琵琶湖の岸へ都を移したのか
この中でも、本稿にとって特に重要なのが近江大津宮である。
天智六年(六六七)、中大兄皇子は飛鳥から近江へ都を移した。
翌年即位して天智天皇となり、近江大津宮は六七二年の壬申の乱まで、約五年間国家の中心となった。大津市歴史博物館
遷都の背景には、白村江敗戦後の東アジア情勢という重大な問題があった。
六六三年の白村江の戦いで倭国軍は唐・新羅連合軍に敗北し、その後、列島では北部九州から瀬戸内海にかけて防衛施設の整備が進められる。
大津市歴史博物館も、この緊迫した国際情勢の中で大津遷都が行われたことを指摘している。大津市歴史博物館
しかし、大津遷都の理由を「敵から逃げるため」あるいは「防御のため」だけに説明するのは慎重であるべきだろう。
大津には別の性格もあった。
大津市歴史博物館は大津について、瀬田川と古代街道などが交差する国内有数の交通の要所であり、文物や情報が集積する場所であったと説明している。大津市歴史博物館
ここが本稿では非常に重要である。
大津の目の前には琵琶湖がある。
北へ行けば湖北を経て敦賀へつながる。
湖東を通れば東山道から美濃へつながる。
瀬田方面へ進めば東海道系統へ接続する。
西へ山を越えれば山城である。
つまり大津宮は、
琵琶湖水運と東西陸上交通が交差する地点に置かれた都
でもあった。
大津宮の「弱点」も交通の裏返しだった可能性
交通の要所であるということは、必ずしも利点だけを意味しない。
道が集まれば、人も集まる。
物資も集まる。
しかし同時に、敵軍もそこへ向かうことができる。
壬申の乱では、最終局面で瀬田橋周辺が重要な戦場となった。
つまり、交通路を支配しやすい場所は、逆に交通路を突破された場合には政治中枢へ敵が到達しやすい。
これは後世の近江でも繰り返し見られる現象である。
近江が軍事的重要地域となる理由は、山城のように閉じた地形だからではない。
むしろ、交通が開かれているからこそ軍事的にも重要なのである。
大津宮の立地は、物流と軍事が表裏一体であることを示す早い例の一つとして考えることができる。
ただし、大津遷都の動機そのものを交通条件だけで説明することはできない。
本稿で重視するのは、
大津が都として選択可能な土地であった背景には、琵琶湖・瀬田川・街道が交差する高度な交通条件が存在した。
という点である。
長岡京――水運の利便性が明瞭に現れる都
延暦三年(七八四)、桓武天皇は平城京から長岡京へ遷都する。
長岡京市は、その立地について非常に明確な説明をしている。
乙訓地域は京都盆地と大阪平野を結ぶ交通の要衝であり、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる地域に近く、水陸交通に優れていた。長岡京への遷都にも、この交通条件が大きく関係したとされる。長岡京市公式サイト
さらに長岡京は、淀川など大きな河川を利用できる「水陸交通の便利な都」であった。長岡京市公式サイト
これは、本稿の議論にとって極めて重要である。
平城京では、都市内部へ物資を運ぶために人工運河を造った。
これに対して長岡京では、都市のすぐ近くに巨大な河川交通網が存在する。
桂川。
宇治川。
木津川。
そして淀川。
それらは単なる地域河川ではない。
上流・下流を通じて、
山城。
大和。
近江方面。
大阪湾。
瀬戸内海。
を結び得る交通体系である。
長岡京の立地を見ると、都の物流が「道路をどれだけ造るか」という段階から、巨大な自然河川網へ直接接続する立地そのものを利用する方向へ進んでいるように見える。
しかし水は「利便」であると同時に「危険」でもある
ところが、川に近いことは利点だけではない。
長岡京市によれば、延暦十一年(七九二)には大洪水が発生している。その後、延暦十三年(七九四)に平安京へ遷都し、長岡京は約十年で都としての役割を終えた。長岡京市公式サイト
もちろん、長岡京から平安京への遷都を洪水だけで説明することはできない。
早良親王をめぐる政治問題など、複数の事情が存在する。
しかしここでも、水運の二面性が表れる。
川があれば船を動かせる。
物資を運べる。
人を集められる。
しかし洪水も起きる。
都市を維持するには、水を利用すると同時に、水を制御しなければならない。
この問題は平安京へも引き継がれる。
平安京――複数方向へ開く都
延暦十三年(七九四)、桓武天皇は平安京へ遷都する。
京都市の史料には、平安京の立地について、山川に恵まれていることに加え、四方から人々が往来しやすいことが選地上の条件として意識されていたことが示されている。京都文化遺産
これは本稿にとって非常に重要な記述である。
少なくとも当時の都城選定において、
交通の便そのものが評価対象となっていた
ことが分かる。
平安京は京都盆地北部に置かれた。
東には鴨川。
西には桂川。
南へ行けば桂川・宇治川・木津川が集まり、淀川水系へつながる。
京都市の文化遺産資料も、平安時代の河川が人と物を運ぶ重要な交通路であり、鴨川下流と桂川の合流付近には港が置かれ、地方との流通を支えていたとしている。京都文化遺産
つまり平安京は、内陸都市ではある。
しかし水運から離れた都市ではない。
南側には淀川水系への出口がある。
そして東側には、もう一つ重要な出口があった。
平安京の東に大津がある意味
平安京の東側には東山がある。
その山を越えると大津である。
逢坂は古代以来の重要交通路であり、大津市歴史博物館によれば、延暦十四年(七九五)にはすでに関所の前身にあたる施設が設けられ、その後も東海道方面の重要な交通拠点となった。大津市歴史博物館
これは平安京と琵琶湖との関係を考えるうえで極めて重要である。
京都盆地そのものは琵琶湖に面していない。
しかし、
平安京
↓
山科・逢坂
↓
大津
↓
琵琶湖
という短い接続によって、都は巨大な湖上交通網へアクセスできる。
その先には、
湖東。
湖北。
敦賀。
若狭。
美濃。
がある。
したがって平安京は、
南では淀川水系によって難波・大阪湾方面へ、
東では大津を介して琵琶湖・北陸・東国方面へ
接続可能な位置にある。
これは長岡京とは異なる大きな特徴である。
平安京は二つの巨大物流圏の間にあった
ここまでの議論を大きく整理すると、平安京の位置が非常に興味深く見えてくる。
南西を見る。
桂川・宇治川・木津川。
それらが合流して淀川となり、大阪湾へ向かう。
その先には難波がある。
東を見る。
逢坂を越えれば大津。
そこから琵琶湖。
さらに北へ行けば敦賀。
つまり平安京は、
難波・大阪湾へ向かう南西の水運体系と、
大津・琵琶湖・敦賀へ向かう北東の交通体系との間
に位置している。
これをさらに広げれば、
日本海
↓
敦賀
↓
琵琶湖
↓
大津
↓
平安京
↓
淀川水系
↓
難波・大阪湾
↓
瀬戸内海
という巨大な南北交通軸が見えてくる。
平安京を単に「山に囲まれた安全な盆地」と考えるだけでは、この立地の意味を十分に理解できない。
外部と隔絶されていたのではない。
むしろ複数の外部交通へ接続できる場所だったのである。
都は「北へ移動した」のではない
ここで、本章の最も重要な点を確認しておきたい。
藤原京から平城京、長岡京、平安京という流れだけを見れば、
都が徐々に北へ移動していった
ようにも見える。
しかし実際の宮都史は、そのような単純な一直線ではない。
飛鳥から難波へ移った時期がある。
大津へ移った時期がある。
奈良時代には恭仁・難波・紫香楽を転々としている。
そして再び平城京へ戻る。
したがって、
「より北の方が便利だったため、都が北上していった」
という説明は成立しにくい。
より適切なのは、
古代国家は、大和・難波・近江・山城という複数の地域を政治中枢の候補として実際に利用しながら、その時々の政治・軍事・外交・物流条件に応じて宮都を配置していた。
と考えることである。
その中で交通は、唯一の理由ではない。
しかし常に無視できない条件の一つだった。
都城史を「交通網の組み替え」として見る
この視点に立つと、遷都にはもう一つの意味が見えてくる。
都が移れば、人も移る。
役人も移る。
市場も移る。
寺院や宮殿の資材も動く。
そして、それまで地方から旧都へ向かっていた物資の流れを、新しい都へ向け直さなければならない。
長岡京から平安京への遷都では、京都市の記録によれば、平安遷都に先立って長岡京の内裏解体が始まり、東西の市も新京へ移されている。京都市情報館
つまり遷都とは、天皇が住む場所を変えるだけではない。
国家物流の目的地そのものを変える事業なのである。
この意味で、宮都の歴史は交通史でもある。
都が変わるたびに、道路、水路、港、倉庫、市場、人の流れが再編される。
そして、その再編の中で利益を得る場所も変わる。
最終的に選ばれた山城という場所
平安京は、その後千年以上にわたり日本の首都であり続ける。
なぜ平安京だけがこれほど長く続いたのか。
その理由を交通だけで説明することはできない。
政治制度。
王権の権威。
宗教。
文化。
武家政権との関係。
さまざまな歴史的要因が重なっている。
しかし立地だけを見るなら、山城には一つ際立った特徴があった。
複数の大交通圏へ同時に接続できる。
南へ行けば淀川。
東へ行けば大津・琵琶湖。
西へ行けば山陰・山陽方面。
北へ行けば丹波方面。
そして南東には大和がある。
つまり平安京は、一方向だけに強い都ではない。
複数方向へ交通を分散できる都であった。
そして、その東側の物流を支えた重要な窓口が大津だったのである。
大津はなぜ再び重要になるのか
ここまで都城史を見てきたことで、近江の位置がさらに明瞭になった。
大津宮が存在した時期には、大津そのものが政治中枢だった。
しかし平安京が成立すると、大津の役割は変わる。
都ではなくなる。
しかし重要性が失われるわけではない。
むしろ、
琵琶湖から京都へ物資を渡す港
という役割が前面に出てくる。
北陸から来る物資。
湖北から来る物資。
湖東から来る物資。
琵琶湖を南下した船は、大津周辺で陸上交通へ切り替わる。
そこから逢坂を越えれば京都である。
つまり平安京の成立によって、大津は「都」から、都を支える物流玄関へと性格を変えたと見ることができる。
この変化は、本稿の主題にとって極めて重要である。
都が近江から山城へ移っても、近江の価値は消えなかった。
なぜなら、山城の都を維持するためにも、その背後にある琵琶湖交通が必要だったからである。
ここに、
政治中枢と物流中枢は必ずしも同じ場所に存在する必要はない
という重要な構造が見えてくる。
平安京が政治・消費の中心となり、
大津が琵琶湖物流の集積・積み替え拠点となる。
この二つが組み合わさることで、巨大な都市圏が成立するのである。
次章では、この大津に焦点を絞る。
琵琶湖を南下してきた物資は、大津でどのように陸へ上げられ、京都へ運ばれ、その先の淀川水系へつながっていったのか。
第八章 大津は琵琶湖の終点ではなかった
として、大津を「湖の終着港」ではなく、北方物流を山城・難波方面へ受け渡す再配分拠点として検証していく。
第八章 大津は琵琶湖の終点ではなかった――湖上物流から山城・難波へ
琵琶湖水運を地図上で見ると、湖の南端に位置する大津は、しばしば「終点」のように見える。
北陸から敦賀へ入り、塩津から琵琶湖を南下する。
湖東から朝妻へ入り、湖上を南へ向かう。
湖西からも船が集まる。
そして最後に大津へ到着する。
しかし、本稿では大津を琵琶湖水運の終着点とは考えない。
むしろ大津こそ、**琵琶湖によって集められた物資を、山城・京都、さらにその先の淀川水系へ送り出す「次の物流体系への入口」**であったと捉える。
湖上輸送は大津で終わる。
だが、物流そのものは終わらない。
ここから荷物は再び陸へ上がり、逢坂を越え、山科を経て京都へ入る。
そして時代が下れば、京都・伏見・淀を経て淀川水運へ接続し、大坂へ向かう流れも大きく発達する。
つまり大津とは、
北方から集まった物流を、畿内内部へ受け渡す「変換点」
だったのである。
大津という地名そのものが示す港の性格
大津は古くから交通の要地であった。
大津市歴史博物館は、平安時代以降の大津について、日本の東西を結ぶ交通上の重要地域として位置づけている。さらに大津市の歴史的風致維持向上計画では、現在の中心市街地周辺を、琵琶湖舟運と東海道・北国海道が交差する交通の要衝と説明している。大津市歴史博物館
ここで重要なのは、湖と街道が「並んでいた」ことではない。
湖上交通と陸上交通が同じ場所で接続していたことである。
琵琶湖の北部から来た船が大津へ着く。
荷物を降ろす。
そこで次の運送者へ引き渡す。
馬や牛車へ載せる。
逢坂を越える。
そして京都へ入る。
近世の記録では、この構造が極めて明瞭に確認できる。
大津市は、江戸時代に北国から京都・大阪方面へ運ばれる米や海産物などの物資が大津へ集まり、大津が港町・宿場町として繁栄したことを記している。大津市公式サイト
つまり大津は、湖上輸送の終点であると同時に、畿内向け物流の出発点でもあった。
この二重性こそ、大津の本質である。
船から降ろされた荷物は逢坂を越えた
大津と京都の間には山地がある。
したがって、大津に到着した船がそのまま京都まで進むことはできない。
琵琶湖水運の最大の弱点は、ここで一度水路が切れることであった。
しかし逆に言えば、だからこそ大津に積み替え機能が集中した。
大津から京都へ向かう東海道には、逢坂山や日ノ岡峠という難所があった。
大津市の文化財資料によれば、江戸時代には大津から山科を経て京都へ物資を運ぶため牛車が利用され、雨天時のぬかるみによる輸送障害を軽減するため、街道には「車石」が敷かれた。大津市公式サイト
これは非常に象徴的である。
道路そのものを改良してまで、大量の荷物を大津から京都へ運んでいたのである。
大津市の副読本によれば、江戸時代に大津から京都へ運ばれた荷物の中心の一つは、琵琶湖水運によって集められた米であった。大津市公式サイト
つまり、
北国・湖東・湖北
↓
琵琶湖水運
↓
大津
↓
牛車・馬
↓
逢坂・山科
↓
京都
という大量輸送体系が実際に機能していた。
ここで大津が担っていた役割は、単なる船着場ではない。
大量輸送に適した湖上交通から、山越えに対応する陸上交通へ荷物を変換する場所だったのである。
大津百町は物流によって形成された都市だった
物流が集中すれば、人も集まる。
人が集まれば町が発達する。
江戸時代の大津は「大津百町」と呼ばれるほど大きな都市へ成長した。
大津市によれば、大津は北国から京都・大阪方面へ向かう物資が集まる港町であると同時に、東海道の宿場町、大津城の城下町、三井寺の門前町として発展した。大津市公式サイト
ここで注目したいのは、大津が一つの機能だけで成長した都市ではないという点である。
港がある。
街道がある。
城がある。
寺院がある。
宿場がある。
商業がある。
これらが重なって巨大な都市機能を形成していた。
しかも大津市の歴史的風致計画によれば、江戸時代の『大津町覚』には三十八種類もの同業者仲間が記録されており、米や荷物の流通に関係する業種だけでなく、酒・醤油・油などの日用品、建築業、船大工など多様な業種が存在していた。大津市公式サイト
つまり物流は、それ単独で存在していたのではない。
物流を中心として、
商業、宿泊、飲食、製造、修理、金融、建築
など多様な産業が集積した。
この構造は、第五章で述べた「積み替えが富を生む」という仮説をよく示している。
湖岸には米蔵が並んでいた
大津が単なる中継港ではなく、集積地であったことをさらに明瞭に示すものが、江戸時代の湖岸景観である。
大津市歴史博物館によれば、江戸時代の大津湖岸には幕府の蔵や諸藩の米蔵が並び、それらの年貢米や諸荷物を積み降ろす船着場が多数存在した。大津市歴史博物館
この事実は重要である。
物資が大津を通過するだけなら、大規模な米蔵は必要ない。
蔵が並ぶということは、
そこで物資を一度集め、保管し、次の輸送へ備えていた
ことを意味する。
つまり大津は、
港+倉庫+陸運+市場
が一体となった物流都市だったのである。
これを現代の言葉に置き換えるなら、単なる港湾ではなく、広域物流センターに近い。
もちろん現代物流との単純比較は避けなければならない。
しかし機能面を見る限り、
荷物を集める。
保管する。
仕分ける。
次の輸送手段へ載せ替える。
再び送り出す。
という基本構造は共通している。
豊臣秀吉は大津を物流拠点として再編した
大津の重要性を強く認識した人物の一人が豊臣秀吉である。
大津市歴史博物館によれば、秀吉は天正十四~十五年(一五八六~八七)頃、坂本城を廃して大津城を築かせた。この背景には、京都の聚楽第や大坂城の建設に必要な用材を運ぶうえで、坂本より大津の方が便利であったことがあったとされる。大津市歴史博物館
ここは今回の論考において非常に重要である。
大津城は、軍事拠点としてだけ置かれたのではない。
少なくとも物流上の利便性が、その立地選択に深く関係していた。
さらに秀吉は大津百艘船を組織し、大津から運び出される物資や人の輸送に大きな特権を与えた。大津市歴史博物館は、秀吉が大津を北陸・東国から京都・大坂へ向かう物資輸送の拠点として整備したと説明している。大津市歴史博物館
つまり秀吉は、
城を置く。
船団を組織する。
輸送権を整理する。
物流を統制する。
という形で、大津の交通機能を政治権力の下へ組み込んだのである。
これは後に見る長浜、安土、大坂とも共通する。
秀吉が城を置く場所には、軍事だけでなく物資を集め、動かす能力という視点が必要なのである。
大津から京都へ入った物資は、そこで消費されるだけではない
大津から京都へ運ばれた物資の多くは、当然ながら巨大都市京都で消費された。
京都には天皇・公家・寺社・武家・商工業者が集まり、巨大な需要が存在する。
しかし、京都を「最終消費地」とだけ見ることも正確ではない。
京都は同時に、物資を加工し、取引し、さらに別方向へ送り出す都市でもあった。
その南に伏見がある。
そして伏見の先には宇治川・淀川がある。
ここから大坂へ向かう水上交通が発達した。
重要なのは、大津から京都を経て大坂まで、前近代を通じて一隻の船が連続航行したわけではないということである。
大津―京都間には山地があり、ここは基本的に陸上輸送へ切り替える必要があった。
さらに京都内部と伏見・淀川との結びつきも、時代ごとに交通形態が異なる。
したがって本稿では、
「敦賀から大坂まで一本の水路が存在した」
とは考えない。
むしろ、
水運→陸運→水運
と何度も輸送手段を変えながら、一つの巨大物流体系が形成されたと考える。
ここに近江・山城の特徴がある。
山城南部にはもう一つの物流結節点があった
京都から南へ目を向けると、伏見・淀という重要な交通拠点が現れる。
京都市によれば、伏見・淀は京都・大坂・奈良・近江を結ぶ中継地に位置し、木津川・宇治川・桂川・鴨川が集まる水陸交通の要衝であった。京都市
これは大津との比較において非常に興味深い。
大津では、
琵琶湖水運→陸上交通
への切り替えが行われる。
伏見・淀では、
京都からの陸上・河川交通→淀川水運
へ切り替わる。
つまり京都の東と南には、それぞれ大きな物流変換地点が存在していたことになる。
東に大津。
南に伏見・淀。
その間に京都がある。
この構造を見ると、平安京以後の山城が巨大都市圏を形成できた理由の一端が見えてくる。
京都そのものがすべての交通機能を持つ必要はない。
周囲に存在する港や物流都市と連携すればよいのである。
伏見・淀から大坂へ
伏見の水運は近世になると特に大きく発展する。
京都市伏見区によれば、中世には淀が京都への物流拠点として機能し、十六世紀後半に伏見城が築かれると伏見にも港が整備された。さらに江戸時代には淀川水運を通じて伏見と大坂の間を船が往来するようになる。京都市
伏見から大坂へは三十石船などが行き交った。
そして慶長期に角倉了以によって高瀬川が開削されると、京都市街と伏見との間にも舟運路が成立する。
京都市によれば、高瀬川は京都と伏見を結び、伏見で淀川水運と接続することで、京都と大坂を水路で結ぶ重要な物流路となった。京都市
ここで、より大きな物流構造が完成する。
琵琶湖
↓
大津
↓
陸路
↓
京都
↓
高瀬川・陸路
↓
伏見
↓
淀川
↓
大坂
である。
ただし、この体系が最初から完成していたわけではない。
高瀬川が開削されるのは近世初頭であり、古代・中世と近世では輸送形態が異なる。
したがって本稿では、地理的連続性と制度・技術の変化を分けて考える。
変わらないものは、
琵琶湖。
逢坂。
京都盆地。
宇治川。
桂川。
木津川。
淀川。
大阪湾。
という地形である。
変わるものは、
船の種類。
街道。
港。
運送制度。
運賃。
政治権力。
である。
この二つを分けて見ることで、千年以上続く交通構造が見えてくる。
京都と大坂は競争相手ではなく、異なる機能を持つ都市だった
近世になると大坂は、全国の物資が集まる巨大商業都市へ発展する。
しかし、このことを「京都の物流機能が大坂へ奪われた」と単純に見る必要はない。
京都は政治・文化・工芸・巨大消費地として独自の機能を持つ。
大坂は瀬戸内海と淀川の結節点として、全国規模の物資集積・再配分に優れた条件を持つ。
そしてその間を伏見・淀がつなぐ。
大津はさらにその東側で、琵琶湖・北陸・東国からの物流を受け取る。
つまり、
大津―京都―伏見・淀―大坂
は、それぞれ異なる機能を持ちながら連結した都市群として見ることができる。
この視点に立てば、今回の記事でいう「巨大経済圏」の意味も明確になる。
一つの都市がすべてを支配していたのではない。
複数の都市が異なる機能を担い、それらを交通路が結んでいた。
大津は湖上物流。
京都は政治・消費・生産。
伏見・淀は河川交通への変換。
大坂は海運を含む大規模集積・再配分。
こうした機能分担である。
「北国から大阪へ」という大津の役割
興味深いことに、現在の大津市も江戸時代の大津について、「北国から京都・大阪方面に運ばれる物資が集まった港町」と説明している。大津市公式サイト
ここには本稿の議論が凝縮されている。
大津は京都だけを向いていたわけではない。
その先に大阪方面が存在した。
もちろん、北国の物資がすべて大津・京都を経由して大坂へ向かったという意味ではない。
日本海航路から直接西へ向かう物流もあり、時代・品目ごとに経路は異なる。
しかし大津が「京都・大阪方面」への物流拠点として位置づけられていたことは、近江を畿内広域経済圏の一部として見るうえで重要である。
近江と大坂は遠く離れた別世界ではない。
その間には山城という巨大な中継圏がある。
大津の本当の強さは「端」にあった
交通の中心というと、地図の真ん中にある場所を想像しやすい。
しかし物流において重要なのは、必ずしも中央ではない。
むしろ、
異なる交通体系の境界
に大きな価値が生まれる。
海と陸の境界。
湖と陸の境界。
河川と海の境界。
そこでは積み替えが発生する。
大津はまさにそのような場所であった。
琵琶湖の南端。
湖上輸送が終わる場所。
そのすぐ西には山城への峠。
つまり大津は、地理的には湖の「端」にある。
しかし物流的には、
一つの巨大輸送体系と、次の巨大輸送体系が接続する中心
である。
この逆説こそ、大津の本質である。
近江と山城は一つの物流構造として考える必要がある
現在の滋賀県と京都府には行政境がある。
しかし歴史的物流を考える場合、その境界を強く意識しすぎると実態が見えなくなる。
大津と京都の距離は短い。
しかも両者は逢坂越によって古くから結ばれていた。
大津市歴史博物館によれば、大津から北白川へ抜ける山中越も平安時代から利用されていた。大津市歴史博物館
つまり大津と京都をつなぐ経路は一つだけではなかった。
物資量、目的地、時代、政治情勢によって複数の経路が使われた。
このことからも、
琵琶湖物流と京都経済を別々のものとして考えるのは不自然
である。
琵琶湖から物資を集める大津。
それを大量に消費する京都。
さらに南へ送り出す伏見・淀。
その先に大坂。
この一連の構造を一つの広域物流圏として捉える必要がある。
大津は終点ではなく「継ぎ目」だった
本章で最も重要な点はここにある。
大津へ船が到着すると、琵琶湖航路はそこで終わる。
しかし、そのことをもって大津を物流の終点と考えてはいけない。
むしろ、
そこで船を降りなければならなかったからこそ、大津は発展した。
荷物が止まる。
蔵へ入る。
商人が扱う。
牛車や馬へ積み直す。
京都へ運ぶ。
さらに別の輸送体系へ接続する。
この「継ぎ目」であることが大津の価値だった。
そして、この構造を広く見ると、
北の敦賀
↓
湖北
↓
琵琶湖
↓
大津
↓
山城・京都
↓
伏見・淀
↓
淀川
↓
大坂・大阪湾
という巨大な物流軸が見えてくる。
ただしそれは、一本の船が走り続ける単純な航路ではない。
海船。
馬。
湖船。
牛車。
河川船。
それぞれが役割を分担し、その境界で荷物が積み替えられる複合交通体系である。
これこそ、本稿が近江の交通史から見ようとしている構造である。
そして南北の軸だけでは、まだ近江の全貌は見えない。
大津へ集まる交通の一方で、湖東からは東海道・東山道・中山道方面へ、湖北からは北国道へ、湖西からは若狭方面へと陸路が広がっていた。
次章では再び視線を近江全体へ戻し、
第九章 街道が琵琶湖へ集まった――水路と陸路がつくった近江の交通網
ここまで、琵琶湖を中心とする水運と、その南端に位置する大津の役割を見てきた。
しかし、琵琶湖だけを眺めていては近江の交通構造は完成しない。
船に載せる荷物は、どこかから港まで運ばれてこなければならない。
船から降ろされた荷物も、再び道路を通って別の地域へ運ばれる。
つまり琵琶湖水運は、街道から独立した交通体系ではなかった。
水路と陸路が港で接続することによって、初めて広域物流網として機能したのである。
滋賀県文化財保護協会の研究でも、古代近江には東山道・東海道・北陸道という主要官道が設けられ、それに多数の峠越えの道、さらに琵琶湖・内湖群の水路が組み合わさっていたことが指摘されている。滋賀県文化財保護協会
近江の特色は「街道が多い」ことだけではない。
街道の先に琵琶湖がある。
この地理構造こそが重要である。
古代近江には三つの主要官道が通っていた
律令国家は、都と地方を結ぶため全国に駅路を整備した。
近江にはそのうち、
東山道
東海道
北陸道
という複数の主要幹線が通っていた。
これは全国的に見ても重要な特徴である。
東山道は美濃から不破方面を越えて近江へ入り、畿内へ向かった。
東海道は時代によって経路が変化するが、近江南部から伊勢・東国方面へ向かう重要路となった。
北陸道は都から近江を経て越前・北陸方面へ向かう。
つまり近江は、古代国家の道路網において、
東国への道と北国への道が分かれる場所
でもあったのである。
滋賀県内では古代官道そのものと考えられる道路遺構も発掘されている。甲良町尼子西遺跡では、幅約十二メートルという大規模な直線道路が確認され、古代東山道の姿を示す例とされている。滋賀県文化財保護協会
幅十二メートルという道路は、単なる村道ではない。
国家によって設計された幹線交通路である。
古代国家が近江を列島交通の主要地域として認識していたことを、道路そのものが物語っている。
東の大動脈――不破・関ヶ原から近江へ
東から近江へ入る最大の回廊が、不破・関ヶ原方面である。
前章まで見てきたように、伊吹山地と鈴鹿山脈の間には東西交通が通りやすい地形上の切れ目がある。
その東側が関ヶ原であり、西側には柏原・醒井・番場などが続く。
近世の中山道は、
関ヶ原
↓
柏原
↓
醒井
↓
番場
↓
鳥居本
↓
湖東
↓
草津
↓
大津
↓
京都
へと続いた。
米原市は、霊仙山周辺について、古代東山道以来の東西交通の十字路であり、醒井からは湖東の重要港である朝妻湊へ向かう道があり、番場からは北国方面への道が分岐していたと説明している。米原市公式サイト
ここが非常に重要である。
関ヶ原から京都へ向かう人々が、必ず一本の街道を最後まで歩いたわけではない。
途中で琵琶湖へ出ることができた。
醒井方面から朝妻湊へ向かえば、そこで船に乗り換えることができる。
つまり東方から来る物流には、
そのまま陸路を進む選択肢
と、
湖東の港から琵琶湖水運へ切り替える選択肢
が存在したのである。
この複線性こそ、近江交通の強さである。
朝妻湊が示す「街道と港」の結合
朝妻湊は、単なる琵琶湖岸の港ではない。
東山道系交通との接続が重要なのである。
米原市は、中世以前の朝妻を湖上交通の要港とし、朝妻城についても、朝妻湊だけでなく天野川河口を押さえ、東山道によって運ばれる東国の物資を掌握することが重要な役割であったと考えている。米原市公式サイト
この説明は、本稿の交通論を非常によく示している。
港だけを支配しても十分ではない。
街道だけを支配しても十分ではない。
街道から河川・港へ、港から琵琶湖へ移る場所を押さえること
に大きな価値があった。
物資の流れを支配するには、線ではなく結節点を押さえる必要があるのである。
関ヶ原の先には美濃、そして岐阜・濃尾平野がある
近江から東へ進み、不破・関ヶ原を越えると美濃へ入る。
さらに東には濃尾平野が広がる。
古代については「岐阜」という後世の都市名をそのまま用いるべきではないが、戦国時代になると岐阜城を中心とする地域が政治・軍事上大きな意味を持つようになる。
この東方回廊を長い時間幅で見るなら、
近江
―関ヶ原
―美濃
―濃尾平野
―尾張・東国
という交通軸が存在する。
したがって、後に織田信長が岐阜から近江へ進出する動きも、単に軍事勢力が西へ拡大したというだけではない。
古代以来人や物が往来してきた、列島東西交通の主要回廊を西へ進んだと見ることもできる。
この問題は、信長を扱う章で改めて検討する。
北へ分かれる道――北国街道
東西方向だけではない。
近江には南北方向の巨大な交通軸も存在した。
北国街道である。
近世の北国街道は、中山道の鳥居本付近から北へ分かれ、
米原
→長浜
→木之本
→柳ヶ瀬
→椿坂
→中河内
→越前
方面へ向かった。
長浜市の歴史文化基本構想では、北国街道を近畿と北陸を結ぶ古くからの重要路と位置づけ、木之本宿、長浜、さらに塩津から敦賀へ向かう塩津街道など、湖北に多数の街道が交錯していたことを指摘している。長浜市公式サイト
つまり湖北は、
琵琶湖の北端だから重要だった
だけではない。
東西方向の交通と南北方向の交通が交差していたから重要だったのである。
木之本は北陸・東海・近畿の交差点だった
木之本を見ると、この構造はさらに明瞭になる。
北へ行けば越前。
南へ行けば長浜・米原。
東へ向かえば関ヶ原方面へ通じる北国脇往還。
西へ動けば琵琶湖や塩津方面がある。
長浜市は木之本について、北国街道と北国脇往還の宿場として栄え、大陸と都を結ぶ交通の要衝として発展してきた地域と説明している。長浜市公式サイト
ここでも、一本の街道だけを見ると本質を見失う。
木之本とは、
南北道と東西道が交差し、その近くに琵琶湖水運も存在する場所
なのである。
交通路が重なれば、旅人だけではなく情報も集まる。
商人が来る。
荷物が来る。
宿が必要になる。
寺社参詣の人々も通る。
それによって宿場町・門前町・商業地としての機能が重なっていく。
近江において、街道は単なる移動線ではなく、町を生み出す骨格でもあった。
関ヶ原から湖北へ直接入る道もあった
さらに興味深いのは、関ヶ原から必ず湖東を南へ下る必要がなかったことである。
長浜市の資料には、関ヶ原から春照、小谷城下の伊部を経て木之本へ至る北国脇往還が記されている。長浜市公式サイト
つまり関ヶ原から西へ入った交通は、
南へ進んで湖東・京都方面へ向かうこともできれば、
北西へ進み湖北・北陸方面へ向かうこともできた。
これは近江東北部が、単純な通過地点ではなく、
東西交通と南北交通を振り分ける分岐点
であったことを意味する。
現代の米原周辺が、東海道新幹線・東海道本線・北陸方面の鉄道、高速道路が交差する交通拠点になっているのは偶然ではない。
技術は変わっても、地形が交通を集める構造は大きく変わっていないのである。
米原市自身も、市域を古くから近畿・東海・北陸を結ぶ交通の要衝と位置づけている。米原市公式サイト
西岸――若狭へ向かう道は一本ではなかった
琵琶湖西岸へ視線を移す。
ここで注意したいのが、「鯖街道」という一語ですべてを説明しないことである。
現在では若狭と京都を結ぶ道を総称して鯖街道と呼ぶことが多いが、歴史上の経路は複数存在した。
高島市の文化財保存活用地域計画は、市域を通る主要路として、
古代北陸道
七里半街道
九里半街道
若狭街道
など複数の道路を区別している。高島市公式サイト
ここは今回の論考では非常に重要である。
若狭から近江へ入る道と、若狭から京都へ直接向かう道を混同してはいけない。
小浜から今津へ――九里半街道
若狭・小浜と琵琶湖を直接結ぶ代表的な道が九里半街道である。
現在の小浜方面から熊川、保坂周辺を経て今津へ出る方向である。
高島市も、現在の国道303号方面を小浜と琵琶湖を結ぶ街道として位置づけている。高島市公式サイト
ここで今津の役割が重要になる。
山を越えてきた荷物を、そのまま陸路で京都へ運ぶこともできる。
しかし今津で琵琶湖へ出れば、船へ積み替えることができる。
つまり、
小浜
↓
若狭山地
↓
熊川・保坂
↓
今津
↓
琵琶湖水運
↓
大津
という物流経路が成立する。
この構造は敦賀―塩津とよく似ている。
日本海側から山を越える。
琵琶湖岸へ出る。
そこで陸上輸送から湖上輸送へ切り替える。
再び大量輸送が可能になるのである。
しかも高島市の近年の資料には、天正十一年(一五八三)に秀吉が今津に対し、若狭からの荷物を今津へ着けるよう命じた文書が残ることも紹介されている。高島市公式サイト
後の秀吉による物流統制を考えるうえでも、非常に興味深い史料である。
朽木を通る若狭街道――琵琶湖を使わない選択肢
一方、若狭から京都へ向かう交通は、必ず琵琶湖へ出る必要はなかった。
熊川方面から朽木谷へ入り、大原を経て京都へ向かう道も存在した。
高島市は、現在の国道367号に相当する朽木谷の道を、北国と京都を結ぶ最短路の一つとしている。高島市公式サイト
これは非常に重要である。
琵琶湖水運が便利だったからといって、すべての物流が湖を利用したわけではない。
荷物の種類。
量。
季節。
天候。
目的地。
所要時間。
こうした条件によって、
湖上輸送を利用するか、山越えで直接京都へ向かうか
が選択されたと考えるべきである。
近江の交通体系の強さは、一本の最適ルートがあったことではない。
複数の選択肢が存在したことにある。
湖西を縦断した北陸道
高島にはもう一つ重要な交通軸がある。
琵琶湖西岸を南北に通る道である。
高島市によれば、現在の国道161号に近い湖岸ルートは古代には北陸道、その後は西近江路・北国海道などと呼ばれ、日本海と都を結ぶ大動脈として利用された。高島市公式サイト
つまり湖西には、
琵琶湖の船
と、
湖岸を走る道路
が並行して存在していた。
これも重要である。
天候が良ければ船を使う。
目的地によっては陸路を使う。
途中の集落へ向かうなら道路が便利である。
大量輸送なら船が有利になる場合がある。
琵琶湖水運と街道は競争相手ではなく、状況に応じて使い分けられる補完関係にあったと考えるべきである。
高島では川も物流路になった
高島の交通は街道と琵琶湖だけでもない。
高島市は、安曇川や石田川を利用して山間部から木材を湖岸へ運び、そこから琵琶湖水運によって京都・大阪方面へ送り出していたことを紹介している。高島市公式サイト
ここでは、
山
↓
河川
↓
琵琶湖
↓
大津・京都・大阪
という物流が成立している。
つまり近江の交通を本当に理解するためには、
道路。
河川。
内湖。
琵琶湖。
を別々に考えてはいけない。
すべてが接続して一つの物流網を形成していたのである。
南東――鈴鹿峠と東海道
近江の南東には鈴鹿山脈がある。
この山脈もまた、東西交通にとって大きな障壁である。
しかし、その中を越える道が鈴鹿峠であった。
古代の東海道は時代によって経路が変わっている。
三重県の資料によれば、平安京遷都後の仁和二年(八八六)には、近江から鈴鹿峠を越える阿須波道が正式な東海道として用いられるようになり、それ以前の大和・伊賀方面を通る道に代わったとされる。三重県文化振興情報
この変更は非常に興味深い。
都が大和にあった時代と、平安京に置かれた時代では、東国へ向かう最適な交通路も変わり得る。
都の位置が変われば、街道網も再編される。
これは第七章で見た「遷都とは国家物流の目的地が変わることでもある」という議論と一致する。
平安京から見れば、
京都
→大津
→瀬田
→近江南部
→鈴鹿峠
→伊勢・東国
という経路が重要になる。
つまり近江は、北陸道や東山道だけでなく、東海道の経路にも深く組み込まれていたのである。
草津――二つの東国路が重なる場所
近世になると、この東方交通の構造が草津宿で非常に分かりやすい形をとる。
草津は東海道と中山道が分岐・合流する宿場町となった。
草津市は、近世の草津を東海道と中山道が分岐・合流する唯一の宿場町と位置づけ、人と物が行き交う交通の要衝として発展したとしている。草津市公式サイト
ここで重要なのは、近世の東海道・中山道の形をそのまま古代へ投影しないことである。
街道名称も経路も変化している。
しかし、
東国へ向かう複数の道が近江南部で収束し、京都方面へ向かう
という地理的構造自体には長い継続性がある。
草津から西へ進めば瀬田。
その先に大津。
さらに逢坂を越えれば京都である。
つまり草津―瀬田―大津は、東側から京都へ向かう交通が絞り込まれる回廊だった。
瀬田唐橋――湖の出口を押さえる場所
ここで瀬田の存在を外すことはできない。
琵琶湖の水は瀬田川から流れ出す。
その狭い水系を横断する代表的な地点が瀬田唐橋である。
東国・伊勢方面から京都へ向かう陸上交通にとって、瀬田川の横断地点は極めて重要だった。
そのため瀬田周辺は、平時には交通路となり、戦時には軍事的な争点となる。
壬申の乱でも瀬田橋周辺が重要な戦場となった。
後世にも瀬田は、京都東方防衛を考えるうえで繰り返し重要な地点となる。
ここには本稿を貫く原則がよく表れている。
交通が集中する場所は、軍事力も集中する。
この問題については、後の軍事史の章で詳しく検討する。
逢坂――最後の関門
瀬田を越え、大津を通り、京都へ向かうと逢坂が待っている。
逢坂関は古代から交通の要所であり、大津市歴史博物館によれば延暦十四年(七九五)には関所の前身とされる施設が置かれ、平安時代中頃には重要な関として扱われていた。大津市歴史博物館
つまり東国や北国から京都へ入る交通は、
広い近江へ入る
↓
琵琶湖周辺を進む
↓
瀬田・大津周辺へ集まる
↓
逢坂を越える
↓
京都盆地へ入る
という形で徐々に絞り込まれる。
ここまで見ると、近江が単なる「広い通過地」ではなかったことがよく分かる。
入口は多い。
しかし都へ向かうにつれて出口が限定される。
つまり近江は、交通が拡散する場所であると同時に収束する場所でもあった。
道路と湖上交通は競争していたのではない
近江交通史を考えるとき、
「船と陸路ではどちらが重要だったか」
という問いを立てる必要はない。
両方必要だったからである。
山を越えるには道路がいる。
湖を大量輸送するには船が有利である。
村から港へ荷物を運ぶには陸路が必要になる。
湖岸から離れた目的地へ向かうにも道路が必要になる。
逆に、陸路で長距離大量輸送を続けるより、途中で船へ載せた方が有利な場合もある。
したがって近江の交通体系は、
陸路か水路か
ではなく、
陸路+水路
として理解しなければならない。
さらに、
河川+内湖+琵琶湖+街道
まで含めて考える必要がある。
近江の強さは、一種類の交通手段に特化したことではない。
複数の交通手段を組み合わせることができたことにある。
街道が港を生かし、港が街道を生かした
港が存在しても、その背後に道路がなければ荷物は集まらない。
街道が存在しても、その先に港がなければ大量水運へ切り替えることができない。
朝妻が重要だったのは東山道系交通と接続できたからである。
今津が重要だったのは若狭・小浜方面への道があったからである。
塩津が重要だったのは敦賀との陸路があったからである。
大津が重要だったのは逢坂を越えて京都へ入れたからである。
つまり、
近江の港と街道は、それぞれが相手の価値を高める関係にあった。
この点が非常に重要である。
港だけを研究しても近江交通史は見えない。
街道だけを研究しても見えない。
両者を一体として見たとき初めて、琵琶湖を中心とした広域物流ネットワークが姿を現す。
現代の交通網にも残る古い地形の力
さらに興味深いのは、近代以降に交通技術が劇的に変わっても、主要な交通方向が大きく変わっていないことである。
関ヶ原には東海道本線、新幹線、高速道路が通る。
米原は鉄道の分岐点となる。
湖西には鉄道と国道が走る。
大津から京都へは鉄道・道路が集中する。
鈴鹿方面にも主要幹線が通る。
これは「古代の道がそのまま現代道路になった」という単純な話ではない。
個々の経路は変化している。
しかし、
山の切れ目
谷
峠
湖岸平野
河川
という地形条件が変わらないため、交通が通りやすい大きな方向もまた繰り返し利用されるのである。
近江の交通史とは、ある意味で地形の持続性の歴史でもある。
近江は「交差点」よりさらに複雑だった
序章では近江を「交通の交差点」と表現した。
しかしここまで見てくると、それだけでは少し単純すぎることが分かる。
近江では、
道が交わる。
道が分かれる。
港へ荷が集まる。
船へ載せ替えられる。
湖の反対側へ運ばれる。
別の街道へ出る。
場合によっては川を使う。
つまり近江は単なる十字路ではなく、
陸路・河川・湖上交通が相互に接続する複層的な交通ネットワーク
だったのである。
これを現代の県境だけで切り分けてしまえば、本来の姿は見えなくなる。
敦賀は福井県。
小浜も福井県。
関ヶ原と岐阜は岐阜県。
京都は京都府。
大坂は大阪府。
伊勢は三重県。
しかし歴史上の物流は現在の行政境界を意識して動いていたわけではない。
人と物は、地形と需要によって動く。
そしてその流れが交差する場所に、都市と市場と権力が生まれる。
ここから次に考えなければならないのは、
これほど広い交通圏を、果たして「近江の交通」だけとして考えてよいのか
という問題である。
むしろ近江は、山城・難波・若狭・敦賀・美濃・伊勢と結ばれた、さらに大きな経済圏の一部だったのではないか。
次章では、現在の県境を取り払い、琵琶湖を中心に物資・人・情報がどこまで結びついていたのかを広域経済圏の視点から検証する。
第十章 近江・山城・難波・美濃を結ぶ巨大物流圏
ここまで近江を中心に、水運、港、積み替え、都、街道という順に交通構造を見てきた。
ここで一度、視野をさらに広げてみたい。
現在の地図には、滋賀県、京都府、大阪府、岐阜県、福井県、三重県という行政境界が引かれている。
しかし、人や物の移動を考えるとき、この境界線はほとんど意味を持たない。
敦賀に入った物資は湖北へ向かう。
小浜から山を越えれば湖西へ出る。
美濃から関ヶ原を越えれば近江へ入る。
近江から南へ進めば山城。
山城を越えれば淀川水系を通じて難波・大坂へ達する。
反対方向へ荷物も人も動く。
その途中には、港、宿場、市場、城下町、寺社、倉庫、問屋が存在する。
こうして見ると、近江を「滋賀県の歴史」として切り離して考えること自体が、本来の交通構造を見えにくくしている。
本章では、近江を中心としながら、
敦賀・若狭
―近江
―山城
―難波・大坂
という南北軸と、
美濃・関ヶ原
―近江
―山城
という東西軸を重ね、そこにどのような広域物流圏が形成されたのかを考えてみたい。
ただし、最初に一つ注意しておく必要がある。
本稿でいう「巨大物流圏」とは、古代から近世まで同じ制度・同じ市場・同じ流通量が継続していたという意味ではない。
時代ごとに政権も、通貨も、市場制度も、船舶も、街道も変化した。
したがって本稿で検討するのは、地形によって形成された長期的な交通骨格の上に、それぞれの時代の経済圏が重なったという構造である。
物流圏は行政境界ではなく「流れ」で考える
経済圏を考えるとき、重要なのは「どこからどこまでが一国か」ではない。
何がどこで生産され、どこで消費され、どこで積み替えられ、どこで取引されたかである。
たとえば若狭で生産された塩や海産物が大和や山城で消費されるなら、若狭と畿内は物流によって結ばれている。
北陸の物資が敦賀から塩津へ運ばれ、琵琶湖を南下して大津へ届けば、北陸と山城も一つの輸送体系の中に入る。
美濃から関ヶ原を越えて近江へ来た物資が、朝妻などから湖上交通へ移されれば、美濃と琵琶湖も結ばれる。
重要なのは、
政治的には別の地域であっても、物流上は一つにつながり得る
ということである。
むしろ前近代の経済を見る場合、現在の県境より、
山脈、峠、河川、湖、港、街道、市場
の方が重要な境界と接続点になる。
山城は巨大な消費地であると同時に生産地だった
その広域物流圏の中核の一つが京都である。
平安京以来、京都には皇室、公家、寺社、武家、商工業者が集中した。
つまり京都は巨大な消費都市であった。
しかし、京都を「地方から物を受け取るだけの都市」と考えてはいけない。
京都には市場が存在した。
京都市によれば、平安京には東西二つの市が設けられ、市司が商品の取引、度量衡、価格などを管理していた。すでに都市の成立段階から、市場機能が国家的都市構造に組み込まれていたことが分かる。 京都市
さらに近世になると、京都は政治の中心から離れた後も商工業都市として大きな地位を維持した。
京都市の資料によれば、西陣織をはじめ、染物、陶器、漆器、銅器など多くの産業が発達し、十八世紀初頭頃には西陣の機屋が約五千軒に達したとされる。 京都市
つまり京都は、
物資を受け取る場所
であると同時に、
原料を加工して高付加価値の商品へ変える場所
でもあった。
ここに重要な違いがある。
米や塩や木材を消費するだけなら、京都は最終消費地である。
しかし糸を織物へ変え、原料を工芸品へ変えれば、京都から再び商品が外部へ送り出される。
つまり京都もまた、広域物流圏の中の加工・消費・再出荷拠点だったのである。
京都の弱点は「内陸」にあった
一方、京都には大きな弱点もあった。
海に面していないことである。
京都市自身も、近世京都について、内陸都市であるため水上交通を十分利用できないことが商工業都市としての弱点であり、それを克服するため大堰川や高瀬川などの水運開発が進められたと説明している。 京都市
これは本稿の議論とよく一致する。
巨大都市であればあるほど、大量輸送能力が必要になる。
そこで京都は、
東では大津・琵琶湖。
南では伏見・淀川。
西では大堰川。
という周辺水運を利用していた。
つまり京都の強さは、京都盆地だけにあったのではない。
周囲の物流拠点を自らの都市機能の一部として利用できたことにあったのである。
東の大津、南の伏見
京都を中心に見ると、その構造は非常に明瞭になる。
東には大津がある。
琵琶湖を通じて北陸・近江・東国方面の物資を受け取る。
南には伏見がある。
宇治川・淀川を通じて大坂・瀬戸内方面へ接続する。
伏見区の資料によれば、中世には淀が京都への物流拠点として機能し、十六世紀後半に伏見城が築かれると伏見港が整備された。江戸時代になると高瀬川が京都と伏見を結び、さらに伏見から淀川水運によって大坂へ接続する交通体系が形成された。 京都市
したがって京都は単独の都市ではない。
大津―京都―伏見・淀
という一連の都市・港湾群として考えた方が、物流構造を理解しやすい。
東から物を受け取る大津。
加工・消費する京都。
南へ送り出す伏見・淀。
この三者が機能分担していたと考えることができる。
その先に大坂がある
そして伏見・淀の下流に大坂がある。
ここで初めて、琵琶湖を中心とする内陸物流と瀬戸内海を中心とする海上物流が、大きな経済圏として接続する。
江戸時代の大坂には、全国各地の大名が蔵屋敷を置き、年貢米や各地の産物を運び込んだ。
大阪市立図書館によれば、多くの大名が中之島周辺などに蔵屋敷を置き、米や地方産物を集めて販売した。また堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場など、大規模な市場も形成された。 大阪市オープンデータサイト
大阪市の資料でも、江戸時代の大坂は全国から多くの特産物が集まり、そこから各地へ送り出される流通・経済の中心地だったとされる。 大阪市公式ウェブサイト
重要なのは、ここでも大坂を「最終消費地」と考えないことである。
物が集まる。
売買される。
保管される。
加工される。
そして再び各地へ送り出される。
つまり大坂は巨大な集積・取引・再配分拠点だった。
これは、これまで本稿で近江について見てきた機能を、さらに大規模にしたものと考えることができる。
「天下の台所」という言葉には注意が必要である
ここで一つ、歴史表現として注意しておきたい。
江戸時代の大坂は一般に「天下の台所」と呼ばれる。
しかし大阪市立図書館は、最近の研究では「天下の台所」という表現自体は江戸時代から広く使われていた呼称ではなく、近代の歴史家・幸田成友が用いたキャッチフレーズであることが明らかになってきたと紹介している。 大阪市オープンデータサイト
したがって本稿でも、
「江戸時代の人々が大坂を一貫して天下の台所と呼んでいた」
とは書かない。
しかし呼称の成立時期とは別に、江戸時代の大坂が全国的な物資集散・市場機能を持っていたこと自体は、多数の蔵屋敷や市場、海運から明らかである。
言葉と実態を分けて考える必要がある。
これは研究論考として重要な区別である。
大坂はなぜそれほど物を集めることができたのか
大坂が巨大物流都市へ成長できた理由の一つは、複数の交通体系が接続していたことである。
西には瀬戸内海。
北東には淀川。
市中には多くの堀川。
そして大阪湾。
大阪市の港湾史では、近世大坂では淀川・大和川水系や市中の堀川を利用した水運が発達し、川沿いに蔵屋敷が集中したことが説明されている。 大阪市公式ウェブサイト
大阪市史にも、過書船・伏見船などの河川交通、上荷船・茶船といった市内物流、さらに陸路・市場・蔵屋敷が一体となっていたことが示されている。 大阪市オープンデータサイト
つまり大坂もまた、
海船
→川船
→市中の小型船
→倉庫・市場
と輸送手段を変換する巨大な積み替え都市だったのである。
ここで本稿第五章の議論がもう一度現れる。
積み替えがある場所に富が生まれる。
この原理は、塩津や大津だけではない。
大坂でも同じである。
ただし規模が違う。
近江が広域交通を接続する内陸物流拠点であるなら、大坂は瀬戸内海を含む全国規模の物流を受け止める巨大港湾都市へ成長したのである。
美濃は「東国」の一言では片づけられない
ここで東側へ視線を戻す。
近江から関ヶ原を越えると美濃である。
これまで本稿では便宜上、その先を「東国」と表現してきた。
しかし美濃そのものも巨大な交通空間である。
関ヶ原周辺には古代の東山道、中世の京鎌倉往還、近世の中山道が通り、さらに美濃路・北国方面・伊勢方面への交通が分岐した。関ケ原町史にも、中世の東西交通と宿駅、美濃路・北国街道・伊勢街道などの存在が整理されている。 岐阜県立図書館
近世に入ると徳川政権は中山道の宿駅制度を整備し、美濃の宿場にも伝馬制や駄賃制度を設けた。岐阜県に残る慶長年間の文書は、中山道の輸送制度が幕府によって整備されていったことを具体的に示している。 岐阜県公式サイト
したがって、
近江―関ヶ原―美濃
は、一つの街道で結ばれただけではない。
美濃側にもまた、複数の交通路を分配する機能が存在した。
そのさらに東には濃尾平野と尾張がある。
つまり近江は、
山城と美濃という二つの大きな地域圏の間
にも位置していたのである。
近江は「中間だから弱い」のではなく「中間だから強い」
ここで、近江の位置をもう一度考えてみたい。
近江には大坂ほど巨大な海港はない。
京都ほど巨大な消費都市でもない。
美濃・尾張ほど広大な濃尾平野を持つわけでもない。
一見すれば、どこかの巨大地域圏と比べたとき、中途半端にも見える。
しかし、それこそが逆に近江の強みだった可能性がある。
北陸と山城の中間。
美濃と京都の中間。
若狭と畿内の中間。
伊勢と北国の中間。
しかも中央に琵琶湖がある。
つまり近江は、
特定の一方向に依存する地域ではなく、複数経済圏の境界に位置する地域
だったのである。
境界には積み替えが発生する。
分岐が生まれる。
市場が生まれる。
情報が集まる。
これは近江商人の展開を考えるうえでも無視できない。
近江商人は物流圏の「外」へ出ていった
近世になると、近江商人が全国へ進出する。
近江八幡市によれば、八幡商人は近江商人の中でも早い段階から活動を広げ、江戸・蝦夷地などへ進出した。さらに近江・上方の商品を関東へ運び、関東・東北の原材料を上方へ流通させるような広域取引を行った。 大津市公式サイト
この事実は、本稿の近江論と非常によくつながる。
近江商人を単純に、
「近江は貧しかったから外へ商売に出た」
という説明だけで理解するのは不十分である。
もちろん商人の発生には土地所有、農村社会、城下町政策、商業制度など複数の要因がある。
しかし、近江という土地そのものが、
北陸の商品を見る。
京都の商品を見る。
大坂の商品を見る。
東国への街道を見る。
湖上交通を見る。
という環境にあったことは見逃せない。
物流の交差点で暮らせば、物価差や地域差に接する機会も増える。
どこに何があり、どこへ持っていけば売れるのか。
どの道が通じているか。
どの港で船へ載せるか。
そうした知識そのものが、商業資本になる。
近江八幡市も、八幡商人が全国から最新の情報や文化を持ち帰ったことを、市史の重要な特徴としている。 大津市公式サイト
つまり物流圏は商品だけを動かしたのではない。
商人の能力そのものを育てた可能性がある。
近江八幡は「湖」と「街道」を利用した都市だった
近江八幡はこの構造をよく表している。
近江八幡市の市史では、八幡町を街道と湖上交通の双方に支えられた都市として扱い、中山道、朝鮮人街道、八幡堀、八幡湊などを一体的な交通史の中で位置づけている。 大津市公式サイト
八幡商人の成長を考えるとき、城下町政策だけではなく、
街道へ出られる。
琵琶湖へ出られる。
京都へ行ける。
大坂へ行ける。
美濃・東国へ向かえる。
という立地環境も重要だったと考えられる。
この問題については、後の「城郭から水運都市へ」の章で詳しく検討する。
この物流圏には「一つの中心」しかなかったわけではない
ここまでの議論で注意したいことがある。
巨大物流圏という言葉を使うと、
「どこが中心だったのか」
と考えたくなる。
しかし実態は、単一中心型ではなかったと考えた方がよい。
京都には京都の機能がある。
大坂には大坂の機能がある。
大津には大津の機能がある。
敦賀、小浜、美濃にもそれぞれの役割がある。
たとえば、
京都=政治・文化・工芸・巨大消費
大坂=大量集積・市場・海運・再配分
大津=琵琶湖水運と山城をつなぐ積み替え
敦賀=日本海と内陸物流の接続
美濃=東国・濃尾方面と畿内をつなぐ陸上交通
というように、それぞれ異なる機能を担う。
したがってこの物流圏は、
一つの都市が他を従属させる構造ではなく、異なる機能を持つ複数拠点が交通によって結ばれたネットワーク
として考える方が実態に近い。
時代によって物流の主役は変化する
さらに、このネットワークは固定されたものでもない。
古代には律令国家の租税輸送が大きな意味を持つ。
中世には寺社領・荘園・港湾都市・関所などが重要になる。
戦国時代には城郭と城下町が物流支配に組み込まれる。
近世になると幕藩体制のもとで街道、宿駅、蔵屋敷、市場、船仲間などが高度に組織化される。
そして海運ルートそのものも変化する。
大阪市史が示すように、近世には北国海運の敦賀・小浜経由だけでなく、西廻り航路が発達し、日本海側の荷物が瀬戸内海から大坂へ直接向かうルートも大きく成長した。 大阪市オープンデータサイト
これは重要である。
つまり、
敦賀―近江―京都
という物流回廊が永遠に絶対的だったわけではない。
より効率的な航路が成立すれば物流はそちらへ移る。
交通体系は競争するのである。
だからこそ、本稿では「近江はいつの時代も日本物流のすべてを支配した」とは考えない。
むしろ、
ある地理的優位が、技術・政治制度・航路の変化によって強くなったり弱くなったりする。
という動態として見る。
この視点は、最後に明治の鉄道革命を考えるときにも極めて重要になる。
それでも近江が長く重要であり続けた理由
物流ルートが変化しても、近江の重要性は簡単には消えなかった。
その理由は、一つの航路に依存していなかったからである。
敦賀ルートがある。
若狭ルートがある。
美濃ルートがある。
鈴鹿ルートがある。
大津―京都ルートがある。
琵琶湖そのものがある。
複数の経路を持つということは、一つの交通体系が変化しても、別の役割を持ち続けることができる。
これは近江の長期的な強さを考えるうえで非常に重要である。
巨大物流圏の中央に「近江」があった
ここまでを大きく整理してみよう。
北には日本海と敦賀・小浜。
東には美濃・濃尾平野。
南東には伊勢。
南には京都。
さらにその先に大坂と大阪湾がある。
その間に近江がある。
しかし近江は、単にそれらに囲まれていたのではない。
それらをつないでいた。
そして人と物が流れる場所には、市場が生まれる。
宿場が生まれる。
商人が生まれる。
城が築かれる。
軍隊も通る。
つまり交通地理は、経済史だけでなく、政治史と軍事史をも規定する。
ここで次の問題が生じる。
この巨大物流網を支配しようとした権力者は、どこに城を置いたのであろうか。
現在の地図だけを見ると、佐和山城は山中の城に見える。
安土城も広い平野の中の山に見える。
しかし第四章で確認したように、戦国時代の湖岸景観は現在とは大きく異なる。
佐和山の西には松原内湖。
安土の周囲には大中の湖、小中の湖、西の湖などの水域が広がっていた。
つまり次に検討すべきなのは、
城と物流の関係
である。
軍事拠点は、なぜそこに置かれたのか。
敵を防ぐだけでなく、道路・港・水運・物資を押さえる役割もあったのではないか。
次章では、松原内湖と佐和山、大中の湖を中心とする内湖群と安土城の関係を検討し、城郭を軍事施設だけではなく、物流支配の拠点として読み直していく。
第十一章 城は水を背負っていた――内湖を利用した水運城郭と、水路を用いた水運城郭都市
近江の城を考えるとき、「水城」という一語だけでまとめてしまうと、その本質を見失う。
佐和山、安土、大溝、坂本、長浜、近江八幡。
いずれも水と深く関係する城である。
しかし、水との関わり方は同じではない。
一方には、内湖・湿地・河口などの水域を城郭の防御と湖上交通の接続に利用した城がある。
もう一方には、港・堀・水路を城下町の内部へ組み込み、船と商品を都市そのものへ導いた城郭都市がある。
本稿では前者を、
「内湖を利用した水運城郭」
後者を、
「水路・港湾を用いた水運城郭都市」
として分けて考えてみたい。
両者は完全に別々のものではない。
内湖を持つ城にも港や水路は存在するし、水運城郭都市も水辺の防御機能を持つ。
重要なのは、何を主たる機能として利用したのかを見ることである。
この違いを追っていくと、戦国期の近江では単に「湖の近くに城が建てられた」のではなく、琵琶湖そのものが政治・軍事・物流体系の中へ組み込まれていったことが見えてくる。
内湖は天然の水堀だけではなかった
近江の城郭と水運を理解するうえで、まず「内湖」の意味を考えなければならない。
現在の琵琶湖岸は二十世紀の干拓や河川改修によって大きく変化している。
かつて湖岸には多くの内湖が存在した。
内湖とは、本湖から砂州や堆積地などによって部分的に隔てられながら、水路によって琵琶湖とつながる浅い水域である。
城郭から見れば、これは天然の水堀になる。
敵軍が簡単に横断できない。
進軍方向を限定できる。
湿地まで含めれば、大軍や騎馬の行動も妨げる。
しかし内湖の意味は、防御だけではない。
船にとっても価値があった。
琵琶湖本湖は広大である。
穏やかな日は大量輸送に適した水路となるが、風が強まれば状況は一変する。
白波が立ち、小舟は波を受けて転覆する危険にさらされる。
これは過去だけの話ではない。現在でも滋賀県警は強風注意報などが発令された場合には出航しないよう呼びかけており、実際に強風下で小型艇やヨットが転覆する事故が発生している。琵琶湖は内陸湖だから常に穏やか、という水域ではないのである。 滋賀県公式サイト
これに対し、陸地や砂州に囲まれた内湖は、本湖に比べれば風波を避けやすい。
したがって水深と出入口の条件が合えば、
船を退避させる。
停泊させる。
係留する。
複数の船を集める。
荷物や兵員を積み下ろす。
という機能を持つことができる。
つまり内湖は、天然の水堀であると同時に、天然の停泊地・避難港となり得る水域でもあった。
戦時には、その意味がさらに大きくなる。
船を城の近くへ集めることができれば、兵員を輸送できる。
兵糧を運べる。
武器を積み込める。
湖上へ出撃するまで船を待機させることもできる。
したがって内湖には、
防御・避難・係留・集結・補給
という複数の価値があったと考えられる。
ただし、すべての内湖に大型船が自由に入れたわけではない。
内湖の多くは浅く、琵琶湖本湖へ通じる水路にも幅や水深の制約がある。
重要なのは「大型軍船が何隻でも入った」と考えることではなく、その水域に適した船を、城の近くで安全に運用できる環境が存在したことである。
佐和山――松原内湖と陸路の間に置かれた城
佐和山城を現在見ると、琵琶湖から離れた山城に見える。
しかし戦国時代の景観は大きく異なっていた。
佐和山の西側には松原内湖が広がっていた。
一方、東側には美濃・関ヶ原方面から湖東を南北へ通る陸上交通が存在する。
つまり佐和山は、
陸路と水域の境界
に置かれた城だったのである。
松原内湖遺跡では、かつての湖岸線とともに奈良時代から中世に至る集落跡などが確認されており、現在の乾いた景観からは想像しにくいほど、水辺が佐和山に近かったことが考古学的にも分かっている。 滋賀県文化財保護協会
これは佐和山の性格を考えるうえで重要である。
東側の街道を押さえる。
西側では松原内湖を介して琵琶湖方面へ接続する。
北へ進めば湖北。
東へ進めば関ヶ原・美濃。
南へ進めば湖東・大津方面である。
ただし現段階では、佐和山城が松原内湖を直接「軍港」として運営し、軍船を常時係留したことまでを示す直接史料は確認できない。
したがって本稿では、佐和山を、
内湖そのものを軍港化した城
とまでは断定せず、
内湖・湖上交通と陸上交通の双方へ接続できる場所に築かれた水陸交通城郭
として位置づけたい。
安土――内湖を城郭運営へ直接取り込む
安土では、水との関係はさらに明確になる。
現在の安土山周辺には水田が広がっているため、安土城を「陸上の山城」として見てしまいやすい。
しかし戦国期には、大中の湖、小中の湖など複数の内湖が存在し、安土山は今よりはるかに水辺へ近かった。
しかも安土周辺では、信長以前から常楽寺湊をはじめとする湖上交通が存在していた。
信長は何もない場所へ突然水運を持ち込んだのではない。
既存の湖上交通圏の中へ政治中枢を置いたのである。
さらに安土城跡の発掘調査では、山裾の旧湖岸部から、船を通すため浅瀬を掘ったと考えられる溝状遺構が確認されている。
そこからは荷札とみられる木簡も出土した。
滋賀県は、これらの状況から搦手道が船で運ばれた物資を城内へ搬入するルートだった可能性を指摘している。 滋賀県公式サイト
ここまで来ると、安土における水運は単なる周辺環境ではない。
城郭運営そのものに組み込まれていた可能性が高い。
船で運ぶ。
水辺で荷を降ろす。
城内へ搬入する。
これが事実であれば、安土城は「琵琶湖を眺める城」ではない。
琵琶湖から物資を受け取る城なのである。
大溝――内湖・港・街道・水軍が一体となった城
そして内湖利用型水運城郭として、極めて分かりやすい例が湖西の大溝城である。
天正六年(一五七八)、信長の甥・織田信澄によって大溝城が築かれた。
高島市は、大溝城について、長浜・安土と同様に内湖である乙女ヶ池を天然の水堀として利用した城と説明している。
しかも築城と同時に、それまで西側山麓を通っていた街道を城下へ付け替え、大溝湊も整備された。 高島市公式サイト
ここには、
城。
内湖。
港。
街道。
が一体となっている。
さらに注目すべきなのが、乙女ヶ池東側の打下地区である。
高島市によれば、ここには平時には舟運や漁撈に従事し、戦時には水軍へ転換する集団が配置された。 高島市公式サイト
これは今回の論考にとって非常に重要な事例である。
平時の船乗りが、戦時には水軍になる。
平時の商品輸送路が、戦時には軍事輸送路になる。
そして内湖が、船の待機・係留・集結を支える。
つまり大溝では、
平時の物流と戦時の軍事運用が、同じ水運基盤の上に成立していた
ことが非常に分かりやすい。
しかも大溝は古代北陸道が通り、湖上交通の拠点であった勝野津にも比定される場所である。 高島市公式サイト
古代から存在した交通拠点に、戦国期の城郭と港湾機能が重ねられたのである。
ここに近江の交通史の長い継続性を見ることができる。
内湖型水運城郭とは何だったのか
佐和山。
安土。
大溝。
三城の性格は同じではない。
佐和山では、松原内湖と陸路の結節性が強い。
安土では、内湖・既存港湾・城への物資搬入が直接結びつく。
大溝では、内湖・港・街道・舟運集団・水軍運用までが確認できる。
しかし共通しているものがある。
水を城の外側に置かなかった
ことである。
水は障害物ではない。
守りになる。
道になる。
船を置く場所になる。
物資を運ぶ場所になる。
戦時には兵站と軍事行動を支える。
つまり内湖とは、城郭防御と水運をつなぐ複合的な交通空間だったのである。
水路・港湾を用いた水運城郭都市
一方、もう一つの形がある。
水辺に城を築くだけではない。
船を城下町の内部まで引き込み、都市そのものを水運装置として造る形である。
その代表が、
坂本。
長浜。
近江八幡。
である。
三都市の成立過程は異なる。
しかし共通しているのは、
城+港+町+水運
が一つの都市システムとして機能したことである。
坂本――既存の巨大水運都市を城郭支配へ組み込む
坂本は、長浜や近江八幡とは性格が少し違う。
城が造られる以前から、比叡山延暦寺・日吉社を背景とする巨大な門前町が存在していた。
坂本には僧侶、商人、馬借・車借などが集まり、琵琶湖水運と陸上交通が結びついていた。
つまり、先に町と物流があった。
元亀二年(一五七一)の比叡山焼き討ち後、信長は明智光秀に志賀郡を与え、坂本城を築かせる。
坂本城は琵琶湖へ直接開く水城であった。
ここで行われたのは、
城を造って水運都市を生み出すこと
というより、
既存の宗教・商業・港湾都市を城郭支配の中へ取り込むこと
だったと考えた方がよい。
つまり坂本城とは、単なる湖岸防衛施設ではない。
京都の東側に位置し、比叡山麓の巨大経済圏と琵琶湖水運を押さえる政治・軍事拠点でもあった。
長浜――船を城下町の中へ引き込む
長浜では、この構造がさらに都市計画として明確になる。
秀吉が小谷から湖岸の今浜へ本拠を移し、長浜城と城下町を造ったことは前章までに見てきた。
長浜市の歴史的風致維持向上計画によれば、長浜湊は秀吉の城下町建設に伴って整備されたとされ、後世には北国街道と琵琶湖水運を結ぶ湖北の中心港となった。
琵琶湖から来た船は米川河口から旧長浜城外堀へ入り、船町などで荷を積み降ろしていた。 長浜市公式サイト
この構造は非常に重要である。
琵琶湖
→港
→河川・外堀
→城下町
となっている。
つまり船が湖岸で止まるのではない。
都市内部へ入る。
城の堀は防御施設であると同時に、物資を運ぶ水路にもなる。
船町があるということは、船頭・船持・荷役など水運に関係する人々が都市構造の一部として存在したことを意味する。
長浜は「湖岸に城を建てた町」というより、
琵琶湖水運を内部へ引き込んだ城郭物流都市
として理解した方が、その本質に近い。
近江八幡――堀そのものを物流路にする
この水運城郭都市という構造を最も視覚的に理解できるのが近江八幡である。
天正十三年(一五八五)、豊臣秀次は八幡山城を築き、その麓に計画的な城下町を造った。
そして八幡山を囲むように八幡堀を整備した。
近江八幡市は、この八幡堀について、琵琶湖へ通じ、湖上流通機能と戦術的防御機能を兼ね備えた水路として説明している。 大津市公式サイト
さらに市の資料では、琵琶湖を往来する荷船を寄港させるため、全長約六キロメートルに及ぶ運河として八幡堀が設けられたとされる。 大津市公式サイト
ここでは、
堀=防御施設
だけではない。
堀=物流路
なのである。
西の湖から八幡堀へ入る。
船が城下町へ入る。
荷物を降ろす。
商人が取引する。
蔵へ収める。
そして再び船へ積む。
軍事施設と商業施設が同じ水路を共有している。
これこそ、
水路を利用した水運城郭都市
と呼ぶにふさわしい構造である。
しかも八幡山城が廃城となった後も、八幡堀と商業都市は残った。
城郭の軍事機能は消えても、水運都市としての都市骨格は生き残ったのである。 大津市公式サイト
城を守るための水から、都市を動かすための水へ
ここまでを比較すると、近江の城郭水運には二つの方向が見える。
佐和山・安土・大溝では、
内湖を背負い、水を防御・停泊・交通・兵站へ利用する。
坂本・長浜・近江八幡では、
港や水路を都市へ組み込み、水運そのものを城下町の経済・政治機能へ取り込む。
ただし、これは単純な「進化段階」ではない。
内湖型が古く、水路都市型が新しいという話でもない。
それぞれが土地の地形と既存交通に応じて、水を異なる形で利用したのである。
重要なのは、
城と水運が別々に存在していない
ことである。
城が交通を支配し、
交通が城を支える。
この相互関係が、戦国期の近江で極めて強く現れている。
信長は琵琶湖を囲む城郭網をつくった
そして個々の城を並べるだけでは、最も重要なものが見えない。
それは、
城同士の配置
である。
滋賀県は、信長が坂本城、長浜城、大溝城、安土城を琵琶湖を取り囲むように配置し、湖上交通を強化したと整理している。 滋賀県公式サイト
さらに滋賀県の文化財資料では、この四城を
「琵琶湖城郭ネットワーク」
と呼び、それぞれが中世以来の湊を城下へ取り込み、主要街道にも近く、水運と陸上交通の双方を掌握できる場所に築かれたとしている。 滋賀県公式サイト
ここで初めて、
坂本。
長浜。
安土。
大溝。
が一枚の地図の上でつながる。
南西に坂本。
北東に長浜。
東岸中央部に安土。
西岸に大溝。
湖の周囲に拠点城郭を配置する。
単独の城を守るだけではない。
琵琶湖そのものを城郭網の内部へ入れる。
これは戦国城郭史として非常に大きな転換である。
琵琶湖を支配するとは、湖面を所有することではない
ここで「琵琶湖水運を支配する」という言葉の意味を明確にしておきたい。
湖面全域へ軍船を並べれば支配できる、という意味ではない。
水運は、
港から港へ動く。
物資を積み下ろす場所が必要になる。
城下町が必要になる。
街道との接続が必要になる。
船頭や船持が必要になる。
つまり水運を掌握するには、
湖そのものより、湖へ出入りする結節点を押さえること
が重要である。
坂本を押さえる。
長浜を押さえる。
大溝を押さえる。
安土を押さえる。
そうすれば、
どこから船が出るのか。
どこへ着くのか。
どこで荷物を積むのか。
どの街道へ接続するのか。
を政治権力が把握しやすくなる。
これは現代的に言えば、海全体を占有するのではなく、主要港と物流ターミナルを掌握することによって交通網を支配する構造に近い。
内湖の停泊地が城郭網を支えた可能性
この城郭ネットワークを考えると、内湖の意味はさらに大きくなる。
本湖航行中に風が強まり、白波が立つ。
小舟であれば転覆の危険もある。
そのとき、城の近くに風浪を避けられる水域があることは大きい。
平時には商船や漁船を泊める。
戦時には輸送船や軍事利用される船を集める。
物資を積み込む。
船を修理する。
出航を待つ。
すべての内湖がその機能を同じ規模で持ったわけではない。
しかし大溝の事例のように、舟運集団と水軍が結びついていた地域が実際に存在する以上、内湖を単なる「城を守る湿地」とみなすだけでは不十分である。
内湖は条件によって、
水上交通を支える船溜まり
として機能し得たのである。
本湖が航路なら、
内湖や港は船を支える拠点である。
この両方を押さえて初めて、湖上交通を安定的に利用できる。
信長から秀吉・秀次へ――水運支配から都市水運へ
ただし、ここで近江八幡だけは時代を分けて考える必要がある。
坂本・長浜・安土・大溝による琵琶湖城郭ネットワークは信長期のものである。
近江八幡は、本能寺の変後、豊臣秀次によって築かれた都市である。
したがって、
信長が近江八幡まで含めて琵琶湖支配網を完成させた
と書くことはできない。
しかし歴史的な流れとして見ると面白い。
信長期には、
城を湖岸の要所へ配置し、琵琶湖水運を城郭ネットワークの支配下へ組み込む。
その後の豊臣政権期には、
水路を都市内部へ引き込み、水運そのものを商業都市形成へ利用する。
という展開が見えてくる。
近江八幡の八幡堀は、その象徴である。
これは単純な技術進歩ではない。
水運支配が、都市経営へさらに深く組み込まれていった
と見ることができる。
城郭による琵琶湖支配とは何だったのか
ここまで来ると、近江の戦国城郭を見る目が変わる。
城は山の上から敵を見るだけの施設ではない。
港を押さえる。
街道を押さえる。
船を使う。
内湖を使う。
物資を集める。
商人を集める。
兵糧を運ぶ。
軍勢を移動させる。
つまり城郭は、
地域の交通と経済を統御する装置
でもあった。
信長の琵琶湖戦略の本質も、湖岸に城をたくさん建てたことだけではない。
城を琵琶湖水運の結節点へ置き、港・街道・都市・船を含む交通体系そのものを政治権力の支配下へ組み込んだことにあった。
と考えるべきだろう。
言い換えれば、
城を湖のそばに建てたのではない。
湖そのものを城郭網の中へ取り込んだのである。
佐和山では、内湖と陸路が交わる交通拠点が押さえられた。
安土では、内湖から城内への物資搬入が可能となった。
大溝では、内湖・港・水軍・街道が一体となった。
坂本では、既存の港湾・門前経済圏が城郭支配へ組み込まれた。
長浜では、船が城下町内部へ入った。
そして近江八幡では、堀そのものが物流路となった。
これらは別々の現象ではない。
琵琶湖という巨大な内陸交通空間を、政治・軍事・経済の中へどう取り込むかという試みの違いなのである。
そして、この琵琶湖水運をめぐる城郭政策を最も大きな規模で進めた人物こそ、織田信長であった。
その近江支配の中から長浜を与えられた羽柴秀吉は、やがてさらに大きな物流都市、大坂へ進んでいく。
次章では、城そのものから視野を広げ、信長・秀吉の拠点移動と物流圏の拡大がどのように重なっていったのかを検討する。
第十二章 信長・秀吉はなぜ近江を押さえたのか――熱田・岐阜・安土・長浜・大坂
ここまで、近江の城郭と水運の関係を見てきた。
佐和山は陸上交通と松原内湖・琵琶湖の間に立ち、安土城では水辺から城内へ物資を搬入した可能性を示す遺構まで確認されている。
では、織田信長や羽柴秀吉は、なぜこうした近江を重視したのであろうか。
京都への進出に便利だったから。
東国への交通を押さえるため。
浅井・六角など近江の既存勢力を制圧するため。
これらはいずれも重要である。
しかし、本稿ではもう一つの視点を加えたい。
信長と秀吉は、ともに近江へ入る以前あるいは近江支配の初期から、水運・市場・城下町・物流が結びついた地域を実際に経験していたのではないか。
信長には尾張の熱田がある。
その後に岐阜がある。
さらに安土へ進む。
秀吉には長浜がある。
そして最終的に大坂へ移る。
この拠点の変化を、単なる「領土拡大に伴う本拠移転」としてではなく、より大きな物流圏を掌握していく過程として見直してみたい。
信長は海運を知らない内陸武将ではなかった
織田信長が生まれ育った尾張は、海から遠い国ではない。
その南部には伊勢湾があり、熱田には古くから湊が存在した。
現在の名古屋市熱田区も、熱田を神宮の門前町であると同時に、宿場町・湊町として発展した地域と位置づけている。信長の時代にはすでに大瀬子・木之免浜付近に魚を扱う問屋が存在し、熱田から清洲へ魚が運ばれていたとされる。 名古屋市公式ウェブサイト
これは興味深い事実である。
清洲は織田氏の政治拠点である。
熱田は伊勢湾へ開く湊と市場を持つ。
そして海から入った魚介類が、内陸の清洲へ運ばれていた。
つまり信長の青年期の尾張には、すでに
伊勢湾
→熱田湊
→市場・問屋
→内陸輸送
→清洲
という物流構造が存在していたことになる。
信長が後に安土で琵琶湖水運を重視した背景を考える際、この尾張時代の交通環境を無視する必要はない。
織田氏と熱田は無関係ではなかった
熱田は単に信長が近くを通った港町だったわけでもない。
熱田の有力者であった加藤氏について、名古屋市図書館は、織田信長の父・信秀の保護によって熱田で実権を握った家であったと説明している。加藤図書助順盛は信長とも関係が深く、桶狭間合戦の際にも信長を支援したとされる。 名古屋市図書館
また『信長公記』に基づく桶狭間出陣の経路では、信長は清洲を出たのち熱田神宮へ立ち寄っている。名古屋市もこの経路を紹介している。 名古屋市公式ウェブサイト
したがって信長にとって熱田は、まったく未知の商業港ではない。
父の代から織田氏と関係を持つ有力者が存在し、伊勢湾交通、市場、神宮、街道が重なる地域だったのである。
ただし、ここで慎重にしておかなければならない。
「信長は熱田湊で水運経営を学び、その経験を安土へ移植した」
と直接証明する史料は、現在確認できない。
したがって本稿では、これを史実として断定しない。
しかし、
信長が水運・市場・内陸都市が結びつく地域構造を、尾張時代から身近に見ることのできる環境にいた。
という事実は、後の安土を考える比較材料として十分に意味を持つ。
熱田から清洲――「湊と政治拠点」という構造
この点をもう少し考えてみたい。
熱田から清洲へ魚が運ばれていたという事実は、一見すると小さな地域流通の話に見える。
しかし物流構造として見ると重要である。
政治拠点が必ずしも港そのものに置かれる必要はない。
港から内陸へ物資を運ぶ仕組みがあればよい。
つまり、
湊=外部との接点
と、
清洲=政治的中心
が、物流によって結ばれていた。
これは、後に近江で見られる構造とどこか似ている。
安土城そのものは琵琶湖の沖合にあるわけではない。
しかし内湖・港・城下町・街道を利用すれば、水上交通から物資を城へ取り込むことができる。
ここに、
政治拠点を交通網へどう接続するか
という共通した問題がある。
信長の拠点選択を見る際、「山城か平城か」だけでなく、「その城がどの物流網へ接続できるか」を見る必要がある。
岐阜――東西回廊を押さえる
信長の拠点は清洲・小牧山を経て、永禄十年(一五六七)に美濃の岐阜へ移る。
岐阜市によれば、信長は同年に稲葉山城を攻略し、岐阜城と改め、天正四年(一五七六)に安土へ移るまでおよそ十年間、ここを天下統一の拠点とした。 岐阜市公式ウェブサイト
岐阜への移動は、今回の論考では非常に重要である。
信長は尾張から、濃尾平野の北側に位置する美濃へ進出した。
そこから西へ向かえば関ヶ原である。
その先には近江がある。
つまり、
尾張
→美濃・岐阜
→関ヶ原
→近江
→京都
という東西回廊の上を、信長の勢力圏そのものが西へ伸びていった。
永禄十一年(一五六八)の上洛も、この地理から切り離して考えることはできない。
信長にとって近江は単なる「京都の隣国」ではない。
岐阜から京都へ向かう途中に横たわる巨大交通圏であった。
近江を押さえなければ、岐阜と京都はつながらない
岐阜を本拠として京都へ政治的影響力を伸ばそうとするなら、近江を安定して通過できなければならない。
関ヶ原から柏原・醒井方面へ入り、湖東を南下すれば京都へ向かうことができる。
しかし近江国内に敵対勢力が存在すれば、その交通は常に脅かされる。
六角氏。
浅井氏。
比叡山。
琵琶湖沿岸の諸勢力。
信長が近江で繰り返し軍事行動を行った背景には、それぞれ固有の政治事情がある。
だが結果として信長が掌握していったのは、単なる領土ではなかった。
岐阜と京都を結ぶ街道と、その側面に広がる琵琶湖水運圏でもあったのである。
この意味では、近江支配は信長の西進政策における「通過条件」ではなく、より積極的な意味を持つ。
近江を安定して利用できれば、
東には美濃。
西には京都。
北には湖北・北陸。
湖上では大津・坂本・湖西。
という複数方向へ軍勢と物資を動かすことができるからである。
岐阜から安土へ――拠点の重心が変わった
天正四年(一五七六)、信長は岐阜城を嫡男信忠へ譲り、安土へ本拠を移す。岐阜市の記録でも、岐阜が信長の本拠であった期間は一五六七年から一五七六年までとされている。 岐阜市公式ウェブサイト
この本拠移転は大きい。
信長の領国が拡大したため、岐阜では西に寄りすぎたから安土へ移った、と単純に考えることもできる。
しかし安土には、前章で確認した特別な交通条件があった。
京都へ近い。
岐阜・美濃方面へ戻れる。
湖東を押さえられる。
琵琶湖水運へ接続できる。
周囲には大中の湖・小中の湖などの内湖群が存在する。
常楽寺湊のような既存の水運拠点もある。
さらに安土城そのものから、水辺から物資を搬入した可能性を示す溝状遺構と荷札木簡が見つかっている。 滋賀県公式サイト
つまり安土は、
政治・軍事・陸運・水運を一か所で組み合わせられる場所
だった。
安土は「京都を監視する城」だけではなかった
安土城については、京都に近く、天下統一を象徴する巨大城郭として語られることが多い。
もちろん、それは間違いではない。
しかし物流の視点を加えると、安土の姿はさらに大きくなる。
信長が必要としたのは、自分一人が京都へ移動できる道ではない。
大軍を動かす。
家臣を集める。
兵糧を運ぶ。
建築資材を集める。
城下町へ商品を供給する。
使者を送り出す。
大量の人間を長期間維持する。
そのためには、街道だけではなく輸送能力そのものが必要である。
安土が琵琶湖水運へ接続できたことは、城郭運営において大きな利点だったと考えられる。
したがって本稿では、
信長が安土を選んだ理由を、水運だけで説明することはできない。しかし水運を除外して安土の立地を説明することもできない。
という立場を取る。
熱田と安土――共通するのは「港を持つ城」ではない
ここで熱田と安土を比較してみる。
ただし、両者を直接同じものとして扱うのは危険である。
熱田は伊勢湾の湊町。
安土は琵琶湖周辺の城郭都市。
地形も規模も政治的役割も違う。
共通しているのは、
政治的中心と水運・市場を結びつける地域構造
である。
尾張では、
熱田―清洲。
近江では、
内湖・琵琶湖―安土。
信長が意識的に両者を同じモデルとして設計したと証明することはできない。
しかし信長の政治活動が、水運と無縁の内陸世界から突然始まったわけではないことは重要である。
熱田という海運・市場拠点を含む尾張で育ち、岐阜という東西交通の拠点へ移り、最後に琵琶湖水運を利用できる安土へ本拠を置いた。
この経路そのものが、信長の勢力拡大と交通圏の拡大を重ねて見せている。
秀吉の出発点としての長浜
そして信長以上に、この「交通を利用する城下町」という問題が明瞭に見える人物が羽柴秀吉である。
浅井氏滅亡後、秀吉は北近江の支配を任される。
長浜市の資料によれば、天正二年(一五七四)頃から秀吉は小谷山南西の湖岸にある今浜で築城を開始し、地名を長浜と改めた。長浜市はその立地理由として、湖上交通を軍事・商工業上の物資輸送に利用しやすいこと、中山道に近く北国街道へ通じること、平地で城下町を造成しやすいことなどを挙げている。 長浜市公式サイト
この説明は、今回の論考とほとんど重なる。
秀吉が選んだ長浜は、
琵琶湖だけの町ではない。
湖上交通。
北国街道。
中山道方面。
湖北平野。
これらが結びつく場所だった。
しかも長浜城は湖岸に築かれた。
長浜市の史跡解説も、長浜城跡を琵琶湖岸に位置する城としている。 長浜市公式サイト
秀吉は小谷から湖岸へ下りた
この移動は非常に興味深い。
浅井氏の本拠であった小谷城は、山城である。
秀吉は一時小谷城へ入ったが、その後、湖岸の今浜へ新しい城を築いた。
この移転を考えるとき、防御力だけなら山城にも利点がある。
しかし秀吉は山から平地へ下り、しかも琵琶湖岸へ移った。
長浜市が示すように、そこには湖上交通、陸上交通、商工業、城下町建設という複数の利点があった。 長浜市公式サイト
つまり秀吉の長浜は、
敵から身を守る城
よりも、
領国を動かす城
へ重心を移した事例として読むことができる。
これは戦国城郭の変化を考えるうえでも重要である。
長浜では城だけでなく「町」を造った
秀吉は長浜へ城を築いただけではない。
小谷城下などから商人を集め、新しい城下町を形成した。
長浜市は、秀吉が「今浜」を「長浜」と改称し、小谷城下などの商人を集めて楽市の城下町を造ったことを、現在の長浜市の基礎と位置づけている。 長浜市公式サイト
そして天正八年(一五八〇)頃までには、小谷城下などから複数の町が移され、長浜城下町の中心部分が形成されていた。 長浜市公式サイト
ここで秀吉が行っていることは、
城を築く。
商人を移す。
町を造る。
交通を利用する。
という一連の都市政策である。
つまり支配拠点とは、もはや山頂の本丸だけではない。
城+港+街道+商人+市場
を一体として整備する。
この経験を秀吉は、まだ天下人になる以前の長浜で持ったことになる。
長浜湊は城下町の外港だった
長浜の水運との関係は、後の時代の記録からも明瞭である。
長浜市の歴史的風致維持向上計画によれば、長浜湊は秀吉の城下町建設にともなって外港として整備されたとされ、廃城後も北国街道と琵琶湖水運を結ぶ港として機能した。
琵琶湖から来た船は米川河口から旧長浜城外堀へ入り、船町などで荷を積み降ろした。後には坂田・浅井・伊香三郡や北国街道方面から集まる米穀・物資を船積みする湖北の中心港となった。 長浜市公式サイト
この構造を見ると、長浜城下がなぜ湖岸に置かれたのかがよく分かる。
街道から物資が来る。
城下町で集まる。
港へ運ぶ。
船へ積む。
湖上へ送り出す。
逆方向の物資も同じである。
長浜は、まさに本稿でいう物流変換地だったのである。
長浜の経験と大坂を直接結びつけられるか
ここで慎重な区別が必要である。
秀吉が長浜で琵琶湖水運を経験したから、
「次はもっと大きな水運拠点として大坂を選ぼう」
と考えたことを直接示す史料が存在するわけではない。
したがって、
長浜で学んだから大坂を選んだ
と因果関係を断定することはできない。
しかし比較は可能である。
長浜で秀吉が造ったものを見る。
湖岸の城。
港。
商人を集めた城下町。
街道との接続。
次に大坂を見る。
城。
大規模な城下町。
堀川。
商人の集住。
河川交通。
海上交通。
規模は比較にならないほど大きくなるが、城を中心に物流・商業・都市を組み合わせる発想そのものには連続性を検討する価値がある。
大坂――なぜ秀吉はここを選んだのか
天正十一年(一五八三)、秀吉は大坂城の築城に着手する。大阪市も、本能寺の変の翌年から秀吉が大坂城を築き、ここを天下統一の拠点としたことを確認している。 大阪市公式ウェブサイト
大坂の立地には、大きな特徴がある。
西には大阪湾と瀬戸内海。
北東からは淀川が流れてくる。
さらに大和川水系との関係もある。
古代から難波津という港湾機能が存在してきた地域でもある。
つまり大坂は、
海と河川が出会う場所
である。
ここに巨大な城と城下町を置けば、西日本海運と京都方面の河川交通を同時に利用できる。
大阪市も、秀吉が大坂城と城下町を築き、東横堀川・西横堀川・阿波堀川などを整備して、海運・水運の拠点を形成したことを明記している。 大阪市公式ウェブサイト
秀吉は「水のある場所」を利用しただけではない
大坂についてさらに重要なのは、自然の河川を利用しただけではないことである。
秀吉は堀を掘った。
宅地を造成した。
道路を整備した。
商人を移住させた。
大阪市の近年の資料によれば、秀吉による大坂城下町建設では、東横堀川、天満堀川、西横堀川、阿波堀川などが開削され、その土砂を用いて低湿地を造成し、城下町が整備された。伏見・堺・平野郷などから町人も移住している。 大阪市公式ウェブサイト
つまり秀吉は、
自然の交通条件が優れた場所を選ぶ
だけではなく、
交通に適した都市へ地形そのものを改造する
段階へ進んでいる。
これは長浜より一段大きい。
琵琶湖岸の良港を利用するのではなく、河川と海に囲まれた低湿地へ堀を張り巡らせ、城下町全体を水運都市として設計するのである。
大坂を「最終集積地」と見る
ここで、本稿独自の視点を提示したい。
秀吉が大坂を選んだ理由を考える際、
政治的象徴。
軍事。
旧石山本願寺の立地。
西国支配。
京都との関係。
これらは当然重要である。
しかし物流から見ると、もう一つ極めて大きな特徴がある。
大坂は、異なる方向から来る大量物資を集積し、さらに別方向へ再配分できる。
瀬戸内海から西国の物資が来る。
淀川を通じて京都方面とつながる。
海へ出ればさらに広域航路へ接続できる。
城下には人工水路を造ることができる。
商人を集めることもできる。
したがって本稿では、大坂を単なる「秀吉の天下統一の城」としてだけではなく、
巨大な集積・再配分都市
として捉える。
河瀬昌良の考察として言えば、ここは広域物流における一つの最終集積地と呼びたくなる場所である。
ただし「最終」とは、そこで物がすべて消費されるという意味ではない。
一度大規模に集められ、取引され、加工され、さらに別の地域へ送り出されるという意味である。
したがって研究上は、**「巨大集積・再配分拠点」**と表現する方がより正確であろう。
信長の安土と秀吉の大坂は何が違うのか
ここまで来ると、信長と秀吉の拠点の違いが見えてくる。
安土は琵琶湖交通と東西陸路を結ぶ場所にある。
近江という列島中央部の交通結節点を利用するには極めて優れている。
これに対して大坂は、海へ直接開いている。
瀬戸内海を通じて西日本から大量物資を集めることができる。
淀川によって山城と接続する。
人工水路を張り巡らせれば、市街地内部まで船を入れることができる。
つまり安土が、
列島中央部の巨大な交通結節点
であるのに対して、
大坂は、
全国的物流を受け止められる港湾・河川都市
へ発展する可能性を持っていた。
信長の支配規模から、秀吉による全国支配へ。
政治圏の拡大とともに、必要とされる物流拠点の規模も大きくなったと見ることができる。
熱田・岐阜・安土・長浜・大坂を一本につなぐと何が見えるか
ここまでの拠点を並べてみると、一つの興味深い流れが見える。
信長の尾張時代には、熱田湊と清洲という海運・市場・内陸政治拠点の関係がある。
岐阜へ移ると、東西交通の大回廊を掌握する。
安土では、街道と琵琶湖水運を組み合わせた拠点へ移る。
秀吉は長浜で、湖岸城郭・港・街道・商人を組み合わせた城下町を実際に造る。
そして大坂では、海・河川・人工水路・商業都市を巨大な規模で統合する。
もちろん、これは一直線の「進化」を証明するものではない。
人物も時代も地域条件も違う。
しかし、
政治拠点が拡大するほど、交通と物流を内部へ取り込む度合いも大きくなっている
という傾向は検討に値する。
城とは、敵を防ぐための箱ではない。
領国を動かす司令塔である。
そして領国を動かすには、人と情報だけでなく、物資を動かす必要がある。
天下統一とは「物流圏をつなぐこと」でもあった
ここから、天下統一という言葉そのものも少し違って見えてくる。
天下統一とは、敵対大名を軍事的に降伏させることだけではない。
各地域の道路を利用できるようにする。
港を利用できるようにする。
関所や通行を管理する。
商人を保護する。
兵糧を移動させる。
城下町を造る。
税や年貢を集める。
つまり、異なる地域圏を一つの政治権力のもとで結びつけていくことでもある。
その意味で、
政治統一は物流統合でもある。
信長が近江を押さえ、秀吉が大坂を拠点としたことは、この観点からも読むことができる。
近江を押さえれば、
美濃と京都。
北陸と畿内。
若狭と琵琶湖。
伊勢と湖東。
をつなぐことができる。
大坂を押さえれば、
京都と瀬戸内海。
西国と畿内。
海運と河川交通。
を巨大な規模で接続できる。
これは偶然とは考えにくい地理的条件である。
信長・秀吉は交通を支配したから天下人になったのか
ここで結論を急いではならない。
「信長と秀吉は物流を理解していたから天下を取れた」
と単純に断定することはできない。
軍事力。
人材。
外交。
政治制度。
財政。
偶然。
多くの要因が絡んでいる。
しかし反対に、
大量の軍勢と巨大都市を維持できる物流能力なしに天下統一が可能だった
と考えることも難しい。
信長の戦争も、秀吉の戦争も、規模が拡大するほど兵站能力を必要とした。
その兵站を支える基盤の一つが、街道・港・船・城下町である。
したがって本稿では、
信長と秀吉が近江を重視した背景には政治・軍事上の理由とともに、琵琶湖を中心とする広域交通網を利用・統制できるという条件も存在した。さらに秀吉の大坂建設は、この物流統合をより巨大な海運・河川交通圏へ拡張したものとして検討できる。
というところまでを、本章の結論としたい。
熱田から岐阜へ。
岐阜から安土へ。
長浜から大坂へ。
この拠点の変化を交通史として見ると、天下統一の歴史の背後に、もう一本の流れが見えてくる。
それは、
より多くの人と物を集め、より遠くへ送り出すことのできる場所へ、政治権力の重心が移っていく流れ
である。
そして秀吉が長浜で築いた城下町の経験は、近江にもう一つ重要な遺産を残した。
城を中心に商人を集め、港と街道を結び、経済都市を形成するという方法である。
その性格をさらに鮮明に示すのが、秀吉の長浜と、秀次の近江八幡である。
次章では、軍事拠点を核としながら、港・商人・市場・街道を組み込んだ都市がどのように形成され、のちの近江商人を生み出す土壌となったのかを検討する。
第十三章 城郭から水運都市へ――長浜と近江八幡
前章では、信長と秀吉の拠点選択を、軍事・政治だけではなく、水運と物流の視点から検討した。
その中で一つ重要な変化が見えてきた。
城とは、もはや山頂に築かれた軍事施設だけではない。
城の麓に町を造る。
商人や職人を集める。
街道へ接続する。
港を利用する。
商品を流通させる。
つまり戦国時代後半になると、城郭は単なる防御施設ではなく、領国の政治・経済・物流を集中させる都市装置としての性格を強めていく。
この変化を近江でよく示しているのが、長浜と近江八幡である。
両都市には共通点がある。
長浜は羽柴秀吉によって築かれた城下町であり、近江八幡は豊臣秀次によって築かれた城下町である。
どちらも琵琶湖水運へ接続する。
どちらも街道交通と結びつく。
どちらも商人・職人を集めて新たな都市を造った。
そして、さらに重要なのは、城が失われた後も町が生き残ったことである。
これは近江の都市史を考えるうえで極めて重要な現象である。
城によって生まれた町が、やがて城に依存しない商業都市へ変わっていった。
本章では、その過程を長浜と近江八幡から検討する。
長浜――山城から湖岸都市へ
秀吉が長浜へ入る以前、北近江の政治拠点は小谷城であった。
小谷城は山城であり、浅井氏の軍事・政治拠点として高い防御力を持っていた。
しかし浅井氏滅亡後、北近江を与えられた秀吉は、その小谷城を本拠として使い続けなかった。
天正二年(一五七四)頃、琵琶湖岸の今浜に長浜城を築き、城下町の建設を始める。
長浜市は、秀吉が今浜を長浜と改称して築城と城下町整備を同時に進めたことを確認している。現在の長浜中心市街地に残る町割りも、この時期の城下町形成を基礎としている。 長浜市公式サイト
ここで改めて注目したい。
秀吉は山から湖岸へ下りた。
軍事的防御だけを最優先するなら、山城である小谷にも利点はあった。
しかし領国を統治し、商業を育て、物資を動かすのであれば、平地と港を持つ長浜の方が有利である。
長浜市の歴史的風致維持向上計画は、長浜の町が当初から琵琶湖舟運を重視して造られ、米川や水路を商業利用することまで視野に入れた町建てであったと整理している。 長浜市公式サイト
これは単なる築城地の変更ではない。
城の性格そのものが変わっている。
敵から守るための城から、
人を集める城。
物資を集める城。
市場を育てる城。
領国経済を動かす城へ。
長浜は、その転換を非常によく示している。
城と港がつながっていた
長浜の特徴は、城が琵琶湖岸に存在したことだけではない。
城下町と港が一体になっていた。
長浜市によれば、長浜湊は秀吉による城下町建設に伴って外港として整備されたとされ、その後も北国街道と琵琶湖水運を結ぶ湖北の中心港として発展した。
船は米川河口から旧長浜城外堀へ入り、船町などで荷を積み降ろした。後世には坂田・浅井・伊香三郡や北国街道方面から集まった米穀・諸物資がここで船積みされている。 長浜市公式サイト
ここには、本稿がここまで追ってきた物流構造がそのまま現れている。
街道
↓
城下町
↓
港
↓
琵琶湖
である。
あるいは逆方向に、
琵琶湖
↓
港
↓
城下町
↓
北国街道・湖北各地
となる。
長浜は単なる湖岸都市ではない。
水運と陸運を接続する物流変換地として設計された都市だったのである。
城下町には商人と職人を集めた
秀吉は、城と港を造っただけではない。
小谷城下などにいた商人・寺院を新しい長浜城下へ移し、新都市の人口と経済機能を集中させた。
長浜市の歴史的風致計画では、城下町の町割りについて、商人や職人が職種ごとに集住する構造や、湊と舟運を重視した設計が、後の近世城下町の雛形の一つになったと評価している。 長浜市公式サイト
ここで重要なのは、
城下町は自然にできたのではない
ということである。
人を移す。
道を造る。
商人を集める。
職人を集める。
港とつなぐ。
税制上の優遇を行う。
つまり都市そのものが政策によって造られている。
これは信長の安土にも見られる動きであるが、秀吉の長浜ではそれが非常に具体的な都市形成として現れている。
「税を取る」だけが支配ではない
領主とは税を取る存在である。
しかし秀吉は、新しい町を育てるためには、逆に税を軽減するという政策も用いた。
長浜市に残る天正十九年(一五九一)の秀吉朱印状は、長浜町屋敷の年貢三百石を免除したことを示しており、現在も市指定文化財となっている。 長浜市公式サイト
長浜市は、この年貢免除と町衆自治の承認が、自由な商業・流通活動を促し、長浜が商工業都市として発展する基盤になったとしている。 長浜市公式サイト
ここには、領国経営の重要な発想がある。
税を最大限取り立てれば、短期的には領主の収入は増える。
しかし町が衰退すれば、商業も物流も成長しない。
一方で商人を保護し、都市活動を活発にすれば、人も物も集まり、その地域全体の経済規模そのものが大きくなる。
つまり支配者にとって重要なのは、
既存の富を奪うことだけではなく、富が生まれる仕組みを造ること
でもあった。
これは後の秀吉の大坂政策へつながる視点としても興味深い。
長浜城は消えた。しかし町は消えなかった
そして長浜で最も注目すべき点がある。
長浜城は元和元年(一六一五)に廃城となった。
普通に考えれば、城下町はその中心を失ったことになる。
ところが長浜の町は消滅しなかった。
むしろ北国街道の宿場町、大通寺の門前町、そして琵琶湖水運の港町として発展を続けた。長浜市も、城下町としての期間は比較的短かったものの、その後も宿場町・湊町・門前町として地域の中心都市であり続けたと評価している。 長浜市公式サイト
これは非常に重要である。
城を失っても町が存続したということは、
都市の経済がすでに城だけに依存していなかった
ことを意味する。
街道がある。
港がある。
商人がいる。
職人がいる。
市場がある。
周辺農村から物資が集まる。
湖北から琵琶湖へ荷物を送り出せる。
つまり秀吉が最初に造った城下町が、やがて自立した物流・商業都市へ転換したのである。
この現象は、次に見る近江八幡ではさらに鮮明になる。
近江八幡――安土の次に造られた都市
本能寺の変によって信長が倒れ、安土城も政治中枢としての役割を失う。
その後、近江支配の再編の中で新たに登場するのが八幡山城である。
天正十三年(一五八五)、豊臣秀次は八幡山に城を築き、その麓に新しい城下町を建設した。
近江八幡市によれば、秀次は八幡山城築城と同時に、山麓へ計画的な城下町を造り、南北十二筋・東西四筋を基本とする整然とした街路を整備した。 大津市公式サイト
ここでも長浜と同じ現象が起きている。
城を築く。
町を造る。
商人や職人を集める。
交通を都市へ引き込む。
ただし近江八幡には、一つ非常に特徴的な施設があった。
八幡堀である。
八幡堀は単なる「城の堀」ではなかった
八幡堀を見ると、城郭と経済都市の境界が非常に分かりやすい。
近江八幡市によれば、秀次は八幡山を取り巻くように八幡堀を構築し、それを西の湖から琵琶湖へつながる航路として利用した。八幡堀は防御機能だけでなく、湖上流通機能も備えていた。 大津市公式サイト
つまり八幡堀は、
堀であると同時に運河
だったのである。
これは非常に重要である。
城の防御設備が、そのまま物流設備にもなる。
船が入る。
商品を積み降ろす。
蔵へ運ぶ。
城下町で取引する。
再び船へ積む。
軍事施設と商業施設が、同じ水路によって一体化している。
これは近江という水運地域ならではの都市設計と言ってよい。
西の湖を通じて琵琶湖へ出る
八幡堀の先には西の湖がある。
そして西の湖は水路を通じて琵琶湖へつながっていた。
近江八幡市は、八幡堀を「琵琶湖に通じる航路」と位置づけ、城下町が湖上交通と一体で発展したことを説明している。 大津市公式サイト
ここで第四章の内湖論が再び重要になる。
近江八幡は、現在の琵琶湖本湖から少し離れている。
現在の地図だけ見れば、
「なぜここが水運都市なのか」
分かりにくい。
しかし歴史的景観では、
城下町
↓
八幡堀
↓
西の湖
↓
琵琶湖
という水運経路が存在していた。
つまり近江八幡もまた、現代の湖岸線からでは理解できない都市なのである。
秀次は商人を呼び集めた
近江八幡市によれば、秀次は旧安土城下や石寺などから商人・職人を八幡へ移住させ、さらに各地から有力な商人や技術者を集めた。
また楽市楽座を導入し、商工業保護政策を進めた。天正十四年(一五八六)の「八幡山下町中掟書」にも、その町政の性格が示されている。 大津市公式サイト
ここで安土との連続性が見える。
信長の安土城下に集められていた商工業者の一部が、政治中心の移動によって八幡へ移される。
つまり城が変わると、人も動く。
そして人とともに、
技術。
商業経験。
流通網。
取引関係。
も移動する。
都市とは建物の集合ではない。
人間関係と経済活動の集合でもある。
その意味では、安土から八幡への移動は、単なる城下町の移転ではなく、商業機能の再配置でもあった。
船を町へ寄せることの意味
近江八幡市の観光史では、秀次が琵琶湖を往来する荷船を寄港させるため八幡堀を設けたと説明している。 大津市公式サイト
この点は、本稿の視点から非常に重要である。
町を造ってから、商人が来るのを待つのではない。
物流そのものを町へ引き込む。
船が寄る。
船頭が来る。
荷物が降りる。
商人が取引する。
宿泊する者が出る。
蔵が必要になる。
職人も必要になる。
物流量が増えるほど、町の商業機能は大きくなる。
第五章で、
積み替えが富を生む
と述べた。
八幡堀は、その原理を都市計画の中に組み込んだ施設と見ることができる。
秀次の城は短命だった
ところが八幡山城もまた、城郭としての寿命は長くなかった。
秀次が八幡を治めた期間は短く、その後、八幡山城は廃城となる。
普通なら城下町としての役割も終わるはずである。
しかし、ここでも長浜と同じ現象が起こった。
城はなくなったが、町は残った。
近江八幡市は、八幡堀沿いの城下町が廃城後も在郷町として発展し、その後の八幡商人の活動基盤となったと説明している。 大津市公式サイト
ここには非常に重要な歴史的意味がある。
城がなくても、
街路が残る。
八幡堀が残る。
商人が残る。
市場が残る。
物流ネットワークが残る。
つまり政治中枢が失われても、経済インフラが残れば都市は生き続けるのである。
長浜と八幡に共通するもの
ここで長浜と近江八幡を並べると、驚くほど共通した構造が見えてくる。
両方とも、
城を中心に計画都市として造られた。
商人・職人を集めた。
物流路へ接続した。
商業振興政策を行った。
そして短期間で城が失われた。
ところが町は衰退しなかった。
これは偶然ではないのではないか。
城下町として造られながら、当初から
商業・物流・都市自治
という、城がなくなっても機能する仕組みを持っていたからである。
つまり長浜と八幡では、
城郭都市が商業都市へ転換できるだけの経済的自立性を、成立段階から内包していた
と考えることができる。
城より長く残ったもの
ここで城とは何だったのかを考え直したい。
長浜城は消えた。
八幡山城も消えた。
しかし、
長浜の町割り。
北国街道。
長浜湊。
八幡の街路。
八幡堀。
商人組織。
これらは残った。
つまり歴史の長期持続性という点では、城そのものよりも、城を中心として造られた交通・都市インフラの方が長命だったのである。
これは今回の記事全体にとって非常に重要な発見である。
政治権力は交代する。
城主も変わる。
城さえなくなる。
しかし港と街道が有用であれば、人々はそれを使い続ける。
都市の経済合理性は、政権の寿命より長い場合がある。
八幡商人は城の外へ出ていった
そして近江八幡から、後に八幡商人が全国へ進出していく。
近江八幡市は、八幡商人を近江商人の中でも早い時期から広域活動を行った商人集団とし、江戸や蝦夷地などへ進出したことを紹介している。 大津市公式サイト
江戸時代には江戸日本橋に大型店舗を構える者も現れ、近江・上方の商品を関東へ送り、関東・東北の原材料を上方へ運ぶなど、広域流通を担った。 大津市公式サイト
ここで非常に興味深いことがある。
八幡商人は、単に商品を売り歩いたのではない。
異なる地域間の商品移動を仲介した。
近江の商品を東へ。
東国の商品を上方へ。
つまり彼ら自身が、近江という土地が古くから担ってきた、
地域と地域を結ぶ機能
を、商業活動として全国規模へ拡大していったとも見ることができる。
もちろん、
「近江が交通の要衝だったから近江商人が生まれた」
と一本の因果関係で断定することはできない。
商人形成には、農村構造、土地制度、商家教育、領主政策、家制度など複数の要因がある。
しかし、幼い頃から
街道を人が通る。
船が荷物を運ぶ。
遠方の商品が入ってくる。
異なる地域の商人が往来する。
という環境に接していたことは、広域商業文化が育つ条件の一つとして検討する価値がある。
物流拠点から「情報拠点」へ
商人が広域へ進出すると、町へ戻ってくるのは金だけではない。
情報も戻る。
江戸の市況。
東北の産物。
蝦夷地の商機。
京都・大坂の商品。
各地の信用関係。
地域による需要の違い。
近江八幡市も、八幡商人が全国的な活動を行ったことを市史の重要な特徴としている。 大津市公式サイト
この点は、後の章で扱う「物流拠点は情報拠点でもある」という問題につながる。
商品を運ぶ者は、情報も運ぶ。
つまり商業都市となった長浜・近江八幡は、単に物の集まる町ではない。
外部世界の情報が流れ込む町でもあった。
水運都市は「水辺だけ」で成立したのではない
ただし、長浜と近江八幡を「水運都市」と呼ぶとき、一つ注意しなければならない。
発展を支えたのは琵琶湖だけではない。
長浜には北国街道がある。
近江八幡も湖上交通だけでなく、湖東を通る陸路へ接続できる。
つまり両都市とも、
水運+陸運
によって成立している。
この点は本稿で繰り返し確認してきた近江交通の特徴そのものである。
船だけでは内陸の商品を集められない。
街道だけでは大量輸送に限界がある。
だから両者を組み合わせる。
長浜も八幡も、その接続面に存在した都市なのである。
城下町政策が商人を育て、商人が町を残した
長浜では秀吉が町衆を保護した。
近江八幡では秀次が商人・職人を集め、楽市楽座などの商業振興策を行った。
両者には、「町を育てる」という支配政策が見える。
しかしさらに面白いのはその後である。
領主がいなくなった後、町を支えたのは町人たち自身だった。
長浜では町衆自治が発達し、秀吉期の町割りや商業基盤が継承された。 長浜市公式サイト
近江八幡では八幡商人が全国へ進出し、城下町を商業都市として存続させた。 大津市公式サイト
つまり、
領主が町を造り、町が商人を育て、商人が町を存続させた。
この循環が見えてくる。
軍事都市から経済都市へ
長浜と近江八幡の歴史を一言で表すなら、
軍事都市から経済都市への転換
である。
最初は城を守るための町として造られる。
しかし、その設計の中に港、市場、街道、商業政策が組み込まれていたため、やがて城そのものが不要になっても都市は生き残る。
これは近世都市成立を考えるうえで大きな意味を持つ。
城郭は都市形成の「きっかけ」であった。
しかし都市を長く生かしたのは、
交通と商業だった。
この意味では、長浜と近江八幡は単なる「城下町跡」ではない。
戦国時代の権力が造った都市が、権力の消滅を越えて経済都市として自立した事例なのである。
近江の強さは「城主がいなくても残る都市」を生んだことにある
ここまでの議論から、本稿では一つの見方を提示したい。
近江の歴史的な強さとは、有力な大名が多く現れたことだけではない。
政治権力が移動しても、人と物が動き続ける都市を形成できたことにもあるのではないか。
長浜城がなくなっても、北国街道と長浜湊は残る。
八幡山城がなくなっても、八幡堀と商人は残る。
つまり近江には、政治権力より長く存続する交通インフラが存在した。
そして、その上に商業都市が成立する。
この事実は、本稿冒頭の問い、
「なぜ近江は時代が変わっても重要であり続けたのか」
に対する一つの答えになる。
城主が変わっても山は残る。
政権が変わっても琵琶湖は残る。
街道の名称が変わっても、峠と平野は残る。
そして、人は合理的な交通路を使い続ける。
だから都市も、役割を変えながら生き残ることができたのである。
しかし、交通路がこれほど重要であるなら、平和な時代だけを見ていては、その本当の価値を測ることはできない。
大量の人と物が通る道は、戦争が起きれば軍隊と兵糧が通る道へ変わる。
港は軍船や兵員輸送にも使える。
峠は防衛線になる。
橋は争奪地点になる。
そして近江の東には、古代から東西交通の狭窄部として知られた不破・関ヶ原がある。
次章では、不破・瀬田・近江・関ヶ原を結ぶ交通地理が、なぜ時代を越えて大規模な戦争の舞台となったのかを検証する。
第十四章 平時の交通路は、戦時には軍事回廊となる――壬申の乱から関ヶ原へ
ここまで近江の交通を、主として物資と人の移動という側面から見てきた。
敦賀から塩津へ。
小浜から今津へ。
美濃から関ヶ原を越えて湖東へ。
琵琶湖を南下して大津へ。
さらに山城・難波へ。
これらの道は、平時には米、塩、魚、木材、布、商品、旅人を運ぶ。
しかし戦争が始まった瞬間、その性格は変わる。
米は兵糧になる。
船は兵士を運ぶ。
馬は軍需物資を運ぶ。
宿場は軍勢の休息地点となる。
橋は渡河点となる。
港、峠、街道、河川はすべて軍事的意味を帯びる。
つまり、
平時の物流網とは、潜在的な軍事兵站網でもある。
この原理を近江ほど明瞭に見ることのできる地域は少ない。
六七二年の壬申の乱。
中世の争乱。
戦国期の姉川、佐和山。
そして一六〇〇年の関ヶ原。
時代も戦争の性格も異なる。
しかし戦場となった地域を地図の上に置いていくと、ある共通点が見えてくる。
人と物が大量に通る場所で、軍勢もまた衝突しているのである。
壬申の乱――大海人皇子は不破を押さえた
天智天皇が近江大津宮で崩御した翌年、六七二年に壬申の乱が起こった。
大友皇子を中心とする近江朝廷側と、大海人皇子、後の天武天皇の勢力との間で争われた皇位継承戦争である。
大津市歴史博物館によれば、大海人皇子は吉野を出て伊賀・伊勢を経由し、美濃の不破に本拠を置き、そこから近江朝廷攻略を進めた。大海人皇子軍は琵琶湖東岸を南下し、最終的には瀬田橋で近江朝廷軍と激突した。 大津市歴史博物館
ここで注目したいのは、
なぜ不破だったのか
ということである。
不破・関ヶ原地域は、北に伊吹山地、南に養老山地・鈴鹿山脈が迫り、その間に東西方向の交通路が通る地形となっている。
岐阜県も関ヶ原を、東西日本を結ぶ交通の要所と位置づけており、現在でも国道、鉄道、新幹線、高速道路など主要幹線が同じ地域を通っている。 岐阜県公式サイト
つまり六七二年の戦争でも、大海人皇子が押さえたのは単なる「野原」ではなかった。
東国・美濃方面から近江へ入る交通の首根っこである。
不破を押さえることは、東国と近江の間を押さえることだった
関ケ原町史には、大海人皇子が伊勢から美濃の不破へ入り、この地域を拠点として戦争を進めた過程が詳しく整理されている。 岐阜県立図書館
大海人皇子にとって、美濃方面の勢力・兵力を確保したうえで近江朝廷へ進撃するには、不破は極めて合理的な位置にあった。
東側には美濃。
西側には近江。
その間を山地が絞る。
ここを押さえれば、東から近江へ入る軍勢や物資の流れを掌握しやすい。
逆に敵に取られれば、東側との連絡は困難になる。
これは、後世の関所の存在によってさらに明瞭になる。
壬申の乱の後、不破関が置かれた
不破には後に律令国家の重要な関所、不破関が置かれる。
岐阜県によれば、不破関は鈴鹿関・愛発関とともに律令三関の一つであり、東山道を管理する古代交通上の重要施設であった。発掘調査では大規模な土塁、望楼跡などが確認されている。 岐阜県公式サイト
関ケ原町と名古屋大学による近年の調査資料では、不破関は壬申の乱後に東山道上へ設置された関所と整理されている。 関ケ原町公式サイト
ここには非常に重要な意味がある。
壬申の乱で、
「東から近江・畿内へ入る道を押さえることが国家的にどれほど重要か」
が実戦として示された。
その後、その交通回廊には国家的な関が置かれる。
もちろん、不破関成立の全てを壬申の乱だけで説明することはできない。
律令国家の交通行政や東国支配という広い背景がある。
しかし少なくとも、壬申の乱と不破の軍事的重要性が無関係ではなかったことは、近年の関ケ原町の文化財計画でも指摘されている。 関ケ原町公式サイト
不破は「入口」、瀬田は「最後の絞り口」だった
大海人皇子側の軍勢は、不破を基盤として近江へ入り、琵琶湖東岸方向を南下した。
その先で待っているのが瀬田である。
瀬田は琵琶湖から唯一流れ出す瀬田川の渡河地点にあたる。
現在の瀬田唐橋付近は古代から重要な橋の所在地であり、大津市歴史博物館によれば、壬申の乱では瀬田橋が決戦の舞台となった。発掘調査では現在の唐橋より南約八十メートルの川底から、七世紀中頃と考えられる重厚な橋脚遺構まで確認されている。 大津市歴史博物館
これは非常に大きい。
伝承だけではない。
壬申の乱の時代に相当する大規模な橋が、実際に存在していた。
つまり近江東部を南下する軍勢にとって、瀬田川をどこで越えるかという問題は現実の軍事問題だったのである。
なぜ橋が戦場になるのか
橋そのものには軍事力はない。
しかし川を渡る場所が限定されれば、その一点に軍勢が集中する。
大津市は瀬田唐橋を、東国から京都方面へ入る重要な交通地点であり、戦乱時には繰り返し軍事目標となった橋として位置づけている。 大津市歴史博物館
これは交通地理の基本原理である。
平時には、
旅人が渡る。
商品が渡る。
馬が渡る。
荷車が渡る。
戦時には、
兵士が渡る。
兵糧が渡る。
武器が渡る。
だから敵は橋を守ろうとする。
あるいは橋を破壊しようとする。
つまり、
物流のボトルネックは、そのまま軍事のボトルネックになる。
不破と瀬田を並べると、その構造が非常によく分かる。
不破は東側から近江へ入る狭窄部。
瀬田は近江から山城方面へ向かう際の重要な渡河地点。
その間に湖東の平野と琵琶湖がある。
壬申の乱は、この巨大な東西交通回廊をめぐる戦争という側面も持っていたと見ることができる。
軍勢は道路だけでは動かない
ここで注意しておきたい。
軍隊が移動するということは、兵士だけが歩くことではない。
一万人が動けば、一万人分の食料が必要になる。
馬がいれば飼料が必要になる。
矢、武器、装備もいる。
負傷者も出る。
情報を伝える使者も往来する。
つまり軍事行動には必ず兵站が伴う。
そのため大軍を動かせる地域とは、
道路があるだけでは足りない。
食料を確保できる。
水がある。
宿営できる。
周辺地域から物資を集められる。
そして必要なら船も使える。
という条件が必要になる。
近江は、この条件を高い水準で備えていた。
琵琶湖がある。
港がある。
街道がある。
平野がある。
河川がある。
そして山城・美濃・北陸へ向かう複数の出口がある。
つまり近江の軍事的重要性とは、単に「京都の隣だから」ではない。
大規模な兵力を動かすことのできる交通・物流基盤そのものにあったと考える必要がある。
関ヶ原は壬申の乱だけの舞台ではなかった
不破・関ヶ原地域の興味深さは、その後も繰り返し戦争の舞台となっている点にある。
関ケ原町の文化財計画によれば、不破関の廃止後も国家的な異変の際には固関使が派遣され、さらに承久の乱や南北朝期の青野原の戦いなど、不破周辺は繰り返し軍事的な舞台となった。 関ケ原町公式サイト
これは偶然として片づけにくい。
もちろん、各戦争の原因はまったく違う。
壬申の乱は皇位継承をめぐる内乱である。
承久の乱は朝廷と鎌倉幕府の対立。
南北朝の戦争も別の政治構造を持つ。
しかし軍隊が東西へ移動するとき、地形は変わらない。
山地はそのまま存在する。
通りやすい谷も同じである。
したがって、
戦争の理由は変わっても、軍隊が通りやすい場所は大きく変わらない。
ここに歴史地理を見る意味がある。
戦国時代の近江も同じ構造の上にあった
戦国時代になると、近江は再び激しい軍事地域となる。
近江南部では六角氏。
湖北では浅井氏。
東には美濃。
西には京都。
北には越前。
そして琵琶湖。
信長が近江を進むためには、この複雑な交通圏を安定させなければならなかった。
元亀元年(一五七〇)の姉川の戦いも、その過程で起きた。
長浜市によれば、現在の長浜市野村町・三田町一帯で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が衝突した。 戦国を攻略せよ〜豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの地 滋賀県長浜市
姉川の戦いそのものの原因を「交通路争奪戦」と単純化することはできない。
しかし、その戦場が湖北平野に位置している意味は考える必要がある。
北には浅井氏の小谷城。
さらにその先には越前。
南には湖東・京都方向。
西には琵琶湖。
ここもまた、人と軍勢が移動する回廊上なのである。
佐和山は八か月にわたって抵抗した
姉川合戦後、浅井方の磯野員昌は佐和山城へ籠城した。
彦根市によれば、佐和山城では約八か月にわたる攻防が続いた。 彦根市公式ホームページ
前章で確認したように、佐和山は単なる孤立した山城ではない。
東側には陸上交通。
西側には松原内湖・琵琶湖。
北へ進めば湖北。
東へ進めば不破・美濃。
この位置に強力な城が存在すれば、信長にとっては大きな障害となる。
逆に佐和山を押さえれば、近江東部の交通管理は格段に容易になる。
ここでも城の軍事価値と交通価値は一致している。
そして石田三成が佐和山へ入る
後に佐和山城主となるのが石田三成である。
彦根市によれば、三成の時代には「佐和山惣構」が整備され、佐和山城は大規模な城郭へ発展した。 彦根市公式ホームページ
三成の本拠が佐和山であったことも、今回の論考から見ると興味深い。
佐和山は近江東部に位置する。
東には関ヶ原。
その先に美濃。
西には琵琶湖。
南へ進めば京都。
北へ進めば湖北・北陸。
つまり三成の居城は、豊臣政権下における政治的意味だけでなく、畿内と東国の間を結ぶ巨大交通回廊上に存在していた。
そして一六〇〇年、そのすぐ東側で、日本史上最も著名な合戦の一つが起こる。
なぜ関ヶ原だったのか
慶長五年(一六〇〇)九月十五日、東軍と西軍が関ヶ原で激突した。
しかし、
「関ヶ原が重要な場所だったから、最初から両軍がそこで決戦しようと約束していた」
わけではない。
実際の関ヶ原合戦に至る軍事行動は複雑であり、岐阜、大垣、美濃各地など広い地域で部隊が移動している。
したがって関ヶ原の地理的重要性を認めることと、
「地理だけが合戦場所を決定した」
とすることは区別しなければならない。
しかし、最終的に大軍が関ヶ原周辺へ集中できた背景として、この地域が東西交通の主要回廊であったことは無視できない。
岐阜県は関ヶ原について、伊吹山地と南側の山地に挟まれた交通要衝であり、古代から近世、そして現在まで主要幹線が集中する地域であると説明している。 岐阜県公式サイト
つまり関ヶ原とは、
軍隊を集めるために生まれた場所なのではない。
もともと人と物が東西へ移動する場所だった。
だから軍隊もそこを通ったのである。
一六〇〇年の軍勢も街道の上を動いた
関ヶ原古戦場周辺を見ると、陣地と旧街道の関係が随所に確認できる。
岐阜県観光資料では、山内一豊ら東軍諸隊が旧中山道沿いに布陣したことも紹介されている。 岐阜の旅ガイド
これは象徴的である。
街道は軍隊の移動路である。
そして布陣後も後方との連絡路になる。
兵糧を運ぶ。
伝令が走る。
増援が来る。
撤退路にもなる。
したがって古戦場を「武将の陣跡の集合」としてだけ見ると、その背後にある交通構造を見失う。
軍勢は地図の上へ突然出現したのではない。
道路を通ってそこへ集まってきたのである。
関ヶ原の戦いの直後、佐和山も攻撃された
関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、三成の本拠であった佐和山城も攻撃を受け、その後、三成の領国は徳川側へ移る。
関ヶ原合戦後、佐和山城を与えられたのは井伊直政であった。彦根市は、直政が一六〇一年に佐和山へ入った後、その西方約二キロの彦根山へ新城を築く方針が決まり、一六〇四年から彦根城の築城が始まったとしている。 彦根市公式ホームページ
これは政治権力の交代だけではない。
交通回廊の管理者が交代したことでもある。
石田三成から井伊氏へ。
佐和山から彦根へ。
しかし拠点そのものは、この地域から大きく離れなかった。
なぜか。
交通の要地そのものは変わらないからである。
彦根城が後に江戸幕府の西国支配上重要な拠点となったことも、彦根市の保存計画で指摘されている。 彦根市公式ホームページ
つまり政権が豊臣から徳川へ変わっても、
近江東部を押さえる必要性そのものは消えなかった。
六七二年と一六〇〇年は同じ戦争ではない
ここまで壬申の乱と関ヶ原合戦を並べてきた。
しかし両者を「同じ構図の戦争」とすることはできない。
壬申の乱は七世紀の皇位継承戦争である。
関ヶ原合戦は豊臣政権末期の政治・軍事対立を背景とする。
武器も違う。
軍制も違う。
政治体制も違う。
兵站制度も違う。
八百年以上離れている。
したがって、
「壬申の乱があった場所だから関ヶ原合戦も起きた」
という因果関係は存在しない。
本稿が注目するのは、別の部分である。
戦争の原因は変わっても、軍隊が通らなければならない地形は変わりにくい。
ということである。
変わらなかったのは「戦争」ではなく「地形」である
関ヶ原町の北には伊吹山。
南には養老山地・鈴鹿山脈。
その間に東西方向の回廊がある。
近江へ入れば湖東平野があり、その西側には琵琶湖がある。
南へ進めば瀬田川。
その西には山城。
地形そのものは、政権交代によって移動しない。
だから交通路も似た方向に形成される。
そしてその道路を使って、
平時には商品が通る。
使者が通る。
旅人が通る。
戦時には軍隊が通る。
この意味で、
古代の壬申の乱から近世初頭の関ヶ原までを結んでいるのは政治ではない。地形と交通である。
この視点が重要である。
交通の要衝は、同時に危険な土地でもある
近江を交通の要衝として評価すると、
「便利で豊かな土地」
という面ばかりが強調されやすい。
しかし交通が集中することには、明確な弱点もある。
敵も来る。
大軍も来る。
戦火に巻き込まれる。
城を奪われる。
道路を封鎖される。
つまり、
交通の利便性と軍事的危険性は表裏一体である。
近江が繰り返し戦争の舞台になった理由の一つは、まさにそこにある。
「近江を取らなければ京都へ行けない」
「近江を通らなければ東国へ行けない」
という状況が生まれれば、近江は戦わずに済む土地ではなくなる。
これは近江の宿命とも言える。
平時の経済力は、戦時の軍事力へ変換できる
しかし逆に言えば、普段から大量物流を処理できる土地は、戦時にも有利である。
船がある。
港がある。
馬がいる。
街道がある。
倉庫がある。
商人がいる。
食料が集まる。
これらは戦争になれば、
軍船。
兵員輸送。
軍馬。
軍道。
兵糧庫。
御用商人。
兵站物資。
へ転用することができる。
したがって本稿では、
経済力と軍事力を完全に別のものとは考えない。
優れた物流圏を支配することは、大軍を維持する能力を高める。
そして大軍を動かせる者ほど、広い地域へ政治的影響力を及ぼせる。
ここに、
「近江を制する者は天下を制す」
という本稿の命題が、軍事面からも具体性を持ち始める。
不破と瀬田――二つの門
近江の軍事地理を非常に単純化して言えば、
東側に不破。
南側に瀬田。
がある。
もちろん実際の交通路はもっと複雑であり、北陸・若狭・鈴鹿など複数の入口が存在する。
しかし東西交通に限れば、
不破は近江への東の門
そして、
瀬田は山城へ向かう南西側の重要な門
として捉えることができる。
壬申の乱では大海人皇子が不破を基盤とし、最終決戦が瀬田で行われた。 大津市歴史博物館
八百年以上後には、不破・関ヶ原周辺で巨大な合戦が行われ、その西側の佐和山城も政権交代の中で消えていく。
こうして見ると、琵琶湖の東側は、
東国と畿内を結ぶ巨大な軍事・交通回廊
でもあったことが分かる。
戦争が終われば、再び人と物が通り始める
しかし交通路は戦争のためだけに存在するのではない。
むしろ戦争は例外である。
合戦が終われば、再び商人が通る。
荷物が動く。
宿場が繁盛する。
街道が整備される。
関ヶ原では近世に中山道が整備され、関ヶ原宿・今須宿が東西交通を支えた。関ケ原町も、この地域が古来の交通要衝であり、近世には宿場町として発展したことを記している。 関ケ原町公式サイト
つまり同じ土地が、
戦場にもなり、宿場にもなる。
これは矛盾ではない。
理由は同じである。
人が通るからである。
近江の軍事史は、交通史の裏面である
壬申の乱。
佐和山の攻防。
姉川。
関ヶ原。
これらを年表上の別々の事件として見るだけでは、近江の歴史的性格は見えてこない。
戦争の原因は違う。
戦った人物も違う。
しかし地図を重ねると、
街道。
峠。
橋。
平野。
琵琶湖。
という交通地理が浮かび上がる。
つまり近江の軍事史とは、ある意味で近江交通史の裏面である。
平時に価値のある場所ほど、戦時にも価値が高い。
だから争奪される。
そして戦争が終われば、また物流拠点として利用される。
この繰り返しこそ、近江が古代から近世まで政治史の重要場面に何度も登場する理由の一つではないだろうか。
ここで、もう一つの問題へ進みたい。
街道を通るのは軍勢と商品だけではない。
情報も通る。
北陸から来た商人は北陸の情報を持ってくる。
東国から来た旅人は東国の情勢を知っている。
港には船頭が集まり、宿場には商人・僧侶・役人・使者が泊まる。
物流の交差点は、そのまま情報の交差点にもなる。
そして近江には、古代から外交・交通に関わった氏族の存在も確認できる。
次章では、犬上氏をはじめとする外交・使節、僧侶、商人、宿場、港を通じた情報流通に焦点を移し、近江が単なる物流拠点ではなく、列島規模の情報拠点でもあった可能性を検討す
第十五章 物資が集まる場所には人と情報も集まる――近江は「情報の交差点」でもあった
これまで本稿では、近江に集まったものを主として「物資」として見てきた。
米。
塩。
魚。
木材。
布。
鉄。
そして、それらを運ぶ船や馬。
しかし交通路を移動していたのは、物だけではない。
人も移動していた。
商人。
船頭。
馬借。
僧侶。
役人。
使者。
武士。
旅人。
そして人が移動するとき、その人間が持っている情報も同時に移動する。
北陸から来た者は北陸の事情を知っている。
美濃から来た者は東国方面の動きを知っている。
若狭から来た船乗りは日本海側の状況を知っている。
京都から来た役人は中央の政治動向を持ってくる。
商人なら商品の価格を知っている。
僧侶なら宗教界や各地の寺社の動きを知っている。
つまり、
物流網とは、そのまま情報網でもある。
近江が人と物の交差点であったなら、同時に情報が交差する場所でもあったはずである。
本章では、これまで見てきた交通史を、もう一段深い「情報流通」の視点から考えてみたい。
古代大津は「文物と情報の集積地」でもあった
この点について、大津市歴史博物館は非常に興味深い表現を用いている。
近江大津宮を扱った企画展では、大津を瀬田川と古代街道が交差する「我が国屈指の交通の要所」とし、同時に重要な文物や情報の集積地であったと説明している。 大津市歴史博物館
ここで「文物」と「情報」が並べられていることは重要である。
物資が運ばれてくれば、人も来る。
人が来れば情報も入る。
したがって大津が交通の要衝であるということは、単に米や木材が集まるという意味だけではない。
外部世界の動向が集まる場所
でもあったのである。
これは近江大津宮が置かれた六七世紀を考える際にも興味深い。
東アジア情勢が緊迫していた時代である。
外交情報。
軍事情勢。
各地からの報告。
人員・物資の動き。
政治中枢にとって、それらを迅速に受け取る能力は極めて重要だった。
もちろん、
「情報を集めるために大津へ遷都した」
とまで断定することはできない。
しかし大津が人・物・情報を受け取りやすい交通環境にあったという事実は、大津宮の立地を考える一つの重要な条件となる。
情報は「紙」だけで運ばれたのではない
現代では情報というと、文字、新聞、インターネットのような媒体を想像する。
しかし前近代の情報は、もっと人間そのものに依存していた。
船頭が話す。
商人が話す。
宿場で旅人同士が話す。
寺社へ来た参詣者が地域の出来事を伝える。
使者が命令書を携えて走る。
武士が他国の情勢を報告する。
つまり情報の多くは、
人間が移動することによって運ばれた。
その意味では、交通量の多い場所ほど潜在的な情報量も多くなる。
宿場が重要なのは、寝る場所があるからだけではない。
異なる地域から来た人々が、一晩同じ町に滞在する。
港も同じである。
風待ちをする。
船を待つ。
荷物の積み替えを待つ。
そこで人々が接触する。
第五章で「滞留が経済を生む」と述べた。
同じことは情報にも言える。
人が立ち止まるところで、情報も交換される。
大津宿は巨大な「人の交差点」でもあった
近世の大津は、港町であると同時に東海道五十三次の宿場町であった。
大津市歴史博物館は、大津百町について、港町・宿場町・門前町という複数の機能を持つ町として紹介している。大津宿には本陣も二軒置かれていた。 大津市歴史博物館
ここでは、
琵琶湖から来る船頭。
京都から来る商人。
江戸方面へ向かう旅人。
大名やその家臣。
寺社参詣者。
荷物を扱う運送業者。
が同じ都市空間に集まる。
この状況を考えれば、大津が単なる物流都市ではなく、膨大な人間接触の場でもあったことが分かる。
何が売れているのか。
どこの米が高いのか。
どの道が通れないのか。
どこで争いが起きたのか。
どの大名が動いているのか。
どの地域で不作なのか。
こうした情報の一部は、公的な文書より早く商人や旅人の口コミによって伝わった可能性がある。
ここで重要なのは、情報の正確性が常に保証されていたという意味ではない。
噂も誤報もあったであろう。
しかし、情報そのものが大量に流入する環境にあったことが重要なのである。
犬上氏――近江から国家外交の最前線へ
ここで時代を再び古代へ戻したい。
近江の情報史を考えるうえで、非常に興味深い氏族がいる。
犬上氏である。
滋賀県の文化財資料では、犬上氏を現在の犬上郡一帯を支配した有力豪族と位置づけ、その一族から犬上御田鍬が出たことを紹介している。 滋賀県公式サイト
犬上御田鍬は、六一四年に隋へ派遣された使節として『日本書紀』に現れ、その後六三〇年には最初の遣唐使の大使となった人物である。遣隋使の回数の数え方には整理の違いがあるため、本稿では年次で捉えることにするが、六一四年の派遣と六三〇年の遣唐使については史料・研究上確認できる。 国立文化財機構サイトレポート
これは非常に大きい。
現在の滋賀県東部に基盤を持つ豪族から、
隋・唐という東アジア世界へ直接赴く国家使節
が出ているのである。
外交使節とは「情報を持ち帰る者」でもある
遣隋使・遣唐使というと、
「外国へ行った人」
という説明で終わりやすい。
しかし国家から見れば、その任務はもっと大きい。
外交文書を届ける。
皇帝や官僚と接触する。
外国の政治制度を見る。
都市を見る。
文化を見る。
技術を見る。
宗教を見る。
そして帰国する。
つまり使節は、
国家間を移動する情報媒体
でもある。
六三〇年の最初の遣唐使として犬上御田鍬が唐へ渡ったということは、近江に基盤を持つ一族の人物が、当時の東アジア最先端の政治・文化圏へ直接入ったことを意味する。 国立国会図書館デジタルコレクション
もちろん、帰国後に得た情報がどのように犬上郡へ還流したのかを具体的に示す史料までは確認できない。
したがって、
「犬上氏が近江に唐文化を持ち帰った」
と単純に断定することは避けるべきである。
しかし少なくとも、
近江の豪族が中央国家の対外外交に深く参加していた
ことは確かである。
これは近江を単なる地方農業地域として見る歴史像とは大きく異なる。
近江の人材は外交の外へも出ていた
近江八幡市には、もう一人興味深い人物が紹介されている。
吉士長丹である。
近江八幡市によれば、吉士長丹は白雉四年(六五三)に遣唐使として唐へ渡り、翌年帰国した。帰国後には功績によって封戸二百戸などを与えられ、『日本書紀』にも記録されている。 大津市公式サイト
犬上御田鍬と吉士長丹。
両者の氏族的背景や近江との関係は同じではないため、一括して「近江外交氏族」と呼ぶことは慎重であるべきだろう。
しかし近江に関係する人物が、七世紀国家の外交使節として繰り返し登場すること自体は興味深い。
ここから本稿が注目したいのは、
広域交通の結節地域では、地方にいながら中央国家や海外世界と接触する人材が現れやすかったのではないか。
という問題である。
これは今後さらに検証する価値がある。
海外情報は難波だけから入ったわけではない
第六章では、難波と敦賀を「二つの海の玄関」として見た。
ここでも情報という視点を加えることができる。
難波からは瀬戸内海を通じて大陸・朝鮮半島方面へつながる。
敦賀からは日本海を通じて北方・渤海方面へつながる。
そして敦賀から近江へ入れば、
塩津。
湖北。
琵琶湖。
大津。
山城。
へと情報も移動し得る。
つまり古代の中央政府が得る外国情報は、必ずしも西方の一方向だけから入ったわけではない。
日本海側からも別の対外交流が存在した。
第六章で確認した松原客館と渤海使の存在は、その象徴である。
近江はその日本海ルートと都を結ぶ内陸回廊であった。
そう考えると近江は、
国内情報と国外情報が交差し得る位置
にもあったことになる。
比叡山は宗教だけでなく巨大な人的ネットワークを持った
近江の情報流通を考えるとき、もう一つ無視できない存在がある。
比叡山延暦寺である。
大津市歴史博物館は延暦寺を日本仏教の一大拠点とし、多くの高僧を輩出して宗教文化を発信した寺院と位置づけている。 大津市歴史博物館
最澄自身も延暦二十三年(八〇四)に唐へ渡り、天台山などで学んだのち帰国している。 天達
ここでも同じ構造が現れる。
海外へ行く。
知識を得る。
帰国する。
教える。
弟子が育つ。
その弟子が全国へ広がる。
宗教史の出来事として見るだけでなく、知識・思想・文化の伝達網として見ることができる。
延暦寺からは円仁・円珍をはじめ、後世には多くの宗教家が輩出され、日本仏教に大きな影響を与えた。 大津市歴史博物館
近江から全国へ動いたのは商品だけではなかった。
宗教思想や知識も動いていたのである。
坂本では宗教・物流・金融が重なった
さらに比叡山の麓には坂本がある。
大津市歴史博物館によれば、坂本は延暦寺・日吉社の門前町として発展し、室町時代には運送業者である馬借・車借、金融業者である土倉が活動していた。延暦寺自体も多数の荘園を持ち、活発な経済活動を行っていた。 大津市歴史博物館
ここは非常に重要である。
宗教都市。
物流都市。
金融活動。
これらが同じ場所に重なっている。
全国各地の荘園との関係があれば、年貢や物資だけではなく、人と連絡も往来する。
僧侶が動く。
寺領の管理者が動く。
運送業者が動く。
参詣者が動く。
そこへ商人と金融業者も集まる。
本稿では、ここから坂本を中世の情報交換拠点でもあった可能性が高いと考える。
これは「坂本に情報センターが置かれていた」という意味ではない。
多数の広域ネットワークが同じ場所で重なれば、結果として情報量が増えるという構造上の推論である。
寺社ネットワークは現在の県境を越える
寺社のネットワークには、街道とは違う特徴がある。
信仰によって遠方とつながることである。
比叡山には全国から僧侶が集まる。
修行を終えた僧侶が各地へ戻る。
末寺・荘園との連絡がある。
日吉信仰も各地へ広がる。
大津市歴史博物館によれば、日吉大社の分霊社は全国に多数存在する。 大津市歴史博物館
このような宗教ネットワークを考えると、
近江から全国へ伸びる別種の交通網
が見えてくる。
商品を売るための道だけではない。
祈り。
学問。
寺院行政。
修行。
参詣。
それらの目的でも人は移動する。
そして人が動けば、やはり情報も動く。
商人にとって「情報」は商品と同じくらい重要だった
近世になると、情報の重要性はさらに分かりやすくなる。
商人は価格差によって利益を得る。
ある地域で安いものを買い、別の地域で高く売る。
しかしそのためには、
どこで何が生産されているか。
今年は豊作か不作か。
どこの商品が売れているか。
どの道が安全か。
運賃はいくらか。
誰が信用できるか。
を知らなければならない。
つまり商人の競争力とは、資金だけではない。
情報力でもある。
前章で見た八幡商人は、近江を出て江戸や蝦夷地を含む各地へ商圏を広げた。近江八幡市も、八幡商人が早い段階から全国へ進出したことを紹介している。 大津市公式サイト
彼らが各地で商売をするということは、各地の価格・需要・生産事情に接するということである。
その情報が本店や同族商家へ戻れば、次の商売に利用できる。
ここで情報は、明確な経済資源になる。
近江商人は「地域差」を利益へ変えた
八幡商人の活動を物流の側から見ると、さらに面白い。
近江八幡市の資料では、八幡商人が江戸などへ進出し、広範な商圏を形成したことが確認できる。 大津市公式サイト
商人が地域間を往来する意味は、
商品を運ぶことだけではない。
地域によって異なる価値を知ることである。
ある地方では普通の商品が、別の地方では不足している。
ある地域で豊富な原料を、需要の大きい都市へ運ぶ。
逆方向には都市の商品を持っていく。
つまり商人は、
地域と地域の「違い」を知ることで利益を生む。
そのためには広い地理知識と情報網が必要になる。
ここで、近江という土地の環境が再び意味を持つ。
日常的に、
北陸から人が来る。
美濃から人が来る。
京都から人が来る。
若狭から人が来る。
船が来る。
旅人が来る。
という土地では、地域差を知る機会そのものが多い。
近江商人の成立を交通条件だけで説明することはできないが、こうした環境が彼らの広域商業活動と無関係だったとも考えにくい。
情報の速さは「距離」だけでは決まらない
物流について本稿では「物流距離」という考え方を使ってきた。
幾何学的に近いかどうかではなく、どれだけ効率的に大量輸送できるかを見る考え方である。
同じことは情報にも言える。
五十キロ離れていても、主要街道で毎日多くの人が往来するなら情報は早く伝わる。
二十キロしか離れていなくても、険しい山で隔てられて人がほとんど通らなければ情報は遅い。
つまり、
情報距離も交通路によって変わる。
大津と京都。
彦根・朝妻と美濃。
今津と小浜。
塩津と敦賀。
これらは現在の直線距離だけでは測れない関係を持っていた。
人の往来量が多いほど、情報も反復して入ってくる。
これは政治権力にとって極めて重要である。
情報が集まる場所を押さえることは政治力になる
戦国時代を考えてみよう。
敵軍がどこにいるか。
どれだけ兵を集めているか。
どの大名が寝返ったか。
どの道が封鎖されているか。
どこに兵糧があるか。
これらを知らなければ軍事行動はできない。
そのため、
街道。
港。
宿場。
市場。
には軍事情報も集まりやすい。
前章で、平時の交通路が戦時には軍事回廊になると述べた。
同じように、
平時の情報網は戦時には諜報網・軍事連絡網へ転換し得る。
信長が近江を押さえる。
秀吉が長浜、大津、大坂を整える。
徳川政権が街道や宿駅制度を整備する。
これらには軍事・行政・経済の複数の目的があるが、交通を統制することは、同時に情報の流れを把握しやすくすることでもあった。
関所は「物」だけを見ていたのではない
古代の不破関。
逢坂の関。
近世の各種関所。
関所というと、税や通行料を取る場所という印象を持ちやすい。
しかし国家にとっては、
誰が通るのか。
どこへ行くのか。
何を持っているのか。
という人間の動きを管理する施設でもある。
つまり交通管理は、
物流管理であると同時に人的情報管理
でもある。
街道を国家が整備する。
駅家を置く。
関を置く。
宿駅制度を整える。
これらは、中央から地方へ命令を届け、地方から中央へ報告を戻すための政治インフラでもあった。
国家とは、兵士や税だけでは成立しない。
情報を伝達する能力も必要なのである。
琵琶湖は巨大な「情報水路」でもあったのではないか
ここで琵琶湖そのものへ戻りたい。
船は荷物だけを載せていたわけではない。
船頭も乗る。
旅人も乗る。
商人も乗る。
役人も乗ることがある。
一隻の船が北から南へ動けば、その船に乗った人々の情報も同時に移動する。
塩津から大津へ。
今津から大津へ。
朝妻から坂本へ。
堅田から各港へ。
この航路を多数の船が往来するなら、
琵琶湖は物資輸送路であると同時に、
情報を高速で運ぶ水路
でもあったと考えることができる。
もちろん前近代の「高速」とは現代とは比較にならない。
しかし山道を徒歩で迂回するより、条件が整えば湖上を船で移動する方が効率的な場合がある。
したがって湖上交通の発達は、地域間の情報距離を縮めた可能性がある。
物流拠点には「見る人」が集まる
港には、ただ人が集まるだけではない。
人の流れを見ることのできる者がいる。
船頭は各港を知っている。
宿屋は旅人を見る。
商人は市況を見る。
寺院は参詣者や各地の僧侶と接触する。
役人は交通を管理する。
こうした人々は、現代の統計資料を持っていたわけではない。
しかし日常の経験によって、
「最近、北国からの船が少ない」
「美濃方面から人が増えた」
「米の値が上がった」
「軍勢が街道を動いている」
といった変化を察知できる。
交通量の多い地域には、こうした現場情報を持つ人間も蓄積する。
これも近江の地域力の一つではないだろうか。
「近江を制する」ことは情報回廊を押さえることでもあった
ここまで来ると、本稿の中心命題にもう一つ意味を加えることができる。
近江を押さえる。
それは街道を押さえること。
港を押さえること。
琵琶湖水運を押さえること。
物資を押さえること。
軍隊の移動を押さえること。
そして、
情報の流れを押さえることでもある。
北陸で何が起きているのか。
東国で何が起きているのか。
京都で何が起きているのか。
若狭・日本海方面で何が起きているのか。
多方向から人が入ってくる近江では、それらの情報に触れる機会が多い。
この点から見ると、近江が古代から戦国・近世に至るまで政治的に重要であり続けたことにも、新しい意味が見えてくる。
近江の強さは「物」だけでは測れない
本稿ではここまで、
農業生産。
水運。
街道。
港。
城。
商業。
兵站。
を見てきた。
しかし近江の力を測るなら、そのさらに上にある
人的ネットワークと情報ネットワーク
を加える必要がある。
犬上氏のように国家外交へ関わる豪族がいる。
大津には人と文物が集まる。
比叡山には全国から僧侶が集まる。
坂本では宗教・運送・金融が重なる。
商人は全国へ進出する。
街道や港には旅人が集まる。
これらは別々の現象に見える。
しかし交通という一点から見ると、一本につながる。
人が動く土地には情報が動く。
情報が動く土地には新しい文化と経済が生まれる。
近江が交通の交差点であったということは、単に多くの物資が通ったという話ではないのである。
そこでは人が出会い、
知識が出会い、
文化が出会い、
政治情報が出会った。
その意味で近江は、
列島中央部の「情報交換地」でもあった
と本稿では考える。
そして、この巨大な交通・情報ネットワークが成立するためには、もう一つ忘れてはならないものがある。
近江そのものが持っていた地域の生産力である。
いくら交通条件が良くても、地域自身に食料、水、森林、労働力、寺社、豪族、集落といった基盤がなければ、大量の人間を受け入れることはできない。
近江は単なる「中継地」ではない。
近江自身もまた、大きな生産地域であった。
次章では、交通条件の陰に隠れがちな近江自身の生産力・人口扶養力・宗教勢力・地域豪族の蓄積を検証し、「通り道だから栄えた」という説明だけでは捉えきれない近江の底力を見ていく。
第十六章 近江の地域力――農業・水・森林・寺社・名族
ここまで本稿では、近江の強さを主として「交通」から見てきた。
琵琶湖がある。
街道が集まる。
敦賀と山城を結ぶ。
美濃と京都を結ぶ。
若狭と畿内を結ぶ。
その結果として港、宿場、市場、城下町が発達した。
しかし、ここで一つ考えなければならない。
交通条件が良いだけで、地域は本当に長期間繁栄できるのであろうか。
人が通るだけなら、単なる通過地で終わる可能性がある。
大勢の人間が暮らし、軍勢を支え、寺社を維持し、商人を育て、都市を形成するためには、地域そのものに一定の生産力が必要になる。
食料。
水。
木材。
燃料。
漁業資源。
農地。
そして、それらを管理する社会組織。
近江には、外部から物を集める力だけではなく、近江自身が物を生み出す力があった。
本章では、これまで「物流の交差点」として見てきた近江を、今度は一つの生産地域・生活地域として見てみたい。
近江は「通り道」である以前に米どころだった
まず農業である。
現在の滋賀県は、水田農業の比率が極めて高い。
令和六年の耕地面積では、耕地約四万九千六百ヘクタールのうち田が約四万六千二百ヘクタールを占め、水田率は九三・一%。全国では富山県に次ぐ第二位である。 滋賀県公式サイト
もちろん、この現代統計をそのまま古代・中世へ適用することはできない。
圃場整備。
揚水設備。
河川改修。
干拓。
農業技術。
これらは時代によって大きく変化している。
しかし、現在に至るまで水田利用が圧倒的に卓越しているという事実は、近江盆地の地形・土壌・水環境が、長期的に稲作と深く結びついてきたことを考える一つの手掛かりになる。
滋賀県自身も、琵琶湖周辺では弥生時代、およそ二千年前には湖辺で水田開発が行われていたと整理している。 滋賀県公式サイト
つまり近江の農業史は、かなり深いところまで遡る。
近江は都へ食料を送る側でもあった
ここで第一章の議論へ戻りたい。
都は巨大な消費地である。
自分の周囲だけでは必要な食料をまかないきれない。
だから周辺地域から米やその他の食料を集める必要がある。
滋賀県の「環境こだわり農業推進条例」の前文では、湖国の農業について、山々からの水、肥沃な土地、気候に恵まれながら古くから食料を生産し、畿内の都へも供給する役割を担ってきたと位置づけている。 滋賀県公式サイト
この点は今回の論考にとって極めて重要である。
近江は、
都へ向かう他地域の物資を中継しただけではない。
近江自身もまた、都へ物資を供給する生産地域だったのである。
つまり近江には二つの能力があった。
外から物を集める能力。
そして、
内から物を生み出す能力。
この二つが重なっている。
ここに単なる「交通の要衝」とは違う強さがある。
琵琶湖があるから水田が簡単に造れた、ではない
ただし、「巨大な琵琶湖があるのだから、水には困らなかった」と考えるのも単純すぎる。
これは非常に重要な点である。
現在ではポンプによって琵琶湖から水を汲み上げ、多くの農地へ送ることができる。
滋賀県の農業資料によれば、現在では河川と琵琶湖を併用するものも含め、県内農地の約四割が琵琶湖を用水源としている。 滋賀県公式サイト
しかし大型揚水機がなかった時代、湖面より高い場所へ大量の水を持ち上げることは簡単ではない。
したがって歴史的な近江農業を考える場合、
琵琶湖そのもの
だけを見てはいけない。
山から流れる河川。
湧水。
地下水。
ため池。
水路。
内湖。
これらを組み合わせて農業を行ってきたのである。
滋賀県がまとめた『滋賀の農業水利変遷史』でも、河川水利、湖辺灌漑、地下水、ため池など、地域ごとに異なる水利用が長い時間をかけて発達してきたことが整理されている。 滋賀県公式サイト
つまり近江の「水の豊かさ」とは、
琵琶湖という巨大な水瓶が一つ存在する
というだけの話ではない。
山―川―湧水―水路―水田―内湖―琵琶湖
という、水循環全体が存在したことなのである。
近江全体が一つの流域になっている
滋賀の地形には、もう一つ大きな特徴がある。
周囲を山地が取り囲み、その内部に琵琶湖があることである。
滋賀県によれば、伊吹山地、比良山地、鈴鹿山脈などから大小約四百五十の河川が琵琶湖へ流れ込み、琵琶湖から流れ出す自然河川は瀬田川一つである。 滋賀県公式サイト
これを物流ではなく生産という側から見ると、非常に興味深い。
山に降った雨が川になる。
川が平野へ水を運ぶ。
その水を農業に利用する。
川は土砂も運ぶ。
湖辺には湿地や内湖が形成される。
そして最終的に水が琵琶湖へ集まる。
つまり近江とは、
巨大な湖を中心として、山・川・平野が一つの水系を形成した地域
なのである。
現代の「滋賀県」という行政区域よりはるか以前から、この自然地理そのものは存在していた。
近江が一つのまとまりを持つ理由を考える場合、政治的国境だけではなく、この流域としての一体性も重要なのではないだろうか。
米だけではない――水田と湖は食料生産でもつながっていた
さらに近江では、水田と漁業を完全に分けることができない。
湖岸の水田には、かつて琵琶湖の水位上昇に伴って湖魚が水路を遡り、産卵する環境が広く存在した。
滋賀県によれば、この関係は弥生時代の湖辺水田開発にまで遡る可能性があり、現在も「魚のゆりかご水田」としてその仕組みの再生が行われている。 滋賀県公式サイト
つまり近江の農村では、
米を作る。
魚を獲る。
水路を管理する。
ヨシなど湖辺資源を利用する。
といった活動が完全に別々ではなかった。
湖と農地が一つの生産環境を形成していた。
琵琶湖漁業を代表するエリ漁についても、滋賀県は平安時代の和歌に登場するほど長い歴史を持つ漁法としている。 滋賀県公式サイト
近江の食料供給力を考えるなら、米だけでなく、
農業+淡水漁業
という複合的な生産力を見る必要がある。
山もまた近江を支えていた
近江の風景というと琵琶湖が圧倒的な存在感を持つ。
しかし面積で見ると、実は山林の方がはるかに大きい。
現在の滋賀県では森林が約二十万ヘクタールあり、県土全体の約半分を占める。琵琶湖を除いた陸地だけで見れば、森林は六割近くになる。 滋賀県公式サイト
もちろん現在の森林面積をそのまま古代・中世へ遡らせることはできない。
伐採。
植林。
耕地開発。
薪炭利用。
山村開発。
時代ごとに森林の姿は変化している。
しかし、近江が古来、
伊吹。
鈴鹿。
比良。
比叡。
野坂。
などの山地に囲まれていたという地形そのものは変わらない。
そこで得られるものは水だけではない。
建築材。
薪。
炭。
木製品の原料。
山菜。
狩猟資源。
そして人々の生活を支える多様な山の資源が存在する。
近江の地域力を考えるとき、琵琶湖だけを強調すると、周囲の山々が持つ意味を過小評価することになる。
森林は「資源」であると同時に水源だった
そして森林と農業は別の話でもない。
山に降った雨は森林に蓄えられ、川を通って平野と琵琶湖へ流れる。
滋賀県は現在でも、県内森林の雨水の多くが琵琶湖へ流れ込み、湖の水源環境を支えているとしている。 滋賀県公式サイト
つまり、
山を維持することは水を維持することでもある。
水が農業を支える。
農業が人口を支える。
人口が都市、寺社、軍事力を支える。
こう考えると、
森林。
水。
農地。
琵琶湖。
は別々の資源ではない。
一つの連鎖である。
山が水を生み、水が田を生かし、田が人を養い、人が町と国家を支える。
近江の地域力とは、その循環全体から生まれていたと考えるべきだろう。
交通拠点が成立するには「食べさせる力」が必要だった
ここで物流の話へ戻そう。
港町には人が集まる。
宿場にも人が集まる。
城下町にも人が集まる。
寺社にも人が集まる。
しかし人が増えれば、それだけ食料が必要になる。
したがって巨大な交通拠点の周囲に一定の農業生産力が存在することは、大きな利点になる。
外部からすべての食料を運び込む必要がない。
地元でも米を生産できる。
魚も得られる。
水も確保できる。
山から木材や燃料も得られる。
つまり近江では、
物流によって外部から資源を集めながら、内部でも相当部分を供給できる
という構造が成立する。
本稿では、これを近江の重要な基礎体力と考える。
寺社は「信仰の場所」だけではなかった
次に寺社を見る。
近江には非常に多くの寺院・神社が存在する。
ただし、ここではよくある「滋賀県は寺院数日本一」という表現には注意が必要である。
滋賀県の最新資料によれば、令和六年度の宗教統計調査を基礎とした人口十万人当たりの仏教系宗教法人数は二一九・七団体で、福井県に次ぐ全国第二位である。全国平均は六一・八団体である。 滋賀県公式サイト
これは「寺院の絶対数が全国第二位」という意味ではない。
あくまで人口当たりの仏教系宗教法人数である。
しかし、この数字は近江に仏教施設が非常に高密度に存在することを示す現代の指標にはなる。
そして、この宗教集積には長い歴史的背景がある。
比叡山は巨大な宗教都市であると同時に経済主体だった
代表が比叡山延暦寺である。
延暦寺は日本仏教の中心の一つとなり、多くの僧侶を輩出した。
しかし経済史から見れば、それだけではない。
大津市歴史博物館は、延暦寺が多数の荘園を抱えて活発な経済活動を行い、その麓の坂本では室町時代に馬借・車借といった運送業者や、土倉と呼ばれる金融業者が活動していたことを紹介している。 大津市歴史博物館
これは非常に重要である。
寺院がある。
荘園がある。
年貢が入る。
人が集まる。
運送業者が育つ。
金融業者が育つ。
門前町が形成される。
つまり宗教施設そのものが、
土地所有・物流・金融・都市形成
と深く結びついている。
寺社を文化史だけで見ると、この経済的側面を見落としてしまう。
湖東の寺院も大規模な地域拠点だった
比叡山だけではない。
湖東にも大規模寺院が存在した。
たとえば百済寺は、現在「湖東三山」の一つとして知られるが、東近江市によれば鎌倉・室町時代に大きく繁栄し、山中には約二百六十区画もの中世の堂・坊跡が残っている。史跡指定範囲も八十万平方メートルを超える。 東近江市公式サイト
二百六十もの堂・坊が存在するということは、単なる小規模な山寺ではない。
多数の僧侶や関係者が暮らし、
食料を必要とし、
建物を維持し、
参詣者を受け入れ、
周辺地域との経済関係を持つ。
つまり大寺院とは、宗教施設であると同時に、相当規模の人口を抱える地域拠点でもある。
こうした宗教拠点が県内各地に存在したことも、近江の社会的な厚みを考えるうえで重要である。
寺社が多いということは「蓄積」があるということでもある
巨大寺院を維持するには資源が必要である。
土地。
米。
森林。
建築技術。
職人。
財力。
信者。
政治的保護。
これらのどれか一つだけでは成立しない。
したがって近江に大規模な寺社が多数成立したという事実は、それ自体が地域社会に一定の経済的・人的蓄積が存在したことを示している。
そして寺社はさらに、
教育。
文字文化。
記録。
美術。
建築。
工芸。
情報交換。
を地域へ蓄積する。
つまり近江の寺社は、消費するだけの存在ではなく、
地域資源を集積し、新たな文化を生み出す装置
でもあったのである。
名族が生まれた土地
近江の地域力を考えるうえで、もう一つ注目したいのが有力氏族である。
古代には犬上氏。
息長氏。
中世には佐々木氏、その分流である六角氏や京極氏。
もちろん、これらの氏族が強大化した理由を「近江が豊かだったから」の一言で説明することはできない。
婚姻。
中央政権との関係。
軍事。
官職。
荘園支配。
時代ごとに事情は異なる。
しかし、有力氏族が長期間存立するには、その勢力を支える地域基盤が必要である。
犬上氏――地域豪族から国家外交へ
犬上氏は犬上郡を基盤とした古代豪族である。
滋賀県の文化財資料では、多賀地域を支配した犬上氏を古代の名族とし、その一族から犬上御田鍬が出たことを紹介している。
犬上御田鍬は六一四年の遣隋使、六三〇年の最初の遣唐使として知られる人物である。 滋賀県公式サイト
ここで重要なのは、地方豪族の一族から国家外交の第一線へ出る人物が現れていることである。
犬上氏は単なる地域村落の有力者ではない。
中央政権と結びつき、国家規模の活動へ参加する家であった。
第十五章で述べたように、これは近江と中央政治、さらに海外世界との人的結びつきを示す一例でもある。
息長氏――坂田の地に根を張った古代豪族
湖北・坂田地域には息長氏がいる。
米原市によれば、息長氏は現在の米原市近江地域付近、天野川流域を本拠とした古代豪族とされる。 米原市公式サイト
ここで地図を思い出してみたい。
この地域の北には湖北。
さらに敦賀・越前。
東へ向かえば関ヶ原・美濃。
南へ向かえば湖東。
西側には琵琶湖。
つまり息長氏の本拠は、これまで本稿で追ってきた交通の結節地域に近い。
ただし、
「交通要衝だったから息長氏が強大化した」
と直線的に断定することはできない。
それでも、有力豪族の本拠を交通地理と重ねて検討することには意味がある。
米原市自身も、古代息長氏とこの地域の交通上の重要性を地域史の大きな特徴として扱っている。 米原市公式サイト
佐々木氏――中世近江を長く支配した武家
中世になると、近江を代表する勢力として佐々木氏が登場する。
滋賀県によれば、佐々木六角氏は鎌倉時代初期から戦国期にかけて近江支配の中核を担った名門であり、その系譜は宇多源氏へつながるとされる。佐々木氏は近江へ土着する過程で、古代から蒲生郡に勢力を持っていた佐々貴氏系統とも関係を深めていったと考えられている。 滋賀県公式サイト
ここでも興味深いことがある。
六角氏の本拠・観音寺城の麓には東山道系の交通があり、城下には市場が形成され、さらに常楽寺港を通じて湖上交通とも関係していた。
近江八幡市の文化財計画では、六角氏が石寺に城下町を形成し、新市を設け、さらに常楽寺港の経営にも関わったことが整理されている。 大津市公式サイト
つまり中世の近江有力者もまた、
農地だけではなく、街道・市場・港
と結びつきながら支配を構築していた。
ここに、地域生産力と物流支配が再び交わる。
名族は交通だけでは育たない
ただし、本稿ではここで一つ線を引いておきたい。
犬上氏が出た。
息長氏が出た。
佐々木氏が出た。
だから、
「近江の交通が名族を生んだ」
とするのは行き過ぎである。
氏族形成には、血縁、婚姻、中央政権との関係、軍事力、土地支配など、多くの要素が関係する。
しかし逆に、有力氏族が継続的な政治活動を行うためには、
人を養う土地。
兵を動かす交通。
税を得る農村。
中央と連絡する道路。
外部と交易する港。
といった地域基盤が必要になる。
したがって、
近江の豊かな地域基盤と交通条件は、有力氏族が成長・存続するための有利な環境の一つであった可能性がある。
というところまでは、十分検討できるだろう。
生産地と交通地が同じ場所に存在した
ここまでを見ると、近江の特異性が少しずつ明らかになる。
大量の米を生産できる平野がある。
魚を得られる湖がある。
森林資源を持つ山地がある。
多くの川と湧水がある。
大寺院がある。
有力氏族がいる。
そしてそれらをつなぐ街道と琵琶湖水運がある。
つまり近江では、
生産地と交通地が別々ではない。
生産した物資を、そのまま広域交通へ載せることができる。
外から来た物資を、地元の商品と組み合わせることもできる。
この構造は商業にとって非常に強い。
近江の本当の強さは「自給」と「接続」の両立にあった
極端に言えば、交通だけに依存する地域は、物流が止まれば弱い。
逆に農業だけに依存する地域は、大量に生産しても外へ売る手段が弱ければ富へ変換しにくい。
近江には、
生産力
と、
輸送力
の両方が存在した。
ここに、本稿が考える近江の本当の強さがある。
式のように表すなら、
近江の地域力
= 内部で生み出す力 × 外部とつながる力
である。
米を作る。
魚を獲る。
木を得る。
人を養う。
そこへ他地域の物資が流れ込む。
港で積み替える。
街道へ送り出す。
商人が扱う。
寺社や城下町が消費する。
そして余剰が再び外へ出ていく。
こうした循環が形成される。
だから近江には人が集まった
交通だけでは、人は通過する。
しかし仕事があり、食料があり、水があり、市場があり、寺社があり、政治拠点があれば、人は住みつく。
近江には、
農民。
漁民。
山の民。
船頭。
馬借。
商人。
職人。
僧侶。
武士。
役人。
という異なる人々が存在する余地があった。
そして人々が集まれば、
労働力。
軍事力。
市場。
文化。
情報。
がさらに蓄積する。
交通の集中が人口を生み、
人口が生産と市場を拡大し、
市場がさらに交通を呼ぶ。
この循環が成立すれば、地域は単なる中継地から広域経済圏の中核へ変わる。
寺社と名族も「余剰」の上に成立する
ここで経済史の基本へ戻りたい。
巨大な寺院も、有力武士団も、直接食料生産に従事しない人口を多数抱える。
それを維持するためには、農業社会に一定の余剰が必要になる。
農民が自分の家族を食べさせるだけで生産物を使い切るなら、大規模な寺院も軍事組織も成立しにくい。
余剰を集める。
租税化する。
荘園から運ぶ。
市場で交換する。
そして寺社・政治勢力・都市人口を養う。
つまり近江の寺院や武家勢力の歴史を見ることは、間接的には地域がどれだけ余剰を生み、集められたかを見ることでもある。
この視点は、近江の国力を考えるうえで重要である。
「近江を制する」とは生産基盤まで手にすることだった
ここまで本稿では、
近江を押さえれば街道を押さえられる。
港を押さえられる。
琵琶湖水運を利用できる。
情報が集まる。
と述べてきた。
しかし本章を加えることで、もう一つ重要な意味が加わる。
生産地そのものを手に入れることができる。
湖東平野。
湖北平野。
湖南の農地。
湖岸の漁業。
山間部の森林。
これらが支配領域へ入る。
つまり近江の獲得とは、交通路だけを手に入れることではない。
交通路を支える地域資源そのものを確保すること
でもあったのである。
この違いは大きい。
軍隊は道だけでは戦えない。
米が必要である。
城は石垣だけでは維持できない。
木材、薪、水、人間が必要である。
都市も市場だけでは存在できない。
周囲から食料を供給する必要がある。
近江には、その基礎条件がそろっていた。
近江は「巨大な倉庫」ではなく「巨大な生産物流圏」だった
これまで琵琶湖を「巨大な内陸物流装置」と表現してきた。
しかし本章まで来ると、その表現をもう一段進めることができる。
近江は、外から来た物をため込む巨大倉庫ではない。
自ら生産する。
外からも集める。
保管する。
加工する。
消費する。
そして再び外へ送り出す。
つまり、
近江は巨大な「生産・集積・再配分圏」であった。
と考えることができる。
だからこそ古代には有力豪族が現れ、
大寺院が育ち、
中世には近江守護が強い勢力を持ち、
戦国時代には信長・秀吉が重要拠点を置き、
近世には商人が全国へ出ていく。
もちろん、これらをすべて一つの原因から説明することはできない。
しかしその背後に、
水・農地・山・湖・交通
という長期的な地理条件が存在したことは無視できない。
では、近江の「実力」はどれほどだったのか
ここまでの議論は、かなり構造的なものだった。
近江は米を作る。
森林がある。
寺社が多い。
交通路が集まる。
有力氏族が出る。
しかし、これだけでは一つの問題が残る。
実際、それは全国の中でどれほど大きかったのか。
印象論だけでは、
「近江はすごかった」
という物語になってしまう。
そこで次章では、可能な限り数字を使う。
面積。
農地。
水田。
森林。
宗教施設。
人口。
石高。
街道。
港。
さらに比較可能な範囲では、周辺諸国との関係も見る。
ただし古代・中世については近代統計のような精密な数字は存在しないため、時代の違う数値を無理に一列へ並べることはしない。
確認できる数字が何を意味し、何を意味しないのかを区別しながら検証する。
次章は、これまで十五章以上にわたって積み上げてきた
「近江は本当にそれほど強い地域だったのか」
という問いを、可能な限り数値によって確かめていく
第十七章 数字で検証する近江の実力――生産力・人口・石高・交通密度
ここまで本稿では、近江がなぜ古代から近世まで繰り返し重要な地域となったのかを、地形、街道、水運、城郭、商業、情報、生産力という側面から検討してきた。
しかし、歴史論考で最も注意しなければならないのは、物語として整合していることと、実際にそれだけの規模が存在したこととは別問題だということである。
「琵琶湖があるから豊かだった」
「京都に近いから重要だった」
「街道が多いから商業が発達した」
これだけなら、いくらでも物語を作ることができる。
そこで本章では、可能な限り数字を置いてみる。
ただし古代から近世までを、現代統計のように同一基準で比較することはできない。
人口調査の方法も違う。
石高と実収穫量も同じではない。
近世の船数と現代の貨物輸送量も直接比較できない。
したがって本章の目的は、数字によって近江を「全国1位」と評価することではない。
これまで積み上げてきた、
近江には、生産地としての力と、物資を動かす力の双方が存在した
という仮説が、数量的な史料と矛盾しないのかを確かめることにある。
古代から近江は「大国」だった
まず、古代国家における位置づけを見てみよう。
律令国家は諸国を、大国・上国・中国・下国の4等級に分類した。
『延喜式』段階において近江国は「大国」に分類されている。近江は東山道に属し、滋賀・栗太・甲賀・野洲・蒲生・神崎・愛智・犬上・坂田・浅井・伊香・高島の12郡から構成されていた。コトバンク
ここでいう「大国」は、現代的なGDPランキングではない。
国司の官員構成をはじめとする律令行政制度上の格付けである。
したがって、
「大国だったから経済力も全国上位だった」
とそのまま読み替えることはできない。
しかし少なくとも、律令国家が近江を小規模な周辺国として扱っていなかったことは明らかである。
近江の重要性は、戦国時代になって突然生まれたものではなかった。
近江は12郡からなる地域だった
近江という国を地図上で見ると、その特徴がよく分かる。
湖北。
湖東。
湖南。
湖西。
甲賀。
それぞれ地形も生産条件も異なる地域が、巨大な琵琶湖を取り囲むように一つの国を形成している。
つまり近江とは、単一の平野国家ではない。
湖。
平野。
山地。
河川。
内湖。
そしてそれぞれをつなぐ街道と港。
複数の異なる地域環境を内部に抱えた国だったのである。
このことは後に見る生産力や物流の分布を考えるうえでも重要となる。
国土の約6分の1を琵琶湖が占める
旧近江国は、現在の滋賀県域とほぼ重なる。
現在の滋賀県の総面積は4,017.38平方キロメートルである。
その中央を占める琵琶湖は669.26平方キロメートル。
県全体のおよそ6分の1を占める。滋賀県公式サイト
この数字は重要である。
近江には約4,000平方キロメートルの国土がある。
しかし、その約670平方キロメートルは湖である。
単純に差し引けば、陸地は約3,348平方キロメートルとなる。
しかも現在の滋賀県では、県土の50.8%を森林が占める。もちろん現在の土地利用をそのまま江戸時代以前へ遡らせることはできないが、中央に巨大な湖があり、周囲を山地に囲まれるという地形的制約そのものは変わらない。滋賀県公式サイト
ここで一つの疑問が生まれる。
近江の生産力が高かったのは、単に国土が広かったからなのだろうか。
数字を見ると、そうではないことが分かってくる。
現在でも農地の93.1%が水田である
現在の滋賀県農業を見ると、その特徴は極めて明瞭である。
令和6年の耕地面積は49,600ヘクタール。
そのうち田は46,200ヘクタールで、水田率は93.1%。
全国第2位である。全国平均は54.3%である。滋賀県公式サイト
もちろん、この数字を古代や近世へそのまま適用することはできない。
現在の農業には圃場整備、揚水機、河川改修、琵琶湖からの灌漑など、近代以降の技術が投入されている。
それでも近江盆地が長期間、水田農業と強く結びついてきた地域であることを考える重要な背景になる。
近世の近江は85万石規模だった
ここから近世の数字へ入ろう。
天保5年(1834)の国別石高を比較すると、近江国は853,095石である。
国別石高表は『天保郷帳』などを基礎資料として整理されており、近江は全国第6位に位置する。江戸と座敷鷹
上位10国を並べると、次のようになる。
| 順位 | 国 | 天保5年石高 |
|---|---|---|
| 1 | 陸奥 | 2,874,239石 |
| 2 | 出羽 | 1,295,323石 |
| 3 | 武蔵 | 1,281,431石 |
| 4 | 越後 | 1,142,555石 |
| 5 | 常陸 | 1,005,707石 |
| 6 | 近江 | 853,095石 |
| 7 | 越中 | 808,008石 |
| 8 | 下野 | 769,905石 |
| 9 | 信濃 | 767,788石 |
| 10 | 伊勢 | 716,451石 |
近江より上位には、陸奥、出羽、越後など非常に広大な国が並ぶ。
それに対して近江は、現在の滋賀県域にほぼ相当する約4,000平方キロメートル規模の国である。
しかも、その約6分の1は琵琶湖である。
ここに、近江の特徴が現れる。
近江は「広さ」ではなく「密度」で強かった
近江は、広大な国土を持つことで石高を積み上げた国ではなかった。
現在の滋賀県域を面積の目安として853,095石を4,017.38平方キロメートルで単純に割ると、
1平方キロメートル当たり約212石
となる。
さらに現在の琵琶湖面積669.26平方キロメートルを差し引いた陸地約3,348平方キロメートルを分母とすれば、
約255石/平方キロメートル
に相当する。
もちろん、これは1平方キロメートルから255石の米が収穫されたという意味ではない。
山林もある。
寺社地もある。
町もある。
街道もある。
石高そのものも実収穫量ではない。
近世の国境と現在の県境・湖岸線も完全に同一ではない。
したがって、この数字は農業収量そのものではなく、限られた地域にどれほど高い土地生産評価が集中していたかを見るための概算値である。
それでも、
近江は広いから85万石だったのではない。
という点は明瞭である。
巨大な琵琶湖と山地を抱えながら、利用可能な平野や農地に高い生産基盤が集中していたのである。
人口では全国15位だった
さらに同じ天保5年(1834)の人口を重ねると、近江の特徴がいっそう分かりやすくなる。
総務省統計局は、内務省・内閣統計局編纂の『国勢調査以前日本人口統計集成』に、天保5年を含む江戸時代の国別人口表が収録されていることを案内している。総務省統計局
その国別人口を比較すると、上位は次のようになる。
| 順位 | 国 | 天保5年人口 |
|---|---|---|
| 1 | 武蔵 | 1,714,054人 |
| 2 | 陸奥 | 1,690,509人 |
| 3 | 越後 | 1,224,947人 |
| 4 | 出羽 | 940,929人 |
| 5 | 信濃 | 808,073人 |
| 6 | 摂津 | 796,439人 |
| 7 | 肥後 | 743,544人 |
| 8 | 肥前 | 699,154人 |
| 9 | 尾張 | 643,977人 |
| 10 | 美濃 | 607,269人 |
| 15 | 近江 | 511,948人 |
ここで注目すべきなのは、
人口15位に対して、石高6位
という順位差である。
人口が極端に多いから石高も高かった、という構造ではない。
むしろ近江は、人口規模以上に高い土地生産評価を持つ国だったことになる。
単純計算すると、
853,095石 ÷ 511,948人 ≒ 1.67石/人
となる。
ただし、この数字を「1人当たり1.67石の米を生産していた」と読むことはできない。
江戸時代の全国人口調査は現代の国勢調査とは異なり、武家とその家従などが調査対象から外れ、幼年人口の扱いにも地域差があった。したがって、天保5年の511,948人は近江に存在した全人口を完全に表す数字ではない。情報処理推進機構
重要なのは比率そのものではなく、
人口順位より石高順位が大きく上位にある
という構造である。
石高は「実際に取れた米の量」ではない
ここで、石高の意味についても確認しておく必要がある。
石高とは、実際にその年に収穫された米の総量ではない。
田畑などの土地生産力を米の量へ換算し、課税や領地評価の基準とした数字である。
したがって、
853,095石=毎年853,095石の米を収穫した
という意味ではない。
新田開発。
検地。
土地評価。
作付作物。
地域ごとの実収穫。
これらとの間には差がある。
しかし全国の旧国を比較し、その農業・土地生産基盤の規模を見るための共通指標としては、石高は極めて重要である。
そして近江がその指標で全国6位だったことは、交通だけでは説明できない強い生産基盤を持っていたことを示している。
生産力は1か所だけに集中していなかった
さらに近江の特徴は、生産基盤が1地域だけに集中していなかったことである。
蒲生。
坂田。
甲賀。
浅井。
高島。
など、湖東・湖北・湖南・湖西にそれぞれ生産地域が存在した。
つまり、大津だけが豊かだったのではない。
湖東だけでもない。
湖北にも農業生産地域がある。
湖西にもある。
甲賀にもある。
この構造は物流を考えるうえで非常に重要である。
1つの大生産地から1方向へ荷物を運ぶのではない。
琵琶湖を取り囲む複数の生産地域から、物資がそれぞれの港や街道へ流れ込む。
琵琶湖は、その複数の生産地を相互に結ぶことができた。
石高だけでは測れない――「物流力」という経済指標
しかし近江の経済力を石高だけで測ることにも限界がある。
近江の大きな特徴は、
生産した物を動かす能力
を同時に持っていたことである。
前近代には現代のGDPや貨物取扱量のような統一統計は存在しない。
そこで物流経済を考える場合、
船舶数。
積載能力。
運送組織。
港湾。
物流に関係する商工業者。
街道との接続。
といった複数の指標を組み合わせて考える必要がある。
琵琶湖には1,000艘を超える丸子船が活動した
滋賀県の資料によれば、近世琵琶湖で湖上輸送の主役となった丸子船は、30石積みから500石積みの輸送船であった。
そして1600~1700年代には、
琵琶湖全体で約1,000艘以上
の丸子船が活動していたとされる。滋賀県公式サイト
これはかなり大きな数字である。
琵琶湖水運が、
「地域の人々が小舟で行き来していた」
という程度のものではなかったことが分かる。
しかも最大級の船は500石積みである。
船型、時代、用途が異なるため、
「1,000艘×何石」
という単純計算で総輸送能力を出すことはできない。
しかし1,000艘を超える輸送船が存在したということは、その背後に、
船頭。
船持。
造船・修理職人。
荷役。
港。
倉庫。
商人。
船荷。
が存在しなければ成立しない。
つまり船数は、単に水上交通の数字ではない。
水運を支える地域経済の厚みを示す数字でもある。
85万石と1,000艘の船が同じ地域にあった
ここで2つの数字を重ねてみよう。
近世後期の近江国。
約85万石。
近世琵琶湖。
1,000艘を超える丸子船。
この2つは同じ年の統計ではない。
したがって直接掛け合わせたり、輸送率を計算したりすることはできない。
しかし構造として重要なのは、
大きな生産基盤と、大きな輸送能力が同じ地域に存在した
ということである。
生産できる。
運べる。
外部から入ってきた物も運べる。
保管できる。
積み替えられる。
京都へ送れる。
北陸へ送れる。
東国方面へ送れる。
若狭へ抜ける。
伊勢方面へもつながる。
つまり近江では、
生産力を、移動可能な経済力へ変換することができた。
ここが重要なのである。
大津百艘船――物流そのものが「権利」になった
輸送力は船の数だけでは測れない。
それを組織し、管理する制度も必要である。
その代表が大津百艘船である。
文化庁は、大津百艘船について、天正15年(1587)に大津城主浅野長吉が大津へ集めた船持集団であり、大津からの人と物資輸送に特権を与えられ、公用輸送を担った組織と説明している。関係資料は現在1,265点が重要文化財に指定されている。文化庁
ここで重要なのは、
輸送そのものが権利だった
ことである。
誰が荷物を運ぶのか。
どの港から出すのか。
どの船が公用輸送を担うのか。
船賃をどうするのか。
これは単なる交通の話ではない。
大きな経済利権である。
つまり琵琶湖水運は、政治権力が制度的に管理するほど大きな経済価値を持っていたことになる。
1,000艘の船は1つの港では成立しない
さらに1,000艘を超える船が活動するためには、1つの港だけでは足りない。
大津。
坂本。
堅田。
塩津。
海津。
今津。
長浜。
朝妻。
彦根周辺。
そして数多くの浜・浦。
船は必ず、どこかで荷物を積み、どこかで荷物を降ろす。
その港の背後には、
農村。
城下町。
市場。
寺社。
街道。
が存在する。
つまり琵琶湖水運とは、
1本の航路ではなく、多数の港を結ぶネットワーク
だったのである。
本稿でいう「交通密度」とは、単に街道の本数を数えることではない。
陸路。
港。
内湖。
河川。
湖上航路。
船舶。
そして、それらを利用する人々。
これらが狭い地域に重なっている状態を意味する。
長浜には95業種、434人の経営者がいた
物流が地域経済へどの程度波及していたのかを見る別の数字もある。
長浜市の文化財保存活用地域計画によれば、元禄8年(1695)の長浜町では、織物業など商工業を中心に繁栄し、
95業種、434人の経営者
が存在した。長浜市公式サイト
この数字を、すべて水運関係者と考えてはいけない。
95業種にはさまざまな商工業が含まれる。
しかし、港町・宿場町・商業都市として発展した長浜に、それだけ多様な経済活動が成立していたことは重要である。
港へ物が来る。
商人が扱う。
加工する。
販売する。
宿泊する。
船へ積む。
街道へ送り出す。
物流が存在することで、その周囲に多様な業種が成立する。
つまり物流とは、単に商品をA地点からB地点へ動かすだけではない。
都市の産業構造そのものを厚くする力
を持っていたのである。
「船が多い」だけでは物流圏とは呼べない
ここで一つ整理しておきたい。
船が1,000艘あったから、近江が巨大物流圏だった。
それだけでは論証として足りない。
重要なのは、
生産地がある。
港がある。
街道がある。
商人がいる。
運送組織がある。
城下町・宿場町がある。
そして外部市場へ接続できる。
これらが同時に存在することである。
その点で近江では、
生産・集積・輸送・再配分
という物流の一連の機能を見ることができる。
米を作る。
港へ集める。
倉へ入れる。
船へ積む。
別の港へ運ぶ。
街道へ積み替える。
京都へ送る。
あるいは逆方向から来た商品を近江各地へ再配分する。
近江は単なる輸送路ではなく、
物流システムそのものを内部に持つ地域
だったのである。
人口15位、石高6位、そして巨大な輸送能力
ここまでの数字を重ねると、近江の特徴はかなり明瞭になる。
天保5年(1834)の人口は511,948人。
国別人口では15位。
同じ天保5年の石高は853,095石。
全国6位。
国土規模は現在の滋賀県域を目安に約4,000平方キロメートル。
その中央には約669平方キロメートルの琵琶湖がある。
さらに近世には、琵琶湖上で1,000艘を超える丸子船が活動した時期がある。
そして大津には百艘船という制度化された輸送組織。
長浜には元禄期に95業種・434人の経営者が存在した。
この数字は、すべて年代も性質も異なる。
したがって単純に足し算することはできない。
しかし、それぞれ異なる側面から同じ地域構造を示している。
近江には、生産・人口・商業・輸送が高密度に重なっていた。
人口が多いだけでは地域力にならない
人口は国力の重要な要素である。
働く人間がいる。
兵士になる人間がいる。
税を負担する人間がいる。
消費する人間がいる。
しかし人口だけでは地域力は決まらない。
100万人いても、食料を十分に生産できなければ外部依存が高くなる。
大量に生産できても、余剰を集積できなければ大規模な政治組織を維持しにくい。
余剰があっても、輸送できなければ遠方へ政治力・経済力を投射できない。
したがって本稿では、地域力を、
人口
× 生産力
× 余剰
× 集積能力
× 輸送能力
として考えてきた。
近江の場合、このうち特に特徴的なのが、
生産力と輸送能力の組み合わせ
である。
近江の実力は「密度」にあった
今回、石高だけでなく人口、面積、水運、商工業まで重ねてみると、もう一つの見方ができる。
近江の強さは、単に総量が大きかったことではない。
比較的限られた空間の中に、複数の機能が集中していたこと
にある。
生産地が近い。
港が近い。
街道が近い。
京都が近い。
城下町がある。
寺社がある。
商人がいる。
船がある。
情報が集まる。
これらの距離が比較的短い。
そのため、
農村で生まれた余剰を港へ集める。
船で大津へ送る。
京都へ運ぶ。
反対方向から来た商品を湖北・湖東へ送る。
という循環を形成しやすい。
この意味では、近江の地域力を、
生産密度 × 人口扶養力 × 輸送能力 × 交通接続密度
という分析概念で捉えることができる。
これは数学的な公式ではない。
しかし近江がなぜ単なる農業国でも、単なる交通国でもなかったのかを理解するには有効な視点である。
現代でいう「物流ハブ」に近い機能
現代の物流拠点を考えてみよう。
大きな倉庫があるだけでは物流ハブにはならない。
高速道路。
鉄道。
港。
空港。
配送センター。
消費地。
生産地。
これらへの接続が必要である。
前近代の近江も、技術はまったく違うが、構造として似た部分を持つ。
琵琶湖という大量輸送路。
湖岸の多数の港。
東海道・東山道・北陸道系の陸路。
敦賀・若狭への道。
京都という巨大消費地。
そして近江自身の農業生産地域。
つまり近江は、
生産地でありながら、中継地であり、集積地であり、再配分地でもあった。
この複合性こそが重要なのである。
数字は「近江が日本最強だった」とは言っていない
ただし、数字以上のことを言ってはいけない。
石高全国6位だったから、日本で6番目に強い国だった。
人口に対して石高が高かったから、日本最高の農業生産性を持っていた。
1,000艘の船があったから、全国物流を支配していた。
そういう結論にはならない。
石高には土地評価制度という性格がある。
人口調査にも調査対象の限界がある。
商業、漁業、鉱業、手工業などは石高だけでは測れない。
瀬戸内海には巨大な海運圏がある。
大坂・江戸など都市経済は、石高のみでは表現できない。
さらに近世後期には西廻り海運が発達し、日本海側から下関を回って直接大坂へ入る物資も増加する。
したがって本稿が数字から確認できるのは、
近江は全国最大の国だったのではない。
しかし比較的限られた国土の中に、高い土地生産基盤、50万人規模の人口、巨大な湖上輸送能力、そして多数の水陸交通結節点を併せ持つ、極めて密度の高い地域だった。
というところまでである。
「近江を制する者は天下を制す」を数字から読み直す
序章で掲げた、
「近江を制する者は天下を制す」
という言葉は、歴史上の人物が残した格言ではない。
本稿が検証するために置いた命題である。
ここまで見てきた数字を重ねると、この言葉の意味がより具体的になる。
近江を押さえるということは、
単に京都への道を確保することではない。
85万石規模の生産基盤を得る。
50万人規模の地域社会を掌握する。
琵琶湖という大量輸送路を利用する。
多数の港を使う。
東国へ接続する。
北陸へ接続する。
若狭へ接続する。
京都へ物資を送る。
そしてそれらをつなぐ商人・船頭・運送組織を利用できる。
つまり、
「作る力」と「集める力」と「動かす力」を同時に得る
ことになる。
これは単なる地理的便利さとは違う。
経済を軍事力・政治力へ変換できる基盤を得ること
でもあったのである。
近江の強さは「生産量」ではなく「変換能力」にあった
ここまでの議論から、本稿では近江の強さをもう少し正確に表現できる。
近江は米を作れた。
しかし、それだけではない。
米を集められた。
保管できた。
船へ積めた。
遠方へ送れた。
外から来た商品も受け入れられた。
それを別の地域へ送り出せた。
商人が取引できた。
戦争になれば兵糧へ転換できた。
つまり近江の本当の強さは、
資源を別の力へ変換できること
にあった。
農業生産を商業へ。
商業を税収へ。
税収を政治力へ。
船舶を軍事輸送へ。
街道を軍事回廊へ。
港を情報拠点へ。
平時の経済力を、必要に応じて別の機能へ変換する。
これこそ、近江が長期間重要であり続けた理由の一つではないだろうか。
そして、この構造を一変させるものが現れる
しかし、ここまで本稿が描いてきた近江の交通構造には、1つの共通した前提がある。
人の脚。
馬。
牛車。
帆船。
川船。
である。
敦賀から荷物を運ぶ。
塩津で湖船へ積み替える。
大津で再び陸へ上げる。
その途中で荷物が止まり、人が泊まり、取引が行われる。
この「積み替え」が近江に富を生み出してきた。
ところが19世紀後半、この前提そのものを変える交通技術が現れる。
鉄道である。
鉄道は、大量の人と物を長距離に連続して運ぶ。
線路がつながれば、
船から馬へ。
馬から湖船へ。
湖船から牛車へ。
という積み替え回数そのものを減らすことができる。
つまり鉄道とは、単に速い乗り物ではない。
前近代の物流拠点が利益を得ていた、
「交通手段が切り替わる場所」
そのものを減らしてしまう技術だったのである。
これは近江にとって、単なる交通手段の交代ではなかった。
1,000年以上にわたり近江へ利益をもたらしてきた、
「積み替えによって富を生み出す交通構造」そのものへの革命
だった。
次章では長浜―大津間の湖上連絡、東海道線の全通、米原という新たな結節点の成立を追いながら、
琵琶湖水運がなぜ幹線物流の主役を退き、それでも近江が交通の要衝であり続けたのか
を検証する。
第十八章 鉄道は千年の物流構造をどう変えたのか――「積み替えの近江」から「通過する近江」へ
ここまで本稿では、古代から近世に至る近江の強さを、一貫して交通手段の接続という視点から見てきた。
日本海を航行した船から、敦賀で荷を降ろす。
馬で山を越える。
塩津で琵琶湖の船へ積み替える。
大津で再び陸へ上げる。
牛車や馬で逢坂を越え、京都へ入る。
場合によってはさらに伏見・淀へ運び、再び河川船へ積み替える。
この不連続性こそが、逆説的に近江へ富を生んできた。
船頭が必要になる。
馬方が必要になる。
荷役が必要になる。
倉庫が必要になる。
宿が必要になる。
商人が集まる。
つまり、
交通手段が切り替わるたびに、町が潤った。
ところが十九世紀後半、この構造を根本から変える新しい輸送手段が現れる。
鉄道である。
鉄道の革命性は、単に馬より速かったことではない。
これまで別々だった地域を一本の線路によって結び、途中の積み替えそのものを減らすことができたことにある。
近江にとって明治の鉄道とは、新しい交通手段の登場というだけではなかった。
千年以上続いてきた「積み替えによって栄える」という地域構造そのものを変える出来事だったのである。
しかし最初の鉄道は、琵琶湖を不要にはしなかった
ここで意外な事実がある。
日本に鉄道が入り始めたからといって、琵琶湖水運がすぐに衰退したわけではない。
むしろ滋賀県に鉄道が入り始めた最初期には、
鉄道と琵琶湖水運は一体として利用された。
明治十三年(一八八〇)、京都―大津間の鉄道が開通した。
当時の大津駅は、現在のJR大津駅とは位置が異なり、現在のびわ湖浜大津駅付近に設けられ、琵琶湖水運へ接続するターミナルとして機能した。滋賀県立公文書館は、この大津駅が長浜方面へ向かう湖上交通との連絡駅として賑わったことを紹介している。 滋賀県立公文書館
つまり鉄道は最初から湖を迂回したのではない。
京都から大津までは汽車。
大津から長浜までは船。
その先は再び汽車。
という交通体系を採用したのである。
これは近江交通史を考えるうえで非常に象徴的である。
新技術である鉄道でさえ、最初は琵琶湖という既存の巨大輸送路を利用せざるを得なかった。
鉄道が来ても「積み替え」はむしろ強化された
北側では長浜から敦賀方面への鉄道建設が進んだ。
滋賀県の鉄道史では、明治十五年(一八八二)に長浜―金ヶ崎方面の鉄道が開業し、その後、柳ヶ瀬トンネルを含む整備を経て明治十七年(一八八四)に長浜―敦賀間が全通した。また長浜から関ヶ原方面への鉄道も延伸され、同年には大垣までつながった。 滋賀県公式サイト
すると何が起こったのか。
北陸方面から鉄道で長浜へ来る。
東海方面からも鉄道で長浜へ来る。
長浜で列車を降りる。
琵琶湖汽船へ乗り換える。
大津で船を降りる。
再び京都方面の鉄道へ乗る。
つまり明治十年代の長浜は、
鉄道
→船
→鉄道
という新しい積み替え拠点になったのである。
前近代には、
馬から湖船へ。
湖船から馬へ。
と積み替えていた。
明治になると、
汽車から汽船へ。
汽船から汽車へ。
と変わった。
輸送手段は近代化した。
しかし、積み替えによって近江の町が栄える構造そのものは、まだ残っていた。
太湖汽船――鉄道時代だからこそ生まれた湖上交通
この時代を象徴するのが太湖汽船である。
滋賀県立公文書館によれば、明治十五年(一八八二)五月、既存汽船会社を統合する形で太湖汽船会社が設立され、大津―長浜間の連絡運輸を担うようになった。さらに明治十七年には鉄道との連絡切符が発売され、日本初の鉄道連絡船が成立した。 滋賀県立公文書館
ここで非常に重要なことが分かる。
鉄道は最初、
琵琶湖水運の敵ではなかった。
むしろ鉄道が開通したことで、
北陸。
東海。
京阪。
から大量の旅客や物資が長浜と大津へ集まり、それを湖上汽船が結ぶようになった。
つまり初期の鉄道整備は、一時的に琵琶湖の交通価値を高めたのである。
これは、近代化を
「鉄道ができる
↓
船が衰退する」
という単純な図式で考えてはいけないことを示している。
新しい交通技術は、まず既存交通網と接続しながら発展したのである。
長浜港まで鉄道に合わせて造り替えられた
そして長浜は、この新しい交通体系に合わせて町そのものを改造している。
滋賀県立公文書館によれば、明治十三年(一八八〇)から長浜港の修築が進められ、港口の掘削や波止場整備が行われた。
鉄道と琵琶湖水運との接続を考慮し、長浜駅は琵琶湖に隣接して造られた。
さらに太湖汽船の鉄船運航を見越し、港内の浚渫まで行われている。 滋賀県立公文書館
ここまで徹底している。
汽車が着く。
そのすぐそばに港がある。
荷物を船へ移す。
船は大津へ向かう。
つまり長浜は、
鉄道駅と港を一体化した近代的物流ターミナル
として造り直されたのである。
これは第五章で論じた、
積み替え地点に経済が生まれる
という構造の、明治版と言ってよい。
古代の塩津と明治の長浜には共通点がある
ここで、非常に長い時間を飛び越えて比較してみたい。
古代には敦賀から荷物を陸路で塩津へ運び、そこで琵琶湖船へ積み替えた。
明治になると敦賀方面から鉄道で長浜へ運び、そこで汽船へ積み替える。
場所も技術も変わっている。
しかし機能は似ている。
北陸から来た物流を琵琶湖水運へ変換する。
古代の塩津。
近代初期の長浜。
この比較は、近江の交通史を考えるうえで非常に興味深い。
時代が変わっても、
日本海方面。
琵琶湖。
京都・大阪方面。
をどう結ぶのかという問題そのものは変わっていない。
変化したのは、そのために使われる技術なのである。
長浜は一時、「北陸・東海・京阪を結ぶ結節点」になった
長浜―敦賀間と長浜―大垣間の鉄道が全通すると、長浜駅には北陸地方と東海地方から旅客や物資が集まり、それが太湖汽船へ乗り継ぐようになった。
滋賀県立公文書館は、この時代の長浜を、北陸・東海からの旅客・物産を集約し、大津方面の汽船へ接続する交通結節点として描いている。 滋賀県立公文書館
つまり長浜は、
北陸
↓
敦賀
↓
鉄道
↓
長浜
↓
汽船
↓
大津
↓
鉄道
↓
京都
という巨大輸送ルートの中心に置かれた。
ここまで本稿で描いてきた長浜の歴史を考えれば、この役割は偶然ではない。
戦国時代には、
街道。
城。
港。
商人。
を結ぶ都市として秀吉によって整備された。
そして三百年後には、
鉄道と汽船を結ぶ都市
になる。
長浜は再び時代の最先端交通に適応したのである。
ところが、その繁栄はわずか数年で崩れる
しかし明治二十二年(一八八九)、状況が一変する。
湖東を通る鉄道が完成し、同年七月一日、東海道線が全通した。
これによって大津と長浜の間を汽船で結ぶ必要がなくなった。 滋賀県立公文書館
ここに交通史上の大転換がある。
それまで、
京都
→鉄道
→大津
→汽船
→長浜
→鉄道
→東海・北陸
だったものが、
京都
→鉄道
→湖東
→米原
→東海方面
へ、一本の鉄道路線で進めるようになった。
途中で船へ乗り換える必要がない。
荷物を降ろす必要がない。
積み直す必要もない。
待つ必要もない。
まさに、
積み替えを消す交通革命
だったのである。
近江を豊かにした「積み替え」が、弱点へ変わった
ここが本章の核心である。
前近代の近江では、積み替えが富を生んだ。
交通手段が変わるから、
船頭が働く。
馬方が働く。
荷役が働く。
宿が繁盛する。
倉庫が必要になる。
商人が集まる。
しかし鉄道は、
その積み替えをしなくて済むようにする技術
だった。
すると、これまで「仕事を生む場所」だった積み替え地点が、
今度は、
時間と費用のかかる場所
として認識されるようになる。
これは非常に大きな逆転である。
前近代では、
「ここで積み替えなければならない」
ことが富を生んだ。
近代になると、
「ここで積み替えなければならない」
ことが不利になる。
交通技術が変わると、同じ地理条件の意味まで逆転するのである。
長浜の衰退は驚くほど急激だった
鉄道の威力は、長浜の変化を見るとよく分かる。
滋賀県立公文書館が紹介する明治二十二年十二月の新聞記事では、東海道線が長浜を経由しなくなった後、長浜駅周辺が「火の消たる如き有様」になり、多くの宿屋や荷受問屋が米原へ移転したと報じられている。 滋賀県立公文書館
これは衝撃的である。
数年前まで、
北陸。
東海。
京阪。
を結ぶ最先端の交通都市だった。
港を改修した。
鉄道駅を造った。
汽船を走らせた。
ところが一本の新線が開通すると、交通の流れそのものが変わる。
人が来なくなる。
荷物が来なくなる。
宿屋が移る。
荷受問屋が移る。
都市の繁栄が、交通経路によってどれほど左右されるのかを示す極端な事例である。
米原という新しい結節点が生まれる
そして長浜に代わって台頭したのが米原である。
明治二十二年の東海道線全通に伴い、東へ向かう幹線は長浜を経由せず米原を通るようになった。
その後、米原は東海道線と北陸方面の鉄道が接続する分岐点として発展する。滋賀県立公文書館も、米原駅を東海道線開通以来、県北東部の玄関口であり、北陸線の分岐点として栄えた駅と位置づけている。 滋賀県立公文書館
ここには非常に興味深い変化がある。
かつての物流結節点は、
港
だった。
しかし鉄道時代になると、
駅
が結節点になる。
水路と陸路の境界ではなく、
路線と路線が分岐する場所が重要になる。
つまり、
塩津。
長浜。
大津。
のような港湾型結節点に加えて、
米原という鉄道型結節点
が登場したのである。
それでも米原が選ばれた場所は偶然ではない
しかし、ここで一つ重要な点がある。
鉄道が交通地理をすべて自由に造り替えたわけではない。
米原は、まったく何の交通的背景もない場所に突然造られたわけではない。
これまで本稿で見てきたように、この地域は古代以来、
東山道。
中山道。
北国方面への道。
朝妻湊。
関ヶ原方面。
湖北方面。
が交差する地域であった。
つまり鉄道は旧交通体系を破壊しながらも、一方では古くから交通が集中してきた地形を利用している。
ここに近江交通史の面白さがある。
技術は変わる。
輸送手段も変わる。
しかし、
山の切れ目。
平野。
峠。
湖岸。
河川。
といった地形は変わらない。
したがって新しい交通網も、完全に自由な場所へ引くことはできない。
鉄道は近江の重要性を消したのではない
東海道線が開通すると、琵琶湖を船で横断する必要はなくなった。
では近江の交通的重要性は失われたのであろうか。
そうではない。
むしろ、
交通の主役が琵琶湖から鉄道へ移った
と考える方が正確である。
滋賀県を東海道線が横断する。
米原から北陸方面へ鉄道が伸びる。
大津から京都へ鉄道が走る。
つまり古代から存在した、
東国
―美濃
―近江
―山城
という巨大交通回廊は、そのまま鉄道の幹線へ置き換えられたのである。
交通路が消えたのではない。
交通媒体が変わった。
鉄道は「物流距離」をさらに縮めた
第一章で、本稿は「物流距離」という考え方を示した。
地図上の距離ではなく、
どれほど多く。
どれほど速く。
どれほど安定して。
物を運べるか。
という意味である。
琵琶湖水運は、徒歩や駄馬輸送に比べて物流距離を大きく縮めた。
しかし鉄道は、その効果をさらに一段進めた。
湖上輸送には風がある。
波がある。
港で積み替えが必要になる。
冬季には気象条件もある。
鉄道なら、線路が連続している限り、そのまま次の地域へ進める。
つまり鉄道は、
近江という場所を通過する時間を短くした。
これは近江にとって両義的である。
交通量そのものは増える可能性がある。
しかし滞在時間は減る。
ここでも、
通る人が増えることと、町が潤うことは同じではない
という問題が生じる。
「通過地化」という新しい問題
前近代の交通では、旅人は宿泊する。
荷物は積み替える。
船は風を待つ。
馬を替える。
つまり、人も物も途中で止まる。
ところが鉄道は止まる場所を限定する。
しかも高速化すればするほど、中間地点で降りる必要がなくなる。
これは現代の高速道路や新幹線にも共通する現象である。
交通が便利になれば、その地域が必ず豊かになるわけではない。
むしろ、
以前は「目的地」や「中継地」だった町が、単なる通過地点になる
こともある。
明治二十二年の長浜は、その早い実例と言える。
これは本稿冒頭で使ってきた「近江は通り道ではなかった」という問題を、逆方向から考えさせる出来事である。
鉄道は、近江の一部を本当に「通り道」に変える力を持っていたのである。
しかし湖上交通は一夜にして消滅したわけではない
ここでも単純化してはいけない。
東海道線全通によって、大津―長浜間の鉄道連絡船としての役割は終わった。
しかし琵琶湖水運そのものが直ちに消滅したわけではない。
滋賀県の明治四十年(一九〇七)の史料には、鉄道開通後も県内交通において湖上水運が盛んに利用されていたことが記されている。 滋賀県公式サイト
当然である。
鉄道駅はすべての村にあるわけではない。
琵琶湖岸には多くの町や集落がある。
湖上航路の方が便利な区間もある。
貨物の種類によっては船が有利な場合もある。
したがって鉄道と船の関係は、
ある日突然、船が全滅する
というものではない。
長距離幹線輸送の主役が鉄道へ移り、その結果として湖運の役割が徐々に変化したと考えるべきである。
琵琶湖は「幹線」から「地域交通」へ役割を変えた
東海道線全通以前、琵琶湖は東京・京都方面を結ぶ国家幹線交通の一部として組み込まれていた。
しかし鉄道が湖東を直接通るようになると、その必要性が薄れる。
その後、琵琶湖の船舶交通は、
地域輸送。
湖岸間移動。
観光。
離島交通。
などへ比重を移していく。
長浜港も、明治二十二年に鉄道連絡船の乗換駅としての役割を終えた後、竹生島への遊覧船発着港などとして新たな機能を持つようになった。 滋賀県公式サイト
ここでも都市は完全に死ぬのではない。
役割を変えて生き残る。
長浜城が廃城になっても商業都市として残ったのと同じように、鉄道連絡港としての役割を失っても、港そのものは別の機能を持ち続けたのである。
そして二十世紀、湖西にも鉄道が通る
鉄道による交通再編は、湖東だけで終わらなかった。
昭和四十九年(一九七四)、山科―近江塩津間に湖西線が開業した。
滋賀県によれば湖西線は七四・一キロメートル、踏切を一つも持たない高規格路線として建設され、現在も北陸方面と京阪神を結ぶ特急・貨物列車の最短ルートとして重要な役割を担っている。 滋賀県公式サイト
ここで歴史地理として非常に興味深いことが起きる。
古代から中世に、
北陸・若狭
→湖西
→大津・山城
という交通方向が存在したことは、すでに第九章までで見てきた。
そして二十世紀になると、ほぼ同じ大きな方向性に、
北陸
→近江塩津
→湖西
→山科・京都
という高速鉄道ルートが成立する。
もちろん古代北陸道と現代湖西線が同じ道を走っているという意味ではない。
しかし、
北陸と京都を琵琶湖西岸経由で結ぶ
という地理的合理性が、輸送技術を変えて再び現れたのである。
技術は変わっても「五方向へ開く近江」は変わらなかった
第二章で、本稿は近江を五方向へ開く地域として整理した。
北――敦賀。
西――小浜・若狭。
東――関ヶ原・美濃。
南――山城・難波。
南東――鈴鹿・伊勢。
これは前近代の話だけではない。
鉄道時代になっても、
東海道線は美濃・東海方面へ伸びる。
北陸線は敦賀方面へ伸びる。
湖西線は京都と北陸を結ぶ。
山科・京都からは大阪方面へ続く。
つまり鉄道は近江の交通的重要性を破壊したのではなく、
古い交通方向を、より高速なネットワークへ置き換えた
側面が強い。
ここで本稿の重要な区別がもう一度必要になる。
変わったのは、
船。
馬。
牛車。
汽船。
鉄道。
という輸送技術である。
変わらなかったのは、
山。
峠。
湖。
平野。
河川。
そして京都・大阪・北陸・東海という大きな地域配置である。
千年の物流構造は「消えた」のではなく「組み替えられた」
したがって、
鉄道によって近江の物流構造が消滅した
という表現は正確ではない。
より正確には、
物流の結節点が組み替えられた。
古代の塩津。
中世・近世の大津。
戦国・近世の長浜。
明治初期の長浜。
鉄道時代の米原。
時代によって主役となる場所が変わる。
しかしその多くは、
北陸。
美濃。
山城。
琵琶湖。
を結ぶ広い近江交通圏の内部に存在している。
つまり近江の重要性が消えたのではない。
近江の中で「重要な場所」が移動した。
この違いは大きい。
「積み替えの富」から「接続の富」へ
前近代の近江では、
積み替えが富を生んだ。
しかし鉄道時代になると、積み替えはできるだけ少ない方が有利になる。
その代わり、新しい価値が生まれる。
接続である。
どの路線とどの路線がつながるのか。
どこで分岐するのか。
どこに主要駅が置かれるのか。
米原の価値は、その典型である。
つまり近江交通史は、
積み替え地点を押さえる時代から、路線接続点を押さえる時代へ
移ったのである。
これは物流原理そのものの変化だった。
近江の地理的優位は、鉄道によって完全には消せなかった
鉄道には、道路や水運よりも自由に経路を設定できる部分がある。
トンネルを掘る。
橋を架ける。
盛土をする。
山を切り開く。
それでも完全に地形から自由になることはできない。
巨大な山地を避ける。
勾配を抑える。
川を渡れる場所を選ぶ。
都市を結ぶ。
そのため、古代から交通が通ってきた大きな回廊と、近代鉄道の回廊が重なる場合が多い。
関ヶ原。
米原。
大津。
山科。
敦賀。
こうした場所が、古代・中世・近世だけでなく近代交通にも登場し続ける理由はここにある。
交通技術は地形を克服する。しかし、地形を消すことはできない。
交通革命が証明したもの
明治の鉄道は、近江の古い交通体系を破壊した。
しかし同時に、近江の地理的重要性を別の形で証明したとも言える。
もし近江が単なる偶然の中継地だったなら、交通技術が変わった時点で主要交通網から外れてもおかしくない。
ところが実際には、
東海道線。
北陸線。
後の湖西線。
と、国家的な主要交通路が近江を通り続けた。
つまり消えたのは、
琵琶湖を船で渡らなければならないという必然性
である。
消えなかったのは、
北陸・東海・京阪を結ぶために近江を通る合理性
だった。
ここは、本稿全体の結論へつながる重要な点である。
「近江を制する者は天下を制す」の時代は終わったのか
近代国家が成立し、鉄道が全国へ伸びる。
政治中枢は東京へ移る。
海運も発達する。
道路も近代化する。
そうなれば戦国時代のように、
「近江を押さえれば京都への道を押さえられる」
という軍事的意味は薄れていく。
その意味では、
近江を軍事的に支配することが天下支配へ直結する時代は終わった
と言ってよい。
しかし交通地理としての近江は終わらなかった。
東西を結ぶ。
北陸と京阪神を結ぶ。
米原で路線が分かれる。
湖西線が北陸への短絡路になる。
役割は変わっても、
人と物が通る場所
であり続ける。
つまり「天下を制する」という政治的意味は失われても、
列島交通の重要部分を担う地域
という近江の性格は、近代以降も続いているのである。
千年以上続いたものは「船」ではなかった
本稿はここまで、古代から明治まで近江交通史を追ってきた。
その中で最も長く続いたものは何だったのだろうか。
丸子船ではない。
東山道でもない。
北国街道でもない。
宿駅制度でもない。
それらはいずれも変化した。
最も長く続いたのは、
地形によって生み出された交通方向そのもの
である。
日本海と畿内を結ぶ。
東国と京都を結ぶ。
若狭と琵琶湖を結ぶ。
伊勢と近江を結ぶ。
そして、その中央に琵琶湖がある。
古代の人々は船と馬を使った。
近世の人々は街道と大型湖船を使った。
明治の人々は汽船と鉄道を組み合わせた。
その後は鉄道が直接結んだ。
道具は変わった。
しかし、
「ここを通る」
という列島の大きな交通構造は残ったのである。
近江は鉄道によって敗北したのではない
長浜の急速な衰退だけを見ると、
「琵琶湖水運は鉄道に敗れた」
という物語になりやすい。
しかし本稿では、そのようには考えない。
確かに湖上交通は国家幹線輸送の中心から退いた。
積み替えで栄えた町の一部は打撃を受けた。
しかし鉄道そのものが近江を通り、米原という新しい結節都市を生んだ。
さらに後には湖西線が、再び北陸と京阪神を近江経由で結ぶ。
つまり、
近江の交通機能は失われたのではない。
水運中心から鉄道中心へ、形を変えて再編されたのである。
そしてこれは、千年以上にわたる近江の歴史を考えるうえで非常に象徴的である。
政権が変わる。
都が変わる。
城主が変わる。
港が変わる。
輸送技術が変わる。
それでも近江は交通史から消えない。
ここまで来ると、本稿冒頭の問いに答える準備が整った。
なぜ近江は、古代から明治まで日本史の重要場面に繰り返し登場したのか。
答えは、「京都に近かったから」だけではない。
近江には生産力があった。
琵琶湖があった。
街道が集まった。
港があった。
積み替えがあった。
商人がいた。
寺社があった。
軍隊を動かせた。
情報が集まった。
そして技術が変わっても、地形が生み出す交通上の優位そのものは消えなかった。
次はいよいよ本稿の結論である。
終章 近江は「通り道」ではなかった
本稿は、ひとつの素朴な疑問から始まった。
なぜ近江は、これほど繰り返し日本史の重要場面に現れるのか。
古代には近江大津宮が置かれた。
壬申の乱では湖東から瀬田へ至る地域が戦場となった。
平安京成立後には、大津が都の東側を支える物流拠点となった。
中世には比叡山・坂本、佐々木氏・六角氏などの大きな宗教・政治勢力が活動する。
戦国時代には佐和山、安土、長浜が重要拠点となり、信長・秀吉の天下統一過程と深く関係した。
一六〇〇年には、その東側の関ヶ原で天下分け目の戦いが起こる。
近世には大津、長浜、近江八幡などの商業都市が栄え、近江商人は全国へ進出する。
そして明治になると、鉄道建設の最前線の一つとなり、長浜・大津・米原が新しい交通体系へ組み込まれていった。
これほど時代も政治体制も違う出来事が、なぜ同じ地域に重なるのであろうか。
その答えを「京都に近かったから」の一言で終わらせることはできない。
本稿を通じて見えてきたのは、もっと大きな構造である。
近江は、物が通過する地域ではなく、物・人・情報を集め、変換し、再び送り出す地域だった。
琵琶湖は「湖」ではなく交通空間だった
近江を理解するうえで、まず見直さなければならなかったのが琵琶湖である。
現代の感覚では、巨大な湖は陸上交通を遮る障害にも見える。
しかし船を利用できる社会では、その意味は逆転する。
大量の荷物を人や馬だけで長距離運ぶことには限界がある。
水上輸送を利用すれば、より大量の物資を効率的に動かすことができる。
そこで琵琶湖は、近江を分断する水面ではなく、
近江各地を結ぶ巨大な内陸交通空間
となった。
湖北。
湖東。
湖西。
湖南。
それぞれの地域を港が結ぶ。
そして港の背後には街道が伸びていた。
琵琶湖の価値は、水面だけにあったのではない。
湖と陸路が組み合わさっていたことにあったのである。
近江は五方向へ開かれていた
近江の強さは、交通が一方向だけに集中していなかったことにもある。
北へ行けば敦賀。
西へ行けば小浜・若狭。
東へ行けば関ヶ原・美濃。
南へ行けば山城・京都、さらに難波・大坂。
南東へ行けば鈴鹿を越えて伊勢方面へ向かう。
つまり近江は、
日本海、東国、畿内、伊勢を結ぶ複数の回廊の中央
に存在していた。
そしてこれらの交通は、単に近江を横断するだけではなかった。
途中で琵琶湖水運へ接続することができた。
敦賀から塩津へ。
小浜方面から今津へ。
美濃方面から朝妻へ。
そして大津から山城へ。
ここに近江の本質がある。
「積み替え」が近江を豊かにした
本稿の中で繰り返し登場した言葉が、
積み替え
である。
海船から陸上輸送へ。
馬から湖船へ。
湖船から牛車へ。
河川船へ。
物資が輸送手段を変えるたびに、人間の作業が発生する。
荷物を降ろす。
確認する。
保管する。
積み直す。
次の輸送手段を手配する。
待つ。
そこに船頭、馬方、荷役、宿屋、倉庫、商人、金融、修理、飲食などの仕事が生まれる。
つまり前近代社会において、
交通が途切れる場所こそ経済が生まれる場所
でもあった。
塩津。
朝妻。
今津。
大津。
長浜。
これらは単なる地名ではない。
異なる交通体系が接続する変換点だったのである。
大津は終点ではなかった
この構造を最もよく示したのが大津であった。
琵琶湖を南下した船は大津へ着く。
しかし物流はそこで終わらない。
荷物を降ろし、再び陸路で逢坂を越え、京都へ向かう。
さらに時代が下れば、京都・伏見・淀を経て淀川水運へ接続し、大坂方面へ向かう。
つまり大津は、
琵琶湖の終点ではなく、次の物流体系への入口
だった。
この視点から見ると、近江と山城を現在の県境で切り離して考えることが不自然であることも分かる。
大津と京都は別の世界ではない。
物流という点では、互いを必要とする関係にあった。
敦賀と難波――二つの海の間に近江があった
さらに視野を広げれば、近江の位置は一層明瞭になる。
北には日本海の玄関である敦賀。
南西には瀬戸内海・大阪湾へ開く難波。
古代には難波が西方・大陸方面への重要な海の玄関となり、敦賀は日本海交通、さらに渤海など北方世界との接点となった。
その二つの間に、
敦賀
―近江
―山城
―難波
という巨大な交通軸が存在した。
近江は内陸国である。
しかし決して海から隔絶されてはいなかった。
むしろ北の日本海と南西の瀬戸内海を結び得る位置にあった。
これが近江を、単なる地方ではなく列島規模の交通体系へ組み込んだ大きな理由である。
都は物流から自由ではなかった
古代の都城についても同じことが見えてきた。
飛鳥。
難波。
大津。
藤原京。
平城京。
恭仁京。
紫香楽宮。
長岡京。
平安京。
都の移動には、政治、皇位継承、外交、宗教、軍事、災害などさまざまな要因がある。
したがって、
「物流のために都が移った」
などと単純化することはできない。
しかし、巨大都市である以上、食料、木材、瓦、布、燃料などを継続的に運び込まなければならない。
都は物流から自由ではない。
特に平安京を見ると、その東に大津と琵琶湖、西南には淀川水系が存在する。
つまり山城の都は、
北東から琵琶湖・北陸へ、南西から難波・瀬戸内海へ
接続できる位置にあった。
政治中心と物流中心が必ずしも同じ場所である必要はない。
平安京と大津の関係は、そのことをよく示している。
城は交通路の上に築かれていた
戦国時代に入ると、物流と軍事の関係はさらに明瞭になる。
佐和山城。
安土城。
長浜城。
八幡山城。
これらを現在の地図だけで見ると、その本来の立地条件を見誤る。
かつては内湖が広がり、水辺が現在よりはるかに城へ近かった。
佐和山の西には松原内湖。
安土周辺には大中の湖・小中の湖などの内湖群。
長浜城は琵琶湖岸。
近江八幡では八幡堀が西の湖を経て琵琶湖へつながった。
つまり城は水から離れた存在ではなかった。
そして安土城では、水辺から物資を搬入した可能性を示す遺構まで確認されている。
城とは敵から身を守るだけの施設ではない。
人間を集め、物資を蓄え、軍隊を動かすための物流拠点でもあった。
信長・秀吉は近江で「交通の力」を利用した
信長は尾張で活動した時代から、熱田湊と清洲が結ばれる海運・市場環境の近くにいた。
その後、岐阜へ進み、関ヶ原を越えて近江へ入り、最終的に安土へ本拠を移す。
秀吉は北近江を与えられると、小谷の山城を使い続けるのではなく、琵琶湖岸の長浜へ下り、港・城・商人・街道を結びつける城下町を造った。
その後、大坂へ進むと、
海。
河川。
堀川。
城。
商人。
を巨大な規模で一体化させていく。
もちろん、
「熱田で水運を学んだから信長は安土を選んだ」
「長浜で学んだから秀吉は大坂を選んだ」
と直接的な因果関係を史実として断定することはできない。
しかし、彼らの拠点が、
より大量の人と物を集め、より広い地域へ送り出すことのできる場所
へ移っていったことは注目に値する。
天下統一とは、領土を塗り替えることだけではない。
異なる物流圏を一つの政治権力のもとへ接続していく過程
でもあったのである。
平時の道が戦時には軍事回廊となった
近江の交通の重要性は、戦争になると裏返しになる。
壬申の乱。
佐和山攻防。
姉川。
関ヶ原。
これらの戦争の原因はすべて異なる。
しかし軍勢が動いた地形には共通性がある。
不破・関ヶ原。
湖東。
瀬田。
山城。
平時には商人と物資が通る。
戦時には兵士と兵糧が通る。
つまり、
経済回廊と軍事回廊は、同じ地形の表と裏
なのである。
近江が便利な土地だったからこそ、近江は危険な土地でもあった。
敵も来る。
大軍も来る。
近江を取らなければ京都へ進めない状況が生まれれば、必然的に戦場となる。
この意味で近江の軍事史は、交通史の裏面でもあった。
物が集まれば、人と情報も集まる
そして交通は、物資だけを運んだのではない。
犬上氏のように、近江から国家外交へ参加する豪族が現れる。
大津には各地方から人が集まる。
敦賀を通じて北方世界との情報が入る。
比叡山には僧侶が集まり、宗教知識が全国へ広がる。
坂本には運送業者や金融業者が集まる。
近江商人は全国へ出ていく。
つまり近江は、
情報の交差点
でもあった。
人間が移動する社会では、人そのものが情報媒体である。
港。
宿場。
市場。
寺社。
こうした場所で地域の出来事、物価、政治、戦争、文化が交換される。
物流ネットワークは、そのまま人的・情報ネットワークでもあったのである。
しかし近江は「物流だけ」の国ではなかった
本稿で最も重要な修正の一つは、近江を単なる交通の要衝として終わらせなかったことである。
近江自身に生産力があった。
湖東・湖北などの農地。
琵琶湖の漁業。
周囲の森林。
豊かな水系。
寺社。
有力氏族。
近世後期には約八十五万石規模の石高を持ち、明治初頭には五十万人を超える人口を抱えていた。
つまり近江は、
他地域の物資を通すだけの場所ではない。
自ら物資を生み出すことができた。
ここが大きい。
交通だけに依存する地域なら、ルート変更によって一気に価値を失う可能性がある。
しかし近江には農業、漁業、森林、都市、寺社という内部基盤があった。
したがって本稿では、近江の力を、
内部で生み出す力 × 外部とつながる力
として捉えた。
これが近江の地域力の核心である。
八十五万石と千艘の船が同じ場所にあった
数字で見ると、この構造はさらに分かりやすい。
近世後期、近江国は約八十五万石規模の石高を持っていた。
近世の琵琶湖には、一時期一〇〇〇艘を超える丸子船が活動していた。
これらを単純に足し合わせることはできない。
しかし重要なのは、
大きな生産基盤と、大きな輸送能力が同じ地域に存在していた
ことである。
物を作れる。
そして動かせる。
この二つを兼ね備えることは強い。
国力を考える際、
人口。
生産。
余剰。
徴収。
保管。
輸送。
を分けて考えてはいけない。
本当に重要なのは、それらを一続きのシステムとして機能させられるかどうかである。
近江は、その条件を比較的高い水準で備えていたと考えられる。
明治の鉄道が近江の本質を逆に証明した
そして最後に登場したのが鉄道である。
鉄道は、千年以上にわたり近江へ富をもたらしてきた「積み替え」の価値を崩した。
大津から汽船へ。
長浜で鉄道へ。
という明治初期の交通体系は、東海道線の全通によって短期間で変化した。
長浜では人と荷物が急減し、問屋や宿屋が米原へ移った。
交通技術が変われば、繁栄する町まで変わる。
これは近江の交通史を考えるうえで極めて重要な出来事だった。
ところが、近江そのものが交通路から外れたわけではない。
東海道線が通る。
北陸線が分岐する。
後には湖西線が北陸と京阪神を結ぶ。
つまり鉄道が破壊したのは、
「琵琶湖を船で通らなければならない」という旧来の交通体系
であって、
「近江を経由すると東海・北陸・京阪を結びやすい」という地理そのもの
ではなかった。
ここに本稿の最も長期的な結論がある。
変わらなかったものは「道」ではなく地形だった
古代東山道と中山道は同じ道路ではない。
北陸道と湖西線も同じ経路ではない。
丸子船と蒸気船も同じものではない。
しかし、
関ヶ原。
米原。
湖北。
大津。
逢坂。
敦賀。
という場所が、異なる時代の交通史に繰り返し現れる。
なぜか。
山がそこにあるからである。
谷がそこにある。
湖がそこにある。
平野がそこにある。
日本海が北にあり、京都・大阪が南西にあり、美濃・濃尾平野が東にある。
政権は変わる。
技術も変わる。
しかし列島の骨格そのものは簡単には変わらない。
近江史の底を流れていたのは、特定の街道ではなく、地形が生み出した交通の方向性だった。
では「近江を制する者は天下を制す」は成立するのか
最後に、本稿の題名へ戻ろう。
「近江を制する者は天下を制す」
これは特定の歴史人物が残した言葉ではない。
本稿が近江の歴史的意味を検証するために置いた命題である。
では十八章を通じて、この命題は証明されたのであろうか。
厳密に言えば、
近江を支配しただけで天下を取れる
という意味ならば成立しない。
近江を支配した大名がすべて天下人になったわけではない。
全国支配には、
軍事。
財政。
人材。
外交。
政治制度。
海運。
他地域の生産力。
さまざまな条件が必要である。
したがって、
「近江さえ取れば天下が取れる」
という説明は歴史を単純化しすぎている。
しかし、この言葉を別の意味で読むなら、強い現実性を持つ。
天下を広く支配しようとする勢力にとって、近江を安定的に利用できないことは大きな弱点になり得た。
近江は、
京都の東側を支える。
美濃・東国へつながる。
敦賀・北陸へつながる。
若狭へつながる。
伊勢方面へつながる。
琵琶湖によって大量輸送ができる。
さらに近江自身も大きな生産力を持つ。
この地域を敵対勢力に押さえられれば、畿内政権にとって大きな脅威となる。
逆に近江を安定的に掌握すれば、複数方向へ人・物・軍勢を動かす自由度が高まる。
この意味では、
「近江を制する者は天下を制す」
という言葉は、単なる誇張ではなく、近江が持っていた戦略的条件を象徴する表現として成立する。
ただし正確に言い換えるなら、
「天下を動かそうとする者は、近江を無視することができなかった」
となるだろう。
近江は「通り道」ではなかった
そして本稿が最終的にたどり着いた結論は、ここである。
近江を、
京都へ行く途中の土地
として理解してはいけない。
通過地なら、人と物は止まらない。
しかし近江では止まった。
積み替えられた。
保管された。
取引された。
加工された。
消費された。
再び送り出された。
近江自身でも米が作られ、魚が獲られ、木材が供給された。
港ができた。
宿場ができた。
市場ができた。
寺社が育った。
商人が育った。
城が築かれた。
軍隊が通った。
情報が集まった。
つまり近江とは、
通過するための空間ではなく、流れを変える空間
だったのである。
近江を中心に日本を見る
歴史地図を見るとき、私たちは無意識に京都、大坂、奈良、江戸など巨大都市を中心に置いて考える。
しかし一度、琵琶湖の上に視点を置いてみる。
すると列島中央部の姿が変わる。
北には敦賀と日本海。
西には若狭。
東には関ヶ原と美濃。
南東には鈴鹿と伊勢。
南には大津、山城、難波・大坂。
琵琶湖から五方向へ交通が伸びる。
そこに人と物が集まり、別方向へ送り出される。
この視点から見ると近江は、日本史の周辺ではない。
複数の地域世界が接続する中央部
として浮かび上がる。
ここに、本稿を書き始めたときには見えていなかった近江の姿がある。
湖は動かない。しかし歴史を動かした
琵琶湖はそこにある。
山もある。
峠もある。
人間は、その地形を利用しながら道を造った。
港を造った。
城を造った。
都市を造った。
そして時代が変わるたびに、その使い方を変えてきた。
古代には官道と湖船。
中世には寺社と港。
戦国時代には城郭と兵站。
近世には宿場と丸子船。
明治には汽船と鉄道。
技術も制度も変化した。
それでも、人々は同じ地形の上で新しい交通体系を造り続けた。
だから近江は、日本史に繰り返し登場したのである。
近江は、ただ人々が通り過ぎた土地ではなかった。
人が集まり、
物が集まり、
情報が集まり、
そして再び日本各地へ広がっていった。
近江を理解するということは、琵琶湖の歴史を知ることだけではない。
日本列島の中で、人と物がどのように動き、その動きを政治と経済がどのように利用してきたのかを理解することなのである。
そしてその視点から日本史を見直したとき、
近江はもう「京都の隣」に見えることはない。
そこに見えてくるのは、
日本海と瀬戸内海、東国と畿内、山と湖、街道と港を結び続けた、日本列島中央部の巨大な結節地域としての近江である。
著者:河瀬 昌良
古神道家・倭呼吸塾 塾長
歴史・古代史研究/執筆
者コラム 近江に立つと、歴史は「地図」ではなくなる
近江の歴史を調べていると、時々、不思議な感覚になる。
教科書では別々に習った出来事が、実際に土地を歩いてみると、一本につながって見えてくるのである。
佐和山から少し視線を動かせば、彦根の平野が広がる。
その向こうには琵琶湖がある。
東へ目を向ければ関ヶ原へ続く道がある。
北へ行けば長浜、湖北、そして敦賀へつながっていく。
南へ下れば大津があり、その先には京都がある。
地図の上では別々の場所である。
けれど、人が歩き、馬が荷を運び、船が湖上を走っていた時代の感覚で眺めると、それらは決して別々ではない。
全部つながっている。
私は今回の記事を書きながら、それを何度も感じた。
なぜ佐和山なのか。
なぜ安土なのか。
なぜ長浜なのか。
なぜ大津なのか。
なぜ関ヶ原で大軍がぶつかったのか。
一つ一つだけを見ていると、「そこに城があったから」「そこで戦いが起きたから」で話は終わってしまう。
しかし、少し視点を引いてみる。
するとその背後に、
山があり、
峠があり、
川があり、
琵琶湖があり、
街道がある。
そして、その上を人と物が動いている。
歴史というものは、人物だけが動かしているのではないのかもしれない。
人間は地形の上で生きる。
食べ物を運び、
軍勢を動かし、
商売をし、
都を造り、
城を築く。
その積み重ねが歴史になる。
だから私は、歴史を考えるとき、できるだけ現地へ行きたいと思っている。
山へ登る。
旧道を歩く。
湖を見る。
川を見る。
古い集落を見る。
今は田んぼになっている場所が、昔は内湖だったと知る。
そうすると、文字だけでは分からなかったものが急に立体的になってくる。
「ああ、ここなら船を使うわな」
「ここを押さえたら東へ行けるな」
「ここに城を置きたくなる理由、分かるな」
そんな瞬間がある。
おそらく歴史研究の面白さとは、答えを覚えることではない。
昔の人が見ていた風景を、少しずつ取り戻していくことなのだと思う。
琵琶湖は今も同じ場所にある。
伊吹山も、鈴鹿の山々も、比良山地もそこにある。
関ヶ原の谷も、瀬田川もある。
もちろん町は変わり、湖岸線も変わり、道も変わった。
それでも地形の骨格は残っている。
そして、その骨格の上に日本史を重ねていくと、
近江はもう「京都の隣の県」には見えない。
ここは、古代からずっと、
人と物と情報が出会い、別れ、また次の土地へ向かっていった場所だった。
琵琶湖のほとりに立っていると、今は静かな風景の向こうに、船の往来や馬の足音、人々の声が重なって聞こえてくるような気がする。
歴史とは、過ぎ去ったものではない。
土地の中に、まだ残っている。
今回の論考は、その「残っているもの」を、少しだけ拾い集めてみた記録でもある。
出典・参考史料
本稿の作成にあたっては、古代史料・近世史料を基礎としつつ、国・県・市町村の文化財調査報告、発掘調査成果、歴史博物館・研究機関の公開資料、統計資料を参照した。
史料上確認できる事実と、後世の研究・考古学的成果、本稿における歴史地理的考察は可能な限り区別した。とくに古代から近世までの交通路については、後世の街道名称や近代以降の地形をそのまま過去へ遡及させず、各時代に確認できる史料・遺構を基準として検討した。
一 基礎史料・一次史料
『日本書紀』
近江大津宮、壬申の乱、瀬田橋、難波宮、犬上御田鍬、遣隋使・遣唐使など、七世紀を中心とする政治・外交・交通関係の記事の基礎史料として参照。
『続日本紀』
平城京、恭仁京、難波、紫香楽宮をはじめとする奈良時代の宮都移動、聖武天皇期の政治状況などの基礎史料として参照。
『延喜式』
諸国の行政区分、貢納物輸送、北陸方面から敦賀・塩津・大津を経由する運賃・輸送体系など、律令国家の物流制度を検討する基礎史料として参照。
太田牛一『信長公記』
織田信長の近江進出、佐和山城包囲、安土築城など、戦国期近江における軍事・交通関係の検討に参照。
『天保郷帳』
近江国および郡別石高を検討するための基礎史料として参照。国立国会図書館も『天保郷帳』を幕府が作成した全国的村高資料として案内している。滋賀県立公文書館
『旧高旧領取調帳』
明治初年の近江国石高・旧領構成を比較するために参照。
二 古代都城・交通に関する研究資料
独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所「藤原京について」
藤原京の成立、条坊、大きさ、古代幹線道路との関係を検討する際に参照。奈良文化財研究所は藤原京を、日本で初めて首都として計画的に造られた本格的都城としている。名文研
奈良文化財研究所・藤原宮跡
奈良文化財研究所 青木敬「平城京の運河」
平城京の東堀河・西堀河、市場への物資輸送と都市内水運について参照。平城京では水運が重要な輸送手段となり、人工運河が物資輸送・排水に使用されていた。名文研
奈良文化財研究所「平城京の運河」
長岡京市「『長岡京』とは」
長岡京の立地、淀川水系、水陸交通、延暦十一年の洪水などについて参照。長岡京市は長岡京を「水陸交通の便利な都」と説明している。長岡京市公式サイト
長岡京市「長岡京とは」
甲賀市『甲賀市史』第1巻 通史編 原始・古代
紫香楽宮、古代甲賀の交通・政治環境について参照。甲賀市公式サイト
甲賀市「紫香楽宮フォーラム資料集」
紫香楽宮と恭仁宮、聖武天皇の宮都政策および両地域を結ぶ交通について参照。甲賀市公式サイト
木津川市 恭仁京・恭仁宮関係資料
恭仁京、木津川水運、山城南部の交通地理について参照。
三 近江大津宮・大津・坂本関係
大津市歴史博物館「近江大津宮」
近江大津宮、白村江敗戦後の東アジア情勢、壬申の乱、瀬田橋遺構について参照。現在の瀬田唐橋より南約八十メートルから、七世紀中頃の大型橋脚遺構が確認されている。大津市歴史博物館
大津市歴史博物館「近江大津宮」
大津市歴史博物館『大友皇子と壬申の乱』企画展図録
近江大津宮から不破・湖東・瀬田へ至る壬申の乱の経過と関連遺跡について参照。大津市歴史博物館
大津市歴史博物館「江戸時代の琵琶湖水運―大津百艘船の航跡―」
近世大津の湖運、大津百艘船、彦根三湊との関係などについて参照。大津市歴史博物館
大津市歴史博物館「大津百艘船関係資料」
豊臣政権による大津の物流拠点化、大津百艘船の輸送特権・公用輸送について参照。同資料群は約千二百点余りからなる重要文化財である。大津市歴史博物館
大津市歴史博物館 坂本・比叡山関係常設展示資料
延暦寺・日吉社、坂本の馬借・車借・土倉、荘園経済と交通について参照。
四 琵琶湖・内湖・港湾・城郭関係
滋賀県「特別史跡安土城跡の調査と整備」
安土城の大手道・搦手道、水辺遺構、荷札木簡、城内への物資搬入路について参照。山裾では船を通すため浅瀬を掘削したと考えられる溝状遺構が発見されている。滋賀県公式サイト
滋賀県「特別史跡安土城跡の調査と整備」
滋賀県文化財保護協会「松原内湖遺跡現地説明会資料」
旧松原内湖の汀線、佐和山丘陵麓の集落、戦国期遺構について参照。
滋賀県文化財保護協会 佐和山城・松原内湖関係調査資料
佐和山城と中山道系陸路、松原内湖・松原湊、信長による佐和山包囲関連遺構について参照。
彦根市「佐和山城」
佐和山城の成立、犬上・坂田両郡の境目としての性格、磯野員昌による籠城、石田三成期の惣構について参照。彦根市公式ホームページ
彦根市「佐和山城」
近江八幡市『近江八幡市文化財保存活用地域計画』
安土城、内湖群、常楽寺湊、八幡山城、八幡堀、湖上交通、街道、八幡商人などについて総合的に参照。同計画は「琵琶湖・内湖」「街道と宿場町・湖上交通」「安土城」「八幡商人」などを個別の歴史文化ストーリーとして整理している。大津市公式サイト
近江八幡市文化財保存活用地域計画
高島市『高島市文化財保存活用地域計画』
古代北陸道、西近江路、若狭街道、九里半街道、七里半街道、今津・勝野など湖西交通について参照。高島市公式サイト
高島市文化財保存活用地域計画
五 湖北・湖東・街道関係
米原市「朝妻城跡」
朝妻湊、天野川河口、東山道から運ばれる東国物資との関係について参照。米原市は朝妻城の役割として、朝妻湊と天野川河口を押さえ、東山道から運ばれる物資を掌握することを挙げている。米原市公式サイト
米原市「新庄直頼・朝妻城跡」
米原市「息長足姫(神功皇后)―息長氏」
古代坂田郡・天野川流域を本拠とした息長氏について参照。米原市公式サイト
米原市「息長氏」
長浜市『長浜市歴史的風致維持向上計画』第2期
北国街道、北国脇往還、長浜城、長浜湊、秀吉の城下町政策、町衆自治、近代交通などについて総合的に参照。長浜市は市域を「京阪神と中京、北陸を結ぶ結節点」と位置づけている。長浜市公式サイト
長浜市歴史的風致維持向上計画
六 敦賀・難波・広域水運関係
敦賀市 敦賀港・松原客館関係資料
敦賀港の自然港としての性格、日本海交通、渤海使、松原客館について参照。
大阪市「大阪港の景観特性をとらえる要素・歴史」
古代難波津の貢納物集散・対外交流、近世大坂の淀川水運・堀川・蔵屋敷などについて参照。大阪市は難波津を、遠征軍の基地、地方貢納物の集散地、海外交流の窓口として整理している。大阪市公式ウェブサイト
大阪市「大阪港の歴史」
京都市 高瀬川・伏見・淀川水運関係資料
京都―伏見―淀―大坂間の近世水運、高瀬川開削、京都市中物流について参照。
七 近代交通・鉄道・汽船関係
滋賀県立公文書館「太湖汽船とその周辺」
明治十三年の京都―大津間鉄道、明治十七年の敦賀―長浜間鉄道、太湖汽船による大津―長浜間の鉄道連絡輸送について参照。明治十五年に太湖汽船会社が設立され、汽車の発着に合わせて汽船が運航された。滋賀県立公文書館
滋賀県立公文書館「太湖汽船とその周辺」
滋賀県立公文書館「鉄道・汽船と長浜―明治10年代―」
長浜港修築、鉄道と汽船の連絡、東海道線全通後の長浜衰退、米原への交通結節機能の移動について参照。明治二十二年の東海道線全通後、長浜では宿屋・荷受問屋の米原移転が報道されている。滋賀県立公文書館
滋賀県立公文書館「鉄道・汽船と長浜」
八 統計・自然環境・農業関係資料
滋賀県『しがの農林水産業 2026』
滋賀県の耕地面積、水田率等について参照。水田率は九三・一%で全国第二位。滋賀県公式サイト
滋賀県「しがの森林の今」
森林面積約二十万ヘクタール、県土の約半分、陸地の六割近くを森林が占めることについて参照。滋賀県公式サイト
滋賀県「しがの森林の今」
滋賀県「滋賀県なんでも一番」
琵琶湖面積六六九・二六平方キロメートル、湖岸延長、宗教法人・文化財などの県勢比較について参照。滋賀県公式サイト
滋賀県「滋賀県なんでも一番」
滋賀県 農業水利・琵琶湖水利用関係資料
河川、地下水、ため池、琵琶湖からの揚水など、近江農業を支えてきた水利用の歴史について参照。
滋賀県 琵琶湖・内湖環境関係資料
内湖の形成、戦前までの内湖数、二十世紀の干拓、水深・湖岸環境について参照。
九 石高・人口・地域経済関係
湖南市『新修石部町史』所収「近江国十二郡石高」
寛永・元禄・文政・天保・明治初年における近江国および郡別石高の推移について参照。
滋賀県統計資料・旧内閣統計局資料
明治初年の滋賀県人口を検討するために参照。
国税庁 租税史料「石高制」関係解説
石高が実際の米収穫量そのものではなく、土地の生産価値を米高へ換算した課税・土地評価指標であることの確認に参照。
十 本稿における史料利用上の方針
本稿では、次の四段階を区別した。
史料・発掘調査によって直接確認できる事実については、原則として断定形で記した。
研究機関・自治体等で一定の支持を得ている復元・解釈については、**「〜と考えられている」「〜とされる」**とした。
複数の資料を組み合わせた本稿独自の歴史地理的解釈については、**「本稿では〜と考える」「〜と見ることができる」**とした。
直接的な史料証明には至らないものについては、**「可能性がある」「検討する価値がある」**とし、史実との混同を避けた。
とくに、信長の熱田湊での経験と安土城の立地、秀吉の長浜経験と大坂城下建設の関係については、両者を直接結びつける史料が確認されていないため、交通環境の比較・歴史的連続性を検討するための考察として扱った。
また、古代・中世・近世・近代では交通制度と輸送技術が異なるため、後世の街道・港湾制度をそのまま過去へ投影することは避け、変化する制度と、長期的に持続する地形条件を分けて考察した。

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