――各地の力を結んだ倭王権
一 「どちらが先か」の、その先へ
日本の古代史に触れていると、どこが最も古く、どの地域こそが日本の始まりであったのかという議論に出会う。地域の歴史を明らかにすることは大切である。しかし、議論が郷土の先行性を競う方向へ傾くと、私は少し違うことを考えたくなる。
その土地に暮らしていた人々は、何を食べ、どこに住み、何を運び、何を祈っていたのだろうか。そして、隣の地域とどのように関わっていたのだろうか。
所在地や年代の検証には、もちろん意味がある。何が先で何が後かを確かめなければ、影響の方向も分からない。ただ、先に栄えたことだけで、その後の国家形成のすべてを説明できるわけではない。
私が見たいのは、各地に育った社会が結びついていく過程である。海、湖、河川、平野、高台、山。その立体的な土地の構造の中で、人々は生活を築き、地域の力を育てた。その力がどのように倭王権へ集まり、王権自体を変えていったのか。そこから日本建国を考えてみたい。
本稿の「国々」は、近代の領土国家を意味しない。首長層をもち、複数の集落や人々を結ぶ地域政治圏を広く指す。また、「日本建国」は一日の出来事としてではなく、主に弥生時代後期から古墳時代、飛鳥時代を経て、国家の制度が整えられていく長い過程として用いる。建国の伝承がもつ意味と、遺跡や史料から検討できる社会の形成過程を、それぞれの性格を尊重して扱いたい。
二 鎮魂巡礼で土地を歩く
私は鎮魂巡礼で、各地を巡ってきた。土地を歩くことは、そこに生きた人々の営みに思いを向けることでもある。
香取・鹿島、浜松、宮城県山元町の坂元周辺も、自分の足で歩いた。そこで印象に残ったのは、広い平地の中にも、住宅の少ない場所、農地の広がる場所、周囲から一段高くなった場所があり、人の営みの配置に違いが見えることであった。
坂元周辺では、東日本大震災の津波で多くが流された現実を前にした。他の土地を歩いた記憶とも重なり、似た地形では、人々が繰り返し似た課題に向き合ってきたのではないかと考えた。
ただし、見た景観だけで、その土地の古代史が分かるわけではない。山元町では震災後に集団移転や市街地整備が進められており、現在の住宅分布には復興事業の影響もある。現在家が少ない場所を、そのまま「昔から人が住まなかった土地」とすることはできない。山元町「復興交付金事業計画」
巡礼で得た感覚は、歴史の答えそのものではない。しかし、何を調べるべきかを教えてくれる。足元の起伏を感じて生まれた問いを、地形、発掘成果、古い地図や記録に照らして確かめていく。その往復を大切にしたい。
三 水の恵みと、水から距離を取る知恵
人の暮らしには水が必要である。農耕にも、漁労にも、移動にも、水は深く関わる。それと同時に、住居や食料を守るためには、浸水しにくさや水はけも重要になる。水に近づくことと、水から適切な距離を取ること。その両立が土地選びの課題であった。
この関係を考える具体例が、滋賀県守山市の服部遺跡である。市の解説では、弥生時代の初め頃、人々が微高地に住み、その南側の低地で水田を営んだとされる。その水田は洪水の土砂に覆われ、後には墓域として使われた。居住、生産、災害、土地の再利用という変化が、一つの場所に重なっている。守山市「守山の遺跡」服部遺跡
ここで見えるのは、いつまでも安全な高台と、いつまでも危険な低地という固定的な区分ではない。人々は、変わっていく土地の状態に応じて、使い方も変えていたのである。
香取でも、標高約二メートルの自然堤防まで遺跡が広がり、別の低地では標高約三・二メートルの面から古墳や住居跡が確認されている。低地にも人は暮らしていた。「低い土地には住まない」という一律の法則では、実際の遺跡分布を説明できない。香取市「香取遺産」低地の遺跡に関する解説
一方、鹿嶋市では、北浦を見下ろす台地上に縄文時代の集落跡が確認されている。台地を居住に利用した事実と、低地にも住んだ事実を、どちらも視野に入れる必要がある。鹿嶋市「縄文時代の集落跡」
大切なのは、住む場所、耕す場所、水を得る場所、舟を使う場所が、互いにどのような距離と高低差で結ばれていたかである。
四 高台は、周囲との関係の中で力をもつ
私が高台に注目するのは、そこに広い平坦面があり、周囲の生産地や交通路へつながる場合である。見晴らしや浸水しにくさに加え、人が集まり、建物を置けることが、拠点としての利点になりうる。
ただし、「標高三十メートル」を特別な境界線にするつもりはない。海抜の高さと、周囲の水面・低地からの高さは別であり、内陸の土地を沿岸と同じ数値では比較できない。必要なのは当時の地形と水の動きを復元することである。
高台にも不便はある。鹿嶋市の山之上地区については、標高三十七~三十九メートルの台地上で井戸を深く掘る必要があり、水汲みが負担だったと記される。高さは利点であると同時に、水や物資を運ぶ労力を増やす条件でもあった。鹿嶋市「山之上」地名の由来と歴史
したがって、高台にいるだけで権威が生まれるわけではない。周囲の人々を組織し、食料を集め、水や道を管理し、祭祀や対外関係を担う働きが伴って初めて、政治的な中心となる。首長の居所を推定するには、大型建物、区画施設、出土品などによる裏付けも必要である。
私の仮説は、低地の生産と水上交通、それらへ接続する居住可能な高所が組み合わさることで、地域の拠点が育つ条件が整った、というものである。地形は社会を支える条件であり、政治の結末をあらかじめ決めるものではない。
五 寺社や城の立地から、土地の履歴を読む
現在の皇居付近は、武蔵野台地の東端と東京低地の接する場所にある。四天王寺は、大阪の上町台地上に位置する。香取神宮も、利根川南岸の亀甲山と呼ばれる丘陵に鎮座する。時代や成立事情は異なるが、水域や低地に接する高所という共通点は、土地選択を考える手がかりになる。東京都「東京の景観特性」、大阪市「都市景観資源」、香取市「香取遺産」Vol.001
しかし、現在寺社や城があることから、その場所に古代以来同じ権威が続いたと結論することはできない。遷座や移転、造成があり、施設の目的も異なる。墓を置いた高台と、日々暮らした場所が同じとも限らない。
私は寺社や城を、土地の履歴を読むための目印として見たい。旧参道はどちらを向いていたか。坂の下に水場や港があったか。周辺の集落や遺跡はいつの時代のものか。それを確かめることで、建物だけを見ていた時には分からなかった地域のつながりが見えてくる。
また、津波で土地が変わったという考察には、地層の証拠が必要である。九十九里浜では、歴史記録に対応するものに加え、記録のない津波の痕跡が研究されている。ただし、その成果を香取・鹿島の全域へそのまま広げることはできない。場所と年代を限定して読む必要がある。産総研「千葉県の太平洋岸で歴史記録にない津波の痕跡を発見」
自然との共存とは、土地が変わりうることを理解し、その恵みと危険の双方に向き合うことであろう。その知恵を、古代から現代へ無条件に連続させず、一つずつ確かめていきたい。
六 各地には、すでに社会を組織する力があった
地域の力は、発掘成果からも具体的に考えられる。北部九州の平原遺跡では、弥生時代終末期の墓から多数の銅鏡や装身具が出土している。そこには、人と物を集め、特別な葬送を実現した有力者の存在がうかがえる。糸島市「平原遺跡」
出雲の西谷墳墓群には、弥生時代後期の大規模な四隅突出型墳丘墓がある。三号墓からは地元の土器に加え、吉備系・北陸系の土器も見つかっている。地域固有の葬送と、地域を越える交流が併存していたことに注目したい。島根県「西谷墳墓群」
近江の伊勢遺跡は、弥生時代後期の大規模集落である。広い範囲に建物や墓域が営まれ、地域社会の組織化を考える重要な資料となっている。後世の国境をそのまま当てはめることはできないが、近江にも王権形成に先立つ社会の蓄積があったことは見落とせない。守山市「伊勢遺跡史跡公園」
さらに時代を下れば、群馬県の保渡田古墳群と三ツ寺Ⅰ遺跡から、五世紀後半の有力首長層の墓と大規模な居館を検討できる。これは弥生時代の事例と同時ではなく、倭王権との関係の中でも地域の力が発展したことを考える材料である。高崎市「かみつけの里博物館 常設展示案内」
こうした社会は、ある日中央から文化を与えられるのを待っていたわけではない。人々は土地を使い、技術を蓄え、儀礼を営み、すでに他地域とも関係を結んでいた。
ただし、大きな墓や集落の存在だけで、広大な領域を一人の王が統治したと断定することもできない。地域の発展と、単一の巨大国家の存在とは、別の段階の問いである。
七 各地の力は、王権の中心にも流れ込んだ
奈良県桜井市の纒向遺跡は、三世紀初頭から四世紀初めにかけて営まれた大規模集落である。規格性のある建物群や大溝などに加え、東海系をはじめとする他地域の土器が多数出土している。ここには、広域的な往来や交流を考える手がかりがある。文化庁・文化遺産オンライン「纒向遺跡」
土器の移動から、人の移住や政治的同盟までを自動的に決めることはできない。しかし、初期王権と関わる重要な拠点が、他地域とのつながりの中にあったことは確かである。
吉備で発達した葬送文化も重要である。弥生時代の終わり頃に吉備で生まれた特殊器台から、古墳の埴輪へと発展・変遷したと説明されている。各地に広がる古墳文化の中に、地域で育まれた要素が組み込まれた具体例といえる。倉敷市「特殊器台」
さらに五世紀の関係を考える文字資料として、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣がある。銘文にはワカタケル大王の名があり、大王と結びつく人物の系譜や奉仕について記される。「辛亥年」は四七一年とする説が有力である。埼玉県立さきたま史跡の博物館「金錯銘鉄剣」、同館・銘文解説
熊本県の江田船山古墳出土大刀の銘文も、欠けた大王名を雄略天皇に結びつける解釈が有力とされ、王権と地方豪族の関係を知る資料である。これらは個人と大王の具体的な結びつきを伝えるが、周辺の全住民が同じ仕組みで直接支配されていた証明とは区別しなければならない。国立文化財機構・e国宝「銀象嵌銘大刀」
土器、葬送文化、銘文は、それぞれ異なる種類の証拠である。それらを時代順に並べると、地域間の交流、共通様式の形成、王権への人的な参加を、段階を分けて考えることができる。
ここに、本稿の中心となる見方がある。倭王権は各地域を結びつけた。そして各地域から集まる人、技術、物資、儀礼が、倭王権を成長させた。中央と地方の双方が、その関係の中で変わっていったのである。
八 融合には、秩序と衝突の両方があった
各地の首長の結びつきを重視する見方は、既存の研究にもある。考古学者の和田晴吾は、古墳時代前・中期の王権を、各地で支配を行う首長たちが大王を頂点にまとまる「首長連合体制」として説明している。古墳の形や規模には、その階層的な関係が表れるという見解である。本稿の地域社会を重視する視点は、こうした研究に学ぶものである。和田晴吾「日本の古墳の特徴とその世界観」
連合とは、対等な者同士の協力だけを意味しない。大王と首長、首長とその下の人々の間には、力の差があった。共通の秩序に参加することは、地位や利益を得る一方で、奉仕や負担を引き受けることでもあったはずである。
前方後円墳が共通していても、各地の政治関係が一様だったとは限らない。婚姻、贈与、軍事協力などの働きは、個別の史料と考古資料から検討する必要がある。共通の墓制だけで、参加の経緯まで決めることはできない。
また、『日本書紀』継体紀に記される五二七~五二八年の磐井との戦いは、王権と地域の関係に軍事的衝突があったことを考えさせる。史料の語り方には王権側の立場があるが、そのことを理由に衝突自体を消すこともできない。八女市岩戸山歴史文化交流館「筑紫君磐井の戦い」
本稿でいう「融合」とは、異なる地域の人と文化が広域的な秩序の中へ組み込まれ、互いに影響しながら再編される過程である。その中には協力も服属もあり、失われた地位や営みもあった。統合後もすべての地域文化がそのまま保たれた、とは考えない。
鎮魂を志す者として、私は国家の成立を語る時にも、そこにあった痛みを忘れたくない。結ばれた結果を評価することと、その過程で命を失った人々を悼むことは、共にできるはずである。
九 地域の結びつきが、国家の制度へ変わる
地域の首長が大王に仕えることと、役所が戸籍や税を扱い、人々を継続的に把握することには違いがある。「結ばれた」という一語だけでは、この変化を説明しきれない。
飛鳥・藤原の時代には、宮都と行政機構の整備が進んだ。六九四年の藤原京への遷都、七〇一年の大宝律令の完成は、その過程の重要な節目である。奈良文化財研究所は、藤原京の時代を、律令国家としての体裁が整えられた時期として紹介している。奈良文化財研究所「藤原宮跡資料室」
同時に、列島内だけで国家が形づくられたわけでもない。飛鳥には、東アジアの国際関係と人・文物の交流を通じて、文化、技術、制度がもたらされた。各地域の蓄積を重視することは、こうした外部との関係を小さく扱うことではない。奈良文化財研究所「飛鳥資料館について」
地域社会の成立、広域的な首長の結合、行政制度の整備は、それぞれ時間をかけて進んだ。その範囲を現在の日本の国土と同一に扱うこともできない。本稿が中心に置くのは、倭王権と関係を結んだ諸地域から、古代国家の仕組みが形成される過程である。
十 残ったものを読み、失われたものを想定する
現在の遺跡分布は、当時の社会をそのまま写した地図ではない。災害で埋まる場合もあれば、後世の開発で失われる場合もある。開発によって、初めて見つかる場合もある。
文化庁は、遺跡を現状のまま保存できない場合、事前の発掘調査によって記録を残す「記録保存」の仕組みを説明している。したがって、現在地上に見える遺構と、調査記録によって存在が分かる遺構は、分けて数える必要がある。文化庁「埋蔵文化財」
私は滋賀でも、工事中に遺跡らしいものが出たが、そのまま工事を進めたという話を耳にしてきた。ただし、伝聞から未報告の消失件数を算出することはできない。それを使って、特定地域の人口や国力を都合よく増やすことは慎まなければならない。
東西の比較でも、同じ時期の集落や墓を、規模、分布、調査状況とともに検討する必要がある。異なる時代を合算した遺跡数だけでは、どちらが先に栄えたかも、どのような政治関係だったかも分からない。
そして、失われた可能性は東にも西にも認める。同じ基準を自分の考察にも適用することが、地域の歴史を公平に見るための基本である。
十一 各地の営みを、日本の歴史の中へ
ここからは、史料の説明を受けて、私自身がどのように歴史を受け止めるかを述べたい。
私にとって、この問いは倭呼吸への思いにもつながる。異なるものが、それぞれの働きをもちながら関わり、全体を支えていく。そのあり方に、私は共存共栄の可能性を見る。
これは、古代の統治者が全員その理念を掲げていたという主張ではない。国家形成には、利益の偏りや強制、衝突もあった。だからこそ、歴史に学ぶ時には、何が人々を結び、何が傷つけたのかを共に見つめたい。
自然との関係も同じである。水辺の恵みを受け、土地の変化に対応し、暮らしをつなぐ。沿岸部を歩く私は、そこに今も共存の意識が息づいていると感じる。その実感を出発点に、過去の人々が何を選び、どのように生き延びたのかを知りたいのである。
各地に開花した社会には、それぞれの暮らしと誇りがあった。その関係を束ねる中で倭王権は力を増し、地域社会も変わり、やがて新たな国家の制度が形づくられていった。
日本建国を立体的に見るとは、王や首長の名だけを追うことでも、遺跡の大きさを競うことでもない。水辺で生産した人、山から資源を運んだ人、舟を操った人、道具を作った人、祭祀を支えた人。その営みが、地域の力と国家の力へどうつながったのかを見ることである。
私はこれからも、土地を歩き、史料を読み、祈りを重ねていきたい。
誰が最初であったかを確かめることには意味がある。その先に、異なる土地に生きた人々が、どのように結ばれていったのかという問いがある。
列島に開花した国々。その一つひとつの営みを、日本建国の物語の中へ戻していきたい。


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